Episode.7
これは、本当におれの心臓か。得度を受けたわけでもないのに、おそろしいくらい静穏を保っているたった一つの臓器に、空却はそう問いかけた。
ぱちんッ――ホチキスの乾いた音が放課後の教室に響く。来月に控えている社会科見学のしおりを作る作業は、残りわずか。学級委員長として、クラスの雑務を任されることはもう慣れた。そして、今期も一緒に組むことになった相方の女子とのやり取りも、必要最低限の言葉だけで成立するようになっている。阿吽の呼吸――そんな言葉が互いの間で行き来するくらいには。
「――私、ずっと好きだったんだよね。空却のこと」
ぱちん
柄にもなく、空却は一瞬頭が真っ白になった。予想外のタイミングで、予想外の人物から、そんなことを言われたものだから、動揺の証として、留め損ねたホチキスの芯がひしゃげた形で机の上に音もなく落ちる。
低学年の頃から、ちょくちょく設けられる密会。高学年になってからはその数が増して、今では一学期に数回にまでなっていた。その時、女子は決まって、同じ顔で、同じ言葉を空却に捧げる。あまりにも既視感を感じるものだから、皆で口裏を合わせているのではないかと疑ってしまうほどだ。
最初は、空却も気分が良かった。誰だって、好いてくれていることに対して悪い気はしない。しかし、放課後に残ってほしいと言われて、この臓器がだんだんと波打たなくなったのは、いつからだったか。
「……そーか」
軽い調子で流れた言葉が一世一代のものであると、空却は分かっていた。大きく吸って、ゆるゆると息を吐きながら礼を言う。ぱちん――先ほど打ち損ねた分のホチキスを、噛み締めるようにぎゅっと留めた。
いつもの言葉を、いつもの態度で。それでも……少しだけ、贔屓の心があったかもしれない。なにせ、幼稚園から一緒にいた女子だ。正義感が強く、周囲の意見に流されない様は、空却とも波長が似ていた。加えて、彼女は檀家の子で、なにかしら行事があるたびに寺にも遊びに来ていた。いわゆる、幼馴染というやつなのかもしれない。今まで、あまり意識したことはなかったが。
クラスの女子の輪は、彼女を中心にできていた。女子たちのリーダー的存在だが、偉そうにひけらかす様子もなかった。求められるがまま応える……人の上に立つ人間の素質を持った、空却も一目置く女子だった。クラスで揉め事があって学級委員長として場を収めなければいけない場面があると、感情的になりやすい空却を窘める役は、いつも彼女だった。
だから、こうして一緒に学級委員長になった回数も、数え切れない。空却がやるなら彼女も、彼女がやるなら空却も――そんな印象が周囲に根付いていた。
「わりい」
お前の気持ちにはこたえられねえ
外から聞こえていたサッカー部の声が遠のいていく。彼女が巻き起こした感情の渦に呑み込まれそうになりながらも、空却は言葉に意志を宿した。
「……そっ、か」
彼女はふっきれたように笑った。ここで泣くような女ではないことは長年の付き合いで分かっていたが、あまりにも下手に笑うものだから、空却は次に用意していた言葉が消えて、「あぁ」とだけ口から漏らした。中身のない、情けない音だった。
目の前にある、今にも歪んでしまいそうな彼女の真顔を見て初めて、空却の胸に波紋が生まれる。人を救わなければいけない立場になる自分が、こうして人を傷つけている矛盾。仏様は、こういう時にどう答えるのだろうか。相手を傷つけず、自分の思いを伝える方法は、ないのだろうか。その女子と縁がなかったと、割り切っていいものなのだろうか。
――それからはお互い、何事もなかったようにホチキスの音をぱちん、ぱちん、と交互に立てる。胸焼けがするこの沈黙を、かき消すように。
どうして、彼女の気持ちに応えられないのか、空却自身もよく分からなかった。ただ、彼女に“好き”と言われた時に、空却の脳裏に過ぎったものがあった。この女子よりも過ごした時間が圧倒的に少ない……ちいさな顔が。
「これ、おれが全部持ってくわ」
沈黙を破るように、空却は椅子から立ち上がる。完成したクラス分のしおりを持って、職員室にいる担任の元へ持っていこうとする。今、こいつと二人きりにならない方がいい、と思ったから。
少し、素っ気なく言ってしまったかもしれないが、これでいい。中途半端な優しさが過度な期待を生んでしまうことは分かっている。優しさを履き違えて相手に夢を見させるのは、無責任な人間のすることだ。
……うん、と。かすかに漏れた女子の声は、少しだけ水っぽかった。
しおりを両腕に抱えて、一階の職員室に向かう。そのあいだ、空却は体が浮遊しているような、不思議な感覚を味わっていた。
女子の顔、言われた言葉、教室の空気感……すべてが肌に焼き付いて、どうしても消えない。悪い意味でくすぐったく感じて、いっそ全身の毛を剃ってしまいたいと思うが、そんなことで払拭されるものではないと思った。それほどまでに彼女の想いは深く、濃いものだ。
――「くーこーくん」
……は、誰かに告白したことはあるのだろうか。
先ほどからちらついているちいさな顔。空却は担任にしおりを送り届けた後、教室への帰り道でひとり、想像する。
学校でのの顔を知らないので、妄想の産物だ。は、どんな顔で、声で、自分の想いを伝えるのだろう。朗らかにはにかみながら? それとも、恥ずかしげに俯きながら? そんなが目の前にいるところを想像すると、ぎゅる、と喉が鳴って、息が吸いづらくなった。でも、悪い気分はしない。
一方、他の男子と対面しているを想像しただけで胸がぐぐっと重たくなって、わっと声を上げたくなる。ひどくむかむかとしたこの感覚が気持ち悪くて、空却は舌打ちとともに妄想の中にいるにバツ印を付けた。
……が好きになるのは、どんな人なのだろう。のように穏やかで、のんびりとした男だろうか。自分とは真反対で、おんなおとこと周りから茶化されるような、なよなよとした男だろうか。そんな男が、女一人守れるわけがない。年がら年中危ない道に突っ込もうとするなんかは、特に。
「(……おれのほうが、ぜってー分かっとる)」
の好きなものも、喜ぶことも、空却はすべて分かっている。でもある日、がそれを望まない日が来たら。空却ではない、他の男の好意を求める日が訪れるとしたら。今まで自分に向けられていた表情や感情が、すべてその男のものになる。そう思った瞬間、どうしようもなくむしゃくしゃとして、そんなのはじゃねえ、と空却はまたしても舌打ちとともに自分の知らない彼女の存在を打ち消した。
赤、橙、黄、茶……視界の中を所狭しに彩る色は、空却に秋の真ん中を報せた。背中に感じる柔らかい落ち葉の感触と、巣立ちの準備を始めた鳥たちの声。寺の敷地内にある裏山は、この時期になると空却にとってちょうどいい隠れ蓑になってくれる。掃除をサボりたい時、本堂で悪戯をした時……何度灼空の目を掻い潜ってきただろう。山道から少し逸れたところに唯一木が拓いている場所があり、そこでごろんと横になるのが空却の日常だった。
今朝から昼過ぎまで、灼空の言うことを聞いて雑務を渋々こなしていた空却。そして、太陽が西に傾いたところで、また何か面倒事を頼まれそうな気配を感じ、灼空に見つかる前にこうして裏山に逃げてきた。今日は、程よく眠たくなる気候だ。こんな昼寝日和にこれ以上雑用を押し付けられては堪らない。今日積むはずだった徳は明日に回そうと思い、空却はふわあ、と欠伸を一つついた。
「(あー……これ、ねちまうな……)」
うと、うと、と空却は微睡んでいく。太陽の光を吸った落ち葉の温もりは、自分の部屋にある布団よりも心地いい。とろん、と瞼が下がってきて、徐々に視界も暗くなっていく。今日は昨日と比べて暖かい。肌寒さすら感じないのだから、少しくらい外で寝ても体は冷えないだろう。そう思って、空却は頭の中を空っぽにし、落ち葉の温もりに意識を委ねた。
……不意に、木々のさざめきに混じって、さく、さく、と落ち葉を踏む音が聞こえてくる。猫にしては大きく、大人にしては少し遊び心があるその音は、空却もよく聞き覚えのあるものだった。
――の足音だ。
一瞬にして跳ね上がった心臓に叩き起こされ、夢の国へ旅立とうとしていた意識が浮上する。だけにはここの場所を教えてあって、二人で寝転がって昼寝をしたことも少なくなかった。
徐々に近づいてくる足音のおかげで、睡魔は退散していく。でも、なんとなく目は閉じたままにして、だんだん大きくなっていく音と小さな気配に、空却の神経は研ぎ澄まされていった。
五年生に進級した途端、の鈍臭さに磨きがかかった。この裏山に足を踏み入れるときだって、よく木の幹につまづくようになったので、歩く時は注意しろと先日教えたばかりだった。日に日に遅くなっていく歩調と、丸みを帯びてきた小さな体。自分の背中を追って駆け回っていたも、木登りをしていたも、現実の世界にはもうどこにもいない。時折、空却の夢の中にお邪魔するくらいだった。
今日は、何しに来たのか。空却は、今日が寺に来るなんて一言も聞いてない。いつもなら、来る前にうちに電話が一本入るのに――ああ、もしかすると、自分がここにいる間にかけてきたのかもしれない。こんなことがあるから、早く携帯が欲しいと思う。そうしたら、こういう時にでもと連絡が取れるのに。灼空にいくらせがんでも、中学に入るまでは駄目だと言うのだからいやになる。
早く、大人になりたい。他の男子よりも緩やかに伸びる身長と少しずつ筋肉質になっていく手足を日に日に感じていても、空却の心中を満たす思いはそればかりだった。
さくっ――ついに、空却の耳元で足音が止まり、空白の時間が辺りを覆う。ここに来るまでは木々の間を縫いながら急斜面を下りなければならないので、一人で来れるかどうか危惧していたが、なんとかなったようだ。
空却はなるべく瞼を動かなさいように、傍に漂う空気を肌で感じる。すると、かさかさっ、と落ち葉が潰れる音がした。足音……ではない。なんとなく、音の主のが自分の隣に座ったような気がした。瞼の上で、その光景がありありと思い浮かぶくらいだ。きっとそうに違いない。
「(……いや、声かけろよ)」
すぐさま名前を呼ばれるかと思いきや、辺りを包むのは相変わらず自然の音だけ。まったく状況が一転しない時間に対して、空却は内心突っ込みを入れた。おそらくは、自分が眠っていると思っているは、こちらに気遣って起こさないようにしているとみた。鉄砲玉のような無邪気さがなくなった代わりに、こうして他人のような態度をするに対して、空却はむずむずしていた。
……元来、空却は待つことが嫌いだ。今の状況に辛抱ならなくなって、かッ、と目を開けると、「わぁっ」と隣で声がした。案の定、そこにいたのはだった。そして、自分の隣にちょこんと体操座りをしている。目を開けた時からの視線は自分に向けられており、すぐに彼女の丸くなった目と自分のそれがぱちんっと重なった。
の驚いた顔は、葉が紅く色づくように緩やかに変わっていく。ゆるりと目尻が下がり、口角が柔らかく上がる。薄く開けられた唇は、その最初の一文字を紡ぐためにきゅ、としぼめられた。
「空却くん、おはよう」
――とくんっ。思いのほか昂ぶった心臓に、空却は喉の奥がぎゅっと締まる。が笑んだ瞬間、背景としてあった橙や黄の葉がすべて紅に染まった幻覚を見て、空却は思わず瞬きをぱちぱちと繰り返した。
その表情に、空却は見入る。最近、の笑顔も変わったように思う。体だけではなく顔も丸みを帯びてきて、かといって別人かと聞かれると首を捻ってしまうような微々たる変化だ。態度も、所作も、顔つきも……どんどん移ろっていくに、空却は都度、戸惑いを隠せないでいる。
諸行無常――それはも、例外ではない。そんな当たり前なことを僧侶になる男が気にしていると知られたくなくて、空却は平然を装った。
「空却くん?」
「……あ?」
再びの声がかかり、空却は我に返る。「わたし、起こしてまったかなぁ……?」とは心配そうに言う。いつの間にか、目の前にあった笑顔は失せていて、薄い眉は下がり、小さな唇はへんな形にゆがんでいた。
……やはり、の気遣いは少々度が過ぎると思う。もう何年の付き合いだと思っている。たかだか睡眠を妨害されただけで、自分が癇癪を起こすとでも。つか、そもそもねてねーし。
「……最初から起きとった」
「ほんとう? ならよかったあ」
そう言って、はまたゆるっと微笑む。背中を丸めて、空却の顔を覗き込むように前のめりになったを見て、空却はこんなことを思った。
「(……こいつ、よく笑うようになったな)」
カヨが入院したばかりの頃はどうなることかと思ったが、なんだかんだであの広い家で一人でやっていけているようだった。時折食べさせられる料理も美味くなったし、カヨに何かあった時のために、近所の人とも込み入った話をしているらしい。朝だけはどうしても起きられないらしく、寝坊してばかりのようだが。
しかしそれを踏まえても、崖の上から落とされた赤子同然だった去年のを思えば、上出来の範疇だろう。
――そんな中、不可思議なことは自分の中にある。そう、が笑うたびに必要以上に高鳴る、この心臓。おそらく、このあいだあった告白が原因だと思う。件の女子とは普段通りで、関係も良好だ。なのにあれ以来、どうもの言動一つ一つが引っかかって仕方がない。学校も別であるには関係のないことなのに、なぜこの心臓はこんなにもざわついているのだろう。
……ああ、そうだ。に聞きたいことがあったんだった。このさいだ。いっちょ聞いてみっか。が寺に何しに来たのかは後で聞くとして、空却は上半身をよっ、と勢いよく起こした。
「」
「なあに?」
「お前、今までだれかに告ったことあるか」
――名前の知らない鳥の鳴き声が響き渡る。空却の言葉によって生まれた波紋が二人の空気をぶるぶると揺さぶって、なぜか、それを言った後に空却の口の中がからからに渇いていった。人から尋ねられたことはあっても自分から尋ねたことはなかったその問いを、まさかにする日が来ようとは。やはり、未来は誰にも分からないものだ。
一方、一瞬だけの周りの時間が止まったようになるが、やがて、はその首をふるふると横に振って、目をそっと伏せた。
「う、ううん……。ないよ」
……へーぇ。
ねーのか。ふぅーん。自分が思っていた以上にこのもやもやを溜め込んでいたらしい。の答えを聞いた途端、胸の中にあったものがすっと晴れていって、空却は秋の空気をめいいっぱい吸い込んだ。熟れたばかりの紅葉の香りが頭を満たして、とても気分がいい。
ここって、こんなにも草の匂いしたっけか。どことなく紅葉もいっそう色鮮やかに見えてきたので、空却は一度ぎゅっと目を閉じて、ぱっと開く。するとそこには、何か探るような顔をしたが空却の瞳を覗いていた。
「空却くんは……?」
「あ?」
「告白、したことあるのかなぁって……」
「ねーよ」
「そ、そっか……」は足のつま先を持ち上げて、そのままゆっくりと下ろす。落ち葉を寝かしつけるようにそれをぺたん、ぺたん、と何回か繰り返すと、は内緒話をするように唇をぽそぽそと動かした。
「告白されたことは、あるんだよね……?」
「おう」
「でも、断ってるんだよね」
「まぁな。それがどーしたよ」
「空却くんは……女の子のタイプとかあるのかなぁって思って……」
は膝を抱えていた両手の指をもじもじと交差させながら、呟くようにそう言った。
「たいぷぅ?」
「う、うんっ。足がほそい子がいいなあとか、目がおっきい子がいいなあとか」
「なんで外見ばっかなんだよ。つか、ごぼうみてーな足とか気持ちわりーからやだわ」
「ごぼう……」
は細くも太くもない自分のふくらはぎをするりと撫でた。そんな彼女を一瞥して、空却もふむ、と何もない空間を仰いだ。
――女子の好み、ねぇ。そういえば、今まで考えたことがなかった。クラスの女子の中で誰がいいかと他の男子に尋ねられたことはあったが、目を引く女子がおらず……そもそも興味がなくて、まともな返答をしたことがない。
強いて言うなら、だ。将来、空却は住職としてこの寺を継ぐことになる。その傍らにいる伴侶となれば、盆や年末年始の多忙にもひるまない、健康的な女子がいい。
あとは……明るい女子もいい。寺に来る人間を、辛気臭い顔で出迎えられたら堪らない。いつも笑顔の絶えない、ひとたび見れば心が洗われるような……そんな女子がいい。それらを総合的に言うとするならば――
「……よく笑って、よく食って、よくねるやつ」
「あかるくて、げんきな女の子……?」
「おー。よく分かってんじゃねーか」
にしては的射た言葉に空却は口角を上げる。こちらを見上げたの目がきらっと星が瞬いたようになったが、すぐに逸らされてしまった。
なんだ、もったいねえ。む、と唇を尖らせると、今度は空却がの瞳をぐっと覗き込んだ。
「お前はあんのかよ」
「えっ?」
「男の好み」
明らかに石化したに、そんなに変なことを聞いたか、と首を傾げるが、いやが最初に聞いたんだろーが、とすぐに開き直った。
の目がじっと自分を映している。視線がその一点に集まって、縫いつけられたように離れない。こんなにも、に穴が開くくらい見られるのは初めてだ。一度逸らしたらなんとなく負けだと思って、空却も負けじとを見つめ返す。すると、普段は気づかないのまつげの長さだとか、虹彩の色だとかが目について、言葉では言い表せない気分になっていく。
空却が知らない自分に出会う一歩手前で、ようやくうろうろと目を泳がせたは、空却の首元付近に目をやって、自信なさげにこう言った。
「や、やさしい人……かなぁ」
「はあ? 曖昧だな。もっと具体的にねーのかよ」
「ぐたいてきって……?」
「身長高ぇやつとか、頭良いやつとか……目に見えて分かるもんがいろいろあんだろ」
先ほど自分が言ったことがブーメランで返ってきていることについてはあえて気付かないふりをする。そして、はうぅん、と考えながら、ちら、ちら、とこちらに目配せしていた。さっきからなんなんだこいつ、と空却が怪訝な顔をする理由としては十分なくらいに。
「頭がいいとかは、わからんけど……。背は、そんなにたかくなくていいかなぁ……」
……背、低くていいんか。まあチビだもんなこいつ。ふぅん、と空却はの言葉をすとんと腹の奥に収める。
優しい人――そんなものは、世界中に何億もいる。それに、“優しい”の定義も人それぞれだ。にとっての“優しい”は、なんだ。美味しいものを食べるだけでゆるみきった顔をするのことだ。そんなの、全世界の男子が“優しい”の対象になる気がして、空却は危なっかしく思った。善人の皮を被った男にほんの少し親切にされただけで、その男の元にころっと行ってしまうかもしれない。
小さな色恋に構っていては、仏様の目も足りないだろう。が悪い男にだまされねーように、おれが見はってやらねーと。いつまで経っても、ほんとうには世話が焼ける。少しは成長してしっかりしてきた部分もあるが、の世界が広がるたびに危険は増える。見ていて飽きないというか、放っておく暇がないというか――の世話をしている方が、掃除や雑用よりもよっぽど得が積めるし有意義なのではと思ったところで、空却はふと思い出したことがあった。
「そういやお前、なんでここいんだよ。うちになんか用でもあったか」
「あっ」
思い出したように、が顔を上げる。そして、服のポケットからがごそごそと取り出したのは、年季の入ったがま口財布だった。それ、たしか親父のじゃなかったか。なんでが持ってんだ。
「病院のかえりにお寺の前をとおったらね、おそうじしとるおじさんに会ったの」
「ふーん。んで?」
「空却くんに伝えてって、たのまれとってね。このお金で、商店街におかいもの行ってきてほしいんだって」
「はあー? めんどくせっ」
顔をしかめた空却はそう吐き捨てる。やっぱ雑用を言いつけるつもりだったかあのクソ親父め。自分の勘もなかなか冴えるようになってきたことについては喜ばしいが、それとこれは別問題。に言われたら素直に行くとでも思ったか。甘ぇな。に言われたところで、今日はここで昼寝をすると空却は心に決めている。意地でもここから動くものか。
ふん、と空却が鼻を鳴らして再び横になろうとすると、「そっかぁ……」と残念そうに肩を落としたの声が届いた。
「じゃあ……わたし、行ってくるね」
「はあ? どこに」
「商店街に」
いやなんでお前が行くんだよ。目線だけでその言葉が伝わったのか、はほのかにはにかんだ。
「今ね、商店街にある天むすやさんがね、わりびきしとるの。このあとに寄ろうと思っとったら、おじさんが声かけてくれてね」
「それで、もしも空却くんが商店街に行くなら……その……」その次の言葉が想像できて、空却は数秒前の自分の頭をはたきたくなった。つか、そうならそうとも早く言えよ。これだから回りくどいことは嫌いなんだ。
「行くぞ」
「え?」
「商店街。おら、お前もさっさと立て」
「空却くん、いいの? さっきめんどうって――」
「あとで親父に叩かれるほうがよっぽど面倒なんだよ」
そう言って、空却は立ち上がる。いったん上着を脱いで、背中に付いた落ち葉をばさばさと払っていると、そのあいだにものそのそと腰を上げた。
「よっし。行くか!」
からがま口財布を受け取り、空却の手は自然との手を握っていた。ここで転ばれたら、また時間くうからな。大人しくついてくるに足取りが軽くなるのを感じていると、繋がれた手にきゅ、と加えられた力があった。
――とくん。ああ、まただ。こうして跳ねる心臓をいちいち気にしていてはキリがない。悪いものではないだろうから、しばらく放っておいても多分平気だ。どうせ、否が応でも分かる時が来るだろう。今は、と商店街に行くことの方が大事だ。
空却は自分のつま先がのつま先からはみ出ないようにして歩く。歩く速度もこちらに合わせようとしてくるようになったが、自分のペースで歩けるように。
大須商店街全体を覆う天窓。その上から釣り下げられている弾幕は、このあいだから紅葉の仕様に変わっている。道行く人も薄い上着を羽織る人が増えて、普段は厳格な佇まいを見せている甘栗の店は、観光客や地元客で行列をつくっていた。
秋だな――落ち葉を肌で感じるとは別の感覚が、空却の体の中で揺蕩った。
さて、灼空に頼まれた買い物を終わらせた空却は、の目的地である天むすの店に寄っていた。
「ほいひぃ~」
握りたてで熱々の天むすを躊躇なく口の中に頬張る……それを空却が頬杖をつきながらじっと見つめること、数十分。店の前にあるベンチに二人並んで座ってから、空却はが食べ終わるまで待つことを余儀なくされているが、まったく苦ではなかった。
むしろ、の口に天むすが吸い込まれていく様は面白いし、年々小さく見えてくるその体のどこにいくつもの天むすが収まっていくのかと、空却の興味は尽きなかった。
「(……こいつ、ほんとよく食うな)」
これで何個めだ。夕めし食えなくなるぞ。そんな言葉も、美味しそうに天むすを食べるの表情を見ていたら、ごくんと飲み込んでしまう。べつに、好きなだけ食わせてやればいんじゃねーの。内なる空却がそう囁いてから、に注意する気持ちは遠ざかった。
タッパーに入っていた天むすは、もう数えるほどしかない。が一口サイズのそれをもぐもぐと咀嚼してしばらくすると、空却の拳よりも小さな喉がこくんっ、と上下する。そして、口に何か含んでいないと死んでしまうと言わんばかりに、飲み込んだ後に間髪入れずに天むすに手が伸びるものだから、さすがにそろそろ止めないとやばいのではと心配になる。
よく食べるのはいいことだ。ただし、今度からが食う天むすの個数はおれが決める、と空却は固く誓った。
「空却くん」
「あ?」
「天むす、あと空却くんのぶんだけだよ」
……これ、おれの分もあったんか。
にそう言われて、あと二つ残っているそれを空却は見る。お腹は空いていなかったし、寺に帰れば夕食もあるので食べる気はさらさらなかったものの、当然空却も食べるだろうと信じて疑わないの目がきらきらとしていたので、いらない、と言うはずだった空却の口は閉じてしまった。
……まあ、これくらいの大きさなら腹に溜まることはないだろう。しばらく沈黙した後、いただきます、と手を合わせた空却はタッパーの中に入っていた残りの天むすを手に取って食べる。程よく粗熱の逃げた天むすは持ちやすく、口に入れた後も白米と揚げたエビの味が絶妙に混ざりあって、空却の目がぱっと見開く。昔味わった天むすと変わっていない。じわじわと溢れる旨みが舌で踊り、ごくんっ、と胃の中に収めた後、空却は唇をぺろっと舐めた。
「うめえな!」
「ね~っ」
「わたし、ここの天むすが一番すきなんだあ」地面につかない足をぶらぶらとさせながら、はこちらに向かって笑いかける。うぐ、と胸のところから込み上げてきた衝動に堪え、喉に蓋をするようにして、空却は残りの天むすをばくばくと頬張った。笑うなら笑うって言えよ。こっちだって心の準備があんだよ。
……いや、心の準備ってなんだ。冷静になって考えてみるものの、自分の中にあるものの正体は、空却もよく分かっていなかった。
「空却くん」
「なんだよ」
「また、いっしょに食べようね」
は前のめりになって、今度は綿毛が開くような柔い笑みを浮かべる。じわっ、と濡れた画用紙に水彩が滲んでいくような感情に、空却の体からふっと力が抜ける。坐禅が終わった直後のような……どこか心穏やかな気持ちになっていくのが自分でもよく分かった。
「……おー。またな」
空却は緩く目を伏せて、そう呟く。すると、の頬が少し赤らんでいったかと思えばさっと顔を逸らされて、彼女は手の中に残っていた天むすをぱくぱくと食べ進めていく。特に指摘はしなかったが、髪の間から覗く耳がぽっと色づいているのを見て、もみじみてぇ、とだけ、空却はぼんやりと思った。
……早く、大人になりたい。何百、何千と思ったことを、空却は再三心の中で巡らせる。大人になったら、いろんなことができる。に、天むすはもちろん、美味しいものをたくさん食べさせてやれる。それも、大人からもらった金ではなく、自分の力で稼いだ金で。
そうしたら、きっと、はもっと笑ってくれる。おいしいね――そう言って、自分にだけ、やわらかく笑いかけてくれる。そう思うと、広いはずの世界がたった二人だけの世界に思えて、空却の胸のはしっこがぶるっと震えた。
日が暮れる前に「そろそろ行くか」と空却がに声をかけると、彼女は「そうだねえ」と朗らかに言った。
「お前、これからもう家帰るだけか」
「うん。かえるだけだよ」
「なら送ってくわ。買いだしはいいんか」
「今日はねえ、おとといに作ったとん汁があるんだあ。今日までに食べんとだめになっちゃう」
「お前まだ食う気かよ……」
の底なし胃袋に、さすがの空却も食べ過ぎだと言おうとして口を開く。すると、「あっ」と突如が大通りを見ながら声を上げたので、空却も首を傾けて、と同じ場所へ視線を投げた。
「あんちゃん」
そこには、一人の女子がいた。
よりも身長が高く、なんなら自分と同じくらいか、少し上くらい――いや、おれが立ったらぜってー目線変わんねーし――しかし、女にしては明らかに背の高い方である女子が、空却とをじぃっと凝視している。
の口から飛び出した単語に対して、どっかで聞いたことあるな、と空却が思っていると、ヒョウのような速さでその女子はの前まで躍り出た。
「じゃーんっ!」
うるせッ!
きんっ、と耳を襲った声に空却は顔をしかめる。街中の広告で見るような、やけに写真映えする顔だな、と思ったのは一瞬だけ。言動は見た目よりもかなり幼く、今の一言だけで、空却は彼女が大体どういう人間か把握した。
あんちゃん、と呼ばれた女子はの前でにこにことしているが、その目線が空却にいくことはなくだけを見つめている。もで、空却からその女子へすっかり意識の方向が変わっていた。友人……と思わしき人間がいるのだから仕方がないが、空却はちょこっとだけおもしろくない。
「金曜ぶり!」
「うん。金曜ぶりだねえ。あんちゃん、今日はおかいもの?」
「そーそー。は?」
「天むす食べにきたのー」
「そーいえばこのまえから食べたいって言っとったんもんねー。うちも食べたくなってきたな~。ママに言って買ってもらおーかな~」
「あんちゃんのおかあさんは?」「今むかいのおみせでアクセ見とる~」繰り広げられる女子同士の会話に花が咲く。咲きすぎて、空却からしたら匂いが少しきついくらいだ。こういうのは蚊帳の外を決め込むのが利口だと、空却は二人の会話に口を出さず、なんなら気配すら薄くさせた。
……そういや、が同年代の女子と話しているところ、はじめて見たな。クラスの女子が纏う空気感とそう変わらないさまに、空却はどこか新鮮な気持ちで二人のやり取りを見つめる。とは言っても、自分に向ける顔とはまた別の顔をするが空却の視界の中心だった。
――女の話は長い。寺の行事で集まった主婦たちがつくる輪を何度も見てきた空却はそう確信している。案の定、二人の会話が一区切りついたのはそれから数分後だった。
二人の声が止むと、女子の視線がようやく空却の方に向けられる。すると、その目はすぐさまと空却の間を興味深そうにきょろきょろっと行き来し始めた。
「、この子だれー? 親戚?」
「う、ううん。ちがうよ」
「ふぅーん?」価値がよく分からない美術館の絵を見るような目でじぃーっと見つめられ、空却はかなり怪訝な顔をする。
おい、おれは見せもんじゃねーぞ。思わず声を荒らげそうになるが、が隣にいる手前下手なことは言えない。空却は口の中まで来たその言葉を、腹の奥に無理矢理押し込んだ。
「きみ、名前なんてゆーの?」
「波羅夷空却だ。お前は」
「杏だよ! の親友なの! よろよろ~っ」
「おーよろし――」
「あっ、そーだ! うち、ちょーどに言いたいことあってさ~!」
おい、まだ話してた途中だろーが。
なんだこいつ。空却がむかっとしていることにも気づいていない杏は、の方へ話を振っている。ものの数秒で初見の空却からは興味が失せたようだった。
初対面なのにもかかわらず、失礼極まりない態度だ。ほんとにこいつのダチか。見た目も喋り方も、とは正反対の女子。どちらかというと杏の方がに懐いている気がしなくもないが、も満更ではないようだった。くそが。
「今からうちでべんきょー会するんだけどさっ、もいっしょに来ない?」
「べんきょう会?」
「そーそー。さっきママのけーたいかりて野山にも電話したんだけど、あいつも来るって言っとったし!」
――ぴくっ。空却の指先が、小さな火種を浴びたように僅かに震える。
昔一度だけ聞いたことのある音に、空却の記憶が呼び覚まされる。あまり、思い出したくないものだ。楽しそうに自由研究の話をしていたを、空却はすぐに墨汁で塗りつぶした。
商店街の背景がふっと消える。杏の声や姿もみるみる遠くなっていって、ついにのことしか眼中になくなる。の息遣いや目の動きから、今あるの感情を拾おうとして、空却の全神経が彼女の存在に絡め取られた。
「野山くん、このあいだから数検の勉強しとるって言っとらんかったっけ……?」
「えっ? そうだっけ? でも、電話でいいよって言っとったからいーんじゃない? も野山に理科の天気のやつ教えてもらいたいって言っとったし、ちょーどいーじゃんっ」
……自分の知らない、。学区が違う以上、決して侵入できないところ。いちいち口にするのもはばかられたので、知りたいという感情そのものに、空却は無意識に蓋をしていた。
が学校でどんな交友関係を結んでいるのか――そんなことを知らなくても、空却の胸は満たされていた。自由研究の話以来、が学校の友人の話をすることは一度もなかった。だから、が自分に話すことが彼女のすべてなのだと、勝手に思い込んでいた。
「わたしは……その……」
がこちらを向く気配がするが、空却はそれどころではなかった。むくむくと膨れ上がった情動は、空却の思考を埋めつくして、余裕と理性をじりじりと焼いていく。
天気の単元が苦手なことも、自分以外の誰かに勉強を教えてもらいたいと思っていることも、空却は何も知らない。聞かされていない。なんでだ。そんななんて、どこにも行けなくなればいい――そんなことが一瞬脳裏を過ぎって、空却の背中にぞくッ、と嫌なものが走った。
「あんちゃん、わたしは――」
「だめだ」
きちんと音になっていたかどうかも怪しい声だった。空却はの手首を掴んで、自分の方へ力いっぱいに引っ張る。親指の付け根辺りにの脈がどくどくと感じるくらい、強く……強く、掴んだ。
強ばった顔をしたとぱちんと目が合うが、空却は自分が今、どんな目でを見ているのか分からなかった。荒ぶる心を表に出さないように必死で、どうしてがそんな苦しそうな顔をしているのか、まったく理解できなかった。
空却はベンチからを立たせ、何も言わずにその場から立ち去ろうとする。しかし、それを黙って見送らない人間が一人いた。「ちょっとちょっと」と、自分との間に躍り出たのは杏だった。なんだ、こいつまだいたのか。
「つれてどこ行くのっ!」
「うるせえ。、帰んぞ」
「え……?」
今は何も聞きたくない。なんなら、の声すら聞きたくない。今自分の道を妨げるものは、なんであろうと容赦なく切り捨てたい気分だった。
「空却くん……?」自分にしか聞こえない声で、は名前を呼ぶ。何か物言いたげなを見下ろすが、少しでも考える時間を与えてはいけないと思って、空却はの細い手首に力を入れるばかりだった。
「(……なにも考えんな)」
今のお前は、ただ、おれの言うことだけ聞いときゃあいーんだ。
なのに、それを邪魔したいと言わんばかりに杏の影が横からにゅっと伸びる。見るからに空却が不服な顔をしているのに対して、杏は余裕そうな顔で空却と対峙した。
「が困っとんじゃん! いっかいはなそーよっ」
「は? おれが帰るっつったら帰るんだよ。邪魔すんな」
「じゃまするし! てか、ほんとにきみの知り合い? 天むすカツアゲしとったんじゃないの?」
「かッ……!? おれがんなダセーことするわけねーだろ!」
「どーだかねっ。スカジャンなんか着てガラわるすぎだし!」
「てんめぇ……ッ、女だからってかげんしてやってんのに図にのりやがって――ッ!」
「空却くんッ!」
ソプラノの音が二人の前に飛び出した。今まで聞いたことのないの声に鼓膜が驚いて、びくッ、と空却の体が跳ねる。
初めて聞いた、の大声。の手首を掴んでいた空却の手を、の自由のきくもう片方の手で掴まれる。ぎゅっ、と触れられたの手のひらの感覚に、空却の中で渦巻いていた熱がすっとなりをひそめた。
「あ、あんちゃんと……っ、けんか、しちゃ、かんよ……」
はあちらこちらに目をさ迷わせた後、しゅん、と肩を落とした。それを見て冷水を頭からぶっかけられた空却は、「お……おぅ」と柄にもなくどもってしまった。
一方、ぽかんとしている杏が「クーコーくん?」と復唱したのを聞いて、空却はすぐさま彼女の方をきっと睨む。なんだよ。すると、杏の顔がぱあっと花開いて、空却を無理矢理押しのけ、に詰め寄った。
「っ! もしかしてこれがうわさのクーちゃ――ッ」
「わあぁぁっ!!」
またしても空却の鼓膜が驚く。こんなにも大きな声を出すを、まさか二回も拝むことになるとは。空却はすっかり覇気の消えた顔でぽかんとした。
顔を耳まで真っ赤にさせたはわたわたと体を揺らしているが、向かい合っている杏はけらけらと笑うばかりだ。
「なあんだ~っ! そうならそうと言ってくれればいいのに~っ。うち、めっちゃクーコー君としゃべってまってごめんねっ!」
「あッ、ああっ、あんちゃんっ」
「野山にはうちから言っとくから! じゃあねっ、また学校でね~っ!」
そう言った後、杏は颯爽と去っていく。この空気を荒らすだけ荒らしておいて、最後はこれか。文字通り、嵐のような女だった。できればもう二度と会いたくないが、このままだと同じ中学に通うことになる未来が見えて、空却はすぐにげんなりとした。
「……おい」
空却が呼びかけると、びくうッ、と爪の先まで体を震えさせる。まるで猟師に見つかった小動物を連想させるそれに、空却ははあ、と息をついた。
「空却くん、さ、さっきのはね――っ」
「ダチはちゃんと選べよ」
「へ……?」とは中身のない音を漏らした。
「そ、それ、だけ……?」
「“だけ”ってなんだよ。大事なことだぞ。類は友を呼ぶってことわざあるだろ。お前の周りにいるやつらによって、お前の未来像が大体決まるんだからよ」
少なくとも、空却はにああいうふうになってほしくない。特に、純粋なは何色にも染まる。今のうちに自分が牽制しておかなければ後々どうなることか……あまり想像したくない。
「く、空却くん、」
「なんだよ」
「あんちゃんね……クラスでもすごく明るくて、毎年皆勤賞も取っとって……。食べ物の好き嫌いも、ぜんぜんないんだよ」
「へー」
「ぇ、と……その……空却くんは、そういう子のほうが――」
「あんな女子のことなんかこれっぽっちもキョーミねーからこの話は終わりな」
そんなことより、今日はなんとなくを家に帰したくない。どこから来たか分からない思いが空却の胸をじりっと焦がして、気がついた時には口を開いて、その音を唇でかたどっていた。
「お前、今日おれんち泊まれ」
「えッ?」
「あーそういや、とん汁食わねーとだめなんだったな。なら夕めしだけお前んちで食おーぜ。んでおれもついでに食う」
「えぇっ」
なんだよ“えぇっ”って。いいよって言えよ。てっきり二つ返事で了承をもらえるかと思っていたので、のいまいちな反応に空却の機嫌がまた下がっていった。
「……いやなのかよ」
緩めたはずの手の力が、の手首をまた細くさせる。とく、とく、とみるみる遅くなっていくの脈を親指で感じていると、はゆっくりと空却を見上げて、小さな口をぱ、と開いた。
「やじゃ……ないよ」
――まあ、だろーな。
最初からそう言っとけばいいんだよ。空却はふん、と鼻を鳴らして、の手首を掴んでいた手を彼女の指へと移動させる。親指以外の四本の指を折らないようにきゅ、と弱く掴むと、の指の腹が空却の手の甲に引っかかった。いつもよりも弱々しいそれを空却は特段気にすることなく、の家へ足を伸ばした。
の家で夕飯を食べた後、門限内に空厳寺の敷居をくぐった。なんの断りもなしに急にを連れてきたものだから、灼空にしこたま叱られたものの、がいる手前、それも程々に終わった。
余談だが、言い合いの最中に「や、やっぱり、わたしかえったほうが――」などとが論点の違うことを言うものだから、「お前は泊まってけ」「ちゃんは泊まっていきなさい」と何年かぶりに親子揃って口を揃えてしまった。屈辱である。
去年の夏から、長期休みの間は寺に泊まるようになった。風呂と洗面所の場所も、離れから空却への部屋の道順も去年のうちにきっちり覚えさせた。しかし、それでもたまに境内で迷子になるを探して、空却が寺中駆け回ることもしばしばある。二十分近く探してもいなかった時は、さすがにに居場所探知機なるものを付けたくなった。
さて、そんな空却はが風呂に入っている間に客間から一組の布団を引っ張り出してきて、離れまで運んでいた。普段使っていない離れは空き部屋と化しているが、部屋には目立った塵も埃もない。空却が普段の掃除時間の合間に、離れの床の雑巾がけをしているおかげだ。今日のように、いつでもが泊まりに来てもいいように。
空却が廊下を歩いている最中、寺で使っているせっけんの香りがしたので、もう風呂上がったんか、と空却は頭の隅で思う。少しだけ足を早めて、すたすたと部屋へと向かう。いつぞやに布団の準備に手間取って、空却がようやく離れに布団を運び込んだ時には、が固い床で寝落ちていたのだ。その時は叩き起して、眠気まなこのをなんとか柔らかい布団の上で寝かせたが、今回はそんなことがないようにしたい。気持ちよさそうに眠るを起こすのは、少々手間なのだ。
「ー。あけろー」
部屋の前に着くと、戸に対して空却は体を横に向けて声を張る。すると、部屋の中から小さな物音が聞こえてきた。がぱたぱたと戸側に走ってくる気配がして、空却は念のために一歩だけ後ろに下がる。のことだ。何も考えずに戸を開けて体を前に出すに違いない。さすがに、布団を両手いっぱいに持ったこの状態での正面衝突は避けたかった。
少々重ための戸がゆっくりと開くと、目の前に現れたよりも先に、空却の正面にふわっと飛び込んできたものがあった。
「空却くん、おふとん持ってきてくれたのっ?」
「……おー」
「ありがとうっ。言ってくれたら、自分で取りにいったのに……」
布団よりもちいせえ体しとるくせしてなに言っとんだ――そう言うはずだったが、言葉がどこかに吹き飛んでいく。風呂上がりのは、自分のお下がりである作務衣を身にまとっていて、半乾きであろう髪は日中よりもぺたんとしていた。
それに……なんだろう。なんだか、いいにおいがする。空却の元に、我先にと飛び込んできた正体はこれだった。夏まではそんなことはなかったのに、今日はなぜだか、が纏っているにおいが違う。おかしい。も、自分と同じせっけんを使っているはずだし、ここに来る間も、その匂いしかしなかったのに。今は、せっけんと何かが混じりあったにおいが、空却の頭を満たしていた。
「空却くん……?」
の不安げな声が届いて、空却ははっと我に返る。そろそろ自分の腕が痺れてきていることに気がついて、空却は部屋に入り、何事もない顔で布団を運びこむ。を横切った時、件のにおいがいっとう濃くなって、頭がくらくらとした。
空却は畳まれた布団を床の上にぼすんっと置いて、を見下ろす。髪か体ににおいが強いものを付けているのかと聞こうとしたが、日中、あれだけ天むすを頬張っていたが、そんな洒落たものを付けるはずもないとすぐに思い直した。
「」
「なあに?」
「お前、うちにあるせっけん使ったよな」
「うん。つかったよー」
「空却くんのところのシャンプー、すごくいいにおい――」の言葉がぴたっと止まる。すると、いきなり作務衣の袖をまくり上げて、自分の腕をすんすんと嗅ぎ始めた。空却は「なにやってんだ」と眉をひそめる。
「わたし、くさいかなぁ……?」
「あぁ? くせえっつーか……」
改めて聞かれると、なんとも形容しがたいにおいだ。特段不快ではないし、むしろ、鼻先にずっとあっても困らないくらいには、癖になるにおいだと思う。しかし、これ以上のことを追求してはがまた変な勘違いをするかもしれないので、空却も得体の知れない香りに拘ることをやめた。
未だに自分の腕を嗅いでいるに対して、くさくねーよ、と言おうとする空却。しかし、露わになっていたの手首が視界に飛び込んでくると、空却は目をわッと見開いた。
「お前、これどうした」
「え……?」
空却は宙に浮いていたの手をぱしっと捕まえる。見れば、手首に引っかかるようにして丸型の鬱血痕が浮かび上がっていた。横に並んでいるものが四つ、その下に一番大きな丸が一つ。なんだこれ、と空却の手がの手首に滑った時だった。
――鬱血痕が、空却の指の腹と重なる。それを見た瞬間、体から熱がすうっと抜けて、喉から水分が蒸発していく。外界からの刺激すらも遮断されて、あのいいにおいも、外から聞こえる鈴虫の音も、何も感じなくなっていった。
――「、帰んぞ」
……ゆっくりと、の顔を見る。目は合わなかった。は、家の皿を割ってしまったようなばつの悪い顔をして、出っ張ってきた空却の喉仏を見つめていた。なんで、傷つけられたお前がそんな顔すんだよ。
「……わりぃ。これ、痛かったろ」
かすれた声で、空却はぽつりと言う。そして、商店街で自分がにしたことを思い出そうとしたが、映像や音声にもやがかかっていて、上手く掘り起こせない。の表情どころか、あの時込めた自分の手の力すらも。自分の知らないに対してむかついたことくらいしか、記憶になかった。
「いたくないよ」
すぐに返ってきたの声に、空却は顔を上げる。いつの間にかこちらを見上げていたは、思わず瞬きをしてしまうくらいやわらかい表情をしていた。その口元には笑みすら浮ばせている。
嘘をつく時、きまって目が泳ぐ。なのに、どうして、痛くないと言ったと今、目が合っている。空却はまったく意味が分からなくて、唸るようにこう言った。
「……うそつくんじゃねーよ」
「うそじゃないよ」
「お前っ、こんなあざつけられとって――ッ」
「空却くん、早くおうち帰りたかったんだよね。わたしが食べるのおそいから、待っとってくれたんだよね。空却くんはわるくないから、大丈夫だよ」
「空却くんはやさしいねえ」そう言って、が軽やかに笑うものだから、空却はついに言葉をなくした。なんでだ。なんでは笑っとんだ。いたかったならいたかったって、言やあいいだろーが。
それに……あの時、自分は早く帰りたかったわけじゃない。それだけはなんとか言いたかったのに、空却は瞳孔をきゅっと小さくさせて、おそろしいくらい穏やかに笑うを見下ろすことしかできなかった。
――そんなことがあった夜など、ぐっすり眠れるわけもなく。
少し早いが、空却は布団を押し入れに上げて、身支度を整える。さすがに秋の夜は冷えるため、箪笥から厚手の羽織を引っ張ってきた。
くわっ、と空却はあくびを漏らす。今日の昼も裏山で寝よう、今日の天気はよかったっけか……そんなことを考えていると、部屋の外から高めの声が微かに聞こえてきて、空却の耳の神経がすっと研ぎ澄まされた。
「(……?)」
ほんとうに、小さな音だった。物音一つ立ててしまえば、さあっと消え去ってしまうくらいの。しかし、幸いにも部屋の中は静穏を保っていたし、空却の耳がが紡ぐ音を拾わないはずがなかった。
離れですやすやと寝ているはずの。さすがに幻聴か、とも思いつつ、部屋の襖をさっと開けると、そこには幻覚ではない……きちんと実体のあるが、両腕に枕を抱えて立っていた。
「、こんな夜ふけにどうし――」
……の顔がゆるりと上がる。水の膜が張った目は、瞬きをすれば今にも涙が零れ落ちそうになっていて、空却はぎょっとする。頭が真っ白になる前に、昔この口が言ったことが頭の中でぼんやりと木霊した。
――泣きてえときはおれを呼べ。そうか……だからか。すとん、と疑問が胸に落ちてきて、消える。空却は小さく息をつきながら、片手で自分の髪を掻く。入院しているカヨも元気だったし、しばらくは鼠も雷もなかったものだから、自分の言葉が過去の時間にすっかり埋もれてしまっていた。
「ご、ごめんね……。ねとるとおもったんだけど……あかり、もれとったから――っ、わぁっ」
鼠が出たのかとか、病院にいるカヨのことを思い出したのかとか……そういうことはすべて後回しにして、またしても変な勘違いをしているに、空却は自分が着たばかりの羽織を彼女の頭の上に被せた。
雨を凌ぐような格好になったを見下ろすと、不安そうに揺れている眼差しと自分の視線が密に絡まった。
「……すぐにもどってくっから、部屋ん中はいってろ」
そんな弱々しい眼差しを打ち消すように、空却はぐしゃぐしゃとの頭を掻き撫でて、「待てるか」と一言尋ねる。こくこく、と頻りに頷いたの背中を部屋に押しやり、空却は床を強く蹴った。
庫裏から本堂に続く渡り廊下を走り抜ける。途中、出会った僧たちに挨拶を交わしながら、灼空の居場所を聞き回った。先ほどは西堂におられましたよ、数分前に手水舎でお会いしましたよ――人伝の情報を頼りにして、ようやく灼空と会えた場所は本堂の裏手だった。
「おはよ。親父、ちょっといいか」
空却が呼びかけると、灼空がゆっくりと振り返る。「おはよう。なんだ」そう応じてくれた父親に、空却は単刀直入にこう言った。
「今日、朝のおつとめなしでもいいか」
……沈黙がいやに耳についた。こんなことを言ったのは空却が覚えている限りでは初めてのことで、その後の展開がまったく想像できなかった。
駄目だと却下されるか、寺の子失格だと罵られるか――まあ、後者は別にいい。問題なのは、やれと言われた時だ。正直、一刻も早く部屋に帰らないといけないこんな時に、おつとめをやっている暇はない。自分の代わりに掃除をする修行僧はいても、の傍にいられる人間の代わりはいない。そもそも、代わりなどたてたくなかった。
灼空は黙って空却を見つめた後、何もない空間を仰いで、鼻からゆっくりと息を吐いた。
「……許そう」
灼空の口から紡がれた音を、空却は一瞬疑った。
「は? いーのかよ」
「いいと言っているだろう。それから、台所の戸棚にお菓子が入っとる。夜の伴に持っていきなさい」
声色といい言葉の中身といい、空却の想像の上のさらに上をいったものだから、親父のやつねぼけとんのか、それともおれがねぼけてんのか、と思ってしまう。それでも、秋の夜の寒さは本物だし、灼空の厳格な眼差しも相変わらず澄みきっていたので、今あったことはすべて現実なのだと思い直した。
……親父のやつ、ぜんぶ分かってやがる。むっとした空却は灼空に背を向け、振り返りもせずにわざと声を張った。
「夜に菓子が食えるなんて、こんな機会めったにねーからなっ。二人ぶんくれえたっぷり持ってってやる」
「あぁ。好きにせい」
溜息混じりに言われた言葉が耳に残る。冷たい夜風に吹かれて、一度身震いをした空却はその場から走り出す。向かう場所は言うまでもない。
――が悲しんでいる。そんな説明を、何一つしていないというのに。灼空が一瞬何もない空間を見つめたのは、離れにいるのことをおもっていたからなのだと、空却は思った。人の本質を見抜いているあの目の前では、相変わらずなんの隠し事もできやしない。
……早く、自分も人の心を見通す目がほしい。でも、分かるのは、たった一人でいい。笑う理由や、泣く理由……その目さえあればすぐに察することができて、口の中にあった言葉が消えることも、頭の中が真っ白になることも、きっとないだろうから。
台所に寄って、両腕いっぱいにお菓子を抱えた空却は自室に戻る。足で襖を開けると、部屋の隅でちょこんと膝を抱えているがすぐに映った。羽織は頭に被ったままで、声掛けもなしに入ってきた空却のことを驚いたように見上げている。
……まだ、泣いてねーな。ひとまずその事実だけで胸が楽になった空却は、ばさばさばさッ、と腕に抱えていたお菓子たちを畳の上に落とす。は目を丸くして、よたよたと四つん這いになりながら、部屋の中心までやって来た。
「、今から会合すんぞ」
「かいごー……?」
「おーよ。だからお前も封あけんの手伝え」
食べられる量かどうかは考えずに、空却は目についたお菓子を片っ端から開けていく。塩とコンソメのポテトチップス、チョコのついた棒状のスナック、焼くとさらに美味しいさくほろクッキー……こんなにも贅沢なことをするのは生まれて初めてかもしれない。
ふはっ、と空却が笑うと、お菓子のパッケージを開けているがゆっくりと顔を上げる。その拍子に、羽織がすとん、との肩に落ちて、顔がよく見えるようになった。
「空却くん、たのしそうだねぇ」
「こんな背徳的なことを親父の許可もらってやっとんだ。楽しくねえわけねーだろ」
「はいとくって……?」
「いけねーことしとるってことだ」
菓子を開ける手を止めずに空却がそう言った。その後に、「空却くん、今日のおつとめって……」とが余計なことに気づいたものだから、今日はおつとめをしない日だ、と言って誤魔化した。
一通りすべてのお菓子を開けて、好きなものから摘んでいく。檀家の子供向けに買い置きしてあるお菓子たちは、たとえそこにあっても手をつけてはいけない代物だった。それが今、合法的に自分の目の前にあるのだから、心が踊らないわけがないのだ。
「んで? おれの部屋にまで来て、なんかあったんか」
空却はポテチを二枚摘んでばりっと食べる。一方のは、チョコのついた棒状のお菓子をぽりぽりとかじっていた。こうして見ると、ほんとうにリスみたいに見える。
「夢、みてまって……」
「夢ぇ? どんなだ」
「空却くんが……」
「はあ? おれ?」
てっきりカヨがホトケになる夢かと思ったが、どうやら主役は自分らしい。空却はポテチを摘む手を休めずに、がこくん、と頷く姿をきちんと視界に収めた。
「空却くんがね……おまわりさんに、つれてかれるの……」
ポテチを食べてなければ、なんだそれ、と言っていたところだ。
空却自身、徳の高い寺に連れていかれる夢は何度も見ているが、警察に厄介になる夢は一度もないし、そんな予定もない。所詮は夢だが、時には近い未来の暗示と揶揄されることもある。
空却は、どういう経緯で自分がそうなったのかに聞こうとするが、の体が次第にわなわなと震えていったので、それどころではなくなった。
「くーこーくん……なにも、わるいことしとらんのに……っ」
ついにぐずり出してしまったに対して、「あー分かった、分かったから泣くなって……」と空却は小さな背中をさする。こういう時、空却は未だにとどう接すればいいのか分かっていなかった。
「つか、そんときお前はなにしとったんだよ」
「わ、たし……?」
の夢なのに自分だけ出てくるのはおかしい。空却が尋ねると、は目をうろうろとさせた後、「なにも……」とだけ呟いた。
「はあ? なにもって――」
「空却くんが、おとなのひとにつれていかれとるのに、わたしっ、くちも、あしも……っ、うごかんくてえぇ……っ」
あー聞くんじゃなかったくそっ。
本格的に涙声になってきたに言葉が詰まる。泣くなと言ったらぎゃくに泣いてしまいそうなを、どう扱えばいいのかまったく分からない。赤子のようにあやして泣き止んだら苦労はない。男は女の涙に弱いという言葉を初めて聞いた時は鼻で笑ったものだが、その意味が今になってようやく分かった。
……前に、が泣いてたときは、どうしてたっけか。たしか……ああ、そうだ。空却は、が持っていた棒状のお菓子をいったん袋の中に戻す。そして、手元にあったティッシュで菓子くずの付いた自分の指を拭うと、その場に膝立ちになって、との距離をぐぐっと縮めた。
「ぇ……?」
困惑した顔をしたに、自分の影が濃く伸びる。こちらを見上げたの頭の後ろを片手でぐっと引き寄せて、背中も同じように片腕を回すと、ちょうど自分の胸にの体がすっぽりと収まった。
こうすれば……たしか、前は大丈夫だったはず。の上半身が空却の胸から腹にかけてぴったりと重なり、ほんの少しだけ気恥ずかしい。しかしもう、後には引けない。の背中に触れている手を下に滑らせると、彼女の肩がぎゅっと強ばる。そして、小さな背中が上下する頻度も、一気に早くなった気がした。
……にしてもこいつ、また頭小さくなったか。肩も細いし、背中もかなりせまい。年を重ねるごとに小さく感じていくに対して、再来年あたりには消えてしまうのではないかと、そんな馬鹿なことを思った。
「夢ごときで泣くんじゃねーよ……。おれはちゃんとここにいるだろ。つか、おれがいるって分かっとったから、お前もおれの部屋に来たんじゃねーのか」
空却の胸の前で、の頭がわずかに上下に動く。そこまで分かってんのになんで泣くんだよ――そう言いたかったが、いらないことを言ってのかなしみを助長させてしまう可能性もあったので、ひとまずが落ち着くまで、空却は黙りこむと決めた。良い男は言葉よりも行動で語るものだと、商店街にある酒場の店主から聞いたばかりだった。
……すんっ。鼻のすする音が止んで、空却はの心の波が穏やかになったのを気配で感じた。
「……もう大丈夫か」
「ぅ、ん……」
「なら、もう泣くなよ。今のお前がやるべきことは、目の前にある菓子をたらふく食うことだ」
「いいな」そう釘を刺して、空却がの上半身を解放すると、はどこかぽやぽやとした顔でこくん、と頷く。加えて、目の下だけではなく、頬から耳たぶにかけて赤みがかっていて、目の焦点もまるで合っていなかった。
催眠にかかったようにふわふわとした様子のに、ほんとに大丈夫かこいつ、食欲あんのか、と空却は顔をしかめたが、すぐにがお菓子に手を伸ばし始めたので、空却の心配もひとまずは杞憂に終わったのだった。
菓子のくずだらけになった手を洗い、もう一度歯を磨く。お菓子を食べ進めていくうちに、封を開けたものすべてを完食できるか怪しいところだったが、そのほとんどをがぺろりと平らげてしまった。目は虚ろだったのに、その手はひょいひょいとお菓子を摘んでいくものだから、空却は驚きを通り越して呆れ返った。
まあ、が泣きださなけりゃあそれでいーか、という極論にまで達して、黙々と食べ進めるに対して、空却も何も言わなかった。
洗面台から帰るその足で離れに来たはいいものの、なんだかんでが眠りにつくまで一緒にいることになった。さすがにこの時期に何も被らないままでは寒かったので、空却もと一緒の布団に潜り込む。
の隣で眠るのは久々だった。客間で宿題をやっていた途中、二人で寝落ちしたことはよくあるが、最近はそういうこともなかった。
まあ……さすがに同じ布団で眠ることは初めてだが。提案したのは空却で、それを聞いたは「えぇっ」という反応をしたが、「お前、おれが風邪引いてもいいんか」と言うと、結果的にも承諾したのでよしとした。
「……空却くん、」
「なんだよ」
子ども二人が寝るにはちょうどいい大きさの布団の中。内緒話をするような、のひそやかな声が聞こえてくる。
二人分の体温に紛れて届くそれは、耳の奥をくすぐられているようになって、どこかこそばゆかった。「ぇ、と……その……」
「あ、あたまの上に……手ぇ、おいてくれんかなぁ、って……」
……なんだ、そんなことか。空却は言われた通りにの頭の上にぽん、と片手を置く。一体何の意味があるのか分からないが、がしてほしいと言うなら、しない理由はない。
「これでいいか」
は小さく頷いたのち、ありがとう、と小さくお礼を言う。そのままゆっくりと目を閉じたは、もぐらのようにもぞもぞと布団の中に潜っていって、それから動かなくなった。
顔が見れないのが少しもったいなく思った空却だったが、に強要するまでのことでもなかったので、じっと堪え忍んだ。
――「空却くん、早くおうち帰りたかったんだよね。わたしが食べるのおそいから、待っとってくれたんだよね。空却くんはわるくないから、大丈夫だよ」
……結局、言えなかった。
違うと言いたかった。本当は、そんなやさしいものではないのだと。が思っているよりも、あの時秘めていた感情はもっとどろどろとしていて、仏様に顔向けできないような、不穏なものなのだと。それを抱いてしまった結果、の体に痕を残してしまった。すぐに消えるものだとか、は気にしていないだとか、そういう問題じゃない。力加減を誤れば、を傷つけてしまう体に自分はなっているのだと、空却は改めて思った。
「(……よく、ねるやつ)」
規則正しい寝息が下から聞こえてきて、早くも夢の中の住人になったに、空却はため息をつく。昔から、の睡眠は時間と場所を選ばない。もうお役御免のはずの空却の手だったが、なぜだか無性にの頭に置いた手を動かしたくなって、空却はを起こさないように、自分の手のひらを彼女の頭の上でゆっくりと滑らせた。
……あたたかい。一人で寝るよりも、ずっと。それに、やっぱり、いいにおいがする。うと、と視界が微睡んできて、少しだけならいいか、と空却もゆっくりと目を閉じる。ちょっと仮眠してから部屋に戻ればいいだろ……。そう思いながら、空却の意識はふつりと切れる。
――しん、と静まり返っていた秋虫の音が、再び賑やかに鳴き始めた。
