Episode.8



 例年よりも温暖な気候が春の目覚めを早めた。三月中旬にはすでに蕾を付けていた桜の木は満開を期し、空却の新たな門出を爛漫な桜吹雪で祝福したのだった。
 長ったるい式典を終え、在校生達によって華々しく飾りつけされた教室に帰ってくる。画用紙を切り取って作られた桜の木、色とりどりのペーパーフラワー、虹色に並んでいる輪飾り……そして、目の前の黒板にはチョークをふんだんに使って“卒業おめでとう”とレタリングされた文字に、卒業式にちなんだ絵が所狭しと描かれていた。
 時間をおいて、担任の教師が教室に入ってくると、改めて一人一人に卒業証書とアルバムが手渡された。六年間、この体で身についたことをたった数行で表しただけの紙っ切れには興味はなかった。
 その後、かっちりとしたスーツを着た担任の教師から、有難い雰囲気を纏っているだけの言葉がぽつぽつと紡がれていく。一年生の時から生意気な口を利いていた教師の話を、空却は教室の中で唯一涼しい顔で右から左に流していった。卒業おめでとう、より多くより広い知識と経験を身につけてさらなる飛躍を、これからは自分の好きな道へ突き進んでください、素晴らしい明日を育んで、人を大切にできる、そんな大人になって――ああ、耳の奥でこしょこしょとやかましい。
 これ、そんなにいいこと言ってっか。世界の光っているところばかりを抽出したような言葉を、空却の中では“子供だまし”と呼ぶ。暗がりのところにはあえて触れていない言葉の羅列は、今日寝れば明日には忘れているようなものばかりだった。家に帰るまでに覚えているのかどうかも怪しい。
 誰に何を言われたところで、空却が心底畏敬する存在は、この世の慈悲をまるっと飲み込んだ仏だけだ。仏がのこした言葉と比べたら、たかだか三十数年しか生きていない人間から吐き出されるものなど、空却からしてみれば赤子のうわ言同然だった。もちろん、口には出さない。言ってしまえば、教室の空気がかちこちに凍るのは目に見えていたし、卒業式の日に校長室に呼ばれるなど、笑い話にもならないようなことはしたくなかった。

 説教よりも退屈な担任の教師の話が終わると、皆が待ってましたと言わんばかりに席を立って、自分達の卒業アルバムに寄せ書きを書いたり書かれたりする。空却はずっと自分の席に座っていたが、机の前に来たクラスメイトの一人に寄せ書きを頼まれたのを皮切りに、空却の目の前には次々と卒業アルバムがずいずい差し出されいった。数分もしない間に、空却の机にはアルバムの山が出来上がり、せっかくの黒板アートもそれらによって半分隠れてしまった。
 御朱印かよ、と空却は内心突っ込みを入れる。しかし、表立った文句は言わず、空却は金印が押されているアルバムの持ち主の名前を確認しながら、去年の誕生日に灼空からもらった筆ペンで一人一人にメッセージを書いていった。一度でも話したことのある人なら顔と名前が一致したので、なんてことはない。どうしても文章が思いつかなかったら、最近ハマり始めた我流説法をさらさらと綴った。
 アルバムがはけていき、机の木目が再び顔を出す頃には、利き手である右手がじんじんと痺れていた。後に、手元に戻ってきた自分の卒業アルバムは真っ白なスペースが見当たらないくらい、どこもかしこもクラスメイトの色とりどりのメッセージに埋め尽くされていて、中々に圧巻だった。いつの間にか他クラスにまで渡っていたらしく、去年や一昨年、それよりも前の年で一緒のクラスになった人の寄せ書きまであった。


 教室の空気がようやく落ちつきを取り戻してくると、空却はクラスメイト達にあっさりと別れを告げた。どうせ、また一か月後には近所に一つしかない中学校で今の六年生のほぼ全員と再会を果たすのだから、今、クラスの女子がやっているような涙とハグの詰まった別れは大袈裟だろうと思った。ましてや、自分は男だ。母親がホトケになった日以降、この目から雫が零れたことは一度だってなかった。

 教室を出ると、卒業生の保護者が廊下にちらほらと集まってきていた。クラスメイトが次々に親と合流して、彼らが親だけに見せる柔和な表情を遠巻きに見た空却は、たったひとり、学校の正門を潜る。その時に初めて、感慨深さというものが空却の体をぶすりと刺した。体こそ皆と同じ成長速度だが、中身の成長過程は皆とは少し違う道を辿っていると気づいたのは、いつだったか。  しかし、それも仕方がない。空却は、寺に生まれた自分を否定したりしないし、仏に憧憬の念を抱く自分を受け入れている。高学年になってから、道徳の授業で自分の意見を述べるたびにクラスメイトから賛同を得なかったり、教師に苦笑をされることが多くなったと気づいてからは、そんなことを自分の奥に留めて離さなかった。空却も、自分の意見を述べろと言うから述べただけで、集団の輪を乱したいわけではない。少なくとも、空却のクラスメイトの中に仏教徒は誰一人いなかった。
 周囲の目からして、自分は“へん”なのだろう。そう思われるのも、人の常。しかし、こうして卒業アルバムのフリースペースが虹色に染まったのも、人よりも図太い精神を持って育ち、その精神の元、皆と接してきたおかげだ。本当の意味で自分を邪険にしないのは、仏と同じ志をもつ寺院の人間と――

 ――「空却くん、おとなだねえ」

 ……そんな、語彙力の欠けらもない陳腐な言葉で片付ける女子が、一人いるくらいだ。







 空却は蛇の皮のような黒い筒を片手に、通学路を辿る。近所に住んでいるからここと同じ道を通ることはこれからもあるだろうが、ランドセルを背負って歩くのは今日で最後だ。六年間使い古したそれはもうボロボロで、冠の表面はやんちゃの功績である傷で覆われ、隅のところは所々革が剥げていた。今日で、このランドセルともお別れだ。低学年の頃は少々乱暴に扱ってしまったので、余っている葛篭に入れて御礼を言う前に謝罪をしなければ。六年生になった空却は、ものに対しても相応の敬意を払うようになった。
 いつもよりも足幅を狭めて、ゆるく歩いていく。整備されていないコンクリート、くすんだ橙色のカーブミラー、いつの間にか猫のたまり場になっている路地裏……今までなんとなしに歩いていた道だったが、こんなのあったか、と今日になってそう思うものがちらほらとあった。

 ――数分歩くと、一本向こう側の大通りに繋がる曲がり道が見えてくる。そういえば、低学年の頃はこの角からがよく出てきていた。ある日を境に、赤いランドセルを前方に捉えるようになってからは、そんなこともなくなったが。
 あの頃は、とのおいかけっこが毎日のように繰り広げられた。その末、そのままの家に行って、カヨに菓子をもらって寺に帰るのが日常だった。たまに二階でと一緒に宿題をして帰る日もあった。どうしてを邪険にしていたのか、どうして邪険にしなくなったのか、今の空却には分からない。いちいち己の心の変化を気にするほど、空却は神経質ではない。道でばったり会えば一緒に帰り、土日のどこかにはどちらかの家で宿題をする――今の関係があれば、それでいいと思った。
 曲がり角で会う直前の心情を、空却は昨日のことのように思い出せる。今日は出てこねえだろうな、と勘ぐりながら、そろりそろりと足幅を狭める気持ち。――足が急く。また変なあだ名で呼ばねえだろうな、と唇をゆがめる。――もう記憶の彼方に葬られた、やわらかいおと。いつの間にか拮抗していた過去と今の思いに身が裂けそうになって、空却は曲がり角の向こう側にある地面を大股にした足で踏んづけた。

 ――「あっ。くーちゃんだあ~っ」
 ――「げっ」

「――あっ。空却くん」

 ……なんで、今日に限って。
 四年経った今、今更ここで会うなんて思わない。曲がり角から出てきたもそう思ったのか、やや早口で自分の名を呼んだ。それでも、最初にここで聞いた時よりも声色は落ち着いていて、空却の耳にすっと馴染んでいく。自分の胸にぶつかりそうなところで立ち止まった体は、今の自分よりも一回りくらい小さくなっていた。もあれから成長しているはずなのに、なんだか不思議だった。

「ここで会うの、ひさしぶりだねえ」

 嬉々として言ったは、チェックのプリーツスカートをふわっと揺らした。低学年の時よりも伸びた髪を一つに結って、赤椿の花飾りをちょんとつけたはいつもよりも少しだけ大きく見えた。後ろに背負っているランドセルはいつもよりも軽そうで、自分と同じ筒を大事そうに両手で持っている。

 「……そーだな」

 見慣れない晴れ姿ばかりに目がいって、思わずぶっきらぼうになった声。しかし、この数年で慣れたのか、あまり気にしていなさそうなは当たり前のように空却の隣に並んだ。
 が今日は特別輝いて見えたのは、きっと彼女が似合わないスーツを着ているせいだ。さっきから歩くたびに揺れるスカートのひだばかりに目がいって仕方がない。今までのは、スカートよりもショート丈のズボンを着ていることの方が多かった。
 しかしまあ、も終始無言でいるわけではない。

「卒業式、どうだった?」
「ふつー。お前は」
「楽しかったよー。でも、みんなとおわかれするの、さみしかったなぁ」

 は憂いを含んだ目をそっと伏せた。前々から聞いていたが、のクラスメイトはほぼ全員頭の良い中学校に進学するのだそうだ。空却と同じ中学校に行くのは、を入れて三人だけなのだと言う。
 ふうん。空却はさして興味なさげに鼻から音を漏らした後、「」と名を呼んだ。伏せられていたの目はすぐさま空却の方を向く。そこにはもう、憂いのうの字もないくらい綺麗な透明色に澄みきっていた。

「なあに?」
「今から制服とりに行くから、お前も来いよ」

 の目がみるみる丸くなっていく。一人では買えないだろうということで、灼空に連れられて空却共々同日に注文していた。昨日の夕方に出来上がりを知らせる電話が店からもらったので、もきっと同じのはずだ。
 代金はすでに支払っているので、制服を受け取るだけだから保護者がいなくても当人達だけでなんとかなる。制服販売店はここから少し遠いが、歩けない距離ではなかった。
 しかし、はきょとんとしたまま何も言わない。の口が開くのを待っている間、胸がひどくむずむずとした空却は、に用意された道を狭めるようにさらに言葉を続けた。

「その足で病院行って、カヨばあに制服姿見せてやりゃーいいだろ」

 刹那、の目がきらっと瞬く。「うんっ。いくっ」と弾んだ声を聞いて初めて、空却の体からふっと力が抜けた。まったく。一体なにを迷っていたんだか。自分がそばにいる時、はなにも考えなくたっていいのに。危険な道へは、けっして行かせはしないから。
 右に行けと言えば右に行く。まっすぐ進むなと言えばいったん立ち止まって、自分の口から紡がれる先の言葉を待っている。そんなが、猫じゃらしに振りまわされている子猫のようで、だんだんと癖になっていく。自分の存在を正と信じる無垢なこころに対して、気がつけば自分の周りをちょろちょろしているちいさなからだに対して、胸がくるしいのに、全身の皮膚がぞくぞくとして仕方がないのに、なぜだか、とても……いい気分だった。
 空却は、の空いている手に触れると、ぴくっとふるえた小さな指を覆うようにぎゅっと握る。躊躇などこれっぽっちもなかった。も口元を不思議な形に緩めて、やわらかい指の腹を自分の手の甲にひっかけた。の手は全体的にふわふわ、皮膚はさらさらとしていてとても触り心地がいい。
 せめて、店に着くまでは……このままで。冷やかししかできないクラスメイトとも、との関係を仲がいいという言葉だけで片付ける近所の人とも……誰とも会わなくていい。人目があると、なぜか手を離したがる。視界の端で散っていく桜の花弁を見ながら、空却は今のでは振りほどけないよう、手の力をさらに強めた。







 そもそも、試着をした時から気に食わなかったのだ。

「(くッそ動きづれーな……)」

 ごくん、と唾を飲み込むだけで締まる首回り。最近出っ張り始めた喉に御座す仏様がとても苦しそうだった。頑張って首元を緩めようとしても、固い白色のカラーがことごとく邪魔をする。
 おまけに、胴は長く、腕の袖も親指の付け根までぶかっと覆っているせいで暑いし動きにくい。その下に着ているYシャツもごわごわとして、少し摩擦が起きるだけで肌をちくちくと刺すようだった。ズボンの裾上げに至っては何センチしたかも分からない。
 つめ襟を外したい。学ランを脱ぎたいし、Yシャツは胸元だけがばっと開けたい――式典の時は仕方がないにしても、それ以外なら服装くらい自由にしたっていいだろう。学校は友と語らい、勉学をする場だ。それさえできていれば、格好など頓着する必要はないというのが空却の自論である。
 つか、制服じたいくそだせーんだよな――そこまで思って、はたとした空却は同じ部屋で衝立の向こう側にいるに呼びかけた。

ー、終わったか」
「あ、あとちょっと……っ」

 苦しげな声がくぐもって聞こえてきて、空却はやれやれ、といったふうに息を落とす。制服を着るのに手間取っているであろうに、「まーゆっくりやれよ」と返した。制服販売店に展示されていた女子の制服は一目見ただけで複雑そうだったし、そもそも女の身支度は時間がかかるものだ。
 さすがに制服の着衣までは空却は手が出せない。空却は畳にどかっと胡座をかいて、衝立の向こうからの顔が覗く時までじっと待った。

 ――「空却くんの学ランすがた、はやく見たいなぁ」

 制服を受け取って店を出た後、がそんなことをぽつんと零した。ならうち来て試着するか、と言えば、独り言のつもりだったらしいはひどく驚いていた。一度口にした言葉には責任もてよ。訂正なんてさせる暇も与えず、お前も着ろよ、と空却が付け足すと、「えぇっ」とが声を上げた。あとはいつもの流れだ。いやか、と空却が聞いて、が首を振り、お互いの足が寺の方へ向く。何度も、何度もしてきたやり取りだ。が自分の言葉にいや、と首を振ったことなど、一度だってなかった。

 数分後、「空却くん、出てきてもいい……?」と衝立の奥から聞こえた声に、「おー」と適当に返事すると、見知らぬ女子がそそ、とカニ歩きで出てきた。

「どう……かなぁ」

 自信なさげに胸の前で両手の指を絡めながら、その女子は小さな声でこちらに問う。首から上はいつものなのに、その下はまったく知らないだれかの体を借りてきたようだった。
 ……似合わない、と言うのだろうか、これは。自分の目が慣れていないだけだと思って、空却は瞬きを数回して、質量のある息を吐き出す。そこで初めて、自分が呼吸を止めていたのだと分かった。紺色の生地の中でひと際目を引く白い襟には、黒い曲線が二本描かれている。ちいさな膝小僧を隠すスカートは幅の狭いひだがゆらゆらと揺れていて、やはりそこでもさらけ出された足にばかり目がいった。
 はっ、とそのことに気づいた空却はぐいん、と首を持ち上げる。上を向いた先にはの顔があって、の目もまた、胡座をかいている自分をじっと見つめていた。こてん、と首を傾げる姿は、やはりいつもので、誰だこいつ、という疑念も徐々に薄れていった。

「……空却くんの制服、だぼだぼだねぇ」
「男はわざとでかく作っとんだわッ!」

 首から上へ、かあっと熱が一気に集中した空却は叫ぶ。「そうなんだあ」ようやくころっと笑った。制服をつくる時、制服に着せられとるな、と同伴していた灼空に言われたことを思い出して、空却の胸はまたむかむかとしてくる。これからもっとでかくなんだからな。今に見てろよ。そう思った空却がをきっと睨みつけても、当人は「あっ。制服のタグに名前書かんとかん」などと言ってどこ吹く風だった。
 このやろう。一方的に辱めを受けた気がして、空却もの制服をいじってやろうかと思う。しかし、どこだ、と探すまもなくそれはすぐに見つかった。の胸元を彩っている臙脂色のスカーフが左に曲がっていたのだ。本来なら笑いながらからかってやろうと思ったが、なんとなく……ほんとうになんとなく、空却は真顔のまま、「お前、それ結び方おかしくねーか」との胸元を指さした。

「えっ?」
「えり巻き」
「へん?」
「変だな。なんかゆがんどる」

 は胸のところに収まっているスカーフを見下ろしながら、「一番じょうずにむすべたんだけどなぁ……」と声を落とす。すると、スカートのひだをひらっと持ち上げて、皺がつかないようにぺたんと座った。その時も一瞬さらけ出された足に目線がいってしまい、慌てて逸らした空却は畳の目と目の間に穴を開けるくらいじっと目を凝らした。
 ……べつに、なにも見てねーし。誰に言い訳をしているのかも分からず、空却は心の中でそう呟く。そんなことよりも、なるほど――が着替えに手間取っていたのはそのせいか。ちらっ、と空却は臙脂のスカーフを盗むように見て、「しかたねーな」と小さく呟いた。

「それの結び方がのってる紙、あるか」
「うん。あるよー」

 「見せてみろ」そう言うと、は衝立の向こうから一枚の紙を持ってくる。簡単な線画と各工程に二行程度しか説明書きがないそれは、決して丁寧とは言えない。少なくとも、物覚えが悪いにとっては。
 しかし、空却にとっては造作もないものだ。さらっと一度流し読んだだけで、頭の上に浮かんだ線画通りに手が動く自信があった。こんなものは、花まつりの時に着る法衣よりもなんてことはない。

「おれがやってやる。一回ほどくぞ」
「え――」

 が何か言おうとしていたが、それよりも早く空却の指が伸びた。先端を摘んで、しゅッ、と手前に引けば、いとも容易く解けた臙脂色。襟からすっと引き抜くと、紺色と白だけになった制服はどこか物足りなさを覚えた。
 先ほどまでスカーフで隠れていた、白い曲線が集まるところに小さなチャックが揺れている。を守っているものが消えたようで、今のはやってはいけないことだったのではないかと漠然と思った。なんだろう、ずっと前にも、同じことを思ったことがある気がした。しかし、前とは違う。幾度も繰り返されてきた保健の授業と同級生との会話の中で、子どもには見えない、その奥底に隠されている意味を、今の空却はちゃんと理解していた。
 ……しかし、相手はだ。春には桜の木の下で自分で握ってきたおにぎりを食べ、夏にはカブトムシを素手で掴んでは自分に見せびらかし、秋と冬にはよく昼寝用の毛布に勝手に潜り込んできた、あのだ。だから、空却も感覚でしか分からないそんなこととは、まだ無縁の世界にいるはず。現に、は下を向いたまま何も言わないから、なんとも思っていないだろう。
 じわじわと溢れ出てくる違和感を無理矢理飲み込んだ空却は、正方形に広げたスカーフを三角に折る。の首にかけるようにして襟に通すと、頭の中に残っている線画通りにてきぱきと手を動かした。たしか、ここを、こうして――

「ほらよ」

 きゅっ。中心の結び目に少し余裕を持たせて、空却はぱっと手を離す。制服販売店で展示されていたような見本とそう大差ないものに仕上がった。我ながら器用だ。空却はの胸の下に収まったスカーフを見ながらふふん、と得意げな顔をしていると、正面からの歓声が聞こえてきた。「わああぁぁっ」

「ありがとうっ」
「おう」
「お手本みたいっ」
「まーな」
「空却くん、なんでもできてすごいねえっ」
「おーよ」

 の賞賛に思わず生返事になる空却。どんどん天狗になっていく鼻にはっと我に返り、「入学式までにちゃんと結べるように練習しとけよ」と言いながら、伸びきった鼻をぽきっと折った。過剰な驕りは慢心への入口なり――最近生み出した自己流説法がさっそく役に立った。
 しかし、は返事もせず、自分の胸のところで結ばれているスカーフに感動してばかりいる。ぜんぜん聞いてねーなこいつ。空却は溜息をつきながら、まあいいか、と今日に限っては妥協することにした。新しいものに気分が高揚するのは分かる。空却もそれは同じだ。それに、スカーフくらい曲がっていても自分が都度直してやればいい。
 なんせ、あと数日もすれば、否が応でもと同じ時間を共有することになる。下校時間、角を曲がるたびにあの赤いランドセルがあるかどうか、歩いている最中に自分の後ろからいつの声が飛んでくるか……そんなことで、この胸が異様なくらいざわざわと騒ぎ出すことは、もうなくなるのだ。


 お互いに寸法が合っているかどうかだけ確認し終えると、は制服が入っていた大きな箱に丁寧に入れて、空却はハンガーに学ランとズボンだけを通す。ハンガーごとそれを部屋の長押にかけた瞬間、きらっと反射して光った金色の釦が、空却の心の中にある大人の階段をさらに勢いよく登らせた。中学生……改めて思い浮かべるといい響きだ。
 「空却くん」不意に聞こえてきたの声に、空却はくるんと振り返る。折りたたんだ衝立を部屋の端に片付けていたは、すでに白いシャツとプリーツスカートの姿になっていて、最初に着ていたスーツは皺にならないように、制服が入った箱の横に丁寧に畳まれていた。

「あ?」
「いっこだけ、おねがいがあってね……」

 おねがい――食後の甘味を目の前に出されたように聞こえたそれに対して、「……なんだよ。“おねがい”って」となぜかぶっきらぼうな声が出てしまう。一方で、体は誰かに肘でつつかれているようにうずうずとしだして、の言葉を今か今かと待ち構えていた。
 「アルバムの寄せ書き、書いてほしいなあって」が無垢に笑んでそう言った瞬間、なんだそんなことか、とすとんと肩の力を抜いた空却。おねがいと言うからどんなことかと思いきや。おねがいされなくてもそれくらい書いてやるわ。
 どこか肩透かしを食った気もするような、しないような。それでも、「おー。いいぜ」と空却は考える間もなくそう言って、部屋の隅に放っておいたランドセルをずるずると手繰り寄せた。

「ほんとっ?」
「その代わり、おれのにも書けよ」
「うんっ。書くー」

 は嬉々として、自身のランドセルの中を漁り出す。そういえば、自分から人に寄せ書きを頼んだのは初めてだと、空却はふと思う。しかしまあ、それも必然だ。同級生はこちらから頼まなくても勝手に書いていたし、は書いてもらっただけで満足するだろうから、こうして自分から言わなければいけない。これだからは。内心呟いた言葉のわりに、とアルバムを交換する手の動きは終始穏やかだった。
 の学校のアルバムはどうなっているのかと少し興味があったが、色だけ違って形や厚さはまったく一緒だったものだから、あまり面白いものではなかった。

「空却くん、いっぱい書いてもらったんだねぇ……」
「勝手に書かれたもんもあるけどな」

 びっしりと詰まったフリースペースを見ながら、はぽつんと呟いた。空却も、のアルバムの最終ページを開いて見れば、男子特有の崩れた字が暴れている自分のものとはちがって、丁寧に書かれた文字達が行儀よく座っていた。ぱっと見ただけで女子の字ということが分かる。空却ほどではないものの、もそれなりの人数に書いてもらったようで、余白はあまり残っていなかった。
 ようやく空いているスペースを見つけた空却が筆ペンを手に取ってメッセージを書いていく。途中、「書く場所、どうしようかなぁ……」と迷っていただったが、「最初の見ひらきんとこにも白いとこあんだろ」と言ってやった。「ここ、書くとこじゃないよ……?」「いいんじゃね。寄せ書きなんて読めりゃーいいだろ」空却が手を動かしている間も、少し躊躇していたようだったが、ようやくサインペンの蓋を開ける音がして、空却も宛のメッセージに集中できた。まあ、最初の見開きは洒落た英文と桜の絵しかないし、本来寄せ書きを書くべき場所ではないので気持ちは分かる。本当に、色々な場所にメッセージを書かれた空却だったが、そこに筆を走らせた人は誰一人いなかったので、実質一人だけのフリースペースとなった。

 数分後、自分の手元に戻ってきたアルバム。最初のページを開くと、細くて丸っこい字で『卒業おめでとう。あとすこしで同じ中学校に通うね。よろしくね』と書かれていた。一文一文が短くて、この文章力のなさがなんともらしい。口で言われたらなんとも思わない拙い文章なのに、何回でも読みたくなるような、文字の一画一画をずっと見つめていたくなるような、そんな気持ちに囚われた。
 一方のは、自分のアルバムを見てはふくふくと笑っている。おそらくは今しがた自分が書いたメッセージを読んでいるにちがいないが、なにがそんなに面白いのか。別に、大したことは書いてないはずだ。寝坊すんなよ、とか、漢字ちゃんと勉強しろよ、とか……他の同級生と違って、に対してのメッセージが溢れて仕方がなくて、色々考えた挙句になんだか説教じみたことになってしまった。
 そんなにが笑うこと書いたか、と思ったところで、過去の記憶が交差した空却は話の方向を少し変えてこう言った。

「……お前、おれの字好きだよな」

 昔、の漢字の宿題を手伝っていた時、自分が手本として字を書いた紙をあげては、今のようにが笑っていたことを思い出した。あの頃よりも字体はより整ってきたと自負しているし、他人からの評価も変わらずいい。
 が笑っている理由は大方それだろうと、冗談で言ったつもりだったが、はたと真顔になったは、すぐにゆるっと笑んだ。

「うん。だいすき」

 ――頭が真っ白になった。
 の言葉が頭の奥で木霊する。打ち寄せた情動が胸の奥までぐいぐい押し迫ってきて、肺を外側からぎゅうぎゅうと圧迫した。おかげで息が上手く吸えない。そのせいで、風邪をひいた時のように首から上がぼうっとした熱で満たされた。なんだこれ。じわじわと溢れる未知なものに、目に水気すら帯びてきた。
 「空却くん、大丈夫……?」顔を覗き込んできたにぎょっとした空却は「なんでもねーよッ」と言って、慌てて顔を逸らした。と目が合った瞬間、顔が焼けるようになったので堪らない。くそっ……ほんとなんだこれ。鏡を見ていないから分からないが、きっと今の自分は情けない顔をしているにちがいない。しばらくの間、灼空に腰紐で縛られた姿を見られた時とはちがう色の羞恥が、空却の全身を分厚く覆った。



「制服、持ってくれてありがとう」
「どうってことねーよ」

 寺の正門までを見送る。空却が制服が入った箱を手渡すと、は律儀に礼を言った。さっきまでが背負っていた赤いランドセルは今はない。病院の帰りに取りに来いよ、と数分前に言った空却の言葉に頷いたは、空却の部屋にランドセルを置きっぱなしにしていた。
 
「これからおつとめがあっからおれは行けねーけど、一人で平気か」
「うんっ。へいきだよー」

 ちょっとでもが不安そうにしていたら、手伝いを放って同行したのに、があまりにもにこやかに答えたものだから、空却は少しだけ面白くない。しかしまあ、最近は日も長くなってきたので、一人を見送るにあたって、冬よりも不安要素はない。それに、病院に通いたての頃よりも、は一人で切手も買えるようになったし、病院に近い出口の番号も分かるようになっている。駅名だって、きちんと“やごとにっせき”と発音できるのだ。
 の著しい成長は喜ばしいことのはずなのに、空却の胸の内はほんの少しだけもの寂しさを覚えていて、いやいや、と内心首を横に振る。だって、いつかは一人でなんでもこなせるようにならなければいけないのだ。中学生になったら、空却は普段よりも心を鬼にしてに接すると決めた。もしもスカーフが曲がっていたら? その時はまた考える。

「いってくるね~っ」
「おー。車に気ぃつけろよ」

 「はあーい」ひらひらと手を振って、踵を返したは正門前を後にする。その後ろ姿はランドセルがない分、いつもよりも頼もしく見えた。本来ならすぐに寺の敷居を跨ぐところだが、今はまだ中学生じゃないので、が道の角を曲がるまで、その背中を見送ることにした。
 カヨは、の晴れ姿を見たがっていた。もカヨがそう思っていることを知っていて、制服姿をずっと見せたがっていた。これで、ようやく双方の願いが叶う。時間というものが、こんなにも人を焦らすのが得意とは思わなかった。しかし、焦らした分だけ、の心身が成長した機会が増えたと思えば、まあ結果オーライというやつだろう。
 ……そういえば、こうしての後ろ姿を見送るのは初めてかもしれない。がいるのは、いつだって自分の後ろか、隣だ。今だって、背中を向けている彼女の隣に、自分が立っている映像がありありと浮かんでくる。の姿が道の角に吸い込まれていった瞬間、再び胸中を襲ったものを振り払うようにして、空却は大股で寺の正門をくぐった。







 夕焼け小焼けの寂れた音楽が鳴り響く。
 窮屈なスーツから作務衣に着替えた空却は、蔵に仕舞っていた花まつり用の装飾品を引っ張り出してきた。丸々一年眠らせていたものだから多少劣化がみられるものもあり、使えるものとそうでないものを吟味して、慣れた手際で分別していく。使えなさそうなものは捨てて、その分は新たに買い足すために、入り用の備品帳簿に物品をさらさらと書き足しておいた。
 今年も役目を果たしてもらう装飾品達は、両腕いっぱいの葛籠に仕舞い直して、本堂へと持っていく。その間、ぎゅるるっ、と空却のお腹が盛大に鳴った。そういえば、卒業式が終わってから何も食べていないことに気づく。なにかつまみ食いしようと思って何度か台所に足が伸ばしかけたが、毎回寸のところで止まった。今日の夕飯は、空却もそれなりに期待していたのだ。昨日の夜に冷蔵庫を覗いた時、奥の方にこっそり佇んでいた上等かつ分厚い霜降り肉。余程のお祝いごとがないとうちの冷蔵庫で見受けない高級食材に、空却はひゃは、と笑って、ひそひそとガッツポーズをした。明日の夕飯はステーキだ、と。
 冷蔵庫に御座す主菜を思い出した空却の足取りは羽のように軽やかになる。葛籠の重さもなんのその。おそらく、が寺に戻ってくる頃にはちょうどいい具合の夕飯時だろうから、もうちで食べていくように言おう。きっと、目をきらきらとさせて、いいの? と言いながらこちらを見上げるにちがいない。それを見て、自分はおう、と言いながら大きく頷くのだ。
 のやつ、早く帰ってこねーかな。葛篭をご機嫌に揺らしながら本堂に着いた空却は、今度は庫裏に移動するべく長い廊下をぺたぺた歩いていた。

「――この度は、心よりお悔やみ申し上げます」

 一つの部屋の前、空却の足の付け根から足指までが石化した。聞こえてきたのは、数時間前に寺に帰ってきた灼空の声。自分を叱る声とも、檀家の人と談笑している声ともちがう色をしている。これまで、同じ台詞を何度も聞いたことがあるのに、その時その時で違った音に聞こえるのだから、いつもはなりを潜めている畏敬の念がじわりと滲む。どうやら、また、空却の身近でホトケ様になった人間がいるらしい。

「お通夜は、いたしません。あの子の負担があまりにも大きいので……」
「その方がよろしいでしょう。喪主も、彼女の意志を尊重してお決めになられた方が」
「ええ、それはもう……。別の方が連絡を取っているのですが、中々お出にならなくて……。時間も差し迫っていますから、いざというときは近隣の方々だけで執り行う方向で話しております」
「そうですか。あちらにも、きっと都合があるのでしょうな。生前から、人との交流が盛んだった方です。手を貸してくださる方も、たくさんいらっしゃることでしょう。私も、微力ながらお力添えをいたします」

 「ありがとうございます……」灼空の言葉に応えている相手の声は、四十代半ばの、女性のものだった。聞いているだけで、途方もない悲しみを押し殺す気配がする。
 双方から紡ぎだされる言葉の重みが、空却の全身に圧をかけた。両腕に抱えている葛籠が、中身をすり替えられたようにぐっと重みを増す。持ち直そうと、空却は指先を葛籠の底へ潜り込ませる。自分の手のひらに生温い汗が滲んでいることに気づいたのは、その時だった。
 ……なんだ、この感じ。いつもなら、こんなにも体が強ばったりしない。気持ち悪い汗も、背中にかかない。おまけに、下腹部から胸にかけて押し迫るものがあって、空却は今にもえづきそうだった。じわ、と口内に溢れた、さらさらとした唾液をごくんと飲み込む。はあぁ……と苦くて重たい息を吐き出すと、目の前がちかちかと様々な色の光が点滅し始めた。まるでサイレンのようだった。
 今すぐ、ここを立ち去らなければ。空却はそう思って、床に張り付いてしまった足裏を懸命に持ち上げようとする。このままここにいるだけで、否が応でも悪い気を吸い取ってしまう。空却は萎んでしまった肺にいっぱい空気を溜め込み、細く吐き出す。そのまま気配を消して、足音を立てず、部屋の前を横切ろうとした、その時だった。「きっと……待っとったんでしょうね」

「カヨさん……ちゃんのセーラー服が見たいってずっと言っとったもんだから。お医者さんに言われた余命よりもうんと長く――」

 ――踏み出す足よりも先に、葛籠が両手から滑り落ちた。
 乾いた音が廊下中に響いた上に、蓋が開いてしまったそれは、中に入っていた色とりどりの装飾が廊下にばらばらと盛大に散らした。中には小さな鈴もあって、じゃらじゃらんしゃんと派手な音を立てた。部屋の中にいる灼空と女性と目が合う。立ち聞きをしてしまった罪悪感を包むようにして、一つの事実が、空却の中で大きな渦を巻いていた。
 カヨ――いま、あのひと、カヨっつったか。カヨって、上前津で床屋開いとった、あのカヨか。豆大福みたいな顔をして、人の話あまり聞かないくせによく笑っとった、あのカヨか。手作りの鬼まんがでら美味い、あのカヨか。
 の、名古屋にいる、たったひとりの家族の――あの、カヨばあか。

「カヨばあ、死んだんか……?」

 気がつくと、空却は部屋の敷居を跨いでいた。
 「空却ちゃん……?」客人の女性が、ぽつんと自分の名を呟く。初めて彼女の顔を見て、あ、と内なる空却は声を漏らした。その人は、の家の近所に住んでいる気の良い婦人だった。空却がの家に行くたびに、よく挨拶をしてくれた。溌剌とした声が特徴的で、いつもにこにこと笑っていたものだから、まさか、こんなしおれた声があの婦人のものだとは、まったく分からなかった。
 でも、今は、そんなことですら、頭の隅に置いておきたいことで。「なあ、、いま、どこにいんだ」

、あいつ、今日、病院行っとったんだよ。カヨばあに制服みせるっつって、わらって、さっき、うちの前で、別れたばっかなんだよ」

 ひた、と空却の足が畳の目を踏む。「空却、下がっていなさい」灼空の声すら遠ざかっていく。頭が痛くなっていて、目頭が徐々に熱くなってきたものだから、涙腺をぎゅっと締める勢いで、息を吐く。頭の中ではすでにカヨの死を受け入れていて、悼む準備をしているのに、この体は、今すぐにの方へ走っていきたいと、叫んでいた。

がいる場所、知っとんだろ。自分んちか? 病院か? うちの境内か? 今からおれが行くから教えてくれよ、なあッ」

 婦人の目の前にきた空却は足を折って、彼女に迫った。婦人が、今どんな顔をしているか、分からなかった。空却の目の前は真っ赤になっていて、心臓の内側からどろどろと溢れる感情が、怒りなのか、かなしみなのか、焦りなのか、まるで判別できないくらい、ぐちゃぐちゃに混ざっていた。自分の中で上手く処理ができなくて、代わりに、ありのまま曝けだされた言葉ばかりが、口から飛び出てしまう。

「つか、あいつ、ばあさんの死に際、立ち会ったんか? 喪主はにやらせんのか? あんなチビに? あいつ、どんくさいし、なんも分かんねーぞ。挨拶の仕方も、焼香のやり方も、花入れのやり方も、なんも分かんねーぞ」
「空却。お客人の前だ」
「つか、の親はどこにいんだよ。葬儀、来ねーのか。なんで来ねーんだよ。自分の親が、死んだんだぞ。顔くらい見せろよ。意味、わかんねーよ。だけ、一人だけ、だだっ広い遺族席に座らせるとか、頭おかしい――」
「空却」

 ひくんっ、と空却の喉が痙攣する。鼓膜に入ってきたたった四文字にのしかかった重みが暴走していた脳を潰して、空却を我に返らせた。
 瞬きを、ひとつする。婦人の顔色は、青白かった。そして、ゆっくりと首を動かした先にあるのは、灼空の無表情。地割れが起きるくらい大きな声で怒鳴られるよりも、石よりも固い拳で頭をぶたれるよりも、腰紐で体をぎゅうぎゅうに縛られるよりも――その顔一つ見ただけで、空却の中で重々しい警鐘が鳴り響いた。

「立ち聞きをした挙句、隣人を亡くされたお客人に聞き迫るとは何様のつもりだ」

 自分の立場と、言葉を弁えなさい
 手水舎の冷水に、全身を沈められたようになる。混ぜすぎて、色の分からなくなった感情のしがらみからようやく開放された。目の前が明るくなって、ゆっくりと、空却は婦人と人ひとり分の距離を開ける。今にも、彼女の体にしがみつきそうになっていたことに、初めて気がついた。
 「……すみません、でした」深々と、空却は頭を下げる。すると、「申し訳ございません。うちの息子がとんだご無礼を。あとでよく言い聞かせます」そんな、父親の声色をした灼空の言葉が飛んできた。

「いいの……いいのよ。くうちゃん、ちゃんと、仲ようしとったもんね」

 そう言って、婦人は弱々しく笑んだ。

「今、ちゃんのおうちね、たくさんの人が出入りしとるの。カヨさん、いろんな人に、後のことをお願いしとったみたいでね……。おうちにいても、ちゃん、気が休まらんだろうから、ひとまず、私がお寺に連れてきて――」

 何かにせき止められたように、婦人の声が不自然に止んだ。青白い顔が、さらに青白くなっていく。さっきまでの記憶がぱっと失せたように、彼女は目をまん丸にさせて、部屋中をきょろきょろと見渡した。「え、と……さっきまでは、一緒にいたんだけど……」

「ごめんなさい……ごめんなさいね……。前々から、こういうことはカヨさんに頼まれていたんだけど……。いくら歳重ねても、知り合いの方が亡くなると、どうも、駄目ねぇ……」
「ばーさん」
「私も、今さっき、ちゃんから連絡を受けたばかりで、気が動転していて……ごめんなさいね……」

 に謝っていたのか、空却に謝っていたのか、分からない。はらはらと涙を流し始めた婦人を見て、空却もなんと声をかければいいのか、分からなくなってしまった。何か言わなければいけないことは分かるのに、十二年生きただけの空却の語録は、あまりにも、空白のページが多すぎた。

ちゃんは、息子に探させますのでご心配なきよう。まだ幼子ですから、これからのことについても、色々と教えさせます」

 灼空の声が、よく通って聞こえた。
 声を張っているわけではない。むしろ、幼子に語りかけるような、囁き声に近いものだ。それでも、暗がりに点った一筋の光に縋るようにして、空却は灼空をじっと見つめた。
 自分と同じ色をした目が合う。父親のような、僧侶のような……どちらとも取れない表情をしていた灼空は、一度も空却から目を逸らさなかった。お互いに、言葉はない。それがむしろ、空却の背中を押してくれているような……そんな気がした。
 取り乱した己によるみじめな行動によって、まともに動けなくなっていた錆れた体に、再び血が通うようになる。「……しつれーします」そう言って、頭を下げた空却はすくっと立ち上がった。部屋の敷居を跨いで、廊下に散らばった花まつりの装飾品を片付ける。廊下を歩いている途中も、一切心をぶらさず、無様な姿で走ることはしなかった。
 視野を広くもつには、まず心から――これから探し回る境内の広さは、住人である空却が一番よく知っていた。







 人の死は突然だ。そのくせ、なんの断りもなしに、心の中にある大切なものばかりをかっ攫っていく。境内で可愛がっていた子猫が目の前で車に轢かれた時も、幼い頃に母親の目が二度と開かなくなった時も……今まで満たされていた空却の胸に、大きな風穴を開けた。今では塞がったものの、穴があったところをよくよく見れば跡がうっすら残っている。いくら時間が経っても、元通りになんかなれやしない。
 あの婦人だって、普段は熟れた林檎のような人だった。強い風が吹こうが体の芯をぶらさず、どんと構えていられるような人だった。そんな人間でさえ、あんな風にしてしまうのだから、死はおそろしいし、かなしい。おまけに、それらから目を背けるなと仏は言うのだから、ほとほと困ってしまう。

 いつもと変わらない境内のはずなのに、まるで未踏の地を走っているようだった。靴の踵を整える時間も惜しくて、空却は古びたサンダルを履いて、歩きにくい砂利道を駆け回っていた。今までずっと視界の端でちらついていた、ちいさな影を探して。
 どこにいんだよ。一度も立ち止まらず、空却はただひた走る。かくれんぼをして遊んだ西堂、の嫌いな鼠が出て以来足を踏み入れていない蔵、とよく昼寝をした東堂、一緒にリコーダーを吹いて灼空に叱られた本堂――どこを探しても、いない。
 焦燥を覚えそうな頭に、空却はこう言い聞かせる。は、自分の前に行くことはない。だから、空却が行ったことがない場所には行かない。行けないのだ。出会った日から今日までの記憶を手繰り寄せて、空却は寺中をひたすら駆け回った。
 こんなにも休まずに走ったのは、何年か前に、を背負って雨の日を駆けた日以来だ。頭が打ち付けるように痛いし、肺には穴が開きそうだ。それでも、今にも千切れそうな足は前へ前へと空却を急かす。どこだ、どこにいる。が、いる場所、行きそうな場所、あとは、あとは――

 ――「サールにもらーったかーきのーたねー。かーにがひろーったにーぎりーめしー」

 ……うたが、きこえてきた気がした。
 初めて、空却は足を止める。砂利の音が止む代わりに、自分の荒息だけが耳の奥まで入ってくる。不意に、くるりとつま先の方向を変えて足を伸ばしたのは、裏山に続く細道。草と土のにおいが充満する空間に、空却はゆっくりと足を踏み入れた。
 去年の夏、が木の根っこにつまづいてすっ転んでからは、一度も入らせたことはなかった。山道を進み、足場の悪いところは上手いこと避けながら、前へ進む。そして、空却は下よりも上ばかりを見る。所狭しとそびえ立つ木々。それも、今まで自分が登ったことのある木の幹を。

 ――「めーをだせ、はーをだせ、かーきのーたねー。だーさぬーとハーサミでちょーんぎーるぞー」

 ちいさな残像が、木の間を縫って駆け抜けていく。
 いつからかなくなった、結わえた髪のひと房を揺らしながら。空却の前を跳ねるように駆けている子どもは、しきりに後ろを振り返っては、こちらに向かって笑いかけている。こっちだよ、こっちにいるよ――そう言って、空却を誘うように。
 糸で引かれるように、空却は地面を踏みしめる。足の腱の痛みも、焼けるように熱い喉も、徐々に気にならなくなっていく。一本の背の高い木の前で、残像が消えると、聞こえていたうたもしん、と止んだ。
 ……ふわ、と意識が浮上する。いつの間にかもやがかっていたらしい視界は鮮やかな色彩を取り戻した。自分は、今までなにを見ていたのか。ふと、空却が目の前にそびえ立っていた木を見上げると、一本の幹の上で、紺色の塊が足を抱えて背中を丸めていた。
 息が止まる。やっと、見つけた。お前、まだ、木登りできたんだな。つか、んなことしたら、せっかくの制服が汚れちまうだろ。そんなことを心の中で呟きながら、空却の全身からどっと力が抜ける。それでも、まだ油断はならない。何か悪いものに憑かれそうなの姿が、空却の目にはなんとも不気味に映った。

ッ!!」

 幹の上に乗っている塊に向かって、空却は叫ぶ。体が余韻でびりびりと震えるも、が自身の膝小僧から顔を上げることはなかった。

「んなとこで何しとんだっ!! はよ降りてこいッ!!」

 いくら怒鳴っても、はぴくりとも答えない。が自分の声に応えないなんて、寝ている時以外は初めてだった。耳が聞こえなくなったのでは、とらしくもない焦りを覚えた空却は、再度声を絞った。

「だーかーらァ!! 早く降りてこいっての!!」

 声はずいぶん乾ききっていて、もうがらがらだ。さっき唾を飲み込んだ時に少しだけ血の味がしたから、きっと喉のどこかも切れているのだと思う。そういえば、卒業式の歌を歌ってから何も飲んでいないことに気づいた。こんなことなら、手水舎の横を通った時に飲んでおけばよかった。
 それでも、こちらの苦労など知らないは一切答えない。らしくもなく意固地にでもなっているのではと思ったところで、空却は「バカなこと考えとんじゃねーぞッ!!」と叫ぶ。そこでようやく、がふっと顔を上げた。

「空に近くたってなぁ! 一度ホトケさんになった人間とは一緒に住めねーんだよッ!!」

 ようやく交わったの目は、ぐるぐると哀情の渦を巻いていて、体もわなわなと震えだしていた。彼女の体から、その小さな器に収まりきらない悲しみがこぼれ落ちていくのを見て、空却はさっき引っ込んだはずの熱が目頭に再び灯る。と一緒に渦の中心に呑まれそうになりながらも、空却は奥歯をぐっと噛んだ。

「愛別離苦あればこそッ! 人は幸福なる生を謳歌い出来るって、前に言っただろーが!!」

 準備をしろと言った。人の死は避られないものだから、心の準備をしろと。いつでも一人になってもいいように、生活もきちんと整えろと。だから、も、苦手な朝も起きられようになったし、ご飯を作るのだって上手くなった。
 それでも、周りに与える影響はそれをも上回る。想像以上に、周囲の人間をだめにしていく。絶望に耐えきれなくて、死んだ人間のあとを追う人がいるのも、そのせいだ。

「おれがっ! ここにっ! いんのに! お前はもう俗世を捨てるっつーのかよッ!!」

 けほッ、と空却は一つ咳いた。そろそろ喉が使いものにならなくなるかもしれない。しかし幸いにも、木の上にいるがぶるぶると首を横に振ったので、にや、と笑んだ空却はに向かって両腕を伸ばした。

「今からおれがみっつ数えてやる!!」

 きっと、条件反射で動いたんだろう。空却の言葉を受けたは、幹の上にすくっと立ち上がった。風でなびく制服のスカートをくしゃっと握って。がいる木の幹から地面との高さは大してない。でも、今のだと、木から降りている途中で落ちてしまうかもしれないと思った。それなら、ここから飛び降りた方が早い。地上にいる自分なら、がいつ飛ぼうが、ちゃんと受け止めてやれる。失敗した時のことなど、頭に微塵もなかった。今までやったことがないのに、不思議なことに、を受け止められるという絶対的な自信が、空却の中にはすでにあった。

「いーちっ! にーのッ!」

 さん
 ふわっ、との制服が膨らむ。目の前に影が落ちてきて、その次は決して軽くはない衝撃が正面から襲う。うっ、と呻いたのは空却だけじゃなかった。後ろによろめきそうになった体を踏ん張り、が一人で立てるようになるまで、空却はの肩から手を離さなかった。
 しばらく経って、少しだけ体を離したは罰悪そうな顔で空却を見たり、地面を見たりを繰り返していた。唇は、固く閉ざされている。これから自分を待ち受けているがなんなのか、きっと分かっているからだ。
 「」名前を呼ぶと、泳いでいたの視線が空却に固定される。不安定なその表情は、触れてしまえば今にも崩れそうだったが、その目にも、頬にも、未だ泣いた痕跡は一つもなかった。「……喪主のことだけどよ」

「やりたくねーなら、おれも一緒に言ってやる。ガキのお前に任せるほど、まわりの大人も鬼じゃねーよ」

 カヨの遺族はしかいない。少なくとも、今の名古屋には。の眼前にあるのは、いわば義務に近い。それを拒否することは、ある意味逃げかもしれない。しかし、にだって、選ぶ権利はある。がどちらの道を選んだとしても、非難する資格は誰にもないはずだ。空却も、今まで何度か親戚や灼空の知人の葬儀に参加したことはあるが、小学生が喪主を務める葬儀などなかったし、寺で暮らしていても、そんなことは今まで聞いたことがなかった。
 しかし、はここでも首を横に振った。それは、空却が予想していた道とは真反対の方向で、息が詰まったのを悟られないよう、空却は体を強ばらせた。「近所の、ひとが……」

「お葬儀やさんの準備とか……お役所の手続きするための書類、もらってきてくれたりとか……わたしが分からんこと、ぜんぶ、やってくれとるの。だから――」

 わたしが分かることは……ぜんぶ、したい
 なんで、と言いそうになった自分を、空却は殴って止めた。やりたくない、とが言った時の台本はすでに頭に思い描いていて、それを破り捨てて、新たなものを書くまでに、少しだけ時間がかかってしまった。「……わかった」

「葬儀の流れは、おれが教えてやる。付け焼き刃でもいいから、頭にたたきこめ」

 を見守る覚悟ができていなかったのは、自分自身だった。
 その反省は、あとで嫌というほどするとして。空却は震えているの体を見下ろしながら、いつもよりも細く見える彼女の両の指を自分のと絡ませて、ぎゅっと握りしめた。「大丈夫だ」

「お前ならできる。カヨが家に戻れなくなってから、覚悟しとったんだろ」

 握り返される力があった。弱々しいが、確かに手応えがあって、それが、今のの精一杯の意思表明なのだと、空却は察した。「も、いっかい……」

「もいっかい……いまの、言って……?」

 水気を微かに含んだ声をも包むように、さらに力と熱を注いで、空却はの手を握りしめる。そして、上を向いたの目の中にいる自分をじっと見つめ、一つ一つの音に魂を込めた。

ならできる」

 最後まで、しっかり気張れ
 流したい感情も、吐き出したい言葉も、山のようにあるだろう。しかし、は、きっと泣かない。いま、ここで立ち止まる時ではないと、分かっているからだ。一度でも気を抜けば緩んでしまう栓を、最後に空却がきゅっと締めた。代わりに、がもう動かなくてもよくなった時には、うんと傍にいようと、明日の彼女にそう誓った。







 いつぞやにカヨが言っていた通り、自身が死んだ後のことは周囲の人間に頼んでいたらしい。おかげで、の家は近所に住んでいる数十人の人間でごった返していて、葬儀の手続きが目まぐるしく行われていた。床屋を営んでいたことに加えて、カヨは個人的にも人付き合いが良かったから、相応の光景だろう。しかし、人が多くなった分、が心落ち着ける場所は減ってしまったので、結局、灼空と葬儀の段取りを決めに来た婦人は一人で帰り、だけはそのまま寺に泊まることになった。

 カヨの死亡届と埋火葬許可申請を書いている時のは、特に見ていられなかった。それらは、婦人が帰り際にに手渡したものだ。どんなに嫌でも、こればっかりは親族であるが書くしかない。カヨの死をたった数枚の紙切れによって無遠慮に突きつけられているを、空却は見ているだけしかできなかった。

「ぁ……」

 書類を書いている途中で、が蚊の鳴くような声を上げる。その時、布団を敷いていた空却がをふと見ると、なぜか、彼女は天井を仰いでいた。天井に何かが張り付いているわけではないことは、なんとなく察した。は、目をこれでもかというくらい大きく開けて、平たい器のようにしている。そこには、きっと、が限界まで溜め込んでいるかなしみがあるのだろう。「くーこーくん……」

「まだ、泣くなって……言って……」

 ――泣いちまえ
 泣いて、叫んで、頭も、体も、使い物にならなくなって、この部屋に篭って、眠ってしまえばいい。が目が覚めた頃には、いやなことはすべて終わっているから、そのあと、めいいっぱいかなしんで、カヨにお別れを言えばいい。そんなを、誰も責めたりはしない。いたとしても、自分が大声で怒鳴って、追い払ってやるから。だから、もう、すべて、投げ出してしまえ。
 ……そんなことを、切に思う。でも、が、そう言えと、言うのなら。震えた声で、そう願うのなら。自分の体にまとわりついている欲を振り切って、空却は重々しく口を開いた。

「……まだ、泣くな」

 ぴくん。ペンを持つの手が震える。するとすぐに、すん、と鼻を啜る音がして、は天井から書類に目を落として、再び文字を書き始めた。下を向く時、が手の甲で拭ったものは、仏もきっと、見て見ぬふりをしてくださるだろうと思った。
 部屋を覆い尽くす、重圧がひどい。カヨが亡くなったことよりも、が押し留めている感情の量に、空却は今にも吐きそうだ。空却が導きたい方向と、が行きたい方向がてんでばらばらで、空却の体は八つ裂きの刑に処されているようだった。
 なら、仏が照らている道は……どっちだ。分からない。仏の声が、まるで聞こえない。こんなにも、未熟者である自分を呪ったのは生まれて初めてだった。


 その日の夜、空却はを自分の部屋で寝かせた。何年か前の昼寝時ぶりに同じ布団で寝て、が手を握ってほしいと言ったから、空却はその通りにして、眠りについた。春先だというのに凍傷でも起こしているのかと思うくらい、の指先がひどく冷たかったのを覚えている。このまま眠ってしまえば、朝が来ても、は二度と目を覚まさないのではと、馬鹿なことを思ってしまうくらいには。なので、空却は睡魔が襲ってくるまで、ずっとの呼吸の音を聞いていた。寝息だけは、カヨが亡くなる前のとまったく同じものだった。
 ……憂いを帯びた夜が、更けていく。日課である深夜の掃除が免除されたのは、言うまでもなかった。







 カヨの訃報から一夜明け、葬儀の日が訪れた。真っ青な天をぎろっと睨んでしまいたいくらいの、清々しい晴天日だった。
 読経をする灼空とともに、学ランに袖を通した空却は葬儀場に足を運んだ。は一足先に例の婦人に連れられて、先に会場入りしている。施設の中に入ると、席配列の指示、受付、花祭壇、供花のとりまとめなど……一度は顔を見たことがあるの近所の人がすべて執り行っていて、カヨの人脈の広さに空却は脱帽した。
 喪主は、に決まった。それを聞いた大人達は口々に不安の言葉を募らせたらしいが、カヨの娘とも連絡がつかないことに加えて、がやらせてください、と皆の前でお願いしたものだから、それ以上口を出す人間はいなかったようだ。
 「明日のちゃんは、ここに書いてある文章を読んでくれるだけでいいからね」そう言って、朝方にを迎えに来た婦人がに渡したものは、喪主挨拶の文章が書かれている紙だった。ちら、と覗いてみると、紙の上に乗っている黒い文字は、たったの数行だけ。だから、文章量はなんてことはない。読んでしまえば、数十秒で終わるものだ。ふりがなも、のためにすべて振ってあった。しかし、それを見た空却は、子ども扱いするところがずれとんだよ、と心の中で愚痴を吐く。
 が今求めているのは、そんなことじゃないのに。空却の中では大人への不信感だけが募っていくばかりだったが、隣にいたは、「ありがとうございます」と無感情な声色でそう言った。

 僧侶としての役目がある灼空とは一旦別れ、空却一人だけ、だだっ広い斎場に入ると、祭壇から向かって右側に、喪主であるがちょんと椅子に座っていた。入学式の日にお披露目するはずだったセーラー服は、不服そうな顔をしてに着られている。明日には以外の親族が来るんじゃないかと昨日のうちに期待していたが、の隣に形だけ並べられた椅子には、誰も座っていなかった。
 「喪主はちゃんがするの……?」「ええ……。他の方がカヨさんの娘さんと連絡をとっているみたいなんだけど、いくらかけてもお出にならないんですって」「ちゃん、昨日卒業式したばっかりなのに……」――会場には、空却以外の人間もぽつぽつ集まっている。彼らはに声をかけるわけもなく、ひそひそと内緒話を言いながら、こんな時にでも井戸端会議を始めていた。
 うるせーんだよどいつもこいつも。に聞こえたらどうする。空却は舌を打ちそうになった衝動を堪えて、のところにこそこそと近寄った。



 冷たそうな椅子に佇んでいるは、まるで人間の皮の中に棒一本だけ入れた着ぐるみのようだった。おまけに、蝋を顔面に塗りたくったように顔は一切動かないものだから、昨日の昼までふにゃふにゃと表情を変えていた人間と同一人物とは、とても思えなかった。
 空却がの目の前に来て、暫く。ようやく、の首がぎぎ、と動いた。視線がぶつかって、昨日よりも闇深い色になったの瞳に、空却は意識ごと持っていかれそうになる。それでもなお、遺族として役目を果たそうとしているに、空却はポケットから取り出したものを彼女に差し出した。「ほら、」

「お前、数珠持ってねーだろ」

 ほんの少しの目が開かれただけで、こんなにも胸が安堵するなんて。がゆっくりと差し出した小さな手のひらに、空却はずしりと重たい白珊瑚の数珠を乗せた。母の仏壇に置いてあったのをそのまま拝借してきたのだ。灼空にも許可はもらっている。
 長期休暇の時に泊まりに来ていたも、一度はそれを見たことがあったのかもしれない。数珠と空却を見比べたは、固く閉ざしていた唇をふっと開いた。

「これ……いいの……?」
「おう。葬儀が終わったら返してくれりゃーいい」

 即答した空却は、誰も座る予定のないの隣の椅子に座って、数珠の持ち方を教える。の小さな手に大人用の数珠は見た目不釣り合いだったが、母がを守ってくれているような気がして、少しだけ心強く思った。
 ……ふと、を見ていて何かが足りないような気がする。そこで、胸のところに収まっているはずのスカーフがないことに気がついた。
、襟まきどうした」

 空却がの胸元を指さして言った。すると、ばつ悪そうな顔をしたは、スカートのポケットから綺麗に折り畳んだスカーフをこわごわと出してきた。

「自分で、やってみたんだけど……うまく、むすべんくて……」
「はあっ? んなの、誰かに結んでもらやぁ――」

 言おうとした言葉はすぐに止んだ。自分が来るまで、はずっと一人でここに座っていた。他の人は皆、自分の役目で手一杯で、来賓も周辺に取り巻いている噂話に取り憑かれたように、口を開きっぱなしだ。
 本当の意味で、のことを気にしている人間は、この場に誰もいない。ぐ、と顔を顰めた空却は、ふつふつと溢れる怒りを寸のところで飲み込んだ。

「……かせ」

 そう言って、の手からスカーフをするっと抜き取る。正方形に広げたものを三角に一回折って、の襟に通してささっと手を動かすと、臙脂色がの胸に綺麗に収まる。それを見たは初めて、ふっと目尻をゆるめて、こう言った。

「……ありがとう」

 弱々しく笑んだに、んな顔で笑うな、と怒鳴りそうになった。


 カヨの葬儀が始まった。灼空による読経から始まり、式辞や弔辞、弔電の紹介が葬儀の進行者によってさらさらと流れていく。その次は親族による焼香で、祭壇の前にたった一人立たされているは、まるで何かの見世物のようで頗る気分が悪くなった。昨日、自分が教えた手順を守って焼香をしている姿から目を背けたかったが、せめて、心だけでも共に、と。空却は奥歯を噛み締めながら、が自分の席に戻るまで、一度もそっぽを向くことはなかった。
 参列者の焼香と花入れが終わり、役目を終えた灼空が退場すると、ついに、喪主であるの挨拶が行われる。
 進行者からマイクを渡されたは、一度だけそれを落とした。ごんッ、と床にぶつかったマイクは鈍い音を立てて、進行者がすかさず「大変失礼致しました」と別のマイクを使ってフォローを入れた。電源を落としていたのが幸いだった。の小さな手に余るマイクでさえ、を歓迎していないようで、彼女の青白い顔からさらに血の気が失せて見えた。
 マイクの電源が入ると、きんッ、と僅かな機械音がスピーカーから流れる。の息遣いと口を開いた音がすぐ傍で感じ取れて、空却の背筋がぴりッと痺れた。

「……お忙しいところ、お越しいただき、ありがとうございます」

 ひどく、か細い声だった。マイクがなければ内緒話でもしているような声量で、は来賓席を見ながら、淡々と言葉を連ねていく。
 「生前は、祖母が大変お世話になりました」――生前、だとよ。漢字苦手なくせに、難しい言葉、使いやがって。なんの感情も読み取れない無気力な音を聞きながら、空却は、が誰かの喉を借りてきたのではと疑った。そんなこと、あるはずないのに。そうであってほしいと願っているのは、紛れもない空却自身だった。こんなは見たくないし、声だって聞きたくない――そんな自分を押し殺すようにして、膝の上に置いた拳にさらに力を込めた。

「遺族を代表いたしまして、みなさまにひとこと、ご挨拶をもうしあげます。本日は、ごたようにもかかわらず、ごかいそう、ごしょうこうをたまわり、まことにありがとうございました。おかげをもちまして――」

 音が、ぴたりと止む。「おかげを、もちまして……」じきに、は同じことを二度繰り返すが、ついに言葉を詰まらせて、唇をぎゅっと結んでしまった。ただでさえ張り詰めていた空気が冷たく凍る。大人達が固唾を呑んで見守る中、ようやく、マイク越しにの息が吐き出されたのは、音が止んだ、その数秒後。空却が体感した時間は、その倍だった。

「……そうぎ、こくべつ式も、とどこおりなく、あいすみ、これより、出棺のはこびと、なりました」

 ――挨拶を終えて、が一礼する。その光景にあてられたのか、来賓席からは水っぽい音があちらこちらから聞こえてくる。空却は、が着席するまで、拳に込めた力を決して緩めなかった。
 もしも、自分がと家族だったなら――そうしたら、ずっと隣にいてやれたのに。挨拶だって、自分が代わってやれたのに。どうして、遺族席に座れないんだろう。どうして、来賓席に座っているんだろう。そんな、途方もないことを考えていたら、進行者が最後の言葉を述べて、皆がちらほらと立ち始めたので、空却も重くなった腰を上げた。今にも擦れて千切れてしまいそうな神経を、懸命に繋ぎ止めながら。







 斎場から棺が出棺すると、火葬場へと向かった。そこで、灼空による読経と焼香が再び行われる。目が痛くなるくらい、真っ白な部屋だった。今、カヨの遺体を約千度の炎で焼いているというのに、音もなく、においもない。ただ苦しいだけの一時間を過ごして、空却は気が狂うかと思った。
 火葬が終了すれば、骨上げの時間がやってくる。は骨壷を持って遺骨の頭側に立っていて、皆が骨箸を使って遺骨を拾い上げては、彼女の持っている骨壷に収めていった。そこでも、は無表情だった。小さかったカヨが、またさらに小さくなった姿を見ても、顔色一つ変えない。泣きもしない。カヨだったもので満たされる骨壺をじっと見下ろしているだけの、ただの置物のようだった。
 早く……早く、終われ。の心が死ぬ前に――空却の祈りも相まって、長い葬儀がようやくひと段落ついた。もう昼時を過ぎている。だんだんと人が掃け始め、あれだけ忙しなく動いていた運営側も落ち着きを取り戻す。もう、のやることは何もない。あとは、家に帰るだけだ。火葬が終わった時、来賓としてカヨの葬儀の手伝いに参加し始めた灼空から、を連れて先に帰るようにと言われている。タクシーも一台呼んでくれたようで、それ用の駄賃も貰っていた。
 空却は、苦しかった学ランのつめ襟と金色の釦をすべて外す。すうっ、と全身いっぱいに空気を詰め込んで吐き出すと、張り裂けそうだった感情が、千切れそうだった神経が、幾分か緩和される。骨上げが終わった後、例の婦人にどこかへ連れていかれたを探すべく、空却は火葬場中を歩き回った。今にも走り出しそうな足に、礼節を弁えろ、と叱りながら。

 どこだ、どこにいる――空却は血眼になって、小さなセーラー服を探す。しかしそれも案外早く見つかった。ベンチが沢山ならんでいる談笑フロアに一人、はぽつんといた。天井が高く、だだっ広い空間の中、僅かな紺色と臙脂が真っ白な壁を彩っている。

「……

 ベンチに腰をかけて、ぴくりとも動かない。空却が名前を呼んで近寄ると、ようやく彼女は顔を上げた。

「くーこーくん……?」

 の青白い顔を間近で見て、声を上げそうになる。今日一日だけで、ひどくやつれてしまったようだ。目も虚ろで、まるで焦点が定まっていない様に、空却の中でやるせない情動が沸き起こった。
 「……おばさん、どこ行った」冷静を装って空却がそう尋ねると、は首を横に振った。分からない、と。曰く、親族であるしかできない手続きをするべくどこかへ連れられたが、それも今しがた終わって、婦人に、あとのことはやっておくから、と。そして、彼女も灼空から言伝を受けていたようで、ここで待っていれば空却ちゃんが迎えに来るはずだから、来たタクシーで一緒に家に帰ってね、とも言われたらしい。
 ぼそぼそと語られた必要最低限の情報に、の余裕のなさを感じた。外見も中身も空白だらけに見えるのに、その奥底にある見えないものに、空却の全身の毛がぞわぞわと波打った。
 「隣、座んぞ」空却が聞くと、は微かに頷いた。硬いベンチに座ってすぐ、空却はの手を握った。握り返される力は、もうない。ただ、小さく、長く、吐き出された息があって、後に、色をなくしたの唇が薄く開かれた。

「おじさんに……おれい、言わんとかん……」
「お前が元気になってからでいい」
「近所の、ひとたちにも……」
「それも後でいい」

 今は寝ろ
 すると、すぐさま電池が切れたように、の顔が伏せられて、じきに目を閉じた。前後に揺れ始めたの頭を自分の方に傾けると、ちょうど自分の肩にとすん、と当たる。あまりにも軽すぎてぞっとするが、じわじわと暖かくなっていくの手のひらに、空却の口から幾分か穏やかな吐息が漏れる。
 眠ってしまえば、何も考えなくていい。今のに、必要なものだ。ちいさな体が、ふくらんだり、しぼんだりする気配を感じながら、空却もゆったりと瞼を下ろした。



 無音の時間が、刻まれていく。空気の流れの音が聞こえるくらい、辺りは静寂に包まれていた。誰も来んな、という空却の念のおかげか、人っ子一人来ず、の眠りを妨げるものは何もなかった。
 あと、少しだ。あと少しで、泣かせてやれる。うんとそばにいてやれる。ほんの少しだけ重みの増したの頭を感じつつ、ふっと目を開けた空却は、ふと壁に取り付けられた時計を見上げた。
 ……もうそろそろ、車が着く頃か。熟睡したを起こすのは忍びないが、少し歩かせたら、また車の中で寝かせればいい。もう、が苦しい思いをすることは、何もないのだから。そう思って、空却が眠るに声をかけようとした、その時だった。
 ――一人の女が、目の前の入口から突如現れた。息を荒らげ、髪も乱し、きっちりと着るはずの黒いスーツに似つかわしくない慌てようで、周りをぐるぐると見渡している。まるで、大切な誰かの後を、追っているかのように。
 思わず、空却がその様をじっと見つめていると、視線に気づいた女が、こちらをふっと振り向いた。すると、砂漠の中でオアシスを見つけたように、女の目が大きく見開かれて、ゆっくり……ゆっくりと、こちらに近づいてくる。
 ……だれだ。知らない人だ。空却はの手を握る手に力を込め、警戒網を自分たちの周りに張り巡らす。そんなことを知らない女は二人の前に来ると、空却を見て、眠っているを見て、再び空却を見た。「ごめん、なさいね……。すこし、いいかな……?」女は、顔面に汗を浮かばせて、髪もひどく乱れていた。蚊の鳴くような、小さな声だった。
 相手は、大の大人だ。なのに、彼女を見ていたら、助けてやらなければいけないような、そんな感覚に陥って、空却は張りつめていた警戒の糸を一本だけ解く。少しずつ距離を縮めようとする彼女の話し方に、空却はひどい既視感を覚えた。

那須野なすの嘉与かよさんの、葬儀に出てた子……?」
「……そうだが」

 空却も、小声で返す。が一度寝たらそうそう起きない質で助かったと思ったのは初めてだった。

「葬儀は……」
「今しがた終わった」

 女の問いに空却は即答する。すると、女性はどっとやつれた顔をした。急いで来たんだろう。見れば分かる。こんな子供にものを尋ねるくらい、気が動転しているんだろう。同情の念が沸いた空却はちら、と別の方向を見て、口を開いた。

「火葬場に行ったら誰かはいっからよ、そっちに行ったら――」
「ち、違うのっ」

 女が空却の言葉を制す。「私は、そうじゃなくて……」視線を泳がせながら、しどろもどろに何か言っている。私は、えっと、その――こんなようなやり取りを、今までに何度かした気がした。女とは初対面なのに、そんなことがあるはずないのに。いつ、誰と、こんなことを――

「……ぁ」

 ……女が、声を上げた。
 女の視線は、空却の方から眠っているへ注がれる。まるで、焦がれ続けた宝石を、見つけたような。黒い目がまん丸になって、明らかにほっとした表情が、空却の記憶の中にあった、眠る彼女そっくりで。本能が訴え続けていたことが確信に変わった時、吐き気も同時に襲ってきた。
 女の手が、へ伸びる。それが、ひどくおぞましいものに見えて、その口が彼女の名前を形づくろうとした瞬間、空却は咄嗟に言葉を被せた。

「喪主は、こいつが務めた」

 ――まだ、子どものままでよかったと、心の底からそう思った。
 ぐわっと頭が熱くなって、体も締め付けられているように痛い。前に出ようとする感情を懸命に押さえつけて、空却の眼光は女の目をじっと縫い付けて、離さない。今、ここで怒鳴ったら、を起こしちまう――怒りを封じ込める理由は、ただそれだけだった。

「カヨばあの死亡届書くのも、最初の焼香も、花入れも、挨拶も、骨壺持つのも、よー分からん難しい手続きも……いっぺんも泣かねーで、ぜんぶ、こいつがやった」

 女の顔が分からなくなる。自分がどんな顔をしているのかも、分からなかった。考える余裕すらなかった。女への同情心も、腹から湧き起こる怒りがすべて食い尽くして、むしろ、そんなものを抱いていた自分を殴っていた。今さら、何しに来た。面倒なことをにぜんぶ押しつけて、お前だけ、カヨをゆっくり悼みに来たんか――言いたい言葉が腹の奥にどんどん蓄積していって、唇をかみ締めていないと、今にも飛び出してしまいそうだった。
 それをしなかったのは、女の目から涙がはら、と零れた時だった。「ごめん、なさい……」女の、水気の帯びた声が届く。女の顔がみるみる崩れていく。その泣き顔が、ほんとうに、憎たらしいくらい、にそっくりで、まるで、自分がを泣かせているような気分になってしまった。空却の中に積もっていた言葉は、牙を抜かれた虎のようになった後、みるみるうちに溶けていく。処理しきれなくなった感情だけが置いてけぼりになって、こんなことなら、力いっぱい怒鳴ってやればよかっと、後悔した。
 ごめんなさい、ごめんなさい――女は壊れたように、謝罪を繰り返す。それは、誰に向けて、言っている。自分か、か、それとも仏か……空却はぐしゃぐしゃになっていく女の顔を見ながら、宛名の分からない言葉たちを、ただただ聞き流していた。
 そうでもしないと、もう、四肢がもげてしまう。を車に乗せて、家に連れて帰る――するべきことを頭の中でお経のように呟きながら、空却は女の声と涙が止むのを、じっと待っていた。







 絡みつくような睡魔が薄くなっていって、意識が浮上する。
 膿んだように重たい瞼を持ち上げた空却は、畳の上で横になっていた。褪せた藺草の香りが寝起きの思考を優しくつつく。この状態になるまでの経緯がひどくおぼろげで、思い出そうとすると、頭を鈍器で殴られているようにがんがんと痛んだ。ハンガーにかかっていた自身の学ランを見てようやく、数時間前の記憶がじわじわと脳裏に滲み出てきたくらいだ。
 ふと隣を見れば、セーラー服から部屋着に着替えたがころんと転がっていた。相変わらず、お互いの指が控えめに絡まっていて、空却はぼんやりとそれを見下ろす。どうやら、申し訳程度に座布団を枕にして、同じ毛布の中で熟睡していたらしい。の顔にかかっていた髪を退けると、こわいくらい穏やかな寝顔が露わになって、空却はゆるりと息を吐いた。

「(もう、夜か……)」

 月光を飲みこんだ、の自室。
 と一緒にタクシーに乗って、この家に着いたのが昼過ぎで、その後、二人で二階に上がって、微睡むにつられて、空却もいつの間にか眠ってしまった。のことを気にかけていて気づなかったが、自分もかなりの疲労が溜まっていたようだった。毛布と枕を別々にしようと考える頭もないくらいに。

 ――もう少しだけ、時間を遡る。タクシーが来たことを伝えてくれた例の婦人があの場に来なければ、繰り返される女の謝罪に、空却もどうにかなっていたかもしれない。二人と一人を交互に見て状況を察したらしい婦人は、空却とをタクシーに乗せてくれ、あの場には彼女と女だけが残った。ああいうのは、同性同士の方が話が進む。空却も、寝起きのの手を引いて、素直にタクシーに乗った。女がを凝視する中、本人は半分夢の中だったせいか、女と視線が絡まることは一度もなかった。が女の存在に気づいていたかどうかも怪しいところだ。
 その婦人から、この家に電話がかかってきたのは、たしか、夕暮れ頃。ジリリリッ、という昔ながらの金属音に一度起こされた空却は、眠っているをほんの少し退かして、一人、一階に下りた。電話の相手は例の婦人だった。
 彼女は、電話越しにの状態を尋ねてきた。今は寝ている、と。空却が端的にそう言ったら、そっか、と彼女は穏やかな声を漏らした。そして、今後ののことを空却にこと細かく伝え、それを本人へ言伝するように頼むと、婦人はふつ、と電話を切った。ツー、ツー、と無感情な機械音を聞きながら、口角だけがやけに上に引き上がっている自分がいたのを、空却はよく覚えている。
 ――は、名古屋に残る。
 あのまま、あの女がを連れて帰る予定だったのかは、分からない。しかしまあ、常識的に考えれば、それが妥当だ。まだ十二の女子を面倒を見てくれる人が亡くなったのだから。一人、この家に残しておくのは、空却もどうかと思う。
 しかし……しかし、だ。あの女に預けてもいいものかと聞かれれば、ふざけるなと声を大にして言いたい。だって、は、カヨが入院してからずっと一人だった。ずっとずっと、一人だったのだ。なのに、呼び出しの連絡を無視して、火葬が終わった時に姿を現して、正直、何を今更と思ったのだ。それに――

「(……自分の子どもの寝顔くらい、ひと目で分かれよ)」

 受話器を置いた空却は、くそ、と呟いて、舌を打つ。もう東都に帰ったらしい本人には、そんな悪態すら、届かないのだろうが。


 ――思い出すんじゃなかった。後味の悪くなった胸をぐっと抑えつけると、腹の虫がぎゅるるっと鳴った。ああ、そういえば、朝から何も食ってねーな……。さすがに何か口に入れなければと、空却はどろっとした温もりを残す毛布を剥がして、その分をに預けたのち、外気に触れた体を怠く起こした。

「くー……ちゃん……?」

 ――全身の毛が、ぶわッと逆立つ。
 息を呑んだ空却は、おそるおそる、を見下ろす。幻聴……ではない。さっきまで閉じていたの目はうっすらと開いており、月明かりに照らされた瞳は、空却をおぼろげに映していた。
 思考が止まる。何年かぶりに呼ばれた音に、体がどう反応していいか分からず、やけに自分の心臓の音がどくどくと顕著に聞こえた。自身、どうやら呼び方は無意識のようで、特段訂正をしたりせず、夢現の眼差しで空却をじっと見上げている。

「……わりぃ。起こしたか」

 なので、空却もあえて指摘せずに、の声に応える。水分を長らく取っていなかった喉はからからに乾ききっていた。それでも、ちゃんと聞こえていたらしいは首を緩く横に振って、「どこ、いくの……?」とだけ尋ねた。その大半は息の音だったが、空却もまた、きちんとの言葉を拾った。お互いがお互いの声に、耳がひどく敏感になっているようだった。
 「台所。腹へったから、なんかつまむ」そう言って、お前も来るか、と。空却が聞くと、もまた、ゆるゆると起き上がった。どろっとした睡魔に取り憑かれているように、の体の動きはかなり鈍い。なので、相変わらず急勾配な階段を下っている途中も、お互いの手はくっついたままだった。







 空却は、と共に台所に立つ。コンロの横にある冷蔵庫を覗くと、大皿の上に乗ったたくさんのおにぎりがあって、なんだこれ、宴でも開くんか、と空却は内心突っ込む。宴――ああ、そうか、と。あながち、間違いでもないかもしれない。この家は、を卒業式に見送ってから、何も知らないのだ。本来の家主が亡くなったことも、これからはが新たな家主になることも、なにも。
 豪華な大皿が急に虚しく見えて、空却はおにぎりが乗ったそれを電子レンジにぶちこむ。温めている間に、二人分のコップと大きな容器に入ったお茶も棚から出した。さすがに途中での手を離さざるを得なかったが、お茶を次ぐ時も、はずっと、空却のYシャツの袖を掴んで離さなかった。

「……これ、お前がにぎったんか」

 ぴーっ、という音を立てて、電子レンジが役目を終える。空却はあつあつになった大皿を出しながら隣に佇んでいるに尋ねると、うん、と彼女は掠れた音を漏らした。卒業した自分に、お祝い、とも付け足して。
 そういやあの女……におめでとうの一言も言っとらんかったな。本当に何もかもが中途半端に終わっている彼女に、空却は言葉にならない憤りを覚えた。ああくそ――もう、余計なことを考えたくない。空却は大皿と二人分のコップを盆に乗せて、居間へと歩いていく。その後ろから、のたどたどしい足音がぺたぺたと追ってきた。


 居間の電気をつけたら、が眩しそうに目をぎゅっと瞑った。豆電球にしようとも思ったが、少しだけ迷って、空却は白い電灯を一つだけ付けて、机の上に乗せた盆と共に腰を下ろす。も、空却に引っ付くようにしてちょこんと隣に座った。
 ラップを開けると、ほかほかと暖かい湯気が天井に登っていく。「これ、中身なんだ」空却がに尋ねたら、全部天むすだと言ったから、少しだけ笑った。いただきます、と手を合わせて、手のひらサイズに握られたそれを空却がひょいっと一つ掴む。お前も食え、とに勧めるも、なぜかは首を横に振った。「いらない……」

、」
「くーちゃん……ぜんぶ、たべて……」

 そう言って、は空却の空いている腕を両手でぎゅっと掴んで黙り込んでしまった。じゃあ、なんのために下に降りてきたんだ。そう聞いても、今のは答えないような気がした。しばらく無音の空間が続いたが、ふう、と溜息をついた空却は、皿に乗っているおにぎりの半分を頬張って、お茶も三杯分がぶがぶと飲み干した。
 ごちそうさまでした。皿の上に残っているおにぎりを一瞥して、空却は再度に尋ねる。「ほんとに食わねーのか」が一つ頷いたのを見て、あっそ、と空却はわざと素っ気なく答えた。ほんの少しだけ、の体がびくっ、と怯えるように震えたのを感じて、固めた意思が一瞬揺らぐ。
 空却自身、こんなことは本意じゃない。本当なら、の好きなようにさせてやりたい。でも、こればっかりは、にまた、頑張ってもらうしかないのだ。
 空却は心の中で一言、仏に謝罪をした。すみません仏様、今からおれは、目の前の食材に対して、ひでぇことを言います。

「なら、これぜんぶ捨てるぞ」

 仏罰が下ったように、空却の舌先がぴりっと痺れた。
 「ぇ……」が小さく声を上げる。こちらを見上げたの目はどうして、と言わんばかりに大きく見開かれていた。

「食わねーんだろ。このまま腐らせるくらいなら、捨てちまう方が早え」

 ふいっ、と空却はわざとから視線を逸らす。いじわるなことを言っているのは百も承知だった。でも、このまま冷蔵庫に入れていても、が自ら食べるとはとても思えなかったし、ここで食べさせなければ、肉体の方から駄目になる。大きな風穴があいた心はそう簡単に塞がらないが、少なくとも腹の中は満たされるはず。は、カヨのいなくなった世界でも、一人でご飯を食べられるようにならなくてはいけない。
 の視線がおにぎりと空却を行き来している。まるで、食べたくないと拒否している自分自身と戦っているように見えた。時折、助けを求めるように、くーちゃん、と名を呼ばれるが、空却はただ黙っての様子を窺うだけだ。
 これは、一か八かだった。昔から、食物のことについてあれこれ説いていた自分の言葉が、の中で生きていると信じた。手を伸ばしてやりたい気持ちをぐっと耐えながら、空却はにしがみつかれている自分の腕を、か弱い力でじりじりと圧迫されていくのをただ感じていた。
 ……後に、腕に寄りかかっていた重みがふっとなくなる。自由になったの小さな手のひら同士が合わさったと同時に、「いただき、ます……」という囁き声があった。はおずおずとおにぎりを手に取り、小さな口で、苦しそうに、いやそうに、食べ始める。これは……天むすのおにぎりは、の好物のはずだった。

「……ゆっくりでいい。かんで飲みこめ」

 心はついていかなくても、体はきちんと栄養を吸収して、の生きる力になってくれるはずだから。
 は辛そうに顔をゆがめながらも、こく、こく、と首を縦に動かした。食べたくないと、内なるがそう訴えているのを空却は心の耳に挟む。それでも、はすべて食べ切って、大皿の上を空にした。お茶も四回分おかわりをした。
 ごちそうさまでした。手を合わせたに、よくやった、と空却はおにぎりを持っていなかった方の手で、寝癖のついたの頭を撫でる。すると、空却の手のひらに吸いつくようにして、が自分の頭をくりっと押しつけた。その瞬間、途方もない感情が、空却の胸の中からどばどばと溢れてくる。それは、境内の子猫を見た時に過ぎる庇護欲とまったく同じ形をしていて、空却は思わず口内に滲んだ生唾をごくんと飲み込んだ。







 二人で手を洗って、そのまま二階に上がる。空却が壁にぶら下がっている時計を見ると、すでに八時を回っていた。断りのない夜間外出は波羅夷家の家訓に反するが、今回ばかりは、灼空も事情を察しているだろう。
 念のためにあとで電話しとくか――空却が頭の隅でそう思っていると、が再び空却の腕を掴んだ。「……?」どうした、と尋ねても、は答えない。その代わり、の手に込められる力がさらに強くなっていく。体が下へ下へ重みを増して、ついに二人してその場にしゃがみ込んだ。仕方がない。このままじっとしているのも少しだけ肌寒かったので、さっき被っていた毛布を自分たちの体に巻き付けるようにしてくるむ。毛布は、まだ少しだけ暖かかった。

「……心配すんな。お前が望むだけいてやる」

 まるで空却を引き止めるような所作に、なんとなくの言いたいことが分かった気がして、空却はぽつんと言葉を落とした。そうしたら、明らかに自分の腕がふっと軽くなったので、きっと正解だったんだろう。
 「くーちゃ――」の紡ごうとした言葉が止む。あれ、との目が揺らいだのが分かって、空却もまた不思議そうにを見つめる。ながい夢から醒めたように、の瞳はあちらこちらに泳いでいて、再び空却を捉えた時には、水の膜がうっすらと張っていた。

「ごめ、んね……。わたし……いつ、から……」

 ごめんね、ごめんね、あたま、ずっと、くらくらしとって――そう言って、じりじりと自分から距離を置こうとするに対して、空却は両手を伸ばし、彼女の腕と腰をぐっと強く引いた。

「謝らんくていい。お前の好きに呼べ」

 ふつり……ふつり
 空却の両手がの後頭部と背中を抱くと、またさらに彼女の体から力が抜けていく。を守っていた糸の膜が次々に剥がれていって、畳の上にはらはらと落ちていった。

「くー、ちゃん……」
「あぁ」
「くー……ちゃん……」

 ふつり、ふつり……
 の呼び声に、空却は一つ一つ答えていく。聞いている。の言葉は、ずっと、一つ残さず。
 「」未だにを包み込んでいる糸の束に、空却は刃を入れる。ふつ、ふつ、と呆気なく切れては畳を白く覆っていく。もぞ、と胸の前で動いたが、ゆっくりとその顔を上げた。

「……もう、いいぞ」

 ――ふつん
 最後の糸が、宙ではらりと舞ったのを、横目に捉えた。
 音もなく、こちらを見上げていたの表情がみるみる崩れていく。昨日からつくっていた仮面がばりばりに割れて、その欠片が畳の上にぼたぼたと落ちていく。こんなにも、いとも簡単にこわれてしまうほど、溜め込んでいたんだろう。今にも出してしまいそうになる情動を、必死に堪えていたんだろう。
 「くぅ……ぢゃ……ッ」嗚咽の交じる、苦痛帯びた声。わなわなと震え出したの体が、そのままばらばらになってしまいそうで、空却はすかさずの体を隙間なく力一杯抱きしめた。

「わ、わっ、たし……っ、ばあばとっ……おわっ、かれ……したっ、く、なかった……ッ」
――」
「したくっ……なかっだああぁぁ……ッ」

 空気が割れる。
 溢れて、零れて、落ちていく――洪水のように流れ出てくるの言葉一つ一つに、空却は小さく頷いて、ぶるぶると拙く震える体を押さえつけた。が、悲しみの渦に呑まれないように。こちらの世界へ、一人で戻ってこれるように。

「だってっ、だってぇ……ッ、まだっ、なんもっ、言えとらんかったぁっ……ッ」

 途切れ途切れに言葉を吐き出しながら、せき止めていたかなしみをだらだらと流していく。それでもなお勢いは増すばかりで、言葉はなくともえぐえぐと飛び出す嗚咽のせいで、の口は終始閉じることはなかった。

「ごはんっ、おいしかった……っ、こととかっ……おさんぽ、たのしかったこととか……っ、なにも……ッ、なにもっ、言えとらんかったッ、のに……ッ」

 セーラー服を見せた途端、カヨは眠ってしまった。どうして、自分一人遺していったのか。あんなに優しくしてくれたのに。あの時、少し眠るだけと、言ったのに――だんだんとカヨに対する恨み言に変貌していっても、善し悪しの分別もせず、の言葉として空却は丸ごと包みこむ。うん、うん――乱雑に吐き出されるの声を肯定していった。丁寧に、一つも、取り零さないように。

「しぼーとどけっ……かきたくなかった……ッ。もしゅの、あいさつもっ、したく、なかった……ッ、ばあばのことっ、もやさんでって、いいたかった……っ、ほねいれるつぼも、もちたくなかったああぁぁ……っ!」

 ああしたかった、これがやだった――昨日から溜め込んでいたものを、狂ったように吐き出していく。その感情は小さな体に収まりきらないほど膨大で、その言の葉は幼い頭では処理できないくらい支離滅裂で、それでもなお、空却は自身の体内へ受け入れて、の代わりに、自分の中で消化していった。
 が思っていたことすべて、なかったことになんてしない。そんなことを思ってはいけないと、否定したりなんかしない。少しでもこちらに戻ってきやすいように、頭と、背中だけは、幼子をあやすように、ずうっとさすっている。
 「……ぁ、」不意に、が声を上げる。あ、あ、とうわ言のように音を漏らしたかと思えば、今度は、「ごめ、ごめっ、ん、なさいぃ……ッ」と何かに怯えるように、謝りだした。

「わかっ、とった……ッ。みんなっ、やさしく、してくれてっ……むずかしい、ことっ、ぜんぶッ、やって、くれて……ッ。わかっとったのに、わたしっ、わがまま、いって……ごめ、ごめんっ、なさいぃぃ……ッ」

 もう、なにもかもがぐちゃぐちゃだ。もうとっくに張り裂けているの胸は、泣きたいのか、怒りたいのか、悲しみたいのか、分からなくなっているようだった。
 情にあてられた空却も、ついに加減をなくしての体をかき抱いた。ひぐ、との息が詰まる音がしたが、どうも、この腕は力の緩め方を忘れてしまったようで、空却一人ではどうしようもなかった。「大丈夫だ」

「仏さんは、ずっと見とった。お前の気持ちも、ちゃんと分かってくださる」

 だから、大丈夫。大丈夫だ――空却は、頻りにそう言って、謝罪を繰り返すを宥めた。すると、今度は、言葉すら忘れてしまったが、大声を上げて泣き出してしまい、ついに空却の声すら、かき消されてしまった。
 言ってやりたいことが、たくさんあったはずだった。してやりたいことも、たくさんあったはずだった。しかし、それらは全部、の涙と一緒に流されてしまって、探しても、探しても、どこにもない。こんなことなら、思った時に、しておけばよかった。今している、自己満足でしかない慰めもすべて、自慰行為に思えてしまって、ひどくやるせない気分になった。







 庭先に咲いている桜の吹雪が、玄関前まで吹き込んでくる。外まで見送りに来たを見て、空却はもう何度目か分からない問いを繰り返した。

「お前、ほんとうに一人で平気か」
「うん」

 そう言ったは、赤く腫れぼった目を細めた。若干鼻声だが、やせ我慢をしている様子もない。かなしみをすべて払拭したとは言えないが、あとは時間が解決するしかないだろうと思って、空却は何かしてやりたいと思う欲を仕方なく収めた。

 一頻り泣いて、洗面所に篭もり、落ちつきを取り戻したは、いつものだった。今なら言ってもいいかと、今後のことを空却がにこと細かく伝えたら、存外、の反応は薄かった。曰く、ここに住めるならなんでもいいかなぁ、とのことだ。あの女のことについても空却は少しだけ触れたものの、は「そっかぁ……。おかあさん、いそがしいからねぇ」仕方がない、と。それしか言わなかった。触らぬ神になんとやら。空却もそれ以上、あえて触れたりはしなかった。が名古屋にいるのなら、なんでもよかった。

「あっ。くーちゃん、ちょっと待っとってね」

 そう言って、一度玄関に引っ込んで戻ってきたが差し出したのは、見覚えのある形の鍵。よく、の首にぶら下がっている、あの鍵だ。

「これ、お前ん家の鍵だろ」
「うん。ずっと前にばあばがね、何かあったときのために、合鍵はたよれる人に渡しときゃあって」
「うちの親父とか、近所のおばさんじゃなくていいのかよ」

 「うん」は頷いた。ふぅーん……。まあ、貰えるものはなんでも貰っておく主義の空却は、から渡された鍵をぎゅっと握って、ズボンのポケットに入れた。「あのね、くーちゃん」

「わたし、くーちゃんがいなかったら、ぜったい、とちゅうで泣いとったし、最後まで、お葬儀できんかった」

 んなことねーだろ。空却はそう言いたくなったが、が昨日ぶりににこやかに笑ったので、頭からすっ飛ぶ。代わりに、急いで準備した愛想のない言葉が、空却の口から飛び出した。

「へー……。で?」
「くーちゃんがいてくれて、よかったなぁって」

 ――とくん
 胸が一気に重たくなる。まただ……いつもの高鳴りとは、また違う。心臓が、変な風に動いた、この感覚。ずいぶんと昔にも、似たようなことがあった。あれは……そうだ、と、初めて一緒に帰った日だ。今と同じようなことを言われて、それ以来、なんとなく、を見る目が変わったのだった。どう変わったかは、もう、忘れてしまったが。今思えば、あれがとの関係を築く、ある種の分岐点だったのかもしれない。
 「くーちゃん……?」の声が遠くなる。いてよかった、と。たった、それだけのことで。こんなにも、満たされるものか。果てのない優越感が空却の体をみるみるうちに覆い尽くした。

「(……仏さんじゃ、だめだ)」

 は、おれを望んでいる。おれが――俺が、を、導いてやんねーと。

 ――「ちゃんのこと、よろしくねえ」

 以前、カヨの言っていた言葉を反芻する。言われなくても分かっとる――これは、カヨに言われたからじゃない。俺が、俺自身が、そう望んでいることだ。
 仏は、いつまでもを見ていない。でも、自分なら、いつでもそばにいてやれる。そうしたら、は嬉しいはずだ。楽しいはずだ。今までだって、ずっとそうだったのだから。俗世で生きている以上、四苦八苦から逃れられないのなら、少しでも、その苦しみが緩和するように、動けばいい。
 ……ふは。思わず、わらい声が漏れた。すると、は不思議そうな顔をするも、へらっと笑ったから、空却はさらに笑みを深くさせた。自分の思考が慢心に埋め尽くされたことに、まったく気づかないくらい、月明かりに照らされた桜が、不気味なくらい美しい夜だった。