Episode.13
卒業式を前日に控えた夜のこと。数日前から灼空に、「卒業式くらいはきちんと制服を着なさい」と言われて強制的に用意された学ランを恨めしそうに見つめながら、空却は自室に布団を敷く。親父に見つかんねえうちにぜってースカジャンで行ってやる――袖を通す気はゼロ、反抗する気は満々の空却は掛け布団をばさッと広げた。
さてそろそろ横になるか、というところで、突如電話の音が廊下から響いた。人の命と悲しみに時間は関係ない。こんな時間帯に連絡が来て、今から急遽通夜を――という話も珍しくないのだ。
あいにく、本命であろう灼空は本堂にいる。息をついた空却は自室から出て、廊下の途中にある昔ながらの受話器を手に取った。
「はい。こちら空厳寺」
《那須野です。あの……空却くんいますか……?》
「なんだよか」
溜息とともに脱力する空却。かしこまって損した、と思っているが、その口角は緩んでいる。一方、電話の奥にいるは、《あっ。空却くんっ?》とよそ行きの声からいつもの幼い声色になった。分かりやすい。の緊張の解け方が妙にツボにはまってしまい、空却は喉だけで密かに笑う。
《ひさしぶりだねえ》
「おう。このあいだ試験あったんだってな」
《うんっ。今日ね、ちょうど合格発表があったの》
子機にしなかったことを後悔しながら、空却は電話機本体を床の上に下ろしてその場で胡座をかく。電子を帯びたの声が耳元で聞こえて、やけにくすぐったい。私立合格、滑り止め、本命はまた数週間後――自分とは縁のない単語を反対の耳へ流しながら、電話の奥にあるの表情を想像する。ここ数ヶ月は願書提出だの受験だので登校できない同級生がぽつぽつといて、もそのうちの一人だった。こうしてゆっくりと声が聞けたのは二週間ぶりだ。
「んで? こんな時間にわざわざ電話かけてきて、なんか用か」
ひとしきりの世間話を聞き終えた後、本題を促す。さすがに今までの話がしたくて電話をかけてきたわけではないことくらいは空却も分かっていた。
すると、あれだけわいわいと話していたが途端に黙り込んでしまう。なにやら雲行きが怪しくなってきて、空却は眉間にしわを寄せた。なんだ。
《ぁ、あの、ね……》
「おう」
《明日の卒業式のあとに……その……》
……沈黙。ぁ、だの、ぅ、だの言葉にもならない未熟な音と息遣いだけが聞こえるようになった。それでもが話せるようになるまで待っていたが、最終的に《や、やっぱりなんでもない……っ》なんて言うものだから、「あぁッ?」と口から怪訝な声が出た。
「そこまで言ったんなら最後まで言いやがれッ」
《こっ、今月末っ。今月末なんだけどねっ》
逃げられた。しかも日取りが延びた。くそ。溜息をついた空却は諦めての話に耳を傾けることにした。電話を切られるまで問い詰めてもよかったが、彼女の困った顔を見たいわけではなかったからだ。
《お寺、行ってもいいかなぁ……?》
「ああ? 学業祈願ならうちじゃなくて神社行けよ」
《お、お参りをするんじゃなくて……えっと……》
その後、またが口ごもってから《空却くんに……言いたいこと、あって……》と消え入る声で言った。言いたいこと? 改まって何を言い出すかと思えば。今ここで言えよ、と言いたくなったが、それは口に出る手前のところで止まった。
今でさえこんなにも要領の得ない様子なのだ。本題はさぞかし言いにくいことなのだろう。色々と察しがついた空却だったが、そうとなれば話は早い方がいいと思った。
「なら拙僧がお前んち行くわ。いつの何時だ」
《いいのっ。だいじょうぶっ。わたしから行くからっ》
「はあーっ?」さらに意味が分からない。おまけににしては頑なだ。何の話なのかも予想がつかないので余計にその先が気になってしまう。
もしもこの場にがいたなら無理やりにでも吐かせているところだが、ないものねだりをしても仕方がない。空却は声を潜ませてにそっと尋ねた。
「……なんか悩みか」
《なやみ……じゃ、ないと思う……》
「“じゃないと思う”だあ? はっきりしねーな」
《ほっ、ほんとうに聞いてもらうだけでいいのっ。聞いてもらうだけでっ》
口はいらねえから耳だけよこせってか。相手の話に耳を傾けて道を提示するのが僧侶の役目だが、こんなことを言われたのは初めてだ。らしいといえばらしいが、なんとも言えない違和感は胸に残る。
……まあ、今さらどうということはない。こちらの予想の斜め上やら下やらにいくのがという女子だ。どんな形であれ、こうして話をしてきた時点で断る気はさらさらなかった。
「わぁーったよ。んじゃうちで待ってるわ」
快く(見えそうなふうに)了承すると、《ありがとう空却くんっ》と過剰なくらい喜んだので、抱いていた違和感はすぐに吹っ飛んでしまった。昔から、に感謝されるのはなかなか悪くない。今は彼女の顔が見れないのが残念だが、それもあとたった数時間の話だと割り切った。
「くーこー! 写真とろーぜ~っ!」
「あ、僕も空却と撮りたいな」
卒業式当日――副担任の挨拶が終わるやいなや、教室中がざわっとどよめいて写真撮影やアルバム交換の儀式が始まる。空却は同級生らに言われるがままアルバムを差し出し、差し出されるがまま他人のアルバムにメッセージを書き、スマホを向けられるままポーズを決めていた。正直、授業がある日よりも忙しなく感じる。
「女子のみんなで写真とろ!」
一人の女子の声を聞いて、空却は教室の端を陣取っている女子の塊に視線を変える。その中に混じっているもまた、人のアルバムを寄せ書きを書いたり写真を撮ったりしていた。卒業式の前も後も今と同じように女子の輪の中にいたので、とはまだ一言も話せていなかった。
寄せ書きの休憩がてら、空却はをじっと観察する。ほんの少しだけ身長が伸びた(らしい)おかげで、入学当初よりも丈が上がったスカート、綺麗に結べるようになった(らしい)臙脂色のリボン――のことは毎日見ているようで、こうして改めてみると成長してんだな、としみじみ思った。胸元には“卒業生”という縦長のリボンと共に飾られている小さな造花を付けているが、今年の四月から高校生になるが未だに信じられない。昨日まで赤いランドセルを背負っていた気さえする。
――無意識に、空却の手はスマホに伸びていた。かしゃ、という控えめな音ともに保存された静止画。ちょうど他の女子との話の途中で笑っている瞬間が撮れて、空却もそれにつられるようにふっ、と口角を上げる。昨日の夜も、電話の奥でこんな顔をしていたにちがいない。
「空却? 今なんかとったか?」
「別になんも」
平然としながら空却はスマホを仕舞う。そのまま机に集まった男子二人(修学旅行の班が一緒だった彼らだ)との写真を撮り終える。それだけで終わりかと思いきや、「そういや知ってるかっ?」とうち一人が空却の席から離れずに会話を続ける。もう片方もやれやれ、といった顔をしているが、このまま彼の話を聞くようだ。空却もまた彼の声に耳を傾けながら、机の上にあるアルバムにペンを走らせた。
「今日女子に告白すると、成功率爆上がるらしいぜ!」
「ふぅん」
「んなこと気にする暇あったらさっさと告れよ」
「二人ともひでえっ!」ひどくはない。正論だ。空却はそんなことか、とすでに右から左へ聞き流す準備をしていた。
一方、もう片方の男子は「そういえば、」と空却の机に手を置いた。
「空却、いつだったか忘れたけど後輩の女の子に呼び出されて告白断ってたよね。もしかしたら今日もあるんじゃない?」
「あ? それ拙僧は誰にも話してねーぞ。誰から聞いた」
「空却が知らないだけで、人が告白したされたって話はけっこー噂になってるんだぜ。お前、女子たちに遠巻きに見られてっけど意外にモテるんだよなー」
ふうん、と音が漏れるくらいには初耳事項だったが、意外という言葉は余計だったので、彼の脛を軽く蹴っておいた。
小学生の頃も決して少なくはなかったあの時間――個々の勇気だったり想いだったりは大切にしてやりたいと思うが、それまでだ。自身が一個人だけに向ける情愛というのは皆無だった。
来る者拒まず、去るもの追わず――幼い頃から貫いている志は、今も変わらない。空却がペンを片手に無心でアルバムのメッセージを綴っている間にも、二人は話を続ける。
「オレもこのあといっちょやってやんぜ! 空き教室も使い放題だし!」
「女子に引かれんようにね」
「大丈夫だってっ。つか、別校舎もあんま行き来できんかったよな~。あれいまだに意味わかんねー」
「理由もないなぞルールあるよね。さすがの先生たちも、今日はどこ行っても何も言わないと思うけど……」
「先公って言やあうちの担任、結局今日まで来んかったな」
先生、という単語でふと思い出して、空却は口を挟む。今年のいつからか姿を見せなくなった担任教師……途中から副担任だけでクラスを回していて何の支障もなかったが、理由もなく姿を消されてはさすがに気になってしまう。教師にしては頭の柔らかい男で、一年の時も担任だったということもあり、空却の中で一番印象に残っている教師だった。
すると、空却の言葉に男子二人は顔を見合わせる。次に二人が空却と目を合わせた時には、かなり強ばった顔つきになっていた。二人が纏う空気が変わったのを感じた空却は、背中になにか嫌なものが這うのを感じた。
「空却、“あいつ”のこと知らねーの……?」
大股かつ早歩きで廊下を突っ切っていく。人伝に彼の所在を聞いて回り、最終的に辿り着いたのは校舎の裏だった。
空却が来た時には、彼は一人の女子と話をしていた。しかしそれもすぐのことで、女子が踵を返して、空却の真横を通り過ぎる。横目で見ただけだから定かではないが、彼女は俯きながら目元を拭っていたように思う。
こんな人気のないところで男女二人きり……それも今日という日に何をしていたかは想像ができるが、今はそれどころではない。空却はぽつんと突っ立っている彼に大股で近づいた。
「要ッ!!」
空却の金切り声で、要はこちらに気づいた。「波羅夷、」とだけ呟いた彼の胸ぐらを掴むと、空却はわっと口を開く。
「あのクソ教師どこ行きやがったッ!」
「教員免許剥奪されたから、少なくとも学校にはおらんよ」
「波羅夷、やっぱり知らんかったんだね」と冷静に言う要とは対照的に、空却のはらわたの温度は上がるばかりだった。
名古屋在住の中学校教師が、未成年に対するわいせつ行為で逮捕されたのは数ヶ月前。数年前から勤務先の学校に在籍している女子生徒らにわいせつ行為を繰り返しており、今年の春に卒業生をラブホテルに連れ込んだことから、事が発覚したらしい。
男の身内が警察か政府かの人間で、今まで被害に遭った女子生徒やその家族が声を上げても、情報操作で有耶無耶にされていたらしい。加えて、裸体を撮られた写真や今後の成績で脅して、言いたくても言えなかった女子生徒も複数人いた。
断片的に聞いた情報を整理して、ほんの少し頭が冷えた空却は要を開放する。曰く、法廷で上手く立ち回った人物がおり、男には相応の判決が下ったという。空却が知る中で、そんなことができる人間は一人しかいなかった。
「……獄か」
「うん。波羅夷の一件で縁ができてね」
「金はどうしたんだよ。あいつ、詐欺並みに金むしりとる弁護士で有名らしいぞ」
「まぁ……実質出世払いかな」
真顔でそう言い切った要に、空却はぐうの音も出ない。あんの甘ちゃん弁護士が……。ぎり、と奥歯を噛み締めるが、空却の怒りはそれだけではなかった。
「一学期、調理室で皿の破片飛び散ったことあっただろ」
「うん」
「お前、その時のこと庇ったろ」
「あのままあいつと一緒に保健室行っとったら、那須野になにするか分からんかったから」
「あれが事故かどうかも、怪しいところだけど」皮肉を帯びた声色で要は言う。男の故意的な事故だとしたらと思うと、男をいくら殴っても足りない。しかし、今となっては彼が自白しない限り真実を暴くのも難しいことだった。
なぜあの時の近くにいなかったのか――空却は仕様もない理由でを遠ざけていた過去の自分を恨んだ。
「波羅夷にも関係ない話じゃなかったのに、話せとらんくてごめん」
「いや……拙僧も今まで聞こうとしてなかったからあいこだ。クラスのやつらも話題にすらしてなかったしな」
「波羅夷が謹慎しとるあいだに終わった話だからね。特に女の子たちにとっては気分悪くなる話だし、みんなも忘れようとしとるよ」
「あ……? おい待て。男のてめえはどうやってあいつがクソ野郎だって知ったんだよ。おおよそ察しついてたってことか」
被害に遭っていた女子ならまだしも、男子である要が最初に動いたのなら疑問が残る。今までの犯行が公になっていなかったのなら、無関係な要相手に事が漏れているのはなぜだ。生徒会長だから、被害女子生徒から相談でもされたのだろうか。
空却が問いかけると、眼鏡の奥にある要の瞳が鈍く濁る。お世辞にも綺麗とは言えない色で、最終的に憎悪を含んだ眼差しに変わっていた。
「……うちの学年では、平塚が最初だから。俺は、平塚から話を聞いただけだよ」
抽象的な言い方に、「はぁ……?」と空却は芯のない声を漏らす。と同時に、頭の中で過去の記憶が霧がかって再生された。
――「よし! 波羅夷は帰っていいぞー」
――「えっ! うちは!?」
――「平塚にはやってもらいたいことがあるんだよ」
一年の頃、同じ学級委員長をしていて、なぜか平塚だけ残されていた。それも、一度や二度ではない。空却は残されるたびにラッキーと思っただけで、平塚のことを何も見ていなかった。
……下腹部からわなわなと沸き起こるものが多すぎて、処理が追いつかない。空却の眼光から表れた感情を汲み取ったのか、要はふっと目を伏せた。
「……今は、話振らないでやって。あまり思い出したくないみたいだから」
「一年んとき、あいつと同じ係やっとったんだよ」
「知っとる」
「拙僧がもっと早く気づいてやりゃあ――ッ!」
「何年かたったあとに、もしも平塚と話す機会があったら、そのとき言ってやればいいと思う」
「だから……今はやめてあげて」懇願にも似た声色に、空却は何も言えなくなる。言えなくなっただけで、言いたいことは山ほどあって、喉の奥でぐるぐると暴走している。
あの頃は、早く帰ることができて好都合としか思っていなかった。過去の自身の行動に今すぐにでも詫びたい気持ちに駆られるが、もしも自分が要の立場で、平塚がだったなら、おそらく彼と同じことを言ったのだと思う。の心の傷を思えば、その言葉は間違っていない。
――?
「(は?)」
そもそもの問題が立ち塞がる。一年生の頃ははあの元教師と数学の授業で接点があったはずだ。では去年は? シュークリームをもらっただけで終わりなのだろうか? 今年だってもしかしたら、自分が見ていないところで、あの男と何かあったのかもしれない。そう、なにかが――
「波羅夷?」
自分の中で結論が出る前に、空却は再び地面を蹴る。要は置き去りにして、平塚のこともいったんおいておいて……今は、のことしか考えたくなかった。
わたしはなんにもなかったよ――のほほんとした顔で、そんなことを言うを思い浮かべながら。むしろ、あの男が学校に来なくなった理由すら知らないことを願いながら。空却は教室へ続く階段を二段飛ばしで駆け上がった。
――「大層嫌われとんな」
――「昔から、動物とは相性が悪くてなあ」
野生の勘は頼りになる。あれだけ温厚だった猫たちが威嚇していれば、なにかしら裏の顔があるとは薄々思っていた。
あの時、もしも自分がの家に来ていなければと考えると虫唾が走る。人知れずが傷ついて……そしてそれが男の描いていたシナリオの一部だったとしたら――もしかしたらあったかもしれない最悪の未来を想像しては、空却は大きく舌打ちをする。
「(くッそ……ッ!)」
心の中で己に何度も鞭を打つ。足の酷使で至るところの腱が痛みだしても、走る速度が落ちることはなかった。
教室に着くと、生徒はまばらに残っていた。写真撮影も終わり、皆思い思いの場所に行ったのだろう。の姿もなかったが、机の上には卒業証書とバッグが残されていた。
「(まだ学校にはいんな……)」
どこ行った。教室を出てからも、空却は思い当たるところをしらみ潰しに探す。がたまにちょこんと座って待っていた下駄箱、文化祭準備の合間に涼んでいた体育館裏の非常階段、シュークリームを食べた非常用扉の裏――言葉通り、校舎の端から端まで探し、空き教室をもわざわざドアを開けて覗いてはがいないことを確認して、再びひた走った。
――「あっ。空却くんっ」
自分の顔を見るなり目を開いて驚いた後、すぐさま頬を緩ませる……今、そんなの顔がどうしても見たかった。
「――え? 、告白しんの?」
不意に、平塚の声が耳を掠めた。おまけに本命のの名前も入ってきたので、空却はほぼ休ませなかった足をようやく止める。途端に肺と心臓が締め付けられるように痛くなって、思わず咳き込みそうになる。さすがに走りすぎたようだ。
今まさに覗こうとした空き教室に、二人はいた。は平塚の後ろの席に座り、平塚は椅子の背もたれに体の正面をくっ付けている。こうして前後の席で、お互い向かい合わせになっている光景は、教室でもよく見かけていた。
を見つけたら、すぐにでも駆け寄るところだった。しかし、平塚の口から漏れたたった一つの単語が耳に引っかかって、空却の足にブレーキをかけていた。
「うん……。今日はまだ……」
「なんでー? すればいーのに」
平塚はの両手の指を自分のものと組ませてぎゅっぎゅと握っている。手持ち無沙汰だからというより、自信なさげに俯いているを安心させているように見てとれた。
声が大きいことで定評のある平塚だが、話題が話題だからなのか、いつもよりも音量は控えめだ。しかし、それでも彼女の声はよく通るのであまり意味がない。の小さな声も、二人しかいない教室に反響してここからでもなんとか聞き取れた。
「ほかの子にいっぱい告白されて、いそがしいかもしれんから……」
「まあ、なにげに人気あるもんねー。この前もされとったし」
こくはく。
ずっとずっと考えないようにしていたことが、前に躍り出る。空却の全身に電流が走ったようになって、どこもかしこも痺れて動かなくなった。
――「……、このクラスに好きな男子いるんだって」
――「野山君って、ぜったいちゃんのこと好きだよね」
うるせえ、うるせえ、うるせえ――他人の声を揉み消そうとして、空却は教室に入るための一歩を踏み出そうとする。今、の口から聞きたいのはそんなことではない。そうだ、今は、とあの男と何かあったのか問い詰めなければ。あぁ、その前に平塚をどこかへ行かせて、それから――
「付き合いたいとか、」
ようやく上がった踵だったが、つま先が地面から離れることはなかった。の声を聞けと――聞きたいと――本能が叫ぶ。の心の内を知りたくて――知りたくないのに――空却の神経は彼女に向けられた。
「付き合いたいとか……そういうのじゃないの」
「え? そーなの?」
「うん……。今のままで……今のままで、じゅうぶんだから」
の声色は、とてもあたたかい。いつもあたたかくて、耳の奥を柔く擽るような快感があった。しかし今はどうだ。まるで虫がうぞうぞと這っているような不快感が大半を占めている。その場から立ち去ることができない空却はいっそ鼓膜を破りたくなった。
聞きたくない。見たくもない。たった一つのピースが足りなかったこのパズルを、完成させたくない。それでも体が言うことをきかず、空却の体はドアの影に溶けこんでいた。
「すきって、伝えられるだけで……知ってもらえるだけで、いいんだぁ」
――全身の血液が冷水に変わったように、体から熱が消えた。
目の前が真っ暗になると同時に、重たい鎖が地面にじゃらじゃらと引きずられる音を聞く。派手な水しぶきを立てて、意識が大きな錨とともに沈んでいった。息はどう吸うのか、どう吐くのか、ぼおっとした頭では考えられなくなっていく。
……人として終わる前に、なにかしろと叫んだなにかによって、空却は目の前に焦点を合わせる。すると、闇がじわじわと晴れたところに、がいる。屈託のない笑顔で、しあわせそうにはにかんだ。他人に向けてそんな顔をするを……そんなふうに笑うを、すぐ隣にいるときでしか、見たことがない。それは自分だけの景色なのだと、理由も意味もなく、ただ漠然と思っていた。
「とーか言ってぇ~。ほんとは付き合いたいって思っとるくせにっ」
「思っとらんよっ。……ほ、ほんのちょこっとだけしか……」
「思っとるじゃん」
「そうだけどそうじゃなくてぇ……っ」日本語の弱そうな会話が遠ざかっていく。視界の中に咲く一輪の小花がただただ眩しくて、空却は彼女から目を背けた。
足に、力が入らなくなる。すでに瀕死だった膝が笑いそうになったことに気づいて、空却は反射的にドアの横にあるコンクリートの壁にもたれかかった。ようやく口から漏れたのは、覚えたてのような情けない吐息。心臓が動いているかも怪しいくらい、体が冷えている。耳と目から入ってきたものを、脳が拒絶している。体のどこにも正常な箇所はなく、この感情を、思いを、形にするすべが思いつかない。
……空になるとは、きっと今のことを言うのだろう。は、と小さく自嘲した空却は、光が失せた目でシミだらけの天井を見上げた。
卒業式から数週間が経ち、中学生の肩書きがなくなった空却は寺に篭もっていた。何かをする気力もなく、かと言ってなにかしていなければ身が裂けそうになるこの思いを、今日までずっと抱えてきた。
――「付き合いたいとか……そういうのじゃないの」
いくら写経をしようが、滝行をしようが、断食しようが――卒業式のの存在が、言葉が、ちらついて離れない。離れるどころか、ふとした時に思い出してはいっそう脳に焼き付いてしまって、そのたびに空却は固い拳をつくった。
結局、あの二人が教室から出てくる前にその場から立ち去ってしまった。あの日のことはもう二度と思い出したくないというのに、体の奥にある使命感のようなものが空却の体を急かし続けている。に、なにか、大切なことを聞きたかったはずだった。しかし、何を聞きたかったのかも糸くずのように絡まってしまって、空却自身よく分からなくなっている。
――「今のままで……今のままで、じゅうぶんだから」
……恋をしている女は、ああいう顔をするのだと。初めて知った。ずっと見ていたくて、それでいて誰にも見られたくない……が、特別なだれかに向ける表情を。何度も何度もそれが脳裏に過ぎっては、感情が暴れ出す。そのたびに歯を食いしばって、今にも口から吐き出されそうなものを無理やり飲み込む。
それは怒りに似ているが、果てのない虚無感もあり、特段約束もしていないのに裏切られたという憎悪もあり、が恋をしていることに対する嫌悪感もあり……体にいいものは、なに一つない。に伝えられそうなものも、なに一つない。
こんなにも胸が重たくなるのは、いつぶりだろうか。ずいぶん前にも、似たようなことがあった気がする。あの時もたしか、“我慢”の道に進んだのだった。が困らないように。が、いいものだけを見て、感じて、過ごせるように。
「――空却」
昔の頃を思い出そうとすると、頭上から声が落ちてくる。自室で寝転がっていた空却が目を開けると、目の前には天井と、正装に身を包んだ灼空がこちらを見下ろしていた。
こんな気分の中、さらに面倒を起こすのは勘弁したい。拳骨を食らう前に上半身を起こした空却は、眉を顰めながらがしがしと頭をかいた。
「……んだよ。んなシケた面で本堂に近づくなって言ってきやがったくせに」
「ちゃんが来ているから呼びにきただけだ」
「人と会う約束をしていたのならきっかり果たせ」それだけ言って、灼空は部屋から出ていった。仏前式当日で忙しいというのに、住職自ら呼びにきたと。ふん。空却は不機嫌そうに鼻を鳴らした。余計なことが口から出なかったのは、の名前を聞いて少なからず動揺した自分がいたからだった。
――「のやまくんねえ、すごく頭いいんだよー」
会いたくねえ、と心は叫ぶ。一方で、約束は約束、と足はのいるところへと向かっていく。自室を出て、こうして長い廊下を歩いているうちに気持ちの整理もつくかと思ったが、いくつもの感情がせめぎ合ってどうしようもなくなった。ゴミ屋敷と化したこの胸の中にあるものを、すべて吐き出したい。しかし、言葉にもならない未熟なものたちは、体の内臓をすべて食い尽くさんとばかりにふつふつと熱を帯びてそこに残留するだけだった。
――「波羅夷だって、好きな子には笑ってくれとった方がいいでしょ」
……分かることは、たった一つだけ。
××は×が好きで、×は××が好きだということ。それを、世間では“りょーおもい”と言うこと。小学生の頃も、一年生の文化祭の時も、三年生になってからも――彼は、と一緒にいた。
クラスが一緒? 理数系がお互いに得意だから? 理由なんて、いくらでも考えられる。自分とは、いろいろな意味で真反対の男だ。知性と冷静という言葉を人の器に詰めたら、あんなような人間ができると言われても素直に頷ける。
悪い男では、ない。体育の授業でやりあった時も、それなりに腕が立つことは分かった。いざとなれば、一人くらい守れるような――
「(あ゙ーくそが……)」
重たい。重たい。今にも床に足がめり込みそうで、一歩踏み出すのもやっとだ。空却は深く長く、それでいて苦しそうに呼吸をしながら、作業的に足を前に出している。
が“そのこと”について今まで何も言わなかったことが思っていた以上にむかついて、が他の男を選んだことが思っていた以上にむかついて……なにより、の幸せを喜べない自分自身に対して、腹が立って。しかし、そのことでなぜ自分がこんなにも憤慨しているのかも、分からなくて。この苦痛を、なんと呼べばいい。まるで、生まれてはすぐに死に、また生まれてはすぐに死ぬ……形が崩れた輪廻の輪に放りこまれたようだった。
怒りという感情一つだけでも、矛先を向ける場所がたくさんありすぎて、昇華するのに何年かかるか分からない。加えて、それをにだけは決して知られたくなくて。向けたくなくて。最後の理性がすり減って、体の内側から血が滲むようなことがあっても、それだけは、ぜったいに――
「あっ。空却くんっ」
ぴく、と足が止まる。
庫裏から外に出てしばらく歩いたところで、声が届く。空却が視線を向けた先にいたのは、セーラー服を着た。いつも通り……のはずなのだが、今はの皮を被った誰かに見えて仕方がない。今まで見てきたと別人のように感じた。声から表情まで、なにもかもが記憶の中にいる彼女と違いすぎて吐き気さえした。
ざくざくっ、と砂利を踏んで駆け寄ってきたの顔は高揚としていて、今の自分とは対照的だ。それがまた、知らないうちにと心の距離ができたように思えて、空却は無意識に彼女の足元を見る。
「急に来てまってごめんねっ。さっきおじさんに会って――っ」
「いいからさっさと用件言え」
思わず刺々しい言い方になる。はたとしての顔を見たときにはこわばっていて、それを見た空却の喉がきゅっと締まった。
……肌をぴりぴりと刺激する、いやな空気だ。すぐに、「……話してえこと、あるんだろ」となるべく角のない声色で言い直したが、一度曇ってしまったの顔が快晴になるわけもなく、彼女は目を泳がせながらたどたどしく言葉を紡いだ。
「え、えっとね……。受かったの、第一志望の高校……」
……あぁ、なるほど。わざわざそれ言いに来たんか。
ふぅん、と空却は芯のない音を漏らす。今日が合格発表の日だったから、制服を着て、高校に行って帰ってきた足でここに来たのか。そんなことなら、やはり電話でもよかったのではないか。わざわざ寺に来てまで知らせるほどのことではないはずだ。
空却が考えれば考えるほど、の気持ちは遠く、小さく、もやがかっていく。とにかく今は、が望むであろう言葉をかけるだけでいいと思って、空却は重たい口を開く。
「……おめっとさん」
「う、うん……」
棒読みになった。これに関しては、ほんとうにめでたいと思っているはずだ。それでも、感情が上手く言葉に乗らなくて、自身に溜息をつく。それを、なにか勘違いさせてしまったのか、の顔がさらに陰っていく。お前にしたんじゃねえ――それだけの言葉を言う気力も余裕も、今の空却にはなかった。
「わざわざごくろーさん。気ぃつけて帰れよ」
「ぁ……っ。あ、あともういっこだけいいかなッ」
早いところと距離をおきたくて踵を返したいところだったが、そう言われてしまっては空却に選択肢はない。さっさと言って帰ればいいのに、の口からなかなか“もういっこ”が出ることはなく、彼女は俯きながらもじもじとするばかりだ。
なんだ。分かんねえ。の言いたいことが、分かんねえ。なに考えてんのかも、なにがしてえのかも、なに一つ分かんねえ。それに、たとえ拙僧がなんかしてやりてえと思っても、お前は、ちがうだろ。望んでなんか、ねえんだろ。お前に好きなやつがいたってことも、知らなかったんだからよ。お前が、お前のためになんかしてほしいって望む相手は、最初から――
カンッ、カンッ、カンッ――
短く、それでいて耳に残る鐘の音。仏前式が始まったらしい。遠目からでも存在感のある本堂……その濡れ縁を歩いているは新郎と白無垢姿の新婦だ。彼らを背景の一部としてぼーっと眺める空却はすっと目を細めた。
――「……わたし、さっきのおよめさんみたいになりたいなぁ」
……いつぞやに、幼いが言ったこと。ふと隣を見ると、はきらきらとした目で二人の晴れ姿を見つめていた。憧憬と羨望が混じった彼らを、そのきれいな瞳の中に映している。
全部、覚えている。がいる思い出はすべて、この体の中にある。ついてくるなと言ってもしつこく後ろをついて回ったも、股から出た血溜まりの中でしゃがみこんでいたも、天むすをおいしいおいしいと言って何個も食べていたも――いつまでも無垢で、いつまでも素直で、だからこそ、彼女が困ったときに頼る人間は自分なのだと、思い込んでいた。
「(……白、か)」
再び新婦を見ながら、空却は想像する。白無垢に身を包んだの姿を。その黒い髪によく映える、白の晴れ姿を。綿帽子の下、紅を引いたその唇で、隣を歩く愛する者にあの日教室で見た笑顔を浮かべるんだろう。
「空却くん……?」
――「くーちゃんっ」
重なる音があった。おそらく、もう聞くことはない音。今の呼び方にも慣れたが、どうしてか、昔のそれが時々頭を横切る。今思えば――あの頃は思いもしなかったが――のすべてが注がれているようなその音が、心地良かったのかもしれない。
僧侶らしく、のことを導いていくつもりだった。名古屋にいるたった一人の家族を亡くしたが、幸せになれるように。これから彼女が進む道にあるであろう石につまずいて、転ばないように。いくつもの分岐点があり、無数の選択肢が用意されているこの世界で、迷子にならないように。他の誰でもない自分が、ずっとずっとの手を引いて……。当たり前に、そうして生きていくと思っていた。しかし――
――「すきって、伝えられるだけで……知ってもらえるだけで、いいんだぁ」
……空却は、ゆっくりとを見下ろす。不安げに揺れるの瞳の中に自分を映せば、あとはもう、唇を動かすだけだ。
「……お前が」
存外、乾いた声が出た。在りし日のが、幻影として今の彼女のすぐ横に立っている。小さなは、「なあに?」と笑顔でこちらの話に耳を傾けている。今は、他の誰かに心を奪われたしかいないのに、自分の中にいる彼女は、いつまでもそうやって――
……いや、もういい。幻をシャットダウンするように、空却は目を閉じる。次に開いた時には、小さなはいなかった。それでも、変わらない。自分のなすべきことは、祈ることは、の幸福。カヨが亡くなった時に見たあの悲痛な顔を二度とさせない……否、しないように。いつまでも、そう願い続けている。
「お前が……誰かと結ばれて、うちで仏前式やることになったら、拙僧が目の前で読経してやるよ」
そう言ってから、ああこれでいいのか、と漠然と思った。今、胸の中にあるどろどろとしたものたちを外に出せば、が困ることだけは目に見えていたから。思いついた仮初の言葉で蓋をした。
「拙僧はこの寺の跡取りだからな。親父よりも器のでけえ僧侶になって、てめーらの行く先祈ってやんよ」
そう言って、空却はようやく歯を見せて笑うことができた。そのあとに、がありがとう、と笑ってくれたらいいと思った。知っとったのっ? と驚いてもいいと思った。なにか、言ってくれさえすればよかった。それだけで、長いこと体の中にある重いものがすべて地面に落ちてくれる気がした。
ほら、言えよ。笑えよ。お前の言葉なら、なんでもいいからよ――空却はの反応をいくつも想像するが、彼女の表情は時が止まったように動かなかったし、色彩をなくしたように血の気がなくなっていた。そして――
「――ぁ、」
の頬に、透明な線が入る。それが涙と分かるまで、空却は何度も瞬きをした。そして、が自身で流した涙の存在に気づいてから、彼女は逃げるようにその場から走り出した。呼び止める、追いかけるという思考がはたらく間もないまま。
……は? 泣いた? が? なんで。空却の頭の中が疑問符で満たされる。の幸福を一番に思って、考えて、言った言葉のはずだった。あれを嬉し涙と解釈するには乱暴すぎる。たしかに、は悲しんでいた。しかし、なぜああなった。見たくないと切に願ったそばから、自分の言葉によって、なぜ――
「なんだよ……っ、なんなんだよッ……!!」
喉を潰した声で、行き場のない感情を露わにする。手のひらに爪が食い込むほど拳を握っても、のことはおろか、自分の心も分からない。名前が付けられないものたちが体を蝕んで、今にも気が狂いそうだった。
ずぐん、ずぐん――鼓動の音と連動するように、胸が重たくなる。まただ。のことになると、いつもこうなる。四肢を押さえつけるように、正体不明のなにかが体に絡みつく。まるで、この激情を抑えるためのいくつもの鎖のようなものに思えて、束縛を嫌う空却は今すぐにでも引きちぎってやりたいと心の底から思った。
「――ほんでな? そのネコちゃんがこう、俺の足元に擦り寄ってくるか~って思うたら……」
耳につくイントネーションで、空却は目を覚ます。薄おぼろな視界の中、身振り手振りが煩い糸目の男と彼の話をさぞかしつまらなさそうな顔をして聞いている治安の悪いオールバック男がいた。
起きたばかりの頭がゆっくりと回り出す頃、古くさい埃とヤニの臭いが鼻腔を犯す。大分この鼻も慣れたが、寝起きに嗅ぐものとしてはあまり良い気分のするものではない。空却が気まぐれにごろんと寝返りを打つと、天井の他に新たな男の顔が映った。
「空却。起きたか」
……いちろう。
こちらを見下ろすオッドアイ。寝ている間、ずっと膝を借りていた一郎の顔を見て、空却は今まで自分が残してきた足跡をゆっくりと辿り始める。中学を卒業して、進学も就職もせずに身一つで東都にやって来て、そこで出会った一郎と行動を共にして、なんやかんやで目の前の大人二人ともつるんでいる――短い時間のあいだに起きたはずのことがやけに長く感じるのは、夢見が悪かったせいもあるのだろう。
……夢の内容が脳裏に過ぎりそうになって、空却はべちん、と片方の頬を叩く。上半身を起こせば、生理的な涙とともにあくびが漏れた。
「なんかくッそ寝てた気ぃするわ……」
「四時間くらい爆睡してたぞ。朝からぶっ通しで連戦してたから無理ねえよ」
「俺もさすがに疲れた」と一郎は言う。んなことねーくせに。空却はごりごりと首を捻りながら肩を回し、ポケットに入れていたガムを取り出して口の中に放り込む。寝相が少々悪かったのか、そのガムもぺしゃんこに潰れていた。
「一番近くにおる俺やのうて相方の足に行くんかーい! ってな?」一郎の隣でソファーにきちんと座り直せば、例の大人二人が改めて視界に入ってくる。聞き手の左馬刻はもううんざりという顔をしているのに、簓は未だに口を閉じようとしていない。話の前後からして、おそらく猫が中々懐かないだとか、そういう世間話だろう。
――「くーちゃん。門のところにねこちゃんおるよ~」
――「猫はおまえんとこで毎日みてるだろーが」
――「かわいいねえ。ふわふわだねえ」
――「きけよ……」
「猫なんざ勝手に寄ってくるもんだろ」
話に入るつもりはなかったが、昔のことを思い出しそうになって、思わず口から声が出た。猫に関しては避けられるどころか寄ってくるものと思っていた空却にとって、簓の話は理解できないものだった。
独り言として流してくれたらよかったのだが、簓相手にそういってくれるわけもなく。「なんやて!?」とすぐさま標的が変わり、あーこれしくったな、と空却の本能が叫ぶ。その証拠に、しめた、と言わんばかりに左馬刻が立ち上がってコーヒーを淹れ始めてしまった。くそ。
話を聞く前から空却がげんなりと顔をしているところに、「猫か……。俺もあんま寄って来ねえな」と隣に座る一郎が話に加わってくれた。さすがは相棒。一郎は友の窮地に知らぬふりをして蚊帳の外を決め込むような男ではない。
「拙僧の地元じゃあ、十歩歩けば一、二匹見かけたけどな」
「まあたしかに地域差はあるかもしれんな……。あ、そういえば、空却って出身どこなん?」
「ナゴヤ」
「ナゴヤかあ~。俺も何回か行ったことあるで! あの~あれや! ひつまぶしめっちゃうまかった! あとやけに車がビュンビュン行き交っとってな――」
一返せば十返ってくる簓によく喋る口だな、と呆れる。そして、「空却、ナゴヤから来たんだな」と一郎も反応を示したのは意外だった。そーいや言ってなかったっけか。まあ、わざわざ言うほどのことでもねーしな――そう自己完結すると、「せやけどなあ空却、」と簓が改まって口を開いた。
「ナゴヤから出てきたんはええけど、ちゃんと親御さんとかと連絡とっとるんか? 時のたまに生存確認できるもん送らんと心配されるで~」
簓の緩い忠告に、ガムを噛んでいた口の動きが止まる。広い世界を見てくるとは言ったが、具体的な場所は灼空に言っていない。どこに行くかも運任せだったのだから当たり前だ。もちろん、他の誰にも――
――「くーこーくんだけは……っ、どこにもいかないでえぇ……ッ」
……先に離れていったのは、お前のくせに。
じりッ、と胸の端が焼け焦げる。いつぞやにあんなふうに泣いていたにも、何も言わずにナゴヤを出た。言おうとすら思わなかった。あの日以来、とに関するものはずっと思い出さないようにしていた。思い出せば、今のように顔を顰めてしまうから。
ナゴヤを出て、もう二年が経とうとしている今。あんなことを言っていたは、今頃なにをして――
「(……まぁ、どーでもいいか)」
ぴん、と張ろうとした神経がふつりと緩む。考えるだけ時間の無駄だ。も、何とも思っていないだろう。きっと、好きな男と楽しく過ごしているにちがいない。自分のいないところで美味しいものでも食べて、笑って――あぁくそ、むかついてきた。だから思い出すの嫌なんだよ。
久々の衝動に嫌悪感を覚えた空却は、机の上に置いてあったコーラをぐっと飲み干す。そしてちょうど左馬刻がソファーに腰をかけたところで、隣にいる一郎の肩にぽん、と手を置いた。こういう時は腹を満たすに限るのだ。
「一郎。今からラーメン食いに行こーぜ」
「今からか?」
「おうよ」
「俺はいいけどよ……。お前さっき起きたばっかだろ」
「ばぁか。起きたてに食うラーメンがうめえんだろーが」
「なんでもいいが、お前らあとひと仕事残ってっから。飯食うならそれからにしろ」
「はあーっ? まだこき使う気かよっ」
「左馬刻さん、今度はどこのチームっすか?」
「あー……。簓ァ、あの場所どこだっけか」
「えぇー? もう雑談タイム終わりなん? まあええか。ほら、このあいだ東口の方で内戦あったやろ。そこ一帯を仕切っとった一派のな――」
銀色の髪と黒レザーのコントラストが眩しい男、時たま寒いギャグを口から出す関西人、そして心から信じ合える唯一無二の友――ナゴヤから離れたこの場所で、自分の知らない世界が拝めると確信していた。
己が成長のために、空却は今日もマイクを握る。その日からまた、時折頭を過ぎる彼女の声をもかき消す刺激的な日々を送った。なにものにも心を縛られない、囚われない――空気はまずいが、呼吸はしやすい。ナゴヤにいた頃よりも、空却の体は羽のように軽かった。
