Episode.6



 半袖のシャツと短パンを着ても汗ばむ気候になった七月。今日もせわしない足音が後ろからぱたぱたと聞こえてくる。聞き分けは悪いが物覚えが良く、都合の悪いことは聞こえないがそれ以外に関しては耳が良い空却が、かれこれもう二年以上聞いている足音が誰のものか分からないはずがなかった。
 その足音が自分の隣でぴたりと止まるまでは決して後ろを振り向かないし、歩幅も一切変えない。なんとなく、こちらがのことを待っているようで、空却は少しだけ癪なのだ。
 最近、が学校から帰ってくるのが遅い。空却が彼女の後ろ姿を捉えることが少なくなった代わりに、は自分の背中を見つけるとこうして走ってくるのだ。おかげで、空却の心は少しそわそわするようになる。昨日はあの曲がり角で合流しただとか、一昨日はもっと手前の方で声をかけられただとか……色々考えては、一人では消化しきれない感情が胸を覆った。
 まったく。待つ側はこれだから――いやべつに、のことを待ってるわけじゃねーけど。

「くーちゃ――ッ」

 空却の耳奥に神経が集中する。しかし、途中で止まったその音に、空却は内心首を傾げる。の足音も同時に止まってしまったので、空却の歩く速度が無意識に緩まる。

「くっ、くーこーくんッ」
「は?」

 飛んできた声に、空却は堪らず振り向いた。一瞬他人かと思ったそれは、正真正銘のもの。はこちらにぱたぱたっ、と駆け寄ってきたと思えば、いつものように空却の隣に並んだ。
 いつものように……そう、呼び方さえ変わっていなければ。

「おまえ、今おれのこと呼んだか」
「う、うん」
「くーこーくんって」
「うん……」

 今まで調子よく回っていた歯車が、たった一箇所……ほんの少し欠けてしまったせいで不安定に動き始める。がぎこちなく視線を泳がせていることもあって、空却は腑に落ちなかった。何か裏がある、と空却は無言でを見下ろす。少し前までほぼ同じ位置にあったの頭頂部は、空却の顎の辺りまで下がっていた。

「ほ、ほらっ。くーちゃんってよぶなってずっと言っとったから……」
「はあぁ? いつの話だよ。今さら変えられても気持ちわりいだけだろーが」

 空却自身、そんなことはすっかり忘れていた。そういやそんなこともあったな、くらいおぼろげになった記憶だ。それを今になって蒸し返したの考えていることが、空却はさっぱり分からなかった。
 一方、は居心地が悪そうに胸の前で両手の指をこしょこしょと交差させている。くーちゃんって呼ぶな、というところだけ聞こえていないんじゃないかというくらいスルーしていたが、今になってその言葉を聞き入れたのだ。そこに至るまで、相応の理由があるはずだ。
 しかし、「え、えぇっと……その……」と必死に言葉を探しているがだんだん不憫に思えてくる。
 が理由を白状するまで問い詰める気でいた空却だったが、ついに長いため息をついた。

「……わぁーったよ。おまえの好きなように呼べ。呼びかたなんざ、おれは気にしねーし」

 まったく気にしていないというわけでもないのだが、それは胸に収めておくものだと分別して、空却は再び歩き出す。その時のが浮かべた、心からほっとしたような表情を見て、正体の知れない重石が空却の胸の奥底にぶくぶくと沈んでいくのを感じた。
 ……運ぶ足が、重たく感じる。深く息を吐き出したいような、今すぐ嫌だと言い放ってしまいたいような……しかし、がそう望むのなら、しかたがない。仏は道を提示することはあっても、選択肢の一つである道を完全に閉ざすことはしないのだ。
 お互いの歩幅も、距離も変わらない。なのに、自分との間には昨日まではなかった溝のようなものが浮かび上がっている気がした。段差とも呼べないくらい低くて狭いものだが、それすらもひどくもどかしい。今すぐにでも飛び越えてしまいたい。しかし、そうしたらがまた困った顔をしそうだったので、空却は喉奥に溜まっていたもやもやをごくんと飲み込んだ。
 おれが我慢しすりゃあいいだけの話だ――今からでもありのままの心をむき出しにしてしまいたいと暴れる己に、空却はそう言い聞かせた。


 しばらく歩いたところで、はいつものように今日あったことをのんびりと語り始める。

「くーこーくんの学校も、きょうの給食のにくじゃが少なかった?」

 学校が違うので、との共通の話題といえば同じセンターで作られる給食の献立くらいだった。どんな経緯でそんな話にまで飛躍したのかは、もう覚えていない。
 というのも、いつからか空却の頭にの話が入ってこなくなっていた。声自体は聞こえているのだが、が話している最中は耳よりも目に神経がいくのだ。ぱくぱくと忙しなく動く唇、口を開くたびに持ち上がる頬、ふにゃりと下がる目尻。そして、時折こちらを見上げては自分だけを映す黒い瞳――空却が話を聞いていると信じて疑わずに嬉しそうに話すは、見ていて飽きない。それに、こうしている間は先ほど飲み込んだもやもやの存在も忘れることができた。
 適当に相槌をうちながらの声を聞いている空却は、ふとの目の下に黒い点があることに気がつく。なんだあれ。。

「それでね、食パンのふわふわのところはカレーにつけてね、パンのみみは牛乳といっしょに食べたら、おいしい味がいっぱい――」

「なあに?」

 話の途中にも関わらず、自分の声にすぐに反応する。気分が上向きになった理由を深く考えることなく、空却は続けてこう言った。

「おまえんとこ、今日書写あったか」
「うん。あったよー。どうして?」
「顔に墨汁みてーなのついてんぞ」
「ええっ。どこ? どこっ?」
「ほら、取ってやるからこっち向け」

 二人同時に立ち止まる。空却は少しだけ首をかがめて、の頬付近に顔をぐっと近づけた。目の下にうっすらと浮かぶ青紫色が空却の視界を通り過ぎると、小さな黒点がの頬の上でてらてらと光っている。
 やはり、これは墨汁だろう。誰も教えてやらなかったのか、それとも気づかなかったのか。まあこんだけ近づかなきゃ気づかねーか、と思っていると、空却の目の前に黒い影が迫った。

「い゙っ、てぇッ!」

 がつんッ! と灼空の拳骨に似た衝撃が空却の額を襲う。空却の顔が後ろに飛んでいき、額を抑えながらぐんっ、と前に戻ってくると、そこでは同じく額を抑えたが小さく唸っていた。

「おいなにすんだッ!!」
「ごめんねええぇぇ……ッ」

 空却はじくじくと痛む額を撫でながら、が自分の額に頭突きを食らわせたのだと理解する。お互いに石頭といういらない情報を得て、空却はじっとりとした目をに向けた。

「おまえ……さいきん変だぞ」
「そっ、そうかなぁっ……?」

 いつからだろう。と目が合うと明らかに目を逸らされたり、かと思えばちらちらとこちらを見てきたりするようになったのは。そのたびに、なんだよ、用があるなら言え、と空却から言うものの、そのたびには焦ったようになんでもない、と首を振るのだ。今までは気のせいかと思っていたが、今回の件で確信が持てた。最近のは、とてもおかしい。
 避けられているのか、邪険にされているのか――いくつかの選択肢を脳内でくぐらせても、どれも違うように思った。なぜなら、それはクラスの一定数の女子から向けられる熱っぽい眼差しに似たものだったから。女子たちがそれを耳にすればわっと色めきたち、その視線に含まれるその感情の名を、空却は最近知った。
 しかしまあ、それはないだろうと空却はすぐに頭を振る。だって、あのだぞ。口をひらきゃあ食いものと猫の話しかしねえ、あのだぞ。その小さな口から例の単語が飛び出すのはまだ先の話だろう、と空却は思っていた。


 今日もなんの問題もなく――問題を自ら起こそうとするを空却が上手いこと誘導して回避しつつ――いつもの交差点に差し掛かった。
 さて今日はどっちに帰るのかと、空却がのつま先を見る。最近はどっちから帰るんだとに呼びかける言葉すらなくなって、彼女のつま先が空却の道を示すようになった。寺に向けば夕食を一緒に食べた後に家まで送り届け、カヨの家に向けば最近料理を始めたの作るごはんの試食係になる。後者はできれば遠慮したいところだが、が決めた道を、空却が無理矢理曲げるわけにもいかない。男はいざというときに腹を括るものである。たとえ、塩辛い卵焼きが出てきても、妙に甘い味噌汁が出てきても、未来のが料理下手にならないように今のうちに教育するつもりだった。
 すると、のつま先が寺でもカヨの家でもない方向にぴっ、と向く。内心ぎょっとした空却は「おい」とに声をかけた。

「どこ行くんだよ。そっちには駅しかねーだろ」
「きょうね、病院によってかんとかんの」
「……カヨばあ、また入院したんか」
「うん」

 明らかにの声色がすとんと落ちる。空却があまり好きな方ではない顔で、は地面に向かってぽつんと言葉と転がした。「それでね……」

「もう……ばあば、おうちにもどれんのだって」

 ――どぼん。何かが水面に触れた音を聞いて、空却は思わず息を止めた。その事実を小さな体で受け止め、とっくに水底に沈んでいたに向かって、空却は手を伸ばす。なんとか地上に浮いてくるが、泳ぎ疲れて疲弊しきった稚魚のように、は正気が薄れた目で地面を映していた。
 あの広い家に帰ってくる人間は、もう、しかいない――いつかはやって来ると覚悟していた現実。そんな至極当たり前のことをの口から紡がせてしまった自分自身に、空却は果てしない憤りを覚えた。

「おれも行く」
「えっ」

 空却のつま先が駅の方向に向く。驚いた顔をするに向かって、空却は真顔でこう続けた。
「電車のるんだろ」
「う、うん」
「おまえ、切符の買いかた分かるのかよ」
「まだ、ちょっと自信なくて……」

 だろうと思った。幸い、帰りにガムを買おうと思っていたお金がランドセルの中にあるし、足りなければ一度寺に戻ればいい。カヨの見舞いに行くと言えば、灼空の財布の紐も緩むだろう。
 結果的に、二人の足は同じ方向に向かう。珍しくとの会話はなかったが、気まずいとは思わなかった。がカヨのいる病院に行くので、それに付き添う。自分の行動に、なにもおかしいところはない。

 少し汚れたコンクリートの階段を下り、地下に降りる。駅の改札前に到着すると、支柱に貼り付けられた大きな路線図を二人で見ながら、空却はに病院の最寄り駅を聞いた。

「えっとねぇ……あっ、ここだよ。なんだっけ……はちことにちあか?」
「“やごとにっせき”な。なに一つ合ってねーぞ」

 漢字の形だけでも覚えていただけ褒めてやるべきか。四年生ともなるとさすがにの漢字力が不安になってくるが、それも今は頭の隅に置いておく。
 が指した駅から、空却は今いる駅まで目で辿っていく。円状に引かれている紫色の路線と横一本に引かれている青色の路線を見比べて、空却は青色の方に繋がるホームまでを引っ張っていった。
 降りる駅は、の最寄り駅から乗り換え一つ込みで七つ目――一人で毎日通わせるのは心許なく、自分が一緒に行くには金銭的かつ時間的余裕がない。なんで大須にある病院じゃねーんだよ――にとっても自分にとっても険しい道ばかりが目前に広がっていて、空却は姿も形もない運命とやらにわっと怒鳴りたくなった。







 電車を降りて地上に出ると、すぐ目の前に大きな病院がどんと佇んでいた。さすが、駅名になっているだけのことはある。空却が初めて降りた駅でも、天井に吊るされている案内板にしたがって歩けば、足が勝手に目的地まで導いてくれた。
 こんなものは迷いようがないのに、ときたら、「駅についたらね、にばんの出口が分からんくなってね、いつも駅員さんにきいちゃうんだけど、きょうはくーこーくんおったから迷わんでよかったぁ」などと言うものだから、空却は、これから病院に行くときはおれに言え、とに釘をさした。一人で駅のホームをうろうろとしているを想像するだけで、体が今にも疼いてしまうのだ。


 黒と赤のランドセルを並べながら、広々とした病院の待合室を歩く。夕方に近いこの時間帯には、自分たちのように面会にやってくる人が多いようで、待合室に並べてある長椅子はほとんど埋まっていた。
 保護者と見られる大人も連れずに、小学生二人がぽつんと歩く――近所や商店街ではもはや名物になっているが、自分たちのことを知らない人間が多くいるここでは、それなりに奇異に見えるらしい。周囲からの視線をぐんと集めているのが分かった。
 空却はこれっぽっちも気にしなかったが、隣のがそわそわとしていたので、空却はにカヨのいる病棟を尋ねて、周りの目を気にする彼女を早々とエレベーターの前まで連れていった。途中で見かけた病棟の案内図は、頭の中にしっかりと叩き込んである。

 待っていたエレベーターのドアがゆっくりと開く。空却はから聞いた診療科がある階数のボタンに触れた。わざわざ押さなくても触れるだけでぱっと点灯するボタン。未知なるものに対して場違いかと思いつつ、空却の胸は少しだけ高ぶった。
 と空却が乗っているこの箱の中は不気味なくらい静かで、息が詰まる。この建物の中で、たくさんのホトケ様が生まれているからだろうか。雰囲気というのか、気配というのか……言葉では表現しづらい感覚が体にまとわりついて、空却は無性に滝に打たれたくなる。寺に生まれたことを悔いたことはないが、こういう見えないものに対してひどく敏感になってしまった体質については、少しだけ不便に思った。

 ――「カヨばあ、今おらんのか」
 ――「ばあばねぇ、きょうはおいしゃさんのところに行っとるから、おそくにかえってくるの」
 ――「医者ぁ? あのばーさん、また足やったんか」
 ――「ううん。こんどはせきが止まらんくて」

 呼吸器外科――それが、カヨのいる病棟の名前。に隠れて、陰でこほこほと咳いていたカヨ。そんな姿を何度も見ていた空却は、あの時何もできなかった自分を責めるように、生え変わり途中の奥歯をぎゅっと噛みしめた。







 病棟に着くと、病院独特のにおいが空却の嗅覚を刺激する。
 ようやく一人でせかせかと動くようになったの隣を歩く空却。ここまで来たら、病室までの道も覚えているであろうを信じるしかない。最悪、手が空いている看護師にカヨがいる病室を聞けばいいと、空却は余裕で構えていた。
 病室に向かっている最中にナースステーションを横切る。そこに駐在していた看護師が自分たちに気がつくと、「あっ、ちゃん。こんにちは~」と声をかける。が挨拶を返しているのを見て、ここの看護師と顔馴染みになる程度には通っているのだと空却は思った。

「カヨさんね、今さっき診察から戻ってきたから病室にいると思うよー」

 看護師の言葉を聞いたが、続けてお礼を言っているのを横で聞く。ここでは自分の出る幕はないと、空却は蚊帳の外を決め込んでいた。
 しかし、先ほどから熱い視線を感じて、空却はちらりと看護師の方を見る。彼女は自分たちを交互に見てにんまりと笑っていた。微笑ましさとは別の……どこか茶化す色を含んだ笑みだった。

「今日はかっこいい男の子もいるんだねぇ。ちゃんの彼氏?」
「かっ……」

 言葉に詰まったは、顔が首からすぽっと抜けてしまいそうなくらい勢いよく首を横に振った。
 「いっ、いこうくーこーくんっ」慌てたに服の袖をくいくいと強めに引っ張られる。にしては大股で早歩きである歩調に、さすがの空却も足が言うことを聞くまでに時間がかかってしまった。
 あの看護師め、にへんなこと言うんじゃねーよ。つか女ってのは、おとなになってもああいう話題が好きなんだな。自分たちの仲を揶揄するような看護師の笑顔を思い出して、空却の口からは呆れたため息が長々と漏れた。


 カヨのいる病室は個室だった。がこんこん、と扉を叩くと、「はあい」と懐かしい声が部屋の奥から聞こえる。久々に聞いたその穏やかな声色を聞いたは、滑りの良さそうなスライド式のドアをゆっくりと開けた。
 大きなベッドとサイドテーブルがあるだけの殺風景な部屋。ギャッチアップされたベッドの上には、また随分と萎んだ体をしたカヨの姿があって、空却は驚きで見開いた目をすぐさまぐっと細めた。

ちゃん、いらっしゃ――あれまあ、今日はくーちゃんもおるの~。ここまで二人でよう来たねえ」
「ばあば、体どう?」

 「ぜっこーちょー」新聞を読んでいたカヨは老眼鏡を外して、ほけほけと笑う。おいカヨばあ、にむずかしい言葉つかっても分かんねーぞ。おまえも首かしげながらこっち見んな。おれはほんやく機になるためにここまで来たわけじゃねえ。
 しかしまあ、空却もここまで来て小さな意地は張らない。絶好調の意味をにすぱっと教えてやると、ここ最近見ていなかった満面の笑みで、はカヨと談笑し始めた。空却に話したことから話していないことまで……の頭の中から話す言葉がなくなってしまうのではないかというくらい、なんでも、たくさん、話していた。
 ようやく、のまともな顔が見れた。たったそれだけで、自分ではどうにもならなかったもどかしさを抱えていた胸が、すっと空いていく。どうして、の表情がころころ変わるだけで、こんなにも胸がざわついたり、高鳴ったりを繰り返すのか。不思議かつ不可解だ。
 しかし、それでいいとも思う。今の空却はの笑顔を視界いっぱいに映して、の弾んだ声を取り込むのにとても忙しかったのだ。



 ――の声がふつりと途絶える。ふと空却が病室の壁に飾ってある時計を見ると、かれこれ三十分はが喋りっぱなしだったことに気がついた。先ほどまで口を閉じることを知らなかったは、今は椅子に座りながら上半身をベッドサイドに預けて、すやすやと寝息を立てている。
 そんなの頭を、まるで雛鳥に触れるように優しく撫でているカヨ。空却と目が合うと、しわくちゃの顔をさらにくしゃっとさせて、薄く笑った。

「おうちに一人ぼっちにしてまったちゃんが心配でねえ……。夜も、あんまり眠れとらんのよ」

 空却に向けた言葉なのか、それとも単なる独り言なのか、判別がつかない。返す言葉も出てこなかったので、空却はそれを後者として捉えることにした。
 ……カヨと同じで、もきっとそうに違いない。目の下にうっすらと浮かび上がっていたあの青紫色を思い出して、空却は口を開いた。

「なあカヨばあ」
「なにかね」
「こいつ、いつこっちに来たんだよ。小学校上がる前はおらんかっただろ」

 長らくカヨの床屋に通っていたが、のことを見かけるようになったのは二年生になってからだ。一昨年の春、寺で会ってからは帰り道によく出会うようになったし、今のように一緒に帰ることも増えた。もしもが最初から名古屋にいたのなら、一年生からそれは始まっていたはずだ。
 空却が尋ねると、の頭を撫でていたカヨの手が止まる。そして、カヨは何かを懐古するように、何もない空間をぼんやりと見上げた。

ちゃんはねぇ、二年生になる前に、東都から越してきたんだわあ」
「東都ぉ?」

 こいつが? 名古屋よりも田舎から来たかと思えば、もっぱら都会ではないか。未だに名古屋から出たことがない空却は、東都のことはテレビの中でしか見たことがない。名古屋とは比べ物にならないくらい雑踏だらけの街中で、あの赤いランドセルがのんびりと揺れているのはどうも不釣り合いだ。

「娘が……ちゃんのお母さんがねぇ。お仕事が忙しいから、少しのあいだだけちゃんを預かってほしいって言ってねえ……」

 仕方ない、と言わんばかりにゆるゆると息を吐くカヨを見て、空却は初めてカヨに対して怒りの感情を抱いた。

「その仕事ってのは、娘ひとりのめんどうもみれねーくらい大事なことなのかよ」

 そんなふうに聞こえないように抑えたつもりだったのに、出した声にはどうしても苛立ちを含まれてしまった。それを察したカヨは、「そうねぇ……」と困ったように眉を下げて笑うだけだ。
 言ってから、空却はひどく後悔した。自分が今したことは、ただの八つ当たりだ。病に伏せたカヨも、笑う頻度が減ったも……何も悪くない。
 視野を広く持て――今見えているものから、見えていないものに目を向ける。一視点以外の世界を見ろと、このあいだ灼空に教えられたばかりだったのに。
 大丈夫じゃねーときに限って、婆孫そろっておんなじ顔で笑いやがって。見とるこっちも気分おちるんだよ。と一緒で、それを言ったところでさらにカヨを困らせてしまうと分かっていたので、やはりそれも自分の腹の奥に収めるしかなかった。

「わたしがおらんくなった後のことは、ご近所さんにぜんぶ任せとるから、なぁーんも心配いらん。ちゃんにも、迷惑かけんようにしとるでね」
「死ぬとかまだ言うな。死期がはやまるだろーが」
ちゃんのセーラー服姿を見るまでは生きとるよ~」

 ほけほけと悠長に笑うカヨ。しかし、けほ、けほ、と会話の途中で咳き込んで言われても、あまり説得力がない。どこまでいっても締まらねえばーさんだな、と空却は呆れた。
 しかし、そんな相変わらずのカヨに、少しだけ胸が軽くなったのもまた事実だった。

 ――少しだけ開けられた窓の隙間から、ミーン、と蝉の音が聞こえてくる。今年初めて耳にする、初夏の報せだ。一つの季節が過ぎ去り、また新たな季節の来訪を肌で感じて、空却は静かに息を吐く。蝉の音は、必要以上にけたたましく鳴るときは勘弁願いたいが、今話していた話題の脈をふつりと切ってくれたのは、少しありがたかった。

「くーちゃん」
「なんだよ」
「手ぇ、貸してくれんかね」
「手ぇ?」

 目的が読めない申し出だったが、カヨの言われた通り、空却はおらよ、とカヨの前に手を差し出す。
 何も考えずに両の手を出してしまったが、カヨはまだ少年のものである空却の手を、肉がこけた両手でぎゅううぅ、と握りしめた。骨ばっているのに手全体に加わる力の強さに、空却は一瞬おののく。見た目からはとても考えられない生命力に、空却の背筋がびりびりと痺れた。
 目を見開いた空却はカヨを見つめる。カヨもまた空却を映しているが、いつもの煮小豆のような瞳はどこにもなかった。カヨばあにもそんな目ができたのか、と空却は息を呑んだ。

「わたしがおらんくなったら、ちゃんのこと、よろしくねえ」
「おいばーさん――」
「こればっかりは、くーちゃんにしか頼めんのよ」
「だから今からんなこと言うんじゃねえっつって――ッ!」
「どうか……どうか、おねがいしますねぇ」

 ちいさな、ちぃーさな……未来のお坊さま
 手の力に対して、その声はいつも通りだった。日向ぼっこをしている猫に向けるような、穏やかな色をしていた。
 仏様の真似事なら、散々やってきた。坐禅をしては作法がなっていないと灼空に警策で叩かれ、耳で覚えた般若心経を鼻歌代わりに唱えては遊び歌に使うなと叱られた。今だって、まだ仏のほの字も世界を悟っていない。
 なのに、目の前のこの人は、灼空でも寺にいる本物の仏様でもなく、まだ子供で、僧としても未熟者である自分に対して、手を合わせていた。祈りを捧げるのは、人の権利。仏は、それを拒んだり、見捨てたりは絶対にしない。
 でも、だからって、こんなの……ずりぃだろ。しわくちゃの手に込められるその力こそが、俗世を迷う人間が抱く祈りなのだと、空却はその小さな体で痛感した。







 廊下から聞こえる音が忙しなくなる。生暖かくてぬるっとした病院食のにおいが病室の中にも入ってきて、空却はテレビ台の上にあるアナログ時計を見る。
 もう十九時だ。そろそろ帰らねーと。空却はいまだにベッドサイドで眠っているの背中を揺すった。

。起きろ」

 の寝起きが悪いことを知っている空却は、あと何回の声かけで起きるだろうかと思っていた。しかし、意外にもその一回だけでの上半身がのっそりと起き上がったので、なんとなく拍子抜けだった。
 珍しいな、と考えている隅で、「もうじき日ぃくれっから、そろそろ帰んぞ」と空却は言う。は寝ぼけた顔でこくん、と小さく頷いた。ほんの少しだけ寂しげに揺れた目は、きっと寝起きのせいだけではないと思った。

「ばあば、またね。また来るねぇ」

 しかし、カヨに対してはそんな素振りを一切見せず、はにこやかに言う。そんなに、同じような笑顔で手を振るカヨ。しかし、病室のドアが閉められた時には、再びの目はすん、と暗がりに落ちた。
 随分と重々しくなったの足取りに合わせて、空却はの隣を歩く。寝ぼけているのか、それともかなしみを引きずっているのか……小刻みにゆらゆらと揺れている、の体の重心。いつ何時なんどき、あらぬ方向にその体がふらふらと流れていってしまっても不思議じゃなかった。
 二人で並んで病棟を歩いていても、看護師たちは夕食の配膳に追われている。今なら、自分たちを茶化す人間は誰もいない。の最寄り駅に着くまでならいいだろうと、空却は口を開いた。


「なぁに?」
「手ぇかせ」
「え……?」
「つないでやる。まだ寝ぼけてるんだろ」

 「このまま外にでて、道路に飛びだされたらたまんねーからな」そう言って、空却はの横でぱっと手を広げる。拒まれる想像はしていなかったが、どういう反応が返ってくるかは分からなかった。
 からアクションがあるまで内心落ち着かなかったものの、は少し目を泳がせた後、ゆるゆると空却に向かって自分の手を伸ばした。手のひらをぴったりくっ付けて、お互いの手の甲に指をかける。初めて繋いだの手は、寝起きのせいかあたたかく、それでいてやわらかい。とくん、と大きく波打った空却の心臓は、それ以降急かすようなテンポで落ち着きのない心音を生み続けた。
 今まで視覚で捉えていたものよりも随分と小さく感じる、の手。駅まででいいか、という気持ちはすぐになくなった。カヨの――いや、もう、あそこはだけの家だ。そこまでは決してこの手を離しては駄目だと、空却は強く思った。



 ラッシュの時間を過ぎた電車は、ほどほどに空いていた。ドア付近の手すりにを捕まらせて、空却は足裏だけで振動に耐える。頭の上でぷらぷらと揺れる白い輪っかを睨みつけながら、ぜってーあと何年かしたら掴んでやるからな、と空却は宣戦布告した。

「……くーこーくん」
「なんだ」

 がたがたと忙しない音に紛れる、か細い声。空却の耳は、たとえ雀の涙ほどの小さなものでも、の声に対してだけはひどく敏感になっていた。

「まだ、こっちにおってくれるかなぁ……」

 誰が。どこに。ようやく吐き出されたの言葉には色々欠けているものがあるものの、空却はその意味を丁寧に汲み取った。

「……おれはうそつかねーし、寺に住んどるから、仏さんの顔はなんども見とる」
「うん……」
「そのおれの見立てでは、あと二、三年はもつな」
「に、さんねん……」
「前にも話したろ。人が死ぬのはあたりまえだ。そんななかで、明日なくなるかもしれねー生命が、最低二年の保証があるってのはすげーことなんだぞ」

 病は気から、というのは迷信ではないと空却は思っているし、言葉には力が宿るとも思っている。だから、カヨがのセーラー服姿を見ると言えば、きっとその通りになるだろう。それに、ああ見えてカヨは強い精神力を持った老女だ。病室で空却が感じた手の力が、それを証明している。

「……“愛別離苦あればこそ、人は幸福なる生を謳歌い出来る”、ってな」
「あいべつ……?」
「おまえほんッと漢字弱えな」

 愛するものと必ず別れなければならない苦しみ――語彙を説明するが、心はなかなか追いつかないらしく、はやはり切なげに視線を落とすだけだった。
 ……こういうことになることを予期をしていたわけではないが、思いのほか早かったように思う。しかし、もただの馬鹿ではない。カヨと一緒に暮らしていて、カヨの病状が日に日に悪くなるのを知っていたはずだし、カヨが病院で過ごすようになることだって、心の準備をしていたはずだ。
 していたから、カヨの前ではああして笑えている。今、なりに道を模索している最中だということは、空却も分かっていた。だから、このまま隣で見守っていれば、そのいつかが来た時に、きっと一人で――

 ――「わたしがおらんくなったら、ちゃんのこと、よろしくねえ」

 ……本当にいいのか? それだけで。
 仏様は忙しい。なにせ、俗世で生きるたくさんの人間に道を提示しなければいけない。だから、四六時中一人に構っていられるわけじゃない。仏様が他の人間に説法をといている最中、が道に迷って泣いていたら、一体誰が手を差し伸べるというのか。
 空却の悟りはまだ閉じたままだが、のことは寺にいる僧侶よりもよく知っていると自負している。ならば、自分がやるべきことはこのままが迷っている姿を見ていることではないと、空却の本能がそう訴えた。

「……
「なぁに?」
「おまえんとこ、夏休みいつからだ」
「えっとねぇ……来週からだよ。どうして?」
「そのあいだ、うちに泊まりにこいよ」

 ――かたん。の目前に二又に分かれた道が広がる。急に方向が分からなくなっておろおろとしているの手を引いて、空却は新たに光差した道へと引っ張っていく。が決めるどころか、見つけてもいなかった道。空却の独断で、無理矢理切り開いた選択肢だ。
 は目を丸くして、こちらを見上げている。驚きが混じったその色を、空却の眼は静かに映している。選べ、と遠回しに言いながらも、その首が縦に振られる様を頭の中で思い描いている。

「うちって……くーげんじ……?」
「それ以外にどこがあんだよ。朝起こす人間もいねーし、おまえのことだから、学校がなけりゃあどーせ昼まで寝とるだろ」
「う……」

 図星だ。さすがに自分と同じ日課をこなせとは言わないが、寺に来たら、最低でも朝六時には起きてもらうつもりだ。以前、用事があって昼過ぎにの家を訪問したら、寝巻き姿のに出迎えたのは今でも忘れていない。あの時の衝撃と言ったらなかった。早朝どころか深夜から活動を始めている空却からすれば、カヨのいないの生活は不健康なことこの上ない。夏休みの間、あの家にを一人にすれば彼女が廃人になってしまうのは目に見えていた。

「うちにこれば、おれが朝起こしてやるし、漢字の宿題も見てやる。あとなんだ……たしか誕生日祝いてえんだろ。おれの」
「う、うん」
「ついでだ。おまえのも祝ってやるよ。おたがい、夏休みのあいだにあるからちょーどいいだろ」

 に拒否されることは頭になかった。今まで、空却がに言ったことに対して、彼女が首を横に振ったことはなかったし、だって一人であの家にいるよりも、賑やかな空厳寺の方がいいに決まっていると、空却は自信をもって言えた。

「んで、どーする」

 それでも……念のために形だけ尋ねてみる。の目は相変わらず、空却の金色に吸い寄せられるように大きくなっていて、その目を見れば、の返答など聞くまでもないことだった。
 ――やっぱ、愚問だったな。の口から紡ぎ出された答えを聞いた空却は、にやりと口角を上げた。







 ミーンミンミンミーン――……
 ジー、ジジジ、ジジー――……

 外から聞こえる蝉の音。夕方になるとだいぶ落ち着いてきたが、日中は名古屋市中の蝉が寺に集結しているんじゃないかと思うほどけたたましく聞こえていた。
 長いことここで暮らしていれば耳が慣れてきて不便もないが、今年は違う。が毎日いる今夏――子猫の鳴き声のようなの声は、蝉の音で簡単にかき消されてしまう。

「くーこーくんのところのセミ、元気だねぇ」
「あぁっ!? 今なんか言ったか!」
「くーこーくんのところのせみっ、げんきだねえ~!」
「ぜんッぜん聞こえねーッ!」
「くーこーくんの――っ!」

 そんなやり取りも数えきれないくらいやった。筆談の方が早いのではないかと思ったくらいだ。つか、ももっと大きな声で話せよ。あと蝉はいいかげんにしろ。求愛行動ならうち以外でもできるだろーが。
 蝉相手にそんなことを思う日々を過ごしながら、空却は四年生の夏休みを謳歌する。いつものように深夜に起きて、他の修行僧らと一緒におつとめをこなす。午前六時になれば離れで寝ているを起こして、近所でやっているラジオ体操に連れていった。毎回辛そうに起きるに良心が痛くなろうが、幸せそうにすよすよと眠るの寝顔に胸が縮こまろうが、空却は心を鬼にしてを覚醒させる。で、眠そうにしながらも一度も文句を言わず、眠気まなこを擦りながらぺたぺたと洗面所に向かうのだった。


 そんなこんなで、が寺に来てから一週間が経過した。空却との普段の一日は、午前中は寺の掃除をし、午後からは夕方まで空却の部屋で夏休みの宿題をしている。空却はすぐに飽きてしまってガムを噛んだり畳の上に寝転んだりするが、真面目なは机の上でじっと集中している。
 自分よりも分厚く積まれた課題の山を見て、空却は面白くなさそうにふん、と鼻を鳴らす。今、の邪魔をすれば、彼女が後々自由に過ごせる時間が少なくなってしまう。名前を呼んだらきっと、なあに? と言いながら振り向くだろうし、猫を抱いて部屋に持ってきたら一緒に遊び始めるであろうが簡単に想像できるが、空却は彼女のためにぐっと堪える。七月中に宿題を終わらせれば、来月末にある納涼祭に行く許可が灼空からおりるのだ。

「くーこーくん」
「なんだよ」
「ゴミの“ぶんすう”っておかしいねぇ」
「“ぶんるい”だからな。それ」

 がやっている漢字ドリルを一瞥した空却はさらっと答える。が辞書をたらたらとめくるよりも、自分が言った方が早いと気づいてからは、に質問されるたびに空却が漢字を書いては読んでを繰り返している。も、教えられた後は別の紙に三回ずつ漢字を書いてちゃんと覚えようとしているので、何も問題はないはずだ。
 「あ……ほんとだねぇ」空却の言葉を受けて、朗らかに言う。このやり取りをするのは、が寺に来て何度目だろう。“ほんとだねぇ”じゃねーよ。漢字の形をよく見ろっていつも言ってんだろ。つか、それくらいなら文脈でなんとなく分かるだろーが。まったく進歩のないに、空却はため息をつきたくなった。

「……つかおまえ、国語はできんのになんで漢字だけだめなんだよ」

 というのも、空却は以前の国語の課題プリントを見たことがある。すでに採点済みのそれはちょこちょこレ点チェックが見られたが、その数は意外に少なかったのだ。
 漢字がそこまでできないのに国語の成績は並であるに疑問を思った空却は、勘ぐる目でをじっと見る。すると、「ど、どうしてだろうねぇ……」との目をあさっての方向に向いた。あぁ? と空却は眉をひそめる。
 ……まあ、別に、漢字を教える行為が嫌というわけではないのだが。その先にあるものを見据えている空却は、のために良かれと思ってこう言った。

「おれがいるときはこーして教えてやれるからいいけどよ。おまえ、大人になってから苦労すんぞ」
「おとな……」
「そーだ。おまえだって、いつまでもガキのままじゃいやだろ」

 少なくとも、空却は早く大人になりたいと思っている。大人になったら背も高くなるし、筋力も増えて男らしさに磨きがかかる。それに、一人でどこにでも行けるようになったら、できることもやりたいことも今以上にもっと溢れてくるはず。寺と学校を行き来するだけでは、視野が狭まるばかりだ。いずれは名古屋を出て、沢山の世界をこの目で見てみたい。すべては、近い将来に人を導くための経験を培うためだ。

「わたしは……」

 てっきり、もそうだろうと思っていた。しかし、は今まで見たことのない顔つきで空却を見上げる。同い年だったか、と思わず目を張るほど、その時だけはがひどく大人びて見えた。そこには以前、天むすを口いっぱいに頬張っていたも、子猫と無邪気に戯れるもいない。そんな彼女と目が合った瞬間、空却は全身の毛穴がぶわッと大きく開くのを感じた。
 何かを、乞うような瞳。薄い水膜がゆらゆらと揺蕩いて、中にいる空却を閉じ込めている。その目が今……なにを欲しているのか。海底に沈んでいるような錯覚を受けた空却は息を止め、酸素を求めるようにしての言葉を待っていた。

「わたしは……ずっと、このままで――」

 ――刹那。ゴオォォン、と時報の鐘が空却の部屋まで響き渡る。十八時……夕食時間をしらせるものだ。先ほどまで張りつめていた緊張の糸がふつりと切れて、鐘の音の余韻と随分と遠くなった蝉の声だけが沈黙を埋めていた。
 ぱちん、と夢から覚めたように、の目がいつも通りに戻る。気がつけば、空却の体も落ち着きを取り戻していた。しかし、空却の口から紡がれたものは、珍しく自分を誤魔化すための言葉だった。

「……今、なんか言ったか」
「う、ううん。なんでもないよ」

 本当は聞こえていた。その先も、空却にはなんとなく予想がついていた。しかし、それをの口から聞いてしまったら、後に戻ることができなくなりそうで、その道は危険だと本能が報せた。なんの危険が迫っているのかは分からないが、空却の直感は当たる。自覚がないのなら尚更、感覚に頼る他ない。
 空却は気分を入れ替えて、「夕めし食うぞ」と言い、すくっと立ち上がった。もささっと机の上を片付けて、空却の後に続く。
 部屋を出て、が自分の隣に並ぶと、視線の端でのつま先がちらちらと映る。それよりも上はなんとなく見ることができなくて、客間に到着するまではの顔を見るのもやめようと思った。
 もしも、上を向いて、目が合って、あの大人びたがそこにいたら――自分の知らない彼女が一欠片でもあると思うと、胸の中が乱れに乱れて、へんな気分になる。先ほどあんなことを言ったが、が大人になるのは、まだ先のことでいいと思った。







 空却は夏休みの間だけ、客間でと食事をとることになっている。許可はすでに灼空から得ている。修行僧らがいる大広間や普段灼空と食卓を囲んでいる庫裏でもよかったのだが、大勢の中でと並んで食べるのが気恥ずかしかったのと、は食べながら話すことが多いので、他人が一緒の空間にいれば遠慮すると思ったのだ。確かに行儀は悪いが、が話したい時は好きに話せばいい。その申し出をした時、灼空から言い渡された雑用も二つほど増えたが、まあそれくらいなら安いか、と空却は割り切った。背に腹はかえられない。

 さて、今日の献立は白米にごぼうの味噌汁、そして鯖の塩焼き。あとは副菜として漬物とおひたしがちょこんと添えられている。いただきます、と手を合わせて空却が食べ始めれば、隣にいるが勝手に話し始める。おいしいねぇ、とか、おてらの人はみんなごはん作るのじょうずだねぇ、とか。空却はいつも通り適当に相槌を打つだけだが、なんとなく会話は成り立っているので、それで良しとした。
 しかし、今日は沈黙が長い。空却が隣に座るの様子を窺うと、の箸が全く進んでいないことに気づく。珍しい。いつもならしゃべってても、おれよりはやく食いおわるくせに。
 特に、主菜である鯖にまったく手を付けていない。それを見た空却は、やけに重たくなった沈黙の理由をなんとなく察する。

「……おまえ、さば食えねーのか」

 の体に走った緊張が、隣にいる空却にも伝わってくる。においが駄目なのか、それとも味が駄目なのか分からないが、のこわばった体を見れば、これはもう確定だろう。は嘘が下手だ。そうやってすぐに顔や態度に出る。
 空却も昔は、肉が食べたいと駄々をこねたことがあったが、今は出されたものに対して文句を言わずに食べている。加えて、寺ではお残し厳禁だ。それは客であっても同様で、どんな得の高い人間だろうと贔屓はしない。早い話、苦手なものでも我慢して食え、というやつだ。
 しかし、そんな精神論を掲げられたところで動ける人間は数少ない。俯いてばかりいるに、さてどうしたものかと空却が頭を捻ろうとした、その時。おずおずと鯖に伸ばされる箸があった。箸は鯖を真っ二つに割り、それをまた何等分かにして、一口よりもさらに小さなサイズに分けられていく。もはやほぐし身だ。
 おい、行儀悪ぃぞ。本来であればそう言う空却だが、今、は苦手なものと闘っている最中だ。軽率なことは言えない。

「……病気じゃないときは、出されたものはぜんぶ食べなかんって、ばあばが言っとった」
「へぇ……。それで?」
「だから……食べる」

 にしては低く、硬い声だった。まるで今から綱渡りをする決意をしたような顔で、天敵である鯖をじっと見つめている。
 まずはほぐし身をちょこっとだけ口に入れて、あとはたくさんのご飯をぱくぱくと詰め込んでいく。鯖と白米……大体二対八の割合で食べながら鯖の味を誤魔化す寸法なのだろうが、その調子でいくと白米はすぐになくなってしまって、鯖だけが残ってしまうだろう。やっぱあとさき考えてねーなこいつ。
 それに、白米の割合が多くても、やはり鯖の風味が強烈なのか、はむう、と顔を顰めている。それでも苦しそうに食べ続けるを、空却はそれ以上見ていられなくなった。
 ……最後に残った副菜の漬物をばくばくと食べて、空却はぱんっ、と手を強く合わせた。

「食いおわったら、じぶんで台所まで持っていけよ」
「うん」

 膳を持って立ち上がった空却を見上げずに、は言う。ちま、ちま、と少しずつ進む箸だが、やはり鯖の皿が空になるにはまだまだかかりそうだ。そんなを一瞥した空却は、いったん客間の襖を閉めて、台所へ膳を運ぶ。
 ……もし、が食べる、と言わなければ、自分が半分くらいは食べてやっていたかもしれない。危なかった。知らない間に甘やかし癖がついている自分に喝を入れて、空却は長く続く廊下を大股かつ早足で突き進んだ。


 洗い場に行くと、他の僧らが自分たちが使った食器を洗っている最中だった。空却もそこに混じって食器を洗った後、客間には戻らずに、常温保存の食材が入っている棚をがさがさと漁り始める。
 何か味変になるものはないかと物色しているのだ。今この光景を灼空に見られでもしたら怒声を叩きつけられることが必至なので、あくまで隠密行動だ。今この場にいる僧は自分たちのやるべきことに集中しているで、空却の行動を嗜めたりはしなかった。

「(おっ)」

 いいものを見つけた空却はそれを手に取る。お茶漬けのもと――にんまりと笑った空却は、片方の手に空のやかんを持って、流し場の蛇口から水を入れる。
 ほどほどの水が注げたやかんに火を入れて、中火に調節する。そのあいだにも他に何か入れるものがないか、辺りを物色する。ねぎ、かまぼこ、きざみのり――手当たり次第両腕に抱えて、あらかじめ用意しておいたお盆の上に乗せた。

「(へへ。待ってろよ)」

 今もまだ客間で苦い顔をしながら鯖と闘っているであろうを思い浮かべる。空却は静かに揺蕩う青い火を見ながら、やかんがかたかたと震えるのを今か今かと心待ちにした。







 準備を終えた空却が客間に戻ると、案の定、そこではが暗い顔をしながら箸をぼそぼそと動かしていた。なんつー顔して食ってやがる。幸せそうに食べ物を噛みしめる普段のの顔を思い出して、む、と空却は眉を潜める。そんな顔をして食べていたら、苦手なものがさらに食べにくくなってしまうだろうに。
 部屋に入ってきた空却に気づいたがびく、と体を揺らす。「ご、ごめんね……。まだ、ぜんぶ食べとらんくて……」不安げに言うをよそに、空却は様々なものが乗ったお盆とともに、の隣にどかりと腰を下ろした。

、まだ米食えるか」
「おこめ……? う、うん……」
「どんくらいだ」
「お茶わん、二杯くらい……?」
「見た目のわりにけっこー食うよなおまえ……。まぁいいわ、ちょっと茶碗かせ」

 不思議そうな顔をするから茶碗を受け取る。白米はあと二口ほどしか残っていないのに対して、鯖はようやく五分の一食べたといった具合だった。これが、今のができる最大限の努力だ。それはしっかり認めよう。
 しかしまあ、完食には程遠いのは事実。このままでは夜が更けて朝が来てしまう。空却はお櫃に次いできた熱々の白米を食べかけの茶碗に盛り付け、残った鯖のほぐし身をさらに小さくほぐすと、茶碗の中にそれををすべて投入した。あとはねぎを入れて、台所で作ったお茶漬けのだしを注ぎ入れると、部屋に充満していた鯖の匂いが、お茶の優しい香りに変わった。
 ほかほかと湯気を立てる茶碗。最後にきざみのりを散らせば、見た目にも満足のいく即席さば茶漬けが完成した。

「ほら、さば茶づけだ」

 目をぱちくりさせているの手に、空却はスプーンを持たせる。我に返ったは、おそるおそるスプーンを茶碗の中に差し込むと、お茶に浸された米粒と鯖のほぐし身をぱく、と口に含んだ。
 ぱっ、との瞳の奥に光が灯ったのを、空却は見逃さなかった。

「食えそーか」
「うんっ……!」

 の手は止まることはなく、むしろどんどん加速していく。ぱく、ぱく、と口にスプーンを入れる度に、「くーこーくんおいしいっ」「すごいねくーこーくんっ」と口々に言う。いーからさっさと食え、という言葉も今は腹の中に収めて、ん、と曖昧な音で応じた。

「食いおわるまで待っててやっから、ゆっくり食えよ」

 そう言うと、は嬉しそうに頷いたので、空却は胡座をかいた膝の上に頬杖をつく。食べるというより飲む勢いでお茶漬けを口に含んでいくを、空却は何も言わずにぼーっと見つめる。ラーメンを食べる時にレンゲがない時と同じで、とご飯を食べる時はこの顔がないとなんとなくすっきりしない。なくてもごはんは食べられるが、やはりあった方がより良い。

 数分後、白米をおかわりまでして鯖を完食した。「ごちそうさまでしたあ」と和やかに手を合わせるに、空却はにかっと笑った。

「やりゃあできんじゃねーか!」

 空却はの頭をくしゃくしゃと撫でる。くてんくてん、と前後に揺れた首が、玩具みたいでなんとなく面白い。
 さて、の頭から手を離した空却は、湯呑みに残ったお茶漬けのだしを注ぐ。程よく冷めただしをずずっ、と啜ると、消化のためにせかせかと働いている胃が一息ついた気がした。これ単体でもまあまあいけるな。

「さばはちょくちょくでるから、夏休みがおわるまでに一人で食えるようになれよ」

 なんの目標もなく寺にいてはもったいない。この時期は修行僧だけではなく、修行体験に来る高校生もよく来訪する。皆、ここで何かを身につけて各々自分の家に帰っていくのだ。いい機会なので、もそれにあやかればいいと思う。

「……さば、」
「あ?」

 の声を邪魔する蝉の音はもうない。が小さく音を発したことに気づいて、空却は首を傾げた。
 俯いているの顔色は分からない。しかし、髪の毛の間から覗く耳の縁が、虫にでも刺されたようにぷっくりと赤くなっていた。熟れたプチトマトのように、触れたら弾けてしまいそうなそれに、空却は思わず釘付けになった。「さば、食べられるようになったら……」

「もいっかい……さっきの、してくれる……?」
「はあ? さっきの?」

 そう言われて、空却は自分のしたことを順々に思い出していく。思い浮かんだもので合っているかどうかは五分五分だったが、「これか」と空却は再びの頭をくしゃくしゃと撫でる。今度のは、首をこてんこてんと動かずにその一点でじっと耐えている。手のひらでの髪がさらさらと流れていく感覚に、空却の頭の中が白濁とした何かに覆われた。
 ……こいつの髪の毛、やわいな。糸みてぇにほせぇし。しかし、これ以上やったら指に絡まりそうだ。そう思った空却は、すでに自分の指にまとわりついていたの髪から指を抜こうとする。すると、空却の指から離れたくないと言わんばかりに、最後の一本まで名残惜しそうに指先にの髪が絡まりついていた。
 ――ぐる、と空却の喉が鳴る。以前も見かけた、白いもや。ずぐん、と重たくなった心臓が、腹の下の方に降りていく感覚。このまま手を離さず、髪の中に指を滑り込ませたら……そんなもしもの映像が脳裏を駆け巡る。
 その衝動から逃げるようにして、空却はばっと手を離した。手のひらにはの頭の感触がじわじわと残っていて、空却はそれを消さんとばかりにぎゅっと拳を作る。
 
「……膳、さっさと持ってけ。はやくしねーと、消灯時間になっちまうぞ」
「ぁ……う、うんっ」

 は水を打ったように立ち上がる。そして、膳をかちゃかちゃと揺らしながら、忙しなく客間を出た。
 ……一人になった空却は、未知なる感覚に悪酔いしそうだった。これと似たものならば、以前も体感したことがある。先月、の体が大変なことになって、浴衣の帯を解いた時に見た、のからだ。甘美な果実が実を結ぶ前の、女の身体。その時の光景は、まるで刺青を彫られたように空却の目に焼き付いていて、思い出そうとしなくても、ふとした時にじわっと瞼の裏側に浮かび上がる。赤が映えそうな白い肌や丸みを帯びた体を思い出して、空却の中にある熱がさらに増した。
 ……これは、あまり思い出さない方がいい。また、あの時のようにへんな気分になるのが嫌で、空却は平常心を取り戻そうと、前髪をぐしゃっと片手で握りしめる。続けて、湯呑みに入っただしを一気に飲み干した。
 空却は顔をゆがめながら、重々しく息を吐く。が戻ってくるまでには静謐な境地が胸中に訪れていることを信じた。







 ――夜更け。学校がない分、いつもよりも早く目覚めた空却はてきぱきと布団を畳んで、壁時計を見る。深夜二時……他の僧が活動するまで、まだ少し時間がある。月の光も、今日はすこぶる明るい。身支度を整えたら適当にふらふらと境内を散歩しようと、空却は自室を出た。

 境内の夏夜も賑やかだ。外では鈴虫やキリギリスがころころ、ジジイィーと鳴いており、寝るときのBGMになっている。
 砂利を踏みしめ、夜の空気感に体を浸す。そして、空却の足は自然と離れの方へ伸びていく。まだ寝ているであろう部屋の主を頭の上で想像していると、離れの縁側にぼやんとした白い影が浮かび上がっていた。

「……眠れねーのか」
「くーこーくん……?」

 掠れた声で小さく喉を震わせる。すると、空却の声よりも砂利の音に反応したらしい影がぱっと顔を上げた。寝巻きとして空却の作務衣を着ているは、作務衣のサイズが大きいせいか、いつも以上に 小さく見えた。
 空却が早足でに近づくと、彼女のすぐ隣に腰を下ろす。多少風向きが変わるのか、空却の部屋がある母屋よりもここの方が少しだけ涼しく感じた。
 すると、他の僧の寝部屋になっている堂の気配が動く。やっぱこの時期は活動すんのはえーな、と感心していると、もその気配を感じ取ったのか、不安げな眼差しでこちらを見上げた。

「くーこーくん、きょうはおてつだい行かんくていいの……?」
「まだ時間あっからな。おれの部屋よりもここのほうが涼しいから、しばらくいさせてもらうわ」

 は何も言わなかった。代わりに、両足の指をもじもじと交差させている。
 夏が暑いのは当たり前だ。空却は涼しさを求めていたわけではなく、が一人、夜の闇に呑まれてしまわないかと、心のどこかで憂いていた。

「……くーこーくん」
「なんだよ」
「人が死んじゃうのはあたりまえだって、まえに言っとったよね」
「そーだな」

 空却が答えると、は腕の中で抱えている膝の小僧に顔をすん、と埋めた。

「そのあたりまえのことがかなしくて、やだなぁって思うときは、どうしたらいいんかなぁ……」
「泣けばよくね」
「えっ」

 は短く声を上げると、「あのなぁ、」と空却はため息混じりにこう言った。

「べつに、仏さんは悲しむなって言っとるわけじゃねえ。隣人の死を受けいれて前に進めって言っとるだけだ」
「前って……?」
「言っとくが方角のことじゃねーぞ。いつまでも下むいてんじゃねえってことだ」

 まあ、それもまだ焦ることはないと言おうとしたが、は視線を落としてふう、と息をついた。

「くーこーくん……」
「なんだよ」
「なつやすみに入るまえにね……おうちにネズミが出たの」
「はあ?」

 急に何の話をしだすかと思えば。鼠といったら、境内の蔵でかくれんぼをした時にが苦手だと言っていた、あの鼠しかいない。あの時のはきゃあきゃあと叫びながら自分の腕に縋りつくわ、鼠は鼠でちょこまかと動き回るわでかなり大変な思いをした。それ以来、と一緒にいる時はあの蔵に近づかないようにしている。
 の家にも鼠が時々出るらしく、今まではカヨが外に逃してくれていたらしいが、カヨはもうあの家に帰ってこない。一人でどうにかしなければならないそれは、の身動きを封じているようだった。

「少したったら、あけた窓から出てってくれたんだけどね……。それまで、ずっと……」

 その先を紡ごうとした唇はぷるぷると震えている。そして、ついにかなしみに耐えきれなくなったらしく、の唇は上下合わさって、ぎゅっと固く結ばれてしまった。
 じっと黙りこくっている。その先を言われなくても、それからのがどうなったかが想像できた空却。不安定に揺らいでいる彼女の心を壊さまいと、ひっそりと囁くように言った。

「……うちに電話すりゃあよかっただろーが。このあいだ、寺の番号おぼえたって言っとっただろ」
「ちっ、ちがうのッ」

 鈴虫の音よりも大きくなった声に、空却は微かに肩を揺らす。いきなりでっけー声だすんじゃねーよ……。加えて、が膝小僧から顔を上げてこちらを見たものだから、互いの視線が一本の線に縫われるようにして、合わさる。曖昧な色に濁ったの目の色は、捕食される前の小動物のそれに似ていた。
 「ちが……うの」今度は弱々しく呟いて、またしても床に顔を落とす。なにがちがうんだよ、と空却が言う前に、はぼそぼそと言葉を続けた。

「泣いたら、ね……。からだ、うごかんくなるの。あたま、まっしろになって、うごいてって思うのに、手も、足も、ぜんぜん、うごかんくなるの……」

 「だから……泣いたら、かんの」誰が決めたわけでもない結論にが囚われている気がして、空却はやっかいな思想だな、とぼんやり思った。
 が泣いたら、困る。とても。泣き止ませたいと思うのに、どうしたらいいのか、何を言えばいいのか、分からなくなる。言葉も行動も、数ある選択肢から選んで、もしもそのせいで、さらにの悲しみが増えたらと思うと、どうしようもなくなってしまう。文字通り、八方塞がりだ。
 ――の泣き顔を、初めて見た日を思い出す。体の変化に心が追いつかず、おまけに雷が鳴って、自分の足に縋ってまで、は人肌を求めていた。たしかに、あの時のは全く動かなかった。ただただ震えるだけで、こちらの声も聞こうとしない。が落ち着くまで、空却が雷鳴を何度聞き流したことか。
 ……しかし、あの状態はまだマシな方だったように思う。体をぴったりとくっ付けて、そこから離れないように背中に腕を回す。お互いの体温を交換し合って、安心できる場所が目の前にあるのだと、震える体に言い聞かせる。あの時は空却もいっぱいいっぱいだったが、今ならば多少の余裕をもってと一緒にいられる自信があった。

「……なら、おれを呼べ」

 はたとする。空却を見つめる目は、ぽろん、と目玉が転がりそうなくらいぱちくりとしていた。空却はそれに構わず、つらつらと言葉を続ける。

「泣きてえときはおれを呼べ。おまえが落ちつくまで、そばにいてやる。近くにいねーときは……まぁ、ちっとのあいだ我慢しとけ。おまえの行動範囲もたかが知れてるからな。おたがいが急に離れるってこともねーだろ」
「いっしょに、おってくれるの……?」
「だぁからそうだって言っとんだろ。なんども言わせんな」

 言ってからなぜか照れくさくなって、少しだけぶっきらぼうな言い方になる。やべ、と思ったものの、の目には星屑のような細かい光がちらちらと舞っていたので、その杞憂もすっと消えてなくなった。

「くーこーくん……あのね、」

 今度はなんだ。内心そう思いつつも、空却の胸の中は穏やかに波打っているだけだ。は相変わらず足を抱えて座っているが、目尻が少しだけ垂れてきているのが分かった。おそらく、夢に誘われているのだろう。ここで寝落ちられる前に、を部屋に連れていかなければ。
 そう思いつつも、口は開かない。のまろい雰囲気に呑まれ始めている空却は、こちらを見上げている彼女を見つめるだけだった。

「ばあばが帰ってくるかもしれんおうちと、もうばあばがもどってこんおうち、ぜんぜん別のところみたいで……おるの、やだったの」

 「だからね、」くすぐられたように、の声が軽やかに揺れた。

「くーこーくんが、お寺にきていいって言ってくれたとき……すごく、うれしかったんだぁ」

 ありがとう――綿毛が開くように、ふわっと笑む。少しだけ恥ずかしそうにして、緩やかに弧を描く口元。久々に、憂い一つない彼女の顔を見た気がして、空却はここ一番で心臓がどくんっ、と大きく脈打った。散々見てきたもののはずなのに、空却の金色の眼はの表情に縫われてしまった。
 ……ほら、だから言ったろ。おれは、なんもまちがってねえ。やはり、これでいいのだ。だって、はこんなにも嬉しそうだ。空却も、が笑ってくれた方が楽しい。誰も不幸になっていないし、泣いてもない。自分がにした導きは善なるもので、清く、正しいものだった。
 すっかり気分を良くした空却は「おう」と返事をして、夜空を仰ぐ。明日はなにすっかな。掃除終わらせて、宿題やって……ああそーだ、そろそろの誕生日に贈るもんも考えねーと。女子が好きそうなものは分からないが、が好きそうなものはなんとなく分かる。それに、ああでもないこうでもないと考えている時間はの笑顔が思い浮かぶので、それはそれで楽しかった。
 ――月が、雲に隠れる。月光が弱まって闇が深くなっても、が今、どんな顔をしているのかは手に取るように分かる。そして、それを知るのはここにいる自分だけだと思うと、果てのない優越感が空却の胸を満たした。