Episode.4
部屋の隅にあるやかんストーブがごうごうと音を立てている。他にも、鉛筆の芯が紙の上を滑る音、ワークのページをめくる音、たまにの口から漏れる小さな独り言――カヨの家の二階にある客間にて、空却は三年生冬休み最後の宿題を叩きのめしていた。
「おい。算数ワークのこたえ見せろ」
「うん。いいよー」
来年の春で、と出会ってから二年が経つ。長期休みになると、こうしてと頭を突き合わせて宿題をすることが習慣となっていた。最初はカヨに頼まれて渋々始めたことだが、寺から離れることによってやらなくて済む雑用の数は多いと分かってからは、空却も満更ではなくなっている。と宿題をする、という名目ならば、外に出る許可がいくらでも灼空から下りるのだ。
さて、漢字ドリルをやっていたは一度手を止めて、横に積んであった宿題から冬休みのために用意された薄いワークを取り出す。その間から、さらに薄い白黒の小冊子を抜き取ると、は「どうぞー」と空却に快くそれを手渡した。
今回の算数ワークは難易度が高く、序盤からお手上げだった。おそらくはクラスの秀才が頭を捻らせてようやく解けるレベル――そんなものを、算数テストの結果を下から数えた方が早い空却が解けるはずもない。数十分考えても一向に進む気配がない宿題に、空却はこれまでに何度も自暴自棄になって鉛筆を宙に投げていた。
そして不幸なことに、そのワークの答えは教師が持っている。国語や社会は答えを見るよりも自力で解いた方が早いが、算数と理科はそうもいかない。答えがないと知った時は絶望しかなかったが、の手元にも空却のものと全く同じ算数のワーク――しかも解答の冊子付き――があることに気づいた空却は、拳を高々と天井に掲げたものだった。
これで空却の冬休みの宿題は終わったも同然。持つべきものは違う小学校に通うである。ちなみにのワークをぺらぺらとめくると、すでに全ページ答え合わせが済んでおり、赤い丸が目立つところばかりだった。
「くーちゃん、これは?」
「だから辞書でしらべてから聞けっていつも言ってんだろ」
漢字ドリルをこちらにスライドさせているに空却が冷たく言うと、彼女は寂しそうにしゅん、と肩を落とした。
「くーちゃんに教えてもらったほうが早くおぼえるから……」
それを聞いて、空却はうぐ、と言葉を詰まらせる。こいつ、日本語よわいくせにこういうことはさらっと言えるとかなんなんだよ。ぐぬぬ、と葛藤した空却は、「……今回だけだぞ」とかれこれ何十回も繰り返した“今回”をまた生み出してしまった。
「ほら、いつもの紙よこせ」
「うんっ。ありがとうくーちゃん」
頬をまるっと上げた。いつものあどけないものとはまた別の種類の笑顔で、またしても調子が狂ってしまう空却。こいつ……とし重ねるごとにしたたかかになってねーか。これが女のぶきってやつか。いやそれは涙か。この際どちらでもいいが、あのがそんなものを使う日が来ようとは。今日は特別に言うことをきいてやるが、明日からはだまされねーぞ、と空却は心に固く誓った。この誓いも、はたして何十回目になるのか分からない。
「んで、どこが分かんねーんだよ」
「えっとねぇ……」
ここと、ここ。それと、ここ――が指さしたところをちらっと見て、空却は渡された紙にさらさらと文字を書いていく。
「おらよ」書き終えた紙をに渡す空却。書いたばかりの漢字とその読みが書かれたそれを、は大事そうに両手で持った。
「この字、“えん”じゃないんだぁ……」
「“えんのいえ”なんて読まねーだろ」
“緑”の漢字と似たそれ。が細かいところを間違えないようにと、空却がわざとでかでかと書いたおかげで、“みどり”とは読まなかったようだ。出会ったばかりの頃のと比べて、著しい成長を感じた空却は心の中で感心する。口ではぜってえ言ってやんねーけどな。
「くーちゃん。“よすが”って?」
「あー……心のより処のことだろ」
「よりどころ?」
「まあよーするに、頼れる人や場所のことだ」
“縁”――老若男女、それは誰にでもあるものだ。子には肉親がいるし、学校には教師がいる。通学路には110番の家があり、寝たい時には布団がある。縁の定義は人それぞれだ。たとえば、空却ならばそれは仏様に当たる。時の流れとともに対象が移ろえど、人は複数の何かと繋がって生きていかなければ、よりよい生を謳歌することはできない。孤独になることすら他者を必要とするのだ。人との縁を断ち切ることは、到底難儀な話になる。
仏様で思い出した。そういや、おやじに借りたブッダ伝、まだ読んでねーな。読書感想文はそれにすっか。空却がそんなことを考えていると、隣に座るはぽつんと呟いた。
「それじゃあ、わたしのよすがはくーちゃんだねえ」
――何気ない言葉だ。明日は晴れるかなあ、と言った時と同じくらいの声色で、の唇はその音を象った。
突如、日常に落とされた異色。それは空却の心に波紋を生み、指先までじんわりと伝わっていく。頭がびりっと痺れる感覚に、空却の体は一瞬だけこの世から乖離したような気さえした。
……なんだ、今の。空却の意識がこちらに戻ってくる頃には、全身の皮膚が数割増しに敏感になっていて、僅かに擦れる服がくすぐったくて仕方がなかった。
空却の呼吸を乱したそれは、決して悪いものではなかったが、この感情をどう表に出せばいいのか分からなかった。
「……そこはカヨばあじゃねーのかよ」
「ばあばはばあば。くーちゃんはよすが」
「なんだそれ」空却がぶっきらぼうにそう言うと、はえへへ、と笑って、漢字ワークと向き合った。空却が書いた字を見ながら、は空欄を丁寧に埋めていく。
答えになっていない返事を聞いたせいで、まったく腑に落ちない空却。は口から「できた~っ」という言葉が紡がれるまで真剣そのものだった彼女の横顔を、頬杖をつきながらじっと見つめていた。
「国語もおわっちゃったあ。くーちゃんと宿題すると、はやくおわっちゃうねえ」
「おまえ、あとなにが残っとんだ」
「自由けんきゅうだよー」
自由研究? 予期せぬ単語に、空却は唇を変な形に曲げる。今までがそんなものをやっていた記憶はないが、どうやら彼女の学校では三年生の冬から初めて課されるものらしい。
それはそれは。かわいそうなこった。空却はに同情するが、彼女はなんともない顔で口元を緩めた。
「あしたねえ、クラスの子たちといっしょにやるんだあ」
「へー」
「すきな子グループでテーマをきめてね、わたしたちは雪のけっしょうのスケッチするんだよー」
完遂した漢字ワークを仕舞いながら、は楽しそうに話し始める。その声をBGMに、空却は頭の中では全く別のことを考えていた。
“好きな子グループ”……いわゆる自分たちでグループのメンバーを決めてもいいということだろう。空却の学校では、そういう機会が中々設けられない。一クラス三十人余りいれば、人数が合わなかったり、誰かをはばにしたりということが起きて、思い通りに事が進まないからだ。それに、友達の多い者は天国を見て、少ない者は地獄に見ることになる。それなら最初から、席順だったり出席番号順だったりでグループを編成した方が厄介事を被らずに済むのだ。
一方、のところは平和な学級環境らしい。まあ、そうじゃなかったらこんなにも呆けた性格してねーか、とも空却は思った。
「つか、雪の結晶なんてどうやってスケッチすんだよ。雪なんてめったにふらねーだろ」
「のやまくんが雪のけっしょうのつくりかた知っとるから、あしたその子のおうちに行ってつくるのー」
は?
突然の口から飛び出した、空却の知らない名前。加えて、今の呼称からして十割十分男子だ。おい、誰だノヤマクンって。しかもおまえ、いま好きな子グループっつったろ。そういうのはふつー女子だけでつくるんじゃねーのか。
今までに味わったことのない粘着質なものが、空却の頭の隅まで覆い始める。子猫に夢中になっているを見る時に感じるものと少し似ているが、それとは比較にならないくらい、今回のものは強烈だ。未だに名前の知らないその感覚に、空却の喉はからからに渇いていく。
そんな空却の異変を知らないは、嬉々として話を続けた。
「のやまくんねえ、すごく頭いいんだよー。このあいだの理科のテストも三年生のなかでいちばんでね、わからんかったところは聞いたら教えてくれるの。教えかたも先生みたいにじょうずでね――」
もやもやもやもや。最初は灰色だったそれは、みるみるうちにどす黒い色に変わっていく。頭の隅どころか胸の奥まで侵食していくそれは、の声を遠ざけ、空却の喉の奥をぐっと締め上げた。
空却は国語と社会はべらぼうにできる。しかし、算数と理科はてんでだめだ。一方のは逆に理数系が得意だそうで、このあいだちらっと見た算数のテストはかなりの高得点だった。はただの馬鹿じゃないということは、これまでの付き合いで空却もまあまあ分かっている。
よって、算数と理科に関しては、が空却にあれこれ聞いてくることはない。その必要がないくらい分からないことがないのだと思っていたが、それは違う。実際は空却の知らないところで、そのノヤマクンとやらに聞いていたからだ。
「おい」
「あのね、雪のけっしょうってね、いろんなもようがあるんだって~。のやまくんが持ってたずかんにたくさんのっててね――」
呼びかけにも気づかないに、空却の苛立ちはさらに募っていく。
空却はと別の小学校に通っているのに対して、かたや相手はと同じ小学校。自分が授業を受けている時、もまた別の授業を受けている。そのあいだ、が誰と話して、誰と笑って、誰に対して心が向いているのか――今まで気にしたことがなかったが、一度考えだすとふつふつと熱いものが腹の奥から込み上げてくる。
今そんなことを気にしても仕方がないと思うだろう。しかし……今、自分はここにいる。別々の小学校にいるわけでも、違う授業を受けているわけでもない。空却は、の目の前にいるのだ。なのに、今の心が向いているのは自分ではなく、顔も知らない男子のことばかり。それが、なんとなく腹立たしい。
すごいんだよ、じょうずなんだよ――もしかしたら、今の自分たちのように、ノヤマとやらと普段からこうして体を寄せあって教え合っているのかもしれない。そんな場面を想像をしたら、胃がひっくり返りそうになるくらい気持ち悪くなった。加えて、その男子を褒めちぎるを見て、空却の頭の中を覆った雷雲がぴかッと光る。
「あっ。あとね、算数もすごくできるんだよー。このあいだのわり算のテストも――」
「うるせえッ!」
ぴしゃんッ、と突如部屋に落ちた雷に、の声が止んだ。落とした本人である空却は、がちゃがちゃと忙しなく筆記用具を筆箱に仕舞う。家から持ってきた算数ワークもやる気になれず、空却はリュックから一冊の分厚い本を取り出して、机の上にどすん、と置いた。
「今日のおまえのはなし、くそつまんねえ」
の方を見ずに、空却はそう言い放つ。出した本の適当なページを開いて、空却は目の前に広がる文字の羅列を見る。仏教の先人達による有難い言葉はちっとも頭に入ってこないし、なんならここはもう読んだところだった。挟まれた栞がちらっと本の隙間から見えるが、今更ページをぱらぱらとめくるのも癪で、空却は今開いているページを意味もなく眺めているだけになる。
しん、と重たい沈黙が部屋を包む。部屋の中なのに、あたりは土砂降りだった。が今どんな顔をしているのかと気になるが、空却から動くわけにもいかない。雷を落としてからが一言も言葉を発しないので、空却は彼女の表情を想像することすらできなかった。
「くーちゃ――」
不意に、ぴんぽーん、と家に響いたチャイム。が部屋からぱたぱたと出ていったのを察して、空却はようやくまともに息が吸えたし、持っていた本が逆さであることにも初めて気づいた。
ぎしぎしと階段を下る音。後に、玄関口から楽しげな声が聞こえてきて、また空がごろごろと鳴りだす。今度はだれと話してんだよ。おもしろくねえ。そんな苛立ちの末、ようやく声が止んで、玄関の引き戸が閉まる音がした。
そして、先ほど下っていった音よりもぎし、ぎし、と階段をゆっくり登る音が聞こえてくる。が帰ってくる、と空却はまた本とにらめっこを始めた。今度はきちんと向きも合っている。
「よい、しょ……」
部屋に戻ってきたは、どすんっ、と床に何かを置く。やけに大きな音だったので、空却は思わず本からそちらに視線を傾ける。開いた襖を閉めているの足元に置かれていたのは、大きな段ボールだった。
「……なんだそれ」
「小さいみかんだよ。あんちゃんちがくれたの」
だれだよ“あんちゃん”って。今さっき来とったやつか。つか、おもいもの持つならおれを呼べよ。もやもやとする黒いものを抱えたまま、空却は続けてに尋ねた。
「そいつ、男子か」
「ううん。おんなの子だよ」
――ふぅん。胸にこびりついた粘着質なものがさっと蒸発していった感じがして、空却の心はほんの少しだけ平穏を取り戻した。
それでも、部屋の中で降り続けている雨はいっこうに止まない。そんな部屋の隅っこで、手元にあったハサミで段ボールの封になっているガムテープを切っていく。おれがやる、と言いそうになった口にぐっと力を込めて、空却はの危なかっかしい手元を見つめていた。
「くーちゃん」
「なんだよ」
「まだ、おこっとる……?」
段ボールをぱかっと開いたは、おそるおそるこちらに視線をやる。まるで、威嚇する虎の子に触れるように。の眼差しの奥にある悲しげに揺れる水面は、先ほど怒鳴った自分が作ったものだと思うと、空却の中で罪悪感がうっすらと顔を出した。
「……べつに、さいしょから怒ってねーよ」
「ほんとう……?」
「ほんとだっつの」
「ほら」空却はに向かって片手を伸ばす。
「みかんかせ。むいてやる」
「えっ! いいのっ?」
「おう」
そう言うと、はすぐにぱあぁっと笑顔になった。その顔に空却が目を奪われている間に、は二、三個のみかんを小さな手に持って、先ほどまで漢字ワークを広げていた机の上にころころと転がした。
はたと我に返った空却は、「ティッシュ、どこだよ」とに尋ねる。「ここだよー」とが差し出したティッシュボックスから、空却はティッシュを数枚抜き取り、机の上に広げる。そして、転がされたみかんの内の一つを手に取って、親指の爪をくいっと皮に刺した。
すると、すぐに甘酸っぱい柑橘の匂いが空却の鼻まで届いて、これ、けっこーいいみかんだな、と思う。皮は薄くて少し剥きづらいが、空却は剥けた皮をティッシュの上にちまちまと置いていく。いつもならイライラして投げたくなるそれも、最終的に口の中に入れるの顔を想像すると、なんとなく耐えることができた。いつの間にか、部屋の中で降っていた雨も止んで、空却の頭の中と胸を侵食していた黒いものは跡形もなくなっていた。
は、空却がみかんを剥いている間に筆記用具を片付けていく。机の上に散らばった消しゴムのカスを集め、それを手のひらに乗せるとゴミ箱にぱっぱと捨てた。
そんな中、空却の方を振り返ったはこんなことを言う。
「くーちゃん。さっきの紙、もらってもいい?」
「おれがさっき漢字書いたやつか」
「うんっ」
「……べつにいーけどよ。おまえ、おれが教えるたびに紙ねだるのなんなんだ」
「えへへ。去年もらったのもあるよー。くーちゃんみる? わたしのたからものばこ」
「みねーよッ。つかリスみてーなことしてんじゃねーぞッ」
「ちゃーん。今だれか来とったー?」
不意に、襖の隙間から覗いた小さな影。はっと顔を上げたがぱたぱたッと忙しなく駆けていって、襖をさっと開けた。
「ばあば、あぶないからお二階上がってきちゃかんって言ったのに……」
「だーいじょーぶ。今日は元気いいんよー。転けんし、咳かんし」
襖を開けた先にいたカヨは、いつものようにほけほけと笑う。の表情は少しだけ晴れたが、無理矢理晴らしたようなそれに、空却はみかんの白い筋を取っていた指がぴたりと止まる。
カヨばあは去年よりも体の調子が悪いらしい。足だったか、それとも肺だったか……。かかりつけ医との約束事もいくつかあるらしく、床屋を開ける日も少なくなっていた。
だが、カヨはそんなことを微塵も感じさせないくらい元気に振舞っている。このあいだは近所で開催されたゲートボール大会に参加して見事優勝したのだとが話していた。相変わらずマイペースだなこのばーさんは。
「あのね、さっきね、あんちゃんが来とってね、みかんくれたの」
「ほーかぁ。なら、あんちゃんのとこに、あとでお礼言いにいかんとかんねぇ。たしかー……浸け置きしとったお漬物が台所に――」
「おつけものねっ。わたしがあした渡しておくからだいじょうぶだよっ」
慌てて言ったに「そーお?」とカヨはのんびりと言う。少し前まで、ばあば、ばあば、とカヨの後ろをついて回っていただが、最近はこうして一人で何かをすることが増えたように思う。
たった二人だけの家だ。できるだけカヨが安静にしなければならない今、必然的にそうなるのは仕方のないことかもしれない。しかし、はまだ、自分一人の面倒すらみきれない女子だ。の危なっかしいところをたくさん知っている空却は気が気でなかった。
「くーちゃん、今日はうちでお夕飯食べてくかね」
「おう。おやじにはもう言ってある」
「じゃあ、今日はすき焼きにしようかねえ」
「肉ッ!」
「おにく~!」
カヨの言葉を聞いて、二人同時に声を上げた。部屋の敷居を跨いだカヨは、ゆっくりとした足取りで、箪笥の前に行く。その引き出しから古ぼけた革財布を取り出すと、「くーちゃん」とちょいちょいとこちらに向かって手招きをした。
空却は剥き終わったみかんを机の上に置いて、カヨの前までたったっ、と歩いた。
「このお金で、ちゃんと一緒に美味しいお肉買ってきてくれん? おつりはちゃんと半分こしていいからねえ」
「おう! まかせろ!」
描かれた樋口一葉に空却は元気よく返事をする。お札は丁寧に折り畳んでズボンのポケットに入れた。カヨと向き合った時、自分の身長よりも小さくなっていたカヨを見て動揺したことは、胸の奥にひっそりと隠した。
空却がジャンパーを着て身支度している間、はいったん一階までカヨを見送っていった。ただでさえ急な階段だ。用心をするに越したことはない。
「くーちゃん、もうちょっと待っとってね。すぐに着るからね」
「おう」
戻ってきたがハンガーにかけられた上着を着ている最中。空却は先ほど剥いたみかんに目をやった。
「おい」
「なあに?」
「口あけろ」
空却の言葉に、くぱ、と素直に口を開いた。空却はもぎったみかんのひと房をその中に放りこむ。ぱくん、と口を閉じてもぐもぐとしたの目に、きらっと星が瞬いた。
「うまいか」空却がそう尋ねると、はふわっと顔を綻ばせた。
「うんっ。あまくておいしい~っ」
今日一番の笑顔を見せたに、「そうか」と空却も満足気に笑った。
年末のせいか、人がごった返している大須商店街。大通りは特に人の行き来が激しく、子ども二人だけでは歩けないくらいの混雑具合だが、空却とが向かっているのは、商店街から少し逸れた精肉屋だった。商店街を突っ切っていったほうが断然早いが、人の波にもみくちゃになるよりかはマシだろうということで、少し遠回りをして別の道を通っていた。
目的地に向かう途中、空却は隣を歩いているを見る。彼女の首をぐるりと覆っているクリーム色の毛に目がいって、空却は何気なく口を開いた。
「……それ、このあいだおれがやったやつか」
「うんっ。これねえ、すごくあったかいの~」
去年の冬から行われている謎の儀式。うちは仏教だからサンタは来ねえ――ある日にそう言ったら、「じゃあ、わたしがくーちゃんのサンタさんになるね~」と言って、来たるクリスマスの日にラッピングが施されたプレゼントをから渡された。中身は赤色の手袋。なんとなく照れくさかったのでタグを外してもなかなか使えなかったが、外気に晒された自分の手を見るたびにが残念そうな顔をするので、いつからか冬の日は着けるようになった。指先の部分だけ布が二重になっており、これがまた暖かいのだ。特に、掃き掃除の時には救世主と化す。おかげで、霜焼けになる回数が去年よりも格段に減った。
しかし、女子からプレゼントを貰われるだけなんてかっこ悪い。そのクリスマスの翌日――即席ではあるが、空却もにプレゼントを渡した。そして、今年もなんだかんだで去年と同じようにからプレゼントをもらったので、空却もまたそれと同等なものを渡した。別に、よその信仰行事にあやかっているわけではない。空却はからもらったプレゼントのお礼をした……ただそれだけだ。
空却がにあげたものは、クリーム色のネックウォーマー。小学生のお小遣いなどたかが知れているので、六百円くらいの安物だ。そのお金を稼ぐために何度灼空にこき使われたか……あまり数えたくない。
あたたかいネックウォーマーに包まれて、ご満悦とばかりににこにことしているを見て、空却はふん、とそっぽを向く。寒さのせいで感覚が麻痺したのか、顔が少しだけ逆上せたように感じた。
精肉屋の前に到着すると、夕食時だからか、ケースの前は数人の主婦たちで混みあっていた。大人たちの足の間をすり抜けて、なんとか二人一緒に前列に躍り出る。
ケースの中に並んでいる赤々とした肉は、空却の目からはどれも同じに見える。強いていえば、霜が降りているかいないかの違いしか分からなかった。
肉を見ている間に、だんだんと人がはけてきて、ケースの前には空却との二人だけになる。カニ歩きをしながら端から端までケースの中を見ているは、ほう、と白い息を吐き出した。
「いっぱいあるねえ」
たしかに。空却の家柄、精肉屋に売っているような上等な肉は滅多に出ないので、さすがの空却も今回はお手上げである。量り売りのようだが、そもそもの品が決まらないので、にっちもさっちもいかないところだった。
「おっ。ちゃんいらっしゃ――ありゃあ、今日は空却もおるんか~!」
はてさて困った――そんな時に、小さな二人に気づいた小太りの男店主がカウンター越しに手を挙げる。「おう!」「こんばんは~」二人で挨拶をすると、「いらっしゃい!」と彼もにこやかに応じた。
「おいしいおにくくださいなー」
「んな頼みかたがあっかよ」
雑なを一蹴して、空却は店主を見上げた。
「なあ、おっちゃん。すき焼きで使う肉ってどれだ」
「すき焼きならこれかこれがいいぞ~」
店主がケースを覗きこみながら指を差した肉。どちらも牛肉で、適度に霜が降りている。色がどことなく違うような、そうでもないような。ちなみに、値段差はまあまああった。高い方が味はいいのだろうが、そうすると買う量が減ってしまう。
しょーじき、おれは肉が食えりゃあどっちでもいいけどな。空却は、肉の善し悪しをよく分かっていないのに二つの肉を真剣に見つめているに尋ねた。
「おまえはどっちがいい」
「くーちゃんは?」
「おれがきいてんのに質問でかえすんじゃねえ」
空却がそう言うと、はうんうんと迷って、「あかいほうかなあ」と指をさした。値段が高い方だ。の言葉を聞き届けた空却は、再び店主をぐっと見上げた。
「おっちゃん。高いほうの肉、これで買えるだけくれ」
「あいよ~っ」
カヨからもらった五千円札を出して、空却は会計をすませる。おつりはチューイングガムが数個買えるだけのお金しか残らなかったが、ビニール袋に入った肉は思っていたよりもずしりと重たい。
値段のわりにけっこー買えたんだな、と空却が不思議に思っていると、店主は得意げに笑った。
「カヨさんと灼空さんにはいつも世話になっとるで、百グラムくらいおまけしといたわ~!」
「マジか! あんがとなおっちゃん!」
「ありがとう~っ」
「気ぃつけて帰りゃあ~」男店主の言葉を背中に受けて、隣同士に並んだ二人は軽やかな足取りで今来た道を辿った。
たった一年で、大須の景色は変わっていく。二度とシャッターが開かなくなったテナントもあれば、新しくできた背の高いビルもある。栄え、衰え……結果的に足し引きになるので、数としてはそう変わらないが、どこか物憂げな気分になってしまうのは、それまでにそこで培ってきた思い出があるからだ。
人も、ものも、同じこと。少しの変化で憂い嘆いてはこの世では到底生きられない。だから、悲しみを乗り越えて、前に進む力を培わなければいけない。その力を引き出すための存在に必ずなるのだと、空却は幼い頃からずっと心に誓っていた。
「あら。くうちゃん、ちゃん。今日も仲良しさんねえ」
商店街から少し外れたここは、二人の顔見知りが多い。空却とが並んで歩く姿も、最初は不思議に思われていたが、向こうも慣れてきたのか、ことあるごとにそう評されるようになった。子ども扱いされているようで空却は少しだけ癪に触ったが、仲良しと言われるたびにふにゃっと笑うを見るのは悪くなかったので、否定はしなかった。
周囲の顔ぶれが変わろうが、新しい建物がたち並ぼうが、それこそ、が大人になろうが――このゆるいお湯に浸かっているような感覚は、ずっと続いてもいい。時が経っても変わらないものだって、きっとこの世には沢山あるはずだ。
「くーちゃん。おにく、持つのかわるよー?」
「おまえに持たせたら数秒でどっかいくだろ」
「そうかなあ。持つのかわるよー?」
「おまえな……」
肉だけはなんとしてもおれが死守してやる。堂々巡りの会話をしながら、空却は穏やかな時間をと共有する。テナントが立ち並ぶこの通りを抜ければ、カヨとの家はもうすぐだ。
「ただいまあ~っ」
「おかえり~」
玄関に入ると、家の中は甘辛い匂いでいっぱいになっていた。三が日が過ぎて、年始の寺が落ち着いた頃に振る舞われる贅沢品。テンションが上がるあの匂いだ。さすがの空却の心も浮き足立つ。
台所でガスを構っていたカヨの足元まで二人で行くと、空却はビニール袋をがさっと揺らして、それをカヨの前に掲げた。
「カヨばあ。肉、これでいいか?」
「あれまあ。いいお肉ぎょーさん買ってきたねえ。ありがとう~」
「ばあばっ。わたしもおてつだいする~っ」
「それじゃあ、ちゃんにはお皿とお箸を出してもらおうかね」
「おれはなにすりゃあいい」
「くーちゃんはガスコンロを出してくれんかねえ? そこのね、棚の下に入っとるで。ボンベの取り付け方、分かる?」
「おう!」
三が日明けに疲れ果てた体で、大人たちが飲んで騒ぐための慰労会の下準備をしていた経験が役に立った。意外とすてたもんじゃねーな、と思うが、また同じ機会があるとぶつくさと文句を言う自分が容易く想像できた。
が食器棚と机を行き来するのを横目に、空却はガスコンロが入った段ボールを取り出す。コンロを組み立ててボンベも滞りなく取り付けると、机の真ん中にそれを運んでいった。
カヨの部屋にある小さな机の上には、大きな鍋と三人分の茶碗がずらりと並んでいる。カヨの足元には一口サイズに切った野菜が置かれ、その隣には霜が降った上等な肉。鍋の中にはもうすでに何枚か投入済みだ。すき焼きの匂いも相まって、生の状態を見ているだけでも空却の口内から涎がじわじわと溢れてくる。
そういや、すき焼きのタレがねーな。空却が机の上に視線を這わせていると、「ばあば、たまごいれるー?」「それじゃあ、お願いしようかねえ」そんな会話を耳に入れた空却。カヨから受け皿を受け取ったが、隣に座る空却にも視線をやった。
「くーちゃんは?」
「なにがだ」
「たまごいれる?」
「受け皿に卵なんか入れてどーすんだよ」
「タレのかわりだよ~」
「はあ?」
空却が眉を顰めると、えへへ、と得意げに笑ったは台所に走っていって、手の中に卵を三つ収めて戻ってきた。
こんっ、こんっ。が机の端で殻を割ると、綺麗な山吹色をした卵黄がお目見えする。こいつ……ちゃんと卵われるんだな。空却が頭のはしっこでそう思っていると、今度は慣れた手つきで卵をかしゃかしゃと溶き始めた。その姿を見れば、こいつ、ちゃんと卵とけるんだな、とも思った。元々できていたかもしれないが、あれだけ普段から世話をかけられているので、てっきり何もできないのがなのだと勝手に決めつけていた。
今日一日で、分かったことがある。空却の見ているはほんの一部に過ぎないのだということ。学校に通っているあいだ、一週間のうちにと会う時間はそれこそ全体のひとつまみ分だ。それが、今はなんとももどかしく思う。
「はい、ばあばのぶんっ」
「ありがとうね~」
「こっちはくーちゃんのぶんっ」
「おまえんち、いつも肉に卵つけてんのか?」
「うん。そうだよー」
空却のところではそのまま食べるか、市販のすき焼きのタレを買ってくることが多いので、卵液に浸すなどという発想はなかった。
空却はから渡された受け皿に入った卵液をじっと見下ろす。どろっとしていて食べにくくはないかと思うが、いただきまぁす、と手を合わせた二人に習って、空却もいただきます、と丁寧に手を合わせた。
鍋の中から肉を一枚摘んで、卵液に浸す。綺麗な山吹色だったそれがすき焼きの汁で濁っていく。てらてらとした卵液を纏った肉を、空却は大きな口を開けて丸ごと頬張った。
……そうして、舌の上に広がった濃厚な味。空却はかッと目を見開いた。
「うまッ!?」
「やったあ」
隣のが嬉しそうに笑う。空却は鍋の中の具材をひょいひょいと取っては、卵液と絡めていく。味は上品かつまろやか。すき焼きの味が少しだけ緩和されるが、それが素材の味を前に出していて、舌の上で絶妙な乱舞を魅せた。
卵すげえ……。空却の隣ではぐはぐと肉を食んでいるを見ながら、空却も鍋の中の具材を減らしていく。カヨが野菜と肉を鍋に投入し、卵液が減ったら、もう一度が卵を持ってきてくれて、自分の隣で割ってくれる。これがまた美味い。いつもなら自分で配膳をし自分で片付けるのが波羅夷家の食卓なので、こんなにも至れり尽くせりなのは生まれて初めてだった。
ほわほわと湯気の立つ鍋。部屋に充満するすき焼きの匂い。そんな中、が精肉屋の店主が肉をおまけしてくれたことや空却が肉を最後まで持ってくれたことを楽しそうに話す。それをカヨがうんうんと相槌を打って、時折記憶違いなことを言っているに、空却がツッコミを入れる。すると、はまた面白そうににこにこと笑うのだ。
鍋に入れる具もほとんどなくなり、お腹も満腹になった頃。話疲れたが机にもたれながら、ぽつんとぼやいた。
「来年も、みんなでごはん食べたいなあ」
「めしくらい、いつでも食えるだろ」
「それじゃあ、来年は味噌鍋でもしようかねぇ」
豆腐と野菜しか手をつけていないカヨがそう言うと、の目がふにゃっと細まった。
「みそなべすき~」
「もつもたくさん入れようねえ」
「わあい」
完全に置いていかれる空却。人の話を聞かない婆孫だけの世界になるかと思いきや、「くーちゃんはもつすき?」とが尋ねるので、「ふつーだな」とだけ空却は答える。相変わらず調子のいいやつ。しかし、その時に見たの無垢な笑顔を見て、まあいいか、と細かいことはばっさりと切り捨てた。
人にはいつか終わりが来る。その時が訪れるまで……もしくは、が一人で歩ける力を養えるまで。どうか、今ある時間ができるだけ長く続けばいいと空却は思った。
