Episode.12
朝の空気はとても美味だ。特に、今のような秋中頃は程よい冷感もあり過ごしやすい。なにより、女子の制服が半袖から長袖に衣替えするのがよかった。
穏やかな秋風が開いた窓から吹き込んでくる教室にて。平塚の席――つまりは空却の隣に座ったは、固唾を飲みながら空却の手元をじっと見つめている。一方、やることを終えた空却はから渡された赤ペンの先を紙の上から離し、ペンのキャップをかちッと閉めた。
「おらよ。全部合っとる」
「ほんとっ?」
「やったあ」答え合わせが終わった数学の答案用紙を返すと、は笑顔でそれを受け取る。問題の内容すら分からない空却だが、解答に書いてある数字やらアルファベットで組み合わされた解をの答えと照らし合わせ、それが丸かバツかの判定くらいはできるのだ。
が自分の机の上に置いている冊子の表紙には、“高校入試”、“過去問”などの文字がでかでかと印刷されている。これと似たようなものをあと五年分はやるのだそうだ。めんどくさそうだな、と高校受験をしない空却は他人事のように思った。
――が市内にある高校に進学すると知ったのは、つい最近のことだった。どうりで朝の弱いが早朝に登校して自習をしているはずだ。しかし、人から聞いた話によると、教師がわざわざ教壇に立ってくれる補習授業が業後にあると聞いた。
朝の自習なんかよりそっちの方がいんじゃねーの――いつぞやに空却がそう言うと、は困ったように目を伏せた後、ゆるりと微笑んだ。
――「空却くんがいたほうが、勉強はかどるから……」
だッからそういうこと言うのやめろ。名も知れぬ感情で心がじわじわと満たされながら、空却はそんな棘のある言葉をごくりと飲み込んだ。代わりに、「……答え合わせくらいなら、拙僧がやってもいいぞ」とぼそっと呟く。案の定ふわあっと嬉しそうに笑った。彼女が空却に赤ペンと解答用紙を渡す日は着実に増えつつあった。
こうして、空却の朝の仮眠はの自習を見守る時間に充てられた。おかげで一日中眠いが、悪くない朝だ。これまでと違ってとの繋がりが色濃いものになっているようで、痒いところに手が届かないような……今まで抱えていたもどかしい気分も徐々になくなりつつあった。
――ふと、空却は壁時計を見る。あと少しでうるせえのが来んな、と思っていると、消しゴムのカスを机の中心に集めているがぽそりと尋ねた。
「空却くんは、高校行かんの……?」
「あぁ? んなとこ行ってどーすんだよ。先公が仏陀ってなら行ってやってもいいがな」
「そっかぁ……」残念そうに肩を落とす。万一高校に行くとしても、と同じところには行けないだろう。しかし、お互いに帰る場所は同じ名古屋なのだから、が名古屋から出なければそれでいいと思っていた。
「二人ともおはよ~っ!」
あーくっそ。もう来やがった――二人きりだった教室の壁に、平塚の快活な声が反響する。「あんちゃんおはよう~」の声に続いて、「……はよ」と空却も挨拶だけはする。心の底から不本意だが、挨拶だけはきっちり返すのが空却の流儀だ。
「いつも机使っとってごめんねあんちゃんっ。すぐにどくねっ」
「いーよいーよ気にしんで~! うちもの席座るし!」
平塚の席に座っているがわたわたと片付けをし始める。それをへらへらと笑って制した平塚は、言葉通りの席にどかッ、と座った。
席替えしてえ、と空却は常々思っている。しかし不幸なことに、受験の関係だとかなんとかで、卒業するまではこの座席で固定するらしい。出席番号順の方が頻繁に行われるテストや模試の時に都合がいいそうだ。進学をしない空却からすれば“知るか”の一言だった。
「~、それって入試の過去問?」「うん。そうだよ」「うちもそろそろやらんとかんわ~」「土曜日におうち来て勉強会する?」「する~っ!」空却が二人の会話を聞きながらくわっとあくびを漏らしていると、と話していた平塚がくるんっとこちらを向いた。
「うちもと同じ高校受けるんだ~っ」
「聞いてねーし興味もねえ」
「校則も自由らしいからスカートもいじりたい放題だし!」
「あ゙?」
「あ、波羅夷はスカート丈に興味ある感じ?」
「てめえの大根足なんか見たかねーわ」
「うわひっどーっ! でもそっかー。波羅夷はの足しか興味ないかー」
口に水か何かを含んでいたらぶッ、と吐き出していたところだ。首から上が一気に熱くなった空却は平塚の方を睨みつけて、机をどんッ! と叩いた。
「なッ……にふざけたこと言っとんだてめえッ!」
「うち知っとるもんね~。プールの授業の時に波羅夷がの――」
「拙僧は何も見とらんわボケッ!!」
「うち、“見とる”なんて一言も言っとらんけどー? てかずっと思っとったんだけど“せっそー”ってなに? オジサン臭くてちょーウケる!」
「こんッのクソ女ァ――ッ!」
「あのッ!」
「あ゙ぁ!?」
勢いに任せてに睨みをきかせてしまった空却。一触即発の空気に亀裂が走り、おどおどと目線を泳がせたは、過去問の冊子で口元を隠しながら小さな声でこう言った。
「わ、わたしは、拙僧くんでもいいと思う、よ……」
……しぃん、と教室が静まり返る。誰も口を開かず――いや、平塚だけは肩を震わせて笑い堪えている。珍しく地人の会話に口を挟んだかと思えば、空却が予想にもしていなかったことを言い出したに、どうリアクションを取っていいか分からなかった。
結果、「……そうかよ」とただ相槌を打つだけになった空却。するとも、「う、うん……。そうなの……」とまるで中身のない返事をする。会話が終わった。そして、空却の中にあった憤怒も、の存在が冷却材になってくれたおかげでほぼ収まりかけていた。
平塚杏――三年間も同じ教室に押し込まれてそのたびに思い知っているというのに、体が言うことをきかない。平塚は人を煽る天才だ。こいつの相手をするだけ無駄――改めてそう割り切った空却は平塚の方を見る。ようやくツボが治まった平塚はけろっと顔を上げていた。
すると、平塚はすらりと長い両腕をにゅっと前方に伸ばし、その先にいるを宥めるように彼女の両手をぎゅっと包み込んでいた。
「もーったらそんなやかんくてもいいのに~! ほーんと昔からヤキ――」
「わああぁぁ~~ッ!」
今度はなんだ。不覚にもびくっと肩を震わせてしまった空却は、いきなり大声を上げたを凝視する。は耳を真っ赤にしながら、「やいとらんっ。やいとらんからぁっ」と平塚と握手している手をぶんぶんと上下に振っている。おいどうした。焼くってなにをだ。空却が突っ込む暇もなく、今度は二人でひそひそ話を始めた。男である空却は秒で蚊帳の外である。こんなようなことが前にもあった気がするが……いつだったか。数秒考えて思い出せなかったので、空却の中でなかったことにした。
そうこうしているうちに、登校してきた生徒が教室にぞろぞろと入ってくる。室内でざわざわと交わされ始める挨拶と雑談の中、平塚と席を代わろうと席を立ったは、空却に向かってこそっと言った。
「波羅夷くん、答え合わせしてくれてありがとう」
ハライクン――未だに耳が慣れない呼び名に、空却の胸はもやっと曇る。平塚や他の人間から呼ばれるのはいいが、の声でその単語を紡ぎ出されることに、とてつもない違和感があった。平塚の前ではいつも通り呼ばれるが、同級生や教室が近くにいるとすぐにこうなってしまう。
無駄に律儀なんだよ。腹立つなくそが――そう言えばが悲しむと思ったので、空却は「……おうよ」とだけ返した。我ながら大人の対応だと思う。
「おはよう」
「あっ、野山おはよ~っ!」
さて、本鈴が鳴るまであと数分といったところ――早歩きで教室に入ってきた学ランが視界に映る。ちっ、と空却が小さく舌打ちをすると、が目を見開いてくるっとこちらを振り返った。お前にしてねーよ。
「ちょー滑り込みセーフじゃん!」「うん。危なかった」少し息切れをしている野山は、リュックサックを下ろしながら席に座る。このままこいつが来なけりゃあ多少は平和だったのによ。ふん、と鼻を鳴らした空却は非常につまらないと言わんばかりに頬杖をついた。
「ほんとギリギリの時間までよくやるねー」
「生徒総会まであと少しだから」
「任期ももーすぐ終わるんだから、一年と二年にぜんぶ任せときゃあよくない?」
「まぁ……それもそうなんだけど」二人の間で交わされる意味不明な話を理解しようとは思わなかった。おそらく委員会か何かだろう。どちらにしろ、野山が関わることならば空却には関係のない話だ。
ふと、空却は二人の話を聞いているを映す。今にもあの会話の中に入りそうな彼女を見て、空却は口の形をへの字に歪めた。
「」
「えっ?」
「なぁに?」一言呼べば、は体を空却の方に向けた。特に用はない。加えて、平塚と野山が近くにいるところで話すことなど皆無だ。ほんッと邪魔だなてめえら。空却がに言うことを考えているあいだに、副担任である教師が教室に入ってきてしまった。
「きりーつ!」男子の学級委員長による号令が教室に響く。同級生らががらがらと席を立ち始める中、その雰囲気に急かされているの心情を感じ取って、「……忘れた」とだけ空却は言う。しかし、は邪険な顔を一切浮かべずに、「思い出したら、いつでも言ってね」と笑顔で返した。
ただと話すだけだというのに、どうしてこうも不自由なのか。中学に上がってからというものの、のことに関して上手くいかないことばかりだ。
喉が施錠されているようなこの感覚には、毎度嫌気がさしている。今すぐに首元を掻きむしりたい衝動に駆られながらも、椅子から腰を上げたを見て、空却もまた不服そうに席を立ったのだった。
二限連続の総合の授業――いつもならば屋上に直行する空却だが、あいにく雨が降り始めたので教室で寝ることにした。ただ、授業が始まるなり、いつもよりも教室の中が騒がしい空気に包まれていたので、半分寝かかっていた空却は嫌々顔を上げた。なんだってんだ。
正面を見れば、副担任によって黒板に書かれた“修学旅行”、“宿泊班”、“自由行動班”などの文字の羅列。それらを見て、ああ、と空却も合点がいく。今日は、来月に控えた修学旅行の班決めをするのだ、と。
周りを見ると、いつの間にか女子と男子とでなんとなく人が分かれており、と平塚もすでに自分たちの席にいなかった。空却の視線が教室をぐるりと一周すると、二人は教室の隅にある席に座り、他の女子二人を交えてすでに班を作っている。
早えーな。を見つけてからは特にやることもなかったので、空却は女子らと談笑しているの観察を始めた。空却といる時とは違い、女子同士ではしゃいでいるはまた別の顔を見せてくれるので、昼寝時間として消費されるこの授業もまあまあ有意義な時間となった。
「くーこー! 俺らと同じ班になろーぜ~!」
「おー」
どこからか聞こえた声に空却は適当に応じる。すると、空却を班に誘った同級生二人がと平塚の席に座った(声をかけてきた男子がの席に座った時、心臓がぞわっとしたのは気にしないことにした)。どうやら、同じ班になる者同士、席に座ってなんとなく一つに固まるようだ。
しかし、空却の前方にいる野山は自分の席から全く動いていない。動く気配もない。空却が訝しげに目を細めていると、「じゃー、俺ら三人と野山加えて四人だな!」と空却に声をかけた男子が言った。おい待て。こいつがいるとは聞いてねーぞ。
「波羅夷、よろしく」
「うるせえ。てめえとよろしくしたかねーわ」
「そっか……。ごめん」
「よく分からんのに謝んなクソが」
「ごめん……?」
「眼鏡割りてえ……」
「空却と野山って、そんなに仲悪かったっけ?」
進展のない会話に苛ついていた頃、もう一方の男子が間に割って入ってくる。雰囲気は野山と似て落ち着いているが、彼と比べて愛想は大分良い方だ。
「俺は仲良くしたいと思っとるよ」「二人とも、タイプぜんぜん違うもんね」「でもさー、空却に嫌われるなんて相当だぜー?」三人で話を広げている間に、教室の中は男女それぞれ班を作って大方固まっていた。これで寝泊まりを共にする班は決定だろう。一名、不本意な輩もいるが。
続いて決めるのは自由行動班。宿泊班とはちがって、ひとグループにつき七、八人で男女混合でなければならないという縛りがある。担任も担任だが副担任も副担任でとてもルーズな性格で、「即席くじでも各グループの話し合いでもいいからとりあえず良い感じに決めといて~」とのこと。一度作った宿泊班をばらす必要もなかったため、男子と女子の宿泊班を合体させようという話で落ち着いた。
今回はわざわざ学級委員が前に出るようなことではない。男子と女子……それぞれのグループ内でどの異性のグループと組むかというのをひそひそと話し合っている。それは空却の班も例外ではなかった。
「なあなあっ。お前らはどこの女子と一緒がいい? オレは――っ」
「お前の好きなやつ知ってるからいいよ」
「だッ、だれも好きな女子の話はしてねーだろッ」
「なんだかこうしとると合コンみたいだね」
「えッ!? 野山合コン行ったことあんの!?」
「例えばの話だよ」
「野山でも合コンなんて言葉使うんだなあ」
だりぃ、と思いながら、空却は本日二回目の大きなあくびをする。正直なんでもいい。まあ、自分が何か言わなくとも他の三人が決めるだろう。の姿も他の女子の体に被さって見えなくなってしまったし、今からチャイムが鳴るまではつまらない時間が流れる。元々空却にとって寝る時間だった二限分の授業――起きた時にはすべて決まっているだろうと思い、空却は早々に机に突っ伏した。三人の会話を子守唄にしながら、空却の意識は現実からだんだんと遠ざかっていく。
「空却は一緒の班になりたい女子とか……って寝てる」「まー、空却ならどこでもいいって言うだろ~」察しが良い同級生らで助かる。これで安心して眠りにつくことが出来るというものだ。
「……じゃあ、平塚の班は?」
野山の言葉に、ぴく、と空却の指先が動く。なんとなく顔を上げたら負けな気がして、空却はその体制のまま耳だけじっと澄ませた。
「平塚かあ。たしかにノリは良さそうだね」
「おいおい! 他の女子の面子も重要だぞっ。えーっと、平塚の班のメンバーは――」
少なくともがいることは分かっている空却。なんだよ。旅行先でもの面倒見なきゃいけねーのかよ。しかたねーな。のことだから迷子になるかもしんねーし。迷子になってもチビすぎて誰も気づかねえかもしんねーし。その途中で腹空かすかもしれねーし。拙僧が見張ってやらねーとな。
まだ確定したわけではないが、空却は早くも旅行先で楽しそうに観光をしているを想像する。それをツマミにすると先ほど以上にうとうとと微睡んでいき、空却は再び意識をふっと浮かせた。
「――んじゃあ、狙うのは平塚達の班ってことでいいか?」
「俺はそれでいいよ」
「おれも。平塚の班、お前の好きな子もいることだし」
「言うなってそれを――ッ」
その言葉を聞いた瞬間、空却はばっと起き上がる。眠気はどこかへ吹っ飛んでいき、空却の視線は話を仕切っていたお調子者の男子に注がれていた。
「うおぉッ。空却起きてたのかよ!」
「どいつだ」
「へ? 誰ってなに――」
「お前の好きな女子どいつだって聞いとんだ」
半分寝かかっていたせいもあってか、存外低い声が出た。しん、と場が静まり返り、相手の顔が若干引きつっているのが分かる。
無言の時間が続くにつれて苛立ちが増していく。「え、えぇっと……」おい誰だ。さっさと答えろや。男子がこわごわと口を開きながら、ちら、と視線をどこかへ向かわせる。待てよ。そっちはがいんだろ。
たったそれだけのことで、腹の底でふつふつと沸き起こっていた憤りが沸点に達する。おい。なんでだよ。あんなチビのどこがいいんだよ。意味分かんねえ――せり上がる衝動のまま、空却がマグマのような熱い何かを吐き出す勢いで喉を震わせようとした、その時だった。
「――今、那須野と話しとる子だよ」
野山の涼やかな声が、風鈴の音の如く空却の耳に届く。野山に言われるがまま、空却は先ほどまでの体と被って見えていた女子を見る。「って、野山も知ってんのかよっ!」という突っ込みも遠くに聞こえて、沸騰していた怒りが蒸発していくのが分かった。
……なんだ。あいつかよ。体の中で静まっていく熱量を感じながら、空却はすんと口を閉じる。「つか、オレの好きな女子、さらっと暴露されたんだが……。空却ってこんな寝起き悪かったっけ……?」「おれに聞かれても……」そんな隣人の声をBGMに、空却は再び見えるようになったをぼうっと眺める。すっかり眠気も覚めてしまったので暇になってしまった。平塚が密かに配っているお菓子をこそこそと口の中にしまい込んでいる様はまさしく小動物のようだった。
「それじゃあ、空却も平塚たちの班でいい?」
「おー」
「んじゃあ決まりなっ! んで、だれが言いに行く?」
しん、と場が静まる。言いに行く、というのは、女子の班に、一緒の班にならないか、と誘うという意味だろう。周りを見れば、未だに身内らで話し合いをしていたり、話し合いが終わった班は他の班の出方を窺っているようだった。
「おれ、女子の中に入ってくなんて無理」「オレもだぞ」あの中とは――女子だけで作られた、男子にとっては異質な空間。そんな中で、空却ははん、と鼻で飛ばした。どいつもこいつも情けねーな。あんなん檀家さんらの井戸端会議と似たようなもんだろ。
いつまでもうじうじとしている班員らを置いて、空却はがらッと席を立った。
「しゃーねーから拙僧がいってきてやるよ」
「まーてまてまてまて」
制止する声とともに、すかさずスカジャンを引っ張られる。不意を突かれた空却は抗うことすら考えることなく、すとんっ、とそのまま着席してしまった。
「なんだよッ」
「最初の掴みは大事だから、ここは慎重に決めようぜっ」
「あぁ!? 何が掴みだよ意味分かんねえ」
「意味分かるだろっ! 三日間一緒に行動する女子だぞっ? ファーストコンタクトは重要だろーよっ」
「おい。何言ってんだこいつ」
空却が蔑みの目を向けると、もう一方の男子がやれやれ、と言ったふうに肩を竦めた。
「空却は見た目がやばいんだって。平塚はともかく、他の女子はビビるでしょ」
「どこにビビる要素があんだよ。坊さんみたく悩み相談しやすそうな風貌しとんだろ」
「今の笑うとこかあ?」
「親父直伝のチョーパン見舞ってやろうか」「すんませんでしたッ!」そんな茶番を繰り広げた後、その男子は調子よく、「って、こ、と、でえ~……」と意味深な声色とともに視線を変えた。
「ふだん女子ともふっつーに話しとる野山っ! 頼むッ!」
今まで蚊帳の外だった野山に向かって、頭を垂れた男子はぱんっ、と手を合わせた。数回瞬きをした野山は、「俺はいいけど……」と言いながら、ちらっとこちらを見やった。
「波羅夷、いい?」
なにが“いい”だよ。いちいち腹立つこと言うんじゃねーよ――こちらを見据えて離さない野山からふいっと顔を逸らした空却は、「さっさと行きやがれクソ眼鏡」とだけ吐き捨てた。ここまでくると、空却の心を覗いた野山がわざとこちらの気に障ることをしているのではないかとさえ思う。
「それじゃあ、いってくるね」席から立ち上がった野山は、迷いのない足取りで平塚の班へと一直線に向かう。途端に、教室の空気がざわっと色を変え、野山の姿を見た班の代表が一人、また一人と立ち上がって、各自なりたい班の元へと向かった。平塚がノーという可能性は低いので、あちらの班と合流するのも時間の問題だろう。
「――ほら。やっぱり野山くん、ちゃんのいる班に行ったよ」
どこからか聞こえてきた声に、空却の神経がぴくんと反応する。
それは、隣の島にいる女子グループからだった。いくら本人達がひそひそと小声で話していても、空却は彼女らの背後にいるので耳をすませばその内容も容易に聞き取れてしまう。
盗み聴きという真似はしたくなかったが、といけ好かない奴の名前が同時に出てしまったので、空却の耳は否が応でもそちらに傾いてしまった。
「調理室でちゃんが怪我したときもさ、野山君、すごく心配してたじゃんね?」
「心配どころか、先生のこと押しのけて保健室連れて行ってたよね」
うんうん。たしかにー。そうだよね――女子の会話が、空却にとって認知したくない事実をぐさぐさと突きつけていく。それでも、一度向けてしまったアンテナを折ることもできず、空却は最後までその言葉を聞いてしまった。
「……野山くん、ぜったいちゃんのこと好きだよ」
――ぷちん、と体の中にある糸が切れた音がした。
堪忍袋の緒ではなく、そんなものよりも……もっと大事ななにかだったような。しかし、そんな未知の感覚よりも気にしたいことがある。空却は野山に対してこれでもかと視線を縫いつけた。ちょうど彼は平塚と交渉している最中で、じきに、「いーよー!」と平塚の同意の声が聞こえてきた。
すると、他の女子らがちら、ちら、とこちらの班のメンバーを確認している。はというと、大きく開いた目でこちらをまっすぐ見つめており、タイミングの悪いことにお互いの目がばちっと合ってしまった。
急に、自分の知っている色だけで染まっていたが、他の人間から分け与えられた色と混ざってしまう錯覚に囚われる。それがきたなく、おぞましくものに思えてしまい、見るに堪えなくなった空却はの視線から逃げるようにふいっと目を背けた。
――業後。保健室の空きベッドで眠っていた空却は鞄を取りに教室へ戻ってきた。修学旅行の行動計画については、平塚の班と合流する前に教室を出ていってしまったため、あれからどうなったか分からない。空却が教室を去る間際、「空却どこ行くんだよ~っ!」と呼び止める声も聞こえたが無視した。あの後、一気にやる気をなくしてしまったのだから仕方がない。
下校時間から随分経っているし、教室には誰もいない――かと思いきや、自分の席の斜め前で眠りこけている人間が一人いた。だ。
「(……なにやってんだ)」
寝ている。見れば分かる。自分の両腕を組んで枕にしながら、顔を横に向けてすうすうと穏やかに眠っている。いやだからなんで。今日は茶道部はないはずだし(火曜日は部活が休みなのだと、自ら言っていた)、が教室に残る理由はない。自習でもやっているのかと思ったが、の机の上はまっさらで、筆記用具すら出ていなかった。
……何を思ったのか、空却はの前の席に座る。椅子をの机の方に寄せて、空却のすぐ目の前にの頭が来ると、晒された彼女のつむじをじっと見つめた。首の産毛がふわふわとしていて、男の体毛とは明らかに違う。綿毛のように細くて、触るととても柔らかそうだ。
……いや、なに考えてんだよ俺は。気を取り直した空却は、邪念を振り払うようにの髪をいじって遊び始める。髪のひと房を取って指にくるくると巻き付けたり、髪の表面を頭の丸みに沿って撫でたりする。
不意に、「ん……」と寝息に混じって聞こえてきた音に、空却は溜息をついた。
「(……こーやって、ずっと寝てりゃあいいのによ)」
寝ているは動かないので、どこに行ったと探す必要もないし、他の奴と話していて何話しとんだ、と気にする必要もない。もちろん、そうしたら自分とも話をすることはできないが――
「くーこーくん……?」
――こうして起きたとき、が一番に見るものが……自分の顔ならば。
瞼をゆっくりと開いたが、むくりと上半身を起こす。正面を向いて、自分と目が合っても、彼女はまだ夢現の中のようでぽけぽけとしていた。それでも、自分の存在はしっかり認知しているのだからよく分からない。
焦点の合っていないを見つめながら、空却は指に巻き付けた髪をするりと解いた。
「……はよ」
「おはよう~……」
は顔をふにゃふにゃとさせながら応じる。この調子では、髪が弄られていたことにも気づいていないだろう。少し乱れてしまった髪を手ぐしで整えてやると、の頭がこてん、と手のひらに向かって寄ってきた。それがなんとなく撫でられたいがために自ら頭を擦りつけてくる猫に似ていて、空却は目を細めた。
「くーこーくん……」
「なんだ」
「しゅーがくりょこーねぇ、くーこーくんとねぇ、いっしょのはんだよー」
「知っとる」
「りょこう、たのしみだねぇ」
えへへ、と笑ったを見て、重たい息を吐き出した空却は、「……んで、」と話を逸らした。
「自由時間、どこ行くか決めたんか」
「ううん……。みんなねぇ、意見がばらばらで、ぜんぜんきまらんかったんだぁ」
「まあ、あんだけ人数いりゃあな」
こうして話を振り続けると、の目がしっかりとこちらを映す。の意識が徐々にはっきりしてくる様を感じながら、空却はの机に肘をついた。
「お前はどこ行きてーの」
「わたし……? わたしはねぇ……」
ぽくぽくと考えたは、「つきじ、かなぁ」と呟いた。どこだそれ。
「わたしがねぇ、まえに住んどったところなの」
「へー」
「おおすの商店街みたいに食べものやさんがたくさんあってねぇ、食べあるきもできるんだあ」
「この後に及んで食いもんかよ」
「だめかなぁ……?」
「だめとは言ってねえ」
ぽつぽつと会話を進めていくと、の声色も寝起きのものから変わっていく。「空却くんは、もう帰る?」と聞いてきたので、「おう。は。まだいんのか」と尋ねた。がまだいるならいようとも思ったが、空却がそう言うなり、「ううんっ。わたしも帰るっ」とも忙しなく帰り支度を始めた。
結局、が教室には残っていた理由は分からなかった。しかし、支度しているは不思議と嬉しそうだったので、空却はの準備ができるまで、せかせかと動く手足を飽きることなく見続けていた。
の隣に並んだ空却は、人気のない廊下を歩く。補習をしている特別教室も通ることもなければ、同級生や教師と鉢合わせることもなかった。
まるで、校内に二人きりになったような錯覚さえしてきた中、ととともに昇降口に繋がる階段を下ろうとすると、上の階から不穏な声が届いた。
「――ったく、シケてんな」
聞き覚えのある声に、空却の足がぴた、と止まる。がこちらを不思議そうに見つめているのを察しながら、空却の聴覚は上の階へと研ぎ澄まされていた。
声は二つ……いや、三つだ。脳裏に過ぎるのは、胸糞の悪い顔ぶればかり。小物そうなチャリ銭の音と頭の悪そうな足音がどんどん近づいてくる。咄嗟にを見下げると、少しだけ口をぽかんと開けてこちらを見上げる彼女の顔があった。
「く――」
「来い」
このままでは鉢合わせをする可能性が高い。一人であれば堂々と階段を下りていったものだが、今はそうではない。の顔を覚えられたら後々面倒だと思った。
空却はの手を引いて、その階の廊下の窪みにを追いやる。くそ、狭えな。はさておき、自分が入るとなると少々手狭だ。他の場所を探そうとも思ったが、不幸なことに彼らの声はどんどん近くなっていく。
こっち来んのかよ……。てっきりそのまま下の階に降りていくかと思えば、つくづく運のない。場所を移すことを諦めた空却は、持っていた鞄を床に放った。
「空却くん……? もう帰るんじゃ――」
「、リュック下ろせ」
の言葉を制して空却が言う。未だに要領の得ない顔をしていただったが、こちらの言う通りにのろのろとリュックを下ろした。空却はそれを奪って足元にどすっと置き、を壁際にじりじりと追いやる。
空却が近づくにつれて、の足がたどたどしく後退していく。少しでも二人分の体の厚さを薄くしなければ見つかってしまう。空却はの頭を囲うようにして壁に両肘をつき、自身の体をの方にぐっと寄せた。壁と同化して、死角以外のところからでも、人の目につかないように。
「ぁ……え、ぇ……っ?」狼狽える声を漏らすに対して、「静かにしてろ」と空却は小声で窘める。奴らの声がすぐ近くになると、の体を壁にぎゅうっと押し付ける。もちろん自分の体もに密着することになるが、今はそんなことに構っている暇はなかった。気になったことといえば、の息遣いががやけに大きく聞こえて、彼女の体がぷるぷると小刻みに震えていたことくらいだろうか。
……げらげらと下品な笑い声が遠のいていく。ようやく廊下が静まり返り、息を吐いた空却は壁から離れる。奴らが来た上の階を見上げながら、空却は床に放った鞄を取った。
「。野暮用思い出したからこれ持って先に昇降口――」
行ってろ、と言おうとした声は喉の奥に留まった。ようやくの顔色が窺える体制になったが、彼女は呆然としたまま、何もない空間をぽーっと見つめている。完全に上の空だ。空却がの目の前で片手をひらひらと振っても応答がない。どうした。
「おい」
「ひゃいッ」
空却が肩を軽くぽんと叩くと、ようやくはびくッ、と体を震わせて反応した。つか、なんだよ“ひゃい”って。噛んでんぞ。
挙動不審なに対して空却が首を捻る。その時、彼女の顔が耳まで真っ赤になっていることに気づいた。自分の体と壁に挟むように思いっきり押しつけてしまったので、もしかすると息が吸いづらかったのかもしれない。緊急のこととはいえ、少しの罪悪感が空却の胸を満たした。
「悪ぃな。苦しかったろ。帰りにみたらし食わせてやっから」
「ぁ……う、ううんっ。ぜんぜん大丈夫だよっ」
「あと鞄。これ持って昇降口行っとけ。重てえから両手で持てよ」
「うんっ。分かっ――わわッ?」
空却が鉄板の入った鞄から手を離した途端、の両腕が鞄の重みでかくんっと下がる。だから言ったろ。一人だけ残すのも不安が残ったが、「やばそうな奴らが来たらそれ投げて逃げろ」とだけ言い残して、空却は上の階へ向かって走っていった。
とんっ、とんッ――空却は階段を軽快に駆け上がり、長く続く廊下をじっと見据える。特別教室だけがある階なので、人の気配は皆無だった。
ふと目に入った男子トイレを覗くと、壁に背を預ける形で眠っている男子生徒がいた。彼の周りには水浸しになった教科書と空になった財布が散らばっており、管を巻いていたホースの先端からは水道水がちょろちょろと出ていた。
「おいっ。おい蓮起きろッ!」
空却は水溜まりの中心で気絶している蓮を揺さぶり、彼の頬をぺちぺちッと叩く。あと数回叩いても反応がなかったら水をぶっかけようかと思った矢先、「ぅ……」と、蓮の口から小さな呻き声が漏れだした。
「ぁ……は、はらぃ、くん……?」
「またあいつらか」
うっすらと目を開いた後、ぼーっと空虚を見つめていた蓮だったが、意識がはっきりしてくると、空却からばつ悪そうに目を逸らした。そして、水浸しになった教科書の内の一冊を手に取ると、蓮は苦笑気味に空却を見上げた。
「これ、一ページずつドライヤーで乾かしたら使えるようになるかな……」
「教科書よりてめえの心配しろや」
「あはは……」蓮は愛想笑いを浮かべるが、空却は全く笑えない。空になった財布を拾い上げて蓮に渡すと、彼は悲しそうな表情で「ありがとう……」と礼を言った。
……すると、不意に上履きの音がぱたぱたと聞こえてくる。まさか、またあのクソゴミ屑の一人か。姿を現したら一発で伸すつもりで、立ち上がった空却はバキバキッ、と指の骨を鳴らし始める。
しかし、「波羅夷くんっ、今度はちがうんだッ」と蓮が前のめりになりながら訴えたので、あ? と眉を顰めた空却は蓮を見下げる。そのあいだにも、上履きの音は男子トイレへと侵入し、じきにその正体を現した。
「来栖、着替え持ってき――」
――野山だ。
体操着を腕に抱えてきた彼は、空却の姿を見るなり体の動きを止める。空却もまさかの意外な人物と対峙して、言葉通り目を丸くさせた。
そして、今にも拳を出しそうな空却、水浸しの蓮……野山がそれぞれを交互に見遣ると、何かを勘違いした蓮が咄嗟に口を開いた。
「野山くんっ! 波羅夷くんは何もッ――!」
「分かっとるよ」
「俺、波羅夷と同じクラスだから」我に返ったらしい野山は、自らの体操着を蓮に渡した。「わざわざありがとう……。来週、洗って返すね」と先ほどと同様、僅かに口角を上げた蓮。笑い方は相変わらず下手くそだった。
そのまま、蓮の濡れた教科書を拾い上げている野山を見つめていると、体操着に着替えるべく学ランを脱ぎ始めた蓮がぼそぼそと話し始めた。
「波羅夷くんがここに来る前に、野山くんが僕のことを見つけてくれたんだ。さすがにこのままじゃ帰れないだろうって、着替えも持ってきてくれて……」
「へー。で、なんでてめえは残ってんだ。下校時間とっくに過ぎてんだろ」
「引き継ぎとか色々あって」
何の引き継ぎだよ。意味分かんねえ。聞くだけ損した気分になった空却は、ズボンのベルトに手をかけている蓮を一瞥した。「それよか、」
「蓮、さっきまで気絶しとったぞ」
無表情を貫いていた野山の目がじわじわと見開いていく。野山がそのまま蓮に視線を変えると、はっとした顔をした彼はやましいことを隠すようにさっと俯いた。
「来栖、さっき来たときは大丈夫って――」
「や、やだなあ波羅夷くん……。ちょっとのあいだ寝てただけだよ」
「ビンタしても起きんかったくせに」
「波羅夷くんっ」
「来栖」
蓮の言葉を被せるように名前を呼んだ野山は、蓮のぼろぼろになった学ランや顔にできた痛々しい痣を一通り見る。そして、ほんの少し痛々しそうに目を細めるやいなや、蓮が脱いだ学ランを丁寧に畳み始めた。
「やっぱり警察に行こう。このあいだも同じ奴らにやられとったでしょ。これ以上エスカレートしたら来栖が――」
「そんなことできないよッ。もしもあいつらにバレたら、次にどんな目に遭わされるか……」
「てめえが何かしたところで、実際殴られんのは蓮だからな」
蓮の味方をするつもりはないが、これが事実だ。空却が野山を睨みつけながらそう付け足すと、野山は光のない目で俯いた。悔しそうな、やるせないような……複雑な感情が入り交じった表情。こいつでもこんな顔すんのか、と空却は場違いなことを思った。
……しばらくそのまま黙り込んでいた野山だったが、着替えを終えた蓮に濡れた制服の上下を渡しながら、彼は重々しく口を開いた。
「ここに来る途中、いつもの奴らとすれ違ったけど、別校舎に行ったみたいだから。今のうちに反対側の非常口から出て帰りゃあ」
「うん……。ありがとう、野山くん」
「……俺も、一緒に帰ろうか」
「ううんっ。もしもあいつらと鉢合わせたら大変だし、これ以上迷惑かけるわけにはいかないよッ」
「じゃあね野山くんっ。波羅夷くんもありがとうっ」早口でそうまくしたてた蓮は、濡れた教科書を詰めたバッグを抱えて、足早に男子トイレから出て行った。
残された空却は、同じくこの場に残った野山をちらっと見る。すると、彼は乱雑に放られているホースを片付けるべく、学ランの袖をぐっと捲っている最中だった。
「お前、蓮とダチだったんか」
蛇口を締め、ホースを掃除ロッカーに片付け始める野山。彼は空却を一瞥すると、いつもの無表情でぽつりとこう言った。
「……一年のとき、選択科目が一緒だったんだ」
「校舎が別になってからは、しばらく喋っとらんかったけど」ホースを片付け終えてロッカーを閉めた野山は、水道で手を洗い始める。蛇口から出る水の勢いがやや強く、水音が過剰に大きく聞こえた。
席は近いものの、野山とこうして一対一で話したことはほぼない。ただ、いつもと彼の雰囲気が違うことくらいは空却にも分かった。
「……中途半端な正義感で余計なことすんじゃねーぞ」
「来栖にも同じようなこと言われたよ」
蓮はきっと、自分と同じ目に遭ってほしくがないゆえの忠告だろう。言葉の意味が違うことを瞬時に理解した空却は、水道の縁に手をかけて、下を向いている野山の顔をぐっと覗き込んだ。
「勘違いすんな。拙僧は蓮の生き様に口出すんじゃねえって言ってんだ」
「生き様?」
蛇口をきゅッ、と締めた野山は顔を上げて、空却と対峙する。いつもは無気力な色をしている彼の目が、今は白虎の牙のように鋭く細められていた。
「こんなの見て見ぬふりと同じだろ。お互いに」
普段、穏やかな波を打っている野山の声に、感情が灯っている。どうやら、野山は怒っているようだ。声色はほぼ変わらないのにも関わらず、その目の奥では閃光のようなものがバチバチと散っている。その理由の多くは、何も出来ない己の不甲斐なさによるものだということはすぐに分かった。
そんなものと同類と括られて腹立たしく思った反面、普段から物静かな人間がここまで感情を露わにしてくると、さすがの空却も逆に冷静になってくる。
「見て見ぬふりじゃねえ。拙僧は見極めとるだけだ」
なにを、と言わんばかりに僅かに眉を顰めた野山を見て、空却ははん、と鼻を鳴らすだけだった。てめえに教える義理はねーよ。いつもはこちらがいらつかせられているのでいい気味だと思った。
ただ……たとえ気に食わない人間でも、仏の道は誰の前にも平等に敷かれている。空却は野山の中にある本能を鎮めるように、最初で最後の助言を施した。
「……蓮のダチなら信じてやれ。それくらいはできんだろ」
さらに訝しげな表情になった野山。空却はそれ以上何も言うことはないというように視線を外すと、未だに腑に落ちない顔をしていた野山が、ふーっ、と深く、細く、息をつく。
そして、精神統一をするように静かに目を閉じた……かと思えば、次に目を開いた時には、そこにいるだけで穏やかなさざ波が聞こえてきそうないつもの彼に戻っていた。
「……波羅夷の言っとることはよく分からんけど」
「おい」
「ごめん。少し、八つ当たりしとった」
はぁ、と自嘲じみた溜息を落とした野山。今日は、彼の人間らしいところをよく見る。あまり笑わなければ、物わかりが良すぎる大人こどものような同級生――今までは機械人形のように思っていたが、少なくとも友達の身を案じるくらいには人の心があるのだと思った。
「俺も、取り返しつかなくなる前にできることはしたいな」
「てめえ……さっき拙僧が言ったこと忘れたか。余計な手ェ出すなっつっとんだろ」
「うん。自分に何ができるか、俺なりに考えてみるよ」
「だからそれ全然分かってねえ――」
「あ……もうこんな時間か。じゃあ、俺は帰るから。また明日ね、波羅夷」
「おいッ!」蓮と同じく、野山もまた男子トイレから早々に去っていった。あんの野郎……言いたいことだけ言ってさっさと帰りやがった。野山といい平塚といいといい、人の話を遮って言葉を挟めと小学校で教えられたのだろうか。
……そうだ。といえば。忘れとった、下でのこと待たせてたんだった。じきに昇降口に行くであろう野山を想像した空却。その先を考えるよりも先に急いで男子トイレから出た。と野山を鉢合わせさせたくない。野山に出くわすよりも先に、を連れて帰らなければ。
雑談すらさせてやらねえ――と野山が向かい合って言葉を交わしている光景を思い浮かべただけでむしゃくしゃとした空却は、階段を三段飛ばしで駆け降りていった。
「――お前たちの方が雑魚野郎だッ!!」
耳から入ってきた言葉が、空却の全身を満たす。その力を拳に込めて、今更へっぴり腰になった男子生徒を殴り飛ばしたのも、やめて、という言葉を使う権利のない男に馬乗りになったのも、すべて自分自身が招いたことだ。救いようがない。
人の痛みが分からないのは仕方がない。経験というものは平等に与えられないものだから。よって、分からないものは分からせなければならない。蓮が味わってきた痛みを同等以上に与えさえすれば、嫌でも思い知るだろう。自分のしてきた行いがどれだけ愚かだったのかを。痛みとともに、恐怖とともに……その空っぽな脳が記憶することだろう。
「あいつが今までやめろって言った時、お前はどーした!?」
相手の顔の骨が歪む感覚がする。口から漏れる声が悲痛のものに変わっていく。目には目を、歯には歯を、拳なら拳を――俗物が決めたしきたりから逸れている自覚はあった。今自分がやっていることが、世間から後ろ指を指されることだとも自覚していた。今後、自分がどんな道を辿ることも、空却はおおよその方向くらいは見据えていた。
だが……それがどうした。お釈迦さんに顔向けできないようなことは、決してしていない。殴るか見過ごすかという選択を迫られて、後者をとる方が、死後地獄に堕ちる行為だろう。
拙僧は、なにも間違っちゃいねえ――錯乱した男子生徒が屋上から飛び降りたのを見たときも、空却は心の底からそう思い込んでいた。
――翌日。同級生らがボストンバッグを持っている中、空却は普段持ち歩いている鞄すら持ち合わせていなかった。必要のないものを、わざわざ持ってくることもないと思ったからだ。
今日は、いつもよりも少し遅れて教室に入った。予鈴が鳴る五分前だ。廊下を歩いていても騒がしいことが分かった教室の中。空却が入室すると一瞬だけ静かになったものの、途端にひそひそとした小声が耳につく。耳元で飛んでいる小バエのように鬱陶しく思った。
「おッ、おはよ空却っ」
「空却、おはよう……」
席に着くなり、修学旅行で同じ班を組んだ男子二人が話しかけてきた。と平塚以外の女子二人も、その後ろに控えている。
二人の態度はどこかよそよそしい。それでも、空却はいつものトーンで「はよ」と挨拶を返した。
「あ……あのさ、空却」
「なんだよ」
「昨日、同学年のヤンキーたちボコったって……マジ?」
いつものお調子者テンションはどこに置いてきたのかと問いたいくらい、こわごわとした様子で尋ねてきた。同学年のヤンキー達が誰のことを指すのか分からなかったので、空却は「さぁな」とだけ返す。
そして、空却は斜め前の席に目をやる。いつも早く来ているも、今日はまだ来ていないようだった。さては寝坊か。こんなことなら、の家に寄ってから登校すればよかった。今から迎えに行くか、と空却が壁時計に目をやった時だった。
「おっはよ~っ!」
「おはよう」
そうこうしているうちに平塚が教室に入ってくる。珍しいことに野山も一緒だ。もちろん、二人も大きなバッグを肩にかけており、特に平塚はその表情からしてとっくにバカンスムードだった。
「ねえ聞いてよー。家出る直前になって忘れものに気づいてさあ~」いつもの調子で、同じ班の女子達に話を振っている平塚だったが、彼女が騒がしかったのは一時だけ。平塚がきょろきょろと教室を見回したかと思えば、班員の女子の一人に話しかけた。
「ねえ、なんか教室の空気エグくない? 今日から修学旅行だよ?」
「あ、杏ちゃん、それがね――」
「あれ? てか波羅夷の荷物ぜんぜんなくない? なんで?」
馬鹿のくせに空気は読めるらしい。そして、ぜんぜんというレベルではない。手ぶらだ。しかし、答える義理もないと思った空却は口を閉じたまま。黙っていればしつこく聞いてくるとも思ったが、幸いにもいいタイミングで古びたスピーカーから生々しい放送が流れた。
《三年E組の波羅夷空却君、三年E組の波羅夷空却君。至急、職員室まで――》
簡易なチャイム音ともに硬い声が教室中に行き渡る。職員室は行くのはとても面倒だ。しかし、行かないとさらに面倒なことになることは察した。
……しかたねーか。空却は怠そうに席を立つ。「え? え? 波羅夷なんかしたの? ねえってばっ」最初に反応を示したのは案の定平塚だった。席に着いた野山もわざわざ振り返って空却を見上げている。空却は平塚の声に応じることなく、そして野山と目を合わせることもなく、一人教室を出た。行きたくないわけではないが、行きよりもとてつもなく足が重たく感じるのはなぜなのだろう。
「波羅夷くんっ?」
教室を出て数歩歩いたところで、小さな体に見合わない大きなボストンバッグを肩にかけたが廊下に立っていた。家から走ってきたのか、はふ、はふ、と少し息を切らしている。
……そんなを見て、過剰なまでに胸を撫で下ろしている自分がいた。バスが出発する前に着いてよかったと思う。どうやら、自分が危惧していたことはたったそれだけのようで、の姿を見ただけで、錘が外れたように足がふっと軽くなった。
と同時に、の口から紡がれた苗字を聞いて、空却は密かに息を漏らす。当分聞くことがなくなるかもしれない声で、紡いでほしいものがあった気がした。廊下にはまだ他の生徒がちらほらと談笑しており、彼らに向かって、散れ、と思わず大声を張りたい気持ちになった。
「どうしたの……? いま、放送で呼ばれとったよね……?」
困惑と不安とが入り交じったの眼差しを、空却は一滴残さず受け止める。今回の件について一番知られたくないと思うが、一番知っていてほしいとも思う――そんな矛盾を抱えながら、空却は一歩、また一歩とに近づいた。
「」
自分たちの班は、築地に行くことが決まっていた。二回目の話し合いの際、各々が行きたいところを挙げていく中で、は自分の意見は述べずに、いいね、そうだね、と周りの意見に同意するだけだった。の態度が面白くなかった空却は、「空却はどこ行きたい?」と話を振られた時に、「築地」と一言言った。そうしたら、皆がわいのわいのと賛成したので、すぐさま行動計画の中に組み込まれた。
向かいにいたが密かに微笑んでいたことは、きっと自分しか知らない。路地の裏に唯一当たる陽だまりのように、そこにあるだけで……そばにいるだけで、居心地が良いものだった。わざわざ自分から陰る必要もない。今も、これからも……はきれいなものだけを見て生きていればいいのだ。
「……修学旅行。楽しめよ」
また、唯一心残りがあるとすれば……見知らぬ土地で、の手を引いてやれないことくらいか。
随分低くなった位置にあるの頭に、空却は軽く手を置く。少し走って乱れた髪の中に指を入れたい気持ちになったが、固めた決意が鈍くなってしまう気がして、触れただけで早々に離した。の顔は、あまり見ないようにした。
こんな事態になると、予想がついていなかったわけでもない。ムショ……いや、未成年は別んとこ行くんだったか。知らねーけど。何を思ったところで後の祭り。空却はいつも通りガムを口に含んで、職員室に続く階段を下りる。
予鈴のチャイムを聞きながら、空却は暢気にこんな思考を巡らせる。鬱陶しいだけの親父も、寺に訪れる檀家さんも、同級生らの面も、煩い平塚も、存在が癇に障る野山も、自分の目が届かなくなってしまうも――すべて、数年のあいだ……下手すれば一生、見ることもなくなるだろう、と。ああ、大方のものについては清々する。決して案ずることはない。この信仰心が変わらない限り、どこで生きようが……檻の中だろうが、自分の人生はどこまでいっても自分のものなのだから。
――そう。数時間前は、たしかにそんなことを思っていた。
「くッッそだっせえなちくしょう……」
「そのスカジャンのことか? たしかに身丈に合わねえな」
ちげーよクソ弁護士。わざとらしくくッちゃくッちゃと音を立てながら、空却は警察署の廊下を歩く。こんな未来は予想外だった。
ここでの滞在時間は半日といったところ。学校の授業よりもだるい事情聴取を受けていたら、いきなり現れた弁護士の天国獄という男があの手この手と根回しをしたらしい。まだ疑いは晴れていないものの、ひとまずは数週間は自宅謹慎という扱いに落ち着いたと聞いたときは、思わず「はあッ!?」と声を上げたものだった。
――「お前は必ず無罪にしてやる」
空却を見るその目……一度目の面会の時と明らかに色が変わっている。誰に何を言われたのかは知らないが、やれるものならやってみろ――そう思いたかったが、その時の獄の顔が絶対的自信に溢れていたので、さすがの空却も呆気にとられてしまった。
事情聴取中は暇すぎてガムをかなり消費してしまった。最後の一つになったガムを紙に包んで廊下のゴミ箱に投げ入れると、それを横目で見ていたらしい獄がはあ、と溜息をついた。溜息つきてえのこっちだっつの。
「俺はこのあと別の用事があるから、お前だけタクシーで寺まで帰れ。十中八九、野次馬がわんさかいやがるから、しばらくは寺で大人しくしとけよ。灼空さんにも話つけてあるからな」
「へーへー」
獄の念押しにも適当に返事をしながら、空却は彼ととともに警察署のドアを潜った。署を出るとすぐ、雑音のような雨音が二人を出迎える。稀に見ぬ土砂降りに、空却は分厚い雲に覆われた天を見つめた。
「すげえ雨だな……」ぼそっと呟かれた獄の独り言を聞きながら、空却は今頃修学旅行を楽しんでいる同級生らのことを憐れむ。あっち――東都も、もしかして雨降ってんのか。まあ、一日目は博物館やら美術館やら、室内で過ごせる全体行動だから関係ねーか。明日の自由行動は晴れるといい。傘を差しながらの食べ歩きは面倒だろうから。
……ちゃんと、はぐれずについていけているだろうか。平塚や他の女子が注意して見ていればいいが、そうでなかったら都会の人混みに紛れてしまうかもしれない。自由の身になった今になって、空却は想像の中で重たそうなバッグをかけたの背中を探した。
「ぁ……」
――そんな想像が過ぎたあまり、幻聴でも聞こえたのかと思った。
雨の音にかき消されなかったのが奇跡というほど、そのか細い声は空却の耳までまっすぐ届いた。空却は警察署を出てすぐ横を見る。そこには、頭から水を被ったようにびしょ濡れになったが、膝を抱えてちょこ、と座り込んでいた。
「お、まえ……なんで、ここに――」
信じられないものを見るかのように、空却は目を張る。そして、空却が言い終わらないうちに、はゆらりとその場から立ち上がった。が座っていたところは水溜まりができており、乾いたコンクリートは色濃く変色していた。
途中、傍らに置いていたボストンバッグにつまづきながら、は覚束無い足取りでふらふらとこちらに近づいてくる。目元は赤く染っており、髪は雨に濡れてぺたんと萎れていた。
バスに乗って、東都にいるであろうがなぜここにいるのか理解出来ず、空却はその場から動けなかった。なんで、お前、まだ、名古屋にいんだよ――そんなような言葉を投げかけようとした空却だったが、口を開きかけた瞬間、彼の横を素通りしたは、その横にいる獄のジャケットを両手でぐっと掴んだ。
「な――」
「空却くんはわるいことしてませんっ!」
きんッ、と鼓膜が震える。獄の声も制するほどの勢いに空却は目を開いたが、がその口を閉ざすことはなかった。
「クラスのみんな言ってました……ッ。空却くんなりにきっと理由があったんだよって、みんな言ってましたっ……!」
「ほんとです……ッ。ほんとうなんです……ッ」の声に水気が混じり、濡れた体も相まってとても痛々しい姿になっていく。雨のせいだけかと思っていた濡れた顔からは、新しく生まれた雫がぼろぼろと流れ落ちていった。
「くうこうくんを……ッ、おうちにかえしてください……っ。おねがいします……っ。わたし……っ、なんでもします……ッ。かえれないならっ、わたしも、くうこうくんといっしょにいきます……っ。いかせてください……っ。なんでもします……ッ」
の口から落ちる言葉は度々分裂して、意味を成さないものになっていく。息継ぎすらままならず、荒々しくなった呼吸が鎮まる気配もない。嗚咽が混じった口からはひゅっ、ひゅっ、と喉の鳴る音まで吐き出されていた。
空却はいつぶりかに頭が真っ白になる。がこんなにも泣いているところを見たのは、カヨの葬式以来だった。壊れかけたラジオのように、の声が揺れている。息も絶え絶えの中、たどたどしく言葉を紡いでは、空却くんはわるいことはしていないの一点張りだった。
そうこうしているうちに……もはや立つ体力さえも尽きてしまったのか、の体から力がふっと抜けて、彼女は獄の足元にずるずると座り込んでしまった。掴んでいたジャケットからも手が離れたが、代わりに、獄のボトムスに青白い指が申し訳程度にかかっていた。
「つれて……ッ、つれてかないでくださいぃ……ッ」
心臓がぶるッと戦慄く。臓器を鉄格子にぐっと閉じ込められたような圧迫感が襲って、空却は息ができなくなった。がしゃっくりを上げるたびに震える体。悪いものでも取り憑いているようなか弱い背中からは、目を逸らしたくなるほどの悲歎の感情がどろどろと溢れ出ていた。
あれだけプライドの高そうな態度をしていた獄だったが、金がかかっていそうな服を濡らされても、を突き飛ばしたりはしなかった。むしろ、の前にゆっくりとしゃがみこんで、彼女を慰めるように肩にとん、と優しく手を置いた。
「安心してくれ。俺はこいつの味方だ」
「ぇ……?」
の切なげな声に、空却の指先がぴく、と震える。固まっていた体がようやく動き出したようだった。
ひぐっ、ひぐっ、と不規則にしゃっくりを上げているは、ゆっくりと顔を上げる。その拍子に、の目に溜まっていた涙はぽろぽろと頬を伝っていった。
「俺は、灼空さんに雇われた弁護士の天国獄だ。こいつが今から行くのは裁判所でも年少でもねえ。今から寺に帰すところだったんだよ」
「べんご、し……さん……。お、てら……」
聞こえてきた音をそのままオウム返しをする。しばらく経って、ようやく言葉の意味を飲み込んだのか、「くうこうくんっ、おうちかえれるんですかっ?」とは目を見開いて獄に詰め寄った。
それだけではない。必死な様子で獄にぐっと近づいたが、あれもこれもと彼に質問をし続けるので、空却は非常に面白くなかった。近えよちったあ離れろや――警察署から出てきてからこちらのことなど眼中にないにむかっとした空却は、の傍らにあったボストンバッグのチャックを開けて、その中身をごそごそと漁り出した。
「ずっとですかっ? ずっとおてらですかっ? くーこーくんつかまらないですかっ? けーさつのひともわかってくれ――っ、わっ……ッ?」
ボストンバッグからバスタオルを抜き取り、の背後にしゃがんだ空却は、彼女の頭上からタオルを被せた。そのままぐっと後ろに追いやると、は獄からくんっと離れて、後ろに倒れたの後頭部が空却の胸板にこつんと当たる。
そのままの頭をぐしゃぐしゃと拭き始めると、なぜか引いたような目をした獄が空却を見下げていた。
「おッまえ……女の子の荷物ん中勝手に漁るんじゃ――」
「うっせーな。風邪引くよかいいだろ」
「おら、こっち向け」そう言っての片方の肩をぐっと引くと、バスタオルを被ったままのが腰を上げて、じりじりと空却の方に体を向ける。
ようやくと対峙できた空却。バスタオルで見えなくなったの目元を見ようとバスタオルの端を上げると、の充血した目と視線が交わった。
タオルによる影で薄暗く映るの表情はどこか扇情的で、濡れた唇をうっすらと開けた口からは温かい吐息が断続的に漏れている。そんな顔を獄に見せていたかと思うと、空却はさらに面白くなくなった。舌打ちを飲み込んだ空却はすぐさまタオルを下ろして、の目元を隠す。寺に帰るまではずっとこのままだ。
「おい、その子は――」
「同中の女子だ。野次に見つかると面倒だからこのまま寺まで連れて行く」
それ以上語ることはなかった。のボストンバッグを肩にかけて彼女の手を取った空却は、警察署の前に到着していたタクシーに急いで乗り込む。の背中を押して奥に追いやると、空却もそれに続いて後部座席に乗った。
「空却」
ドアが閉まる直前、名前を呼ばれる。まだなんかあんのかよ――怪訝そうに窓の外を見ると、傘を差した獄が背をかがめて空却を覗きこんだ。
「お前、取調室で『どんなとこでも行ってやる』っつったな」
「それがなんだよ」
今となっては、意味のない啖呵を切ったと思う。の前でしょーもねえこと言うんじゃねーよ、と思いながら、空却は獄の次の言葉を待った。
「お前には、こんなどうしようもねえことで俺を雇った息子思いな父親がいる。それに、てめえのために泣いてくれる女もだ」
女、という言い方に空却は口を歪める。獄の視界からを守るようにして胸を大きく張るが、獄は構わないといった様子で口を開く。
「その歳であんだけのことをした漢気は認めてやる。だがな、その体がてめえのだけじゃねえってことだけは忘れんなよ」
「それじゃあ、空厳寺までお願いします」――運転手に向けた言葉を最後に、ばたん、と閉まるドア。重々しいエンジンの音がして、空却とを乗せたタクシーは緩やかに動き出した。
……タクシーに揺られている最中も、獄の言葉はいまいち腑に落ちなかった。後味の悪いものばかりで吐き気がする。そんな中、空却が悶々と考えているところに隣にいるが手をきゅっと握り返してきたので、そんな思考もすぐに切ってしまった。今は、心身ともにぼろぼろになったをどうにかすることだけを考えようと開き直った。
寺に到着する頃には、雨は小降りになっていた。正門にはマスコミが溜まっているかと思い、タクシーから降りた後にすぐ裏手に回った。おかげで、誰とも会うことなく寺の境内に入ることができたが、正堂の前で待ち構えていた灼空と出くわした時は、すぐさま殴られるだろうとそれなりに覚悟していた。
しかし意外にも、「ちゃんをお風呂に入れてあげなさい」とだけ言って、灼空はすたすたとどこかへ行ってしまった。おい、なんだそれ。が泣いていることに対しても何か言われると思っていたので、それも含めてかなり拍子抜けだった。
まあ、痛い思いをしないに越したことはない。つか言われなくてもそのつもりだっつの――気を取り直した空却は、バスタオルを未だに被っているを連れて庫裏へと入る。の制服も雨を吸って色が変わっていたので、その足で風呂に入らせた。セーラー服はハンガーに干させて、着替えとして自分が小学生の頃に着ていた長袖の作務衣を着させた。風呂場から出てきたがその作務衣を着て出てきたとき、大きさがちょうどぴったりだったので、空却はなんとなく不思議な感覚になった。
そして、空却はが昔よく寝泊まりしていた離れに連れていく。髪を乾かしてやっても、は黙ったまま動かなかった。いくら頭をくてんくてんと動かしても、されるがままといったふうに無気力だった。
……ドライヤーのスイッチを切って、空却は再度の顔を見る。風呂上がりだけではないであろう理由で頬は紅潮しており。目の下は水脹れのようにぱんぱんに腫れ上がっている。ひっでえ顔。率直にそんなことを思った空却が保冷剤でも持ってこようとすると、あれだけ人形のように大人しかったが、空却の服をぐっと引っ張った。
「……目ぇ冷やすもん持ってくるだけだ」
ようやく人間らしいことをしたに安堵する空却。しかし、服を掴んだまま離さないは、首をぶんぶんと横に振った。
仕方なし、と息をついた空却は静かに腰を落とす。すると、明らかに体の力を抜いたは、空却が座ったすぐ隣にそそ、と移動して、空却の空いている腕を両手できゅっと掴んだ。そして、とすん、と遠慮がちにもたれかかったの頭を、空却は壊れものを扱うように優しく撫で続けた。
――外では、雨がさあさあと降りしきっている。息が詰まるような無言の空間が嫌になり、が口を開く気配もなかったので、空却はちら、と隣を見下ろした。
「……誰から聞いた」
腕を掴んでいるの手の指が微かに震える。そして、すん、と鼻をすすったは鼻声気味の声でたどたどしくこう言った。
「クラスの、こから……。くーこーくん、こわいひとたち、ぶったってきいて……。それで、すぐに、そと、みたら……パトカーがとまっとって……。それを、ずっとみとったら……くーこーくんが、そとで、けーさつのひととっ、いっしょに……ッ」
「あー分かった。分かったからもう泣くな」
語尾が水気を帯びてきたことに気づいて、空却はの言葉を止めようとする。それでもは懸命に話を続ける。ボストンバッグを持ったまま学校を出て、パトカーを追いかけたこと、しかし案の定すぐに見失ってしまって空厳寺に駆け込んだこと、灼空から、今空却は警察署にいるという話を聞いたこと、灼空が止めたのも聞かずに寺から何キロも距離がある警察署まで徒歩で来たこと――つか、一回うち来とったんかよ。どうりで親父が何も突っ込まねえわけだ、と空却は納得する。
からそんな話を聞かされても、しばらく寺には帰れないと思っていた空却は、未だにどんな面でと話していいか分からなかった。の気持ちを汲んでやりたいと思うが、実際はそれらを跳ね除けるようにして、ふん、と空却は口を尖らせた。
「ちったあ頭使えよ。こんな雨ん中、でけえ荷物持ってサツんとこまで歩くとか頭悪すぎだろーが。お前、拙僧があのまま出てこんかったら――」
どうするつもりだったんだよ。にその先を想像させるような物言いをする空却。すると、せっかく止んだの涙はその言葉を皮切りにして、再びぼろぼろと流れ落ちてきてしまった。
空却がぎょっと目を張ってからではもう遅い。ぶるぶると肩を震わせたはぎゅうぅぅ、と空却の腕に強くしがみついた。
「こッ、わ……っ、か、った……ッ」
ひくっ、とはひゃっくりを上げる。せっかく風呂に入って綺麗になった顔が再び涙で濡れていく。手拭いを取りにいこうにも、がいっこうに腕を離してくれなかったので、空却は立ち上がることもできなかった。
「くーこーくん……ッ、いなくなっちゃうかも、って……すッ、ごく……っ、こわか、た……ッ」
寒い場所にいるかのようにかたかたと震え続けるにかける言葉が見つからない。今にもぼろぼろと崩れ落ちそうな体なのにも関わらず、空却の腕を握る力だけは、の最後の生命力と言わんばかりに力強かった。
「なごや、きてすぐ……っ、おかぁさんがとーとにっ、かえっちゃった、ときもっ……ばあばが、死んじゃったときも……っ、がまんできた……ッ」
ぐずぐずと鼻を鳴らしながら、は縋るような眼差しでこちらを見上げた。
「けどッ、くーこーくんはだめなの……っ。くーこーくんだけは……ッ」
入り混ぜになった感情がせり上げて、の体を容赦なく侵している。自分のせいで泣いていることは分かる。自分のことを想って泣いていることも分かる。止ませてやりたいと思うのに、今すぐ、なにか、どうにかしなければいけないと思うのに、その衝動を体から出そうとする姿を、ずっと、見ていたくなるような。目の前にいるが、とても健気で……あいらしいものに、映った。
「くーこーくんは……ッ、おぼうさんになるんだもんね……っ。ずっと、おてらにいるもんね……ッ。ずっとずっとっ、なごやにいるもんね……ッ!」
はぎゅっと目尻を窄めて、悲痛帯びた視線を向ける。火を浴びたように火照った顔、懸命に動く小さな唇、潤んだ目元、服を掴む細い指と、それから――をつくるすべてのものに体がぐわっと熱を上げて、空却は生唾を飲んだ。
「くーこーくんだけは……っ、どこにもいかないでえぇ……ッ」
――考えるよりも先に、腕が伸びていた。
空却はの方に体を向けて、腕を掴んでいた彼女の手を振りほどく。不安げになったの顔も一瞬のことで、空却はの肩に手を回して、そのまま自分の体へと引き寄せる。最初は強ばっていたの体だったが、すぐさま泣き声が聞こえてくると同時に、彼女の両手が空却の背中にするりと回った。
赤子のように泣きじゃくるにできることが、思いつかない。これだけのものを背負わせておいてもなお、空却は自分がしたことが悪いとは微塵も思っていなかった。
だから、に対して、悪い、とも、もう二度としない、とも言えない。言いたくない。ただ、今のを誰にも見せたくないという気持ちが大半を占めている。
たかが俺のことでこんなになるのな、お前――空却はの悲しみすら独り占めしたいがために、柔らかい彼女の体を強く……強く抱きしめた。
――カヨの葬式以上に長い時間を過ごしたように思う。が声を上げて泣き出してから、どれだけ経っただろうか。いつからか、は電池が切れたようにぴたりと泣き止んだ。寝たのかと思って名前を呼んだら、少しだけ体が動いたので、起きてはいるのだと思う。しかし、泣く体力もその体の中には残っていないだろうと察しがついた。
泣き止んだから、もう大丈夫だろう。それでも……まだ、放したくない。今は、との間にできる少しの空間でさえ、恨めしく思ってしまう。カヨの葬式の時と違って、今はを慰める云々というより自身の気持ちが先行している。たとえ、に放してと言われても、逆に腕の力を込めてしまう自分が簡単に想像できた。
胡座をかいた空却は、膝の中にそのままを収めて、胸の前で彼女を抱きしめる。の涙で濡れたシャツが少しむず痒い。今にも眠ってしまいそうな緩やかな呼吸をの背中から感じていると、遠くの方で時報の鐘が鳴った。もう十八時のようだ。
「……お前、修学旅行どうしたんだよ」
が今ここにいる以上、聞くまでのこともないと思ったが、ふと思い出した。しかし、ここでもらしいというのか、なんというのか――は「ぁ……」と小さく声を上げた。
「わすれ、とった……」
「はあっ?」
「ばす……のったら……ぱとかー、いっちゃうって、おもって……すぐ……きょうしつ、でちゃって……」
思っていた以上にお馬鹿な返答に空却は呆れた。「築地、行くんじゃなかったのかよ」と尋ねてしまったのも仕方がない。あんなに楽しみにしていたのにどういうことだ、と。
空却がそう言うと、は腕の中で体をきゅっと小さくさせて、こちらに擦り寄ってきた。言葉はなかったが、築地よりも自分を選んだのだと聞こえてきて、空却は今すぐこの体をごくんと飲み込んでやりたいような気持ちになった。
ああくそ……。物理的に不可能なその気持ちを発散させるように、空却はのことをさらに深く抱きしめる。の指が肩甲骨をわずかに這うたびに、ぞくぞくとした感覚が皮膚を走った。
「つきじ……」
「あ……?」
「つきじ……くーこーくんにね、たべてほしいもの、たくさんあったの……」
しゅうまい、くしカツ、たまごやき――寝言のように曖昧な声色で、は次々に食べ物を並べていく。それらは、が築地で食べたことがあるものだろう。の思い出の中に、自分の知らないがいると思うと、彼女を築地に取られたような気分になって、空却は拗ねたようにこう言った。
「……築地じゃなくても、名古屋に美味いもんたくさんあんだろ」
そう呟いてから、空却はの顔を覗き込む。顔を覆っていた横髪を指で避けてやると、先ほど以上に目元を腫らしたの黒目に自分の顔が映った。
「今度、お前の好きなとこ連れていってやるからよ」
今日一日で、半生分の涙は流れ出ただろう。もう泣く時間は終わりとばかりに、空却はにとって楽しい話題に切り替えた。
「いっしょに、いってくれるの……?」
「ああ。だから今のうちに行きてえとこ考えとけ」
虚ろな目をしていたの目にやや光が差し込んだ。それでも、頭は未だにぼんやりとしているのか、はかなり遅れてふにゃぁ、と笑った。ようやく、笑った顔が見れた。そして、が甘えるようにすり、と胸板に頬をくっつけたとき、ばくんッ、と空却の心臓が暴れた。
「えっと、えっとねぇ……」の声色がじわじわと明るいものになっていく。それを聞いただけで空却も体がふわっと軽くなって、彼女の頭を指の腹でさわさわと撫でた。
「おーすの、しょーてんがい……」
「あぁ? 商店街ならいつでも行けるだろ。他の場所にしろ」
「てんむす……。しょーがくせいのころに、たべたきりだから……いっしょに、たべたいなぁ……」
そうだっけか。空却が最後にいつ天むすを食べたかを思い出している間にも、「あと、ね……」とが言葉を続ける。
「なごやじょうのまわりに……たべものやさん……たくさんできたって……」
「金シャチ横丁か」
「ぅん……。そこのね……なごやどうふが、おいしいって、ごきんじょさんが……」
名古屋どうふ――いわゆる味噌田楽を想像した空却は、味噌がかかった串豆腐を思い浮かべる。腹の足しにはならなさそうだが、が食べたいのなら、そんなことは些細なことだった。
「……そーだな。豆腐食おうぜ」空却が言うと、うん、と嬉しそうに応じる。「そしたら……」
「かえりに……なごやじょうの……いちばんうえ……のぼっても、いぃ……?」
「天守閣な。あそこ、今工事やってんだろ」
「いつ……おわるかなぁ……」
いつでもいい。が行きたいと思った時で。空却も、遠目で見たことがあるだけで城内部のことはよく知らないが、高いところではしゃぐの姿だけは容易く想像できた。
分かった、と空却が言うと、えへへ、と笑う。「あと……あとねぇ……」眠そうな声色でも、楽しそうなのが伝わってきて、空却は穏やかに息をつく。
「でんきのかがくかんに、プラネタリウム……あってねぇ……」
「プラネタリウムって……星見るやつか」
「うん……」
「星見てえんか」
「ん……。きれいだろうなぁって……」
「お前、途中で寝そうだな」
「ねちゃったら、おこしてくれる……?」
それは分からない。星なら裏山で飽きるほど見ているので、人工物の星よりも、眠っているの顔を見た方が面白そうだから、放っておくかもしれない。ああでも、真っ暗じゃさすがに分かんねーか、と話違いなことを思っていると、何も言っていないのにも関わらず、ふふ、とは笑った。きっと、今のの頭の中は満天の星空でいっぱいだろう。プラネタリウムに行ったら、今度は本物の星を見せてやろうと思った。
それからも、は途切れ途切れに食べたいものや行きたいところをぽつぽつと話していく。空却がその一つ一つに応じていくと、の声がとろとろに溶けていって、舌も回らなくなってくる。後半辺りは何を言っているのかも聞き取れないほどだ。
うとうととしているを寝かせたい反面、からの言葉がもっと欲しいと強請る自分がいた。「」と体を軽く揺すると、「ん……」とは幼い音を漏らした。
「他は」
「ぅ……?」
「食いたいもん。行きてえとこでもいい。なんかあんだろ」
少しだけ身動ぎをしたは、空却の胸板に埋めていた顔を上げた。閉じかけていたの瞼がやや重ためにゆっくりと開いていく。寝ろ、と一言言えば数秒で旅立ちそうな。頑張って起きようとしているその姿が堪らなく健気で、空却は重たい溜息をゆっくりと吐き出した。
「くー……ちゃん……」
ほとんど吐息だった声の中に、懐かしい音が流れ込んでくる。二度と味わえないと思っていた感覚が、空却の体の中を侵食するように満たしていった。
「くーちゃんと……くーちゃんとなら、ね……。わたし、どこでも……」
――声が途絶える。開いたり閉じたりしていた瞼は完全に下ろされて、小さく開けられた口からは、声ではなく寝息が聞こえてくるようになった。
最後、は、自分のことを見て、眠りに落ちた。最初から最後まで、自分のことを思って、話して……今はこうして、この腕の中で、目を閉じている。この感覚を、なんと呼べばいい。どうしたらいい。頭が爆発しそうだ。我慢ならなくなって、空却はの肩に顔を埋める。いつもと違って、そこからはうちで使っているボディーソープの匂いがして、このままうちのにおいにが染まればいいと思った。
学校から警察署まで何キロも歩いて、何時間も泣いて、話して……そのくせ、未だに空却のシャツをぎゅっと握って離さない手を、空却は自らの手で上から包み込んだ。
――「わたしがおらんくなったら、ちゃんのこと、よろしくねえ」
赤く腫れたの目元を、指の腹で優しく撫でる。自分のしたことに、後悔はしていない。ただ、これからは、から離れないような選択をする必要があると思った。が呼んだらすぐに、駆けつけられるような場所にいなければならない。
……そうだ。拙僧なら、を導いてやれる。てめえの道も違わねえ。二度と、が泣かなくても済むように。誰にも、この役目は渡さねえ。と一番長い時間そばにいるのは拙僧だ。そうだ。拙僧の方が、よっぽど――
――「……、このクラスに好きな男子いるんだって」
……の心は、どこに在るのだろう。
ふと、空却は平塚の言葉を思い出した。が、心から惹かれた男。女として、好きになった男。も、いつか、自分以外の誰かの前で、こうして泣いたり、笑ったりする日が来るのだろうか。その男は、自分よりも強いのか。がたいは良いのか、髪の色は、背丈は――モザイクがかった像に向かって、が笑いかけるビジョンを想像して、空却は奥歯を噛み締めた。
――「くーこーくんだけは……っ、どこにもいかないでえぇ……ッ」
……そこまで言っといて、なんで拙僧に好きなやつできたこと言わねえんだよ。
のことだから、いの一番に教えてくれそうなものだった。平塚は同性ということもあるから、まだいい。それでも、の中で、自分はまた特別な位置にいるのだと自負していた。本人に聞いてしまえば簡単だが、から自発的に言ってくれなければ意味がないとも思ってしまう。
夏夜の虫ように、心臓がばくばくと煩い。の体温に侵されているように、今にも熱を帯びたこの体が張り裂けそうだった。もっときつく抱きしめたい気持ちと、の体の骨がぽきっと折れてしまう心配の狭間で、空却は悶々とする。を包んでいる作務衣のごわつきが鬱陶しくなるくらいには、この布の隔たりでさえ煩わしく思った。
遠いようで近いかもしれない、いつかの話――未来にいるが、自分のいない別の道へ歩いていっていったとしても。別の誰かの手を取ったとしても……今、現実のだけは離さぬようにと、空却は自らを殻のようにして、彼女の体を優しく包みこんだ。
――それから二週間後、空却は久々に登校した。
少年院……ましてや法廷に行くこともなく、空却の日常は再び幕を開けた。言葉通り、獄が空却の潔白を証明し、蓮をいじめていた男子らには何かしらの刑罰を下したらしい。詳しいことまでは興味がなさすぎて覚えていない。我ながら、妙な縁に恵まれたと思う。
事が落ち着くまで、空却は二週間の謹慎処分を受けていた。そしてそれは学校内にも広まっていたらしい。空却が教室に着くなり同級生にぶわっと囲まれ、歓迎ムードで迎えられた。
「大丈夫だったか空却!」「サツに捕まらんくてよかったな~!」「謹慎明け祝いとして業後にオケ行こーぜ!」一歩進むにも一苦労で、空却は人の群れを片手であしらいつつ、自分の席にすたすたと向かった。
「おはよ波羅夷!」
「はよ」
いつも通り、隣には平塚がいる。案の定も登校していたが、なぜか机に突っ伏して眠っていた。珍しい。野山の席は空いているが、リュックは机の上に置いてある。彼も、学校にはすでに来ているようだった。
すると平塚が、「ー。波羅夷来たよー」と言いながら、シャーペンのノック部分での背中をつんつん、とつつく。起きねーだろそんなんじゃ。昔拙僧がどんだけ苦労したと――
「あ……っ、波羅夷くんっ。おはようっ」
起きんのかよ。
心の中でに突っ込んでいると、「あのね、波羅夷くんに渡したいものがあってっ」とはせかせかと口を動かす。寝起きのの声は少々枯れていたが、まとわりついた眠気を飛ばすかのように、は机の横にかけていたトートバッグからいくつもの大学ノートを出してきた。
授業でとったやつか? 勉強熱心なこった。空却が他人事のように思っていると、席から立ったはその束をどさっと空却の机にそのまま移した。
「……あ?」
「波羅夷くんがお休みしとったときの、五教科分のノートとプリントだよ」
「あとね、お昼寝に行っとったときのもあるよ」数秒まで寝ていたとは思えないほどの清々しいの笑顔。教室で……ましてや同級生がいる前でこんなにも愛想のいい態度をされるのは初めてだった。
しかし、目の前に置かれたものはまったく可愛くないものだ。空却が汚物を見るような目で、机に置かれたノートやプリントの束をじろっと見る。一冊一冊、一枚一枚は薄いが、それが束となるとかなりの厚みだ。なぜこれをが持っているのかまったく分からない。んでなんでそれを拙僧に渡す。
「わたし、ノート係なの。お休みした子のために自分のノートをコピーして渡すんだよ」
「へぇ。で?」
「期末テストまでもうちょっとだから、いっしょに卒業できるようにがんばろうね」
そう言って、またしてもにっこり笑った。ああ、なるほどな。読めたぞ――伊達にと何年も一緒に過ごしてきたわけではない。の考えていることを察した空却は、はん、と鼻で笑い飛ばした。
「お前馬鹿か? 中学は義務教育なんだから成績残さなくても卒業できんだよ」
「ほんとうはそうなんだけど……。波羅夷くんは出席数が足りんからむずかしいかもって、教頭先生が言っとったの」
「うちは、どーせ脅しだよって言ったんだけど、ったらまるっきり信じちゃってさ~」
平塚が横から楽しそうに口を挟む。馬鹿正直なは仕方がないとして、物申したいのは平塚だ。そう思ったんならもっと強く止めろや。そのうるせえ口は何のためにあんだよ――空却は平塚をじとっと睨むが、は構わず話を進めていく。
「波羅夷くん、国語と社会できるもんね。先生、三教科以上平均点よりも上だったら卒業させてくれるって言っとったから、あと数学か理科か英語、どれか勉強しなかんね」
「はったりだっつっとっただろ。クソの役にも立たねえ勉強なんざする価値ねーよ」
「理科の方がいいかなぁ。覚える問題もあるから、点数取りやすいかもしれんけど、記述も多いから……」
「おい」
「どうしようかなぁ」
すっかり自分の世界に入ってしまった。すると、椅子をガラガラと引いてこちらの席に近づいてきた平塚がこそっと耳打ちをした。
「波羅夷は知らんと思うけどさ。、今まで波羅夷の机の中でぐしゃっとったプリントぜんぶ集めてファイリングしとったんだよ。ノートもコピーだけじゃなくて、要点抑えて一から書き直しとるやつもあるし」
「波羅夷が謹慎くらってから今日まで、ずーっとやっとったみたいだよ~?」そう付け足した平塚の言葉を聞いて、が先ほど寝ていた理由に納得がいった。いや、んなもん知るかよ。が勝手にやったことだろ。せっかく自由になれたってのになんでまた拘束されなかんのだ。
「波羅夷くん」
「なん――」
「クラスのみんなで、いっしょに卒業しようね」
またしてもにっこりと笑う。なんだろう。言葉の圧、とはまた違うものがから感じ取れる。断ればその表情が曇ってしまうような……さらには、このあいだ見た号泣顔が脳裏に過ぎって、空却はぐぐ、と唸る。の言葉が善意の塊という分、余計にタチが悪かった。
「那須野さん強いなあ」「頑張れよくーこー!」修学旅行の班が同じだった男子二人からの野次を浴びる。「うっせーよッ」と声を飛ばしたものの、途端に居心地が悪くなってしまった空却は性急に席を立った。
「波羅夷どこ行くの?」
「あいつどこだ。もう学校来てんだろ」
「あいつってどいつー?」
分かっているくせに。にやにやと尋ねてきた平塚に向かって、空却は渋々、「……要だよ」とぼそっと言う。すると、勝ち誇ったような顔で平塚はにかっと笑った。
「生徒会室!」
同じ校舎の一階。準備室や備品室が密集している教室を通り過ぎ、空却は一番奥にある教室の引き戸をがらがらッ、と開ける。
教室にいたのは生徒一人。黒板を消していた野山要は空却を見るなり、眼鏡の奥にある目をゆっくりと見開いた。
「……んだよ。なんか文句か」
「いや、少しびっくりしただけ」
「謹慎、明けたんだね」要は黒板受けに黒板消しを置いて、静かに教壇から降りる。それ以上空却の来訪を気に留めなかった野山は、机の上に並べられた書類をとんとん、と揃え始めた。
「お前、拙僧の潔白を証明するために署名活動したんだってな」
「天国さんから聞いたの」
「おう」
すると、少し困ったような顔をした要。「そっか」とだけ呟いた彼の手の中で、着々と紙の束が出来上がっていく。そのA4の用紙には細長の四角の欄がいくつも記されており、紙の上部には畏まった明朝体でこう書かれていた。
“波羅夷空却くんの無実を証明する署名のお願い”
空却がしたことは、正当防衛の範疇を超えていた(らしい。自分ではよく分からない)。おまけに、内一人が屋上から飛び降りたことに対して、殺人未遂の疑いが空却にかけられた。空却の潔白を証明する人物としては蓮がおり、言質もとってくれたらしい。しかし、現場の状態を見る限り、加害者自身で飛び降りたというよりも、空却が加害者を引きずって屋上から落としたという方が違和感がなかった。蓮は中傷、空却は無傷、加害者三人は重軽傷――下手をすれば、蓮の怪我についても空却が当事者という話にまで発展するところだった。
しかし、なぜか事は丸く納まった。聞けば、とある生徒を筆頭に、中学校の何人かの有志が署名活動をして、集まった署名を獄の事務所に届けたそうだった。詳しい総計は教えられていないが、空却の訴えを取り下げることができるほどの十分な数だったとは聞いている。
加害者が法で捌けても、その仲介人が罪に問われたら元も子もない。「ガラの悪いお前にしちゃあ、意外な交友関係だったな」と獄に言われても、空却には思い当たる人間がいなかった。
「……貸一だ。色々、世話んなったな」
その“とある生徒”の役職を聞いて、空却はようやく合点がいった。生徒会の活動も役員すらも興味がなかった空却は、今回の件でようやく彼の肩書きを知ったのだった。
「お礼言われるようなことはしとらんよ。俺は有志を募って呼びかけただけ」
「有志ってレベルじゃねえほど人がいたって話だが? 人脈だけは生徒会長サマのそれかよ」
「“元”だよ。それに、書類の作成とか署名集めは他の人がやってくれたから」
「特に――」普段鉄壁のような顔からくす、と笑い声が漏れる。空却が怪訝そうに眉を顰めると、要は誤解を解くようにするに口を開いた。「いや……ごめん。那須野がさ」
「最初は校内だけで署名活動しとったんだけど、これだけじゃ足らんかもしれん、って言って、学外にも行って署名活動してくれたんだ」
「が?」
「うん。波羅夷、かなり顔広いんだね。大須と上前津をぐるぐる回っとったら、かなり署名が集まったんだって」
その辺りであれば、寺の関係のこともあってほぼ顔見知りだ。五百年以上続いている空厳寺の歴史が長い分、檀家や近所の人との繋がりも太く広い。
そんなことよりも――もいたのか。本人からはノートの話しか聞いておらず、署名の話など一切知らなかった。あのが一人ぱたぱたと街中を駆け回り、見知らぬ人間に署名をお願いする姿が目に浮かんで、空却は今更やるせない気分になる。
「それで、那須野が集まった署名を集計してくれとったんだけど、そのときにすごく真面目な顔で、『わたし、どうして名前一個しかないんだろう……』って」
「馬鹿かあいつ……」
「それくらい助けたかったんだと思うよ。波羅夷のこと」
「署名活動で一番頑張っとったの、那須野だから」要は懐かしむように、机の上にあった最後の署名用紙を手に取った。そして、それらを教室の隅にあったシュレッダーに飲み込ませて、スイッチを押す。ガガガガッ、と動き出したシュレッダーによって木っ端微塵になった紙のかすが、下にある透明な受け箱の中にぱらぱらと落ちていった。
「……波羅夷にさ、来栖と友達かって聞かれたとき、俺、即答できんかったんだよね」
「そんなこと聞いたか」
「うん。聞かれた」迷いのない口調で、要は言葉を続ける。
「友達がいじめられとるのに、捨てられた荷物探したり、着替え貸すことくらいしかできんのに、そんなので友達って呼べるのかって思ってた」
「それは蓮自身が望んだことだろ。蓮は自分のせいで他人が巻き込まれんのを恐れただけだ」
「……そうだね」いつもの物わかりがいい返事とはまた違う。納得がいっているように聞こえる要の言葉には、己に対する確かな嫌悪が滲んでいた。
「どちらにしろ、来栖のときは何もできんかったから。今回だけでも、俺にできることがしたかったんだ」
何もできなかった、と思うこと自体が驕りだ。個人の力などたかが知れている。それに、要の言い方だと罪滅ぼしという名の逃げにも聞こえてしまい、やはり空却の中で癇に障る。
……しかし、まあ。万事が解決したところで説教垂れるのも面倒だ。彼なら自分で道を開けるだろうと思い、空却はふん、とうっすら笑った。
「……言いてえことは山ほどあるが、お前の、ダチを想うその心意気だけは認めてやるよ」
「波羅夷にそう言われると、なんだか嬉しいね」
「そう思ってんならもっと表情筋使えや」
「ごめん。わざとじゃないんだ」
ようやく要が頬を僅かに上げると、ちょうど予鈴が鳴った。「そろそろ授業始まるから行こうか」と要に言われるがまま、空却は怠そうに生徒会室を出る。ほんとうはこのままサボりたかったが、このままだとが探しに来るかもしれないと思った。朝見たならばやりかねない。追いかけられるのは慣れているが、灼空とは勝手が違う分やりづらのだ。
生徒会室の鍵を締めている要の横に控えた空却がポケットからガムを取り出す。すると、「さっきの話とずれるんだけど」と要が急に話し出した。
「波羅夷が謹慎になってから、那須野の元気がないから、平塚も全然元気なくてさ」
「あぁ? 年中うるせえだろあいつは」
「表面上はね。平塚、裏でこっそり泣くタイプだから」
ガシャン、と鍵のかかった音が重たく聞こえる。「でも……まぁ、もう大丈夫かな。那須野も」そう言って、要は学ランのポケットに鍵を入れた。
「どういうこった」
「波羅夷が戻ってきたから、那須野も喜ぶだろうなって」
要を認めたはいいものの、その口からの名前が飛び出してくるのはやはり不愉快だ。「……が喜ぶ喜ばねえはお前に関係ねえだろ」と言うと「関係なくはないよ」と小声で呟く野山。あ゙? と、空却は喧嘩腰に聞き返す。それでもなお、要は涼し気な表情でこう言った。
「波羅夷だって、好きな子には笑ってくれとった方がいいでしょ」
……野山の発したものが異国の言葉のように聞こえて、理解が追いつかなかった空却。彼の言ったことを何度も噛んでもいまいち頭に入ってこない。そんなとき、近辺で聞いた同じワードの入った言葉が、空却の頭の中で木霊した。
――「野山くん、ぜったいちゃんのこと好きだよ」
……まさか。
スパークが走ったように体が俊敏に動く。空却の手は要の胸ぐらをぐッと鷲掴み、自分よりも数センチ上にある野山の顔を容赦なく睨みつけた。
「おいてめえ――ッ!!」
「あ~っ! 波羅夷が野山に暴力奮っとる~っ!」
衝動のまま怒鳴り散らかそうと思っていた矢先。廊下から活気の良い声が飛んでくる。今となっては体が硬直するほど拒否反応を起こしている声だ。今の空却からしたら邪魔者でしかない。
「いっけないんだ~いっけないんだっ!」廊下の端から一直線に走ってきた平塚は、空却と野山の間で無邪気に手を叩きながら茶々を入れ始めた。
「だめっしょ波羅夷~っ。せっかく謹慎終わったのにそんなことしちゃあ!」
「まだ殴ってねーわッ! つか何しに来たんだよてめえはッ!」
「ヒマだったから様子見に来たんだよ~。てか、今まだって言った? 言ったよねーっ? ~! 波羅夷が今度こそ捕まるかもだよーっ!」
は? ? 空却が再び廊下の端に目をやると、平塚の言う通りが現れた。反射的に空却は野山の胸ぐらから手を離したがもう遅い。ぱたぱたぱたッ! と忙しない足音が迫ってきて、空却の目の前まで来たは焦ったように平塚に詰め寄った。
「どうしてっ? どうしてあんちゃんっ。署名足らんかったッ?」
「いや、俺が余計なこと言っただけ。波羅夷は何もしとらんよ」
「でも、うちが来んかったら殴られとったでしょ~」
「えぇっ!? 野山くん、空却くんになにしたのっ?」
「那須野には言えんこと」
「てか。それふつーは波羅夷に対して言わん?」
平塚や野山の言葉に聞く耳を持たず、終始あわあわとしている。いらない心配をかけさせるのは御免だと、「……なんでもねーよ」と言った空却は、早々と野山から距離をとった。
「ねーねー。今から教室戻るのだるくない? このまま四人でサボっちゃう?」「俺が先生に説明するからいいよ」全く関係のない話をしだした平塚に、野山が淡々と応じる。その横で、明らかにほっと胸を撫で下ろしているを見ながら、空却は噛んでいたガムをぷーっと膨らませた。
その表情は自分の身を案じていたからなのか、それとも野山の――の言動の裏を掻いている面倒な自分に嫌気が差して、空却は口に含んでいたガムを必要以上の咬力でぐっちゃぐちゃと噛み締めた。
