Episode.9
桜花爛漫――桜吹雪を突っ切るようにして、空却は新たな通学路を迷いない足で進んでいく。小学校よりは少し遠くなってしまった学び舎だが、家路の途中で商店街を挟むので道草もしやすい好立地だと思う。
腰周りでじゃらじゃらと音を立てるのは念珠。そして、学ランの代わりのお気に入りのスカジャンは着てきて正解だった。新入生のしおりに身だしなみ云々のことが無駄に長く書かれていたが、一行も読まずにゴミ箱に捨てた。我が道に標を立てるは仏のみ――堅苦しく、それでいてセンスの欠片もない学ランは押し入れの奥に追いやった。
……さて、中学校に向かっているとはいうものの、空却はほんの少し遠回りをしている。角を曲がって、前方にて確認できた小さな存在に、空却の胸は風に吹かれた花びらのようにふわっと浮かんだ。
「(……制服に着せられとんな)」
暢気そうにとことこと歩いているセーラー服。ランドセルの代わりに新品そうなリュックサックを背負っていた。たとえ、後ろ姿が同じような人間が並んでいても、もはや歩き方だけで彼女と見分けがつく自信がある。入学早々寝坊するかと思って迎えに行ってやろうと思ったが、どうやら杞憂に終わったようだ。
すぐさま駆け寄って声をかけるつもりだったのが、一歩を踏み出すたびにスカートのひだから見え隠れする足に気を取られて、しばらく距離を置きながらその後ろ姿を見つめていた。ただ、あまりにも歩くのが遅いのでそれも数分で終わる。痺れを切らした空却は早歩きで彼女に歩み寄った。
「よお」背後から声をかけると、少し俯き気味だったが勢いよく顔を上げる。
「くっ……くーこー、くん……っ?」
「おー。おはよ」
空却の顔を見るなり、目をまん丸にして見開いている。びっくり、の四文字がでかでかと顔に書かれていて、金魚のように口をぱくぱくとさせていた。中学に上がっても分かりやすい奴だ。
「おっ、おは、よぅ……っ」震えた声で挨拶を返したは、空却の顔やら全身やらに視線を散らすと、自分自身の両耳に触れながら空却を見上げた。
「み、みみっ、黒いわっかついとる……っ」
「おう。ピアスな」
「ぴあすっ!?」
さらに驚いた顔をしたが声を張る。朝から面白いものが見れて気分がいい。空却が声もなく笑っている一方で、はあわあわと体を震わせていた。
――拡張ピアスを開けたのは、つい先日のこと。道具の調達から処置まで、すべて自分で行った。開けた直後、洗面所で出血を抑えているところを灼空に目撃された時は、「親に貰った体に無断で穴を開けるとは何事だッ!」と今年一番大きい拳骨を食らってしまった。未だに痛い頭頂部ではあるが、開けてしまえばこちらのもの。ピアスの代償と思えば安いものだった。
「耳たぶいたくないっ……? 血ぃ出とらんっ……?」
「もうとっくに止まったわ」
「穴おっきいよ……? これ、腫れとらんの……っ?」
「腫れてねーよ。拡張してっからこれが普通だ」
「ひゃあぁぁ……っ」自身が開けたわけではないのに、眉をひそめてひどく痛そうな顔をする。少し肩紐の長いリュックサックの片方が彼女の肩からずり落ちたのを見て、がそれを直すよりも前に、空却は彼女の腕からリュックを抜き取った。
「大丈夫だよ空却くんっ。自分で持つよっ」
「お前、今日入学式しかねーのになんでこんな大荷物なんだよ。ほとんどやることねーだろ」
が空却の体の周りをくるくると回りながらリュックサックを取り戻そうとしている。そんなに背を向けながら、それなりの重みがあるそれをがさがさと上下に揺らした。
何入っとんだこれ。菓子か。空却が首を傾げながら、問答無用でリュックの中身をがさがさと漁る。あっ、という何か思い出したような顔をしたを横目に捉えたと同時に、一際場所を取っているそれをごそっと引っ張った。
「昨日ね、おじさんがうちに来てね、空却くんが今日制服着とらんかったら渡してほしいって言われてたの」
空却が掴んでいるのは丁寧に畳まれた学ラン。おまけに新品同様に透明な袋に入っている。誰のものかは言わずもがな。まさか、押し入れに追いやったはずのそれがのリュックサックの中で揺れていたとは。あんのクソ親父……。空却は苦虫を噛み潰したような顔をして、ださい黒服を忌々しく見下げた。
一方で、袋から学ランを取り出したははい、とこちらに差し出す。今はスカジャンを着てきているし、ここでそれを渡されても荷物になって邪魔でしかない。の親切心を弾くようにして、空却はふん、と明後日の方向を向いた。
「俺は着ねえぞ」
「えっ」
「つか、お前も律儀に持ってくんじゃねーよ。荷物かさばるだろうが」
を利用した親父も親父だが、わざわざ持ってきたもだ。つか、俺ならそんなん着ねえって分かるだろ。何年の付き合いだよ。空却がじっとりとした目でを見つめると、彼女は一度断られた学ランを大切に抱きしめながら、ぽそぽそと言った。
「空却くんなら、そう言うと思っとったんだけど……」
「ならなんで――」
「学ラン着た空却くん、ちょっとでいいから見たいなぁって……」
「あっ。そっ、その上着もかっこいいよっ」が慌てたように付け足して言う。その言葉を受けて、空却は何かしら肺から吐き出したくなるような、全身を掻きたくなるような、そんな未知なる気持ちになって、ぐ、と唇を噤んだ。灼空の言うことを聞くことになるのがかなり癪だが、心の天秤はの方にいとも容易く傾いた。
「……式の時だけだぞ。それ以外は脱ぐ」
「ほんとっ?」
その瞬間、の目がきらきらと瞬く。何かしらビームでも出しているんじゃないかと思うくらい眩しくて、「おぅ……」と空却は芯のない返事をしてしまう。
「じゃあ、学校着くまではわたしが持っとるねっ」は嬉々としてそう言うと、胸の前で学ランを大事そうに持ちながら、再びとことこと歩き出した。そんなの隣を、空却はゆったりと進んでいく。学ランの件でリュックサックを取り返すのをすっかり忘れているがとても愉快で、空却は笑いを堪えながら我が物顔でリュックサックを片手で持ち歩いた。
――カヨが亡くなってから一週間。葬儀以来、とは顔を合わせていなかったが、彼女の様子は意外にもいつも通り……いや、むしろ溌剌としているくらいだ。空元気でなければいいが、と空却はいつものようにの口からぺらぺらと漏れ出す話に耳を傾けている。新しい友達ができるかだとか、先生はどんな人だろうだとか……内容はごくごく普通の、他愛のないものばかりだ。
適当に返事しながら、空却は終始動いているの唇をじっと見つめる。相変わらず、よく働く口だと思う。時折先端が持ち上がったり、かと思えば小さくしぼめられたり。盆中の僧侶と同じくらい忙しない。桜の花弁よりも若干血色づいた唇の間から、舌先がちろっと見え隠れするたびに、次はそれがいつ出るのかと心待ちにしている自分がいた。
……生返事すらも、だんだん疎かになっていく。空却の世界がだけになりかけていたせいで、後ろから近づいてくる足音に全く気がつかなかった。
「ど~んっ!!」
「わあっ!?」
突然大声を上げたに、空却は我に返る。目の前で前のめりに倒れていくが映って、反射的に腕を伸ばした。
の両膝がコンクリートにつく前にその体を両腕で抱きとめる。セーラー服のぱりぱりとした感触と服越しに伝わるの体温を感じながら、空却は背後から迫った影に声を張った。
「おいッ! 後ろから突き飛ばすんじゃねえ! あッぶねーだろうがッ!」
「クーコー君ナイスキャッチ~!」
「あっ! そのスカジャンとピアスいーじゃん! めっちゃいかしとるよー!」高校生のように短くしたスカートを翻してからっと笑ったのは一人の女子だった。顔を見ても誰だこいつ、という印象だったが、その癪に障る態度で空却は思い出した。いつぞやに商店街で会った、の同級生だ。
……そういや、こいつも同じ中学に通うんだったか。在りし日の記憶を巡りながら、めんどくせえことになった、と空却は舌打ちをする。それでも彼女は、「あ、うちってばお邪魔だった~?」と訳の分からないことを言って、広げた片手を口の前にやっている。指の間から見えるにやけた口角がさらに恨めしい。
「てか、がゆでダコみたいになっとるからそろそろ離してあげやあー」
「あ?」
を指した女子を見て、空却はようやく下を向く。腕を回しているの肩からふっと力を抜いた。じっと俯いていて顔色は分からないが、たしかに、横髪から覗いている耳たぶが真っ赤だった。
「おい。どうした」
の顔が見えるように下から覗きこむと、少し水っぽくなっている目とぱちんと合わさる。瞬間、ぴゃっ! と体を跳ねさせたが「ううん……ッ。ううんっ、だいじょうぶっ!」と言いながら、首を左右にぶんぶんと振る。挙動不審なに空却が訝しげな顔をしている横で、女子がずいずいとに寄っていって、彼女の肩先をつんつんと肘でつついた。
「朝からラッキーじゃん~!」「あんちゃんっ。ああいうのよくないよぅ……っ」「え~っ? あーいうのってー?」にやにやと笑っている女子はに執拗に絡んでいる。今にでもひっぺ剥がしたいが、にとっての友人であるために下手なことも出来ない。くそが。首輪をかけられた暴れ犬のように二人をじっと睨んでいると、不意にが女子の奇抜な髪をじっと見つめたまま動かなくなった。
「あんちゃん、その髪の色……」
「あっ、これー? 一回ブリーチしてカラー入れたの~。かわいーでしょ!」
女子は自身の長い髪を指に巻き付けてくるくると弄んでいる。ほんのりと漂ってきた髪の香料に空却はうぇ、と顔を歪めた。
たしか、昔出会った頃は黒のはずだった。今では茶とも金とも取れない……まあ、とにかく奇抜な色をしている。自分の体を好き勝手にしたいという気持ちは分からないでもないが、こうして見ると、との凸凹具合がさらに目立っていた。
「もブリーチするー?」
「うぅん……。ブリーチすると髪傷んじゃうってばあばが言っとったから……」
「まーたしかにそれはあるね~」女子はの黒い髪を指で掬いながら独り言のようにそう宣うが、「でも!」とすぐに声を張った。うるせえ。
「黒髪のまんまでも染まるやつもあるし、カラーだけでもやってあげるから今日うち来なよ~! 帰りに薬局寄ってカラー剤買お~っ」
「あ……。ううん、ごめんねあんちゃん。今日はおうちの整理しんとかんくて……」
「え? そなの? カヨさんの荷物整理終わっとらんかんじ? 学校終わったらうちもてつだおーか?」
だいじょうぶ、だいじょうぶ、とは遠慮がちに首を振る。こいつ……人があえて触れないでいた話題をずけずけと。このままを担いで走り去ってしまいたい気持ちになったが、女子の奇行はさらに続いた。
「てか、のスカート長くない?」
「えぇ? そうかなぁ。お店の人が測ってくれたんだけど……」
「も~。こーゆーのは自分で長さ変えんの! はちっちゃいからもっと短くした方がかわいーよ!」
「太もも半分くらい見えとってもよくない?」そう言って、女子はのスカートの裾に手を伸ばして、あろうことかそのままぐっと持ち上げた。
突如現れたの太腿にぎんッと目が奪われる。内側から発光しているような肌色と先程見えていた膝小僧よりも存外柔らかそうな肉にぎゅる、と喉の奥が鳴った。
「ほら~! やっぱ短いほうがかわい~っ!」「あんちゃん……っ。スカートはよもどしてぇ……ッ」もじもじと内股気味になったの動きに、体の奥から熱が込み上げてくる。見てはいけない……それでもなお空却は目が離せずに、めったに人目に晒されないであろうの体の一部を凝視していた。
「うち、なくしたとき用にベルト二本持っとるからに一本あげる! 学校着いたらトイレで――」
「おいッ」
女子の言葉を聞いて嫌な予感がした空却はの腕をぐっと引っ張る。を自分の背に隠すようにして、女子との間に壁を作った。
「に変なこと吹き込むんじゃねえ」
色素の薄い黒い髪も、人工色にわざわざ染めなくていい。程よく肉つきの良い白い足も、必要以上に人の目に晒す意味が分からない。
殺気立った眼差しで女子を睨みつけると、きょとんとした彼女はすぐさまこちらを指差して笑い始めた。
「クーコー君めっちゃ顔真っ赤! の生足みて照れとんの~っ?」
「照れてねーわッ!! つか気安く人の名前呼ぶんじゃねえッ!」
「だって苗字知らんし」
「波羅夷だッ」
「ハライ? 変な苗字~!」
うッッぜえ……!!
なんだこいつ。前に会った時よりも鬱陶しさが七割増しだ。まったく意思の疎通ができない女子に嫌気がさした空却は、後ろにいるを見た。なぜか、空却が掴んでいない方の手で顔を覆うようにしており表情が上手く窺えないが、それでも構わず空却はに物申した。
「おい……。ダチは選べっつったろ。なんでまだこいつとつるんどんだ」
「うぅぅ~……ッ」
「『うぅぅ~』じゃねえ! おらこっち見ろッ」
空却がの手を退けようとするも、だめだめと言わんばかりに彼女は首を振るばかり。せっかく赤味が引いてきた耳たぶが、また火が出るように真っ赤になっていた。
「は~っ。朝からあっつ~いっ。式までまだ時間あるし、二人仲良くゆっくり来やあね!」
「えっ。あんちゃん先行っちゃうのっ?」
「行くよお~。うちは三人でいっしょに行ってもぜんぜんいーけど――」
「さっさと失せろ」
「ほらあ~っ」
「てことだから、またあとでね! 学校着いたらいっしょに写真とろーね~!」そう言い残し、女子は踊るようにして通学路を歩いていった。てっきりこのまま着いてくるのかと先が思いやられていたが、いなくなって清々する。
も一頻り気が済んだのか、手で覆っていた顔を露わにしている。その両頬はほんの少し薄桃になっていて、薄く開かれた唇からは細い吐息が漏れていた。
「……。行くぞ」
仕切り直すように空却が歩き出すも、その場に立ち止まったままの。「おい。さっさと来いよ」そう言って急かしても様子は変わらず。それどころか、じっとスカートの裾を見つめながら、髪の毛先をちょんと摘んで指の腹同士で擦っていた。
……あの女、余計なこと言いやがって。が今考えていることなど手に取るように分かる。空却は上の空なの前へずんずんと戻っていった。
「――」
「空却くんはピアス開けたし、あんちゃんも髪染めたし……。みんな、おとなだねぇ」
毛先をいじりながら、の口からぽつんと落とされた言葉。そら見た事か。「……ったく、」思わず空却が吐いた音に、が縋るようにこちらを見上げた。
「あの女子の言ったことなんか真に受けんなよ」
「空却くんは……」
「おい聞けよ」
「スカート、短いほうがいいと思う……? あと、髪も明るいほうがいいと思う……?」
その瞳の奥に飲み込まれてしまうのではと思うくらい、まっすぐ見つめられる。が言おうとしていることも、何か求められているということも分かる。それでも、にとっての答えがまるで見えない。猫を見せたり、菓子を与えたり、漢字を教えたり……そういうのとは、今回のはまた違うんだろう。
昔とは違う感覚を煩わしく思って、空却は吐き捨てるようにこう言った。
「……お前は、ずっとそのままでいい」
あれこれ考えるのは性にあわない。心のままに言うと、幾分か心が晴れた。ぽかんとしているを横目に捉えて、少し曲がってしまった彼女の背中を少し強く叩く。すると、「わあぁっ」と声を上げて、はすぐさま背筋がぴんと伸ばした。あとはもう簡単だ。行くぞ、と声に出さなくても、空却が歩き出せば、は勝手に後をついてきた。
……そうだ。お前はそれでいい。見てくれなど気にしなくていい。自分の隣を歩くか、すぐ後ろに隠れていたらいい。ずっと……ずっとだ。自分がやることも、この先何一つ変わらない。だって、なんの不安も抱かず、誰かに守られることを望んでいるはずだろうから。
何もしていないというのに大半の教師に避けられ、頭の悪そうな上級生にさっそく喧嘩を売られた入学式から数日後――手探り状態だった新しい環境の形をようやく掴み出してきた頃だが、それでもなお、空却は腑に落ちないことがあった。
「納得いかねー……」
「波羅夷~。それ毎日言わんとかん?」
隣の席で、折りたたみ鏡に映る自身の顔とにらめっこしている女子がこちらを見ずに言う。一学年につき七クラスもある中で、まさか同じ教室で机を並べることになるとは思わなかった。おまけに彼女の苗字が“平塚”のために、なんの不幸か隣の席になってしまうとは。男女別々の五十音順が憎い。
「てか、うちもたちと同じA組がよかったし~。同中でうちだけはばとかマジないんだけどー」
「お前が馬鹿なだけだろ」
「それ、波羅夷もブーメランだからねー?」何がブーメランだ。授業態度はさておき、学力だけでいえば人並みにできていた方である。
しかしまあ、平塚がぼやくのも同情の余地がなくもない。とクラスが離れたのは入学初日で分かったことで、おまけに別校舎だ。同じ小学校に通っていた同級生が零していたことによれば、六年生の時の成績を元にアルファベットの昇順で今のクラスが振り分けられているらしい。ちなみに空却達はD組である。自分よりもの頭が良いことが意外で、正直気に食わなかった。漢字と国語力でいえば、とは天と地ほどの差がある自信があるというのに。
「そーいえば、次委員会決めだけど、波羅夷はなににすんのー?」
「お前に言う義理はねえ」
「ねーねー。決めとらんなら一緒に学級委員やろーよー」
「はあ? やだわめんどくせえ」
平塚の提案を空却は一蹴する。よりにもよって一番面倒なやつではないか。小学校の時に嫌というほどやったのでもう懲り懲りだ。それに、なぜ好き好んで平塚と同じ委員会にならなければならないのか。一昨日来やがれと声を大にして言いたい。
「えー。やらんのー?」平塚が隣でぶうぶうと不平を言っている中、空却は涼しい顔でポケットに入っていたチューイングガムを口の中に放った。
――本令のチャイムが鳴る。と同時に、教室のドアが開かれて、「チャイム鳴ったぞー。誰の席でもいいからとりあえず座っとけー」と、中堅らしき担任教師が緩く号令をする。立って座っただけの挨拶をして、空却はすぐさま机に突っ伏した。やる気など皆無だった。
「(あ゙ー……クソねみ……)」
枕の代わりとして組んだ両腕。そこにできた空間でくわっ、とあくびをする。学校が遠かろうと、朝のおつとめの時間は変わらない。深夜に起きて、門を開けて、掃除をして――それに加えて中学に上がったということで押し付けられる雑用の数が増えた。正直だるい。今朝だって、雑用仕事が嫌で物置に隠れていたら灼空に首根っこを猫のように掴まれてすぐに捕まってしまったのだ。明日以降は家を早く出ようと誓った。
問題は帰りだ――そう思ったところで、の家で時間を潰せばいいのでは?と閃いた。いつ何時、の身に何があるか分からないので、渡された鍵はいつも持ち歩いている。無論、今日もだ。それに、入学式の日にカヨの遺品整理が終わっていないと聞いた。ついでに様子を見て、まだ片付いてなければ手伝えばいい。灼空に何か言われた時の理由にもなる。
そうだ、そうしよう。空却の中で、だるい一日が少しずつマシになっていく。春の気候と相まって、空気が緩く流れるこの空間。悩みの種が一つ消えたところで、頭の奥に潜んでいた睡魔が前に出てきた。うと、うと、と瞼が徐々に下がってくる。目が覚めた頃には、面倒なこの時間も終わっていることだろう。業後のチャイムが鳴ったら、鞄を履いて校門か、もしくはそのまま別校舎に行けばいい。移動教室以外の校舎の行き来は禁止だと学年主任らしき教師が言っていた気がするが、空却の胸には全くもって響いていなかった。
「――学級委員、うちやりまーす!」
隣がうるせえ。
平塚の溌剌とした声で少し覚醒してしまうも、そのあとすぐに眠りが深くなる。頭がぼんやりとしてきて、昼過ぎということもあってか体もぽかぽかと暖かくなってきた。「女子、他にやりたい――。――男子の中でも学級委――」担任の声も所々途絶えては消えていく。この途絶え具合がまた良い眠りを促していった。授業中にする昼寝はなぜこんなにも気持ちがいいのだろう。
昼寝――そういえば、もかなりの睡眠魔だった。長期休みに同じ机で宿題をやっていた時は、昼頃になると机に突っ伏して眠っていた。さすがに授業中の様子は知らないが、こくん、こくん、と頭を落としては上げてを繰り返している姿が……今にも、めに、うかんで――
「じゃあ、男子学級委員は波羅夷なー」
担任の声で、空却は一気に覚醒した。
一切の微睡みもなく、勢いよくばッと顔を上げる。黒板に書かれている“男子学級委員”という文字の横に、自分の名前が丁寧に添えられていた。「はあッ!?」と声を上げるのも致し方ない。
「なんで俺なんだよッ! 俺はやるなんて一言も――ッ!」
「平塚の推薦だぞ」
「ぁあ゙!?」担任の言葉に空却は隣を睨む。隣に座っている平塚はてへっ、と舌を出していた。腹立つ。女でなければ一発殴っていたところだ。
「こんなん不正だろうがッ! 決め直せやッ!」
「『波羅夷でいいかー?』って先生言っとった時に寝とった波羅夷が悪いんじゃん? 皆もまんじょーいっちで手ぇ上げとったよ」
「おい誰だ手ェ上げた奴。今すぐツラ貸せ」
「ヤンキーこわ~ッ」
空却が教室を見渡すとほとんどの人間が目を逸らした。唯一笑っているのは隣の平塚だけである。
どいつもこいつも面倒事押し付けやがって。おいどうなってんだ、という目で、空却は担任を見る。この空間で一番まともであるべき存在の彼は「んー」と唸った後、平塚と同じくへらっと笑った。
「波羅夷が学級委員なら、皆言うことききそうだなと思った」
「おいクソ先公」
そんな担任の言葉に続いて、「空却、小学校の時も学級委員よくやってたよなー」「めっちゃ嫌々だけど」と同じ小学校に通っていた男子がぽつぽつと声を上げる。「経験あるなら、なおさら大丈夫か~」と間延びした担任の声で、だんだん可決の方向に進んでいく。おいちょっと待てって――
「んじゃあ、こっからは学級委員が進行してくれるかー? 波羅夷と平塚は前出ていいぞー」
「だから俺はやらね――」
「はーいっ!」
椅子からがたっと立ち上がった平塚によって、空却は両手を取られそのまま前へと引っ張られていく。こ……ッいつ女のくせに力がありやがる……ッ!
「ほら波羅夷前いこーっ」「やめ……ッ。てめえ引っ張んじゃねええぇぇッ!!」男ならば蹴りを入れるなり突き飛ばすなりできたが、女相手に下手なことは出来なかった。結局、不本意ながらに教壇の前に立たされ、業後までの数十分……空却は拷問のような時間を過ごしたのだった。
「地獄に落ちろ」
「波羅夷、けっこーおこな感じ?」
結構どころではない。平塚と並んで廊下を歩きながら、空却は何個目か分からないガムをくちゃくちゃと噛んでいる。このあいだ買い足したばかりなのに、ポケットに入っている数はごく僅かとなってしまった。それもこれもすべてストレスの根源である平塚のせいだ。
あの後、嫌々進行した委員会決めも滞りなく終わった。業後のチャイムと同時に速攻帰ろうとしたら、学級委員は備品室へ現代文の教科書を持ってこなくてはいけないとのことだった。もちろん無視しようとしたが、「波羅夷いこ~っ!」と平塚に捕まってしまったのだ。デジャブである。
最悪が過ぎる。せっかくの予定が台無しだ。ぷうっとガムを膨らませながら、空却は苛立ちげに大股で廊下を歩く。「波羅夷ー。歩くの早いよー」うるせえお前が遅いんだよ走れ。
「つか、委員長とかそういう柄じゃねーだろ」
「あ、分かった? 実はやるのはじめてなんだよね~っ!」
「てめえの好奇心に俺を巻き込むんじゃねえ」
「だって、こうでもしんと別校舎のクラスと絡めんじゃん?」
「なんだそれ。放課になったら別校舎行きゃあいいだろうが」
「別校舎の行き来は移動教室以外原則禁止って、学年主任が言っとったじゃん」
「波羅夷だって、雑用ついでにと話したいでしょー?」そう言われて、「くっだらね」と空却はぞんざいに吐き捨てる。そんなもの無視すればいいものを。真面目なのか不真面目なのか分かったものじゃない。あと、わざわざ別校舎に行ってまでと話すことなどないし、それに――
「なんでいちいちが出てくんだよ」
「だって仲いーじゃん? 入学式の時も一緒に来とったし」
「途中でたまたま会っただけだ」
「えー? 波羅夷んちってあのおっきいお寺だよね? の通学路通らんくない?」
「……お前、うちが寺だって誰から聞いた」
「が昔言っとったよ~。『くーちゃんのおうちはねえ、おっきいお寺でねえ~』って」
長らく埃を被っていた呼び名が予期していなかった人物の口から飛び出した。耳に入ってきた瞬間、全身にぞわっと鳥肌が立つ。空却が平塚を見ると、彼女はしてやったり顔でにやにやと笑っていた。
「波羅夷のことでしょ? “くーちゃん”って」
「……クソ気持ち悪ィから二度と呼ぶな」
「ったら、口開いたら別の小学校に通う“くーちゃん”の話ばっかでさ~っ。うちら、最初は女の子かと思っとったんだけど、よくよく話聞いとったらなんと男の子じゃんね?」
「それ分かったときマジでウケた~っ」何が面白いのか。もはや顔を見たくなくなって、空却が平塚と物理的に距離を置こうと階段を一段抜かして降りる。しかし、平塚は空却に追いつかんとばかりに駆け足で階段を降りてやってきた。
「ねーね、今は“くーちゃん”って呼ばれとらんの?」
「お前には関係ねえ。だから呼ぶな」
「たまに呼ばれとる感じ? に呼ばれるのはいいんだ? だけ特別ってことっ? きゃ~っ!」
「てめえ……そろそろいい加減にしねえとッ――」
「、カヨさんが入院してからちょっと変わっちゃったからさあ」
平塚の声がやや小さくなる。空却が思わず隣を見ると、「四年生のときだったかなー」と彼女は独り言のように続けた。
「、朝起きるの苦手じゃん? カヨさんが入院したての頃は一人でぜんぜん起きれんくて、学校もしょっちゅう遅刻しとったんだよ。先生も事情知っとるからあんま怒んなかったけど、は自分のことけっこー責めとったから」
そんなこと知らない。初めて聞いた。ただ言われてみれば、昔よりも大人しくなったような気は、する。でもそれは、人の話を聞くようになったり、道路からはみ出なくなったり、足場の悪い道を歩かなくなったりと……良い方向への変化だ。あの無邪気なは、今では記憶の彼方。呼び方が変わったのも、たしかその頃だった。
「カヨさんが病院に行った年の夏休みも、波羅夷んちに泊まってたんでしょ?」
「……それもから聞いたんか」
「そーそ! その時、うちん家に泊まりに来なよ~! ってのこと誘ったんだけど、『くーこーくんちに泊まるんだあ』ってうれしそうに言っとってさ~っ」
そう言うやいなや、平塚は見えない小石を蹴るようにして、いじけるように片足を宙に放った。
「さぁー、前は何でも話してくれとったのに、カヨさんが死んじゃってからは“大丈夫”ばっか言うの。見るからに大丈夫じゃなさそーだから言っとんのにさぁ……」
「入学式のときもカヨさんの片付け断られちゃったし……。うち、地味にショック」唇を尖らせる平塚に、空却はほんの少しだけ彼女のことを見直した。何も考えてなさそうで、彼女なりに頭を回しているんだと。
「が無理しとらんかったらいいんだけどさあ。もうちょっと、友達のうちのこと頼ってくれてもいいと思わん?」
……思う。空却も、常日頃からそれは思っている。でも、そうして待っているうちにが悲しみの淵で蹲っているのだから、意味がない。を待つ行為は、はっきり言って時間の無駄だ。を助けてくれる大人は、家族は、もうどこにもいないのだから。
「……が俺らに遠慮しとって、それでもあいつがあきらかに困っとったら、こっちから踏み越えてくしかねえだろ」
今まで無音の時間がなかったが、空却がそう言ったら水を打ったように静かになる。何やら悪い予感がして隣を見ると、ぽかんとした顔からみるみるうちに花咲いていく平塚がいた。空却の予感は大概当たる。
「やっぱ波羅夷もそー思うよねっ!? さっすが寺の子! いいこと言うじゃーんっ!」
「いッてえなッ! んなばしばし背中叩くんじゃねーよッ!」
「うちも波羅夷みたくずっとそう思っとったから、なんか自信でてきたわ~っ!」
そう言い合っているところ――不意に、角から出てきた影と平塚がどんっ、とぶつかった。平塚はなんともなく、よろめいたのは影の方で、「わわっ……」と余裕なさげな声が前方から聞こえてきた。
だ――声を聞いて瞬時に頭が働く。同時にその姿を捉えて、後ろに倒れていくの肩を支えようとしたが、その前に彼女に伸びた長い腕に、空却の思考がぷつんと切れた。
……の体は、隣にいた学ランが支えていた。そして、そのままの体を前に押し、床と垂直にすとんと戻した。
「ごっめんね~っ! 大丈夫だったっ?」
「うん。大丈夫だよ~」
「野山くんもありがとう」「ううん。急に肩掴んでごめん」「そんな謝らんくていいよー」野山と呼ばれた男子は、眉一つ動かさずに、目線の下にいるを見下げている。二人は同じ表紙の冊束を抱えており、彼の方が数倍分厚い量を持っていた。
彼は平塚と空却を交互に見やり、最後に平塚を窘めるようにして切れ長の目をすっと細めた。
「平塚。前よく見て歩かんと」
「ごめんごめん~っ。でも野山もナイスキャッチだったじゃーんっ」
平塚はばんばんッ、と野山の背中を気さくに叩く。女子の割にかなり力が強かったと思うが、ひょろっとしているのにまるでびくともしていない体幹に、不覚にも驚いた自分がいた。はあ、と小さく溜息をついている野山。呆れているのかどうなのかは、ずっと無表情のままなのでよく分からなかった。
「そーそ! うち、学級委員なれたよ~!」「本当になれたんだ」「小学校と比べて、成績目当ての子おらんかったからね~! めっちゃらくしょ~!」旧知らしい二人がそんな会話をしている横で、がこちらを見上げながら目を丸くしていた。
「空却くんも、学級委員になったの……?」
「不本意だがな。俺はこいつの巻き添い食らっただけだ」
「ちがうし~。みんな波羅夷がいいって~」
「あんなん嵌められた以外にねえだろうがッ」
「てかてか、ももしかして学級委員?」
はたとした空却がを見下げると、彼女はあたふたとしながらも「う、うん」と頷いた。
「女の子、他にやる子いなかったし……。学級委員だけぜんぜん決まらんくて先生も困っとったから」
「えぇ~っ!? めっちゃ偉いじゃんっ! 波羅夷もよかったねっ! 委員会いっしょじゃん!」
「なにがだよッ。つか背中叩くなやッ!」
「ヤンキーこわ~っ!」平塚が逃げるようにして野山の後ろに回る。野山は平塚を特別庇うわけもなく、空却にちらりと目を配っただけで何も言わなかった。細いフレームの眼鏡をかけて、学ランを規定通りに着こなし、学級委員になるべくしてなった、というような男子だった。
……すました顔しやがって。見れば見るほど、自分とは相容れない存在だと分かる。空却が野山の後ろにいる平塚を睨みつけていても、彼だけは何処吹く風。空却の存在をきちんと認識しているのかも危ういところだった。
「あんちゃんたちも資料取りに来たんだよねっ?」
少し上擦った声を出したが重たくなった空気の間に入った。
「そーそー! てか、今たちが持っとるやつがそれ?」
「うん。あそこの備品室にたくさんあるから、クラス人数分だけ持ってくんだよ」
「えーっ! もしかしてうちらがわざわざ数えんの!? だるーっ」
ようやく共感できる言葉が出てきた。たしかにだるい。しかし、そんな不毛なことを思っていても仕方がない。正直、さっさとやることをやって帰りたいところが本音だった。「……ねえ」
「あ?」
「クラス、何人?」
最初、誰宛の呼びかけか分からなかった。しかし、野山の目はしっかりと空却を捉えており、空却もそれに応じた。余分なものを省きすぎて、逆に分かりにくい言葉だ。空却が彼の言葉の意図がわかるまで数秒要して、「……三十八」と短く答えると、野山は自分が持っている資料を静かに見下ろした。
「じゃあ……はい」そう言って、野山は自身が持っていた資料を空却に差し出してきた。当然のことに、あ? と空却は素直に受け取らず、彼の訝しげな顔で彼を睨んだ。
「俺たちのクラスと人数一緒だから、この資料そのまま渡すよ。那須野が持っとる分と合わせて三十八冊ある」
「で、なんだよ」
「俺は平塚とそっちのクラスに資料届けに行くから、く……じゃなくて、はらい……だっけ。那須野と一緒に、俺らのクラスに資料置いてきてくれんかな」
なんで俺がてめえの言うこと聞かなきゃいけねーんだよ――喉まで出かかったその言葉は、野山の横にいたによって遮られた。
「野山くん、先生に見つかったら怒られんかなぁ……? わたしたちは大丈夫だけど、野山と空却くんが……」
「一年はもうほとんどの人帰っただろうし、先生達も誰がどこのクラスとかまだ分かっとらんと思うよ」
煩い平塚を引き取ってくれるなら万々歳だが、上手いこと彼の手の上で踊っているのがなんとなく癪だった。それに、異様にと親しげな彼に、不審感だけがふつふつと煮えたぎる。同じ役職に就いたとはいえ、入学早々の距離にしてはあまりにも――
――「のやまくんねえ、すごく頭いいんだよー。このあいだの理科のテストも三年生のなかでいちばんでね、分からんかったところ聞いたら教えてくれるの。教えかたも先生みたいにじょうずでね――」
じりッ、と記憶の断片が焼け焦げる。いつの日かにが話していた男子の存在が脳裏にちらついた。その時の話の内容から、その人物像とおおよそ合致する。よくあるものとはいえ、苗字も同じだ。
……こいつも同じ学校なのかよ。未だ、野山の提案にが不安を零している。二人で仲良さげに話している様が見ていられず、空却は舌先で転がしていたガムを包み紙と一緒に丸めて、廊下の隅に置かれていたごみ箱に放った。
そして、空却は野山が抱えていた資料を片手で奪い取り、空いている方の手での腕を強く引っ張った。「空却くん……っ?」むかつく、むかつく、むかつく――怒りに支配されながら、空却は長い廊下をずんずんと進む。今の気持ちを上手く言語化ができないのが、この苛立ちをさらに助長させた。とにかく、一刻も早くあの場から離れたくて仕方がなかったのだ。もう、耳につく平塚の声も気に障る野山の顔もない。の余裕なさげな足音だけが聞こえてきて、今はそれだけが唯一心地良いものと言えた。
「空却くんっ」
振り返ると、息の上がったがこちらを見上げている。そして、今空却が掴んでいるの腕は、乾いた雑巾を絞るかのように強く握りしめられていた。
さっと冷水を被った空却は、の腕から素早く手を離した。
「……悪ぃ。またやった」
「ううん。へいきだよー。あとね、わたしのクラスあっちなんだあ」
「早く言えんくてごめんね」は掴まれていた腕を背中に隠しながらにこやかに言う。その表情がさらに空却の中の罪悪感を大きくさせた。
……加減、気ィつけねえと。小学生の頃にはなかった課題が重くのしかかる。変な空気を纏いつつも、空却はによって彼女の教室へ案内される。野山の言う通り、一年生の多くはすでに下校しているらしく、途中で誰かと会うこともなかった。
「……お前、無理矢理押しつけられたんじゃねえだろうな」
「え?」
「学級委員」
はぱちぱちと瞬きした後、「ちがうよー。自分でやりたいって思ったんだよ」と朗らかに言った。
「なんでやりたいんだよ。一番めんどくせえやつだろ」
「委員になったら、お仕事あるたびに校舎の行き来ができるって聞いたから……」
「あーそういや、あの女も言っとったな。そんなにこっちの校舎来たいかよ」
面白いものは何もない。強いていえば、購買部が近いのがメリットなくらいか。美味しいものに目がないにとっては重要なことかもしれないが、それも昼時でなければ意味がないものだ。こちらの校舎に来たい理由としては考えにくい。
「お仕事のついでに、会えるかもしれん……」
「あ?」
「ううんっ。あっ、それにね、野山くんが男子の学級委員だから、初めてでもなんとかなるかなあって」
再びの口から飛び出した名前に、空却の指先がぴくりと動く。そんなことを知らないは、声を弾ませながら話を続けた。
「野山くん……あっ、さっきの男の子なんだけどね、わたしたちと同じ小学校でね、毎年学級委員やっとるんだよー。野山くんはもうやりたくないって言っとるんだけど、いつも推薦されとるんだあ。今回もクラスのみんなから――」
「煩え」
の顔から表情が消える。しん、と止んだ彼女の声の余韻に被せるようにして、空却は静かに喉を震わせた。
「……二度と俺の前であいつの話すんな。クソ不愉快だ」
分かったか、と。視線でそう訴えると、「ご、ごめんね……。もう、しない……」とはぎこちなく目線を下げた。それからすぐに別の話題に変えたが、教室に資料を置き、昇降口で靴に履き替え、途中まで同じ通学路を歩いている時まで、の顔は最後まで暗いままだった。分かれ道で別れる時も、彼女と上手く目が合わなかった。
……別に、怒ったわけでもあるまいし、あんなにへこむことないだろうに。そう思うが、空却は寺に帰ってからものことで頭がいっぱいだった。庫裡に入ると、本堂から灼空の声が飛んできて、うるせえな、とひとり顔を歪めた。どうせ、夕方のおつとめまでの仕事を命じられるにちがいない。ああめんどくせえ。だからの家で時間を潰し――
「(……ん家寄るの、忘れとったな)」
いや……今日は、いいか。
沈んだの顔がこびりついて離れない今、うちのことをしていた方が気が紛れる。「今そっち行くっつーのッ!」空却は灼空に返事をするとともに、今日あったことを丸々他所に突き飛ばした。もちろん、のことも含めて。
「お前ら二人、制服着崩しすぎだ」
とある日の業後のことだ。
担任に、職員室の隣にある準備室に呼ばれた。また委員の仕事かよ、と懲り懲りとした顔で出向けば、冒頭のようなことを吐かれて、空却の機嫌は最底辺まで下がっていった。多少生産性のある雑用の方がまだマシだったように思う。
「えー? そおー?」と隣にいる平塚が白々しく言う。お前ら、と評されるほどには隣のギャルとセットで扱われつつある今日この頃。同じ委員会なのだから道理といえばそうなのだが、無理矢理その役を押し付けられた身としては全くもって遺憾の意だった。
「クラスの学級委員が一番風紀乱れててどうするんだ。今のお前ら、校則違反が制服着て歩いとるみたいになってるぞ」
「知るか。そもそもてめえが俺に委員押し付けたんだろうが」
「てか、うちもそんな校則破ってなくない?」
「平塚は特にスカート丈がアウトだ。そんなに短くしとったらいつか痴漢に遭っても文句言えないぞ」
「えぇ~っ」平塚がだるそうに声を漏らす。一方、担任の言うことには空却も同意したかった。なんで階段登るたびにこっちが正面から目ェ逸らさなかんのだ、と常日頃から思っているからである。
しかし、校則を破っているのは平塚や空却だけではない。クラス……いや、全校生徒の中で規則を守っている者は非常に少なかった。授業を抜ける生徒もちらほらいるし、どちらかというと不良が多いこの学校にとって、教師が掲げているルールは飾りのようなものだ。気の弱い教師は見て見ぬふりをしているが、頭の固く正義感の強い教師は、生徒に向かって懲りずに注意している。まあ、ほとんどが柄の悪い連中に凄まれて終わるのだが。要は、あちらも形だけ繕いたいだけなのだろうと空却は察した。
「てか、上のセンパイたちにももっと悪そうな人いんじゃん。このあいだなんて、空きビン使って廊下でボーリング大会しとったよ。終わったあと、ガラスの破片めっちゃじゃらじゃらしとったし」
「あいつらは俺のクラスじゃないから良し」
「うわサイテー」
一方、空却たちの担任の頭は固くない方だ。かと言って、過剰な校則違反を見過ごすほどの臆病教師でもない。あくまで生徒と教師の中立の立場に彼はいる。こちらとしてはのらりくらりと躱しやすい楽な存在だが、世間一般的に見たら、こういうのが一番面倒な人間なのだろう。
……まあ、頭の固そうな老いぼれクソ先公よりかは幾分マシだが。空却がじっと担任を見つめていると、彼はなぜか困ったような笑みを浮かべていた。
「波羅夷は随分目が良さそうだなあ」
「目が悪かったら経が読めっかよ」
「いや、視力のことじゃなくてだな――」
「せんせー。うち、家帰りたーい」
平塚の一言で、担任が自身の腕時計を見る。ふっと顔を上げると、空却と目を合わせてにんまりと笑った。「よし! 波羅夷は帰っていいぞー」「えっ! うちは!?」「平塚にはやってもらいたいことがあるんだよ」彼の一言で同じくにんまりと笑みを浮かべた空却は、「じゃーなー」と平塚に向かって勝ち誇った顔を見せびらかし、部屋を出た。「波羅夷だけずーるーい~っ!」という声を背中に受けながらも、空却が後ろを振り返ることはなかった。
準備室を出ると、「空却くんっ」と不意に声がかかる。見れば、こちらに向かって駆け寄ってくるの姿があった。なぜが――疑問を消化するよりも前に、近くにいた野山の姿も同時に捉える。ようやく訪れた解放感で有頂天だった気分が一気に下がってしまった。
……またこいつと一緒にいやがんのかよ。空却が野山をきっと睨みつけるも、彼の表情はぴくりとも変わらなかった。
「空却くん、大丈夫だった……?」
「大丈夫ってなにがだよ」
「先生に怒られとらんかったかなぁって……」
そんな空却を知らずして、こちらに駆け寄ってきたは心配そうな声色でそう言う。問題児を呼び出す時によく使うらしい準備室に長居する理由が、彼女にとっては一つしかないんだろう。
「……別に。格好直せって言われただけだ」空却がそう言うと、「そっかあ」とは安心したように息をついた。すると、彼女はちらりと野山を一瞥して、再度空却にこう尋ねる。
「空却くん、あんちゃんはまだ中にいる?」
「あぁ。雑用があんだと」
そして、がこそこそと野山に話しかける。「野山くん、あんちゃんのこと待っとるよね……?」「うん。那須野は先帰っとっていいよ」二人のスムーズすぎる会話が、空却が知らないを見せつけられているようでさらにいらっとした。目の前にいんのになんでこそこそ話すんだよ腹立つなあと距離近けんだよ離れろ。
「じゃあまたね、野山くん。またあし――」が言い終わる前に、空却は彼女の手をぐっと引いた。今度は力加減を間違えないように緩く、それでいてからは離れられないように。後ろから聞こえてくるの足音で、自分に一生懸命ついてこようとしているのが分かる。それだけが、やはり不思議と心地良かった。
「……なんでここにいるって分かった」
しばらく廊下を歩いて、空却がに話を振る。少し歩幅を緩めると、がほ、と息をつきながら話を始めた。
「職員室に用事があって行ったら、ちょうど二人が準備室に入ってくところが見えたの」
「へー。んで、出てくるまで待ってたのかよ」
「うん。先に荷物持ってきてから、野山くんと二人のこと待っ――」
奴の名前が出てきた途端、静まっていた怒りがふつふつと蘇る。それを察してかどうか分からないが、の声が止んで、慌てたように話を切り替えた。
「く、空却くんは部活決まったっ?」
「はあ? 部活だあ?」
「今日から部活体験始まるみたいだから、空却くんはなにするんかなぁって」
「何もやらねーよ。俺は帰宅部だ」
そういえば、担任がそんなようなものがあると話してたような、話してなかったような。まあ、が言うのだからあるんだろう。しかしどちらにしろ、やりたいこともないし、夕方のおつとめができなくなるのは困るので自分には関係のない話だ。
一方のは、「そっかぁ……。お寺のこともあるもんねぇ」と残念そうに声を落としている。それがどうかしたかと聞こうとしたら、ふと、学校にそぐわない藺草の匂いが空却の鼻を掠めた。
匂いがした方を見ると、木製の格子が廊下に沿って長く続いている。どうやら一つの教室のようで、そのドアの横には“茶道室”という木の看板が飾られていた。が立ち止まって、その格子の間を見つめていたので、空却もそれに習って足を止めた。
おそらく、上級生だろう。数人の生徒が着物を着て、正座をしながら講師らしき女性の話に耳を傾けている。話の内容までは聞き取れないが、とても緩やかな空気感だった。茶道部という文言からしても、文化部の中でも一二を争う平穏な部なのだと思う。
さして興味のない空却が隣のを盗み見ると、もまたこちらを見上げていた。
「空却くんは、着物着た女の人、すき……?」
「はあ? なんだよやぶからぼうに」
「先輩たちのこと、ずっと見とったから……」
それはが見てたからだ。見たくて見ていたわけではない。とはいえど、そう言われてしまっては想像してしまう。着物を着た女性が寺に出入りする回数は少なくはない。定期的に開催される茶道や華道の体験教室を任せている講師だったり、灼空の馴染みの人間だったりと様々だ。着物を着た女……幼い頃から馴染み深いものとして見てきているが、特別目が引かれることは――
――「なぁに? 見惚れてちゃってる感じ? かわいいとこあるじゃなーい」
――「うっせぇ!! 見ほれてねーわ!!」
……白世界に散った赤椿と、黄色の兵児帯。無意識に頭を過ぎった、過去の記憶。着物とは少し違うが、普段とは違う装いに一瞬だけ時間を忘れた感覚を、空却は今でも覚えていた。
……あの時は、たしか顔色が悪くて、あまり見ていられなかった。なら、今のが着たら――隣を見下ろすと、こちらからの答えを待っているがいた。その眼差しがひどく眩しくて、空却はきまりが悪そうに目を逸らした。
「……まぁ、あれだ。好きか嫌いかって聞かれりゃあな」
柄にもなく、曖昧な言い方をしてしまう。それでも何かしら理解したらしいの顔がぱあっと過剰に明るくなった。
「そっかあ!」
「あ? お、おう」
それから、はにこにこと笑いながら上機嫌で歩き出す。空却もそれについていく。特別なことは言っていないはずだが、明らかに様子が変わったに内心首を傾げつつ、空却は話を戻した。
「で、お前は部活入んのかよ」
「うんっ。茶道部っ」
即答だった。では今のは、噂をすれば、というやつだったのか。まあ、普段からほけほけとしているらしいといえばらしい。運動部なら止めておけと言うところだったが、茶道部なら……まあ、いいだろう。お茶とお菓子に囲まれるは見ていて安心だ。
……着物を着たが、柔らかく笑っている姿を想像して、空却も同じように口角が持ち上がる。いやなんでだよ、と自分に突っ込みを入れながら、に見られないように片手でその口元を覆い隠した。
のクラスに資料を置いて――幸い、道すがら教師に会うことはなかった――昇降口に着き、上履きから靴に履き替える。空却がのクラスの下駄箱に行くと、もたもたと運動靴に履き替えている途中のがいた。
今日は余裕でん家寄れるな――空却がひとりそう思っていたら、「空却くん」と下にいるから名前を呼ばれた。
「なん――」
いつの間にか立ち上がっていたと、随分近い距離で目が合う。というのも、普段はじりっ、じりっと近づいてくるがいたからだ。そんなに対してぎょっとした空却は反射的に一歩、二歩とたじろいだ。
心臓が驚いている間に、背中に下駄箱が当たる。最終的に、胸の前まで迫ってきたは、空却の体をじろじろと観察している。身体検査でもこんなにも緊張しないというのに、ひどく体が強ばっていた。
……無意識に息を止めていたらしい。が一歩距離を置いたら、肺いっぱいに空気が入り込んできた。
「……痛いとこ、ない?」
「は、あ?」
「怖い人たちとけんかしたって聞いたから……」
何を言うかと思えば――の不可思議な行動に合点がいった空却は深々と溜息をつく。それでも、の心配そうな顔が晴れることはなかった。
たしかに数日前、上級生に悪絡みをされて、ほんの少し相手をした。それからまた数日後に複数人に喧嘩を売られたものだから、同じようにした。それだけだ。誰かに話すことのことでもない。後々噂に聞いたら名のある暴走族らしかったが、最後には全員地面に寝ていたので大したことねえな、と思った。
……だから、さっき職員室で怒られなかったか聞いたのか。少し胸が舞ったようになった空却は、そっぽ向きながらぼそりと言う。
「……なんともねーよ」
「ほんとう……?」
「ああ。なんならここで脱いでやろうか」
空却が着ているスカジャンに手をかけると、はみるみる顔を真っ赤にさせて、「ぬっ、ぬぐ……っ?」とどもり始める。思いのほかの反応が面白くて、くく、と空却は喉の奥で笑った。
「冗談だわばぁか」
「じょうだん……っ」
「つか、先公に説教される筋合いもねーよ。あっちが最初に吹っ掛けてきたからな。俺は正当防衛で伸しただけだ」
どいつもこいつも口だけ達者でつまらなかった。が、手足を思いっきり使って暴れたのは気持ちが良かったので、今後、振られた喧嘩は喜んで買うことにする。
まあ、今回の件で妙に箔がついてしまったらしく、上級生の忌々しい眼差しも畏敬混じったものに変わってしまったが。つまんねえな、と空却が耽っていると、きゅ、とスカジャンが微かに下に引っ張られる。見れば、がスカジャンの裾に縋るように指で摘んでいた。
「正当防衛でも……空却くんが怪我したら……かなしい……」
悲しげにそっと伏せられた目と潤んで聞こえた声にとくんと心臓が跳ねる。掴んでいるの指が嵐に揺られる小花くらい健気に映って、その上から力強く握りしめたくなった。
また、少し遠ざかってしまったの頭に手を伸ばす。前頭部を押すようにしてくしゃりと撫でると、の体がきゅう、と縮こまった。
「……要はあれだろ。喧嘩しても怪我しなきゃあいいんだろ」
「う、うん……」
「売られた喧嘩は買う。が、全部無傷で終わらせる。それでいいか」
手を離すと、が再び顔を上げる。こくこくと頻りに頷きながら、「うんっ……。うんっ。それでいいっ」と嬉しそうにオウム返しをした。深刻そうな顔をしていたかと思えばすぐに元に戻る。ほんと単純な奴だな、と空却は薄く笑った。
話は終わり、と言わんばかりにタイミング良くチャイムが鳴る。「腹減ったし、もう帰んぞ」そう言って歩き出すと、も隣に並んでとことことついてきた。
「空却くん」
「なんだ」
は何か飼っているかのように口をもごもごとさせながら、歯切れ悪く言葉を紡ごうとしている。今日のご飯なににしようかなあ、という話が始まるかと思えば、どうやらそうではないらしい。「えっと……その……」
「きょ、今日っ、この後なにもなかったらおうちに――っ」
「くーこ~っ!」
遠くから声が飛んできて、空却の意識がから離れる。声がした方に目を凝らせば、小学校からの知り合いの女子がこちらに向かって手を振っていた。犬のように駆け寄ってきたかと思えば、すぐにぴたりと立ち止まる。
女子は、空却とを見比べながらひどくばつ悪そうな顔をしている。「ご、ごめん。なんか話しとった?」「いや、特に何も」そう言うと、なぜかも彼女と同じような顔をしていて、「わ、わたし、どっか行っとるね」と愛想笑いを浮かべながら言った。はあ? と空却は意味不明だと言わんばかりに眉を顰める。
「なんでだよ。別にここにいていいだろ。なあ」
空却が女子に同意を求めると、「う、うん。いいよ。そんな大した話じゃないから」と彼女は曖昧に笑って頷いた。
「これからさ、部活体験終わった同小の子たち誘ってオケ行くんだけど、空却も来ない?」
「桶?」
「カラオケ。空却、歌上手いでしょ?」嬉々として言う女子に、空却は一考する。正直今日は歌う気分じゃないし、の家に寄る予定だった。まあ本人には話していないが、自分の中ではすでに決定事項だ。
悪ぃな――そう断ろうとすると、ずっと居心地悪そうにしているに女子が目をやった。
「あなたもよかったら一緒に行こうよ」
「え……?」
「あっちにもいっぱい女の子いるから、たくさん友達できると思うよ」
彼女はにこやかに言う。昔から面倒見のいい女子だ。故に、その言葉に違和感はなかったが、はこちらをちらちらと見上げながら迷っている様子だった。
女子がたくさんいるってことは男子もそれなりにいるんだろう。自分が行ったら、大方、喧嘩の話を持ち出されるに違いない。も知っていたのだから顔見知りの人間が知っていてもおかしくないだろう。
……まあ、それはそれとして、歌っているに興味がないことはないのだが。それでも、空却の中で傾く天秤は決まっていた。
「悪ぃな。今日はそういう気分じゃねーんだわ」
「あとこいつも行かねえ」隣にいるを指差して言うと、「……そっか。今度は来てね!」と女子は元気よく言う。その後、適当に二言三言話してから、彼女は校門へ走り去っていった。
「……で、なんだって」
「えっ」
「さっきなんか言いかけたろ」
ようやく二人きりになって、空却が終始無言のに話しかける。一瞬だけぽかんとしたはぶるぶると首を横に振った。
「ううんっ。たいしたことじゃないからっ」
「はあ? なんだそれ」
「それより空却くん、カラオケよかったの?」
「同じこと言わせんなよ。今日はそういう気分じゃ――」
「あっ!」
がいきなり大きな声を上げる。今度はなんだ。
「わたしっ、用事思い出したっ」
「はああぁ? なんだよ突然」
「ごめんね空却くんっ。わたし、先帰っとるねっ。あっ、よかったらさっきの子と一緒にカラオケ行ってこやあっ」
「いやだから今日はそういう気分じゃ――っておいっ!」
言い終わる前に、は反対の校門に向かって走り去ってしまった。普段とろとろしているくせに、こういう時だけ無駄に足が早い。追いかける間もなく、はみるみる小さくなって校舎の影に消えた。
またしても予定が狂ってしまい、「ああくそ……」と空却は一人悪態をつく。手持ち無沙汰になるがままポケットに手を突っ込み、無差別に選んだガムを口に放ると、不貞腐れるようにくちゃくちゃと噛み始めた。
日が暮れてから随分経つ。に逃げられ、女子の後を追ってカラオケで歌う気にもなれず、かと言って家に帰る気にもなれず……商店街でひたすら食べ歩きをしていた。
間食程度にお腹が膨れた頃、もうそろそろ帰るか、と思い立つ。空却は唐揚げが入っていた空の紙コップをぐしゃりと潰して、店の近くにあったゴミ箱に入れた。
「(……なんだかんだで寄っちまったな)」
この足が寺から少し遠回りをしてしまうのは習慣になりつつあった。の家の前を通ると、もう開かれることのない床屋の出入口がある。大きな窓越しに見える店内は綺麗に片付けられていて、そのせいでひどく殺風景に映った。
足は、その横の路地に入る。夕ご飯目当てか、玄関の前で屯している猫達がいる。足元にじゃれついてくるのを踏みつけないようにしつつ、空却は数日前にから渡された家の鍵を出した。
……がちゃん。錠が外れる音が重たく響く。引き戸を開けてすぐ、目の前に飛び込んできた光景に空却は思わず口を開いた。
「きっ……たねッ!」
足の踏み場もないということはこのことか。二段三段と積まれた段ボールや、その周辺に散らかる雑貨達……ぱっと見渡した限り、かなり古びたものばかりで年季を感じる。カヨの私物もしくは家の中に眠っていた持ち主不明のものだろう。
靴を脱いだはいいものの、どこを歩いていいのか皆目見当もつかない状況だ。今は亡きカヨの持ち物を誤って踏みつけたり蹴っ飛ばしてしまったら面目が立たない。
なにが“あとちょっと”だよ。片付け全然進んでねえじゃねーか。顰めた顔をしながら、空却は家の奥へと慎重に進んでいった。はどこだ、と探すまでもなく、空却がカヨの自室だった部屋のドアを開けると、そこにはいた。その部屋もまた、廊下と肩を並べるくらい物で溢れていて、その中に紛れるようにして、は足を曲げてちょんと座っている。
は空却に気づいていない様子で、カヨの私物に囲まれながら、床に置かれた物の一つを手に取っては下ろして、また次のものを手に取っては下ろしてを繰り返している。まるで、その物に詰まった一つの思い出を確認するように。
……ぐずっ。重たい水音が聞こえてきて我に返った空却は、小さな背中に向かって大股で近づいた。
「っ、ひッ……っ?」
の口から微かな悲鳴が漏れたが、構わなかった。空却はの側頭部を両手で固定し、無理矢理その顔を上げさせる。の目からぼろぼろと零れている涙を見て、がんっと頭に鈍器がぶつかったような衝撃が走った。
「……そりゃあ、泣きながらやっとったらいつまで経っても片付かねーわな」
言葉も出ないくらい驚いている様子の。大きく開いた目からはまた一つ、大粒の涙が落ちた。
……カヨがいなくなってから、まだ日は浅い。だから、の中にある傷も、そう容易く癒えるはずがないのだ。
「お前、昔自分で言っとったよな。泣いたら手足動かなくなるっつっとったよな」
もう一粒、さらにもう一粒と、がぼろっと流す。それを痛々しく見送りながら、空却は苛立ちげに言葉を続ける。
「なあ。そん時、俺が言ったこと忘れたか」
ようやく、が泣く以外の反応を示す。ぶるぶると首を振って、「わすれ、とらん……」と消え入りそうな声でぽそりと言った。
……何か、言いたげな顔をしている。喉に小骨がつっかえたように、中身のない嗚咽ばかりを繰り返している。ようやく話し出したと思ったら、「くぅ、こーくんは……くーこーくんのことが、ある、から……」と訳の分からないことを言う。ただ、震えている声で言ったその言葉が、が今本当に言いたいことではないことだけは、分かった。は、昔から嘘がつけない女子だった。
「……なんだそれ。意味分かんねえ」
「あ、あたらしいおともだちと、はなしたり、からおけ、いったり、いろいろ、あるから……」
「最終的にどうするか決めんのは俺だ。お前の役目じゃねえ」
怯えたように俯いたを見て、これ以上話していても埒が明かないと思った。空却は彼女の手の中にあった物を奪い、「これ、遺すんか」と短く尋ねた。
「う、ううん……。それは……すてるの……」
「これは」
「それは……とっとくもの……」
これは、すてる、あれは、のこす――そんな短いやり取りを、淡々と続ける。色々あって遅くなってしまったが、来てよかった。やはり、の反応を待っていてはだめなのだと改めて思った。
遺すもの、捨てるもの、お焚き上げするもの――だんだん、に物を見せていちいち確認するのも面倒になってきて、空却の独断であれこれと分類しながらカヨの遺品を仕分けていく。その甲斐あって、短い時間で整理は着実に進んでいった。
「……さっきの、こ」
すっかり意気消沈してしまったが、掠れた声で呟く。落とされた言葉は水っぽく、ひどく鼻がかった声だったが、新しく落ちる涙はもうなかった。
「くーこーくんのこと……すき、なんだとおもう……」
さっきの子――が思い描いている人物と合致して、一瞬止まった空却の手は、何食わぬ顔で再度動いた。
「……昔、あいつに告られた」
「え……ッ?」
「でもフった。それきりなんもねーよ」
が、何を気にしているのか分からない。だから、空却が真実だけを言うと、「そう、なんだ……」となぜか彼女は声色をさらに沈ませた。
「それよりお前、さっさとこっち手つだ――」
「あのあと、あの子とカラオケ、いったんだよね……?」
「はあ? だから行ってねーよ。つかお前、口より手動か――」
「えっ? いってないの……っ?」
に話を無視されるのは慣れっこだが、今回に限ってはむかっとした。は手に持っていたカヨの遺品を床に置いて、空却が広げたくもない話にかぶりついてきた。
「どうして……?」
「どうしてもこうしても行きたくなかったからだ」
「あのこ、くーこーくんに来てほしそうだったのに……」
「だろうな。顔見りゃあ分かる」
「なら――」
ぼきぼきッ、と手の中にあった線香の束がすべて真っ二つに折れた。折れたところは粉になって、床の上ににさらさらと落ちていく。
「……俺の事情に、他人のお前がいちいち口出しすんな」
くそうぜえ
皮膚が痺れるような沈黙が部屋に降りる。空却の怒りもゆるゆると収まっていった。ようやく閉じたの口。その代わりに、彼女は顔を伏せながら頼りない腕で遺品整理を始めた。丸まった背中とその雰囲気が、触れたらすぐに崩れていきそうな枯れ花のようだった。
……そんなを見ていられなくて、空却はわざと目を逸らす。使い物にならなくなった線香はごみ箱に捨てた。間違ったことは、何一つ言っていない自信があった。誰が自分を好きかろうが、それを知った上で自分が何しようが、やりたいことは変わらない。たとえ、やりたいことの先にがいたとしても、自分の選択を自身にあれこれ言われる筋合いはないと思った。
「(……お前だって、俺の知らねえことの一つや二つあんだろーが)」
再び聞こえてきた水音をかき消すように、空却は無我夢中で手を動かした。
