Episode.10
蝉の声が校舎に響く夏休み――毎年盆前なると盂蘭盆会の準備に追われるが、空却はここ一週間、念珠ではなく金槌を手に持っていた。ろくな冷房装置のない体育館にて、来たる十月に催される文化祭の準備をするためだ。
もちろん、こんなことは空却の本意ではない。夏休み期間中の文化祭準備は学級委員ともなれば強制参加で、文化祭実行委員とともに体育館の舞台作りや当日のパンフレットの作成などに励まなければならない。寺の雑務が免除になるのは嬉しい反面、非常にだるい。屋上に行ってひと眠りしたい気持ちは山々なのだが、夏休み故に屋上の扉に鍵がかかっていることは、実際に昨日サボりに行こうとして実証済みだ。家にいても、「さっさと学校に行かんかッ!」となぜか文化祭準備のことを知っている灼空に怒鳴られ(おそらく、近所に住む同学年の保護者から話を聞いたのだろう)、街を歩いていても、顔見知りに見つかればたちまち灼空の耳に届く。ここまで自分の顔が広いことを恨んだ日はない。
こうなったら致し方なしと割り切り、やることをやってさっさと帰ろうと思う。しかし、正門前に掲げる看板作りを頼まれている空却の元に、肝心の木材が係から届かない。実のところ昨日からこんな感じで、かなり暇を持て余している。結局、昨日は何もせずにサウナのように暑い体育館にただいただけで終わった。
昨日と同じようならさすがにキレんぞ。つかもう帰っていいか。金槌を手の中でくるくると回しながら、ひたすら生産性のない時間を過ごす空却の元に、一つの足音が近づいてきた。
「あ……あのぅ~、波羅夷く――」
「あ゙?」
視界の端からやって来たのは同学年と思わしき男子。たしか、空却の記憶によると彼は複数いる木材係の内一人だったはず。念願の木材を持ってきたかと思えば、その男子は手ぶらだった。
期待値が一気に降下して、空却は訝しげに眉を顰める。別段、彼自身に不満を抱いたわけではないのだが、「ひぃッ……!」と悲鳴を上げながら、その男子は光の速さで遠ざかっていってしまった。おい、何か用あったんじゃねーのかよ。つか木材どうした。俺は一刻も早く帰りてーんだよ。
すると、男子は他の作業をしていた野山に何やらこそこそと相談し始める。模範生徒のようにいつもぴっしり着ている学ランはなく、自分と同じく半袖のカッターシャツだけの野山。内容までは聞き取れないが、二人の会話の中に自分の名前があることくらいはおおよそ察しがついた。
男子が野山と会話を終えた後、今度は野山が動く。彼が向かったのは、体育館の端で平塚や他の女子とペーパーフラワーの作成に勤しんでいたの元。の隣で片膝をついた野山が、彼女に何やら耳打ちをし、それを見た空却の目はきッと吊り上がった。おい、人前でこそこそすんじゃねえ鬱陶しい。見ているだけで暑苦しいんだよちったあ離れろ。今、金槌を弄んでいる手が滑って野山の後頭部に上手いこと飛んでいかないだろうかと想像するが、空想上で終わった。惜しいことに。
さて、空却の中では準備をサボれないこと以外に苛立っている理由がもう一つある。野山と話し終えたらしい――半袖のセーラー服から覗く腕がやけに眩しい――が、こちらに向かってやってとたとたと歩いて来るのが見えて、空却は金槌を回している手を止めた。
「波羅夷くん」
これだ。
未だ耳に慣れない呼び名に、空却はむすっと顔を顰める。いつからこういう風になったのかはもう記憶の彼方だ。ただ、呼び名が変わった当時もなんだそれ、と聞かなかったわけではない。曰く、「みんながいるときは、苗字呼びのほうがいいかなぁって思って……」とのこと。誰だよみんなって。全校生徒か。要するに、二人だけの時しか下の名前で呼ばないことにしたらしい。意味が分からない。
しかし、がそうしたいのなら、空却がとやかく言うことはない。自由とは誰にでも与えられた権利だ――と頭で理解していても、空却もたかだか十何年しか生きていない少年。気分が悪いことは確かなので、相応の態度として表に出る。
「あの……看板作りは他の子がやるみたいだから、代わりに別のお仕事お願いしたくて……」
気に食わない。おそるおそる話しかけるも、離れたところからこちらの様子を無表情で窺っている野山も、固唾を飲んで見守る外野も。別に取って食ったりはしないというのに、サバンナに放たれた子兎を見守るかの如く眼差しを一斉に浴びる。
さしずめ、自分は捕食者というわけだ。むしろ虎やら豹に食われないよう守ってきたのは自分だというのに。何も知らねえ奴らがしゃしゃって来んな。口を尖らせた空却は、目の前のからふいっと顔を背けた。
「嫌だ」
「えっ」
「んなクソめんどくせーことやってられっか」
空却は床に金槌を放って立ち上がると、その足で体育館をすたすたと去る。「波羅夷くんっ」というの声を背中で受けるも、後ろから追いかけてくる足音をいつものように待ったりはしなかった。
人気のない校舎――吹奏楽の音と運動部の掛け声がよく聞こえてくる。そして、背後から迫るの足音も相変わらずだ。
追いかけてくるならもっと強く引き止めればいいものを、は何も言わずに一定の距離を保ってついてくる。いずれ止まるとでも思っているのだろう。止まって、野山が指示した(と思われる)仕事をすると思っているのだろう。ふざけんな。誰があんな澄ました奴の言うこと聞かなかんのだ。行きたきゃてめえの足で行きやがれ。つか、わざわざそれを使って伝えてくんのがくそ腹立つ。
苛立ちがふつふつと大きくなっていって、空却はさらに足を速める。すると、後ろにいるもペースを合わせてくる。走ってもよかったのだが、そうしたらが転びそうなので、大股の早歩きで留めた。
と程々に距離を取ったところで、途中で見かけた自販機でペットボトルのお茶を買う。そうして引き続き歩いて辿り着いたのは、校舎裏にある非常階段。日陰になっている上に風通しが良いので、良い具合の避暑地となっていた。
空却は階段を数段上ったところに腰掛けてポケットを漁る。指先で摘んだガムを口に放ると、ようやく追いついたが自分を捉えて、こちらに向かって小走りしてきた。
近づくにつれて、の足取りは徐々に重くなる。階段の前に着くと、段差を上ることもせず、彼女はこちらを見上げながらおそるおそる言った。
「あの……」
「なんだよ」
「さ、さっきの続きなんだけどね、」
「ん」
「今日中に看板の材料が準備できんみたいだから、お仕事が終わったらそのまま帰っていいよって……」
「誰が」
は迷ったように目を泳がせた後、聞こえるか聞こえないかの声量で「の、のやまくんが……」と言った。
「なんであいつじゃなくてお前が言うんだよ」
「わたしも、今日は午前中にお仕事終わるから、その……野山くんが気ぃきかせてくれて……」
「何の」
空却は間髪入れずに問う。「ぇ、えぇっと……その……」と、途端に歯切れの悪くなったはじきに押し黙ってしまった。
このままでは埒が明かないと悟った空却は、段差から下りて石畳の上に座る。「ここ。座れ」と自分の隣を手のひらで叩くと、上履きを脱いだが遠慮がちに正座をした。こういう素直なところはまだ変わらないままだ。
「まず第一に、人にもの頼む時はそれ相応の頼み方っつーもんがあんだろ」
「頼みかた……?」
はて、と首を傾げただったが、すぐに察しがついたようでぱっと顔を上げた。
「なにとぞよろしくおねがいいたしますっ」
「却下」
「えぇっ」
「堅苦しいんだよ。もっと身内に言うみたいに言え」
「みうち……?」は謎解きでもしているような表情になって、目をぱちくりしている。そんな難しいことかよ。昔はもっとあれしたいこれしたいって言っとったくせに。
再び沈黙してしまったに痺れを切らして、「あーあ、もう帰っちまうかなァ」と空却はわざとらしく宙を仰ぐ。おまけに立つ素振りを見せれば、体をぴゃっと跳ねさせたがカッターシャツをぐっと掴んだ。
「まっ、まってッ。おねがいっ」
刹那、空却の体から力が抜けて、少し持ち上がっていた腰がすとんと地面に落ちた。「考えるっ。考えるからあとちょっとだけ……っ」困ったように、かと思えば焦ったように……秒単位でころころと色変わりする表情にじっと見入ってしまう。そんなの首元にも汗が伝っていて、その一雫が鎖骨の上をするりと通り過ぎた。
それが、そのままセーラー服の中に滑り落ちたのを見送ると、胸の真ん中にほんの少しだけ影が生まれているのが分かる。男の自分にはないもの――はっと我に返った空却は反射的に目を逸らし、シャツを掴んでいるの手を緩く振りほどいた。
「……さっきの、もいっかい言え」
「さっきの?」
「あぁ」
「えぇっと……。おねがい……?」
再び、心臓からじわじわと沸き起こる衝動が空却を襲う。なんでもできるような、してやりたくなるような……そんな何か。誰でもない自分に対して頼ってくるが、その時だけ親鳥を見失った雛のように見えた。
「……今食っとるガム噛んだら、行ってやる」
「えっ! ほんとっ?」
途端に、花が咲いたように目を輝かせる。「ありがとう空却くんっ」そう言って、足を崩して横座りになった彼女に対して、空却は先程買ったペットボトルのお茶を差し出した。
「やる」
「え? このお茶、空却くんが飲むんじゃ――」
「コーラ買おうと思ったらミスったんだよ。だからお前が飲め」
すると、はまた嬉しそうに笑う。「ちょうど喉かわいとったんだぁ。ありがとう」と言いながらペットボトルを受け取った。だろうな、と思う。体育館にいる時から汗を沢山搔いていたし、水分を摂っている様子もなかったので、買っておいて正解だった。
不思議なことに、といると蝉の声が遠くなる。小学生の頃は大声で話さないと聞こえなかったというのに、今は逆だ。蝉だけではなく、校舎から聞こえてくる音がすべて掻き消されている。今、ここには自分と、の音しかない。話し声、息遣い、服の摩擦……小さな音が空却の耳のそばを頻りに擽った。
そんなことも知らないは、ペットボトルに口付けてこくこくと喉を上下させる。そして、一頻りお茶を飲み終えると、彼女は嬉々として話を始めた。お茶の水分を吸ったの唇は、雨上がりの果実のように色鮮やかに見えた。
「空却くんのところは、出し物はなにするの?」
「休憩室」
「休憩室?」
「両隣のクラスが食い物系の出店すんだよ。だから休憩室」
発案者は誰だったか――空却のクラスは、校舎を歩き回って疲れた人が休んだり、他クラスで買った食べ物の食べ歩き防止のための場所提供として、教室をレイアウトする予定だ。教室にある机と椅子はほとんど廊下に出し、一部はベンチのようにして並べる。そして、燃えるゴミ、燃えないゴミ、空き缶、ペットボトルなどのゴミ箱を設置し、前日のレイアウト準備と当日の午前と午後のごみ捨て当番、そして文化祭後の片付け当番というように役割を分けた。準備と片付けが嫌な者は当日の当番に回り、当日に文化祭をめいいっぱい楽しみたい者は前日と翌日の当番に回る。これがちょうどいい感じに人が分かれたので進行もスムーズだった。展示も寸劇も出店もしない、これ以上にない楽な“出し物”だ。
それを聞いたは、「だからあんちゃん、当日は何もやんなくていいって言っとったんだぁ」と感心するように言った。
「お前んとこは」
「え?」
「出し物。何やんだ」
「縁日だよー」
「縁日ぃ?」
「うん。わなげとか、ヨーヨー釣りとか、ダーツとか、色々するんだよー。あと、お菓子とかの景品も出てね――」
後半からつまらなさそうだったので聞き流すことにした空却。のクラスは成績優秀者が集まっているらしいが、その分“あそび”が足りない。縁日やるならもっと胸踊るゲームやれよ。射的とか。
の話が終わらないうちに、「お前は当日何すんだ」と空却が聞けば、「わたしは茶道部に行かんとかんから、当日はクラスにいないの」と言うものだから、ますます行く気が失せた。
すると、急にそわそわし出したが、スカートのポケットから何かを取り出して、空却にそうっと差し出してきた。
「……なんだこれ」
渡されたのは、“茶会券”という文字が印刷された名刺サイズの紙。裏側に書いてあった、茶会とやらの日程と内容を読んでいると、「それね、茶道部のお茶会券なの」とがぼそぼそと言った。
「先輩が言っとったんだけど、茶道部のお茶会、毎年すごく人気なんだって。それで、当日券もすぐに売り切れちゃうから、部員の子は誰かに渡す用に何枚かもらえるの」
「へー。茶、お前が点てんのか」
「うん。他の子と代わりばんこだから、空却くんが行く時は違う子かもしれんけど……」
そこまで言うと、はっとしたがずいずいと空却に詰め寄った。
「もっ、もしかして、他の茶道部の子からも貰っとったっ?」
「はっ、はあ? もらってねーよ。つか、茶道部の知り合いなんてお前しかいねえし」
突然に距離を詰められて、一瞬だけどもる空却。なぜそんなことを聞いてくるのか謎だったが、「そっかぁ~っ」と聞いた本人は安心しているようだったので、理由は特に尋ねなかった。すぐに離れたを見て、どこか惜しい気持ちが生まれた。
茶会――空厳寺でも講師を呼んで、一般客向けに不定期で催しているものだ。幼少期は無理矢理参加させられて、茶道の作法やらなんやら叩き込まれたが、あんな堅苦しいところは体に合わないため、茶室からよく逃げ出していた。
茶会といえど、所詮学生がやるものだし、寺ほどお堅いものではないだろう。それにもいる。時間を潰す意味では、少しくらい楽しめるかもしれない。
文化祭当日も、特にやることもない。かと言って、行く、と断言するのも憚られて、空却はなんでもないような顔をしながら、その券をズボンのポケットに仕舞った。
「……まあ、気ィ向いたら行くわ」
「うんっ」
とっくに味のしなくなったガムを舌で転がしながら、ぷうっと口の先で膨らませる。噛みすぎたせいか、膨らみが悪くてすぐに穴がぷすっと空いた。しゅん、と萎んだガムを早々に歯でかき集め、ただの練り物として舌の上で弄んだ。
「空却くん、ふうせんガム膨らますの、いつも上手だねえ」何も知らないは、そう言ってほのかに笑った。
元々、その仕事とやらはと野山がやるものだったらしい。なのでが一緒に来るのは必然で、それならそうと早よ言えよ、と空却は思うも、胸に留めるだけで終わった。
仕事というのも、聞いてみれば大したことではない。体育館裏にある段ボールを備品室に運ぶだけだ。古くなって使えなかった機材が入っているらしいそれは三つあって、さして大きいものでもなかったので、空却は段ボールを三つ積み上げた。
ただ、「わたしも持つよっ」と言いながら、自分の周りをちょこまかとするは少し面倒だった。要は手が塞がればいいと思った空却は、「手ェ出せ」と言って、腰についていた念珠をの手のひらに落とした。
「それ持ってろ」
「えっ」
「その念珠、三万すっから。落としたら弁償な」
「えぇっ!」
「さっ、さんまん……ッ」さあっと顔を青ざめさせたは、両手で大切そうに念珠を持つ。ようやく黙った口に満足した空却は三つ分の段ボールをひょいっと持ち上げた。もちろん、値段以外は嘘である。
そんな楽な仕事もすぐに終わった。仕事が終わった旨を文化祭実行委員会の顧問へ報告をするべく、空却はと共に職員室へ足を運ぶ。ドアを開けた瞬間、エアコンによる冷気が正面にぶわっと飛び込んできて、「わあ~……すずしい~」と隣にいるが力の抜けた声で呟いた。
偶然にも、文化祭実行委員会の顧問は空却の担任教師だった。聞けば、彼はのクラスの数学を担当しているらしく、顔見知りなんだそうだ。
そんな担任の机の近くまで行くと、「先生、お仕事終わりました~」とが言う。すると、彼はコーヒーを飲んでいた手を止めて、空却とを交互に見ながら目を丸くした。
「こーれはまた珍しい組み合わせだなあ……。那須野、野山はどうした?」
「今やってるお仕事が忙しいみたいなので、くうっ……じゃなくて、波羅夷くんが代わりにお手伝いしてくれました」
「マジか波羅夷」
「なんだその反応シバくぞ」
ははは、と軽く笑う担任。悪びれる様子が微塵もないのがさらに腹が立った。
「よぉし、ひと仕事してきてくれた二人にはとっておきのデザートをやろう。シュークリームいる人~」
「はあい!」
「いらねー」
空却とがほぼ同時に言う。隣で手を上げたに対して、おい、と突っ込みたかったが、の頭はもうすでにシュークリームでいっぱいだろう。くそが。甘味食いたきゃあ商店街で何か買ったるわ。
そんなことを思っている空却の横で、は担任から小袋に入ったシュークリームを受け取った。「さっき冷蔵庫から出してきたばっかだから冷たいぞ~。みんなには内緒な」「ありがとうございます~っ」そう言ったは笑顔満面。むっかぁ、と胸が焼き焦げるような熱さを覚えて、もう帰ってしまおうかと思う。すると、がちらりとこちらを向いて、担任に聞かれないように、口元にそっと手を当ててこっそりと言った。
「あとでいっしょに食べよ?」
たった、それだけのこと。それなのに、胸のあたりがぎゅっと締まったようになって、空却は言葉を失う。ついでに、先程まで頭の中にあった帰る気もどこかへ消えていた。
その後も、なんともない顔では担任と話していたが、会話の内容はちっとも耳に入ってこなかった。
早く食べんとぬるくなっちゃうから学校で食べよっかあ――そう言ったは、シュークリームを大事そうに両手で持っている(念珠は職員室を出た時に返してもらった)。しばらく校舎を歩いて、渡り廊下にあるくぼみ……非常扉の裏に着くと、は一畳も満たない空間にぺたんと腰を下ろした。
「ここねぇ、クラスの子達とないしょ話するときによく来るんだあ。誰にも見られんからゆっくり食べられるね」そう言いながら、空却くんは座らないの? と目だけで尋ねてくる。少し迷ってから、空却もその場にしゃがんで扉に背を預ける。少し動けば、の腕と自分の腕が当たってしまいそうだ。
狭い。そして暑い。そのせいか、の匂いがぐっと強くなる。香水……いや、制汗剤だろうか。人工的なせっけんの香りだ。不快ではないものの、なんかちげえな、と空却は頭の隅で思った。
「シュークリーム、きれいに半分こにできんかなあ」
「割ったら中身飛び出んじゃねえの」
俺はいらねーからお前が全部食えよ、とは言わなかった。「うぅん……」と唸っているを、空却は無言で眺める。半袖のセーラー服にも、大分目が慣れてきた。
数分考えた結果。結局、シンプルに手で割ることにしたらしい。袋から慎重にシュークリームを取り出すと、は小さく歓声を上げた。の両手でやっとすっぽり収まるくらい、そのシュークリームはかなりどっしりとしたものだった。封を開けただけで、甘い匂いが周りにふわふわと漂っている。
なるべく力を入れないよう、がシューを二つに割ると、割れ目から白と薄黄のクリームがとろりと溢れた。そこに吸いつくようにして、は片方のシューに口付けるやいなや、その瞳の奥がぱっと華やいだ。
「おいしいっ」
「そーかよ」
「うんっ。空却くんも食べやあ~」
のその顔を見るだけで食べた気になれたが、彼女は律儀にもう片方を差し出している。自分の分のシューをはむはむと食べながら。クリームの量が多いのか、シュー生地からはみ出ないように丁寧に食べ進めている。
しかし、こちらに差し出している方のシューからはすでにクリームが零れていて、の指を伝っている。早く取って食べればいいのだが、取った時に自分の指につくのも面倒だなと空却は思った。クリーム付いとんぞ、と言ったら言ったで、慌てたがシュークリームを床に落とすところまで想像できた。
「あっ、クリーム垂れて――」
だから、特別な意味はなかった。
がこちらを向いた時には、すでに空却はの手首を自分の方へ引き寄せていた。そして、首を少し屈めながら、垂れているクリームをの指に沿って舌で掬う。驚いたが手を引っ込めようとしたが、空却は手首を掴んでいる方の手に力を込めて、それを阻止した。まだ食べている途中だ。変に動かれてシャツがクリームまみれになるのは少々面倒だ。
クリームのくどい甘さと、柔らかい皮膚の感触が舌の上で乱れる。の手を滑っていた舌が指先に到達すると、空却はシューをばくりと丸々口に入れる。の指先にもクリームが付いていたので、先端だけ柔く食み、口の中でちゅう、と舐めとった。細くて小さな指の先だった。
……ん。ふつーに美味い。が、やはり甘さがくどい。半分食べれば十分だ。の指から口を離した空却は、シューをもくもぐと咀嚼する。ごくん、と飲み込んだ時には口の中はクリームの味でいっぱいになって、おえ、と軽く吐き気がした。口直しにガムでも噛むか、と空却がポケットを漁った時、不自然に静止しているに気がついた。
「なァに固まってんだよ。早く食べねーとそっちも――」
固まったのは空却も同じだった。目の前のが困ったような、泣きそうな……それでいて、その中にどこか嬉しさがあるような、そんな複雑な表情をしていたものだから。これまでにないくらい顔を真っ赤にさせて、こちらを見上げる目も、うっすらと水の膜が張っている。暑さのせいでないことは、さすがの空却も分かった。
空却は、自分が今にしたことを理解しようとする。変なことをしたつもりはなかった。小学生の頃だって、差し出された天むすをの手からそのまま食べていたし、も何も言わなかった。だから、大丈夫だと思った。……いや、なにが。なにが大丈夫なんだよ。
それもこれも、が変な顔をしているからだ。なんだよ。なんか言えよ。くすぐったかったとか、シュークリーム美味しいとか。なんで何も言わねえんだよ。なんだよ、なんなんだよ。そんな顔で、そんな目で……俺を見るんじゃねえ。
首から上に熱が駆け上がる。の眼差しには、生まれたばかりの淡い熱情が含まれていて、逸らしたくない、と思った。もう用済みになった手首も、離したくない、と思った。そう思っている自身すら理解できなくて、色々な感情が頭の中でせめぎ合って、ぐらりと目眩がした。
夏休みが明けて一週間が経った。九月といえど、世間にはまだ残暑が蔓延っており、汗を拭う日は続いている。そんな中、空却の教室では教師の許可がいるというエアコンを無断で使用し、二限と三限の間にある放課を満喫していた。
今は男女別の保健体育の授業後なので、教室にはまだ男子しかいない。猥談や下ネタで盛り上がっているこの空気のは、おそらく女子が帰ってくるまで続くだろう。
「なーなー空却~」
「んあ?」
数日前に席替えをして、ようやく平塚と離ればなれになった空却。自分の席に座っていると、新しく隣になった男子に話しかけられる。やけに興奮気味な彼を見て不思議に思い、空却は登校途中に買ったジャンプから顔を上げた。
そして、間入れずに空却の目の前に差し出されたスマホ。そこには、男の腹の上で腰を前後に振る全裸の女が映っていた。友情・努力・勝利の世界から一変。ぎょっとした空却はすかさず彼のスマホを叩き落とした。
「いッきなり生々しいもん見せんじゃねーよッ!」
「いってぇッ!!」
空却は隣の男子に拳骨を食らわせる。床に蹲った男子を横目に、一気に取り乱してしまった心臓を落ち着かせていると、ここぞとばかりに教室の男子達が空却の席の周りにわらわらと群がってきた。面倒くさいことになりそうな予感がする。
「空却って、やっぱりうちが寺だからこういうの見ちゃかんの?」「お坊さんに性欲ねーのマジ?」「空却的にはエロいの興味あったりしねぇの?」――次々に浴びせられる質問を一気になぎ払ってやりたい気持ちで満たされる。しかし、彼らを納得させるまではこの嵐は止まないだろうと判断した空却はこう答えた。
「僧侶も一端の人間だ。考えることもしょせん凡夫レベルだっつの」
「ボンプ?」
「ふつーの男ってことじゃね?」
「じゃあエロいことふつーにするんだっ! やべえ~っ!」
なにがやべーんだよシメんぞ。空却がいらりとした空気を同級生らが察することなく、彼らは好き勝手に騒いでいる。空却はその隙にジャンプの次のページをめくると、もうラストのページだった。くそが。空却はジャンプを渋々閉じて机の中へ雑に突っ込んだ。
しかしまあ、彼らが騒ぐのも無理はない。僧侶に対するイメージというのか、偏見というのか……それなりに興味があるのだろう。同じく年頃である空却もアダルトなことに興味がないことはないが、同年代のこういうテンションにはどうにもついていけなかった。
「なーなー。空却はどういう系がいい?」拳骨を食らわせた男子が早々に復活して、性懲りもなく空却の机の上に例のスマホを置く。するとそこには、目がちかちかとするアダルト広告が目立つ、いかにもいかがわしいサイトが表示されている。スクロールをされるたびに霰のない姿の女が目の前に飛び込んできて、空却は思わずぐ、と薄目になる。
……興味が、ないことはない。そう、いくら寺に生まれようと、所詮は空却も凡夫なのである。
「……女に主導権握られんのは、好きじゃねえ」
自分の耳にも聞こえるか聞こえないかの声でぼそりと言うと、「じゃー素人系とか? あ、でもM女も好きそう」「いやいやそこは――」と当人である空却を置いて、彼らは勝手に盛り上がり始める。挙句の果てには、「空却が寝る前におすすめの動画リサーチしとくわ!」などと言い出すものだから、「クソいらねー世話だわ」と一蹴した。人からの好意も、ここまで度が過ぎると悪意にすら思える。
これ以上は付き合っていられない――空却は席を立ち、どこかで一眠りしようと教室を出る。すると、ちょうど別の教室から戻ってきた同クラスの女子の群れとすれ違った。
「あ! 波羅夷~っ!」その中で、大声で名前を呼んでくるのは平塚だ。席が離れてもこうして執拗に絡んでくるのはどうにかならないものか。学級委員の任期が終わるまでの辛抱と思っていたが、この感じだと、役職から解放されても彼女は永遠と付きまとってくる気がした。
「ごめーん! 先行っとって!」平塚はそう言って、一緒に歩いていた女子らに手を振ると、こちらと向き合った。いつもよりも三割増に濃い笑顔が気持ち悪い。
「なんだよ。今から昼寝しに行くんだが」
「波羅夷にいいものあげようと思ってさ~っ」
「あ?」
投げるようにぽいっと渡されたのは、得体の知れない正方形の袋。指で摘めるくらいの大きさで、中身が密閉されているそれは、輪ゴムのような形が表に浮かび上がっていた。
それの正体が分かった空却はまたしてもぎょっとした顔をして、その袋を廊下に叩き落とした。先ほどのデジャヴだ。
「なんつーもん寄越しとんだてめえッ!!」
「女子全員に観賞用で配られたんだけど、うちはいらんから~」
「俺もいらんわッ!」
「うわーっ。ゴムなしとかサイテ~っ。するときは避妊しんとかんよー?」
「こんッの……!!」
馬鹿のように騒ぐ人間がここにもいた。怒りとその他の理由で、何もしていないのに全身が熱い。こちらが拳を出す一歩手前で耐えているのにも関わらず、平塚はけらけらと笑うばかりだ。
「いーじゃん持っときなよ! けっこーちゃんとしたやつっぽいし! あっ、それともお坊さんってそーゆーことしんの?」
「しんかったら俺はこの世に生まれてねーわ」
「じゃあ、波羅夷も女の子の体に触りたいとか思うんだっ! きゃ~っ!」
「“きゃ~っ”じゃねーよいい加減はっ倒すぞッ!」
「ごめんごめん~!」謝る気持ちが微塵も感じられない。平塚は逃げるようにして空却から離れると、「あっ、そーだ!」と思い出すように声を張った。
「業後! 体育館しゅーごーね! 文化祭の追い込み準備!」
「断る」
「“断る”じゃないの強制なの~」
「んじゃーね!」教室へ駆け足で戻っていた平塚を見送ると、ちょうど予鈴が鳴る。空却はチャイムに気を留めず、その足で屋上に向かった。そういや、文化祭明日だったな――そんな今更なことを思い出しながら。
疲れた。
上履きを下駄箱に投げ入れて、地面の上に靴を落とす。時刻は十七時過ぎ――本来であればこの時間まで熟睡しているはずだったのだが、それも一時間ほどしか叶わなかった。
空き教室の一角で人が気持ちよく寝ているところに、「はらい~っ! 授業終わったよ~!」と灼空の怒声並に煩い声が届いた。不機嫌そうに目を開けると、胃もたれしそうな笑顔を浮かべた平塚がいた。なぜこの空き教室にいると分かったのか未だに謎だ。
それからは地獄の時間だった。平塚に無理矢理体育館へ引き摺られて(相変わらず力が強い)、機材運び、舞台設営、椅子並べなど……平塚にこき使われる数時間を過ごした。なぜだろう。普段働くよりもどっと疲れてしまった。こんなことなら盆回りをしていた方がずっと有意義だ。
「(くッそ帰りたくねー……)」
一日を振り返れば、今日はやけに人に絡まれる日だった。どいつもこいつも、とむしゃくしゃしている空却は、ポケットに入っていたガムを噛む。これで寺に帰ったら帰ったで、灼空に掃除だのなんだのやらされるのだろう。堪ったものではない。
靴を履いたはいいものの、空却はそこから動くつもりがなかった。腰を下ろしたまま、ガムをぷうっと膨らませる。夜まで時間を潰すにはどうしたものか。このまま学校にいるにも限界があるし、今の時期の外は暑いだけだし、あとは――
「(……ん家か)」
ポケットの中で、自分の家のものではない鍵が指を掠める。距離的に最も行きやすく、誰にも文句を言われない場所だが、あの家に行くのはなんとなく気が進まなかった。
――「おいしいっ」
――「そーかよ」
――「うんっ。空却くんも食べやあ~」
夏休みの一件以来、とは一度も会っていない。あの時見たの赤らんだ顔が記憶として蘇ってきて、空却はそれを頭の中からかき消すように鞄を殴る。護身及び打撃用に入れている鉄板が手の骨に響いた。
……マジでなんなんだよ。あの顔。照れたんか。なんで。たかだか手ェ舐めただけだろ。つか、嫌だったなら嫌って言えよ。なんで俺がこんなまどろっこしく考えなかんのだ。ああくそめんどくせえ。
「――うんっ。また明日ねえ~」
不意に、向こう側の下駄箱から聞こえてくる女子らの声。その中に、の声が混じっていた。ばくんっ、と大きく動いた心臓が、空却の聴神経を研ぎ澄ました。
……しばらくすると声が止んで、昇降口が静まり返る。どうやら他の女子らは先に帰ったらしく、と思わしき足音が、下駄箱前に敷いてあるプラスチック製のすのこをカタカタと鳴らしていた。姿こそ見えないが、これはが生んでいる音だと漠然と思った。
何もやましいことはないのに、空却は無意識に息を潜めてしまう。ガムを噛むことすら忘れた。今すぐにの顔を見たいような、見たくないような、声が聞きたいような、聞きたくないような――どっちつかずの感情で体がめちゃくちゃになってしまいそうだ。
鬱陶しくて、とても面倒なものだが、それらを捨てられない。自分の体のはずなのに、思い通りにならない理由すら分からなかった。
「ぁ……」
空却の後ろから小さな音が漏れる。振り返ると、向こう側の下駄箱にいたはずのが、上履きを履いたままそこに立っていた。
どくんっ――空却の心臓が一際大きく鳴り出す。驚いたというのもそうだが、理由はそれだけではなかった。頭が真っ白になって、しばらく無言のままと見つめ合っていた。
……これ以上は無理だ。空却はから顔を背けて喉を絞った。
「……なんか用か」
「えっ。あ、その……えっと……」
「お前んとこの下駄箱はあっちだろ」
分かりきったことを言っている。らしくもなく、何か言葉を紡いでいないと、今の空気が吸いづらくて敵わなかった。
「空却くん、まだ学校にいるかなぁって思って……」
「へー。で、わざわざ靴箱覗きに来たのかよ」
「うん……」
すぐに頷いたに、空却は思わず顔を上げてしまった。また何も考えられなくなってしまい、体もろくに動かない。指先ですら、まともに言うことを聞かなかった。
そんな空却の異常事態を知らないは、指の先をもじもじとさせながら口を開いた。
「そしたら……靴だけじゃなくて、空却くんもいたから」
柔らかい語尾で続きの言葉はなかったものの、目の前でふわっと咲いた笑顔を見て、空却は理解した。は嬉しいのだと。
……なにがだ。俺が帰らずにここにいたことが?
そう思った途端、空却の胸がずんッと一気に重たくなる。錨でもぶら下げているような感覚に、空却はから見えないよう、密かに片手で胸を抑えた。
「空却くん、もう帰る……?」
「……あぁ」
また、沈黙が降りる。気まずい。その感覚を覚えているのは自分だけではないらしく、それがまた居心地を悪くさせた。つか、からなんか喋れよ。なんで俺ばっかこんなこと考えなかんのだ。
居心地が悪いのにも関わらず、今ここでと離れることを想像すると、また別の気持ち悪さが生まれた。そしてそれは、沈黙よりも嫌だと思ってしまう。本当に、意味が分からない。
……結局、空却は頭の中にあった複雑なものをすべて放り投げることにした。余計なことは考えず、いつも通りに。そう……いつも通りでいいのだ。
「……なにぼさっとしとんだ。帰んぞ」
空却は邪念を振り切るように立ち上がる。すると、はぱっと顔を明るくさせて、「うん……っ。うんっ。かえるっ」と声を跳ねさせながら、自分のクラスの下駄箱へ駆け足で向かった。
……向こう側の下駄箱で、が支度をする音を聞く。それを聞いていると、胸がまた重たくなる。息がし辛くて、何度でも溜息をつきたくなるほどに。が動くたびに、喋るたびに、表情が変わるたびに……どんどん沈んでいく。その重みは嫌悪というよりも別の何かで、空却にもよく分からなかった。
なんでもいいから、この重みを発散させたい――そう思っていたら、「おまたせっ」と靴を履いたが嬉しそうにやって来たので、そんな思考もかき消された。
空却は、の隣に並んで歩き出す。するとが、「あのね、今日ね、うちのクラスでね――」と楽しそうに話し始めるものだから、家に向かっている途中もこの胸は重たくなる一方だった。
カヨの遺品整理が終わった家は綺麗なものだ。あと、本当の意味で、一人だけになったこの空間にも慣れつつあった。
一学期は、時折こうしての家に上がっては適当に時間を潰していたが、二学期になってからは初めてだ。と話すのも夏休み以来なので当たり前といえばそうだが、学校以外でも、空却はの家付近にはあまり近づかないようにしていた。避けていたわけではない。と会った時に、どんな顔をして、どんなことを言えばいいのかを考えるのが面倒だったからだ。
先に靴を脱いで廊下に上がったは、「空却くん、喉かわいとらん? なにか飲む?」と嬉々として尋ねてきた。学校から家まで歩いている間もずっと笑顔で、今も声が弾んでいる。
「じゃあ……茶」
「麦茶でいいかなあ?」
「おー」の顔をあまり見ないようにして、適当に返事をする空却。そして、靴を脱いだその足でカヨの部屋に向かった。今では居間と化しているそこは、小さな卓袱台と仏壇が置いてあるだけの部屋だ。の祖父にあたる男の写真の横にはカヨが加わっていた。
仏壇の傍にあった鈴を数回鳴らして、合掌。お参りが終わると、空却は手元にあった座布団を二つに折って枕にし、畳の上にごろんと寝転がった。
「(あ゙ー……くそねみぃ……)」
同級生らに猥談を振られて、空き教室で平塚に叩き起されて、そのまま労働をさせられて……今日はとても疲れた。こんな状態で夕方のおつとめなんざやってられっか。サボる気しかない空却の頭の中には、怒り心頭の灼空の顔が思い浮かぶが、文化祭準備で遅くなったと言えばどうとでもなる。なんなら夕飯もん家で食ってくか、とまで考えている。
……かたん、と遠くで聞こえる物音。が立てている音だ。が、こうして手の届く場所にいると思うと、体の中にある引っ掛かりが一つ解けたような気分になる。胸は、まだ重たいままだが。
空却は大きく欠伸をして、瞼を閉じる。微睡み始めた頃に誰かが部屋に入ってきた気配がしたが、目を開ける気力は残っていなかった。
――ふと、睡魔が絡む意識を持ち上げる。その時はまだ夢現だったが、目を覚ましたらすぐ目の前にの顔があったので、空却は早々と現実世界へ呼び戻された。
覚醒した空却が勢いよく上半身を起こすと、懐かしいタオルケットが膝の上に落ちた。今、隣ですよすよと寝ているがかけたのだろう。制服のまま、膝と腕を軽く曲げて、まるで胎児のように眠っている。
「(のくせに驚かせやがって……)」
はぁ、と小さく息をつく空却。小学生低学年だった頃――気まぐれにの家へ漫画を読みに来た時、自分がここで昼寝をしていると、がこうして隣へやってきて、ころんと横になっていた。どこからか持ってきたタオルケットを被って、ご丁寧に自分の方にもかけてくれていた。
……今のに、タオルケットはかかっていない。空却は、もう必要なくなったタオルケットをそのままの体の上へと滑らせた。
大人になっていくにつれて、見えないものも変わっていく――がタオルケットを被らなかったことに特に意味はないのかもしれないが、なんとなく、今日は顕著にそう思えた。子どもだとか大人だとか、今がそういう位置づけに対して不安定な時期というのも分かる。いつまでも子どもっぽいも、そういう異性としての線引きはしているのかもしれなかった。
……あの、が。いつまでも自分の後ろをついて回っていた、あのが。
「(……伸びたな)」
のことをじっと見下ろしていたら、普段見えないところにまで意識が傾く。今までカヨに切ってもらっていたという髪は、カヨが亡くなってからずっと伸びたままだ。いつも肩につくくらいまで揃えられていた毛先は、今は鎖骨辺りまで伸びていた。
「(ほっせぇ髪の毛……)」
手持ち無沙汰の空却は、なにか、指でもてあそびたい気分になる。の頭に手を伸ばし、彼女の髪の間に指を入れてから、そのまま下へすっと滑らせる。一度だけ髪が絡まっているところがあったが、それもすぐに解かれた。それから何度もの髪を上から下へと梳いていく。何の抵抗もなくさらさらと流れる髪……そのくせ、指に吸い付くように纏わりつくものだから、空却は熱の篭った溜息を一つ零した。
――胸が重い。重たすぎる。何度息をついても変わらない。このままでは体が畳に沈んでしまいそうだ。心を落ち着けようと深呼吸をしても、の髪から香ってくるシャンプーだか制汗剤だかよく分からない独特な匂いが鼻に入ってきて、逆効果だった。
「(なんだ、これ……)」
自我が遠のいていく。自分の中の、未知なる感覚が目覚めようとしている。その扉を叩いてはいけないような……それでも、いつかは開けなければならないもののような気もした。
なんだこれ、なんだこれ――重たくなった空却の胸を占めているのは、喧嘩をした後の比ではない高揚感と、と共有しているこの空間を丸ごと呑みこんでしまいたくなるような庇護欲、そして――
「くーちゃん……?」
はっと目を見開く。空却が我に返ると、寝ていたはずのはうっすら目を開けて、こちらをぼんやりと見上げていた。
――「くーちゃん」
幼いの声と重なる。今のは寝ぼけている……そんなことは分かっている。分かっているのに……この手は止まらなかった。
どくっ、どくっ――自分の心臓の音が、耳の傍で聞こえてくるくらい大きくなる。頭の中で警鐘がけたましく鳴り響いている一方で、目の前のこれをどうにかしたいという欲が溢れてくる。
空却の手は、の頬に触れた。指の関節部分で頬をそうっと撫でると、はふくふくと笑って、「くすぐったぁい……」と小さく声を漏らした。
――おちる
胸についていた重たい錨とともに、どぼん、と理性が沈む音がした。そして、邪魔者は消えたと言わんばかりにむくむくと膨れ上がっていく本能。掃除をサボりたいだとか、授業をフケたいだとか……そんな幼稚かつ生易しいものでは、決してなかった。
――「じゃあ、波羅夷も女の子の体に触りたいとか思うんだ~?」
……そうだ。僧侶といえど、男は皆凡夫だ。だから、どうせ触るのなら、という欲も、少なからずあるわけで。
「ん……?」
体重をかけないよう、空却は両膝を立てての体の上に跨る。手前の肩に手をかけてそのまま後ろに倒すと、横向きになっていたはいとも簡単にころん、と仰向けになった。
そして、の顔の横に両手をつく。たったそれだけで、生まれたばかりの征服欲がじわじわと満たされていった。
「……」
水気のない、掠れた声だった。夢から覚め始めているは、曖昧な眼差しでこちらを見つめ返している。なぜ自分の体に空却の影が落ちているのか、なぜすぐ目の前に空却がいるのか……なにも分かっていないような、無垢な表情で。
胸が重い。体が熱い。鼓動が早い――全身に張り巡らされている神経がすべてに向かっていて、彼女がほんの少し身じろぐだけで、体のどこかが爆発したように発熱する。空却は片手を畳から離して、首に張り付いているの髪を避ける。そこは汗でしっとりと濡れていて、またさらにのにおいがむわっと濃くなった。
白い首元が露になる。見るからに細くて、皮膚も薄そうだ。同じ人間なのだから、自分の頭と胴を繋いでいるものと同じもののはずだ。なぜ、のものいうだけで、こんなにも情緒が揺れるのだろう。
……首元だけでは足りない。もっとみたい、もっとさわりたい、もっと、もっと――ぶくぶくと溢れ出す欲求に比例していくように、ずぐん、ずぐん、と胸が重たくなる。重たすぎて、心臓やら肺やらの臓器が腹の深奥まで落ちていきそうだった。
の目の奥に、自分を映す。相変わらずの薄ら眼だ。開けたり閉じたりを繰り返しているので、このままでは再び寝てしまうかもしれない。
……そんな中、の唇はその音を形取った。
「くーちゃん……」
ふにゃ、とふやけた頬をゆるく持ち上げて、その目は幸せそうに細められている。ほんの少しだけ……触れるだけに留めるつもりだった。ただ、夢から現に出てきたが、そう言って、ほのかに笑んだものだから。
自分の中にある、一際太い糸がぶちんッ、と切れる。思えば、それは何かの枷だったのかもしれない。鬱陶しいだけだった重たい胸がひどく心地良く感じるほどの、大事な――
……んなこと、今はどーでもいい
呼吸がさらに荒ぶる。両腕を曲げて、空却が顔を近づける先には、の耳があった。そこに近づくにつれて、独特な匂いが鼻腔にガンガンと響く。奥に潜んだ、本来ののにおいだ。小さい頃によく香っていた、のにおい。乳くさくて、菓子とはまた違う甘いこれが、とても癖になる。
目を閉じた空却は、の耳の裏に鼻先を当てる。自身の喉がぐるぐると鳴っているのが分かる。ふーッ、ふーッ、という獣の呼吸のような音はなんなのかと思っていたら、それは自分の息遣いだと気づいた。
止まりたくない、近づきたい、さわりたい、かぎたい――ついに、空却は我を忘れての体の上にのしかかる。左手はの頭頂部を抱くように抑えて、もう片方の手は彼女の体の上を滑っていた。肩から腕へ、腕から腹へ……セーラ服のごわごわとした感触の奥にある、の体。大きさも、やわらかさも……なにもかもが自分のものと全く違っていて、体の芯が燃えるように熱くなった。
――は、女。そうだ、これは、女の身体だ
俺は男だから、違うのは当然だろ。今まで、何馬鹿なこと思っとったんだ。そんなことよりも、体をまさぐっている最中にも嗅いでいるのにおいに全身が満たされて、頭がおかしくなりそうだ。
……もっとおかしくなりたい。いままで生きてきた中で、いまが、いちばん、気持ちがいい。
「(たァまんね……)」
ぼおっとする頭で、そんなことを思う。一頻りにおいを堪能した空却は、ゆっくりと目を開けた。の耳は、とても小さい。空却が口をわっと開ければ、丸々飲み込んでしまえるくらいの大きさだ。
……なんか、すげぇ……うまそうだ
もっと気持ちよくなりたい。もっと、にちょっかいをかけたい――たとえば、そう……耳の後ろを舐めたり、耳の縁にほんの少しだけ歯を立てたり、耳たぶを唇で挟んだり……。そして、そのままその首筋に舌を這わせたら、いったい、どんな気分になれるのだろう。
ご馳走を目の前にした時のように、口の中が唾液で溢れる。空却は生唾と一緒に荒ぶる息も一緒に飲み込もうとしたが、駄目だった。堪えきれなかった興奮が唇の間から漏れだして、意味がない。昂った熱が抑えきれない。
……抑えんでも、よくね
限界はとうに越している。自分の体が訳の分からない状態になっているのに、我慢をする余裕などない。少し……ほんの少しだけ、甘噛みするだけだ。が痛がらないように、優しく。心の中でそう念じながら、空却はゆっくりと口を開け――
「くーこーくん……?」
ばくんッ!
鼓動が弾けた。夢から覚めたように、空却は体を起こした。勢い余って尻もちを付いてしまったが、それどころではなかった。目の前で、ゆっくりと上半身を起こす。ぽかんとした顔をしながら、こちらをじっと見つめている。
「どうしたの……? なにか、ついとった……?」
昔、は裏山を走り回るたびに、知らないあいだにくっつき草を体につけていた。そのたびに、またかよ、と思いながら彼女の近くまで来ては、ちょいちょいと取ってやっていたのを思い出す。
――「おまえ、またくっつき虫つけとんぞ」
――「えぇ? どこー?」
――「もうとったわ」
――「わあっ。くーちゃんありがとう~」
――違う。今は、そんな理由ではない。そんな、こどもじみた理由では、決してない。
ふわぁ、と呑気にあくびを漏らす。未だ、空却の心音は激しいままだ。
「空却くんがねてるの見とったらねぇ、わたしもねむたくなってまって」
えへ、とほのかに笑う。は、自分がなにをしていたのかも知らないし、それ以上聞く気配もなかった。
なんで聞かんのだ。完全にお前の上に乗っとっただろ。跨っとっただろ。顔も近かったろ。気づいとっただろ。なんでそんな暢気に笑える? なんでだ。なんで――
「ん?」凝視する空却を不思議に思ったのか、僅かに首を傾げた。それを見て、ぞわッとした悪寒が走る。冷静さが熱を貪るように、頭が急激に冷えていった。
「あっ。空却くん、麦茶ついどいたよー。コップ、机の上において――」
の言葉を最後まで聞くことなく、空却は部屋を飛び出した。後ろから名前を呼ばれた気がするが、一度も振り返らずに走り続けた。心臓が早い理由を有耶無耶にするために。
の家を出て、夕日に照らされた道をひたすら走って、走って、走って――一刻も早く、と離れなければいけないと思った。あのまま、あそこにいてはいけないと思った。は何も分かっていない。今から食われると分かっていてもなお逃げない小動物など、捕食者の目から見たら格好の餌食だろう。
あの時、が起きていなければ、自分は何をしようとしていたのか――その先の未来を想像したら、全身に薄氷が張り付いたような寒気が空却を襲った。
今日という日以上に、夕方のおつとめを熱心にやった日があっただろうか。頼まれてもいない掃除やその他雑務をこなせば、灼空に信じられないものを見るような目を向けられたが、空却は構わなかった。
時刻は二十時。空却はようやく床につく。いつも以上に体は疲れているはずなのに、布団を被っても夕方の記憶の残滓がちらついて、寝つける自信がなかった。学校にいる間はあれだけ眠かったのに、今は活発な血が体の中で巡っている。
ああくそっ。時間の無駄を悟った空却は体を起こして、布団の上で坐禅を組んだ。
――「くーこーくん……?」
夕方、にしようとしたこと……それが、世間から後ろ指を刺されることだと分かっていた。さすがの空却も、この歳で男女の線引きが分からないわけではない。ただ、今まで相手にそういうことをしようと思ったことはなかった。一度たりとも。あの時だけ、なぜそういうことをしたのか分からない。いきなり噴水のようにわっと噴き上がった情動だった。
……不意に、“欲求不満”の四文字が空却の頭を過ぎる。途端に体がむず痒くなってきて、手元にあった枕をぼふんッと叩いた。そんなことは絶対にねえ。仏さんに誓って、それはねえ。般若心経を唱えていたのが無駄になった。しっちゃかめっちゃかになっている頭を整理するように今度は深呼吸をしていると、暗闇の中で白い光がぽわ、と浮かんだ。
「なんだよこんな夜更けに……」
ぶつくさと言いながらも、空却は光ったスマホの画面を開く。通知を見ると、同級生からのLINEメッセージだった。たしか、「空却が寝る前におすすめリサーチして送るわ!」とお節介焼きをした、あの男子だ。
送られてきたのは、やけに長いURLと〈俺の中の素人部門で優勝したやつ〉という意味の分からないメッセージ。素人部門云々の文章は無視する。本題はおそらくこのURLだろう。この先に待っているのものは、昼にした話題からしておおよそ察しはつく。
……いつもならば、無視を決めこんでいただろう。しかし、空却は画面を閉じることをせず、そのURLをじっと睨みつけた。
――「くすぐったぁい……」
頭の中で蘇った声をかき消すように、空却はURLのリンクに触れてしまった。すると、目がちかちかするようなアダルト系広告が目の前にぶわっと表れる。そのまま下にスクロールしていくと、そこには一つの動画が貼られていた。
その近くには動画のタイトルらしいものも添えられている。【ウブすぎる素人JK! はじめての絶頂に戸惑いながら――途中から馬鹿馬鹿しくなってしまい、目で追うのを止めた。
「(……このまま寝つけねえよりかはマシか)」
こんなものでも、上書き役くらいにはなりそうだと思った。それに、多少なりともこの動画に興味を唆られている自分がいる。それもこれも全部、夜のせいで気が緩んでいるからだと理由を押し付けた。
スマホを片手に、空却は再び布団の上に寝転がる。音量を最小限に落として、動画を再生した。
動画が始まると、黒い画面から白い光がじわじわと浮かんでくる。そこはホテルの一室のようで、大きな窓から差し込んでくる光を部屋全体が一身に浴びている。その中で、小柄な女子高生が一人ぽつんと立っていた。
女子高生の体を舐めるようなカメラワーク。彼女が着ているのはうちの学校に似た白襟のセーラー服だった。つか、高校生ってこういうのやったらやべーんじゃねーの。エンコーってやつか。どうなってんだこれ。この頃の空却はAVの世界をよく知らなかった。
ツッコミどころが満載のまま、動画は進行していく。女子高生は両手の指をもじもじとさせながら、怯えるような目でカメラへ目線を向けている。そこに、一人の男がゆっくりと近づいていく。男の分厚い手が女子の肩や腕を滑ると、彼女の瞳は戸惑うようにゆらゆらと揺れる。男の目元にはモザイクがかかっており、よくできてんな、とまだ理性が残っている頭の隅で空却はぼんやり思った。
うっすらと開いている女の唇に吸い込まれるように、男は顔を傾けながら自分の唇を近づける。女は少々俯きがちで、視線だけをちら、ちら、と男に合わせながら恥ずかしそうにしている。それでも、男の唇の先が触れると、女子はゆっくりと顔を上げた。
そこからは、恋人同士がするようなやり取りが続く。女は男と口付けをしながら、彼に腰を引き寄せられるがままに、体を男の胸板に預ける。重たいリップ音が鼓膜にこびり付いて、頭から中々離れなかった。
男はキスをしながらセーラー服を器用に脱がすと、下着に覆われた胸が露になる。見た感じ、林檎くらいの大きさだ。軟らかな日差しが女の肌に吸い込まれていって、彼女の白い肌がいっそう引き立って見えた。
そして、男の手のひらが女の胸を包むように覆う。それほど力を入れていないように見えるのに、それはふにゃふにゃと形を変えていく。女は、刺激に耐えるように唇をきゅっと結んでいた。
瞬きも忘れて、空却は動画の中の女に見入る。自分の中で、興奮がせり上がっていくのが分かった。男の自分にはない女の要素に好奇心がぶくぶくと膨れ上がっていく。
――「帯、ほどくぞ」
――「ぇ……」
――「こんなんしとるからよけい痛えんだろーがっ」
――白色のキャミソールと、ほんの僅かなふくらみ。
動画の中から小動物の鳴き声のような声が聞こえて、空却は我に返る。これ以上見ていられない。停止ボタンを押すことなく、空却はそのままスマホの画面を閉じた。体に篭もった熱量は発散されず、未だに体内に留まっている。
……今、何考えた? 思ってたよりも胸がでけえし、女の声が高かった。いや、思ったよりってなんだ。つか、なんで今あんな昔のことを――
――「ん……。くーちゃんのにおい、すき……」
……何やってんだ。本当に、なにやってんだ。
中途半端に勃ち上がったものを無視して、空却は畳の上にスマホを滑らせた。気温も相まって、全身が暑くて適わない。これこそ時間の無駄だった。そして、こんな作り物では、記憶の上書きなどできないことを決定づけられてしまった。あと、動画を送ってきた男子は明日一発の拳をお見舞いしようと誓った。
の声は、もう少し高い。それから、胸もあんなに大きくない。背ももっと小さいし、顔つきも子どもっぽい。それから――を糸口にして広がろうとする妄想をひたすらに殺す。空却は荒ぶる熱を無理矢理鎮めるように、ぎゅっと目を閉じた。
――目を開けると、そこはの家の居間だった。
セーラー服を着ているは、顔をほんのり赤くさせながらこちらと向き合っていた。、どうした――そう呼びかけようとするのに、声が出ない。なんでだ。
空却がいくら喉を震わせようとしても無駄だった。言うことの聞かない自分の体にまたしても戸惑っていると、目の前のが胸の前まで歩いてきた。距離を縮められて固まっていると、あろうことかは自分の胸板にぴとりとくっついた。
ぶわッ、と全身の熱が咲く。焼けるように熱い血がどくどくと流れていく。は、こちらの心臓の音を聞くように、両の手のひらと片耳を胸板にくっつけたまま離れない。離れろよ、おい――本心とは言えない言霊に大した力はなかった。それと相反するものがじくじくと溢れて出してきて、最終的に建前の方が本音に塗りつぶされた。
――さわりたい。に、触りたい
出来上がったばかりの人間に触れるように、空却の両手はの肩にそっと触れる。細くて丸い肩なのに、しっかりと暖かい。その手はそのままの背中へ滑っていき、の体をきゅ、と緩く締めた。
を胸の中に収めると、自分のものではない鼓動を感じた。とく、とく、とく――やけに早い気もするが、自分の心音と同じ速さだったので、空却は気に留めなかった。
こんなことは、昔何度もしていたはずだ。あの頃は悲しみに暮れるを慰める意味合いが強かったが、今回は違う。今はただ、この体に……の体に触れたい一心だった。
呼吸が荒ぶっていく。背中や肩に触れるだけでは我慢できなくなって、腕全体での体を抱きしめる。首を下へぐっと沈ませると、の首筋に鼻先がきて、彼女の匂いが頭の中に充満した。また、鳩尾の下くらいに、クッションのような僅かに柔らかいものが挟まれている。その正体が分かると、さらなる情動が空却の頭の中を覆い尽くした。
――どれだけそうしていただろう。ゆっくりと、か弱い力で、の両手が空却の胸を押す。互いの間に少しだけ隙間ができて、の熱が逃げていく。名残惜しい。今まで抱きしめていて見えなかったの顔は、先ほど見た時よりも赤く火照っていて、唇を薄く開いている。
……とても、うまそうに見えた。の顔をもっとよく見たくて、空却はの顔の横に手を添え、上を向かせる。こちらを見上げたの目は、いつぞやに見た、泣きそうな、困ったような色をしていて、体の奥からさらに熱が込み上げてきた。
……そうだ。非常扉の裏で見た、あれと同じだ
空却はもう片方の親指の腹で、の下唇に触れる。優しく押してみたり、左右に滑らせたりすると、面白いくらいに形をふにふにと変えていく。時折、の温かい息が指にかかって、生きてる、などと馬鹿なことを漠然と思った。
水気を含んで潤んでいく瞳、熟れるように赤くなっていく頬。の両腕がおずおずと空却の背中に回ってくると、全身の毛がぞわぞわとして擽ったい気分になる。
ちいせえ、やわらけえ、いいにおいだ――理性は時間と共に焼け落ちていく。空却はの顎を少し持ち上げると、彼女の揺れる瞳と目が合った。
くーちゃん――声は聞こえないのに、頭の中での言葉が響く。何かを乞うような、縋るような……そんな色をしていた。
こいつの目、よく見たら茶色なんだな。つか、金っぽいのが混じって見え――ああ、これは俺の目の色か
ぼんやりと思っていたら、がきゅっと目を閉じた。すると今度は、無防備になったの、うっすらと開いている唇に空却は釘付けになる。
……うまそうだ。ほんとうに、うまそうだ。短い呼吸を繰り返す唇に引き寄せられていく。空却もまた薄く口を開いて、の吐いた息を食むようにゆっくりと顔を近づけた。
――ぐわんッ、とジェットコースターから振り落とされたような浮遊感を味わい、空却は目を覚ます。はッ、と短い息を吐いて、かっ開いた目で天井を映した。
……嫌な目覚めだ。部屋の中はまだ暗いが、外からは複数の人の気配がする。もう他の修行僧は起きている頃だ。自分も、早く起きなければ。
空却はくわっと欠伸をして、上半身を起こす。すると、自身の股付近に粘着質な感覚が襲った。なんだこれ。
「(すげーきもちわり――)」
そこに手を伸ばした時、ぬるりとしたものが空却の指を滑った。下着だけではなくハーフパンツも汚しているそれは、得体の知れない粘着質の何かだった。
空却は下着から勢いよく手を抜く。指に付いたものを見て、顔からさあっと血の気が引いた。電気をつけてみるとそれは白濁色をしていて、においを嗅いでみるとひどく生臭かった。
がつんッとした衝撃が後頭部を襲う。夜のうちに、自分の体に何が起きたのか空却は察した。保健体育の教科書の中でしか知らなかったこと――あの動画のせいにできたら、どんなによかっただろう。蘇ってくるのは、自分の体にぎゅっと収まっているのことばかり。今となっては泡沫のように淡い感触でも、自分がしたいと思ったことは頭の中に鮮明に残っていた。
「空却おぉッ!! 早よ起きてこんかッ!!」
うっせえ起きとるわ――家から飛んできた灼空の声にそう返せなかったのは、自らその口を片手で抑えていたからだった。
文化祭当日。空却が一直線に向かうは茶道室。茶道部は毎日朝早くから文化祭準備を進めているのだと、聞いてもいないのに平塚がぺらぺらと喋っていたのを思い出したのだ。空却は初めて彼女の存在に感謝した。
大股かつ迷いのない足取りで進んでいくと、あっという間に茶道室の前に着く。廊下に出ていた茶道部と思わしき女子らに遠巻きに見られたり避けられたりするが、その中に空却の目当ての人はいなかった。
「おい。いるか」同級生なのか上級生なのか分からないが、空却は適当な女子に声をかける。すると、彼女は顔を引き攣らせて茶道室へと篭ってしまい、他の女子も彼女に続くようにして茶室に入って引き戸を閉めた。
怪訝な顔をしながら、空却がそこで待つことしばらく。「廊下にいたヤンキーがちゃんのこと呼んどった」「え……ちょっとやばくない?」「何かあったら茶室に入るんだよっ。すぐに先生呼ぶからねッ」「大丈夫ですよ~」そんな大きな話し声が聞こえた後、再び茶道室の引き戸がからからと開いた。
「空却くん?」
どうしたの? と言いたげな顔をして、は茶道室から出てきた。上履きを履いた彼女は、ふつうに、なんの迷いもなく、こちらに近づいてくる。
――「くーちゃん」
どくんッ、と空却の心臓が跳ねる。夢の中にいたと重なって、その足が一歩下がりそうになった。おい……やめろ。それ以上、こっち来んな。
「空却くん、どうしたの? もしかして、お茶会早う来てくれたの?」はにこにこしながら尋ねる。夢の中で会ったよりも無邪気で、自分のよく知るだった。それでも目にいくのは、柔らかそうな唇だとか、髪の間から覗いている細い首だとか、制服の上からでも分かるようになった小さな膨らみだとか……自分の体にはないものばかりに意識が集中した。
「ごめんね。お茶会、まだ準備中なんだぁ。……あ、そういえば、昨日なにかあった? 急に帰っちゃったからびっくり――」
「」
そんな邪念を振り振らんとばかりに、空却は茶会券をに突き返した。ぽかんとしたと目を合わせずに、ぶっきらぼうにこう言った。
「返す」
「え……?」
明らかに固まっただったが、じきにそれを静かに受け取って、おそるおそる尋ねた。
「空却くん、お茶会、行けなくなってまった……?」
「あぁ」
「そ、そっか……」の声が震えている。が、なにか言いたそうにしているのは分かる。それでも、未だに頭の中で再生される映像が、空却を捕らえて離さなかった。
「あと一つ」
「えっ? う、うん。なあに……?」
「しばらく、俺に話しかけんな」
の返事を聞く前に、空却はそこから去った。呼び止める声もなく、空却は自分の教室へと向かった。もう、ここに来ることは二度とないだろうと思いながら。
早朝の滝行も、朝のおつとめも、寺内の掃除も……過去の自分が見たら目を張るほど真剣に取り組んだ。強固な精神を作り上げたものの、それでも、を見ているだけで、と話しているだけで、簡単に思い出してしまう。の体に触れたいと思っていた自分自身の存在を。
信じられねえ。んなこと、あってたまるか。空却は自分自身にそう言い聞かせる。しかし、夢とは一連の観念や心像を表す――いわゆる、常日頃からと“そういうこと”をしたいと思っているということで。
……いや、なんでだよ。なんでよりにもよってなんだよ。意味分からんわ。相手にそんなこと、微塵も、これっっぽちも思ったことねーわ
いつも近くにいる女子だから、たまたまだろ。そうだ、たまたまだ――自分の心に蓋をするように、空却は何度も言い聞かせた。
平静な自分を取り戻すために、しばらくの間、と距離を取らなければいけないと思った。だから、ああ言っただけ。は素直だから、言葉通り、これで話しかけられることはないだろう。
――「え……?」
いくらの顔が脳裏にちらついても、それも数日だけだろうと割り切った。
に限っては、どんなことがあっても今の関係が変わるほどの変化はないと思っていた。少なくとも、自分自身がに抱いている印象は、さほど変わりないだろうと。
……違う。違う違う違う。は、そんなんじゃない。そんなんじゃ――あの時の感覚を忘れようとして、空却は手の甲でごしッと口を拭う。目が覚めてから今の今までそんなことをやっていたせいで、唇の皮がついに切れてしまった。
