Episode.2



 つんざくような蝉の音も鳴りを潜め、空却の夏休みは終盤に差し掛かっていた。
 エアコンの効いた涼しい室内。鼻の奥をつんと刺す刺激臭は、空却の体をどこかそわそわとさせる。耳元で聞こえてくる、穏やかな刃物の音に時々眠気を誘われながらも、その目は眼前に広がる大きな鏡から離れない。目の前でじわじわと変わっていく自分の髪型。床をちらりと見下ろせば、短い赤毛が香辛料のようにぱらぱらと細かく散っていた。

「はい、できたよー。くーちゃん、またハンサムになったねえ」

 ハサミの音が止む。カヨが空却の首元に付いていたケープを外すと、「おう! あんがとな!」と空却はバーバーチェアからぴょんと飛び降りる。店にいる客は空却ただ一人。今なら、ここで飛び跳ねようと大声を出そうと、それを咎める人間は誰もいない。
 夏だからか、髪が伸びるのが異様に早かったように思う。先月から襟足がくすぐったくて鬱陶しいったらなかったが、そんなストレスとも今日限りでおさらば。ようやくすっきりしたうなじを撫でながら、空却は会計をするべくカウンターに向かう。その足は少しだけ忙しない。なぜなら、自分の後ろをちょこまかとついてくるがいないうちに帰らなければと、空却の心が急いていたからだ。

 空厳寺でと会ってからというものの、下校中にと鉢合わせることが多くなり、そのたびにくーちゃんくーちゃんとしつこく絡まれる日が続いていた。それも、待ち伏せでもしているんじゃないかと疑いたいくらい、寺と床屋が分かれる道のところでばったりと出くわす。成り行きで床屋までを送っていくことも少なくなかった。まあ、そのたびにカヨからお駄賃と称してお菓子をもらうので、結果的にプラマイゼロというやつなのだが。
 空却がきょろきょろと周りを見回していると、「ちゃんなら、今お二階で宿題しとるよ~」とカヨは言った。

「はあ? あいつ、まだ宿題おわってねーのかよ」
「ほかは全部終わっとるみたいなんやけど、ちゃん、漢字が苦手でねえ。今朝からずう~っと書いとんのよ」

 けさからって……もうおやつのじかんなんだが。空却は壁時計をちらっと一瞥して、そんなことを思う。なにさせてもとろいなあいつ。ざまーみろ。まあ、とりあえず今日は心置きなく帰れるということで、空却はポケットから財布を出し、マジックテープをびりッと破る。
 灼空から渡された千円札を二枚出した手で、空却は“ご自由にどうぞ”と書かれたアメ玉ボックスからアメを二、三個掴む。さっそく、その中の一つの封を切って、口にぽんと放った。今の時期にぴったりのパイナップル味だった。

「くーちゃん。あとでお駄賃あげるから、ちゃんの宿題、ちょっと見てあげてくれん?」
「いくらカヨばあでも、そればっかりはきけねーな。つか、漢字にみるもなにもねーだろ」
「あそこのドアからおうちに入れるもんで。おうちに上がってすぐ階段があるから、とんとん上がってきゃあ」
「いやだから漢字にみるもなにもねーって――」
「あとでスイカ持ってくでねえ~」
「おいカヨばあっ!」

 勢い余ってがりッと噛んでしまったアメの欠片を舌の上で転がす。空却の叫びも虚しく、会計を終えたカヨは店の奥に引っ込んでしまった。店内に一人残される空却。冷房の音がやけに大きく聞こえる。やっぱにとんなこいつら。いつまでたっても人のはなしをききやしねえ。
 まあ……駄賃が貰える上にスイカが食べられるのであれば、天秤はそちらにやや傾く。だから、ちょこっとだけ……ほんのちょこっとだけ、の宿題を見てやらないこともなかった。
 とは言っても、不服なものは不服だ。む、と口をへの字に曲げた空却は、店から住居に続くドアを開けて、履いていた下駄をささっと脱いだ。







 カヨの家は店舗兼住宅だ。表にある床屋の入口とは別に、住居部分の玄関は路地裏にある。ここの住人であるカヨとくらいしかめったに利用しないだろうが、一度だけ、偶然道で会ったカヨの荷物を家まで持っていったことがあるので、空却はその玄関の存在を知っていたが、住居に上がるのはこれが初めてだった。
 正直変な造りの家だが、変なものほど面白いし、冒険心をくすぐる。空却は一目見てカヨの家が気に入った。
 心躍る気持ちが足音に出る。ドタドタミシミシと音を立てながら、空却は階段を登りきる。廊下の突き当たりにある部屋まで一直線に向かうと、部屋の中心にある大きな机……その前にちょこんと座る女子がいた。

「おい」

 空却が声をかけると、その女子はぱっと顔を上げる。そして数秒後、彼女の瞳が夏の星のようにきらっと瞬いた。

「くーちゃんっ」
「くーちゃんってよぶなっつってんだろッ」

 寸の間も置かずに空却は声を荒らげる。しかし、まるで耳に入っていないらしいは、鉛筆を置いてこちらに向かってわあっと手を振った。もちろん、空却はふん、とそっぽを向くだけで、手を振り返したりはしない。人の言葉をことごとく無視する人間に応える義理はないのだ。
 さて、いつもなら無視をされてもは勝手に話し始めるのだが、なぜか無言の時間がやたらと続く。ちら、と空却がに目を配らせると、彼女は切ったばかりの空却の髪をまじまじと見上げていた。

「……なんだよ」
「かみのけ、ばあばにきってもらったの?」
「まあな」
「かっこいいねえ~」

 うっ。一瞬、言葉を詰まらせてしまった自分自身が許せなくて、「ほ、ほめてもなんも出ねーぞッ」と空却は強気で返した。
 は素直な女子だった。いくら鬱陶しいとはいえ、こういう純粋な好意を邪険にするほど、空却の性根は歪んでいない。かと言って、それを両腕いっぱいに広げて受け取るのも空却のプライドが許さないので、今のようなツンケンした言い方になってしまう。もしもこれがカヨならば、ありがとな、と軽く返せていたはずだ。
 ……とにかく、空却はに褒められると“調子が狂う”のである。

「くーちゃん?」

 胸の内側でもぞもぞするものを振り払うように、空却は部屋の中にずんずんと侵入する。机の上に広がっている漢字ドリルを見下すと、珍しく空気を読んだの細い腕がささ、とそこから退いた。
 空却の学校で使っているドリルとは異なるようだが、中身はほとんど似たようなものだった。見開き一ページに読み書きの問題がそれぞれ十問ずつついている。空却が持っているものは読みと書きが連動しており、隣のページを見ればそれぞれの答えが書いてあるのだが、不幸なことにのドリルは違った。隣接している読みと書きのページで、それぞれ使われている熟語どころか漢字の種類も違っているのだ。
 なんだこれめんどくせえ。の肩をもつわけではないが、こればかりは彼女に同情を覚えた空却。いや、そんなことよりも――

「空らんばっかじゃねーか! なんだこれ! ぜんぶわかんねーのかよ!」
「うん」
「“うん”じゃねえッ! 辞書かなんかでしらべろッ!」
「あとでー」

 は危機感のない笑顔でそう言った後、再び漢字ドリルに視線を落とす。二段組で、横にずらっと並ぶ四角の欄。その一つに対して数分悩み、鉛筆を動かさずに次の欄へ。また数分悩んで、鉛筆を動かさずに次の欄へ。のろい、とろい、ドアホの見事な三コンボ。見ているこっちがいらいらしてくる。
 少なくとも、今開かれているページでが書けているものといえば、読みが六問ほど、書きはその半分以下だった。ふつーに生きてれば漢字くらいおぼえんだろ。こいつバカじゃねえの。空却は自分が寺院の子だということをすっかり忘れていた。

「ドリルかせ」
「あ~」
「どっからどこまでやりゃあいいんだよ」
「えっとねえ」

 の隣にどかりと座った空却は、彼女から奪い取ったドリルをぺらぺらとめくる。は課題の一覧らしきプリントを見ながら、「ここからー、ここまで」と、ページ数が記されたドリルの端っこをめくりながら説明した。
 が指定したページと先ほど開いていたページ……そして、それより前のページの回答率を把握して、空却はぴしりと固まった。これは思っていたよりも重症だ。このままでは今日一日かかっても終わらない。

「なにちんたらやってんだよ! こんなペースじゃあ一生おわんねえだろーがっ!」
「そうかなあ」
「そうだっつーの! つか、わからんかったらカヨばあにきけよッ」
「ん~……。ばあば、おしごといそがしいからねぇ」

 の表情にほんの少しの影ができたのを、空却は見逃さなかった。そういやさっき、足なおったばっかだから店がいそがしいっつってたな。 客がいることは大変喜ばしいとばかりにほけほけと笑っていたが、正直自分の体と要相談してほしいところではある。たった一人で切り盛りしている床屋だが、近隣住民に愛され、それなりに繁盛している老舗だから尚更だ。
 こいつ、いつもぼさっとしてっけど、そういう空気はよむんだな。いつも笑顔でいるを思い出して、空却は彼女に向かって「ん」と手を差しだす。そんな空却を映したは目を丸くして、こてんと首を右に傾けた。

「なんでもいいから紙とえんぴつよこせ。わからんやつ、おれがとなりで書いてやるから、おまえはそれをまねして書け」
「くーちゃん、これぜんぶかけるのっ?」
「バカにすんじゃねえよ。これくらいへでもねえ。あとくーちゃんよびやめろ」

 書き取りが終わったら、読みは空却が音読して、それをに書かせればいい。漢字ドリルなんてただの作業に過ぎない。覚える人間は覚えるし、覚えない人間はどうしたって覚えない。がどちら側の人間かは知らないが、空却は自分のやることをやるだけ。あとは次第だ。
 空却はから渡された鉛筆を持って、真っ白な紙の上に漢字をがりがりと書いていく。学校で習っていない字でも、家柄、様々な漢字を目にすることがあるので、記憶の引き出しからどんどん文字を引っ張り出してきた。
 空却が四問目に手をつけようとした時。の手が全然動いていないことを察して、むむっとした空却は顔を上げた。

「ぼさっとみとんなッ! だれのためにやっとると思って――ッ」
「くーちゃん、字ぃきれいだねえ」

 は空却の手元まで顔を寄せて、ドリルをずいずいと覗きこむ。その目の奥にはさっきよりも星が瞬いていて、まるで夏の星座が浮かんでいるようだった。
 「せんせいが書くみたい~」空却に対してさらに追い討ちの言葉をかける。一方の空却は頭の中が真っ白になっていた。たしかに、家では写経を頻繁にするために漢字そのものと馴染みが深い。そのおかげで、習字の授業では、小学三年生にしては達筆すぎる空却の字は学年の中でもよく目立った。学校のコンクールにも何度か入賞したこともあるし、近所の爺婆たちにも賞賛の声を貰う。
 だから……別に、特別なことじゃない。これくらい、空却の中では当たり前のことなのだ。ただ、いつものように“調子が狂う”だけで。ふん、と鼻を鳴らして素っ気なくするも、空却の機嫌は中々に有頂天だった。

「くーちゃんは、がっこうのしゅくだいおわった?」
「とっくの昔にな!」
「え~っ! くーちゃんはすごいねえ。えらいねえ~」
「おれがすげえのわかったからはよ書けよっ」
「うんっ」

 元気よく頷いたは、空却が書いた字を見ながら、抜かしていた空欄をせっせと埋めていく。そんなをよしよしと見守って、空却もまた自分の作業に戻った。


 二人が黙々と漢字を書いていると、不意に一階からのんびりとした声が聞こえてきた。カヨだ。

ちゃーん、くーちゃーん。スイカ切ったけど今食べるかねえ~?」
「たべる~!」
「くう!!」

 スイカという単語を聞いた二人は、同時に鉛筆を置いて階段に向かう。スタートダッシュは空却が早く、一番乗りで一階に降りた。
 一方のは、一段ずつ足を下ろしながら、ゆっくり慎重に階段を降りていた。自分の家だというのに、この急勾配には慣れていないらしい。仕方がない……本当に仕方がないので、空却はが階段を降りきるまで待つことにした。

 が一階に着いた後。待っていたカヨに「こっちだよ~」とカヨの部屋らしい和室に案内される。部屋に入ると、寺と似たような匂いがした。長年使い古された木と、線香の匂いだ。
 部屋の中心に置かれた机の上――そこには大皿に盛り付けた、瑞々しい赤色を吸ったスイカが綺麗な三角形になって行儀よく並んでいた。

「種と皮は、このビニール袋の中に入れといてねえ」
「はーいっ」
ちゃん。次のお客さん来たから、ばあば、お店で髪切っとるからねー」
「うんっ。ばあば、むりしちゃだめだよー?」
「はあい。くーちゃん、ちゃんのこと見とってあげてね~」
「おう!」

 すでにスイカにかぶりつき、口の周りが赤い汁だらけになっている空却は上機嫌に返事をする。
 よたよたと歩いて再び店の方に行ったカヨの後ろ姿を確認してから、空却は二個目のスイカに手をかけた。

「くーちゃんはおしおかけるー?」
「かけねえ」
「わたしも~」

 「いっしょだねえ」そう言いながら、スイカをゆったりと食べ進める。しゃく、しゃく、とスローテンポな音を聞いて、空却は密かににやりと笑む。このままいけば、ここにあるスイカの半分以上は自分のものだと考えた。
 お腹が満たされたら、また漢字ドリルの時間がやってくる。どれだけ遅くても夕方頃には終わるだろうと空却は思っている。結局、貴重な休みをのために使うことになってしまうが、空却は後にカヨからもらえるお駄賃に期待することにした。

「くーちゃん」
「あ?」
「ドリルがぜんぶおわったら、くーちゃんがかいてるかみ、もらってもいい?」

 おれが書いてる紙? の言葉に空却は眉をひそめる。そして、当てはまるものが一つしかないと分かって、空却はぷぷぷっ、とスイカの種をビニール袋の中に飛ばした。きっと、空却がのカンニング用に書いている、あの紙のことだ。

「あんなん、ただのラクガキだろーが」
「くーちゃんの字ぃきれいだから、おてほんにしようとおもって」
「んじゃあ好きにしろよ。どーせすてるだけだしな」
「やったあ」

 あんなのもらって、なにがうれしいんだか。スイカを沢山食べる方がよっぽどいい空却は、のことが心底理解できない。
 そんなは相変わらずのろのろとスイカをかじって、頬をもごもごと動かしている。次のスイカに手をかけても、ちまちまと黒い種を取り除きながら食べているので、やっぱこいつとろいな、と空却は鼻で笑った。そして、空却の手もまた新しいスイカへと伸びている。もうこれで六つめだ。スイカの半分以上が水分とはいえ、さすがにそろそろお腹に溜まってきた頃だった。


 あっという間に大皿が空っぽになったので、中断した宿題を再開――の前に、スイカの汁でべとべとになった口の周りと両手を洗うべく、空却はと一緒に洗面所へ向かったのだった。