Episode.14
彼といれば、自身の未熟な部分が埋まっていく。自分が笑えば、彼も満更でもない顔で笑い返してくれる。龍と虎のようにお互いは平等で、対等で。彼と隣に並べば、周りに敵無しだと。この長い人生の中で、彼以上に魂が合う人間とはきっと出会わないだろうと。
そう……信じきったのがいけなかったのだろうか。
「テメェの顔見てっと反吐がでんだよ」
あの時は、心の底からそう思っていた。戦闘中は闘志でギラギラと燃えるオッドアイも、命よりも大事だと言う弟たちに向ける家族愛も、何が“尊い”のか分からないアニメの話をするところも。彼――一郎を構成するすべてのものが、波羅夷空却が嫌悪する人間、というテーマでつくられたホムンクルスのように気に食わなかった。
時に肩を並べて、時に背中を預けて、闘った日々。彼との思い出は、きちんと自分の中にあるのに、それがまた不純物が混在しているような気持ち悪さがあって、一秒でも早く忘れたいと思った。
なぜこうなったのか分からない。自分の中から沸き起こる何かがそうさせた。こうして理不尽に拳をぶつけても、いっこうにやり返さない……彼のその甘さが、優しさが、大嫌いだった。
「もし俺が気に入らねぇってんなら、どこが気に入らねえのか言ってくれ!」
なんもねえ。なんもねーんだよ、一郎。お前にイラついてる部分も、ムカつく部分も……たとえこの大地をひっくり返したって、一個も見つかんねーんだ。
だからこその怒りかもしれない。普段はなんとも思っていなくても、些細なことで突然スイッチが入った給湯器のように沸点に達する。人の怒りとは、所詮そんなものだろう。
友であったはずの一郎に拳を掲げ、背中を向けた。これ以上はない、唯一無二の、と豪語していたわりには、終わりはひどく呆気ない。そして、もう会うこともない、と自ら決別の印を押した。あそこで何か言葉を交わしていれば――拙僧にその力があれば――何か変わったかもしれないと。東都を出て数日後、すべての断片が一つの事実として形を為した時、空却はそう思った。
時間は巻き戻せないことを知りながら、生まれて初めて“後悔”という言葉の重みを知る。謝罪や懺悔では済まされない……空却の中で、それは挫折と言ってもいい重たい出来事だった。
気がつけば、空却はナゴヤ駅に立っていた。
荒んだ心のままヒッチハイクをして、邪念を振り払うように東都を離れた。数時間トラックに揺られてナゴヤに到着すれば、東都とはまた違う賑やかさが空却を迎えた。生まれ育った故郷の空気に触れると、ああ帰ってきたのか、と体よりも心が反応を示した。
「(……帰るか)」
呆然と見つめていた銀時計から踵を返して、空却の足は機械的に動く。もちろん一文無しなので、このまま歩いて帰ることにする。時間はそれなりにかかるが、ここからオオスまで歩けない距離ではなかった。
二年近くナゴヤを離れていたあいだに、ここは随分変わっていた。都市化が進んで知らない建物が立っていたり、何かあったはずのところには“改装中”という看板とともに白いシートがかけられている。空却は他人事のように諸行無常を流していき、ナゴヤの空気に体を溶けこませた。
正直、まだ頭が上手く回らない。後ろ髪を引かれているわけではないが、あの地で起きた様々なことが体の至る所でつっかえて取れない。ただ歩いているだけなのに、全身にくっつき虫がついているような違和感がある。
なんだよくそ、気持ち悪ぃな。初めて味わう感覚に少しだけ苛立つ。ナゴヤの景色が変わったから? いや、そんなことでこんな気分になったりしない。変わるといえば、ただ一つ……これだけはこれ以上変わってくれるな、と思っていたものが、あったような。
なんだ、なんだっけか……。一度気になりだしたら、止まらなくなる。空却は霧がかった頭の中を掻き回して、ふいに、うっすらと錆のついた琴線に触れた。
――「あっ。くーちゃんだあ~っ」
「――空却くん?」
掘り出した昔の記憶から現実へ、思考がぐわんと戻される。
足を止めた空却は振り返る。忙しなく移動し続ける人混みの中で直立不動でいるのは、見も知らない制服に身を包んだ女子学生。身長も、髪も長さも、顔つきも……なにもかも空却の記憶の中にあった彼女の面影を残して、その女子はそこに立っていた。
……? 心の中で、その名前を呟いた。そのあいだにも、と思わしき彼女は狼狽えた顔で、ゆっくりと距離を縮めていく。
「空却くん……? 空却くん、だよね……?」
彼女は、何度も空却の名前を呼ぶ。声が震えて、一歩ずつ近寄ってくる足取りもおぼつかない。危なっかしいのに、彼女の意思でこちらへ歩いてくる様がとても尊いものに思えて、空却はその場から一歩も動かずに見守っていた。
しかしその時、新幹線の改札から人の塊がどっと押し寄せてくる。それを背後に構えていた彼女は気づかず、その波に攫われそうになった。
「ッ、わ……っ」
反射的に体が動く。彼女が人に呑まれる前に、空却はその手を握る。東都にいた頃は力加減というものを知らずに過ごしてきたので、そのまま思いきり引っ張った彼女の体は、勢い余って空却の胸板にぶつかった。
衝撃は大したことなかったが、空却の思考は静止する。小さい、というのが第一印象で、あとは言葉で表現するのが難しい感情がどっと流れ込んでくる。
……勝手に、腕が持ち上がる。空却は彼女の背に手を回した。そのまま小さな体を引き寄せると、探していたパズルのピースのように、彼女の体は空却の胸の中にすっぽりと収まった。
「(だ……)」
誰に言われることなく、空却はそう感じた。この匂いといい、この抱き心地といい……空却の感覚が、これはだと言い切った。
堪らなくなって、その体を力いっぱい抱きしめる。が息を飲む音がしたが、空却は構わずに自分の体に彼女を埋めた。今日は秋にしては気温が低いが、の体は湯たんぽのように温かい。ああそうだ……寒いのは駄目なくせに、昔からこいつの体温は高い方だった。
まとわりついた外の匂いの中に隠れている本来のものを探し当てる。干したての布団に寝かされている赤子の匂い――変わらない。体が成長していても、はのままだった。
先ほどまで靄がかっていた頭がだんだん晴れていく感覚がする。抱きしめるだけでは物足りなくなった空却は、の髪の間にするりと指を入れて、彼女の頭の形を確かめるように手を動かした。
――「お、おい、空却……」
ずき
頭の痺れが空却を襲う。それがはっきりとした痛みになるまで、そう時間はかからなかった。今すぐにも頭を抑えたかったが、今を解放するという選択肢はなかった。
――「一体どうしたんだよッ」
一郎が初めて見せた、心配そうな顔。対等な……いや、心の底から嫌う人間にそんな顔をされる言われはない。くそ……むかつく。もう、すべて終わったことだ。今になって、思い出させるんじゃねえ。くそ、くそ……むかつく、むかつく、むかつく――ッ!
――「なんで……」
……いちろう
ずき、ずき――荒ぶる感情をひっ掴んで、間違えた方向に向かおうとするそれの舵をきる。山田一郎という人間とそれに関連する記憶に触れるだけで、腸が煮えくり返った。
――ほんとうに?
拙僧は、一郎にずっとむかついてたのか? ならなんで背中を預けてた? 一郎の隣に立ってた? 広い東都の中で、なんであいつという人間を選んだ? 一郎のすべてに蓋をしようとしている己に喝を入れて、空却は必死に時間を巻き戻した。
――「空却」
やっぱり、むかつく。ちがう。腹が立つ。なんであんなやつと一緒にいたんだ。ちがう。頭が湧いてた。時間の無駄だった。一郎は、なんも悪くねえ。あいつといたのが間違いだった。間違ってたのは拙僧だ。なんで、あのとき拙僧は一郎に拳を向けた。友だと心から思ってたのに。むかついたから。うるせえ。なんでだ。なんで、なんで、なんで――
――「バイバイ……」
……あの、とき
巻き戻した時間の中、“あのとき”の場面で一時停止をする。何度も何度も映像を見返して、思い出す。自分がされたことをこの歯で噛み砕いて、すべて飲み込めるまで。
あれだけ鬱陶しかった頭痛が止んだ。体の中でくすぶっていた靄がさっと晴れて、空却の目に光が戻る。
「(あいつだ……)」
あいつ……あのピンク頭が、あのとき、なにかしやがった。見たことのないマイクを使って、規格外の威力で精神の奥底にあるものにはたらきかけた。なんだあれ。ふつうのマイクじゃねえ。いや、今となっちゃあ、そんなことはどうでもいい。
あのふざけた男に向ける憎悪と同じくらい、あの場に置いてきた一郎に対する感情が押し寄せる。取り返しの、つかないことをした。己の弱さ故に、一郎を傷つけてしまった。
今すぐ東都にとんぼ返りして、土下座でもなんでもして、一郎に詫びたい。いやだめだ。そんなちんけなことをしてなんになる。今の状態のままでは、もしも今後同じことがあった時に己に勝てない。成長もクソもねえ拙僧と対峙して、一郎が拙僧の詫びを受け取るわけがねえ。
頭が半生分回転している気分だ。考えることが多すぎる。思考が深底に沈みそうになるところで、空却の下にある塊がもぞもぞと動いた。
「ん、んん……っ」
小さな呻き声がして、我に返った空却は腕の力を緩める。を抱きしめたままだったのをすっかり忘れていた。
を解放すると、ろくに吸えなかったであろう酸素が彼女の体に入り込んでいく。その証拠に、風船のようにぷうっと膨らんだの体。それを見て、申し訳ないことをしたと空却は思った。
「わりい。平気か」
「ぅ、うん……ッ。だいじょうぶ……ッ」
裏返った声では言う。よほど息苦しかったのか、顔は真っ赤だ。頭を撫ですぎて乱してしまった髪を指で梳かしてやると、さらにの体が強ばった。
なんだ、痛かったか? 初めて触れる小動物のように力加減に迷いながら手を動かす。じきにもされるがままになったので、これでいいのか、と空却は加減を学習する。
の髪が整って、どちらからともなくお互いに体を離す。すぐに逃げてしまったの体温がすでに名残惜しい。もう一度抱きしめたいが、次こそは窒息させてしまうかもしれない。空却が一人で悶々と葛藤していると、が照れたように口を開いた。
「ひ、ひさしぶり……だね」
「おー」
……沈黙。は言葉を探すように、視線をあちらこちらに散らかした。
「あ、あのね」
「ん」
「空却くんに会ったら、言いたいこと、たくさんあってね」
「おう」
「その、えっと、今日会えるって思わんかったのと、空却くんのこと見たら、安心して、ぜんぶ忘れてまった……」
たどたどしく、それでいて一生懸命に口をぱくぱくと動かす。最後に、えへ、と困ったように笑ったを見て、胸にさくっと刺さった何かがあった。
突如襲われた窮屈な感覚に、空却の顔がぐっと強ばる。「ど、どうしたの……?」「なんでもねえ」なんだこれ。空却は服の上から胸を抑える。もう一度を抱きしめたら治る気がする気がして手を伸ばそうとしたら、が続けて口を開いた。
「空却くん、もうずっとナゴヤにいる……?」
「あ? あー……そーだな。しばらく離れる予定はねーよ」
「ほんとっ?」
「おうよ」肯定すると、は「そっかあっ」と嬉しそうにはにかんだ。再び胸に刺さったものを無理やり引っ張りだした空却は、怪訝な顔で胸のあたりに手のひらをぽん、ぽん、と当てる。何も異常はない。つか――
「(背ぇちっせ……)」
を見下ろしながら、空却は改めて思う。自分の身長が伸びたせいもあって、目線を頭一つ分下にしなければと目が合わない。の背は中学の頃からほぼ伸びていないだろう。それでも、体つきや顔つきはたしかに大人のものへと近づいていて、なんとなく複雑な気分だった。
「んでお前、ここらへんでなんか用事でもあんのか」
「ううん。もう終わったから、今から帰ろうとしとったの」
「あー。なら電車か」
空却が何気なくそう言うと、の顔からさっと笑顔が消えた。
「空却くんは、電車じゃないの……?」
「おう。拙僧は金持ってねーから歩きだ」
帰る方向は同じだが、交通手段が別れてしまう。ここからカミマエズまで乗り換えも込みで駅三つ分だが、が一人で帰れるのか怪しいところだ。空却の中で、と電車という組み合わせは、ちょうどカヨが入院していた病院に通っていた頃で止まっている。
に金を借りてでも、一緒の電車に乗るべきか――空却がそう思った時だった。
「きょ、今日、わたし、定期忘れてまったから……一緒に歩いて帰ってもいいかな……?」
はもたつかせてそう言った。それを聞いた空却はぱちぱちと瞬きをする。なんだよ。定期忘れたのかよ。しかたねーやつだな。呆れると同時に、そんなところもらしい、とも思ってしまい、彼女を責める言葉は何も浮かばなかった。
「んじゃ行くか」目的地をの家に定めた空却は、さっそくの手を取る。するとすぐに、「ッ、え……っ」と裏返った声が聞こえたので、空却はを見下げる。なんだよ。
「はぐれたときに探すの面倒だろ。こんだけ人いんだからよ」
「ぇ……ぁ、あ、うん……ッ」
明らかに動揺しているは、力の入れ方を忘れたように、空却が握っている手をぷるぷると震えさせている。しばらくしたらようやくから握り返された感触があって、空却は良い気分になった。
それでも、はなんとなく居心地が悪そうに見える。歩き始めても歩調はゆっくりで、こちらがしっかり手を握っていないとすぐに離れてしまいそうだった。体調が悪いのか、それとも腹が減ってるのか。なんではそんなにも――
「(……あぁ、そうだ)」
こいつ……好きなやついるんだった。
空却は二年前のことを思い出す。空き教室にて、が想い人のことを話しながら笑い、そんなの幸せを願い、己の心に嘘をついた……あの日。すべて自分が選択して進んだ道だ。そのくせに、の存在を思い出すことを拒み、その忌々しい記憶に蓋をしていた。
昔のを今の彼女に重ねたとき……空却は都合のいい幻影を見た。
――「くーちゃん。あのねえ」
赤色のランドセルを追いかけて、空却がの隣に並べば、今日あったことを楽しそうに話し始める――それが、今はない。は黙ったまま下を向いている。そりゃそうだ。好きでもねえ男と、手なんか繋ぎたくねえわな。
しかし、今更この手を放すのもおかしな話だと、空却は思った。なので、やだ、と。はなして、と。はそう言われたら、放そうと思った。しかし、の口からそんなような言葉が紡がれることはなく。結局、彼女の家に着くまでお互いの手が離されることはなかった。
寺に帰れば灼空に小言を言われるかと思ったが、最初に投げかけられた言葉は意外にも「おかえり」の一言だけだった。不覚にもその場で固まってしまった空却は、「……たでーま」と素っ気なく返すのがやっとだった。久々に会った家族への挨拶の声が少し小さくなってしまったのが、とても情けない。
そして、空却は帰ってきたその日から修行に明け暮れた。初心に返る、というやつだ。己の精神を鍛えるため、いつの日かあの男と合間見えるため――それまでは、一郎とも連絡を取らないと決めた。今更何を言ったところで言い訳に過ぎないし、弱いままの自分が何を言っても無駄だからだ。今よりも心身ともに強くなることが、一郎への一番の詫びだと空却は考えた。
――そうして、ナゴヤに帰ってきてから一ヶ月が経った日のこと。空却は自室の畳に寝転がっていた。
「(くッそ暇だな……)」
修行はどうした、と今の光景を見た灼空が言いそうな言葉だが、さすがに帰ってきてから今日に至るまで同じ日の繰り返しだとマンネリ化もする。空却は短期集中型である。イケブクロにいた時は刺激が猪のごとく突進してくる毎日だったので、今とのギャップを受け入れるまでまだ時間がかかりそうだ。
おつとめも終わったし、時報の鐘も鳴らした。あとやることといえば――と考えたところで、空却はぴんと閃いた。
「(でも迎えに行ってやるか)」
今年で高校三年生のだが、この時期は授業カリキュラムもほぼ終わっているので、早く帰れるのだとこのあいだ言っていた。部活も引退しているので、帰りの電車も大体決まっているのだとも。
ちょうど小腹も空いているので、を迎えに行きがてら、帰りに団子を食べて帰ってもいい。そんなことを考えながら、空却の体はすでに自室から出ていた。自分を見つけるなり、驚いた顔をするを想像したら、足取りも自然と軽くなった。
オオスの駅の目と鼻の先にあるカミマエズ駅。だだっ広い駅構内を歩きながら、空却はが降りてくるであろうホームに向かった。
もちろん、自分が迎えに来ているなどが知るわけもない。なぜなら空却はの連絡先を知らない。中学までは家の電話だけで事足りていたが、今となってはお互いに生活スタイルも違うので、地味に不便だ。会ったらすぐに、にスマホの番号を教えてもらおうと思った。
――《三番ホーム アカイケ方面 トヨタ市行きがまいります 黄色い線まで――》
機械的なアナウンスが流れる。ホームにやってきたのはシルバーのボディに青色の線が施された電車。ドアが開いた時にホーム全体を見渡してが出てきているかを確認しようとしたが、偶然……ほんとうに偶然、ちょうど空却の目の前に止まった車窓付近からの姿が確認できた。
お、と空却は得意げな顔になって、噛んでいたガムを紙で包む。しかし、ドアが開いてもが電車から降りる気配がない。たしかに人が多くて出にくいのは分かるが、微動だにしていないのはさすがにおかしい。じっと俯いていて、何かに耐えて体を固めているようにも見えた。
「ったく……なにやってんだよ」
ひととおり乗客が降りて、それと入れ替わるように点字ブロックの前で列をつくっていた人々が電車に乗り込む。発車ベルとともに電車のドアが閉まる寸前で、空却は電車に飛び乗った。
車内に入ると仕事終わりのサラリーマンやOLっぽい女性、あとはのような学生がちらほらといる。そんな中、「失礼すんぜ」と周りに声をかけながら、空却はがいるところまで体を滑り込ませた。
がたん、がたん――動き出した電車が揺れる。乗客の体が進行方向とは逆方向に傾く中、空却は足裏で踏ん張る。そうやって、七人がけの座席の前――手すりもないところで立っているの肩をとん、と叩いた。
「おい、次の駅で降り――」
それ以上は、言えなかった。
俯いていたが顔を上げる。その拍子に目の中に溜まっていた水がだばっと溢れて、あっという間に彼女の頬を濡らした。
「は……?」空却の瞳孔がかっと開く。の顔を見た時、不自然にの背後にくっついていた男の存在に気がついた。座席の前に立っているにしては、明らかにの方へ寄りすぎていた。
不意に、空却はの腰から足のラインにすうっと視線を落とす。するとちょうど、そこにあっては不自然な……ごつごつとした手のようなものが、さッと離れたところで――
――《次は ツルマイ ツルマイ――》
アナウンスの声が遠ざかる。
真っ赤になった視界の中、空却はのスカートの中に入っていた男の手を握り潰すくらいの力で掴んだ。まずは、顔面に一発。男の頭が傾いたところで胸ぐらを抑え、さらにもう一発。明らかに顔を青ざめさせた男が身を捩って抵抗し始めたので、また一発、二発、三発――空却は血走った目で、男の顔面に向かって固い拳を何度も振りかざした。周りの乗客がどよめていることなど、お構いなしに。
「(気持ちわりぃ、気持ちわりぃ、気持ちわりぃッ!!)」
座席に座る人間に気づかれないように、男は持っていた荷物の影から手を伸ばしていた。そんな小癪な真似をしてまで、女の……の体に触りたかったのか。気持ち悪い。とても、気持ちが悪い。嫌悪と憤りが原動力となって、空却は力任せに男を殴り続けた。
ベルの音、ドアの開く音――電車が止まったことに気がついた空却は、床に貼りついて車内に残ろうとする男の首根っこを掴む。「おいてめえさっさと降りやがれッ!!」喉が裂けるほど怒鳴り、男をホームへ引きずり下ろした。その後、地面に横たわった男に馬乗りになり、再び拳を掲げ始める。
「おいなにやってんだッ!!」
雑音でしかなかった人の声が明瞭に聞こえる。それと同時に、後ろから不本意な力が肩に加わって、空却の首は斜め後ろに向いた。
数年ぶりに見るリーゼントの男――獄だ。なんでてめえがこんなとこに、とほんの少しだけ考える余裕があったが、それもすぐ目の前にある感情の渦に呑まれてしまった。
空却が構わず再び男に殴りかかろうとしたところで、獄の腕が伸びてくる。男の腹から降りさせようとする気だ。なにすんだ。やめろ。獄の力に抗った拍子にごりッ、と何か固いものを蹴ったような気がするが、今はそんなことを気にしている暇はなかった。
「ッ、放せやァッ!!」
獄を筆頭にして、今まで見ているだけだった通行人たちに囲まれる。大声で怒鳴り散らかして威嚇しながら、空却は頑なに男から離れようとしなかった。
ここで降りたら、こいつに逃げられるかもしれねえ。そんなことさせるか。歯が全部折れるまで、目が腫れて見えなくなるまでぶん殴ってやる。あんなことをしてを泣かせたこの男だけは、地獄の果てで魂が擦り切れるほどの苦痛を味わせてやらなければ――
「空却くんッ!!」
ホーム全体に行き渡った、声。それがのものだと認識したのは、自分の背中にどすん、と何かが当たったときだった。
「もぅ……もうぅ……ッ、いいよぉ……っ」
ぐずぐずになったの声を聞いて、頭から冷水を被った空却。胸に回されたの手が、スカジャンをぎゅうッと握りしめていた。
……燃え滾っていた怒りが、鎮火していく。みるみるうちに体から力が抜けていって、拳が重力に従って落ちた。その瞬間、獄によって男の上から引きずり下ろされる。背中に抱きついている、とともに。
空却の手は、男の血で真っ赤に染まっている。男は呻き声一つ上げずにぐったりと横たわっていた。そして、後ろには、怯えるように震えて、泣いているがいる。
「(……)」
瞳孔が少しずつ閉じていく感覚がした。自分の胸に回されているの手を見下ろして、血で汚れていない指だけをその上から重ねた。
嫌だったろ。怖かったろ。もう、大丈夫だぞ――心の中で、そうあやしながら。その時に流していたの涙の理由を、考えもせずに。
それから数分が経った頃。現場にやって来た警察によって事情聴取を受けている中、空却はにずっと腕を掴まれていた。これくらい痛くもなんともないが、にしては締めつけるような強い力で、少しだけきつく感じる。の指先が真っ赤になっていることから、かなり力を入れているのだと思った。
そんな中で、は口を閉じようとしない。目の前の大人たちに向かって、ああでもないこうでもないと喋り続けていた。
「空却くんはこの人をつかまえようとしとっただけですッ」
「」
「だからぜんぜんわるくないんですッ。わたしを助けてくれたんですっ。空却くんはやさしいんです……ッ。だからつれてかないでください……っ、つれてかんでぇ……ッ」
「、。もういい」
「あとは俺が説明する」同じく隣に立っていた獄が何度もを制して、そこでようやく声が止んだ。すると、は途端に体をしなっと小さくさせて、背中を丸める。今にも座り込んでしまいそうだ。その体を支えてやりたいが、この血だらけの手でに触れるのは抵抗があった。それもこれも全部、今さっき病院に運ばれたあの男が悪い。唾つけときゃ治るだろ。あんなん。
警察の事情聴取が終わると、次に向かわされたのは駅長室だった。今にも倒れそうなはパイプ椅子に座らされ、彼女を挟むようにして獄と空却が隣に立った。
幸い、痴漢をした男のスマホからは今まで盗撮していたわいせつな写真が溢れるほど保存されていた。そのおかげで、一時は“一般人男性に暴行を加えていた”と勘違いされていた空却の潔白もなんとか証明された。ただ、やりすぎであることに変わりはないらしいので、警察署へ連行されなかったのは獄の尽力がかなり大きい。
駅長室では一人の駅員が待ち受けていた。獄は被害女子高生の知人の弁護士、という名目で同席が許された。最初は外で待つよう獄に言われた空却だったが、拙僧も無関係じゃねえと押し切って、無理やり部屋に入った。
入室するなり、空却は駅員の男にものを査定されるように上から下まで見られる。なにやら文句ありげなその眼差しに眉を顰めるが、彼の視線はすぐに獄へ移った。
「男性に殴りかかったその子も同席するんですか?」
「拙僧がいちゃあなんか都合悪ぃのかよ」
「余計こじれるから黙ってろ空却」
を挟んで、獄にそう嗜まれる。“なにがあっても、なにを言われても、大人しくしていること”――それが同席を許された条件なので、動きたくても我慢した。その代わり、ちッ、と大きな舌打ちをすると、駅員は空却から逃げるようにして視線を外した。「あの……っ」とが事の発端からぽつぽつと話し始めてから、微妙だった部屋の空気が少しずつ変わり始めた。
の話す内容に、駅員は機械的にメモを取っている。空却に言わせれば、警察に話したことをもう一度駅員に伝えているこの時間が、かなり無駄だと思えた。正直、さっさと帰りたい。しかし、そのことについては「こんなまどろっこしいことになったのはお前が問題を増やしたからだ」と獄に言われたばかりだ。痴漢をした男に制裁を与えたことの何が問題なのか、空却には全く分からなかった。
……が話している途中で、メモを取っていた駅員の手が止まる。そして、口から出たのははあ、という大きな溜息。その後に、「最近多いんだよねぇ」と彼は呟く。への同情ではなく愚痴のような声色に、空却は最初の違和感を覚えた。
「スカートがやけに短かったりとか、制服のボタンがいくつも外れとったとか……。そんな格好で『痴漢されました』って言われても……ねぇ?」
濁された言葉は最後まで言われることはなかった。代わりに、ほんと参るわ、という言葉で締めくくられ、駅員はメモを取っていた手を再び動かし始めた。
……“ねぇ?” なんだ? 空却は目の前にいる人間が何を言っていたのか分からなかった。スカートが短い? ボタンが外れてる? 誰のことを言っている。はそこまで制服を着崩したりしていない。
なにより、を舐めるように見るその目が、空却は気に食わない。顔やら足やら胸やら……緊張しているはずっと膝の上でスカートを握っていた。そんなにじろじろ見んな。は見せもんじゃねえぞ。さっさとやること済ましやがれ。「それで、」
「いつから痴漢されとったの」
「ぃ、一ヶ月前が、最初で……」
「一ヶ月前ぇ?」
の言葉に被さるように駅員が声を上げた。その声に萎縮したは黙りこんでしまい、彼女の肩幅はきゅっと狭くなった。
しかし、空却もそれは初耳だった。一ヶ月前……ちょうど、自分がナゴヤに帰ってきた頃だ。
――「空却くんは、電車じゃないの……?」
二年ぶりに再会したあの日……少し挙動不審にも見えた。もしかしたら、その頃からもうすでに痴漢の被害に遭っていたかもしれない。
それならあの時、なんでなんも言わんかったんだ? なんで今日までずっと黙ってた? 空却が別のことで頭を回す中、外野の会話は進んでいく。
「そんな長いこと痴漢されとったんなら、車両を変えるとか時間をずらすとか色々できたやん」
「ぁ……」
「それは本人も試みたそうですが、同一人物に何度も遭遇して、気づいたときには背後をとられていたようです」
「なら女性専用車両に乗るとか――」
「ツルマイ線に女性専用車両はありませんよ」
の盾になるように、獄がここぞとばかりに口を出す。獄の隙のない発言に黙りこくった駅員はかちかちッ、とボールペンを不必要にノックしだした。
おい、これなんの時間だ。こんなクソみてえな話続くんなら早く帰らせろ。もはや顔面蒼白どころではないの顔を窺いながら、空却は獄を睨む。獄も獄で早く終わらせたいのか、の代わりに言葉巧みに説明を始めた。自分が同席して――ついでに獄もこの場にいて――よかったと思う。だけでこの場に座らせていたら、一体どんな尋問が繰り広げられていたか分かったものではない。
……そうこうしているうちに、獄の長すぎる話が終わる。「本人から聞いた話を交えて、ひととおりお話ししました」と付け足して。細かくかつ長すぎて質問する気にもなれない説明だった。駅員もさすがに途中から空返事だった。それが獄の狙いなのかもしれないが。「……んじゃあ最後に、」
「具体的にどんなことされたの」
もうすぐ終わる――この場の誰もがそう思ったことだろう。駅員のその発言で、場の空気がかちんと固まった。黙っていたも「ぇ……」と声が漏れていた。獄が足を一歩前に出したとき、その顔は先ほどまでの知性的なものとは違っていた。
「それは今ここで聞く必要があるとは思えません。同じようなことを、ホームで本人が婦警に伝えていました」
「警察は警察。うちはうちできちんと記録とっとかないといけないんですよ。そのための時間だったでしょ。今までのは」
「その内容を男性に言うのは抵抗があるかと――」
「抵抗もなにも……こっちは仕事でやっとることだもんで、抵抗されても困るんですけどねえ。……あぁ、口で言えんなら再現でもいいわ」
ついに獄の顔が崩れた。何言ってんだこいつ、と彼の雰囲気がそう言っていた。
再現――その単語がどういう意味か、空却でも理解できた。にとってのあの恐怖を、今ここでもう一度体験しろと言っている。DVD上映を楽しむような物言いに、こめかみの血管が焼けちぎれそうになった。
「ちょうど男性役もいることだし。……君、傍で見とったらしいから大体分かるでしょ?」君、という部分で駅員と目が合った空却。その瞬間、体の至るところで小爆発が起きて、衝動のまま一歩踏み出そうとすると、後ろから獄に腕を掴まれた。
「放せ獄」
「大人しくするって言ったろ……ッ」
「駅の人間がこんなにも頭湧いてやがるなんて思ってなかったんだよ……」
小声の会話をかき消すように、獄がわざとらしく咳払いをする。その後、法律の話も踏まえてなにやら難しいことを言い始めた。内容は一つも理解できないが、あれだけ横柄だった駅員の顔の血の気がだんだん薄くなっていくのだけは分かった。
……の浅い息遣いを見守っているうちに、獄の声が止んだ。駅員は雑な手つきでぽん、ぽん、と書面に判子を押している。まるで、さっさとこの場から去ってほしいとばかりに。今の駅員には、“関われば関わるだけ面倒な人間”という扱いをされているように見えた。突然態度を変えた彼に獄が何を言ったのかは、彼らのみぞ知るというやつだ。わざわざ知る必要もない。この部屋から一秒でも早く出られるのであれば、空却はなんでもよかった。
「……はい。そんじゃ帰ってい――」
「行くぞ」
つか再現なんかしんでも帰れるんじゃねーかよマジではっ倒すぞテメェ――そんな文句を言いたくなったが、馬鹿とはこれ以上同じ空間を共有したくない。なによりの心身がもう限界だ。
のスクールバッグを持って、その手を引く。が立った拍子にパイプ椅子ががたがたッ、と大きな音を立てた。危なっかしいので背負おうと思ったが、今はスカートだったのでそればかりは躊躇われた。獄もまた、駅員に背を向けたところだった。
「……これからは、些細なことで大人に迷惑かけんようにな」
部屋を出ていく間際――思わず振り返った空却が目にしたのは、頬杖をついてあくびをする駅員の姿。数時間前にあれだけ体の中が吹き荒れた後だというのに、空却の体の芯は再び発火した。
「てンめえ大人しく黙って聞いてりゃあふざけたことばっか吐きやがってッ!!」
「ばッ……! 空却っ!!」
空却は駅員の胸ぐらを掴み、そのまま地面と垂直に彼を持ち上げる。本能的に危機と察知した駅員が抵抗するが、空却は痛くも痒くもなかった。
「なにが“些細なこと”だッ! あのクソゴミ屑野郎に体触られたが悪いってのかッ!!」
駅員の体を前後に揺らして問い詰める。息苦しいのか、彼は顔を真っ赤にして空却の手を抑えている。いい気味だ。そのまま泡でも吹いてしまえ。
「空却くんッ……!」そんな時、震えた声で叫んだが、空却の腕を掴んだ。
「空却くん放したってッ! わたしが悪いから……っ! 駅員さんの言う通りだから……ッ!」
「なに言ってんだッ!! お前はなんも――ッ!」
悪くねえ――そう、言おうとした。それなのに、なぜか、喉の奥で言葉が停滞して、声が止まった。
泣きすぎて真っ赤になっていたの目の中から、せっかく止まった涙が、再び溢れ始めていた。
「もう……っ、なにも言わんでいいから……ッ」
は絞った声でそう懇願する。それが、空却の体の節々を錆びさせて、それ以上身動きをとれなくさせた。
脱力した空却の手から滑り落ちた駅員の胸ぐら。駅員が地面に崩れ落ちて咳き込んでいるうちに、「二人は先に出てろ」と獄が自分との背中を押しながら早口で言った。
半ば獄に追い出される形で、は泣きながら空却の手を引っ張って駅長室を出た。焦ったように。怯えるように。空却は、に連れられるがままになっていた。
おい。なんで、そんな逃げるみたいにすんだよ。あのクソ駅員に言いたいことの一つや二つあんだろ。お前、あんなこと言われて悔しくねーのかよ。何も言わんでいいって、なんだよ。なあ、なんなんだよ――疑問が疑問を呼び、今のが何をしたいのか、空却には分からなかった。
――そのとき。長年何かを支えるために耐えていた糸が徐々に焼け落ち始めていたことに、空却は気づいていなかった。
あれからまた二時間近く駅に拘束された。あの駅員は同僚の間でも難ありの男だったらしく、事情を説明した獄によりなんとか事なきを得た。
話を聞けば、仕事終わりで偶然自分たちと同じ電車に乗っていたという獄。このまま家まで送る、という言葉に甘えて、パーキングに停まっていた獄の車に乗り込んだ。最初は必要ないと思ったが、今のを見ていると、とてもじゃないが街中を歩けるような顔色をしていなかった。
ふらふらで、少しつつくだけで倒れてしまいそうな。何度も大泣きして、水分という水分を外に出してしまったらしい。途中、獄にペットボトルの水を買ってもらっていたが、それを両手で包むだけで――飲む気力もないのか――一度も口に付けようとしなかった。
空却の道案内により、の家の前に到着する。道の脇に車を停めた獄とともに、空却はを連れて車を降りる。
玄関口がある路地に入ると、昔と変わらず、数匹の猫が歓迎する。ねこちゃん、ねこちゃん、とはしゃいでいたあのが、今は彼らに見向きもしなかった。そんなを見て心配そうににゃあにゃあと鳴きながら足元に擦り寄ってくる。猫が障害物になって立ち止まってしまったが歩けるように、空却は猫たちを宥めながら進んだ。
今のに家の鍵を出させる気力はなさそうだったので、空却は上着の裏ポケットに仕舞ってあった合鍵を取り出す。これを使うのは二度目だ。ナゴヤを出る時にはもう必要のないものと思ったが、に返すタイミングもないまま今日まで持っていたのだ。
空却がそれを鍵穴に差し込むと、隣にいた獄がぎょっとした顔をした。
「なんでお前がこの子の家の鍵持ってんだ」
「昔渡されたんだよ」
いいだろ今はそんなこと。他に何かくだらないことを言われても無視しようと思ったが、獄はそれ以上何も言わなかった。
戸を引いて、開いた隙間からを先に入れる。久々に入ったの家は、ほとんど変わっていなかった。ものの位置も、匂いも、雰囲気も。仏壇にいるカヨに挨拶もしなければいけないが、今はが優先だ。
「この子の……の親御さんは」
「いねーよ。昔ばーさんがいたが、とっくにホトケさんだ」
この広い家で、は一人で暮らしている。こんなところで同情してもなんの意味もない。それを分かっている獄は、「……そうか」とだけ言って、スーツからスマホを取り出した。
「俺は後始末しておくから、二人は二階に上がってろ」
後始末――どのことを言っているのかもはや分からないが――今回のことについて色々とやることがあるのだろう。とぼとぼと二階に行ったの背中を空却が追おうとすると、「空却」と獄に呼び止められた。
「あのクソ駅員については俺がもしお前の立場でも同じことしてただろうから、お前は間違ってねえよ」
拙僧は最初からんなこと気にしてねーよ――心の中でそう呟いたが、実際出たものは「……そーかよ」という中身のない返事だけだった。今は、以外のことをあまり考えたくなかった。
洗面所で手に付いた血を洗い流した後。空却が二階に上がると、は部屋の真ん中で立っていた。座りもせず、寝もせず……何をしていいか分からない、借りてきた猫のように。
空却はそんなの手を引いて、壁際まで歩かせる。部屋の隅に座るように促すと、は足を畳んでちょんと座った。スカートのひだなどお構いなしに。
「水、ちゃんと飲んどけよ」
声をかけても、は微動だにしない。仕方ない、と空却はの手の中にあったペットボトルを奪い、ふたを捻ってやった。
「ほら」ふたの開いたペットボトルを手の中に戻すと、の黒目が微かに動いた。は水を一瞥したのちに、ペットボトルを傾けてようやくこくこくと飲み出した。再び垂直になった時には、水は半分以上なくなっていた。から溢れた、悲しみの水量だ。
飲み終わったがひと息ついた後、少しだけ顔色が戻ったように思う。「もういいんか」頷いたを見て、空却は再びペットボトルを奪ってふたを閉めた。
……それからは、特になにかするわけもなく、言うわけもなく。居心地がいいとは言えない空気が流れる。そのせいで、らしくない思考が空却の頭を巡った。
――「きょ、今日、わたし、定期忘れてまったから……一緒に歩いて帰ってもいいかな……?」
――「もう……っ、なにも言わんでいいから……ッ」
あのとき、が助けを求めなかった理由が分からなかった。あのとき、何も言うなと言った意味が分からなかった。
駅を出てから、ずっと考えていた。それだけ考えても、分からなかった。なんでだ、なんでだ、なんで――もしもあの日から痴漢に遭っていたのなら、話せるタイミングはいくらでもあったはずだ。なんで、は今日まで何も言わなかったんだ。
……違う。言えなかったんだ。は、自分のことでいっぱいいっぱいだった。助けを求める余裕もなかった。そうだ、そうに違いない。なあ、そうなんだろ。ふつふつと溢れる激情を抑えながら、空却は心の中でに問いかける。
が元気になったら……それから、理由をゆっくり聞いていけばいい。今は、が休める環境をつくるのが先だ。抑えろ。抑えろ。ランドセル背負っとったときも、中坊のときも……我慢できたんだ。いまさら、こんなんどうってことねーだろ。
「だいじょうぶ、かな……」
ぽろっと零れた、の独り言。鼻声が混じっていて痛々しいが、声が聞けたことで空却の胸が少しだけ空く。しかし、その言葉そのものの意味が分からなかったので、「なにがだよ」と聞き返した。
は、空却を一瞥してから、青白い唇をぼそぼそと動かした。
「うったえられたり、しんかなって……」
「は?」
訴えられる? 今回の被害者はだ。訴えることはあっても、誰かに訴えられる言われはないはずだ。はなんの話をしてんだ。
頭が混乱しているせいで、は言葉が上手く使えていない――空却がそう思ったところで、は続けて口を開いた。
「相手の、ひと……血だらけだったから……。もし……空却くんになにかあったら――」
「おい、おい。待て。黙れ」
突然変な方向に行こうとする話を止める。それ以上聞いたら自分の中でなにかがよくないことが起きそうで、空却は強制的にを制した。
「なんでいつのまに拙僧が悪いみてーになってんだ」
「ちっ、ちがうよ……っ。ひとやさんが説明しても、警察の人すごく疑っとったから――」
「元はと言えばお前が痴漢されてもじっとして何もしんかったからだろーがッ」
が表情をなくしたところで、空却ははっとする。自分が今言ったことは、あの駅員とほとんど同じだった。
余裕がないあまり言葉選びが上手くできず、ストレートなものをにぶつけてしまった。悪い、と。言いすぎた、と。空却がに謝ろうとした時だった。「そ、それでもっ……」
「あんなになるまで、たくさんぶつことないよ……ッ!」
きんッ、と耳鳴りがする。耳に入れてはいけないものだと本能がはたらく前に、の言葉が胸に刺さって、頭の奥に深く刻まれた。
……言い返された。に。人に言われたことに対して、うん、と肯定しかしなかったあのに。の言葉を受け入れた空却は、驚いて見開いた目をゆっくりと鋭いものに変えた。
「……お前、やっぱ拙僧が悪いって言いてえんじゃねーか」
「ち、ちが……ッ、そうじゃな――っ」
「あそこで拙僧が割って入らなきゃテキトーな駅に降ろされて、人目のつかねえとこに連れ込まれて、どうなってたか分かんねーぞ」
あの時、電車から降りられなかったを空却は知っている。人が多すぎたのか、怖くて足が怯んでいたのか、はたまたあの時だけ男に手を掴まれていたのか……真意は当事者たちしか分からない。
声こそ落ち着いているものの、を気遣える余裕は残っていない。一度流れ始めた土砂を止める方法を、空却は知らなかった。
「まいにち、電車、混んどったから……手、当たっとるのも……偶然かと思って……っ」
「偶然? 一ヶ月も体触られてたくせになに言ってんだ? それに時間と車両変えても同じ奴がいたんだろ。百パー故意犯じゃねーか」
「ほ、ほんとうに偶然だったら、その人に迷惑かかってまうから……。それに、中学のときも――」
途中で、しまった、と喉を詰まらせる。なにやら嫌な予感がして、空却はその先を急かした。
「……中坊のときがなんだよ」
は俯いて黙っている。じれったくなった空却はの両肩を引っ掴んで「言えやッ!」と声を張った。弾かれたように顔を上げたは、声を震わせながらたどたどしくこう言った。
「さ、三年生のときの、担任の先生に……頭とか肩、なでられたり……しただけ……」
……今、こいつなんつった? 三年の……担任の、先公?
こんなにも頭がぐちゃぐちゃにさかき回されたことは、今まで歩んできた人生において一度もなかった。空却はの肩を掴んだまま、こんがらがった脳内を整理するように言葉を放つ。
「いつの……いつの話だ」
「た、たぶん、三年生になったばかりの……。空却くんと……お話できんかったころ……」
「お前、それ、抵抗しんかったんか」
「せ、先生だもん……。そういう意味じゃな――」
「お前馬鹿かッ! あいつが学校来んくなった理由知らねーのかよッ!」
「知っとるよ……っ! 知っとるけど、わたしのときはそういうのじゃないと思ったから……っ」
そういうの――空却の中で、呆れを通り越したなにかにまで達する。昔から馬鹿で世間知らずだとは思っていたが、ここまでだとは思わなかった。
それに、した“だけ”? 体を触られたのに、“だけ”とはなんだ。怖くなかったのか。電車でを見た時には、泣いていたのに。あれは、怖かったからじゃないのか。嫌だからじゃ、なかったのか。
「(……だめだ)」
は、なんも分かってねえ。“そういうこと”について、なんも分かってねえ。
を一人にするべきではなかった。そして、これからはぜったいに一人にするわけにはいかない。自分が学校まで送り迎えすれば、痴漢に遭うこともなくなる。あと、家族のいないこの家に一人で住んでいるのもだめだ。に何かあれば、自分にすぐに相談できるようなところにいさせなければ。そうだ、この際寺に住まわせれば――
「空却くん……もう、お寺帰っとっていいよ……」
は、?
積み上げていた思考が崩れ落ちていく音を最後に、空却の耳は断片的にしかの声を拾わなくなった。
「あとは、ひとやさんがいろいろしてくれるって言っとったから――」ヒトヤサン? なんだそれ。中坊の頃は“天国さん”だったろ。なんだよ。急に親しげに呼びやがって。拙僧には、意味わかんねー時期に苗字で呼んで、よそよそしくなったくせに。
「もう暗いし、早く帰らんとおじさんも心配するかもしれんし……」なんでそこで親父が出てくんだよ。今回のこととなんも関係ねーだろ。今日一日こんだけそばにいたってのに、拙僧はもう用済みなのかよ。
「空却くん、ナゴヤに帰ってきたばっかりなのに、こんなことになってまって――」そんなことどうでもいい。拙僧は、お前になんもなけりゃあいいんだ。ふつうに学校通って、美味いもん食って、好きなだけ寝て、そんで――
「いっぱい……迷惑かけて、ごめんね……」
口角をひきつらせて、膨れた目元をなんとか細くしたその顔……赤の他人に見せる、愛想笑いなるものを浮かべた。それを見た瞬間、のことについて張り巡らさせていた想いが、ぐしゃッと踏み潰された気がした。
空却の中で、虚無が生まれる。大事に……ずっと、大事にしてきたものが、塵となって、跡形もなくなっていく。もう、この手の中にはなにも残っていない。今まですぐそこにいたは……昔のは、とっくに存在しないのだと――
――「くーちゃんがいてくれて、よかったなぁって」
……目が、覚めた。
「っ、ぇ――」
火種は腐るほどあった。
長年、体の中に溜め込んでいたものが燃え広がるまで、そう時間はかからなかった。ずっと重たいと思っていた胸には、すべてに対してぶつけるはずだった石ころが転がっていた。
気づいたときには、空却は元々掴んでいたの肩を強く押して、彼女を畳の上に倒していた。
「……さっきから、」
名前の付けられないほどの大量の感情が嵐となって、声が震える。自分が今、どんな顔をしているか分からなかった。
「さっきから……意味分かんねえことばっか、言ってんじゃねーぞ……」
の目の色が変わっていく。そんな変化さえもただ目障りで、空却はの肩を掴んでいる力を強くした。
「クソ野郎の汚ねえ手で体触られてなに笑ってやがる。しばらく会わねえ間に痴女にでもなったか」
早口で捲し立てると、の目が大きく開かれる。なにか紡ごうとした口から零れるのは、不安と動揺を帯びた息遣いだけだった。
気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。細い腕も、華奢な肩も、小さな唇も――他の男が、女としてを見る部分のすべてが気持ち悪い。
空却が知るは、もっと幼かったはずだった。昨日までランドセルを背負っていた気さえする。自分の後ろをひっ付いて回って、よく笑って、よく食べて、よく寝て、それから――
――「くーちゃん」
変わらなくてよかった。変わってほしくなかった。そうやって無邪気に自分を呼んでいた頃の、のままでよかった。
なんでこんなことになった。いつからこんなことになった。いつものそばにいたのは、拙僧だったってのに。の微々たる変化を素通りしてきたせいで、大事なものまで手から滑り落ちてしまった。
「く、くうこう、くん……っ」狼狽えたが宙に浮かせた両手が映り、肩から手を離した空却はその両手首を畳に押さえつけた。今となっては、その呼び名すら耳障りだ。
「毎日毎日あのクソ男に体触られてどんな気分だった? 気持ちよかったか? 欲情したか? なあ」
少し力を入れただけで、手首の小骨がぽき、と鳴る。の顔は苦しそうに歪むだけで、質問に答えようとしない。
なんで、あのときになんも言わんかったんだ。言ってたら、一緒に帰ってやれたのに。最初から、こんなことにもならんかっただろ。なあ、なんでだよ。なんで拙僧を頼らんかったんだ。なんで、なんで、なんで――ッ
「聞いとんだろうがッ!!」
溢れる疑問が爆発して、空却は掴んでいたの両手をどんッ! と畳に叩きつける。の顔が痛みを訴えていても、空却の手の力が緩められることはなかった。
「ごッ、ごめッ……なさ……っ」
「お前の安っぽい謝罪なんざ求めてねーんだよ……。欲情したかって聞いとんだが。拙僧の時間無駄にさせんじゃねえ」
理解の遅いに苛立ちが増す。迷子のように視線を散らかして、言葉にならないうわ言を漏らす。話が進まない。鈍臭いに、空却は大きな舌打ちをした。
「……くッそ気持ち悪ィ女だな。お前」
の目に水の膜が張った。彼女の黒目が揺れ始めてから、空却はの体に視線を移す。昔から、自分よりも小さなからだ。他の男が触れた、のからだ。汚い。穢らわしい。それを平気そうにしているも、同じくらい気持ちが悪い。
これだけ待っても、は何も言わない。質問の意味を理解していないわけがないから、そもそも耳が機能していないとしか思えなかった。なら――
「こんなお飾りだけの耳なんざいらねえよなあ?」
空却はの右耳のあたりに顔を落とす。それによって、上半身の一部がのものと重なり、手では触れられない体の内側がぞわぞわと刺激された。
小さな耳だ。普段は横髪で隠れているので、あまり見たことがないの一部。自分にも同じものが二つ付いているのに、どうしてのものというだけで、こんなにも特別に感じるのだろう。
心臓が痛い。怒りのせいか、ひどく興奮しているのが分かった。はあ……と息を吐くと、の体が震える。暴れられても困るので、拘束していた手を片方だけ放して、代わりにの頭を腕に巻きつけるように固定した。
「ッ、ひ……っ」
さらに距離が近くなって、耳の中に息が入り込んだのかもしれない。のくぐもった声が漏れる。謝ること以外の反応に気分が良くなって、空却の喉からくつくつと笑みが零れた。
それからずっと、空却はのにおいを嗅いでいた。いいにおいだ。の、においだ。乳くさいような、取り込んだばかりの洗濯物のような。ひどく、懐かしい気分になるものの中に、指の先まで痺れるような、なにか。これが、女のにおいというものだろうか。頭ががんがんとして、何も考えられなくなるこれを、誰にも知られたくないと思った。
ほしい。ほしい――自分だけの、証がほしい。の体に、心に。ちょっとやそっとじゃ消えないなにかを刻みたい。本能がそう急かすものだから、仕方がない。すべて、が長い時間をかけて蒔いた種なのだから、これは、仕方のないことだ。
「……声上げたら手首折るぞ」
下には獄がいる。叫ばれて面倒なことになるのは御免だ。空却が脅し文句を言えば、思っていた以上にの体から力が抜けたので、ほんとうに馬鹿だな、と呆れた。これから、何をされるのかも分かっていないんだろう。
――お前がずっと馬鹿で、のろくて、鈍いから、ああやって変なやつに目ェ付けられんだよ。そうなったら最後どうなるか……拙僧が、今から嫌ってほど教えてやる。
「ッ、ぅ゙っ……ッ!?」
口を開けて力任せに歯を合わせれば、ごりゅッと生々しい音がした。それを皮切りに、空却は同じ場所に何度も犬歯を立てる。
溢れ出る唾液をごくんと飲み込むと、鉄の味がした。血が混じっているのだから当たり前だ。それでもなお、このやわらかいものを噛むのが癖になってしまって、やめられない。噛みきらない程度に噛めば、軟骨がぐにゅ、と変形してはすぐに元の形に戻るのがとても面白かった。
ふうッ、ふぅッ、とは絶えず息を吐いて、時折耐えきれなかった声が零れる。それがまた小動物の鳴き声のようで、笑えてきてしまって、噛んで、食んで、舐めてを繰り返した。は抵抗しなかった。腕を折る、なんて言葉を本気にして、ほんとうに――
「(かわいいな……)」
従順な。自由を奪われた。今この瞬間だけは、自分のことしか見えていない。こうなることをずっと望んでいたこの心は、の存在をごくごくと飲み込んでいく。
――「おまえ、今おれのこと呼んだか」
――「う、うん」
――「くーこーくんって」
――「うん……」
ああ……そうだ。そうだった。ずっとずっと嫌だったんだ。あの頃から……ある日突然呼び方を変えて、遠慮がちになったが。
――「わたしっ、用事思い出したっ」
――「はああぁ? なんだよ突然」
――「ごめんね空却くんっ。わたし、先帰っとるねっ。あっ、よかったらさっきの子と一緒にカラオケ行ってこやあっ」
中学に上がったら訳の分からない理由で距離を置かれて、“波羅夷くん”なんて他人行儀に呼んで、拙僧よりも長い時間、あの野郎と過ごすが。
――「みんながいるときは、苗字呼びのほうがいいかなぁって思って……」
我慢していた。ずっとずっと我慢していた。がそう言ったから。がそうしてほしいと、望んだから。
「(それが……なんだよ)」
んなもん、知るか。拙僧は……俺は、人間だ。人間が、やりたいことをやって、欲しいものをほしがって、なにが悪い。
ごく、と喉を上下させる。耳の縁を舌の先でなぞると、がまた可愛らしい音で鳴いた。血にまみれた耳から顔を上げると、虚ろな目をしたと視線が交じる。
「(たまんね……)」
抵抗する力もなく、何も分からず、されるがままになっているが。背筋がぞくぞくとして、気持ちがいい。舌なめずりをした後に、口角が上がる。を拘束する手の力も無意識に強まった。
勝手に距離をおくが理解できなかった。自分をいの一番に頼らないが嫌だった。檻に閉じ込めていた獣がようやく名前を持ち始めても、何もかもが遅い。今更後悔したって、あの頃の時間は戻らない。
……なら、今は? 今は、何がしたい?
「(……いま、は)」
痺れた思考の中、のこめかみの、髪の生え際に指を差し込む。髪の毛で隠れてしまった顔が見たいだけだったが、はびくっと痙攣したように体を震わせた。
痛みのせいか、恐怖のせいか……はずっと震えている。せっかく飲んだ水がまた目から溢れていて、馬鹿みてえ、と思った。
のすべてを握っているこの状況に、たまらない優越感が空却の胸を満たした。
「(……いや、)」
まだ、すべてじゃない。
空却はの両手首を片手で拘束して、彼女の頭の上にまとめる。の顔は、次になにされるのかという憂色に染まっていた。
見たい。触りたい。嗅ぎたい。舐めたい。首も、足も、胸も――ぜんぶ。最初に自分が、“あと”をのこしたい。嫌な色をしている欲が体の中心からどろどろと溢れてきて、留まることを知らない。留める必要も、きっとない。
愚かで、無知で、あいらしい。俺は、何も間違ってねえ。馬鹿なが、最初から俺を頼ればよかっただけの話だ。これは、そういう単純な話だ。
「」
母親といい、教師といい――の周りには、ろくな大人がいない。が泣いている時に、親友も好きな男もいない。人に縁のないは、とてもかわいそうな人間だ。俺だけは、いつも傍にいてやらねえと。は生涯ひとりぼっちだ。
痛みは、もう与えた。あとは……心にも、恐怖を植えつければいい。女は、男に敵わないこと。“そういうこと”について、自分がどれだけ無知だったかということ。そうしたら、さすがのも、理解するだろう。
――そしたら、これからはまた……は俺を頼るようになる。
「お前……さっき、我慢すりゃあいいって、自分で言ったよな」
知らない男に痴漢されても平気だったんだ。それが十年来の付き合いの男に代わっても、大したことはないだろう。なあ、つまりはそういうことだろ。。
すでに水浸しになっているの頬に触れて、そのまま首筋に指を這わせる。すると、が身じろぎをしようとしたので大きな音を立てて舌を打った。それだけでは石のように固まるのだから、ほんとうに面白い。そうだ、あんま俺を怒らせんなよ。あとでひどい目に遭うのは、お前なんだから。
「今から俺になにされても……我慢しろよ」
そう言って、水の中に潜るように空却は再びの首筋に顔を埋める。そして、空いている方の手でスカートの中に仕舞われていたシャツを肌着もろともぐっと引っ張った。
「ぇ……、ッ?」が動揺した声を上げる。そんなことを気にも留めない空却は、制服の中に手を差し込んだ。あたたかい空気に包まれたの皮膚に、指の腹をすうっと這わせる。柔らかくて、滑らかで……ずっと触っていたい感触だ。の脇腹を撫でながら、自分の体がみるみる熱を帯びていくのを感じた。
「ひッ、ゃッ……? く、ぅ゙……ッ」
危険を察したらしいが、忙しなく動き始めた。なんだ、ふつーに抵抗できんじゃねーか。それを痴漢された時にもすりゃあよかったんだ。しかし、今はただ鬱陶しいだけなので、空却がその首に噛みついたら、「ぃ゙……っ」と声を上げて、はようやく大人しくなった。
二度と抵抗する気など起こさせないように、の首をがぶがぶと噛む。まるで、親猫が子猫にするしつけに似ている。さっきからの喉からすきま風の音がするが、空却は気にしなかった。
首元に付いていたリボンを引きちぎって適当に放り投げ、シャツのボタンを途中まで外せばクリーム色の肌着が露わになる。それの襟元を掴んで下にずらすと、の鎖骨と下着の肩紐が見えた。制服のジャケットと肌蹴たシャツ……そしての肌とのコントラストが背徳的で、空却は生唾を呑む。これを、今から自分の好きにできると思うと、心臓が高ぶって仕方がなかった。
「ぁ゙ッ、ぁ、ゔッ、ぅぅ……ッ」
どうせ……いつか、あいつにも見せんだろ。体も、心も、全部、差し出すんだろ。なら、これが予行練習だと思えよ。なあ……いいよな、。
空却が腹から上に手を這わせようとすると、が身を捩って抵抗する。口を大きく開けて、深い呼吸を繰り返している。力が弱い。抵抗すんならもっと本気出せよ。赤子かよ。そんなんじゃ、また同じ目に遭うぞ。
好きでもねえ男にこういうことされんのが、そんなに嫌かよ。あいつなら、こんな反応しねーのか。なにもかも受け入れんのか。なあ。
――「波羅夷だって、好きな子には笑ってくれとった方がいいでしょ」
――なんで。
なんで。なんで……あいつなんだよ。俺よりも……ずっとお前のこと見てきた俺よりも。なんで、なんで、なんで――ッ!
「ッ、なにされても我慢するんじゃねーのかよッ!!」
自分の中でタブーになっている存在を思い出して、激情が荒波になって押し寄せる。の手首を拘束していた手で肩を押さえつける。「ひ……ッ、ぅ゙う……っ」両手が自由になってもはただただ泣くばかりで、言葉という言葉を吐かなくなった。
涙やら血やら……の体液でぐちゃぐちゃになった顔を見ていると、新たな感情が湧き起こる。が平気だと言って流そうとしたことと、同じことをしただけだ。なんでだよ。俺だからか。あいつじゃねーからか。ならあの痴漢野郎とクソ教師はどうなるんだよ。俺とあいつらの何が違うんだよ。
「おいこっち見ろッ」
ひゅッ、ひゅッ、と荒々しい呼吸を繰り返すばかりで、は声に応じない。かあッ、と熱を上げた空却はの前髪を引っ張った。の呻き声はもう聞き飽きた。
「見ろよッ!!」そのままの頭を持ち上げる。の顔面にぶつけるように怒鳴ると、ぶくぶくに腫れ上がった瞼が徐々に上がる。白目は真っ赤に充血して、黒目との境目が分からなくなっていた。苦しそうにこちらを見るは、空却の知らないだった。
「俺は……っ、むかしっから……ッ!」
ずっと、見てきた。守ってきた。だから、もう、どこにも行くんじゃねえ。俺の傍から、離れるんじゃねえ。俺がいなけりゃ、なんもできんかったくせに。ガキの頃からずっと、誰が一緒にいてやったと思ってんだ。
の両手が頭の周りで浮いている。が、痛がっている。他の男なら、こんなことではきっと済まなかっただろう。もっともっと、は傷ついていたはずだ。股から血が出た時よりも、雷が怖くて泣いていた時も、カヨが死んだ時よりも、ずっと、ずっと――
――「くーちゃん……?」
そのたびに、早く大人になりたいと願った。ああ、ほんとうに今、大人になれてよかった。これからは、一人でを守れる。なんでもできる。なんでもしてやれる。迷子にならないように手を繋いでやって、好きなものを食べさせてやって、ずっと、隣で笑って――
――「すきって、伝えられるだけで……知ってもらえるだけで、いいんだぁ」
……それ、なのに。
許さねえ。許さねえ。許さねえ――を傷つけてでも、あいつから奪ってやる。は、俺のもんだ。誰にもやらねえ。の意思なんざ知るか。あいつのことなんか忘れるくらい、俺が、のことを、ずっと、ずっと――
自分が見ていた景色以上のものを、他の男が奪う。の隣を、が特別だととってある場所に、他の存在が入り込む。
それを……それを、は、あんな顔で……あんなにも幸せそうな顔で、これ以上何もいらないとばかりに、その場所に立つ……自分以外の他の男に笑いかける――
「ッ、お前なんかっ、大ッ嫌ェだ……ッ!!」
……瞬きを、する。
魂が体からすうっと抜けていったかと思うくらい、体が軽い。やっと、楽になれた気がした。長い間、胸に蓄積していた重石が消えている。重たい重たいと思っていた胸の奥のところはすっからかんだ。おかげで今、とても息が吸いやすい。
空却はゆるゆると息を吐く。きつい炭酸飲料を飲んだ時と同じくらい、世界がとても広く感じた。まるで、長い悪夢から目が覚めたような――ずっと意識はあったはずなのに、一言では説明しきれない不思議な感覚だ。
全身から力がすとん抜けたとき、手の中からごんッ、と何かが落ちる。手のひらを見ると、細くて黒い糸が数本指に絡まっていた。なんだ、これ。それをぼんやりと見つめていた空却がぱっぱっと手を払うと、それはちぎれた羽のようにゆっくりと畳の上に落ちた。
……今まで、なにをしてたんだったか。ああ……そうだ。に、なんかしてやらねーと。今日は色々あって疲れてるだろうから、布団でも敷いてやるか。いや、その前にメシか。もし外に出れる体力があんなら、なんか食いに行ってもいい。ガキの頃よりも、できることが増えた。今なら、の好きなもの、なんでも食わせてやれる。腹が膨れりゃあ、多少元気になるだろ。が好きな天むすの店、何時までやってたっけな。
――ぱち、と。空却はもう一度、瞬きをする。ふいに下を見ると、はそこで寝転がっていた。
「?」
どうした。そう呼びかけても、応答がない。顔の半分は乱れた髪の毛で見えなくなっており、の両手はなぜか口を抑えている。
、――空却が何度も呼びかけても、返事はない。
――「なあに?」
幻影のが、代わりに答える。ちがう、今はお前じゃねーんだ。空却は現実にいるの肩に触れる。すると、途端に自分の手ががたがたと震え始めて、なんだこれ、と空却の中で動揺が走る。そこで、震えているのは自分の手ではなく、の肩であることが分かった。
――ぱちん、と。空却はもう一度、ゆっくりと、瞬きをした。
「……は、」
そこは地獄だった。
の顔の横には血の池ができており、池で留まらなくなった血は畳の目の隙間に入り込んで川のようにいくつも分かれて流れている。言葉をなくした空却はの髪を退かして、彼女の右耳を見る。見るも悲惨な傷跡から、赤い血はだらだらと溢れている。そこでようやく、自分の口の中がやけに鉄の味がすることに気づいた。
――「くーちゃんっ」
声が遠ざかる。在りし日の記憶が壊れていく。最後に見た、の笑顔が思い出せない。無邪気に名前を呼ばれていた声が、思い出せない。
――ひゅッ と高い音がする。空却は我に返った。両手で抑えているが口から、とても、嫌な音がしている。
「、っ。息吸えっ! ちゃんと吸えッ!」
の両手を掴んで、口を抑えているその手を無理やり引き剥がす。深海から上がったようにが口を開けると、ひゅッ! ひゅッ! と異常な呼吸音が部屋を満たした。上半身全体が呼吸器になっているように、の体は大きく膨れたり萎んだりしている。
は……ッ? 空却は目の前で起きていることを断片的に確認する。が息を浅く吸って吐いているせいで、いつまで経っても苦しそうにしていること。閉じているはずのの目から涙が滲み出て、目尻から流れ落ちていること。が泣き止まないこと。の口から変な音がすること。の耳から粘着質な血がどろどろと流れていること。さっきから……その血がいっこうに止まらないこと。
「(手当てしねぇと……ッ)」
空却は力の入らない足で立ち上がる。何度もバランスを崩しながら、部屋をひっくり返す勢いで応急処置ができるものを探した。幸い、救急箱がすぐに見つかり、そこからガーゼを取り出しての耳に当てた。ただ、そのガーゼも薄かったので、それはすぐにの血で真っ赤に染め上がった。自分の血であればなんともないのに、のものとなるととてつもない焦燥感が全身を引っ掻き回した。
「……ッ、……ッ!」
空却は、さっきあったことを思い出せないでいる。なにを、言った。ひどい言葉を、たくさん言った気がする。気がする? 気がするじゃねえだろ、言ったんだよ。なにを? なにを言った? なにをした? 疲れて、傷ついたを、かたい畳の上に押し倒して、これでもかと言葉で責め立てて、耳と、首を噛んで、それから――
――「俺に今からなにされても……我慢しろよ」
の肌蹴た制服が目に飛び込んでくる。それを見た瞬間、背後から殴りかかられたような衝撃が襲い、空却の首はがくんッと下を向いた。
……拙僧だ。全部……拙僧がやった。なら、今、が震えてんのは、拙僧が……いるからだ。拙僧が……を、怖がらせてる。そう思って、空却はの名前を呼んでいた声を、止めた。
「(……)」
ひッ! かひゅっ! ひゅッ! 変な呼吸音は収まらない。涙も、止まらない。の両手は拳をつくって、その息苦しさに耐えていた。
空却の体が暴れ出す。なにかしたいと、しなければと……叫び出す。こういう時、空却はを抱きしめることしか知らない。幼いにしていたやり方しか、分からない。壊すだけ壊してその後は何もできない自分自身に対して、空却ははち切れんばかりの憎悪を抱いた。
許されようだなんて、思っていない。生涯、許さなくていい。今はただ、己の寿命を削るこの音を……の目から溢れる涙の止め方を、切に教えてほしかった。
――が落ち着いたのは、それから数分後。が自力で、呼吸を整えた。寝息に近い息遣いに変わるまで、空却はずっとの耳にガーゼを当てているだけだった。
あれは……なんだったのか。の体に、なにが起きたのか。今は平気なのだろうか。体は動かさない方がいいのか。なにか飲ませた方がいいのか――光の入らない目をしているは、ぴくりとも動かなかった。何も、言おうとしなかった。
――「体がね、動かんくなるの……」
いつかに、が言っていた言葉が過ぎる。が泣いたときには、傍にいると言った。傍にいて慰めるどころか、まさか、自分がを傷つける立場になるなんて、あの時は想像もしていなかった。
の有様を、改めて見る。柔らかな黒い髪はぐちゃぐちゃに乱れ、涙と血で所々固まって髪の束ができている。先ほど放した手首は赤く痕がくっきり残っており、時間が経てば青痣になるかもしれない。首には自分の歯型が何ヶ所もついていた。右耳については……もう、言うまでもない。
絞れるくらい血を吸って使い物にならなくなったガーゼを耳から離す。時間が経って固まった血が接着剤となって、空却の手の中でガーゼがくっついていた。それをべりッと剥がした空却の手は真っ赤だ。血だらけだ。全部、から流れた血液だ。
謝って、済む問題ではない。済ましてはいけない。到底、許されることではないことを理解して、空却は痛みでガンガンと打ちつけられている頭で、考える。懺悔や後悔をすべて後回しにして、自分が今すべきことを、必死に考える。
「(医者にみせねぇと……)」
まずは、病院に行かなければ。の耳を噛んだ時の感覚を思い出して、空却は歯の隙間から息を吐く。きっと、肉まで抉れている。それぐらい力いっぱい噛んだ自覚があった。
耳から垂れていた血は固まって、赤茶色に変色している。ひとまず、ひどいことになっているの顔をティッシュで拭く。は電池が切れたようにされるがままだった。目からは新しい涙が断続的に流れてきていて、空却はそれも一緒に拭った。
次に、ガーゼを新しいものに代える。の手を取り、それを持たせて自分で押さえるように誘導した。まるで、マネキンを操っているようだ。実際、の手は指先まで青白く、しんだように冷たかった。
「……獄んとこ、行くぞ」
情けない声だ。それでも、伝えることは、伝えなければ。今から獄に車を出させれば、近くの病院まで数分で着くだろう。
獄の名前を聞いて、が微かに反応する。しかしいっこうに立ち上がる気配がなかったので、空却はの上半身を起こして、自ら立つように促す。すると、はじきに足を曲げて、畳に足裏をつけた。立ち上がるまでに何度も倒れそうになったを見て、こうしたのはお前だ、と誰かに指を指されている気がした。
その時、の肩から制服のジャケットとシャツがずり落ちる。空却はとても嫌なものを見たような顔で、スカートの中にシャツの裾をぎゅっと押し込み、肌蹴たシャツのボタンを一つずつ上から留めた。空却が触れるたびに、真っ白なシャツが血で汚れていく。部屋の隅に落ちていた留め具が壊れたリボンは、拾い上げて上着のポケットに突っ込んだ。
空却はの歩調に合わせて、獄がいる下の階に降りていく。は大人しくついてきたが、その足取りは大きな鉛でも巻き付けているかと思うくらい、とても……とても、重たかった。
は、その日のうちに獄が病院へ連れていった。その時に空却は同行せず、一度寺に戻って灼空とともに病院へ向かった。前もって獄から連絡を受けていたのだろう。空却が帰ってくる時には、すでに灼空は正門の前に立っていた。
病院に着くと、の右耳には分厚いガーゼが当てられており、頭にはそれを固定するように斜めに巻かれた包帯があった。獄の隣で棒人間のように立っていたは、自分たちを映した途端目を見張った。しかし、よくよく見ればそれは自分ではなく、なぜか隣の灼空に向けられたものだった。
「ちょうど今、施術が終わったところです」獄が灼空にの診断結果を伝えている。軽度の貧血、縫合は四針――あとは酸素濃度の値が少し低いという話を聞いて初めて、空却はあの呼吸音の正体が過呼吸と呼ばれるものだと知った。
なにがあったのか聞いても、は何も言わないのだそうだ。事情が説明できるまで、ひとまずどこかに座ろう――獄と灼空が、そんな話をしていた時だった。
「空却くんは、わるくないです」
はっきりと、は言った。髪はまだぐちゃぐちゃで、目元は痛々しく腫れて、シャツには所々血痕が残っているのに、は、鮮明な声でそう言った。
「は……?」空却の口から漏れた、乾いた音。は構わず続けて言った。
「わるくないです」
「おいお前――ッ!」
「わるく、ないです」
空却が制しても、は一瞬怯んだだけで、わるくない、わるくない、と連呼する。そしてが灼空と向き合うと、あろうことか彼の足元に跪いた。
「空却くんは、なにもわるくないから……おこらないでください……」
おねがいします、おねがいします、おねがいします――駅のときと、同じだ。あの時は上手く頭がはたらいていなかったが、今なら分かる。
「(……なんで、拙僧がに守られてんだ)」
今までずっと守る対象だったに、こんなことをされたことが惨めで、屈辱的で。でも、の右耳を見たら、口を挟むこともできなくて。空却はただ、泣き崩れているを見つめながら、潰れるくらい奥歯を噛み締めることしかできなかった。
――病院の長い滞在を経て寺に帰るなり、灼空から叱責を食らった。
「女の子にあんなことをして、恥ずかしくないのか」
廊下に上がる間もなく、庫裏の玄関先で灼空は言った。怒鳴り散らかす父親の声は聞き慣れているが、こんなにも怒りに震える声はめったにない。彼が主語を濁すくらい、大まかなことが空却の頭に過ぎる。それはもう、様々なことだ。今日一日だけで増えた罪の数は数え切れない。
なにがあった、と。灼空は病院でに問いかけた同じ質問をする。は泣いて許しを乞うばかりで話にならなかった。今頃は、獄が再び家に送り届けている頃だろう。
「……耳を、噛んだ」
「それだけか」
きっと、灼空は察しがついている。の首元にあるはずのリボンがなく、ボタンの周りに付着している血も不自然だ。こうしているあいだも、の血の色が頭から離れない。口の中を満たす鉄の味が、歯に残る肉の感触が……とても気持ち悪い。
は、今日味わった痛みをずっと抱えていかなければいけないのに。自分は、水で洗えば取れるものばかりを気にしている。空却は、この期に及んで自分がしたことを理解できないでいる頭に分からせるつもりで、口を開いた。
「……を、犯そうとした」
――強烈な痛みが頬に走る。脳みそが数センチほどずれた感覚がして、数秒間、目の前が真っ暗になった。
ぶたれた衝撃で空却の体は壁に叩きつけられ、立っていることもできずにその場にずるずると腰を下ろした。顔の、感覚がない。口の中には新たな血の味が広がった。
灼空にぶたれるのは、今までにも何度もあった。喧嘩も日常茶飯事だ。ただ……こんなにも失望した顔をする父親を見るのは、生まれて初めてだった。
「……しばらくの間、裏山の蔵で頭を冷やせ」
お前が出てきたら、ちゃんの家へもう一度お詫びに行くからな――が今日受け入れなかった謝罪を、もう一度しに行くらしい。に頭を下げて、それらしい言葉を吐いて……それでの痛みが、恐怖が消えるのであれば、何度だってする。しかし、いくら通ったところで結果は同じ様にも思えた。
頬に残る、痛みを持って。空却は庫裏には上がらずに、再び寒空の下へ出た。
裏山には、修行僧がよく利用する蔵がある。二畳にも満たない狭い空間の中には、釈迦の仏壇と薄い座布団が一枚あるだけだ。中学の時に、ここで何か月も籠って荒行を為した。こんな理由で再び世話になるとは、あの頃の自分も想像していなかっただろう。
秋でも夜中は冷える。隙間風は容赦なく蔵の中へ吹き込んできて、別の意味で頭が冷える。もちろん暖房器具もないために、蔵に入ったその日に指先の感覚はなくなった。手足の指が取れそうになっても、空却は構わずに仏壇の前で坐禅を続けた。
時折運ばれてくる水と食料を口に運びながら、己の心と向き合った。そうしたところで、には何の償いにもならないことを知りながら。それでも、しなければならない。自分の中に、今までどんなものが棲みついていたのか、知らなければならない。
――「あっ、くーちゃん!」
最悪の第一印象から一転。雛鳥のように後をついてくるに、どんな感情を抱いていたのだろう。
――「くーちゃんがおってくれてよかったなあって」
ほんの少し……手を差し伸べただけ。空却にとってはなんでもないことでも、心からの信頼と感謝を、からもらった。その純粋無垢な眼差しがとても心地よくて、それから何度も、何度も、彼女の手をとった。
――「くーちゃんにすきなひとができても……いまみたいにしとってもいい……?」
が望むことは、なんでも良しと答えた。呼び名を変えられた時も、中学に上がった途端に壁をつくられても……の曇った顔を見たくないがために、心に嘘を重ねた。
――「じゃあ……わたしのよすがはくーちゃんだねえ」
は、俺が守ってやらねーと。親もいねえ。家族もいねえ。一人ぼっちののそばに、ずっといてやらねーと。そんなご立派な驕りを振りかざして、を振り回した。それを同情や憐憫という簡単な理由で片づけられるならば、との関係はもっと単純なものになっていたはずだ。
どこかで迷子にならないように。痛い思いをして、泣かないように。の足元にレールを敷いて、障害物が転がっていたらそれをどかす――しかしそれは、ほんとうにが望んでいたことなのだろうか。
――「くーちゃん」
……眼を、開ける。
胸中に刺さっていた錨は、今は解き放たれて水中を揺蕩っている。今までのものはすべて、善意ではない。噎せ返るほど濃い……どろどろとした人らしい欲。のためだ、が望んだことだ――そんな言い訳に似た理由をつけていたが、蓋を開けてみれば、すべて、自分の中で生まれたものだった。
それらには、独占欲や執着心という名前がついていたこと。それを生み出す原動力は、の心が自分に向けられているときに覚える優越感だということ。どこまでいっても自分本位な思考で、そこにの意思は伴っていなかった。すべて、空却自身が望んでやっていたことだ。
何日も何日もかけて、ようやく気づいた。気づいたばかりの時はこの期に及んで、人らしく、“認めたくない”と足掻いた。純粋にを助けたいと思った時も、きっとあった。傍にいてやらないとと思ったことも、きっとあった。しかし、からの見返りがなかったから――頼られなかったから、離れていったから――今、取り返しのつかないことになっているのだと。空却はそう結論付けた。
この歪んだ心を受け入れるには、と今まで過ごしてきた時間以上の時間がいる。それと同時に、と繋がっている糸も断ち切る必要がある。二度と、にあんな思いをさせないために。この果てのない感情を見て見ぬふりをするよりもそちらの方がきっと、仏の皮を被ったこの獣からを守れると思った。
秋色に彩られたナゴヤの街を歩く。H法が施行されても、街中の雰囲気はあまり変わりはない。風の噂では中王区に移住する女性が増えたと聞くが、男の空却には関係のない話だった。
とは、しばらく会っていない。数日間に及ぶ蔵篭りを経て、の家に行ったのが最後だ。同行した灼空は血で汚れた制服代や治療費などのことを話したが、はいらないです、と首を横に振った。いくら灼空が言っても、は聞く耳を持たなかった。昔から、人が言うことに素直にうんうんと頷いていた彼女とは思えないくらい、頑なだった。
――《受け取ったら、空却がやったと自分で認めることになるからだろ》
その話を獄にしたら、そんなことを言われた。誰が悪いかなど火を見るよりも明らかなのに、最後の糸を信じるように、は必死でそれを守っている。
なんでそんなことをする、と言えば、《そのくらい自分で考えろ。今回の件に関しては、俺はの味方だからな》とあしらわれた。てめえにのなにが分かんだよ――そう言う前に、電話は切られた。
「(寒ぃな……)」
もうじき冬が来る。オオスの商店街も今以上に忙しくなるだろう。目的もなく歩きながら、久々のナゴヤを見て回った。時折話しかけられる地元住民と会話を交わしているので、半ば挨拶回りのようになった。
途中で赤信号の横断歩道に差し掛かり、立ち止まる。元々人通りのない道路だが、よく大型車が往来するところだ。今も、空却の目の前でバスが目の前を横切った。小学生の通学路にも指定されているここに、いい加減時間の補助標識を立ててほしいところだ。
「(……あ?)」
最初は、もやかと思った。
空却の横からふらりと一歩前に出てきたのは、見覚えのある制服。と同じものだったから思わず横を向けば、それはなんと本人だった。
は俯きながら歩いている。赤信号の横断歩道に向かって、歩いていく。すぐ前から大型トラックが徐行もせずに走って来ているのが見えた。の足は、止まる気配がない。
「っ、なにやってんだッ!!」
パアアァァーーッッ――けたたましいクラクションが鳴り響く。咄嗟にの手首を掴んで後ろへ引っ張った空却。寸のところで後ずさったのすぐ目の前で、大型トラックが大きなエンジン音を立てて遠ざかっていった。
「トラック来とっただろーがッ!」
空却は小さくなっていくトラックを指さす。今まで亡霊のような佇まいだったが、ようやく顔を上げた。
――「ほんとだねえ」
小学生のが、今の彼女のすぐ横でふにゃりと笑うのを見て、空却ははっとする。違う。あの頃のはもういねーんだよ――未練がましい幻覚を見た空却は、僅かに顔を顰めた。
……まだ生きた心地がしない気分を、なんとか落ち着かせる。掴んでいた手首を放せば、は胸の前で掴まれた方の手首を片方の手でさっと覆った。あぁくそ……また、力任せにやっちまった。
空却が見下ろしていると、はこちらの視線を避けるようにして目を逸らす。相変わらず、何も言わない。すぐに走って逃げられるかと思ったが、はここから立ち去ろうともしなかった。
「……学校帰りか」
重々しい沈黙の末、空却が口を開いた。は僅かに顔を上げるが、やはり目線は交わらない。
「学校帰りかって聞いてんだ」
空却が再び言うと、熱いやかんに触れたようにの体が跳ねる。そして、小刻みに首を縦に振ったかと思えば、また背中を丸めて深く俯いてしまった。
そんなにビビることねぇだろ。ただ、聞き返しただけだろ。そう思ってから、もう、の中では自分は恐怖の対象になっているのだと察して、胸に開いた穴がさらに大きくなる。そうあれと望んでいた数日前の自分は、よほど頭が狂っていたと改めて思った。
の右耳を固定する頭の包帯は空却の視界に嫌でも入ってくる。全治一ヶ月だそうだ。傷が治っても、痕は消えるか分からないのだそうだ。すべて、自分ととの接触を嫌う獄から聞いたことだった。
もしも今……声を、かけていなかったら。あのスピードでブレーキを踏んでも、きっと間に合わなかった。そのままトラックに突っ込まれて、大怪我を負って、病院に運ばれて、最悪の場合――
「一人で帰れねーなら、誰かに付き添い頼むとかしろよ」
その先の想像をしたくなくて、空却は言葉を続ける。なるべく……柔らかく。を、怖がらせないように。
しかし、は無言のままだった。ナゴヤ駅で再会した時にが一人でいたのは、たまたま同じ方向から帰る友人がいないからなのだと聞いていたので、付き添いを頼めるような人間がいないことは空却も知っていた。それでも、何か聞かなければ気が済まなかった。
「……お前、彼氏いねぇの」
今まで触れたくなかったことが口から溢れた。すると、初めて人らしい反応を示したはびっくりしたように顔を上げて、「ぃ、いな、いよ……」と小さく呟いた。
「……なら、要に頼めよ。どうせ家も近えんだろ」
やっと、と目が合った。きっと要の名前を聞いたからだ。まだ告っていないのか、それとも失敗したのか――それすら、あまり考えたくない。そんなことよりも、体の内側からよくないものが溢れてくる感覚があって、胸をかきむしりたくなる。まるで、全身の至る所で拒否反応を起こしているような。嘘をつくのは……頭で考えたことを言うのは、頗る気分が悪くなるのだと空却は知った。
そして、なぜか微かに首を横に傾けたは目線をうろうろさせて、唇をほとんど動かさずにこう言った。
「のやま、くんは……地方の高校に、行ってるから……」
……あいつ今、ナゴヤにいねーのか。
の返答を聞いて心なしか安堵した自分を殴ってから、空却はふ、と息をついた。数日前の自分ならよしと捉える事実に、複雑な気持ちになる。ならば平塚はどうかと聞いたが、結局別の高校に通うことになった彼女は、今は大学受験で忙しいのだそうだ。あまり迷惑をかけたくない――の声色から、そんなメッセージが裏に潜んでいるのが分かる。
お前らダチだろーが。変なとこで遠慮してんじゃねえ。思うだけで、それは腹の中でくだを巻いた。今の状況をつくった自分は、の交友事情に対してとやかく言える立場ではない。
空却は考える。今のを一人で出歩かせる危険性、自身の責任、断ち切るべき縁――そのすべてを引っ括めても、答えは一つしか出てこなかった。
「明日から、拙僧が送迎する」
がさらに驚愕した顔をする。当たり前だ。傷つけられた相手に、朝と夕方に付き纏われるのだから。
しかし、それがあまりにもいき過ぎた反応だったので、言葉を詰まらせた空却は目に暗い影を落とした。
「……なら、帰りだけだ。毎日はしねえ。行けない日は連絡いれっから、校門の前で待ってろ」
朝は人通りも多く、不審者が出没する可能性も低い。それに比べて、これから日も短くなるために帰る頃には夜道になっている夕方の方が、きっと危険だ。
妥協点を見出すと同時に、に断る選択をなくす。少なくとも、包帯が取れるまではこうして付き添うのは義務だろう。こんなことを言っている時点で、また、の意志を無視している。を不自由にしている状況をつくったのは自分だ。前とは理由が違う。しかし、それすらも言い訳のような気がして、空却は吐き気がした。
「だから勝手に帰んじゃねえぞ。いいな」
ずっと黙っているに、釘を刺す。その恐怖心を利用してでも、空却はを付きまとう道を選んだ。
の目は、迷子のようにおどおどとした色になる。そして、じきにおそるおそる頷いたを見て、満足するどころか、また彼女の意思を縛りつけている自分に嫌気がさしてしまった。
一緒にいるだけで、怖がらせると分かっていた。精神的に追い詰める行為だと分かっていた。しかし、また知らないところでが危険に晒されていると思うと、寺にいても体が走り出しそうになる。
だから……が望んでいなくとも。目の前からいなくなるよりはマシだと、そう言い聞かせた。それが、自分の最後の望みだと割り切って。その代わりに、包帯が取れたらもう二度ととは関わらないと決めた。
事前に、に学校の月間スケジュールを送ってもらい、その予定表にが登校する日にマーカーで印を打ってもらっていた(今の時期は、一部の生徒は自由登校なのだそうだ)。その写真を送ってもらうために、その日のうちにと連絡先を交換した。家の前の路地と思わしき場所で丸くなって寝ている猫のプロフィール画像が追加されたとき、こんな理由での連絡先を知りたくなかったと思った。
「(視線がうるせえ……)」
そして、来たる迎え初日。から聞いた学校の校門前で、かれこれ二十分は待っている空却。寺にいてもその風貌ゆえに注目を浴びることに慣れているが、下校ラッシュのために校舎から出てくる生徒は多い。気にならない方がおかしいが、空却はガムを噛みながら気を紛らわせた。
が通う学校は共学だ。共学ならば、もちろん男子もいる。自分の知らないところで男子と話しているを想像すると嫌気がさす。は鈍感だから、邪な感情を向けられても気づかないだろう。そもそもにはあいつが――と考えるとさらに苛ついた。
「(くそ……。まだかよ)」
勝手に起こした苛立ちをくッちゃくッちゃとガムにぶつける。完全にやつあたりだ。そもそも、たった今に言われた待ち合わせの時間になったばかりで、早く来すぎたのは空却だった。先に帰られる可能性も踏まえたゆえの行動だったが、過ぎた考えだったようだ。次からは時間通りに来ようと決めた。
校門から出てくる生徒がまばらになったところで、こちらに近づいてくる足音があった。空却が音のする方へ目を向けると、近寄ってきていたはずのが歩を止めた。
……空却は噛んでいたガムを紙に包む。目が合うだけでこれだ。これから先が思いやられる。
「……行くぞ」
どんな反応をされようと、空却は目的を果たすだけ。学校の最寄り駅はツルマイ線上にあるため乗り換えもなく一本で帰れるが、通いやすいからといって安全が保証されるわけではない。それは、このあいだ嫌というほど思い知ったはずだ。
空却が歩き始めると、背後からの足音が聞こえてくる。遅い。そして遠い。なにより、いっこうに隣に並ぼうとしないに気がついて、空却は振り向いた。
「おい」
隣歩けよ――すでにそう象っていた空却の口が固まる。振り向いた瞬間に、大石でも落ちてきたような顔をしたは、一歩……たしかに自分から退いた。そして――
「ぁ、あ、あし……おそくて……ごめんなさい……」
今にも泣き出しそうになりながら、一メートルほど後ろにいたはたったっ、と駆け足でこちらへやって来る。その距離は人ひとり分ほど空いていて、茫然とした空却はその空間を凝視した。
紡ごうとした言葉はたしかに頭の中にあるのに、それが喉元に達することはなかった。せめて、ちがう、と。そうじゃねえ、と……そう言えたなら。自分はこの見えない何かを飛び越えられたのだろうか。
……そんなことは、きっとない。してはいけない。生まれた溝の深さも一緒にから顔を背けた空却は、無言で歩きだした。
を学校へ迎えに行くことが日課となってから、気づいたことがある。
まず、が就活をしているということ。迎えに行くほとんどの日は家に直行するが、寄り道をする日もあった。目星をつけた企業の説明会に参加したり、面接を受けているらしい。そのことを聞いたら、初めて会ったあの日もメイエキにいたことも合点がいく。
やりたいことあんのか、勤めるとこはナゴヤに絞ってんのか――聞いたところでどうにもならないことばかりが頭を通り過ぎる。が入っていったビルの前で待って、しばらくしたらパンフレットを片手にビルから出てくるとともに家に向かう……空却には、その事実だけで十分だった。
「(なんだあれ)」
今日はサカエまで付き添っていた。の用事が終わって地下に潜ると、しばらく見ない間に地下がリニューアルされていた。おしゃれなフロアタイルとトレンドを押えたテナントが並んでおり、と同じ女子高生が店の前で楽しそうに買い物をしている。
クリスタル広場を通ってしばらく歩けば、テナントのジャンルが食べ物系に変わる。その中でもとある店が列を作っていた。
「(お握り専門店、ねえ……)」
その後に続く店名の看板を見た空却は、ふぅんと興味をよそへ流す。夕飯時ということもあってか、割引されたおにぎりがパックに詰められてずらりと並んでいる。オオスにも似たような店はあるが、サカエとあって店舗の外装はどこか品があった。
……ふと、空却は後ろのを盗み見る。すると、彼女もまた足を止めて、目の前のおにぎり専門店をじっと見つめていた。
――「ほいひぃ~」
オオスにある、天むすの店。そこのベンチに並んで座って、よく天むすを食べた。口いっぱいに天むすを頬張る。おいしいね、と自分に笑いかける。おにぎりの中で天むすがいちばんすきと言っていた、幼い。
……誰かに手を引かれるように、空却の足は店の前へ伸びる。ちょうど空き始めた列に並び、天井に吊るされる青白いモニターをカウンターの前で仰ぎ見る。そこに表示されているメニューの中に目当てのものを見つけると、「お決まりですか?」とにこやかに応対する店員に言った。
「天むす二個くれ」
会計を済ませて、天むすが入っているパックを受け取る。空却はすぐにカウンターの隣にあるイートインスペースに座るが、は何をしていいか分からず、テーブルの前に立ったままでいた。
「座れ」空却が端的に言うと、はすぐに向かいの席に腰をかける。紙袋に入った資料とスクールバッグを、背中に敷いて。見ているだけで座り心地が悪そうだ。
荷物の整理でもたもたしているを他所に、空却はプラスチックのパックを開けて、それをの方へスライドさせる。驚いた顔をしたが天むすとこちらを見比べたので、「食えねえなら持って帰りゃあいい」と言った。
しばらく天むすを見つめていた。しばらくしてからビニール袋に入っていたおしぼりで手を拭いて、いただきます、と小さな声で手を合わせた。
――「おいしいねえ。くーちゃん」
……食べているときのは、何も言わない。笑わない。目を、合わせない。嬉しそうに食べるどころか、眉をきゅっとひそめて、苦しそうに食べている。天むすを一口口に入れてごくんと飲み込めば、ふぅ、と息を吐く。そしてまた重々しく口を開けて、天むすを口に入れる……それの繰り返しだ。は、好物であるはずの天むすを機械的に咀嚼している。そこに、空却が望んだものは何一つなかった。
「(……なに、やってんだ)」
空却は、自分が未だににできることはないかと探していることに気づいた。未練がましく、そう思っていることに気づいた。厭らしい。浅ましい。にできることなど、今やっている行為の真逆のことだというのに。
長い時間をかけて、が天むすを一つ食べ終えると、もう一つはパックのまま申し訳なさそうにスクールバッグに仕舞った。それを無感情な目で見つめた空却は、椅子から立ち上がった。の準備ができるのを待たずに歩き始めれば、焦ったような足音が後ろから追ってくる。ついてこなかったら、殴られるとでも思っているかもしれない。
そんなことを思われるような、ことをした。そんなことを心の中で思っているかもしれないと……今のを見て、よく分かった。
を迎えに行って、一ヶ月が過ぎた頃。最後に迎えに行った一昨日には、包帯も取れていた。ただ、耳については――横髪で隠れてはいるが――あの時につけた痣が痛々しく残っていることだろう。
どのみち、頃合いだ。もう、と会うことはない。偶然会う可能性はあるが、わざわざ言葉を交わす必要もない。これから先は、檀家回りの時にの家の前を通るか、街で見かけたを遠目から見守るか……と名のつく事象に関わるとすれば、そのうちのどちらかだろうと。
「は……?」
就寝する前。突然光ったスマホの画面を見て、空却は目を見開く。通知で表示されているのは“が写真を送信しました”というメッセージ。本文を開けてみれば、来月の月間スケジュール表の画像が送られてきていた。
は? なんで。包帯も取れたんなら、もう一人で帰れるだろ――そこで、空却は理解する。あくまで、包帯がとれるまで迎えに行くと決めていたのは、自分の中でだけ。本人にいつまで、とは一言も言っていない。の立場からすれば、期限のない約束である以上、来月の分の予定も送るだろう。なら……それなら、まだ――
……まだ、との縁は、切れていない。
「やめろ……ッ!!」
我慢ならなくなった自己嫌悪を、敷布団の上に拳としてぶつける。一瞬でも、思ってしまった。また、の顔が見れると。悦んでしまった。またあの寿命が削られるような重たい時間が続いても、と共有する時間には変わりない。
空却は溢れた感情を嚙み殺して、前髪を握りつぶしているその手で片目を覆う。から送られてきたのは、その画像一枚だけ。たったそれだけのことで空却の中から生まれたものは、思わず目を背けたくなる……忌々しいほどの“よろこび”だった。
それからの一年は、生き地獄の日々だった。
ひと月、次のひと月、また次のひと月――が学校を卒業して、就職をしても、スケジュール表に代わってシフト表が送られるだけで、空却のやることは変わらない。ただ、日が暮れるたびに……憂鬱とはまた違う名前の胸の重みが、空却の体にずっとのしかかっていた。
冬の凍てつきも、まるで感じなかった。
桜の蕾がいつ膨らんで、花弁がいつ散ったのかも、分からなかった。
うだる夏の日。毎年けたましく聞こえていた蝉の鳴き声も、気にならなかった。
暖色に彩られる紅葉の色も、くすみ褪せた色に見えた。
といる時だけ、四季が巡っている感覚がない。すべての神経がに向けられて、彼女を送ったその日、寺に帰ってから、何度も気が狂うかと思った。
そんな中、世間の季節は無情にもうつりかわる。自分たちのところだけ、時間が止まっている。いつまでこんなことを続けるのか。いつになればこの未練は消えるのか。終わりは見えないが、着地点だけは、分かる。それを導にして、空却は色彩をなくした四季を永遠と繰り返す。
――「くーちゃん」
もう、迎えはいらない――の口から、そう言われるまでは。
ちかちかと眩しいイルミネーションに彩られた街中――あちらこちらで賑やかなBGMが聞こえてきて、街はすっかりクリスマスムードだ。この通り世間は浮かれているが、空却の心持ちはどんなイベントの前でも揺らがない。
と会うのは、時間にすればたった数十分。塵も積もればなんとやらで、その時間が解決してくれた蟠りはあった。必要最低限の言葉は交わすし、がぶつかりそうになれば体にも触れる。それでも、彼女との間には見えない溝があって、それを超える術は一年が経った今でもない。
が就職した場所は都市中心部の企業かと思えば、徒歩圏内の……近所にある喫茶店だった。以前、駆け込み寺ならぬ駆け込み喫茶店をした、あの店だ。こんなにも近いのであらば――さらに言えば電車に乗らないのであれば――迎えにいく必要性も下がったが、毎月決まった時期に届くシフト表の写真に従って、空却は寺を出ていた。寺の行事が重なる日以外はだいたい行っている。の気が、滅入らない程度の頻度で。
というのも、たまに夢に出てくるのだ。あの日のが……自分に組み敷かれたが、こちらを見つめている。怯えた目で。か弱い体を震わせて。不安と恐怖を帯びた、その口で――
――「ごッ、ごめッ……なさ……っ」
――どんっ、と背中に小さな衝撃が走る。「う……っ」と背後から苦しげな声がして、空却は後ろを見る。そこには、目を瞑って鼻を抑えているがいた。自分たちの前方には横断歩道があり、信号機は青から赤に点滅しているところだった。
空却が止まったことに気づいていなかったのだろう。鼻を抑えながら上を向いたと目が合ったが、彼女はいつも通り、すぐに俯いてしまった。
「ごっ、ごめんなさい……」
は、よく謝る。あの日から……いや、もっと前からか。昔と今のの境目が分からなくなり始めている。最近の空却は来たる時のために、から興味をなくそうとしていた。
大丈夫か、と飲み込んだ言葉の代わりに、「……ちゃんと前向いて歩け」とだけ言う。考えごとをしていたのか、すぐ横にある店を見ていたのか……大方、そのどちらかだろうと思ったからだ。ごめんなさい、と。背後でまた望んでいない謝罪が聞こえた。
今日は商店街を通っているからか、の足音が遅い。それに合わせて歩幅は緩めているが、本当に後をついてきているのか気が気でない。確認をしようと何度振り返ろうとしたか分からない。ただ、自分が振り向けばすぐに顔色を悪いものに変えるが目に見えたので、それもしなかった。人が多かろうが、の足音くらい聞き分けられる。こんなことを長いこと続けていれば慣れたものだ。
「く……空却、くん」
――心臓が波打つ。ばくばくと忙しなく動き始めた心臓の音をかき分けて、自分の聴覚を疑いながら空却は今度こそ後ろを向く。やはりそこにはがいて、珍しく、彼女と目が合っていた。
「空却くんは……ああいうの、どう思う……?」
が自信なさげに指を指した先へ、空却も視線を向ける。そこは、ポケット充電器やケーブルが売っているガジェットショップだった。
が見ているのは、店頭にあるとある商品。それそのものを理解するよりも、空却はに問いかけた。
「どう思うって、なにが」
「ぁ……ぇ、えっ、と……」
途端に、空中で言うことを探し始める。言えるまでいつまででも待ってやりたいが、やっぱりなんでもない、と言われるのは嫌だ。その言葉が、一番聞きたくない。
あれ、とが指さしたものは電子カイロというものらしい。空却は砂鉄が入った使い切りタイプのものしか馴染みがないが、USB充電ができるらしいそれならコスパも良いだろう。
「……便利かどうかってことか」
いっこうに言う気配がないを見かねて、空却が当てずっぽうに言う。すると、の目にぱっと光が灯って、「う、うんっ。そういうこと……っ」と首をこくこくと縦に振った。
信号が青になる。周りの人間は歩き出すが、空却は立ち止まったまま、その楕円形のボディをじっと見つめる。
「……まぁ、いんじゃねーの。使い捨てよか、何度も使えるもんの方が得だろ」
お前、あれほしいんか――その言葉を飲み込んで、代わりの言葉を選んだ。ほしいのかと聞いたところで、何にもならない。それならば、言葉通りの質問に答えるだけがいいと思った。
それはそれとして、が欲しいと言うなら、買う時間を待つくらいならできる。空却が今の流れのまま、買うのか、と聞こうとした時だった。
「そっかあ……っ」
質問に……答えただけ。たったそれだけなのに、空却が去年からずっと見たかったものが……そこにはあった。
からほろりと零れた笑顔はあまりにも自然で、あまりにもやわらかくて……空却は数秒固まった。は空却の答えを聞いて満足したのか、店に入ることなく顔を少し下げた。なんとなく、先ほどよりもの纏う雰囲気が穏やかなもののように感じた。
急に、体温が上がった気がする。体の中にこもった熱を逃がすように、深く、長く、息を吐く。再び赤になってしまった信号が憎らしい。いっこうに落ち着いてくれない心臓の音が煩くて、空却は新しいガムの封を開ける。それを放り込むやいなや、鼓動の音を隠すように口の中でくっちゃくっちゃとわざと大きな音を立てた。
本日も無事にを送り届け、すでに寝静まっている空厳寺に帰る。帰路の途中で思い出されるのは、今日見たの笑顔ばかりだった。
「(ああいう顔……久々に見たな)」
今までは、顔もあまり見れなかった。目が合ったら、が困るだろうと、怖がるだろうと思ったからだ。
庫裏に上がってからも、あの時の光景が頭の中で何度も再生される。結局、あの電子カイロは一体なんだったのか分からないが、知る必要はない。あんな些細なことでが笑うくらい嬉しいなら、それでいい。
「――おかえり」
床が軋む音とともに、重たい声が降ってくる。振り返ると、就寝用の和服を着た灼空が立っていた。
去年までならとっくに寝ている時間だというのに、彼は空却が帰ってくるまで律儀に起きている。こうして自分が帰ってくるのを待っているかと思うと、が関わることについてはよほど信用がないと見えた。それほどのことをした身の上なので、反論する余地もないのだが。
「たでーま」そっけなく返して、空却はその足で風呂に入ろうと脱衣所へ向かおうとする。灼空の横を通り過ぎようとしても、彼はいっこうに立ち去る素振りを見せない。こういう時は、何か話があるときだ。
「最近、ちゃんはどうだ」
そらきた――しかもよりにもよってのことだ。空却は足を止めて灼空と向き合った。
「どうだってなにがだよ」
「元気そうかと聞いているんだ」
「知らねーよ。ずっと俯いとって顔なんざいちいち見てねえ」
今日ばかりは違ったが――それをわざわざ言う必要もないと思い、空却は普段のをありのまま言う。そもそも、いつも後ろにいるからがどんな顔をしているなど分からないのだ。
すると、情けない、と言わんばかりに灼空は溜息をついた。
「ちゃんが何も言わんことをいいことに、いつまでも女々しいことをしおって……」
「あ゙!? 誰が女々しいだッ!」
「女々しいだろう。そもそも、迎えに行くのは包帯が取れるまでという話だったはずだが」
一年も迎えに行ってんの黙認しといて今更なんなんだよ――そう言い返したかったが、非がこちらに傾いている以上、なにを言っても無駄だ。空却も、ここ数年で身の振り方については多少学んでいる。が関係することに限って、だが。
それに、灼空が言っていることも当たっている。が何も言わないから、現状の綱渡りをずっと続けている。自分が送りたいから、こうして今もなお迎えに行っていることも。
……ああ、そうだよ。我ながら反吐が出るくらい女々しいことをしている。こんな関係は、今すぐにでも終わらせるのがいい。なによりのためだ。しかし、最初からそれができたら、今もこうして夜に帰ってきたりしていない。
「(くそ……)」
去年から何も成長していない己が見えて、空却は喉奥をぎゅっと締める。そのまま黙りこんでいると、「……話は変わるが」と灼空が静かに話を切り出した。
「年始、ちゃんにうちの手伝いに来てほしいと頼みなさい」
「はっ?」
思わず聞き返してしまいたくなかったが、はっきり聞こえた。実際、「巫女バイトを募集したが、今年は思いのほか集まらんくてな。ちゃんがいいと言えば、だが」などと言っている。おい、さっきまで縁を切れみてーなこと言っとっただろ。なんで真逆のことを言ってやがる。ついにボケたかクソ親父。
まぁ、それはそれとして――たしかに今年は年末年始の人手が足りない。空却も雑用係として今まで以上にきびきび動けと言われている。巫女というのは神社にいるイメージだが、寺巫女という存在を認めている寺も一部ある。空厳寺もそのうちの一つだ。
一度言われてしまえば、想像してしまう。空厳寺の寺紋付きの、赤と白の装束。正装をしてもそれらしい威厳はなく、ちんまりとそこに佇んでいる。肩についていたら髪を括らなければいけないので、髪を後ろで一つ結びにする。そして、うちの境内を忙しなく歩き回る彼女を――
「空却。今邪なことを考えて――」
「ねーしッ!」
思い浮かべていた残像が消える。顔が熱いのは外との気温差によるものだ。邪でもなんでもない。少し……ほんの少しだけ、似合わなくもないと思っただけで。
……いや、そもそもの話。に巫女職が務まるはずがない。
「足元はくそ寒ぃわ腹は減るわ、おまけに下手したら朝方まで徹夜だから、あいつとことん向いてねえぞ」
「ほう。ちゃんにそんな思いをさせたくないと」
「ちげーよっ! そもそもとろいがうちの参拝客捌けるわけねえだろーがッ」
「それはどうかな」
「あ゙ぁっ!?」
終着点の見えない会話にいらいらしていると、何か思うことがあると言わんばかりに灼空はふっ、と笑った。「私は先に寝る。お前もさっさと寝なさい」と、言いたいことだけ言って背を向けられる。「おいまだ話途中だろーがッ!」と空却が呼び止めても、彼が振り返ることはなかった。
「なんなんだよ……っ」
一人残された空却はぐしゃぐしゃと頭を掻く。最近、ようやくを見てもなんとも思わなくなったところでこれだ。自分の父ながら、何を考えているのかさっぱり分からない。
ただ……ほんの小さなきっかけができたのは事実だ。しかし、それがどうした。そんなことしたところで自分が過去にした過ちは消えない。んなことは一番、親父が知ってるくせに。
――「そっかぁ……っ」
……あんな顔、見なけりゃよかった。
肺いっぱいに息を吸って、どっと吐き出す。正直、気は進まない。しかし、誘わなかったら誘わなかったで、「腑抜け者」と灼空に罵られるだけだ。それだけは空却のプライドが許さなかった。
空却の記憶の中にいるは毎年寝正月だし、今年も初詣よりも睡眠を取るだろう。要するに、かなりの高い確率で暇を持て余している。そんな中、がどんな返答をするかは想像できない。断られたら、それで終わりだ。前進も後退もしない。また、と動かない時間を過ごす……ただ、それだけだ。
クリスマスイブイブ――世間ではそう言われている十二月二十三日だが、仏教徒である空却にとってはなんでもない日だ。
「(どこもかしこも賑わってんな)」
の仕事も休みのため、喫茶店まで迎えに行く必要はない。今日は気まぐれにオオス商店街へふらりと散歩に出かけていた。
店舗は入れ替わっているところもあるが、このカオスな雰囲気は昔と変わらない。都市中心部のような小綺麗な街もいいが、型に縛られずに自由に生きるこの街も好きだった。
――「じゃあ、わたしがくーちゃんのサンタさんになるね~」
……道ですれ違うサンタクロースのコスプレをしている人を見て、埃が被った記憶がまた蘇る。
とクリスマスプレゼントを交換していたのは昔の話だ。幼いは宗教のことをよく分かっておらず、よくクリスマスプレゼントを渡してきた。イエスキリストを敬う文化のない家系で育った空却がどうしたものかと困っていたら、「プレゼントのお礼ということでいいんじゃないか」と灼空が言ったので、それもそうだ、と空却からも渡すようになった。プレゼント、といっても、小学生の小遣いで買える程度のものだが。
その習慣は、いつからなくなったのか。小学生までは渡していた気がするので、おそらく中学からだろう。あの頃は色々なことがあって記憶が朧気だ。と口をきかない時期があったので、その頃かもしれない。バレンタインも、きっと似たような理由だ。鬼まんじゅうは長らく口に入れていない。
「(寒ぃ……)」
吐く息もだんだん白くなっていく。まだ十七時前だが、辺りはすっかり日が暮れていた。
おまけに、今夜は雨が降るらしい。だんだん雲も分厚くなってきたので天気が悪くならないうちに帰るか、と空却が寺へ方向転換した時だった。
「ありがとうございました~」
ちょうど空却が横切った店から声が聞こえる。それと同じくして、見知った身長の女が店内から出てきた。
だ――空却は息を呑む。数メートル離れたところで思わず立ち止まってしまったが、幸いにも彼女は空却に気づかず、手に持っている荷物の整理をしていた。
しばらくの様子を窺っていたが、連れも見かけないのでどうやら一人で買い物をしているらしい。にこにこと笑いながら、買ったものをリュックサックに入れている。よく見れば、その店はこのあいだ足を止めていたガジェットショップだった。もしかしたら、例の電子カイロを買ったのかもしれない。
「(あ……。おい)」
そのままが歩き出したところで、リュックサックのサイドポケットから何か黒いものがぽとっと落ちる。すでに背を向けて歩き始めたは、もちろんそのことに気づいていない。
行き交う人々に踏みつけられないうちに駆け寄った空却が拾い上げると、それは小さな巾着袋だった。
「これ……」
昔、小学生の頃に自分が作ったものだ。また、偶然にも同じ日にも家庭科の授業でほとんど同じものを作ったらしく、出来上がった巾着袋を帰り道に見せ合った。
「お前のやつのほうがでっかくていいな」――空却はが作った方の巾着袋が欲しくなって、こーかんしよーぜ、と申し出た。もちろんは、「いいよ~」と笑いながら同意した。空却はガム入れとしてその巾着袋を使っているが、まさかがまだこれを持っているとは思わなかった。巾着袋の中を見てみれば、そこには数個のあめ玉が入っていた。
こうやって人は物を落とすんだな――一周回って感心しながらも、やはり空却は呆れてしまう。とはあまり接点を持ちたくないが、これがなくて困るのはだ。普通に話しかけて、巾着袋を渡して、速攻立ち去ればいい。余計なことは言わずに。ただ、気ぃつけろ、と最後に付け足すくらいで――
「って、いねーしッ!」
空却が巾着袋から顔を上げたとき、忽然と姿を消していた。地面を蹴り上げてすぐ角を曲がれば、暢気にとことこと歩いているの後ろ姿が確認できた。
「おいっ――」
「すみませーん」
空却の声をかき消して、が惣菜屋に入っていく。タイミングを逃した空却はただその場で立っていることしかできなかった。くそ。今のあいつは食いもんのことしか頭にねえ。
……数分もしない間に店から出てきたは、袋を一つ増やしていた。頬をにっこり上げて、それをまたリュックサックにがさがさと入れている。せっかくの休みの日に一体なにをそんなに買い込んで――
……あぁ、なるほど。そうか。
「(聖夜の買い出しか)」
空却の予想は当たっていた。
クリスマス当日やイブは今日以上に混雑するだろう。となれば、地元民は今日のうちに買っておくのが吉だ。にしては賢いことをしていると空却は思った。
はそれからも商店街を歩きながら目に止まった店に入っていく。「ポテトサラダください」「チキン一本ください」「ショートケーキ一つください」「天むすのおにぎりください」――あっという間にの手は紙袋やビニール袋でいっぱいになった。天むすはクリスマスらしからぬものだが。
がさごそがさごそ。一つ一つの荷物は軽いにしても量が多い。見るからに重そうだ。が歩いているその姿は、メインが荷物か本人か分かったものではない。それでも、は目当てのものが買えてとても嬉しそうだ。遠目から彼女を見ている空却でも、それはよく伝わった。
「じんぐるべーる、じんぐるべーる……」
すずがーなるー――商店街を抜けて人が少なくなったのをいいことに、は小声で歌を歌ったりしている。かなりご機嫌だ。自分がいないときははこんなふうなのか、と空却は下唇に力が入る。ここで話しかけでもしたら、今のは失われるだろう。驚いて、怖がって……せっかく買ったものも、地面に落としてしまうかもしれない。
今までの後ろについて回っていた空却は、手の中に収まっている巾着袋を見つめる。ここまで来たついでだ。このまま持っていてやろう。が巾着袋を落としたことに気づいたら、渡してやればいい。それだけでいい。しばらくは、まだ、このままで。
――と、思っていたが、最近の空却はの鈍さを忘れていた。
「(さすがに気づけよ……)」
結局、空却はの家までついてきてしまった。今しがた家の中に入ったを見たばかりで、空却はげっそりとした顔で店舗付き戸建てを憎らしげに見つめる。
仕方がない、と思いながら玄関口がある路地に入る。こうしてずっと後ろを着いてきても、は気づかなかった。自分だからいいものを、これが不審者だったらどうする。空却は唐突にの後頭部に自分の目を付けておきたい気分になった。
路地に入ると、端の方に丸まっている猫たちが顔を上げる。いつも二人でやって来るからか、彼らは驚いたようにこちらをじっと見つめてくる。“今日はいっしょじゃなかったの?”とでも言いたげな眼差しだ。
さっそく引き戸と向き合うが、インターホンを押そうとした指は固まってしまう。そのあいだに、足の間へ入り込んだ猫がいて、空却はやれやれと腰を下ろした。
「お前ら、これ渡せるか」
徐々に群がってきた猫たちに向かって、巾着袋をぶら下げながら左右に揺らす。それをおもちゃだと思った猫が引っ掻こうとしたところで、ぴんっと素早く引き上げた。「できるわけねーか」と空却は苦笑いを零す。
しばらくそのまま猫と戯れていると、十七時を告げる音楽が鳴る。夕やけ小やけで日がくれて――これが小学校からの帰り道で流れるたびに曲を口ずさんでいたを思い出して、ようやく空却の重い腰が上がった。
……心を無にして、インターホンを鳴らす。応答はない。もう一度鳴らしてみるが、家の中からは声どころか足音一つ聞こえなかった。怪しんだ空却は家の周りを一周する。換気扇は付いていないが、二階の電気が付いているのが確認できた。が家の中に入ったのはこの目でしっかり見たので、必ずこの中にいるはずだ。
「(……なんかあってからじゃ遅え)」
階段から落ちたか、不審者が不法侵入していたか――が出られない理由は無限に広がる。今一度路地に戻った空却は、の家の鍵に手を伸ばす。正直、またこれを使う日が来るとは思わなかった。当たり前だが、鍵は引き戸の穴にぴったりと収まり、軽く回せばいとも容易くがちゃん、と錠が開く。
からから――乾いた音を立てた戸を開ける。一年ぶりのの家に皮膚が刺激されながら、空却は明かりが付いている二階へと上がっていく。ひとまず階段から落下したわけではなさそうで安心した。
ぎし、ぎし、と昔よりも大きな音を立てる階段。念のために気配を殺して二階の部屋へ上がりこむ。客間には、誰もいない。その隣の部屋から光は漏れていた。空却はがいるであろうその部屋の襖に、ゆっくりと手をかける。
……って、おい。
「寝てんのかよ……」
目の前の光景を見て、無意識に張り詰めていた緊張がどっと解ける。の自室であるそこには、横になって眠るがいた。なにもなければそれに越したことはないが、空却は重たい息を吐かずにはいられない。に心配をかけさせられるのが今に始まったことではないにしても、だ。
足音を立てずに部屋へ踏み入れて、が今日背負っていたリュックサックのそばに巾着袋を置く。これでいい。あとはこの場から立ち去るだけだ。そう頭では理解していても、色々と目につくものがある。の体から少しずれてしまっている毛布だとか、今にも座布団から落ちてしまいそうな頭だとか……今家にいますよと伝えんばかりのこの照明も、不用心さも相まって放っておけなかった。
空却は毛布をかけ直しやって(ついでに押し入れからもう一枚出してそれを二重に被せた)、座布団の位置も整えてやる。が熟睡型であることに感謝したのは今日が初めてかもしれない。最後に、ぱち、と電気を消せば、今度こそここから立ち去るだけ。
それなのに……空却はそのまま腰を下ろしてしまった。
「(……なにやってんだ)」
微かに聞こえる時計の音と、の寝息。どんな自然の音よりも、心が安らぐ。
まるで、おにぎりの店のデジャヴだ。ほんとうに、自分は何をしているのだろう。なにが、したいのだろう。空却は規則正しく上下するの体を見つめる。胎児のように手足を折るその寝方は、昔と変わらないようだ。
――「くーちゃん」
……魔が差す。もしも、なんて馬鹿げたことを考える。
あんなことをしなければ、今頃はもっとの近い場所にいたのだろうか。が食べたいものを、たらふく食べさせてやって、が行きたい場所にも、連れていけたのだろうか。
大人になったら、にしたいことがたくさんあったはずだった。あんな、力でねじ伏せることではなくて、自分がしたかったことはもっと小さくて、ささやかで……それでいて、数えきれないほどの願いのはずだった。
「(くッそ……)」
らしくない思考を断ち切る。あり得もしないことを想像して、なにになる。の体にも、心にも、今もなお深い傷を生んでいる。それは、長年蓄積された自身の欲求だ。今までこんなものをこの体に抱えていたのかと思うと、と重ねてきた時間はなんだったのかと思ってしまう。
今の馴れ合いが、いつまで続くのだろう。いつまで、続ければいいのだろう。もしも、要がナゴヤに帰ってきたらどうする。いや、どうするもなにも、は要を頼るだろう。要も出来た男だから、のことを拒否しないはずだ。そこで、自分の役目は終わり。今度こそ、今にもほつれそうなこの頼りない縁の糸は切れるだろう。
これは、贖いだ。なんとも思ってはいけない。それなのに、未だに付きまとうの残像を追うたびに、心が揺らぐ。何度も、何度も……その幻に手を伸ばしそうになる。
「(……)」
頼られて嬉しかった。そばにいてやらないとだめだと思った。他の誰でもない……自分を必要としてほしかった。を守れるのは、自分しかいないと。自分だけがいいと――身勝手なこの気持ちを何度も捨てても、いつのまにか足元まで転がってくる。
途端に息苦しくなって、空却は深く息を吐く。なぜ、のことになると、こんなにもどうしようもなくなるのだろう。昔は……会ってばかりの頃は、そんなことはなかったはずだ。むしろ邪険にしていたはずだ。なら、いつから。カヨの葬式? 違う。きっと、もっと前からだ。今日みたく天気が悪くて、途中で雨も降り始めて……ああ、そうだ。が雷に怯えていた、あの日――
――「くーちゃんのにおい、すき……」
……一つの音が、胸にひっかかる。
今までがいたところの……何も考えるなと無理やり空虚にしたところに、その言葉がすっぽりと埋まる。きれいに、隙間なく収まったそれを見つめて、空却は言葉通り、思考が停止する。
「……は、」
ぶるりと、悪寒がした。
、というワードだけで連想ゲームのように頭の中で様々なことが枝分かれる。守りたい、笑ってほしい、話してほしい、隣にいてほしい――枝は伸びて、新たな枝を生む。それは何本にも分かれていって、どの枝も最終的には同じ場所に行き着いた。
ついにそれが口から溢れそうになるところで、空却は作務衣ごしに胸をぎゅうッと掴む。空白が埋まった胸はひどく窮屈で、今にも体が破れてしまいそうだ。これは、胸の重りとして昔から沈んでいたもの。あの日爆発した欲望をつくった、核の正体。おれは、俺は……ずっと、むかしっから、を――
「が……?」
……やめろ
やめろ。ふざけんな。いまさら、なんで。なんで今なんだ。ちげえ。こんなこと。ふざけんな。やめろ。黙れ。消えろ。拙僧は、なんもねえ。なんとも思ってねえ。のことなんか、なんとも、なんとも――ッ!
「ん……」
突然寝返りを打ったに、呼吸が乱れる。生まれて初めて、空却は“おそれ”というものを抱いた。今にも発火しそうな体を抑えつけて、音を殺しながら、不安定な呼吸を繰り返す。体が故障している今、頭を回して考えなければ、理性がどうにかなってしまう。幸い、の目は閉じたまま起きる気配はない。
認めたくない。石ころばかりの欲の泥中から今さら出てきた、小さな小さな宝石の存在を。これを認めてしまえば、今いる場所には戻れない。拾い上げるな。無視をしろ。そのまま、遠くへ投げてしまえ。
「(ちげえ……ッ、ちげえんだよ……ッ!)」
なにも違わない。そんなことは、空却が一番よく分かっている。自身の心と何度も向き合って、今も答えに触れている。両手で握りこぶしをつくって、手のひらに爪を食い込ませる。無意味だと悟りながら、空却はこの心を受け入れようとしない。すべてが、どうしようもないことだと分かっていても、否定しなければいけなかった。
一生残るかもしれない傷を負わせた人間に、これを持っている資格はない。にあんなことをしようとした己に、それを囁く権利はない。この体の中にあるものすべてを捧げても、の心が一片でもこちらへ傾けられる未来はない。それでも、それでも――
「くッそ……ッ、くそがぁ……ッ!」
すべてを壊した、今になって。じわじわと込み上げるこの感情の名を、知りたくなかった。
こんなにも途方もない形で表に出てしまったものと、これからどう付き合っていけばいい。どんな器にも注げないくらい、大きく育ってしまったこれを、どこへ捨てればいい。流しても流しても新たに溢れてくるこの情愛を……いったい、どこへ。
カチ、カチ、カチ――秒針は、無機質に時を刻んでいく。空却はが眠るそばで、頭を抱え、静かに葛藤を繰り返した。こうしての傍から離れられないことが、答えだというのに。何度も何度も同じ場所を行き来して、結局戻ってくるところは、宝石を見つけたこの場所だった。
「(もう……おせえ)」
そして……悟る。決壊したダムのように滲み出すこれを、なくすすべはない。しかし、留めることはできる。これは表に出してはいけないものだ。口にすることも許されず、一生背負っていって、墓まで持っていくものだ。溢れる前に留めては捨てて、留めては捨てて……誰にも知られないように、これを一生涯……続けていくのだ。
を導くのは、自分ではない。幸せにするのも、自分ではない。ただこれからも、名前のないこの関係が途切れるまで、今許されていることを為すだけ。ようやくとの縁に折り合いをつけ始めた、今だからこそ。それが……それだけが、波羅夷空却ができる、唯一のことだ。
「……、」
ぽと、ぽと――恋が、零れる。これ以上呼んだら、あの時のように再び体を突き破って、を飲み込んでしまう。空却は最後に大きく深呼吸をして、分厚い甲殻をつくる。あの獣もろとも閉じ込めておくための、頑丈な檻だ。
熟睡しているの寝顔を目に焼きつける。少しだけ開かれた口から、漏れる吐息。深く、深く……夢の中に入っているの中で、穏やかな時間は続いている。
そんなを守るように張られている薄い膜は、おまえは触れるなと言わんばかりに、とてもうつくしく、綺麗だ。まるで、凍てつく冬に耐え、あたたかな春を待つ……かいこのように。
静かに部屋を出て、の家を後にした空却は夜のナゴヤを歩く。この数分で火照った体を、真冬の冷気が冷ましてくれた。少しだけ、時間がほしい。この胸の中身を整理する時間を。それまでは、とてもじゃないが素面でと向き合える気がしなかった。ボロが出ないよう、"これ"にもっと強固な蓋を被せなければならない。
……はあ、と白い息が舞う。すると、頬に冷たい雫がぽつ、と落ちてきた。雨だ。空却は星一つない空を仰ぐ。寺に帰る頃には、きっと本降りになるだろう。雨くらいどうということはない。ただ、雷が鳴らなければいいとだけ思った。
――「空却くん」
大丈夫だ。
なにがあっても、の安全を保証しよう。今ある一線を超えないように神経を巡らそう。どんなことがあっても、再び世界を巻き込んだ戦争が起ころうと……といるあの時間だけは、彼女の盾でいよう。が誰を好きでいようが、関係ない。いつか必ず来る、終わりの時まで。それまでは――
「……大丈夫だ」
果てしなく、長い道のりだ。しかし、が味わったものに比べれば、どうということはない。空却は目の前に広がる一本道を見据え、それを死ぬまで歩み続ける己を鼓舞した。
せめて、これからのを守り包む、その繭ごと……命絶えるまで、想えるのであれば。拙僧はよろこんで、お前を脅かす雨風を凌ぐ枝葉となろう。
