Episode.11



 何か大きいことをすれば、自分の中にある枷がまた一つ外れると思った。
 深夜に起床し、体に染みついた習慣を黙々とこなす。水行と寺の掃除、猫の餌やり、灼空や他の修行僧と共に朝勤を終えると、空却は寺から逃げるように登校する。正門を潜ったところで灼空の怒声が聞こえるのもいつものことだし、それを無視するのもまた、習慣の一部だ。


 学校の正門を潜り、新しくなったばかりの下駄箱に靴を放りこむ。朝練をしている野球部の声や吹奏楽の音色を通り過ぎながら、空却は長い廊下を大股で歩いた。
 “3-E”という学級表札がぶら下がっている教室には、まだ誰もいない。朝の新鮮な空気に満ちた教室に入ると、空却は自分の席に座り、ほぼ中身の入っていない鞄を机の横にかけた。

「(クソねみ……)」

 あくびをしながら壁時計を見る。まだ六時前だ。昼休憩まで四時間は眠れると踏んで、空却は机の上に突っ伏した。それに、あと数分もすれば新たな来訪者がやってくる。あのまま起きていて、もしも目が合ったりしたら、なんとなく気まずいのだ。そう、なんとなく。たとえ寝たふりでも、しないよりはマシだと空却は思った。
 ……今朝も寝坊せずに来れば、の話だが。

 ――とん、とん、とん

 ちょうど、瞼が重くなってきた頃のこと――誰かが階段を上ってくる音がして、空却の意識は夢から現寄りに傾く。廊下をぺたぺたと歩き、その足音は徐々に近づいてくる。そして、その存在が教室の敷居を跨いだ気配がすると、空却は顔を伏せながらゆっくりと目を開けた。

「あいたぁ……っ」

 どっかぶつけたな。
 大方、教室の隅に置かれているごみ箱につまづいだのだろう。どんくせーやつ……。そう思いながらも、空却は自分の口角が緩みそうになるのを必死に抑えていた。
 それからしばらくして、空却の斜め前の席から小さな物音がする。バッグを置く音、椅子を引く音、教科書を揃えて机の中に入れる音……どれもこれも控えめで、“らしい”と思った。するとじきに、シャーペンが紙の上を滑る音と、教科書かノートを捲る音がぺらぺらと聞こえる。こんなものは、睡眠妨害にもならない。目を開けずとも想像できる緩やかな光景に、空却は安堵すらしていた。
 ……そして、ここから小一時間は、このなんでもない時間が続く。

「(……朝、まともに起きられんかったくせに)」

 空却は三年生になった。と同じ教室で、彼女がつくる静寂の中、空却は今朝も穏やかな微睡みの中にいた。







 四時間眠れる――というのも、あくまで空却の願望に過ぎない。
 との二人きりの時間も永遠とは続かない。しばらく経つと、遠くから生徒の騒がしい声が聞こえてくる。教室に入ってくる同級生もまた然りで、「ちゃんおはよ~」「おはよう~」という挨拶が交わされるのを聞いて、空却は一度目を覚ます。意識はあるものの体を起こすほどの気力はなく、そこからまた二度寝を決めこもうとするのだが、その辺りで決まっていつも邪魔が入る。

おはよ~っ!」
「あんちゃん、おはよう~」

 そう……嵐がやって来るのだ。
 空却のすぐ隣で乱暴にバッグを置く音がして、空却は大きな舌打ちをしたくなる。数分前の穏やかな時間が不愉快な嵐により丸々かっ攫われてしまい、空却は毎度のように苛立ちを覚えている。それだけならまだ許容範囲なのだが――

「波羅夷おっはよ~!」

 メガホンでも片手に持っているのかと言いたいくらい大声で挨拶される。挨拶は大事だ。しかし、見るからに寝ている体制をとっている人間に対してそれはないだろう。
 それでもなお、空却は顔を上げない。上げたら負けだと思っている。平塚という名の台風が過ぎ去るのを待つことに徹する。待つことは嫌いだが、今は特例だ。一年生だった空却ならば即起き上がって怒鳴り散らかしていたが、今の自分は違う。伊達にあの荒行をこなしたわけでは――

「おーはーよーっ!!」
「うッせーな聞こえとるわッ!!」

 がたッ! と音を立てて席から立ち上がった空却は、ちょうど目の前にいた平塚にわっと怒鳴る。いきなり立ち上がった空却を見て目を丸くしていた平塚だったが、すぐさま「波羅夷がたぬき寝入りするからじゃんね~?」と言って、けらけらと笑い出した。
 相ッ変わらず腹立つなこいつ……! 口から飛び出す言葉もなく、ひたすらむかむかする胸を抑えつける。でなければ手が出そうだ。
 すると不意に、振り返ってこちらを見ている前方のとぱちんと目が合う。しかしそれも一瞬のことで、空却と目が合うなり、はすぐに前を向いてしまった。まるで、かくれ鬼から逃げているような反応に、空却は口を尖らせた。
 ……なんだよ。言いたいことあんなら言えよ。

「てか思ったんだけど、波羅夷髪伸びるのめっちゃ早くない? 去年までハゲだったじゃん?」
「ハゲじゃねーわ坊主って言え」

 平塚に応じながら椅子に座り直した空却は、ポケットから出したチューインガムをくちゃくちゃと噛み始めた。

 三学年なってクラスの顔ぶれは変わったが、これと言った変化はほとんどない。時間割できっちり決められた授業が淡々と過ぎていく毎日だ。それに、二学年は家庭都合でほとんど学校を休んでいた空却にとって、今の授業の内容はほぼ分からない。国語と社会がかろうじて頭に入ってくるが、その程度だ。将来役に立つかも怪しい知識など、自ら進んで学ぼうという気にはなれなかった。
 さて、昨年度の学年末テストの成績で決められたこのクラス――E組は最下位から数えた方が早い生徒が集まっており、授業は全員出席している方が珍しいというレベルだ。ちなみに、このクラス替えを経て、平塚とは三年間同じクラスということになる。正直に言うと非常に不快だ。
 理系においては成績優秀ながこのクラスになったことも意外だったのだが、もっと意外だった人間は他にもいた。

「那須野、おはよう」
「おはよう。野山くん」
「野山おはよ~っ!」

 「おはよう平塚」の隣の机――つまりは自分の前の席に静かにリュックサックを下ろした男子。すると、細縁の眼鏡越しに佇んでいる彼の両眼が、こちらを映した。

「おはよう。波羅夷」

 こいつもこいつで相変わらず無愛想だな。
 無表情かつ平坦な声で挨拶をされても、あまり清々しい気分にはならない。これが彼の素なのだろうが、一年の時から抱いている嫌悪感は拭えない。理由なんて知るか。気に食わねえもんは気に食わねーんだよ。
 それでも――先ほども言ったが――挨拶は大事だ。たとえ心底気に食わない相手でも、それは例外ではない。「……はよ」と空却が小さな声で返すと、野山はようやく席に座った。

「那須野。それ、小テスト勉強?」
「うん。そうだよー」
「え!? なにそれ小テストって! うち聞いとらんけど!」
「平塚たちのクラスはないんじゃない」

 教科書を机の中に入れながら、野山は言う。どうやら彼らは数学のことを話しているらしい。数学の授業だけは生徒たちの学力に合わせてこのクラスをまた二つに分けて授業をしており、内容もスピードも違うので話が合わないのは当然だ。と野山は頭が良い方のクラスで、空却と平塚は言わずもがな。そもそも空却は教室にすらいない。つまらない授業になると、屋上かどこかで寝ていることがほとんどだ。こればかりは、寺の掃除をしていた方がよっぽどマシだと思う。
 ちなみに、空却のクラスの数学は一年の時のクラス担任と同じ教師が受け持っている。それと同時に、彼はここのクラス担任でもある。あと数分もすれば、「どこでもいいからとりあえず席座っとけー」というルーズな声とともに教室に入ってくるに違いない。教師といい同級生といい、一年だけの付き合いだと思っていた縁たちがだんだんと太くなっている気がした。

「頭良いクラスは大変だね~。ねー波羅夷ー」

 知るかよ。と野山が数学の設問について意見を交わし合っているのを聞きながら、空却は不機嫌そうにガムを膨らませていた。







 昼食の時間になると、空却は購買へ足を伸ばし、そこで買ったパンを何個か手に持って教室へ戻ってくる。その頃には、いつもならば平塚とが机をくっつけて二人で昼食を取っているのだが、今は平塚しかいなかった。
 ……のやつ、まだ戻ってねーのか。前の授業は数学。空却が無意識に廊下の方に視線を配ると、視界の端で平塚がにやにやと嫌な笑みを浮かべていた。

、野山と一緒に先生のとこに行って質問しとるから遅くなるって~」
「別に何も聞いてねーだろ」

 空却は苛立ちげに席に座って、持っていたパンをぽいぽいと机の上に置く。昼食くらい余計なことを考えずに食べたかったのだが、聞いてもいない……また聞きたくもない情報にまんまと思考が捕らわれてしまった。
 ……なんでよりにもよってクソ眼鏡となんだよ。質問なら他の女子のダチと行けや。空却は八つ当たりするように菓子パンの封を豪快に破いて、剥き出しになった焼きそばパンに齧りついた。「つか、」

「お前らの小学校、紛いなりにも進学校だったんだろ。なんでこんな底辺クラスにいんだよ」

 パンを咀嚼しながら、空却は平塚に尋ねる。すると、意外にも平塚の表情が固まり、彼女は「あ~……」と不自然に目線を泳がせた。

「うちはほら、一年の時からずっとD組だったし、E組に行ってもおかしくないじゃん?」
「あの野郎は。一昨年も去年もA組だったろ」
「波羅夷よく知っとんね? ……あっ、と同じクラスだったからか~」
「関係ねーよたまたまだッ!」

 空却を茶化した平塚は意味深に微笑んだ後、すぐにその表情から笑顔を消した。

「野山は名前の書き忘れとか回答欄ずれとったり……。まぁ、色々あったんだよ。色々ね」
「はッ。猿も木から落ちるってか。だッせ」
「元々ができん波羅夷よりかはマシだと思うけど」
「あ゙!?」
「あ、ちなみにの成績が下がったのは波羅夷のせいだからね~」

 「はあぁぁ?」意味が分からない。なぜの成績が下がったのが言葉すら交わしていない自分のせいにされるのか。ただ単に、去年のが勉学を疎かにしたんだろう。言いがかりにも程がある。
 パンを口に含みながら、空却は特に意味もなく教室の出入り口を見る。すると、「そんなに気になるなら、いい加減と仲直りしたらー?」などと平塚に言われるので、空却はパンを喉を詰まらせるところだった。

「……そもそも喧嘩なんざしてねーよ」
「うそだ~。新学期始まってからぜんぜん喋っとらんじゃん」
が話しかけてこんだけだ」
「それ、波羅夷が話しかけんなって言ったからでしょ?」
「あ? なんでてめえが知っとんだ」
が言っとった」

 最初から知っとったならそう言えや。遠回しで言葉を選んでいた自分が馬鹿のようで、空却は手の中にあったパンを完食する。次の惣菜パンに手をかけながら、空却は一昨年のことを懐古した。

 ――「しばらく、俺に話しかけんな」

 ……言った。確かに言った。一昨年から、が空却の言いつけを律儀に守っているおかげで、今日までとの接点はほぼない状態だ。
 校舎が別々でも、たまにと会っていたのが嘘のようだった。もちろん、空却がの家に行くこともなくなった。去年は荒行を遂行させるために何ヶ月か学校を休んでおり、二年生になって学校に復帰してからも、一年生の時と同様に互いの教室がある校舎が別々のため、の姿を見ることはなかった。
 三年生になり、と同じクラスになっても状況は変わらなかった。挨拶すら交わさず、目が合えばから顔を逸らされる。感じが悪い、の一言に尽きる。しかしまあ、自分の言葉のせいでこうなっているのだから、空却は黙るしかない。正直、荒行の成果かなんなのか……を見ても変な気分になることはなくなったので、普通に話せる自信があるのだが、正直なんと切り出せばいいのか分からないというのが本音だった。
 自分らしく、何事もなかったかのようにこちらからに話しかければいいと思うだろう。ただ、特に用件もないのになんでこっちから話しかけんとかんのだ、とプライドの高い空却は思ってしまい、口を閉ざしてしまう。また、話しかけてこないで、一年以上も前に自分が言ったことなどころっと忘れて、普通に絡んでくればいいのだ、とも思う。そもそも、今の今までから空却に話しかけてきていたので、空却自ら口を開くことはほとんどないのだ。空却から話しかける時点で“らしく”ないのである。
 ――じゃあ、なんて言やあいいんだよ。「もう話しかけていいぞ」ってか? クソダサすぎんだろ。

「ねーねー。なんでそんなこと言ったの? が波羅夷に何かした?」
「てめえには関係ねえことだ」
「あるし。うち、の友達だし」

 たとえ友達だろうと、これは空却との問題だ。外野にとやかく言われるのは現状よりもずっと腹が立つ。空却は最後の一つになったパンに手をかけて、無心でがぶがぶと食べ進めていった。

「何があったのか知らんけど、波羅夷がもう何も思っとらんのだったら話しかけてあげてよ。見とるこっちが悲しくなるわ」

 少し棘のある言い方に、空却は平塚の方をちらりと見た。彼女は色つきリップで艷めく唇をむ、と尖らせながら、まるで悪者を見るような目でこちらをじいっと見つめている。
 ……ふん。誰がなんと言おうと、拙僧はなんも悪くねえ。が素直すぎるのが悪ぃ。平塚の視線を突き返すように空却が廊下の方を向くと、その視界の端で一組のセーラー服と学ランが教室に入ってきた。

「あんちゃんっ。おまたせ~っ」
~! ちょー待ってた~!」

 の緩やかな声がして、空却の心臓がとくんっ、と跳ねる。ほんの少しだけ前方に視線をやると、「お腹すいたねえ」と言いながら、は数学の教科書とノート一式を机の中に入れている最中だった。
 「今日ね~、うちのママがに食べてもらってって言ってたおかずがあってさ~っ」「え! ほんとうっ?」いつものように、女子同士で楽しそうに話をしながら机をくっつけている。仲の良いこった。そんなを盗み見ながら、空却は口の中に入っていたパンをごくん、と飲み込む。
 ……さて、を見ていれば、否が応でも彼女の隣の席にいる野山も、空却の視界に入ってしまうわけで。と一緒に帰ってきた彼もまた昼食の支度をしており、なぜかその途中で、後ろにいる空却に目をやった。涼やかな眼差しに対して、空却は地獄の業火を帯びる目つきで野山を睨む。クソ眼鏡の分際でガン飛ばしとんじゃねーぞ。空却はしばらくの間野山を睨みつけていたが、彼はこちらを見つめただけで特に何も言わず、自分の弁当を持って他の男子達のところに早々と行ってしまった。
 ……まだ何か言ってくれた方が、この胸の内も晴れたというのに。平塚といいクソ眼鏡といい……。余計に靄がかってしまった心境を無視して、空却は食べ終わった菓子パンの袋をぐしゃっと手の中で丸めた。

「空却ー。次の体育、実技テストあるから早く戻ってきた方がいいぜ~」

 同級生の声に軽く手を上げた空却。教室に出て行きがてら、パンの袋をゴミ箱にがさッと投げ入れた。







「――一本ッ!」

 話し声はほとんどなく、畳に叩きつけられる音だけが武道場に響く。分厚く重たい柔道着を身につけた空却は胡座をかいて、目の前で淡々と進行される試合を流し見ていた。

「すげーな野山。これで三連勝だぜ」

 とある男子がそんな独り言を漏らす。一方、空却は自身の連勝数と野山が並んだことに対してちッ、と舌打ちをした。気に食わねえ奴はどこを取っても気に食わねーなクソが。

 野山の家は柔道の道場らしい。幼い頃から、投げ技や固め技を厳格な父親に仕込まれていたのだそうだ。今までも様々な大会に出場しており、それなりの成績を収めているとのこと――言うまでもないが、これらも聞いてもいないのに話されたことだ。平塚に。
 どうりで細っこいわりに体格が良いはずだ。野山を一目見た時に抱いた印象を思い出していると、試合を終えた野山がこちらに向かって歩いてくる。普段は涼しそうにしている白い顔が、今は風呂上がりのように紅潮していた。
 野山は人一人分の距離を開けて、空却の真横に座る。どうやら、空却の傍に置かれていたのは野山のタオルと水筒だったらしい。くそが。自分の機嫌をとるために、なるべく野山の存在を認知したくないが、野山が来たのを見てこちらから移動するのもなんとなく癪で、空却はふつふつと沸き起こる苛立ちを鎮めながら、その場に留まっていた。
 ……授業が終わるまで話しかけるつもりは毛頭なかったが、彼の装いがいつもと違うことに気づいて、空却は無意識に口を開いていた。

「……お前、眼鏡どうした」

 口からぽろりと出た言葉。空却の声を聞いた野山はゆっくりとこちらを見たが、すぐに手元の水筒に視線を落とした。

「……あるよ。試合の時に付けとると割れるから」

 「今はコンタクト」そう言って、野山は開けた水筒を傾ける。彼が上を向いた瞬間、髪の生え際に付いていた汗が首筋へと流れ落ちていくのを空却は捉えた。こんな表情ねえやつでも汗掻くんだな――初めて野山の人間らしいところを見た気がして、空却はそのまま前を見据える。
 どんッ、どんッ――目の前で次々と一本が取られていく。実技テストを兼ねたトーナメント戦の試合は滞りなく進行しているようだ。空却と野山は今の今まで出っぱなしだったので、しばらくの間出番はないだろう。

「……波羅夷」
「あ?」
「那須野のことなんだけど」

 唐突に話しかけられて何かと思えば――野山の口から飛び出してきた名前を聞いた空却は、ぴき、と頭の中にある血管が太くなる感覚がした。

「……てめえの口からの話なんざ聞きたかねえわ」
「どうして?」
「ムカつくからだ」

 しん、と沈黙がその場を支配する。すると、「……じゃあ、カヨさんの話なんだけど」と野山はぽつりと言った。久々に耳に入ってきたカヨの名前に、空却は眉を顰めた。

「お前、カヨばあのこと知っとんのか」
「カヨさんが亡くなる前、よく髪切ってもらっとったから」

 「あと、平塚も」野山は首元に付いた汗をタオルで拭きながら淡々と言う。てめーらもあそこの常連だったのかよ。ということは、学校以外でもと顔を合わせていたのかもしれないと思うと、また胸がむかむかとしてきた。どうあっても、と野山の組み合わせは個人的に地雷らしい。あっという間に平常心がどこかへ飛んでいく。

「カヨさんの葬式の時、俺と平塚も葬儀場にいたんだけど――」
「あぁ? あん時にてめーらなんざ見んかったが」
「平塚がずっと泣いとったから、那須野の前に出られんかったんだよ」

 「がずっと泣かずにいるのにこんな顔見せられん、って」野山は記憶を懐古するように、そっと目を伏せた。

 ――「が無理しとらんかったらいいんだけどさあ。もうちょっと、友達のうちのこと頼ってくれてもいいと思わん?」

 空却もまた、いつぞやに平塚に言われたことが頭の中にふわっと浮かぶ。いくら煩かろうが、鬱陶しかろうが、を友人として大切に思っている彼女の心は本物だ。そのくらいは、普段から平塚を邪険にしている空却も認めている。

「平塚が落ち着いてから、二人で那須野ところ行こうとしとったんだけど、その時にはもう、波羅夷が那須野の隣におった」

 何の感情も読み取れない声色で、野山は言葉を続ける。

「談話室みたいなところで那須野が寝とって、その隣で波羅夷がじっと座っとるの見て、ああ、俺たちは出る幕ないなって」

 「平塚も、同じこと思っとったと思うよ」再び水筒を傾けて水分補給をする野山を横目に、ふん、と鼻を鳴らす空却。あの時のことは、嫌でも覚えている。生気のない目をしながら喪主の役目を淡々とこなし、そのまま深い眠りに落ちたを。正直、二度と見たくない。
 ……の家族でもなんでもない空却は、ずっと彼女の傍にいた。仕方がない。あの時のには、自分しかいなかったのだから。頼れる人間も、と同じ目線で物事を考えられる人間も、自分しか。それに、今だって――

 ――「××××くん」

 ……長らく聞いていない音にモザイクがかって聞こえて、空却は奥歯をぎりっ、と噛み締めた。

「小学校の時の那須野、波羅夷の話ばかりしとったよ」
「てめーにもかよ……」
「“くーちゃん”って――」
「おいそれ以上言うな気持ち悪ぃ」
「そんな同小の俺達よりも、那須野は別の学校の波羅夷を頼った」

 那須野にとって、波羅夷の存在はそれくらい特別なんだと思う
 何様だ、と言いたくなる。実際に口を開きかけたが、喉が震えることはなかった。代わりに、空却は親の仇を見るかのように野山をきッと睨みつけて、また別の言葉を紡いだ。

「……結果的にの話になってんじゃねーか」
「そうだね。ごめん」

 「俺、話すの下手だから」反省のはの字も感じ取れない態度に、空却の機嫌は一気に急降下する。言い訳にすらなってねーんだよぶん殴るぞてめえ――空却は固くした拳を見せつけながら、野山に向かってそう啖呵を切ろうとした。

「――次。波羅夷と野山」

 突然、二人揃って体育教師に名前を呼ばれ、空却は「あ゙ぁ?」と喉を震わせる。少し離れたところにあるホワイトボードに書かれたトーナメント表を見れば、自分と野山以外の名前にバツ印が打たれていた。
 「決勝だぞっ!」「空却ぜってー勝てよ~っ!」「野山も頑張れ~!!」外野からわいのわいのと飛んでくる歓声を聞いて、空却は状況は理解する。出なければよかったと思っていた体育の授業だったが、今隣にいるいけ好かない男をぶん投げる理由が出来たのは好機だ。空却は嬉々としてその場から立ち上がる。

「ちょーどいいわ。てめーのせいで虫の居所が悪くなった始末、つけてもらうぜ」
「波羅夷。目が怖いよ」
「あ゙? 男のくせに怖えとかなよっちいこと言っとんじゃねーぞ」
「男の前に、俺も人だから。怖いのも痛いのも嫌だよ」

 情けねえ。それでも男かてめえ。やはり野山とは人間的に合わないと断定する。「怖けりゃあ辞退してもいいんだぜ」と空却がせせら笑うと、タオルを置いた野山はゆらりと立ち上がった。「でも、」

「女の子の前で負けるのは、もっと嫌だな」
「はあ?」

 野山の視線が不自然な方向を見ていたので、空却もそれに習う。すると、武道場の二階の通路にいつの間にか別の観衆が出来ていた。よく見れば、隣の体育館でバレーボールの授業をしていたはずのうちのクラスの女子達だ。もちろん平塚もおり、その隣にはの姿もあった。
 「野山ふぁいと~っ!!」ぶんぶんと手を振ってエールを送る平塚に対して、軽く片手を上げる野山。空却はそんな平塚からへ視線を合わせると、は体の半分を平塚の背中に隠してしまった。
 ……だから、その態度やめろよ。

「……クソくだんねェ」

 そう言って、空却は指の骨をバキバキッと鳴らした。


 喧嘩も含めて、空却は今まで負けなしだった。
 それが驕りの材料になるには十分で、試合が始まって瞬殺出来ると思いきや、意外にも試合はかなり長引いた。殴る、蹴る、投げ飛ばすという単調なものならばお手の物な空却だが、柔道独自のルールが普段の空却の動きを縛り付けた。
 野山も、長年柔道をやっているということだけあって、試合中の畳は彼の庭のようなものだった。体重のかけ方が頗る上手く、気を抜けばすぐに背負い投げをされてしまいそうになる。何度か固め技も食らいそうになり、なんとか野山のペースから逃げ出して反撃しようとするも、重心が固まったところを的確に狙われて、中々思い通りにいかない。本能で動く空却と違って、野山は頭を使って手足を動かしているようだった。
 クソが。普通の喧嘩なら秒で勝ってんのに――空却がだんだんとイラついてきたところで、授業終了のチャイムが鳴った。ただ、鳴った直後は空却も野山もチャイムの音にまったく気がついておらず、体育教師がわざわざ間に入って止めるというと事態にまでなった。
 結果、試合は引き分けに終わった。あのままやっていても、野山に勝つビジョンはまるで見えなかった。寧ろ、空却が故意的な反則負けをしていただろう(何度拳が出てしまいそうになったことか)。いわば、試合には勝ったが勝負には負けた、というやつになりかねなかった。
 今までの鬱憤を晴らすつもりが、勝敗がつかなかったことに対して空却の機嫌はまたさらに悪くなる。武道場の隅で水分補給をしている野山の横で汗を拭った空却は、またしても武道場の上を見てしまった。
 平塚を含め、クラスの女子がきゃっきゃと話している中、だけはじっとこちらを見つめている。不安そうな、痛々しそうな眼差しで、こちらをまっすぐ見つめている。
 ……こういう時だけなんなんだよ。見んな。こっち、見んじゃねえ。今の自分が男としてとても情けなく思えて、空却は逃げるようにしての視線から目を逸らした。







「波羅夷って手先器用だったんだね~。ちょー意外」
「うるせえ口動かしてねーで手ェ動かせや」

 「え~っ。もっとだべろーよー」枝豆の薄皮を剥きながら、平塚は口を尖らせる。なんで拙僧がこんなちまちましたことやらなかんのだ――そう思いながらも、平塚と同じ作業をしている空却の指の動きは止まらない。
 元々、この調理実習もサボる予定でいたのだ。クラスの皆が調理室へ移動していく中、一人教室の机で突っ伏していると、「波羅夷が手伝ってくれんと時間内にずんだもち作れんのだけど~っ!」と平塚が机をガタガタと揺らすものだから、仕方なく参加してやっている。あと、極めつけは――

 ――「平塚。早よ行かんと遅れるよ」
 ――「あとちょい待って! ねーねー。もずんだもち食べたいよねー? 楽しみにしとったもんねー?」
 ――「えっ? あ……。わ、わたしは……えぇっと……」

 机に突っ伏している空却の頭上で、そんなの声が聞こえる。あ、だの、う、だの言うばかりで言葉らしい言葉を発することなく、ついにはすんと黙り込んでしまった。
 空却は知っている。昨日、が平塚と話していた時に、「明日のずんだもち、おいしいの作ろうねえ」と嬉しそうに言っていたことを。それでも、野山と平塚を入れた四人で仲良く調理実習などやる気が起きない。しかし、三人だけでは手が足りなくなって、中途半端なはずんだが完成してしまうのも想像に容易かった。
 ……二つの気持ちが拮抗し合って、空却は苛立ちげに席を立った。「お! 波羅夷が立ったーっ!」そう言って満面の笑みを浮かべた平塚と驚いたように目を見開いているを一瞥して、空却は教室を出たのだった。

「各班の餅係~。餅つけたから取りにこーい」

 欠勤で来れなくなった家庭科教師の代理で、クラス担任の彼が黒板の前で声を張っている。本来は切り餅を使う予定だったのだが、「ついた餅の方が美味いぞ~!」と言って、学校の備品である臼と杵を使って、もち米から餅を作ろうと言い出した。空厳寺でも、初詣につきたての餅を参拝客に配ったりしているので、その美味しさは身をもって知っている。幼少のも、「くーちゃん、おもちおいしいねえ」と言って、喜んで食べていた。
 ……さて、そんな担任の声かけによって、同じ調理台の対角線側にいたと野山が担任のところに行く。つか、なんで二人一緒に行くんだよ。餅もらいに行くくれえ一人でできんだろーが。誰だ班から二人ずつ来いっつったやつ。
 いらりとした空却は薄皮を剥き終えた枝豆を一度水洗いし、すり鉢に移した後にめん棒でどすどすと潰していく。本来なら空却もずんだよりも餅を担当したかったのだが、調理室に着くなり、「波羅夷はうちと一緒にずんだ作る係ね~!」と平塚に言われてしまい、空却に最初から選択権はなかったのだ。
 とりあえず今は、なるべく二人の方を見ないようにして、空却は枝豆がペースト状になるまで潰す。「波羅夷ー。テーブルがんがん揺れとるからもーちょい弱く~」うるせえ。元はと言えば大方てめーのせいだ黙ってろ。

「もしかして、『なんでと野山の二人がもち係なんだよクソが』みたいなこと思っとる?」
「思ってねーわ」

 近いことを言い当てられて、めん棒を握っている空却の手の力がさらに篭もる。枝豆の薄皮を剥くという仕事が終わった平塚は、他に何をするわけもなく、ただ空却が枝豆をすり潰す様をにこにこしながら見つめていた。

「うちもに言ったんだよー? 波羅夷と一緒にもち係やりなよ! って。そしたら、『空却くん、わたしと一緒はいやだろうから……』って言ってさー」
「おい。今のの真似か」
「似とるっしょ?」

 がしどろもどろに口を動かす時、両手の指をこしょこしょとさせる癖まで再現している。そんなものはいらない。あと、はそんなわざとらしい猫なで声は出さない。結論から言うと似てねえ。二度とすんな。

、自分が波羅夷に何かしたって思っとるみたいなんだけど」
「またその話かよ……」

 昼食の時間に話したことがまた繰り返される予感がして、空却は深々と溜息をついた。枝豆は順調に豆の原型がなくなってきており、潰したての香ばしい匂いが空却の鼻先まで立ち込めていく。

「ねーねー。がなんかしたわけじゃないならなんで話さんの~?」
「てめえには関係ねえっつったろ。外野は黙ってろ」
「外野じゃないし。友――」
「ダチなのは分かっとるわ。大体なんでそこまで口出すんだよ。に聞いてこいとでも言われたか」
がそんなこと言うわけないじゃん。が何もしないし言わんから、うちらがこうやって聞いとるんでしょー?」
「あぁ? おい、“うちら”って――」
「あれ? 波羅夷、野山と話しとらんの? 機会があったらそれとなく聞いてくるよ、って言っとったんだけど」

 あのクソ眼鏡もグルかよ。どうりで体育の時にやけに絡んでくると思った。自分たちのことをが野山に話している事実とその光景を頭の上に浮かべると、今握っているめん棒を折ってしまいたくなった。

 ……要は、話せれば拙僧じゃなくてもいいのかよ。

 いらいら。いらいら。野山といい平塚といい、なんなんだ。が何か言ったわけではないのなら放っておいてほしい。そういうのなんて言うか知っとるか。お節介っつーんだ。拙僧らのことを何も知らねえ部外者が土足で立ち入ってくんじゃねえ。

「余計なお世話だっつっとんだ。拙僧らの問題に他人が口挟むんじゃねーよ」
「だからがず~っと元気ないんだってば!」
「どこがだよ。見てみろ。今もあのクソ眼鏡と話して楽しそうじゃねーか」
「あれはおもち見てテンション上がっとるだけでしょ。なに波羅夷。野山にヤキモチやいとんの? もちだけに!」
「やいてねえっつーのッ!!」

 全く進展のない会話に空却の沸点も限界を迎えようとしている。一方で、むう、と頬を膨らませる平塚もまた同じ気持ちのようだ。お互い喋らない方が身のためだと思い、これ以降平塚に話しかけられても、空却は無視を決め込むことにした。
 「はらいー」「ねえ波羅夷ってば~っ」平塚に何度も呼ばれるが、空却はひたすらに枝豆を潰していく。ほのかに香る枝豆の香りに再びお腹が空きそうになりながらも、空却が想像しているのはずんだもちをはふはふと食べているの顔だった。

 ――「ずんだもち、おいしいねえ。××××くん」

「……、このクラスに好きな男子いるんだって」

 ごりッ――
 めん棒を持っていた手が止まり、空却はすり鉢からゆっくりと顔を上げた。先ほど言った平塚の言葉が全く理解できなくて、したくなくて……空却は頭が真っ白のまま、僅かに口を開けた。

「……は?」
「あっ。そろそろ砂糖と塩入れよっか~っ」

 空却が顔を上げるやいなや、平塚は白々しく調理台を離れた。それでも、空却の手は錆び付いたように動かなくなって、空却は平塚の言葉を反芻していた。
 ……の、好きな男子? 男? いんのか? 知らない。本人から聞いたこともない。今までも、の周りでそういう浮いた話は一度もなかった。いつからだ。このクラスということは、新学期始まってからか。それとも中学上がってからか。もしくは、それよりもずっと前の――
 あらゆる可能性が枝分かれしていき、空却の頭では処理しきれなくなる。絡まった糸のように扱いきれなくなった思考にさらに混乱していると、小皿に入った砂糖と塩を持った平塚が調理台に戻ってきた。平塚はすり鉢の中に砂糖と塩を加えると、「はいっ。じゃあ混ぜながら潰してって~」と言って、空になった小皿を調理台の上に置く。しかし、今の空却はずんだ作りどころではなかった。

「……おい」
「なーにー?」
の好きな男って誰だ」
「うち知らなーい。本人に直接聞けば~?」

 平塚の投げやりな言い方にいらっとする空却。平常心など名ばかりの理性はどこかへ飛んでいってしまい、空却はついに声を荒らげた。

「誰だって聞いとんだろーがっ」
「だから直接聞けばいーじゃんって言っとんじゃん」
「なんでわざわざんな二度手間しなかんのだッ。どうせてめえ知っとんだろッ!」
「知っとったとしても波羅夷に教える必要ないじゃーん」

 「波羅夷には“カンケーない”んだからさっ」「っ~~ッ!!」べっ、と舌を出した平塚を見て、ついに怒りが爆発した空却。おまけに、自分が言った言葉がそのままブーメランで返ってきてしまい、返す言葉が見つからなかった。代わりに目眩がするほど顔が熱くなり、めん棒を持っていた空却は手は爪が食い込むくらい固い拳が出来上がっていた。
 そんな空却を見て気分が良いのか、平塚は悪意のある笑みをによによと浮かべている。

の好きな男子はねえ~。ちょー優しくてぇ、ちょーかっこいい人なんだって~っ」
「んなクソどーでもいいこと聞いてねーよッ!」
「あっれれえ~? 波羅夷、の好きな人気になるのー? じゃあ、に直接聞かんとかんね~っ。と話さなかんね~っ!」
「てんめえ人をおちょくんのもいい加減に――ッ!!」

 ――がッしゃんッ!!
 ガラスが割れたような音、鈍器のようなものが落ちた音――黒板の前で不穏な気配がして、調理室は騒然とする。「えっ!? なに!?」と平塚の声が耳に届く。空却の中にあった怒りも、氷水で急激に冷やされたようにすぐさま鎮火してしまった。
 教師用の調理台付近には、餅をつくための臼がある。そこで、先ほど餅係で呼ばれた生徒達によって人溜まりができていた。臼ではない何かに引き寄せられるようにして群がっている同級生らと教師の中に、の姿はない。
 ……おい、嘘だろ。考える間もなく、空却の体は反射的に動いた。

「ごめんな那須野っ!? 大丈夫かッ?」

 担任の焦燥じみた声が聞こえたのと、空却が床に座り込んでいるを目撃したのはほぼ同時だった。
 ぺたん、と尻もちをついているは折った足膝を両手でぎゅっと抑えている。の周りには皿の破片が散らばっており、の制服にもいくつか破片が付いていた。はその場にじっと蹲って、全く動こうとしない。……いや、動けないのだ。体をぶるぶると震えさせて、何かに耐えているようだった。
 「え、え? なに? ちゃんどうしたのっ?」「杵の先端が机に乗っとったお皿に当たって――」「先生が杵を台に置いた時だよ」「え、じゃあ先生が……?」「ちがうよ。さっき誰かが皿の位置変えとって――」羽虫のようにひそひそと聞こえる声が鬱陶しい。空却の眼中には座り込んでいるしか見えないのに、長らく呼んでいなかった名前が口から出ず、肝心の足もそこから動こうとしなかった。
 今まで守ってきたプライドで出来た鎖が、空却の喉と足を封じていた。ただ、が足膝を抑えている手の指の間から嫌な赤色が滲んでいるのを見て、空却はようやく我に返る。
 ――ふざけんな。そう言って、空却は己の中にいた過去の自身を殴り飛ばした。

――ッ」
「先生、那須野を保健室に連れていくから、ずんだもちは各班で先に食べておいてくれ」

 担任によって空却の声が遮られる。おまけに、の姿が彼の背中に覆われて見えなくなった。ただ、担任がの肩に手を回して、俯いているの顔を覗き込むようにしていることだけは分かって、それを見た空却はぞわッと鳥肌が立った。
 「那須野、大丈夫か? 立てるか……?」の耳に彼の顔がくっつくのではないかという距離で、担任は小声でに様子を尋ねていた。

「(距離が近えんだよ……)」

 ふつふつと煮えたぎる憤りは、今までの比ではなかった。の体にべたべた触っとんじゃねえ。教師といえど他人以上の距離感にむしゃくしゃとして、空却が担任からを引き離そうと一歩踏み出した時だった。

「――俺が行きます」

 清涼感のあるすうっとした声が空却の耳に届く。全校集会の校長の声よりも耳通りが良く、空却は不覚にも注意を奪われた。
 空却の真横から現れた別の人間を視界に捉える。声の主である野山は、の傍に片膝をついて、凛とした眼差しで担任と目を合わせていた。

「俺、那須野の隣にいたのに庇えなかったので」
「いや、しかし野山のせいじゃ――」
「男子の保健係、俺なんで」
「でも、那須野も女子だし、男子が付き添いってのはちょっと――」
「いってきます」

 担任の声をすべて遮り、有無を言わさない野山はを担任から引き剥がした。
 野山に支えられながらよろよろと立ち上がる。肩からはらりと落ちた横髪の隙間から、彼女は苦痛と困惑とが入り交じった眼差しで野山を見上げていた。

「の、野山くん……? わたし、先生とでも――」
「いいから」

 「腕、掴まっといて」「う、うん……」はよた、よた、と片足を庇いながら、調理室から出て行った。本来なら野山の役割を担っていたはずの空却は、その二人の後ろ姿をただ呆然と見送るだけ。の足膝に深く刺さった破片が目に焼き付いて離れなかった。

「(くそ……っ。くそ……ッ!)」

 今、空却の中にあるのは怒りでも悔しさでもない。今まで変な自尊心に捕らわれていた己の不甲斐なさだった。
 「み、みんな、餅行き渡ったか?」未だに動揺している担任の声を通り過ぎ、空却はと野山の代わりに皿に乗った餅を持って、平塚のいる調理台に戻る。今自分がやることだけを、今にも調理室から出て行きそうになる体にこれでもかと言い聞かせながら。
 すると、平塚もまた先ほどの空却同様、その場に呆然と立っているだけだった。てっきり、「うちらも保健室いこーよッ!」と騒ぎだすかと思ったので、意外と言えば意外だった。

「なんであんなことできんの……?」
「あ……? 今度は何の話――」
「そこまでして女子に触りたいわけ……?」

 「マジでサイテーすぎ……」独り言を吐き出しながら嫌悪を露わにした平塚の表情を見て、空却は眉を顰める。あまりにも態度が豹変した平塚だったが、「あんずちゃんっ。あとでちゃんのお見舞い行こっ?」と他の女子に声をかけられると、「うんっ。行く行くッ。あっ、あとずんだもちも持ってかんと――」といつもの平塚に戻っていた。
 ……空耳でも、幻覚でもない。さっきの、誰に言ったんだ。特に意味もなく、空却はと野山が出ていったドアを見つめる。次にそのドアが開いたのは、皆がずんだもちを食べ終えて後片付けを始めた頃、野山が一人で調理室に戻ってきた時だった。







 一部新しく補修されたコンクリートや、何があったか忘れたが何かしらは建っていたところが平地になっている様を見て、空却は諸行無常の心に浸っていた。
 学校から空厳寺へ続く帰路――から少し逸れて、何年かぶりに歩く道とその風景を味わう。ランドセルをがしゃがしゃと揺らす二人の小学生が空却の横を通り過ぎ、前方に躍り出た黒と赤のコントラストを見た空却は懐かしげに目を細めた。
 鉄板入りの鞄の他に、手元でがさがさと揺れているのはビニール袋。中身はタッパーに入っているずんだだ。「波羅夷、どうせこの後んち行くでしょ! うちの代わりにこれ持ってって!」と平塚に押し付けられるものでもある。
 業後、平塚が他の女子を連れて保健室に行こうとしたのだが、皿の破片が足膝に思いのほか深く刺さってしまっていたらしく、あのあとすぐに病院に行ったのだと、戻ってきた野山が平塚と話しているのを聞いた。見舞いに行けなかったのが余程悔しかったのかなんなのか……タッパーを渡した時の平塚がひどく悔しそうな顔をしていたのを覚えている。
 なんとなく、に会う口実を平塚に作られてしまった気がして、空却は未だに釈然としない。今度こそ、この足は自分の意思で動いている。人として、怪我した人間を心配するのは当然だろ。付き合いの長いなら尚更だ。
 そんな言い分を頭の中で巡らせていると、あっというまに馴染み深いサインポールが見えてきた。

「(……やけに騒がしいな)」

 玄関口がある路地に入ろうとすると、そこから猫の鳴き声がにゃーにゃーとひっきりなしに聞こえてくる。餌でも待っとんのか――空却は歩幅を変えずにそのまま路地に侵入すると、玄関口の手前の方で大きな人影を捉えた。
 「しっ、しっ! あっち行けッ」怪訝な手つきで、その影もとい男は足元にいる猫に向かって声を上げている。一方、何匹もいる猫らは玄関口に行かせまいと言わんばかりに一列になって壁をつくり、に向かってシャーッ! と威嚇をしている。見知らぬ男なら拳が出ていたところだが、その男はなぜかうちの担任だった。
 ……なんだこれ。ここにいる野良猫は皆温厚で、幼い頃から空却との足元でうろつき回る猫ばかりだった。こんなふうになるのを見るのは初めてだ。意外にも人見知りだったのか、それとも――

「……何やってんだ」

 薄闇の中に芯のある声を響かせると、大袈裟に肩を揺らした担任はこちらをぐるりと振り向いた。「な、なんだ。波羅夷か……」明らかに安堵した表情を浮かべた担任。威嚇を止めない猫達を一瞥した空却は、そんな彼を見て目を細めた。

「大層嫌われとんな」
「昔から、動物とは相性が悪くてなあ」

 担任はそう言って苦笑しながら、自らに威嚇している猫を邪険な眼差しで見下ろしている。
 「で、波羅夷はこんなところまでどうした? ここは那須野の家だが」知っとるわ、と言いそうになったのをぐっと堪え、空却はタッパーが入っているビニール袋を彼に見せつけた。

「平塚の代わりにずんだ届けに来ただけだ」
「ずんだ――あぁ、家庭科の授業で作ったやつか」

 「那須野、甘いもの好きだからなあ。平塚も相変わらず友達思いだ」そんくらい知っとるわクソが。一年の時のシュークリームごときで餌付けしたと思っとんじゃねーぞ。これもまた口から飛び出そうになったのを、空却は寸のところで留める。もしも空却が猫であれば、足元にいる彼らと共に彼に対して威嚇しているところだった。
 そんなことを思っていると、空却の方へごつごつとした大人の手が伸びてくる。何もない手のひらを見せられて、空却は怪訝そうに担任を見上げた。

「……なんだその手」
「家庭訪問のついでに、俺が那須野に渡しておこう」

 「那須野も、波羅夷が急に家に来たらびっくりするだろうからな」一年の頃に嫌というほど見た、人の良い笑みを浮かべながら担任は言う。彼は、自分とが文化祭の時くらいしか関わりがないと思っているのだろう。中学に上がる前から、どれだけの長い時間を彼女と重ねてきたのかも知らずに。

「……拙僧が持ってきたもんだ。拙僧が直接渡すのが筋だろ」
「そういうところだけ真面目にならなくてもいいんだぞ。俺も、那須野にはきちんと謝らなきゃいけないし」
「いいです大丈夫ですって言うだろうぜ。よかったな。あいつに保護者がいなくてよ」

 すると、途端に担任の顔色が変わり、「……波羅夷、那須野と知り合いだったのか?」とおずおずと尋ねるような口調で言う。一方、空却はスカジャンのポケットに入っているの家の鍵を指で弄びながら、彼を刺すように睨みつけた。

「ここいらの猫は温厚っちゃあ温厚だが、縄張り意識が強えからよ。こんだけシャーシャー言われとったら、無傷で帰れねーかもな」

 ――どれだけ沈黙していただろう。空却は終始担任から目を離さなかったが、じきに、彼はやれやれ、と言った風に肩を竦めて溜息をついた。「じゃあ、これも一緒に渡してくれるか? 今日のおしらせだ」そう言って空却にA4サイズの封筒を差し出す。空却は奪い取るようにそれを受け取ると、また明日な、と彼は社交辞令の挨拶を残して、路地から去っていった。
 ……足音が遠ざかって、全く聞こえなくなったのを確認してから、空却はようやくポケットから鍵を取り出す。あれだけ騒がしかった猫の鳴き声はぴたりと止んでおり、彼らは何事もなかったようにその場で毛繕いをしていた。


 久々に入ったの家は何も変わっていなかった。匂いや雰囲気、ものの位置まで空却の記憶にあるものそのままだった。
 ただ、肝心の家主がいない。靴はあるので病院からは帰ってきているはずだが、家のどこにもいない。居間を覗いてもいないし、二階にある客間との部屋――さすがに入ってはいないが気配だけでいないと分かった――にもいなかった。
 どこ行った、と二階で首を傾げていると、一階から水音が聞こえてきて、空却は一度上がった階段を軽いステップで下っていく。

「(洗面所か?)」

 再び一階へ降りた空却は、長い廊下を歩いて水場のある洗面所へ向かう。ちょうど水音も止んでおり、がたがたと物音もし始めたので、空却は内心息をつく。なんだ、いるんじゃねーか。まさか転んでねえだろうな――調理室で見た、あの足膝の怪我を思い出しながら、空却は洗面所の前にある仕切りのカーテンをしゃッ、と開けた。

「ひゃぁっ……!?」
「んなッ……!?」

 空却の目の前に飛び込んできたのは、せっけんの香りがする湯気と一糸まとわぬ姿の。そんなを見たのはほんの一瞬で、空却はすぐさまカーテンを閉めた。そして、廊下の壁に背中を預けながら、久々にけたたましく鳴り出した心臓を落ち着かせていた。
 ……そうだ。忘れていた。の家は風呂場と脱衣所が一緒になっているのだった。幸い、の体の前はバスタオルで隠されていたので見ていない。何も見ていない。ただ、が横を向いていたせいで、細い肩や脇腹、そしてふっくらとした臀部のラインが目の奥にまで焼き付いてしまった。……いや、やめろ。今見たことは全部忘れろ。空却は自身の両目を片手で強く抑えた。
 そそくさと逃げてしまった平常心を取り戻そうと、空却はその場から立ち去ろうとする。しかし、洗面所に背中を向けたせいで、カーテンの奥から別の手が伸びていたことに気づかなかった。

「おっ、おい……ッ!」

 伸びてきた小さな指は空却のスカジャンの裾を掴んで放さない。放そうと引っ張っても取れない。くっそ……ッ! 未だに動揺している空却は渾身の力を込めてスカジャンごと強く引っ張ると、あろうことかカーテンの奥からが飛び出してきた。

「ぁ……ッ」

 の濡れた髪の先端から水が跳ねて、空却の頬に水滴が飛んでくる。先ほどのと違って、風呂上がりである彼女の体は一枚のバスタオルで巻かれており、タオルの端は片手で留められていた。
 それでも、ほぼ裸体なのは変わりない。水に濡れて艶めいた髪、水分を含んでぽってりと膨らんだ唇、僅かな膨らみが分かるところまで晒された胸元、白い柔肌、潤んだ瞳――一目だけで入ってきた情報量に、空却の全身が業火のように燃え上がった。

「なッ……にやっとんだ放しやがれッ!!」
「はっ、はなしたら空却くん帰っちゃうと思ってぇ……ッ!」
「まだ帰んねーよ居間戻るだけだッ!! あと服着ろやッ!!」
「い、居間に行くならいっしょにもどろっ……? 体拭いたらすぐに行くからっ……!」
「ちったあ俺の言うこと信用しろっつのッ! あとんな格好で出てくんじゃねえッ!!」
「なっ、ならカーテンの前で待っとって……っ? ほんとうにすぐだからっ。あっ、洗濯機も回したいからもうちょっと時間かかるかもしれんけど……っ。あっ、おかしもあるよっ。あと、緑茶はないけど麦茶なら出せるから――っ」
「わあったからひとまず服着ろっつっとんだこの馬鹿ァッ!!」







 チィィーン――居間にある仏壇にて鈴を鳴らし、腹から出た声で喉だけではなく体をも震わせる。経を唱えている時は、が話しかけてくることはないし、姿も見えない。おかげで、先ほどまで心に波打っていた動揺もみるみるうちに消えていった。
 ……最後の一文を読み終えて、空却は合掌を終える。正座から体制を崩した空却が体の向きを変えると、部屋の隅で体操座りをしているが救急箱を漁っていた。もちろん、今はきちんと服を着ている。ただ、ハーフパンツから覗く足膝に生々しい切り傷があり、空却は唇を噛み締めた。

「……貸せ」
「え……?」
「ガーゼ貼るんだろ。やってやる」

 そう言って、空却はの正面に座り直したのだが、すぐさま目を見開いた。前まではほんの少し目線を下げればの顔があったはずだったのが、今は頭一つ分くらい下にの顔がある。
 ……見づれぇ。空却はほんの数秒思案した後、詰めた距離を少しだけ離して、適切な間合いを確認する。こいつ、また縮んだのか。いや、拙僧がでかくなったんか――そんなことを思いながらも、空却は表情には出さずに、処置をする手を黙々と動かしていく。

「痛むか」
「う、ううん……。だいじょ――」

 空却の問いに、途中で言葉を止めた。体をぎゅっと小さくさせながら、耳を澄まさなければ聞こえない音量でぽつんとこう言った。

「ほんの、ちょこっとだけ……いたい……かも……」

 ……珍しい。たとえ痛くても大丈夫と言うが、そんなことを言うなんて。あと、“かも”ってなんだ。なんとなく不可解な返事だったが、特に問い詰めるまでに至らなかった空却は「……そうか」とだけ言って、そのまま黙りこんでしまった。

 傷を見る限り、縫合したわけではなさそうだった。足膝に深く刺さっていたという皿の破片も取り除かれており、血も止まっている。あとはかさぶたになって、傷跡が綺麗に消えるのが理想だが、決して小さくはない傷なのでいつまでかかるのか分からない。それに、脱衣所からここまで来る時の歩き方も不自然で、見ていて危なっかしいったらなかった。
 これ、松葉杖とかいるんじゃねーのか。空却は傷の部分にガーゼを当てて、大きな絆創膏を上から貼る。膝が曲げられるかどうか、に都度確認をしながら。

「……ずんだ」
「え……?」
「ずんだ、届けに来た。家庭科のやつ」

 「さすがに餅は固くなるもんで無理だったが」無音の時間が嫌になって、空却は再び口を開く。ちょうど処置も終わったので、アルコールくさい救急箱の蓋もぱたんと閉じた。
 「ずんだ……?」と呟いたが机に視線をやっていたので、空却は足を伸ばして机の上に置いたビニール袋をがさッと手に取る。中からずんだが入ったタッパーを取り出すと、蓋を開けたが「わぁ……」と小さく声を漏らした。

「おいしそう……」
「ほぼ拙僧が作ったも同然だからな」

 平塚は喋っていただけでほぼ何もしなかったし、野山は言葉通り本当に何もしていない。枝豆の薄皮を剥いたのも、すり潰したのもすべて空却だ。あの後、つきたての餅と一緒に食べたが、保健室に行ったと野山のことで頭がいっぱいで、ほとんど味がしなかった。

「小分けのおもちがあるから、今日の夜に食べ――」
「どこにあんだ」
「え……?」
「餅」
「だ、台所の戸棚に――」
「焼いてくる。ここで待ってろ」

 そう言って空却が立ち上がろうとすると、ぐっ、と下から力が加わる。先ほどのデジャヴだと思って下を見れば、案の定、がスカジャンの裾を引っ張っていた。
 何かを訴えようとしているが、「ぁ……ぇ、えぇっと……っ」とうろうろと視線を迷わせている最中、空却の目は震えている彼女の唇に注がれていた。

「あ、あのっ、空却くん……っ」
「なんだよ」
「さ、さっき、話しかけちゃって……ごめんなさい……」

 唐突にそんなことを言われて、空却は思わず「はぁ?」と素の声で言ってしまった。何を今更。今だってこうして話しとんじゃねーか。
 あと、さっきってなんだ。風呂場のことか。先ほどの出来事を思い出していると、の裸体までビジョンとして浮かんできてしまったので、空却は慌ててそれをかき消した。

「一年生のときに、しばらく話しかけるな、って……空却くんに言われとったのに……」
「あ? あ、あー……。あれな」

 今の今まで空却の言いつけを守っていたを責める気にもなれず、空却は頭を捻らせる。どう言ったものか。これ以上の不安を煽るようなことはしたくない反面、理由が理由なので上手い具合に言い換えができる言葉が見つからない。

「おふろ、入っとるときに……玄関の引き戸、開いた音がしてね、おうち入れるの、かぎ持っとる空却くんしかいないって思って、お風呂から急いで上がって、それで……」

 拙い日本語で一生懸命伝えようとするが健気に思えて、彼女の頭の上に手を乗せそうになった。危ない。
 ……そういやこいつ、昔から早風呂だったな、と空却は思い出す。寺にいる時はいつまで経っても出てこないから、「風呂で寝んなよ!!」と言って、何度もドアを叩いたりしていた。そう、風呂場での――

 ――「ひゃぁっ……!?」

 ……また例の件を思い出しそうになってしまい、空却は記憶ごと真っ黒に塗り潰す。がいなかったら、自分の頬を自身の拳で殴っていたところだ。
 すると突如、すんっ、と鼻をすする音がする。何やら嫌な予感がした空却がの方を見ると、今にも涙が零れそうなの目と自分のそれが交わった。

「わたし、空却くんになにかしたかなぁ……?」

 水気を帯びて震えた声で、は空却におそるおそる尋ねる。ぎょッとした空却が言葉を探す暇もなく、彼女は俯きながら口をぽそぽそと動かした。

「一年生の文化祭のときからずっと考えとって……。でも、思い当たることなくて……。あんちゃんと野山くんに相談してもぜんぜん分からんくて……っ」
「相談――って、おい。あの女ならまだ分かるが、なんであのクソ眼鏡に相談なんざすんだよ」
「の、野山くんなら、男の子の気持ちとか分かるかなぁって……」
「あんな野郎に拙僧の心が汲まれて堪るかッ!」

 空却がわっと怒鳴ると、の体がびくうッと震えた。しまった。なるべく穏やかに声をかけるつもりだったのに。の口から野山の名前を聞くだけで全身が怒りで満たされてしまう。もちろん逆も然りだ。
 それよりも今は――目の前のは絶望の淵に立たされたような顔をしながら、おずおずと空却を見上げた。

「ご、ごめんね……。野山くんの話もしちゃかんって言われとったのに……っ」
「お、おい――」
「わっ、わたしが、空却くんになにかしたなら、謝るから……っ。あとっ、空却くんのやなことっ、二度としんって約束するから……っ」

 「だから、だから……ッ」スカジャンに皺ができるくらいぎゅうぅッ、と強く引っ張られる。いかないで、と言わんばかりの必死さに、空却の心臓がまた一段と強く脈打った。
 ……くっそ。空却はがしがしと頭を搔いて、その場に渋々座り直す。はスカジャンを掴んだままだったが、空却が座ったおかげか、先ほどよりも掴む力は弱くなっていた。ただ、相変わらず水の膜が張っているの目はゆらゆらと揺れており、不安げな眼差しを空却に向けている。
 ……嫌な高揚感が背中を這うのを感じながら、空却は細く、静かに、息を吐いた。

「……荒行だ」
「ぇ……?」

 荒行、と聞いてぽかんとする。そして、「あらぎょーって……?」とすぐさま鼻声で尋ねてきた。

「坊さんになるための願かけみてーなもんだ」
「がんかけ……」
「まあ、お前にも分かりやすいように言うと修行だな」

 「しゅぎょう……」先ほどからオウム返ししかしない。いまいち理解できていないような顔をしているが、の口が閉じることはなかった。

「しゅぎょうって、なにするの……?」
「山に篭って人との関わりを断ったり、断食したり……まあ色々だ」
「だんじき……?」
「飯抜くこと」

 「ええっ!」初めて人らしい反応をしたに、空却は口元に微かな笑みを浮かべた。
 の反応を受けて、一気に気が抜けた空却は、片膝を立ててと向き合う。もまた、強ばっていた体が若干丸みを帯びたように見えた。

「二年の冬くれえに拙僧が学校行った時、坊主になっとったろ」
「あ……。このあいだ、あんちゃんと話しとったこと……?」
「お前、知らんかったんか。つか、あいつから何も聞いてねーの」
「わたし、去年もあんちゃんと校舎別々だったから分からんかった……」

 使えねーな。あのクソうるせえ口は何のためにあるんだよ。へらへらと笑うばかりの平塚を思い出して口を尖らせていると、少しだけ前のめりになったが空却にこう問うた。「な、なら……」

「話しかけるな、って、修行のため……?」
「……まぁ、おおむねそうだな」

 偶然、あの時の出来事と荒行の時期が被っただけだが、あくまで“おおむね”なので嘘は言っていない。こじつけでもなんでも、利用できるものは利用した方がいい。は素直だから、ああだと言えば細かいことは気にせずにすべて飲み込むはずだ。
 ……つか近けえよ。風呂上がりのせいか、の体からはシャンプーだかボディーソープだかの匂いがして、空却の頭がぐらりと揺れる。見るな、と思っていても、一年の時と変わらず柔らかそうな唇や部屋着の首周りから少しだけ覗く隙間に目がいってしまう。
 お前、他の野郎にもこんな距離感じゃねえだろーな。特にあのクソ眼鏡とか。と野山が並んでいるのを想像するとまたイライラしてしまう気がしたので、なんとか程々に留めた。

「わたしが、空却くんにやなことしたとかじゃない……?」
「あぁ? された覚えもねえが」
「わたしとおはなしするの、やになったとかじゃない……?」
「別に」
「わたしのこと、きらいになったとかじゃない……?」
「理由もねーのにんなこと思うかよ」

 からの質問攻めに空却が淡々と答えると、彼女はようやく口を閉じた。呆けた顔をしながら視線を少し下げて、「そっ、か……」と独り言に似た音を漏らす。そして、が顔を上げると同時に、彼女の表情の変化が見て取れた。

「そっかあ……っ」

 毒気が抜けたように、とろけた笑顔を浮かべる。目を細め、頬を上げ、自分だけに向けられている表情に、空却は言葉を失った。そして、久方ぶりに味わう、ずんッとした胸の重みに、空却は震える息を吐き出した。
 ……ちくしょう。しばらくなかったってのに……くそ、ほんと、なんなんだ。手元でじゃれている子猫を見た時に似た感情がどろどろと溢れてきて、しばらくの間、空却はの笑顔から目が離せなかった。



 ――空却の目の前には、がいる。瞬きをしたり、口を開けたり閉じたりして、時折指も動かしている。一昔の空却にとっては当たり前のことだったのが、久々にこうして間近で見ると、時間も忘れてじっと見入ってしまう。それもこれも、嬉しそうに、楽しそうに、自身の近況を話すが悪い。一つ一つの話に耳を傾けているふりをしながら、空却の意識はを構成する一つ一つのパーツに集中していた。
 これ以上の幸せはないと言わんばかりに、は笑う。驕りかもしれないが、そう思ってしまうのだから仕方がない。何度も言うが、がそんな顔をしているのが悪いのだ。それに、しばらく見ない間になんとなく……仕草が女っぽくなったというのか、なんというのか……とにかく、それらしい香りもして、空却は何度生唾を飲んだか分からなかった。

「ずんだもち、おいしいねえ。空却くん」

 想像上で思い浮かべただけのが、今、自分の目の前にいる。長らく空虚だった穴がの存在で埋まっていく感覚がして、精神的に満たされた空却は「……そうか」とだけ呟いた。
 あれからというものの、結局二人でずんだ餅を食べることになり、空却は台所にあるトースターで二人分の角餅を焼いたのだった。その時、も行くと言って聞かなかったが、怪我のこともあるので無理矢理居間に居座らせた。
 保存用の餅なので、つきたての餅よりも味は落ちるはずなのだが、こちらの方が断然美味しく感じた。枝豆の香ばしい味が癖になり、空却はあっという間に食べきって、皿の上に割り箸を置いた。

「新学期にはいる前にね、わたし、おうちの近くにあるお地蔵さんにおねがいしたの」
「へー。なんて」
「空却くんと一緒のクラスになれますように、って」

 咀嚼している途中だった餅を喉に詰まらせそうになった空却。えづきそうになったのをなんとか堪えて隣を見ると、箸で摘んだ餅をむにょーん、と伸ばして食べているが口をもごもごさせながらこう言った。

「うれしかったの。同じクラス表に、空却くんの名前があったとき……ほんとうに、うれしかったの」

 ずんだ餅が美味しいわけでもない、自分のことが話せて嬉しいわけでもない――は今、自分と同じクラスになれて嬉しいのだと。そう言って、笑っている。
 ――俺といることが、そんなにも。

「……お前さぁ」

 息を吐くようにして口から漏れた声。無意識に伸びた空却の指は、の頬にそっと触れた。餅が入っているであろう頬袋をむに、と押すと、は目を丸くしてこちらを凝視した。

「一年半、そんなことばっか考えてたのかよ」
「そんなこと……?」
「拙僧がどうのこうのって」

 ぽけーとした顔をしているの顔は、時間差で花が咲いたようにぶわっと赤くなった。ごくんっ、餅を飲み込んだ後、「ぁ、ぇ、と……そっ、その……ッ」と目に見えて分かるほど狼狽える。そこに、考えていない、などという否定の言葉がないのだから、もう何を言っても無駄だというのに。
 ……ほんと、ばかだな。指だけでは物足らなくなって、今度は手のひら全体での頬を包む。そうだ、は馬鹿で、素直で、危なっかしくて、嘘がつけないから、こうして、自分がずっと見ていなくてはいけないのだった。今まで邪な心に隠れて見えなかったものがようやく見えてきて、空却の心がまたさらに温かいもので満ちていく。
 ああそうだ……。本当に、こいつは昔っから――

「(かァわい――)」

 ……ん?
 頭にぱっと思い浮かんで消えそうになった言葉を待て待てと言わんばかりに引っ掴む。突如フリーズした空却を心配してか、「く、くうこうくん……?」とたどたどしく名前を呼んだがこちらをじっと見上げた。
 ……近距離にいるからか、自然と上目遣いになるの眼差しに、空却の視線が縫われる。とても抱き心地が良さそうな小さな体が目の前にあって、腕を伸ばしてその体を引き寄せれば、すぐに自分の体にすっぽり収まってしまいそうだ。今だって、頬に触れている手をほんの少し移動させれば、の体の至るところに――

ッ!」
「えッ。な、なあにっ?」
「餅焼いたらまだ食うかッ」
「お、おもち? あ、う、うんっ。食べるっ」

 の返事を聞いて、空却は彼女の顔を見ずに居間から出た。台所に行って、再び餅を数個取り出し、トースターに並べていく。一番長い時間でタイマーをセットするとジジッ、と古びた音が鳴り始めて、みるみるうちにトースターの中が赤い光に包まれた。
 大きな溜息をどっと吐いた空却は、台所の壁にずるりと背中を預ける。そして、変に力んでいる口角を口ごと手で隠した。ずっと謎だった感情の一つにそれらしい名前が付いて、空却はひどく動揺している。駄目だ。気を抜くと、すぐにまた変なことを考えてしまう。

「(いや、は女子なんだから、かわ……っ、……って、思っても、べつに、変じゃねえだろ……)」

 だから、は、そんなんじゃねえ。足元でじゃれる子猫を見た時と同じようなもんだ。そう言い聞かせながら、空却は居間に戻ることはせず、ジジジ、と絶え間なく鳴り続けるタイマーの音をずっと聞いていた。

 ――「、このクラスに好きな男子いるんだって」

 ……時折、頭の中に過ぎる平塚の言葉が、追い打ちをかけるように空却の胸をぎりっと締めつけた。