Episode.5



 新緑が風にそよぐ五月。ゴールデンウィーク明けの保健体育の授業で、多目的室にはなぜか四年生男子が集められていた。体操服も教科書もいらない。おまけに、体育教師の他に各クラスの担任と女性の養護教諭まで教室にやって来て、順繰りに教壇に立った。教室がそわそわと色めきたつ中、空却も今回の授業内容をなんとなく察する。
 男と女、身体のつくり、赤子ができるまでの過程、生理、精通、マスターベーション――頭の上で行き交うワードは、どれもこれも使い勝手が分からない。なんとなくその場面は想像できるのに、頭の中ではあまりぴんとこなかった。
 座学の後は、一枚のDVDを観せられる。簡略化された女の腹の中で泳ぐ白いおたまじゃくし。それが白玉のようなものに群がって、たった一匹だけが白玉と溶け合っていく。そこからむずかしいことが色々とあり、気がついたら、猿のような顔をした赤子がスクリーンの中で産声を上げていた。

「男の子は女の子と違って、妊娠することはありません。生理を経験することもないので、その痛みを想像するのも難しいことだと思います。ですが、自分が分からない痛みだからこそ、相手を思いやった言葉や行動が大切です」

 女の子がつらそうにしている時や、お腹が痛いと苦しんでいる時は、優しくしてあげてくださいね
 養護教諭が言った最後の言葉は、不思議と空却の耳に強く残った。チャイムが鳴ってから教室に帰るまでの間、何事もなかったかのように次の授業の話をする男子もいれば、マスべだのオナニーだのと連発する血気盛んな男子もいた。
 そして、空却は“血気盛んな”男子たちに“そういう話”を振られる。いやしい笑みを浮かべている彼らを一瞥した空却は、「好きな女と子どもをつくるために必要なことだろ。なにがそんなに面白いんだよ」と素っ気なく返した。







 ランドセルの中身をがしゃがしゃと揺らす。穏やかな陽気を風で切りながら、空却は通学路をいつもの倍の速度で突っ走っていた。今日は帰りの会が長引いて、学校を出る時間もかなり遅くなってしまったのだ。
 なかなか見えてこない赤色にどこか焦燥感を覚えながら、空却は息つく間もなく地面を蹴り上げた。

「(……よっし)」

 あと少しでいつもの交差点……というところで、前方に赤いランドセルを捉えた。にやりと笑った空却はいったん足を止めて、荒ぶった呼吸をすーはーと整える。一昨年の秋からやっている、恒例の挨拶だ。あと数秒後にはあのランドセルの冠に体当たりする自分を想像し、空却は助走をつけるため、つま先にぐっと力を込めた。
 ……しかしふとして、空却は上げたばかりの片足をゆっくりと地面に下ろす。

「(……あいつ、あんなにもチビだったか)」

 今日はなんだか、やけにの足が細く見えた。
 とてとてと道を歩いているの姿は、このあいだ社会見学先の水族館で見た、ペンギンの子どものようだった。あ? と空却は首を捻る。昨日も一昨日も会ったのに、今日だけこんなことを思うのは不可解だ。しかし見えるものは見えるのだから、なぜだと疑問を抱いても仕方がない。
 まぬけなあいつのことだ――このまま体当たりをしたら、今日は転ぶかもしれない。あとで困るのは自分。それに、に怪我をさせてまで突進をしようとは思わない。むしろ火がついたように泣くを想像しただけで虫唾が走ったので、空却はぶるぶるとその考えを打ち消した。
 ……まあ、あいつが泣いたところなんて見たことねーけど。すうぅっ、と空却は肺に空気をゆっくりと溜めた。

っ!!」

 ぴくんっ、と赤いランドセルが立ち止まる。くるりとこちらを向いた体は、やはり幻覚でもなんでもなく、昨日よりも小さく見えた。ああ、さては今朝もねぼうして朝めし抜きやがったな。そう思いながら、空却はランドセルを揺らしてが立ち止まったところまで駆けていく。
 の隣まで来ると、ふう、と空却は息を吐いていつもの歩調で歩く。立ち止まっていたも、空却に倣って再びちまちまと歩き始めた。
 ……今日は何も言ってこねーな。いつもなら合流した時点ですぐに口を開く。やけに無言の時間が続くことを不思議に思った空却がちらっと横を見ると、どこか意味深な笑みを浮かべてこちらを見つめているがいた。

「……なんだよ」
「くーちゃんがわたしの名前よんでくれたなあって」
「はあ? 名前くらい今までだってふつー呼んで――」

 ん? そーいや、今まで呼んだことあったか? と出会ったのが確か一昨年の春。それからは、おい、とか、おまえ、とか呼べばすぐ反応するので特に気にしなかったが、たしかに口に馴染みのない音だったような気がしないこともない。
 今まで意識したことがなかった分、空却は過去に遡りながら首を捻る。すると、またしてもが隣でにこにこしていることに気づいた。

「今度はなんだよっ」
「きょうは、ランドセルをどすんってやらんかったなあって」
「……おまえ、あれやってほしかったんか」

 そう尋ねると、「んー」とは首を傾げてしばらく考える。そして、すぐにまたにこにこと笑ってこう言った。

「くーちゃんならなんでもいいよー」
「なんだそれ」
「あっ。でもね、いまみたいに名前よんでもらうのはすごくうれしいなあ」

 ふふ、えへへ、と会話が終わっても一人で笑っているを、空却は不気味に思った。はたから見たらふつーにやばいやつだぞおまえ。何がそんなに嬉しいのか分からない。名前くらい、望めばいつでも呼んでやるというのに。
 そして空却は、が右手から左手に持ち替えた習字道具が目に入る。よいしょ、とランドセルも重たげに背負い直したので、空却はなんとなしに口を開いた。

「おまえ、今日はやけに荷物おおいな」
「うん。きょう体育があってね、書写の宿題もでたから、習字道具ももってかえらんとかんのー」
「体操服はどうしたんだよ」
「ランドセルのなかー」

 は軽く跳ねて、自身のランドセルを上下にゆさゆさと揺らす。そんなを見た空却は彼女のランドセルを下から持って、そのままくいっと片手で持ち上げる。

「わあっ。かるーいっ」

 きゃっきゃとはしゃぐを見て、持ち上げたランドセルをすとんと下ろした。下ろしたら下ろしたで「もどったあ」と笑うの隣で、空却は頭上にはてなマークを浮かべながら考える。
 ……こんなもんか? いや、少なくとも自分が今背負っているランドセルよりも重い気がする。それに加えて、は今習字道具を片手に持っていて、一方の空却は手ぶらだ。なんとなく……なんとなーく、それがくやしい。何がと聞かれても知るかの一言で片付けてしまえるくらい、曖昧な感覚。しかし、途中から考えることも面倒くさくなって、空却は心のままに動くことにした。

。ちょっと止まれ」
「はあい」

 ぴたっと素直に立ち止まる。会ったばかりの頃とは別人のように言うことを聞くようになったに、空却は少しだけ気分がよくなった。
 の後ろに回った空却は、ランドセルの錠前をかちッと開けて、冠をぺろんとめくる。教科書と一緒に入っている体操服を見つけると、それをずぼッと抜き取った。
 「かるくなったあ~」と嬉しそうに言うをよそに、空却は再び錠前を締める。の体操服を脇に抱えると、ほら、と空いている片手をに差し出した。

「習字道具もかせ」
「くーちゃん、もってくれるの?」
「おう」
「わるいよう」
「ふだんからおれに世話やかせとるくせに、変なところで気ぃつかっとんな」

 そう言って、空却はの手から習字道具を奪い取る。自分の両手が塞がって、代わりにの両手がすくと、どこからか湧いてきた優越感が空却の胸を満たした。
 さっきよりも足取りが軽くなった。あほそうな顔といい、とろそうな喋り方といい、いつも通りのに見える。しかし、やはりその体は小さくて、痩せたにしてはどことなく丸みを帯びて映った。
 いつになく車に轢かれそうなを見て、空却はぼそりと呟いた。

「……
「なあに?」
「けがしたりどっか痛くなったら、おれに言えよ」

 さすがにいつもの空却と様子が違うと察したのか、は不思議そうに瞬きをする。しかしすぐに「うんっ。わかったあ」と返事をし、目を細めて笑った。
 それ以上、投げかけられる言葉は特にない。その物分かりも良さも今はただ不安なだけだ。の分も、おれがしっかりしねーと。さらに気を引き締めた空却は、残りわずかになった帰路を注意深く辿った。


 いつもの信号のない交差点に到着するが、お互いが別々の道に進むことはほとんどなくなっていた。特に最近は、何も言わずにの足が空厳寺の方へ向かうのだ。
 そういう時は、たいてい家にカヨがいない。曰く、カヨは数ヶ月前から検査入院を繰り返していて、家にはほとんど帰れていないらしい。カヨの体調が悪いこと、そして家に帰っても一人ぼっちということ――明らかに沈んだ表情をしているに対して、空却もあれこれ聞く気が起きず、を強引に寺に連れて帰ってきたのが最初だった。空厳寺には、諸々の事情を知っている灼空とに快く茶請けを出す修行僧がいるだけで、突然来訪した彼女を邪険にする人間は誰一人いなかった。
 そんな時。がじっとこちらを見ている感じがして、空却はふとを見下げた。
 ……見下げた?

「わたし、ちいさくなったんかなあ」
「はあ?」
「くーちゃんと目があわんのー」

 ほら、とはくいっと顎を引く。自身の目線を指し示すように目元付近に人差し指を立てて、つー、と線を引くようにして指を前へ移動させる。それは空却の目ではなく喉仏のところに着いて、またの目元に戻っていった。
 ……そうか。やけにチビと感じたのはそのせいか。無意識にを見下げていた自分を思い出して、空却は呆れたように言った。

「おまえが小さくなったんじゃなくて、おれが大きくなったんだっつーの」
「えっ」
「さいきん身長がやたら伸びっからな。成長期ってやつだ」

 なんなら身体測定の結果の紙見せてやろうか、と言おうとした時。が目を曇らせていたので、空却はそれを腹の奥に収めた。

「……気にしたってしかたねーだろ。男と女はそもそも体のつくりがちげえんだからよ」
「うん……」

 空却がそう諭しても、未だ晴れないの顔。頭では理解していても、感情が追いついていないのだろう。それは空却も同じで、が暗い顔をしている理由は分かるのに、それをいつまでも良しとすることはできなかった。

「おまえはなにがそんなに気にくわねーんだよ」
「ちょっとだけ、さみしいなぁって……」
「さみしいだぁ?」
「くーちゃんじゃないくーちゃんに……あれ? くーちゃんなんだけど、くーちゃんじゃないみたいなくーちゃんに……あれれ?」

 “くーちゃん”のゲシュタルト崩壊を起こしているに、なんだそんなことか、と空却は肩を竦めた。つまりは、成長しているおれがの知らないおれになることをおそれてるってわけだ。

「そんなおまえに、おれがありがたーい言葉をおくってやる」
「ありがたーいことば?」
「おう。“色不異空しきふいくう空不異色くうふいしき”……“体”が存在するのではなく、いろいろなものが集まってできた“物体”を、自分らが“体”と呼んでいるにすぎない、ってな」
「しき、ふいくー?」

 漢字が苦手なには少し難しかったらしい。首を傾げているに対して、「まーなんだ」と空却は言葉を続けた。
「すがたかたちが変わろうと、中身までそうかんたんに変わったりしねーってこった」
「ほんと?」
「おーよ」
「くーちゃんも?」
「あたりまえだろ。仏さんがいるかぎり、おれが示す心は一つだ」
「そっかあっ」

 ようやく笑ったを見て、空却も口角を上げる。そうだ、おまえはそうやって笑っとけばいいんだ。一緒に歩いている時くらいは、邪魔な石があったらついでにおれが取り除いてやるからよ。

 空厳寺に続く長い階段を登ると、大きな正門が見えてくる。日によっては修行僧の誰かが正門前で掃き掃除をしているのだが、今日は誰もいない。
 おっ、もしかして口うるせえおやじも今はいねーのか? そうとなれば寺の掃除もやらなくていい。を巻き込んで裏山でサボれる――そう思った時、今日の保健体育の授業のことがふと頭をよぎって、空却はに尋ねた。

「そういやおまえんとこはもう――」
「あっ。おじさんだあ」

 げっ。いつの間にか寺の正門前に立っていた灼空に手を振る。つかおい、今おれが話しとっただろうが。おれよりもおやじかよ。

「おかえり」
「ただいま~っ」
「……けっ」
「お前もただいまくらい言わんかッ!」
「いッてえッ!!」

 さっそく拳骨が飛んできて、空却は頭頂部を両手で強く押さえた。痛みに悶えている間に、灼空がの前に膝を折って、小さな彼女と目線を合わせる。

ちゃん。カヨさんは病院かな」
「うん……」
「そうか。なら、今日もうちで夕ご飯を食べていきなさい。今夜はきのこ鍋だ。帰りはいつも通り、空却に送らせよう」
「やったあ。きのこすき~っ」
。たまには肉がいいって言え。この頑固おやじも、おまえの言うことならきくからよ」
「聞こえとるぞ空却! 誰が頑固親父だッ!」
「ぎゃあぁッ!」

 二発目の拳骨をもらった空却は、の手を掴んで逃げるように走り出す。いつまでもこんなとこにいたら頭がバカになっちまう! 後ろで怒鳴っている灼空をよそに、空却はと一緒に空厳寺の敷居を跨いだ。







 梅雨の時期に突入しても、空却は普段通り心穏やかに(時にはやんちゃに)過ごしている。雨が降っているからといって気分が落ち込むこともなければ、湿気かひどいからといって苛々することもない。強いていえば、境内が雨で落ちた葉っぱで荒れるため、灼空に掃き掃除を命じられることが面倒に思うくらいだ。それも無視すればいいだけの話なのだが、無視した後が面倒なのだ。頭に拳骨を落とされて、せっかく伸びた身長が縮んでしまっては堪らない。
 小雨が降りしきる帰り道、空却は鈍色の空を睨みつける。この雨量ならば傘を差すまでもないので、がががッ、という雑音を立てながら、空却は傘の先端をコンクリートの道に引きずっていた。どーせ降るんなら、もっと派手にばーッと降りゃあいーのによ。
 そんなことを思いながら通学路を辿っていると、雨の匂いに混じって、なにやら変わった匂いが空却の鼻先を掠める。なんだこれ。空却がくんくん、と宙に向かってにおいを嗅ぐと、それは鉄鉛のように生臭かった。決していい匂いとは言えないが、顔を顰めるほど強烈なものでもない。近くに鉄鋼などないし、工事をやっている音もしないのに、何の変哲もない道の真ん中でこんなにおいがするのはどこか不自然だった。

「(……まあ、そーいう日もあんだろ)」

 大方、フェンスの錆の匂いが雨のせいで強くなっているのだと思って、空却はさして気に留めずに歩き続ける。
 そんな時、地面を見てみると、雨のせいで色の濃くなったコンクリートの中に、小さいシミのような点がぽつりと浮かんでいた。それだけならまだしも、それは空却の前方に向かって点々と続いている。大きいものから小さいものまで……雨と混じっているせいで、形が滲んで歪になっているものもあった。
 一定間隔をおいて点描されている正体不明のシミに、さすがの空却も妙に思って、その足を止める。

「……なんだこれ」

 その場にしゃがみこんで、空却はその点をじっと見つめる。煮る前の大豆と同じくらいの大きさだ。その上を人差し指でなぞってみると、赤黒い色が空却の指に付いた。すん、とにおいを嗅いでみると、さっき歩いていた時ににおってきた鉄鉛のにおいと全く同じものだった。
 ――これ、血なんじゃねーか。
 いやな感じがする。言葉では形容しがたいが、とりあえず“やばい”という感覚は空却にも馴染みのあるものだった。それに、こういう時にはたらく野生の勘はよく当たるのだ。
 空却が血痕らしき点を辿っていくと、その点は通学路から外れて、狭い路地に続いていた。雨が降っていなくても日に当たることのない場所――濡れた雑巾が乾いたような臭いが充満する中、あの鉄臭いにおいも一緒についてきた。
 空却の足は路地の奥まで進む。すると、大きな木箱の影に隠れるようにして、じっとしゃがみこんでいる小さな塊を発見した。
 最近小さく見えるようになった体、見覚えのある形の黄色の安全帽子、薄茶色の傘、そして赤色のランドセル――空却はそれが誰なのかすぐに分かった。

っ、おいッ!」

 そして、最後の赤黒い点はの足元に伸びている。性急に足を折った空却はの肩を強く掴んだ。は膝小僧に顔を埋めたまま動かない。前後に肩を揺すっても応答がない。地面に尻もつけずに、心もとない足裏だけでその小さな体を支えていた。
 いつもなら、呼べばすぐに反応する。名前を呼べばけろりと笑う。ただごとじゃない――それだけは分かって、空却はひたすらに向かって声を張った。

「どっかいてーのか! どこけがしてんだよッ!」

 怪我をしたら言えと言った。もそれにうんと応えた。なのに、何も答えないのはどういうことだ。
 おれのことがわかんねーのか。ねてんのか。それとも目がいてえのか――現状から推測できることをあれこれ考えるが、どれもこれも空却の思考を狭めるばかりで、いっこうに役に立たなかった。

「おいなんとか言えってッ――!!」

 ついに、空却の手の力に耐えきれず、は濡れたコンクリートにびちゃんッ、と尻もちをつく。その拍子にの両足が開かれて、隠れていた下半身が露わになった。
 それを見た瞬間、空却の後頭部にがつんと衝撃が走る。が履いているショートパンツ……その大部分が血で滲んでいた。そして、足元に広がっている血溜まりにも空却は目を張った。

「(これ、ぜんぶの血か……?)」

 がどこか痛がっている様子はない。でも血は出ている。それも、比較的新しいものだ。つんとした刺激臭が空却の鼻から入って脳までも侵していく。なんでだ。何が起きている。なんで、こんな――

 ――「男の子は女の子と違って、妊娠することはありません」

 記憶の彼方から聞こえてきた声に、空却はびくっと体を揺らす。女は、子どもを産む準備をする。腹の中に赤子用の布団をつくって、それがいらなくなったらひと月に一回、股から血として出てくる――断片的に散らばった記憶を重ねていって、ようやく合点のいった空却は、の肩からばっと手を離した。
 は顔を上げない。泣いているのか苦しんでいるのか、今のままでは分からない。先ほどまでの自分の行動がやるせなくなった空却は、自身のランドセルを下ろし、自分が着ていた上着を脱ぐと、それをの足にばさっとかけた。

「それ、腰にまいとけ」
「ぇ……」

 おもむろに顔を上げた。下がりきった眉と不安げに揺れた両目が、空却のなけなしの余裕をすべてかっさらっていった。
 ひとまずが泣いていないことに安堵した胸をおいて、空却は自分のランドセルを胸側に背負い直す。幸い、今日は傘を除けば両手が空いていて、もランドセルと傘以外の荷物はなかった。
 空却はの傘を腕に引っかけて、自分の傘をばさッと広げる。肩と顔の横だけで傘を支えると、空却はにくるりと背を向けた。

「上着、まけたか」
「ぅ、ん……」
「なら背中のれ。はこんでやるから」
「くーちゃ――」
「いーからはよしろッ」
 
 びくっと肩を揺らすを横目で捉えて、空却はしまった、と顔をひきつらせる。しばらくいやな沈黙が続いたが、は傘の中に潜り、おそるおそる空却の背中に体をぴっとり合わせた。
 空却の肩に添えられただけのの両手が心もとない。「はなすんじゃねーぞ」とだけ言って、空却はぐっと腰を上げる。同い年の女子に加えてランドセルが足された重量は決して軽くはない。しかし、空却は自分の意地にかけて落とすまいと、濡れた地面を強く蹴り上げた。


 先ほどまで小雨だったのにも関わらず、二人に試練でも与えるように、それは徐々に大粒の雨に変わっていった。汗か水か分からない液体が空却の体にまとわりつくが、心を無にして目の前の道をバシャバシャと駆け抜ける。時折耳元で聞こえるの息遣いがひどく苦しそうで、平然を装おうとする空却の頭の中をぐちゃぐちゃに掻き乱した。
 いつもなら主婦たちが井戸端会議の一つや二つ囲っているものだが、こんな雨だからか一つも見かけない。商店街に行けばさすがに一人くらい歩いているだろうが、ここからだと商店街まで行くのに距離があって、の体が冷える方が先だと思った。男しかいない空厳寺に行くなど論外だ。
 胸が裂けるように痛い。足の裏が地面とぶつかるたびに痺れていく。喉は渇きすぎて今にでも血唾を吐きそうだ。を支えている腕の感覚はすでにない。雨に濡れて、痛いのか冷たいのかすらも分からなくなったふくらはぎは、腱がぐにゃりと曲がっていそうなくらいに激痛がして、一度足を止めたらもう二度と走れなくなる気がした。開ききった瞳孔はの理解者を求めてあちこち彷徨うも、いっこうに救いの光は差し込んでこない。
 ――おれがもっとでかけりゃあ、これくらいどうってことねーのに。少ない筋肉、小さな体、稚拙な思考……空却は自分の構成するすべてのものを投げ捨てたくなった。

 どれだけ走っただろう――ふと、大須にしては珍しい小綺麗な建物が空却の目を引いた。横に長い平屋で、離れたところに戸がそれぞれ二つある。まるで、二つに分かれた建物を合体させたような外見だ。こんな建物があるなんて、地元民の空却ですら知らない。おそらく、ここ最近新しく建ったのだろうと思った。
 そして、二つある内の一つの戸の前に着物を着た女が傘を下ろしているのを空却の目がしかと捉えた。走り始めて初めて見たの理解者――なりふり構っていられず、空却は焼けきった喉を振り絞って声を上げた。

「っ、おぃッ!!」

 所々掠れてしまった音。叫んでから、空却はげほげほと咳く。それでも、奇跡的にこちらに気づいた着物の女はふっと顔を上げて、空却と目を合わせた。
 もはや感覚がなくなりつつある足を、空却は気力だけで動かしていた。女の前まで走ると、かくんっと膝の折れた足は地面について、差していた傘を地面に落としてしまう。傘は数回回って裏返り、女のすぐ横に転がった。

「どうしたの?」

 その拍子で傘に付いていた水滴が着物にかかっただろうに、女は少しも気にしていない様子だった。突然現れた小学生二人を見て、彼女はその場にしゃがみこむ。
 話す体力はもう残っていない。ひゅ、ひゅ、と肩で呼吸をしていた空却はふっと腕の力を緩めて、背負っていたをゆっくりと下ろした。

「くーちゃん……」
「じぶんで……いえるか」

 切れ切れの声でに言う。おぼろげな視界の中、小さく頷いたを見て、空却はようやく体からどっと力が抜けた。
 は女の耳元でこそこそ話している。すると女は目を見開き、の下半身に目をやった。その後、すぐにふっと微笑んで「つらかったね。もう大丈夫だよ」と彼女の頭を数回撫でた。
 ……よかった。状況を理解してくれたことへの安心感で、空却はもう何もかもどうでもよくなる。胸を破って今にも飛び出しそうになる心臓も、びりびりと痺れて痛む足も、すべて些事に変わる。あとは、とにかくをどうにかしてくれと、空却は着物の女に祈るばかりだった。
 女はの手を握り、平屋の中に連れていこうとする。その場から一歩も動けない空却は黙ってその後ろ姿を見送ろうとするが、彼女はゆっくりとこちらに視線をやった。

「この子を連れてきてくれてありがとう。君も中に入っていて」
「おれは……ここでいい」
「そこだと雨が吹き込んできて濡れちゃうわ。きっともうじき止むだろうけど――」

 女の手からがぱっと離れる。は空却に駆け寄るやいなや、その腕をがしっと強く掴んだ。
 「お、おい――」はなせ。そう言おうとした空却の口はすぐに閉じる。ぎゅううぅ、と締めつけられる腕と、こちらを見上げるの瞳の中――憂いの混じった色が垣間見えた。空却はそれを拒む体力すら残っておらず、深々とため息をついた。

「わぁーったよ……。入りゃあいいんだろ……」

 痺れた足をずる、と引きずって、空却はふらふらと立ち上がる。一歩踏み出そうとしたら全身がよろけてしまって、すかさず横にいるに体を支えられた。
 いま辛ぇのはおまえだろーが……。なんでおれに気ぃつかっとんだ……。あー……くそだせぇ……。そんなことを思っていても、体に力が入らない。に支えられるがまま、空却は女の背中を追って平屋の中に入った。







 その中は珈琲の匂いで充満していた。あまり馴染みのない香りに好奇心が誘われ、空却は物珍しそうな眼差しで辺りをぐるりと見渡す。
 ウォームライトに照らされた空間には、大きなカウンターとその前に椅子が四つ、あとはテーブルとソファーがいくつかあり、どうやらここは喫茶店のようだった。外見から見た通り、空却が今いる部屋の隣にももう一つ部屋があるようだが、横にひっ付いているの頭でよく見えなかった。
 もう平気だからはなれろ――そう言って、ようやく腕から離れたは、着物の女に連れられて店の奥へ。空却はランドセルをどさっと床に下ろし、目の前のカウンターチェアによじ登った。べちゃん、と上半身を机に持たれさせると、ひのきでできているらしいテーブルの匂いが、興奮しきった空却の頭をゆるゆると落ち着かせてくれた。

「――優しいのねえ」

 何度か深呼吸をして体を休ませていると、からん、と涼しげな音ともに、どこかねっとりとした声が聞こえる。空却がテーブルからゆっくり顔を上げると、さっきまでなかったグラスとタオルが空却の目の前に置かれていた。
 あ? 眉をひそめた空却は前方を見る。高そうな珈琲豆やおしゃれな食器が並ぶ棚をバックに、首から上は男の顔、下は女物の着物を身にまとった大人が、空却の顔を見てにっこりと微笑んでいた。
 ぎゃあッ! 空却は思わず悲鳴を上げる。

「ばけものッ!!」
「だぁれが化け物よっ!」

 「そのオレンジジュース返してもらうわよっ」化け物がそう言うので、空却は素早くグラスを手繰り寄せ、差されたストローを咥えてじゅッ! と勢いよく吸う。十秒もしない間に橙色のグラスが透明に変わり、ぷはあッ、と空却はストローから口を離した。

「あ゙ー……生きかえったー……」
「まったく……現金な子ねえ」
「あいつのぶんは」
「あの子にはまた別のものを用意するわ。ああいう時は冷たいものよりも温かいものの方がいいの」

 「将来、良い男になりたいなら覚えておいた方がいいわよ~」そう言って、化け物は持っていたマグカップの端でマドラーをかんっ、と弾いた。
 よけいなお世話だ。空却は用意されたタオルを掴んで、水で滴る髪と体をぐしゃぐしゃと拭き始めた。

「つか、なんだよここ。ガキんときから大須におったが、こんな店があるなんてしらねーぞ」
「喫茶店兼呉服店よ。和服を身近に楽しんでもらおうってことで、今日オープンしたばっかなのー。でもこーんな天気だからお客さんはゼロ。オーナーであるあたしともう一人で二人寂しく過ごしてたら、あなたたちがご来店したってわけ。あ、おうちに帰ったら親御さんに宣伝してくれてもいいのよ?」
「こーひーなんてハイカラなもん飲めっかよ。うちは寺だからな。たなのぞいても茶しかねえ」
「寺? えっ。もしかしてあなた、灼空さんとこの息子さん? やっだ、すごく似てるじゃない。あと噂通りの悪ガキねえ」
「だぁれが悪ガキだ!!」
「あっ、おスズ~? 奥の戸棚にその子にちょうどいいものあるから着せちゃっていいわよ~!」
「むしすんなよバケモノ!!」
「次それ言ったら拳が飛ぶわよ」

 やってみろ。こちとら毎日石よりも硬い拳骨を食らってんだ。オカマのこぶしなんざスライムみてーなもんだろ。ふんっ、と空却は小馬鹿にしたような態度で、用のなくなったタオルをてきぱきと畳み、テーブルに置いた。
 すると、店の奥から話し声が聞こえてきて、暖簾の間から先ほどの女が出てきた。その隣にはもちろんもいたが、数分前の捨て猫のような姿から打って変わった格好に、空却の周りだけ時間が静止する。

「あらぁ~。よく似合ってるわねえ」

 が着ているのは浴衣だった。白い生地の中に赤椿が散っており、腰は黄色の兵児帯できゅっと締められている。下はもちろん上の服も雨で濡れていたし、呉服店も兼ねていると言っていたので子供に着せるものはそれしかないのだろうが、何の心の準備もできていないのにいきなり格好を変えられて出てきてもらっても困る。
 ……困る? なにに。空却がいつになく動揺していると、横からこそっと耳打ちをされる。

「なぁに? 見惚れてちゃってる感じ? かわいいとこあるわねえ~」
「うっせぇ!! 見ほれてねーわ!!」
「オーナー。兵児帯も借りたけどよかった?」
「全然オッケーよぉ。売り物じゃなくてあたしのお下がりだから、セットでその子にあげちゃうわあ」

 女に促されるまま、はふらふらと二人がけのソファーに腰を下ろす。その横に赤いランドセルを置いた女は、に大きな手提げ袋を渡しながら、柔らかい声で言った。

「ごめんね、着れるものが浴衣しかなくて。このくしゅくしゅも強く縛ってないけど、おうちに帰ったら緩めてね?」
「うん……。ありが、とう」
「おいッ! さっきより顔まっさおじゃねーか!!」
「んもうっ! 弱ってる女の子の前でおっきな声出さないのぉ!!」
「オーナーもね」

 遠目から見ていても分かる。ぼーっとした表情で、の目の焦点もまるで合っていない。特に顔色が真っ青で、まるでホトケ様のような顔つき。喫茶店の中に招いてくれた恩も忘れて、空却は胸から込み上げる衝動のまま怒鳴ってしまった。
 すると、カウンターテーブルにことんと置かれた一つのマグカップ。チョコレートの香りが濃厚に漂っているそれを見ると、化け物ことオーナーがにちらちらと目配せをしていた。持っていきなさい、と言っているようだ。
 ……しかたねーな。空却はいったん椅子から降りてマグカップを持つ。「熱いから気をつけるのよ?」という言葉を背中に受けて、並々に注がれたココアを慎重に運んだ。んなもん見りゃわかるっつの。
 下から漂う甘いチョコレートの匂いに、いっぱいいっぱいだった空却の胸も空いてくる。両手で持ってきたマグカップをの近くにあるテーブルに置くと、匂いに誘われたが顔を上げた。

「ココアだとよ。飲め」

 ここあ。は唇の形だけでその音をつくる。しかし、マグカップと空却を交互に見るだけで、の手がココアに伸びることはなかった。あ? と空却は訝しげに片目を細める。
 こいつ、ココアきらいなのか。それとも飲めねーくらいによわってんのか。そんなことをぐるぐると考えている間に、はちらっとカウンターにいるオーナーを見て、ぼそりと呟いた。

「おかね……わたし、もっとらんくて……」
「お金!? んま~っ! なによぉこの子めちゃくちゃいい子じゃなーい! 大丈夫よっ、その子なんてお礼も言わずにジュース一気飲みしたから! どうしても気になるなら将来うちで働いて返してもらってもいいわよ~っ」
「オーナー」

 女が窘めるのを横目に、空却はなんだそういうことかと、の隣にどかりと座る。再びココアを持って、の両手にマグカップを添えさせる。その時に触れたの指先が氷柱のように冷えきってきて、空却は危うくその手を引っ込めそうになった。

「……うまいか」
「ん……」

 ようやくマグカップに口をつけた。ふにゃ……との頬の筋肉が柔らかくなったのを見て、空却もひとまず安堵する。ココアをちびちびと飲むは、捨てられた子猫がミルクを飲む姿になんとなく似ていた。
 ずっと……見ていなくては。そうでないと、今にもの手からココアが滑り落ちてしまいそうだ。そんな使命感に駆られて、空却はマグカップの中身が空っぽになるまで、いつも以上におぼつかないから片時も目を離さなかった。


 雨も止み、の気分も落ち着いてきた頃。いつまでもここにいるわけにもいかないと、空却はの手を引いてソファーから立ち上がった。

「二人だけで本当に大丈夫なのぉ? 遠慮なんかしないで、しばらくここにいてもいいのよ?」
「大丈夫だ。こいつの家、こっからちけえし」

 オーナーの好意を空却はやんわりと流した。それに、知らない場所にずっといるよりも自分の家の方がも安心するだろうし、なにより家に行けばカヨもいる。今のに一番必要な存在だ。
 空却は自分のランドセルを背負い、のランドセルを胸側に回して肩にかけると、なんとなく一回り強くなった気がした。先ほどまで落ち着きのなかった自分はもういない。二本分の傘を片腕に引っ掛けながら、ココアを飲みきってもどこかぼんやりとしているに、空却は淡々と呼びかけた。

。その手提げもかせ」

 が両腕でぎゅっと抱いている手提げに向かって、空却は手を伸ばす。おそらく、さっきが着ていた服しか入っていないのだろうが、それにしてはが腕を動かすたびに、中からかさかさと紙のような音がしている。
 何が入っているにせよ、手ぶらの方がだって楽なはずだ。空却がの反応を待っていると、女が空却の前に腰を下ろした。

「手提げ袋にはこの子にとって大切なものを入れておいたから、自分で持たせてあげて? 無理はしないように言ってあるからね」
「……そーかよ」

 空却は女を一瞥し、ふっと手を下ろす。「おもかったら言えよ」とに言うと、彼女はようやくこくん、と小さく頷く。自分の横で、女が優しく微笑んでいたのが分かった。

「雷注意報出始めたから、帰り道は気をつけるのよ~?」
「分かっとるわバケモノ。ジュースごちそーさん」
「あんたに言ってないわよっ。お粗末さまでした!」

 べーっ、と空却は舌を出して、店を後にする。空はさっきよりも曇っていたものの、雨が降ってくる気配はしばらくなさそうだった。
 気がついた時には、空却はの手を握っていた。今のでは歩調を合わせるのも難しそうだったからだ。もみじまんじゅうのような小さな手をぎゅっと握ると、そこから返されるやわい力があった。それは、蝋の短くなった灯火のように頼りなくて、弱々しくて、たとえ放せと言われても放したくなくなるような……そんな庇護欲を空却の胸の内に生んだ。
 ここまできたら、意地でも放すもんかよ。空却はさらに手の力を込めて、の家路を辿った。







 最初は普通に歩けていたのに、だんだんと後ろに下がっていく。繋いでいる手をぐいぐいと前に引っ張るのも悩ましく思ってきた頃、もう何ヶ月も動いているところを見たことがないサインポールが見えてきて、空却はようやく胸を撫で下ろす。これでようやくを休ませられる――心からそう思っていた。
 床屋を通り過ぎ、いつもの路地裏に入ると住居の玄関口に到着する。空却は背伸びをする必要がなくなったインターホンを一度鳴らして、家の中からカヨが出てくるのを待った。
 ……しかし、物音が聞こえてくるどころか、いっこうに引き戸が開く気配はない。

「(……おそくねーか)」

 空却はもう一度インターホンを押す。それでも状況は変わらず、しん、とした静寂があたりを包むだけだった。
 だんだんといらいらしてきて、むっとした空却は何度もインターホンを鳴らす。人差しがじんじんと痺れるくらい鳴らしても、目の前の引き戸がからからと軽快な音を奏でることはなかった。
 ――カヨばあのやつ、まさか寝てんのか? 自分の孫が一大事だってときに。
 ここで待っていても埒が明かない。しかたねえ、とが普段から持っている鍵で開けてもらおうと、空却が口を開いた時だった。
 の手と繋がっている空却の腕がくい、と下がる。空却が隣を見ると、さっきまで立っていたはずのが肩を震わせながらその場で蹲っていた。
 ぎょっとした空却は片膝をつく。不規則な呼吸を繰り返すを見て、さっきまでなりを潜めていた焦燥感が再び顔を出した。

「おいっ。今度はどーしたんだよッ」
「ぉ、おなか……ぃ、た……いぃ……っ」

 は? またから血がでて、顔がまっさおになって、ずっとうわのそらで、つぎは腹がいたい? 今ののからだはいったいどーなってんだ。
 再び空却の頭の中でけたたましく鳴りだした警鐘。インターホンにはもう頼らない。再び立ち上がった空却は引き戸を拳で叩き始めた。

「カヨばあっ! カヨばあッ!!」

 磨りガラスが割れようが知ったことか。空却は頻りに戸をがしゃがしゃと強く叩く。それでも家の中から返ってくる反応は一つもなかった。
 ようやくこの家に誰もいないことを察した空却は、もう一度膝を折っての顔を覗き込んだ。

「おいっ、ばーさんどこ行ったんだよッ」
「びょ、いん……」
「病院って……っ。このあいだは帰ってきとっただろーがっ!」
「また……にゅ、いん……いっちゃ、って……っ」
「はあッ!? それさきに言えよっ! 知っとったらここじゃなくておれんちに行っとったわ!!」

 今まで誰かが出てくるのを待っていた自分が馬鹿みたいだ。そのイライラをそのままにぶつけてしまって、彼女はさらに体をきゅう、と縮こませた。

「ごめ……ん、なさ、いぃぃ……っ」

 ――今にも途切れそうなか細い声に、空却ははっと我に返る。冷水を浴びせられたかのように頭が真っ白になって、口を閉ざす。そんな時に思い浮かんだのは、先月の保健体育の授業の最後に養護教諭が言っていた言葉だった。

 ――「女の子がつらそうにしている時や、お腹が痛いと苦しんでいる時は、優しくしてあげてくださいね」

 ……やさしくって、なんだよ。こっちだっていっぱいいっぱいなんだよ。ああくそッ。やけになった空却は、のうなじから見える紐をくいっと引っ張った。

「かぎあけっから、ちょっとだけ顔あげろ」

 答えることはできなくても声は届くらしい。少し……ほんの少しだけ顔を上げたの首から鍵を取るのに時間はかかったが、空却はなんとか家の中に入ることができた。
 痛みに悶えるの体を支えながら、彼女を玄関の上がり框に座らせる。自分の靴を脱いだ後にの靴もごそごそと脱がせた。役割を果たさなくなった靴下も一緒に脱いで、もう一度立たせたと一緒に、空却はひどく長く感じる廊下をよたよたと歩いた。
 カヨの部屋の襖を開ける。畳の上になだれ込むように座ったは、先ほどよりも顔をゆがめてお腹を押さえていた。
 ……冷や汗うかべるほどいてーのか。ふと、空却はの腹に巻きついている黄色の兵児帯に気がついて、彼女の背中に手を回した。

「これ、ほどくぞ」
「ぇ……」
「こんなんしとるからよけい痛えんだろーがっ」

 動揺したの声を制し、向かい合わせに座った空却は兵児帯の結び目を解く。何重にも巻かれたそれを煩わしく思ったが、これ以上の腹が締め付けられないように慎重に帯を解いていく。
 兵児帯を抜き取った拍子に、の着ていた浴衣が肌蹴る。露わになった白色のキャミソールの上から分かる、ほんのわずかな膨らみ。男の空却にはないものだ。が上半身をもじもじとさせるたびに、その膨らみが左右に寄ったり離れたりして、空却の目の奥がじりッと焼け焦げた。
 ……ごく、と喉が低く鳴る。自分の呼吸音がやけに大きく聞こえて、空却の頭の中にぼんやりとした白いもやがかかった。名前を知らない感情が胸を占める一方で、ずぐん、と重たくなった心臓が腹よりも下の方に降りていく感覚がした。
 これは……だめだ。なんとなくまずいものを見た気がして、の胸元からさっと目を逸らす。その時に目に入った押し入れに縋るようにして、空却がその取っ手に手をかけると、そこには一式の布団が丁寧に畳まれていた。一番上にあった毛布を引っ張り出して、空却は無我夢中でそれをの体に巻き付けていく。
 ――ばりッ! 不意に空が裂ける音がして、二人は同時に肩を震わせる。空が怒りだした窓の外を見て、雷が鳴りだす前に帰ってきてよかったと、空却はひとり胸を撫で下ろした。

「(ひとまず、これでいーだろ……)」

 毛布にくるまれて、もこもこと大きくなった。それでも毛布全体が震えているし、の苦しそうな表情は変わらなかった。
 ……これからどうしたものか。ひとまず大人に電話しようと思って、空却はその場から立ち上がる。たしか、床屋のカウンターに電話機があったはず。ここの部屋の真向かいに進めば行けるはずだと、以前カヨに言われたことを思い出しながら、空却は部屋の敷居を踏んだ。
 すると、服の後ろをくいっと引っ張られて、踏み出そうとした空却の足は宙に浮く。振り返ると、毛布から手を出したが空却の服の裾を掴んでいた。

「おやじに電話してくるだけだ。すぐもどってくっからここで待っとけ」
「くーちゃ――っ」

 バリッ!! また一際大きな雷鳴が部屋に響く。うっせーな、と空却が片耳を塞ぐやいなや、空却の足に何かが絡みつく。両足ともにバランスを崩しそうになったのをなんとか耐えて、タコのように巻きついたそれをさっと見下ろした。

「おいっ、いきなりあぶねーだッ――」

 ……ひぐ、ひぐ。頻りにひゃっくりを上げるタコの正体。加えて、鼻をすする音、小さな口から漏れる嗚咽、目からぼろぼろと落ちていく雫を見て、空却は一瞬、呼吸が止まった。
 ――再び光る空。空却はとっさにしゃがんでの耳を塞ぐ。時間差で鳴った雷はひとまず去ってくれたが、またいつやって来るか分からない。の顔は、悲痛の色をぶちまけたように怯えきっていた。
 ……空却は襖をとん、と静かに閉める。そして、毛布ごとの体を引き寄せ、自分の胸の中に収めた。短く浅い呼吸を繰り返すの体は、雨に打たれた雛鳥のように弱々しいものだった。

「わーったよ……。ここにいてやっから……もう泣くな」

 空却はあぐらをかいて、折り畳まれたの足を囲う。すん、すん、と鼻を鳴らすの手の力はとても強くて、空却もまたそれに応えるようにして、を抱く腕の力を強めた。


 雷は鳴り止まない。雨も再び降りだした。の体の震えも止まらない。腹痛はまだマシになったようだが、それでも額に滲む汗はの体の辛さを物語っていた。震えているのは雷への恐怖だけではなく、体の内側から来る寒気だと分かったのは、を抱きしめてから数分経った頃だった。
 空が光るたびに空却はの耳を抑えるが、それも気休めにしかならない。なので、今日は珍しく、空却の方から最近学校であったことを話した。算数の授業がつまらなかったこと、道徳の授業でグループ内で話し合った結論が納得いかなかったこと、体育の授業でやった室内ドッヂボールで最後まで生き残ったこと――どの話もオチはなく、とりとめのないものでも、はうん、うん、と一つ一つの話に相槌を零した。時折微かに漏れる笑い声には、自分でも驚くくらいひどく安心した。

「……雷、嫌ぇか」
「ぅん……」
「怖ぇか」
「ちょこっとだけ……。いまは……くーちゃんがいるから……」

 もぞ、と腕の中で僅かに動く。じゃあ……おれがいない日は。そう言おうとして、やめた。ついこのあいだも、雷が鳴っていた。おかげで空却は目覚まし時計がなくても深夜に起きられたが、雷様を恐れるは眠れない夜を過ごしたのかもしれない。
 眠れないだけなら、まだいい。こうやって、一人で泣きながら雷が止むのを待っていたんじゃないのか。誰もいない家でたった一人……今みたいに体を震えさせながら。
 雨が上がった翌日。帰り道にけろっと笑っていたのは……あれは、なんだ。が隠した本音に対していらっとして、空却はぐぐ、と腕の力を込めた。が苦しいと言えば緩めたかもしれないが、本人は何も言わなかった。

「くーちゃん……ばあばとおんなじにおいする……」
「……線香の匂いだろ」
「うん……」

 すう――ゆっくりと空気を吸い込む音がする。毛布越しに少し膨らんだ体に対して、生きている、と空却は漠然と思った。そんな当たり前のことが、今はとても尊いことに思えた。それこそ、仏の教えを一つ覚えた時に広がる、まっさらな世界のように。
 ふう……と縮こまった体。吐息とともに、はん、と小さく身じろいだ。

「いーにおい……」
「そーかよ」
「うん……」

 くーちゃんのにおい、すき……
 うわ言のような言葉を最後に、の声は止んだ。ようやく雷も収まって、空却の胸元からは規則正しいの息遣いが聞こえてくる。部屋を満たすのはの寝息と外から聞こえる雨音だけ。自分の胸からずり落ちそうになる小さな体を引き寄せて、との間にある間隔をさらになくした。
 ……渇いた涙が、の頬に跡をつけている。少しぷっくりした目の下は腫れぼったくなっていて、見ているだけで痛々しい。空却は人差し指でそっとの目の下をなぞると、そこは思っていた以上に熱を帯びていて、息を一つ吐き出すのにも胸が痛くなって、堪らなくなった。

「(……大丈夫だ。)」

 おまえが目ぇ覚ますまで……おれが、ずっとついててやるからよ。
 遠くで、夕焼け小焼けの音楽が鳴る。もう、十八時か。今日は、なんだか色々なことがあった。知識だけでしか知らなかったものに遭遇して、雨の中をたくさん走って、化け物に出会って、それから……あたたかいを抱きしめて。ひどく、瞼が重い。あしたも夜に起きなきゃいけねーのに、いま寝たら、ねむれなくなっちまう。
 腕から感じるおだやかな呼吸と、胸に響くちいさな心音が、空却の眠りを誘う。ぼやけた視界で空却が最後に見たものは、毛布の隙間から覗く、自分の服を掴んだの小さな指だった。







 二十時過ぎ。月の光と玄関口の照明だけが差し込む路地裏にて。引き戸を境にして、空却とは向かい合わせで立っていた。

「おまえ、ほんとうに大丈夫かよ」
「うん。だいじょうぶだよ」

 そう言って、はにっこり笑う。なんだかオウム返しをされているように聞こえて、本当に大丈夫なのかどうも疑わしい。さっきまで死にそうな顔しとったくせに。空却はため息をつきながら、数分前にあったことを順繰りに思い出した。

 ――ぎゅるるるるっ。不意に聞こえてきた素っ頓狂な音に、ぱちっと空却は目を覚ます。それがの腹の音だと気づくと、空却は毛布にくるまれているを見た。

「おなか、すいたぁ……」

 眠気まなこでそう呟いたは、空却の腕からゆるゆると抜け出して、台所に行く。そしてあろうことか、冷蔵庫の中にあった皿を取り出して、それを電子レンジで温めた後、皿の上に乗っていた天むすをもそもそと頬張り始めたのだ。そんなを見て、さすがの空却も呆気に取られていた。
 おいおまえ、腹がいてえんじゃなかったのかよ。つか、おきてから三分もたってねーぞ。どこにそんな食欲あんだよ。色々と突っ込みたいことはあったものの、「くーちゃんもいっしょに食べよう?」と呑気に天むすを手渡すに、空却は怒る気も失せてしまって、彼女から受け取った天むすをたった二口で平らげた。

 ……まあ、が元気そうならそれでいい。自分の苦労は二の次だと割り切って、悶々とした感情はすとんと腹の奥に収めた。

「くーちゃん……。やっぱり、わたしもおじさんのところに行ったほうが――」
「だからいいっつの。なんども言わせんな」

 雷様はどこかへ行ったものの、家に帰ればそれよりもおっかない雷親父が空却を待っている。今までも外で遊び呆けて、夜遅くに帰ってきたことが何度かあるので今更どうということはないが、朝まで説教コースなのは確実だ。そして、明日から一週間はいつもの倍近くの雑務を押し付けられるに違いない。
 それでも、すべて自分が撒いた種……には何一つ関係のないことだ。が起きてから片手では数え切れないくらい繰り返したやり取りを一蹴して、空却はに背を向ける。

「じゃーな。家のかぎ、ちゃんと締めとけよ」
「あっ。まってっ」
「ぐえッ」

 空却の首が後ろに持っていかれる。に貸していた上着のフードを掴まれたのだと分かって、空却は剣幕を出しながらに向かって声を張った。

「いきなりフードひっぱんなっ。首しまるだろーがっ」
「あ……。ご、ごめんねくーちゃん……」

 しなっと俯いたに、空却は思わず怯んでしまう。な、なんだよ。やけにしおらしいな。いつものの反応とは違うものだったので、今までのこともあってか、空却はの扱いに一瞬困ってしまった。

「あー……なんだ。そんなに気にすんなよ。べつに苦しくねーし」
「そ、そう……?」
「それよか、おれになんか用があるんじゃねーの」
「あっ……。えっと……あのね、」

 口をもごもごとさせて、言いたいことがはっきりしない。ほんとにどうしたんだこいつ。こんどは食いすぎで腹がいてーのか。空却は訝しげな顔をしながら、の言葉をじっと待った。

「やじゃ、なかったかなぁって……」
「はあ? なんのことだよ」
「さっきの……うぅんと……」

 つま先を擦り合わせ、もじもじとしながら要領の得ないことばかり言う。たしかに色々と……本当に色々なことをしてしまったが、一体何のことを指しているのか分からず、空却は片手で頭をがしがしと搔いた。

「あー……どれのこと言ってんのか知らねーが、おまえが思ってるようなことは断じてねーよ」
「ほ、ほんと……?」
「ほんとだほんと」
「そっかっ。なら、よかったぁ……」

 はそう言いつつも、表情を曖昧に濁している。喜怒哀楽のどれにも当てはまらないそれを妙に思っていると、の耳が赤くなっていることに気づいた。
 今日一日での変化に敏感になっている空却。に一歩近づいて、彼女の前髪をさっとかき分けると、露わになった額に手のひらを当てた。

「おまえ、みみ赤ぇぞ。こんどは熱でも――」
「わあぁっ!?」

 が大きな声を上げて数歩後ずさった。空却の手はの額に当てていた状態のまま宙に浮いている。おい、なんだ。避けるような反応をされて、空却が怪訝そうにの顔を見る。今度は耳どころか顔を真っ赤にしたは、ぱくぱくとエサを食べる金魚のように口を頻りに開閉していた。

「きょ、今日はほんとうにありがとうっ。わたし、あとでおじさんに電話しておくねっ」
「あッ、おい――ッ!」
「おやすみなさいっ」

 会話を無理やり終わらせたは早々に家の中に入り、ぴしゃんっ、と引き戸を閉めてしまった。
 「なんなんだよ……」その場に取り残された空却は、処理しきれなかった疑問を仕方なく胸の中でもやもやとさせつつ、今度こそ寺に帰ろうと歩き始めた。

「ったく……ほんと人の話きかねーやつ……」

 まあ……いいか。の体の中でああいうことが月に一回あるのは不安でしかないが、今度同じようなことが起きた時は、今よりもちゃんとできる。養護教諭の言っていた“やさしく”という定義は分からないが、要するにがぐっすり眠れるようなことや、美味しそうにものを食べられるようなことをすればいい。そうすれば、が痛みで悶えることもないし、何かに怯えることもないだろう。
 ――そう、泣くことだって。
 空却の記憶に刻まれたの泣き顔が未だに離れなくて、それを思い出すだけで胸がぎりっと痛む。ふとした時に思い出してしまうそれを振り切るようにして、空却は早いところ雷を落とされにいこうと、全速力で夜の大須を駆け抜けた。