Episode.1



 諸行無常に抗えるほど、人は強くない。小さくてひ弱ななんて、特にそうだ。昔から分かっていた。だから、綺麗なものばかりじゃないこの世界に押し潰されないように、自分が彼女のしるべになるのだと本気で信じていた。今思えば、傲慢も甚だしいと思う。
 人は、変化の訪れに気づかないことがほとんどだ。目の前にあるものが姿かたちを変えて、ようやくそれが“変化している”と気づくのだから。変化の中にも良いものと悪いものがあり、自分たちの場合は、限りなく悪い変化だったと言える。変わったのはからだった。最初は肉体的な変化から始まり、次は物理的な距離と心の距離が開く。別に、それはいい。大人になる摂理は、幼い自分でも理解できた。たとえ、避けられる理由が自分の中になかろうが、の困惑した顔を見たら、噴火寸前だった感情を押し殺して、大人になる支度をし始めた彼女を受け入れるしかなかった。

「空却くん」

 いつからこうなった。だんだんと自分の手の届かないところに行ってしまうに対して、日に日に溜まっていく鬱憤。いっそ怒鳴り散らして、言いたいことをすべてぶちまけてやろうかと何度も思った。それでも……それでも、そうしてしまうと、を困らせてしまうと分かっていたから。彼女なりの立場があって、昔のままではいられないのだと分かったから、我慢した。ずっとずっと、空却は胸の中で大きくなる獣の手網を握っていた。

 ――しかし、その手綱もある日ぷつりと切れる。その時の激情を空却の体は今も覚えていて、それをぶつけられたの顔は、今もなお空却の瞼の裏に棲みついていた。







 果てしなく長い道のりだ。自分が通う小学校の中で、廊下の雑巾がけするのはきっと自分くらいだろう。そう思いながら、空却は冷たい水をたっぷり吸った雑巾をぎゅッと絞った。まだ春先だからいいものの、これが冬なら最悪だ。手は指先まで真っ赤になって、その翌日は霜焼けに苦しむことになっていただろうから。
 絞った雑巾を廊下にペしっ、と叩きつけると、空却は四つん這いになって床を蹴る。あー、こしがいてえ。足裏もだんだん痺れてきた。移動距離約十メートル。角を曲がったところで、「こんなことやってられるかっ」と空却は雑巾を床に投げつけた。やる気スイッチは切れた。大体の場所は拭き終わったし、少しくらいサボってもいいだろう。そう思った空却は拭いたばかりの縁側の端に寝そべって、庭に向かって足をぶらぶらと投げ出した。
 ――すると、和やかな声が空却の耳を掠める。とても聞き覚えのあるものだったので、目をかっと開いた空却は勢いよく上半身を起こす。ここから三つ奥にある部屋から、甘味の気配がする。
 にやりと笑った空却は、再び雑巾を床に敷く。そのまま廊下を滑走して着いた先は、襖が全開になった客間の前。そこには父である灼空と、腰を丸めた小さな老婆が机を挟んで座っていた。
 空却が部屋を覗くと、「こら空却! 何をさぼっとるッ!」とさっそく灼空の口から怒声が飛んでくる。うるせーな。クソおやじには用ねーんだよ。

「あれまぁくーちゃん。お掃除しとるの? えらいねえ」
「よおカヨばあ!」

 片手を上げると、カヨは薄くて小さな手をひらひらと振った。灼空の雷が落ちる前に、空却は目の前に続く滑走路をたッたッたッ、と走っていく。これから口に入る甘味のために、途中にある洗面台で手を洗おうと思いながら。


 ――数分後。空却は曲がり角からちろっと顔を出し、廊下をそおっと歩く。そして、太い柱に隠れながら客間を覗き見た。今しがた、灼空がこの部屋を出てどこかに行ったのを空却は見ていたのだが、念には念をだ。
 幸い、部屋にはカヨしかいなかった。そして、すぐに空却の存在に気づいた彼女がこちらに向かってちょいちょいと手招きをする。

「くーちゃん。今なら住職さんおらんで、鬼まんじゅう食べて休みゃあ」
「っ、しゃあ!」

 待ってましたとばかりに空却は跳ねて喜ぶ。部屋に入って机の上を見れば、漆塗りの重箱に入った鬼まんじゅうが良い子に並んで収まっていた。空却はそれを片手に取って、ばくっと一口頬張る。

「うんめ~っ!」

 うめえ。うめえ。やっぱ鬼まんはカヨばあが作ったやつが一番うめーな。なぁにが、“ぞうきがけも修行のいっかん”だよ。今どきふるいんだよクソおやじ。ハイテクなものを受け入れられない頑固な石頭に、空却はほとほとうんざりしていた。
 「よかったわあ。まだたくさんあるで、いっぱい食べやあね」カヨにそう言われながら、空却はすでに二つ目の鬼まんじゅうに手をつけようとしている。おそらく、灼空や他の僧侶の分も含まれているのだろうが、残しておく義理はない。カヨが帰った後に灼空の逆鱗に触れることは必至だが、それはそれ。このあいだ、蔵の中で見つけた程よい大きさの壺の中に隠れたらいいだけの話なのだから。

「カヨばあ、ここんところ顔みせてなかったじゃねーか。なんかあったのか?」
「このあいだ、足を捻ってまってねえ。ずっと来れんかったのよー」
「はあーっ? もうとしなんだから気ぃつけろよな。なら、今とこやはどーしてんだよ」
「お店はねぇ、お休みもらっとるのよー。またしばらくしたら、くーちゃんの髪切れるからね」

 「心配してくれてありがとねえ」カヨは開いているかどうか分からないくらい小さな目を、さらにくしゃりと細めて笑った。そんなカヨを横目に、ふうんと曖昧な返事をした空却は、手の中にあった鬼まんじゅうを丸々口の中に放りこんだ。そろそろ茶がのみてーな。
 空却の髪は、物心つく頃からカヨが経営する床屋で切ってもらっていた(丸刈りしかできない不器用な親をもつと、子は大変なのである)。襟足が鬱陶しいと思う前に、千円札を数枚握りしめて、空却は一人でカヨのところへ髪を切りに行く。散髪をする日は寺の雑用を免れるし、髪を切り終えたらカヨがお菓子を振舞ってくれるしで、いいことづくめなのである。
 だからといって、カヨに働けと鞭打つようなことを言うつもりはない。カヨが元気ならばそれでいい。髪だって、長いこと切らなくても平気だ。なんなら自分で剃ってもいい。空却自身、そろそろしょーらいを見すえて丸がりにしてやろうか、と思っていたところだった。
 さてそろそろトンズラすっか。空却が縁側に出て掃除をしているふうに装おうと思ったその時だ。カヨの膝上かつ、机の下から変な黒毛が飛び出していることに気づく。あ? と首を傾げた空却はそれに向かって手を伸ばした。

「なんだこれ」
「ぅ゙」

 呻き声とともに引っ張りだされたのはなんと子どもの生首。「ぎゃあッ!?」と叫びながら、空却は変な黒毛をぱっと離した。
 そして、不幸なことは続く。ちょうど灼空が部屋に戻ってきてしまい、「くぉらあ空却ッ!!」と恐れていた雷が落ちてしまう。どうやら一部始終を見られていたらしい。くそっ、やっぱあのときトンズラするべきだった。
 すると、「私が休みゃあって言ったのよ~」とすかさずカヨがフォローを入れてくれる。さすがカヨだ。これがなかったら、今頃空却の後頭部に大きなたんこぶがひとつ産声を上げていたことだろう。

「うぅ……?」

 目を覚ましたのは女子だった。先ほどさつまいものようにずぼっと引っこ抜けた頭は、生首ではなくきちんと胴体もある。彼女は机の下に隠れていた下半身をもぞもぞと出して、上半身をむくりと起こした。
 そして、ゴムで髪のひと房を束ねているところを――先ほど空却が引っ張ったところだ――不思議そうな顔で撫でながら、半分しか開いていない目でカヨをぼんやりと見上げた。

「ばあばぁ……?」
「おはよう、ちゃん」

 ふわあ、とはあくびをして、目を擦る。拾った猫のようにきょろきょろと周りを見渡し、その虚ろな目が空却を映したかと思えば、彼女はこてん、と首を傾げた。

「おさるさん……?」
「だぁれがサルだ!!」
「あいたぁっ」
「空却ぉッ!!」
「いッてえっ!!」

 の頭をはたくと、後ろから灼空に後頭部を殴られた。んなちから入れてねえっつーのッ! こいつよりもぜってーおれの頭のほうがいてえ。じくじくと痛みが増していく頭をさすり、空却は拳をつくっている灼空をじいっと睨む。
 一方、は空却にはたかれた部分を手で抑えながらくしゃりと笑んだ。

「えへへ。いたいねえ」
「なにわらってんだよはったおすぞッ!」
「空却。あとで私の部屋に来なさい」

 ゴキッ、と背後から聞こえる重々しい骨の音。空却の背中にひやりとした汗が滲む。おやじがしずかにキレるときはかなりやべーときだ。だが、たたかれて笑うやつのほうがもっとやべえ。
 空却は、カヨと談笑を始めたを憎らしげに見つめる。そんなに歳は変わらなさそうに見えるが、こんなにも失礼な女子は空却の学校で一度も見たことがなかった。

ちゃん。ばあばたちのお話聞いとってもつまらんでしょう。お坊さんねえ、お寺の中で遊んでええって言っとったよ」

 なんとなく嫌な予感がする。空却は背後に立つ灼空をおそるおそる見やった。「空却。掃除はもういいから、ちゃんを叩いたお詫びとして遊んであげなさい」予感的中だ。そうは問屋が卸さない。空却はすぐさま部屋の敷居を跨いだ。

「やだねハゲ!!」
「なんだとッ!?」

 サルよばわりした女子なんかとあそんでられるか。だが、掃除はもういいという言葉はしかと聞き届けた。廊下に置かれていた雑巾とバケツを持って、空却はうさぎも驚くスピードでその場から逃亡した。あんな失礼極まりない女子の世話など、誰が見るものか。







 ざくッ、ざくッ――空却は境内中に敷かれている砂利を踏む。本来であれば一つしか聞こえないはずのそれは、空却が生んだ砂利の音をオウム返しするように、二重になって聞こえてきた。
 空却が走れば、後ろから聞こえてくる音も早くなる。空却が止まれば、その音も止む。再び歩き出せば、やはり同じように音は二重で聞こえてくる――こんなことを続けてから、かなりの時間が経つ。すぐに飽きると思ってあえて放っておいたのに、ついには後ろからくすくすと笑い声が聞こえてくるものだから、我慢の限界だった空却は後ろをばッと振り返った。

「なんでついてくるんだよッ!」
「ここのおうち、すごくひろいねえ」

 完全に覚醒したは、ふくふくと笑いながらそう言った。なんとなく、口調や声色がカヨに似ている気がする。こいつ、カヨばあの孫か。でも、とこやに行ったとき、こいつのこといちども見たことねーぞ。
 ……いや、そんなこと今はどうでもいい。煮る前の黒豆のように丸い目、大福のように白くてふっくらした頬。何もおかしいことはないのに、ずっとにこにことしている。空却は、を構成するなにもかもが気に食わない。こんなにも第一印象が最悪な人間と出会うのは生まれて初めてだった。

「おれはぜッてーあそんでやらねーからなッ!」

 そう言い放って、空却は全速力で走る。要は、がついてこられないようにすればいいのだ。これでも、かけっこの順位は上位にくい込んでいる。女子で、おまけにのろそうなに足の速さで負けるものか。
 案の定、の足はのろかった。しかし、諦めだけは悪く、どれだけ遅くても、めげずに後ろからざくざくとついてくるのが分かった。鬱陶しいったらない。
 空却は寺の裏にある山に侵入する。そこは足場が悪く、周りは草木の緑と黒土で満たされていた。歩くことに慣れていなければ、すぐにどこかでつまづいて怪我をしてしまうだろう。
 裏山の中でも、空却はいっとう背の高い木によじ登り、がやってくるのを待った。ここから、おれを見うしなったあいつがまぬけな顔をして寺にもどっていくところを見とどけてやろう。へへ、と空却は勝ち誇った笑みを浮かべながら、腹を抱えて笑いこける自分を想像した。

「わあ~っ。たかいねえ」

 ――しかし、そんな期待も裏切られる。は丁寧に足場を見つけて、空却のいる木の根元までやってきた。そして、空を見上げたと目が合い、おうい、というように手を振られる。もちろん空却は振り返さない。なんでおれが木のうえにいるってわかったんだよくそが。
 しかし、勝算はまだある。あんな腕力のなさそうなが、ここまで登れるわけがないと空却はたかを括っていた。

「よいしょ、っと」
「は?」

 は木を見上げるやいなや、木の幹に近づき、その一部分に足をかけた。次は片手、その次はもう一方の足を――まさか、と空却が唖然としているうちに、ひょい、ひょい、とは木によじ登り始めたのである。
 おいまて。おまえ、のぼれるほうの女子だったのかよ。そんなんきいてねーぞ。完全に誤算だった空却は自身の敗北を悟った。今、が登ってきている足場以外に、足をかけられるようなところはない。よって、空却はここから降りられない。忌々しいがここまで登ってくるのを待つしかないのだ。空却の打つ手はなくなった。
 しかし、が登ってきたのは、空却がいる一本下の枝だった。その上に馬乗りになって、ふう、と息をついた。どうやら体力が尽きたらしい。なんだよ。やっぱたいしたことねーな。空却は心の中でだっせーとを罵った。

「さーるにもらーったかーきのーたねー。かーにがひろーったにーぎりーめしー」

 は? 突然歌い出した。空却は口をあんぐりさせる。

「めーをだせ、はーをだせ、かーきのーたねー。だーさぬーとハーサミでちょーんぎーるぞー」
「だからサルじゃねえって言ってんだろ!!」

 それがさるかに合戦の歌だと分かった空却は、がいる枝に飛び移る。ガサガサと揺れる枝に驚いたははたとするも、それも一瞬のことで、すぐににこにこと笑ってみせた。

「かき、たべたいねえ」
「きけよっ!!」
「あっ。てんむすもいいなあ」
「だからきけっつーの!!」

 こいつ、ぜってーカヨばあの孫だ。まちがいねえ。あのばーさんもたまにおれの話きかねーし。ボケで片付けられる年齢ではない以上、空却がに対して怒る理由としては十分だ。空却が木から降りても、やはりもよいしょよいしょとコアラのように幹にしがみつきながら降りてきた。
 空却は、もう何をしてものことを振り切れないと分かる。ふつふつと溜まっていくストレスを感じながら、裏山を出て、特に宛てもなく境内を歩き続けた。

「ねぇねぇ、どうしてここのおうちはこんなにひろいの?」
「仏さんのいえだからだ」
「ほとけさん?」
「ああ」
「ほとけさんってほとけさまのこと?」
「そうだっつの。いちいちんなあたりまえのこと聞くんじゃねえ」
「くーちゃんはほとけさまなの?」
「ちげーよ。おれはしょーらい仏さんとおなじ道をあるくおとこだ。あとくーちゃんってよぶな」
「ばあばはくーちゃんってよんでたよ?」
「カヨばあはいーんだよ。おれをサルよばわりしたおまえによばれるすじ合いはねえ」

 背後からぽんぽんと飛んでくる質問に、空却はぶっきらぼうに答える。あーめんどくせー。こんなことなら、雑巾がけをしていた方が何倍もマシだった。カヨはいつまでもここにいていいが、は別だ。さっさと飽きて帰ってほしい。
 そんな空却の願いも虚しく、後ろから聞こえてくる砂利の音は止まなかった。微かにくすくすと漏れるの笑い声に対して、空却は舌が麻痺するくらい舌打ちをし続けた。







 空の色は薄橙。色々とやんちゃをして、早くも傷だらけになった黒いランドセルを揺らしながら、空却は一人で通学路を歩いていた。
 途中にある駄菓子屋でガムを買おうと頭の片隅で思いながら、道の角を曲がる。すると、空却は自分とほぼ同じ身長の人影と向かい合った。新品のように綺麗な赤いランドセルを背負い、黄色の安全帽を被ったその子は、瞳の奥にぱっと光を灯した。

「あっ。くーちゃんだあ~っ」
「げっ!」

 の嬉しそうな声色とは反対に、空却は潰れた蛙のような声を上げた。なんでこいつがここにいんだ。数日前にと出会った日のことを思い出して、空却のテンションは最底辺まで沈んだ。
 結局、あれから一時間ほど境内をぐるぐると周りながらに付きまとわれた。用事が終わったカヨがに、「ちゃん帰ろうかあ~」と言ってようやく、空却はのストーキングから解放されたのだった。その後、灼空にはにしたことに対してしこたま叱られ、頭にはいつもよりも大きなたんこぶが乗った。あの日は今年一番の厄日だったのではと空却は振り返る。
 後に灼空から聞いた話によると、と空却は同い年ではあるものの学区が違うらしく、彼女は自分とは違う小学校に通っているらしい。どうりで見たことのない顔だと思った。しかしそれでいい。あんなのがクラスにいたのでは、毎日むかむかいらいらして仕方がないだろうから。
 もう二度と見たくなかった顔だったが、まさかこんなところで出会ってしまうとは。こちらに向かって手を振るのことはもちろん無視。空却はくるりと方向転換をして走って逃げた。
 またカルガモの親子みてーになるのはごめんだ。空却は狭い路地に入り、複雑な道を次々に走り抜けるが、やはりはその後を追いかけてきた。くそっ、たいそうふくが入ってなけりゃもっとはやくはしれんのに……ッ!!

「ついてっ、くんじゃねえッ!」
「わたしのっ、おうちっ、こっち、なんだあっ。くうっ、ちゃんもっ?」
「くーちゃんって! よぶなっ! あと! おれんちはあっちだっ!」
「はんたいのっ、みち? どうしてっ、こっちにいくのっ?」
「おまえからっ!! にげとんだわッ!!」

 ついに燃料が底を尽きた空却は急ブレーキをかけて立ち止まる。ぜえ、はあ、と息切れする空却。それ以上にも息を荒くしているが、やはりその顔は笑っている。こっちは何も楽しくないというのに。
 息を整えながら、空却はのろのろと歩き出す。もちろん、後ろからの気配もおまけでついてきた。もう、逃げることも怒鳴ることもしなかった。

 空却が色々と諦めたところで、向かいから大型トラックが大きなエンジン音を立てて走ってくる。古いテナントが密集しているこんな狭い道を走るなんて常識知らずな。もしやてめー大須くんのはじめてだな? はやいとこほかのやつにとおりやすい道おしえてもらえ。
 そうは思いつつ、轢かれて困るのは自分自身。空却は塀側に体を寄せる。名古屋では車を甘く見たら最後、生きて家には帰れない。空却には大きな夢がある。こんなところで大事な命を落とすわけにはいかないのだ。
 すると、運転手が空却たちに気づいたのか、トラックがゆるゆるとスピードを落とした。なんだよ、これでもとおれねーのかよ。しかたねーな。空却はいったんその場で立ち止まって、その間にトラックに自分を抜かしてもらおうと思った。
 そんな中、後ろからすう~っと自分を追い抜かす赤いランドセルを空却は捉える。しかも塀側に寄らず、あろうことか進行中のトラックと追突しそうなところにいて、空却の顔はさあっと青ざめた。

「おいッ!!」
「わあっ」

 空却は後ろからランドセルのかぶせを引っ張って、を制止させる。そのまま彼女を塀に寄らせると、トラックはのろのろとしたスピードで二人の横を通り過ぎて行った。
 遠のいたトラックを確認した後、空却はのランドセルをぱっと放す。はなにがなんだかという顔で目をぱちくりとさせていた。

「ぼさっとしとんなっ! トラックきとっただろーがッ!」
「ほんとだねえ」

 “ほんとだねえ”じゃねーんだよ。つかきづくのおせーよ。おまえのそのふたつある目ん玉はかざりか。

 空却が肝を冷やしてから暫く。それからも、空却一人だけなら何ともない災難が次々に降りかかってくる。の不注意がすべての要因だ。昨日出来たばかりの大きな水溜まりを平気で踏もうとするし、コンクリートが抉れた部分をあえて突っ切ろうとするし、さらにはゴミを漁るカラスが物珍しいと言わんばかりに近づこうとするのである。
 バカだ。こいつはほんもののバカだ。おかげで、空却は歩きながら何度も後ろを向いて、が変なことをしていないか確認する羽目になる。今日も厄日か。これでは寺に着くまでに疲れ果ててしまう。つか、なんでおれこっちの道きとんだ。空却の疲労と反比例し、寺との距離はどんどん遠ざかる一方だった。

「おまえ……おれがおらんかったら今ごろあの世行きだぞ」
「えへへ」
「ほめてねーよ」

 そうだ。これはカヨからお守り代をもらうべきだ。このまま床屋に寄って、カヨに鬼まんじゅうをもらおう。鬼まんがなくてもとりあえずなんかはあんだろ。空却はそれだけを楽しみにして、の方をくるりと振り向いた。

「いいか。おれがとまったらとまれ。あるいたらあるけ。おれがとおった道いがいの道をあるくんじゃねーぞ」
「うん。わかったあ」

 それ以降、は空却の言う通りに進むようになる。車が来たら塀側に寄るし、水溜まりや鳥にも目移りしない。存在が鬱陶しいことには変わりないが、さっきよりも後ろを気にしなくていいので幾分かは楽だった。
 歩いて数十分。ゴールである床屋がようやく見えてくる。普段なら回っているはずのサインポールがうんともすんとも言わない様を見て、空却はなんとも言えない気持ちになった。
 とりあえずのお守りから解放されることになった空却が深々とため息をついていると、「よかったあ」との安心した声が聞こえた。

「あ?」
「きょうねえ、いつもいっしょにかえってる子がおやすみでねえ。ひとりでかえるのさみしかったんだあ」
「で?」
「くーちゃんがおってくれてよかったなあって」

 そう言って、は目を細めて嬉しそうに微笑む。いつもなら言い返すのだが、言葉がぱっと出てこなかったため、空却はしばらくその場で硬直することになった。
 その時のの表情がなんとも――いや、なんともない。……ん。やっぱ、こいつを見てるといらいらする。空却はそっぽを向くように地面を見下ろして、ようやく口の中で生まれた言葉をぼそっと吐き捨てた。

「だから……くーちゃんってよぶなって言ってんだろーが」

 掠れてしまったこの声は、きっとには聞こえなかったにちがいない。それよりも、もうすぐカヨのおやつが食べられる。どうせ家に帰っても雑用三昧だ。甘いものをたくさん食べてから帰っても、寛容な仏様は怒らないだろう。
 一瞬、おかしなふうに動いた心臓に気づかないふりをした空却。カヨの美味しい鬼まんじゅうの味を思い出しながら、口の中で舌を躍らせた。