Episode.22



「空却さん、なんだか雰囲気変わったっすか?」

 来週に控えているライブの打ち合わせ中のことだ。
 ライブ中のパフォーマンスの案を出し切って、ぬるい空気が部屋に流れた頃。茶請けのせんべいをパリポリと食べながら、隣に座る十四がそんなことを言った。
 空却はすっかりぬるくなってしまった茶をずずっと啜る。

「知らね」
「いつもよりも物腰柔らかというか、なんというか……。獄さんもそう思うっすよね?」
「……さぁな」

 向かいにいる獄はわざわざ空却に視線を変えてから、はぁ、とわざとらしく息を吐いた。これ見よがしな態度に、ふん、と空却は鼻を鳴らす。

 空厳寺内の客間にて――机の上に広げているのはライブ会場の図面だ。十二月の頭に行われるこのライブが、年内最後のワンマンライブとなる。よって、相応のパフォーマンスを魅せるべく、それなりに気合いも入る。
 だんだんと日も近づいてきたので、今日はこうして三人で顔を合わせて当日の計画を練っていたのだった。「話戻すがよ、」

「ここは拙僧がステージから飛んで客降りするからな」
「えぇっ!? だめっすよ! このあいだオオスでライブしたときもスタッフさんに怒られてたじゃないっすか!」
「んなもん聞いた方が負けだろ。つか、立ち位置の反対側にある階段までいちいち歩いて行ってられっか。めんどくせえ」
「勝ち負けの問題じゃないっすっ。行くのが面倒なら、こっち側にも階段つけてもらいましょうよっ。空却さんは怪我人なんですから、ライブ中も絶対安静っす!」

 ライブしてる時点で絶対安静じゃねーだろ――空却はそう突っ込みたかったが、十四はステージの見取り図を指で差しながらだめっすだめっすと言ってきかない。
 骨折したのは、イケブクロで自ら骨を折って以来だ。あのときと違うのは、今回負傷したのが利き手であること。だがさほど不便とは感じていない。

「こんなんもう痛かねーっての。ライブ当日にはちょうどギプス外れるしな」

 ガチガチに固められた右腕を机の端にごん、ごん、と打ちつけると、「痛い! 痛いっす!」と、なぜか十四の方が痛そうな顔をしている。顔をくしゃっと歪めながらも、設備の項目にちゃっかり階段を付け加えていた。

「なら来週から家に帰してやれよ」
「それとこれとは話が別だ」

 保護者面をしている獄の言葉を一蹴する。獄がまたなにか言おうとすると、「今日変更したところは、自分からスタッフさんに言っておくんで!」とこちらの話を聞いていない十四が遮った。

「でも、空却さんが階段から落ちるなんて珍しいっすね……。年末年始の準備で忙しかったんすか?」
「まーな。拙僧だって血の通った人間だ。そういうこともあんだよ」
「嘘つけ」
「嘘じゃねえ」

 なにかいうたびにずっと不服そうな顔をしている獄。空却は茶をすべて飲み干して、手元にあった急須を傾ける。注ぎ口から出てきたのはわずかな茶渋だけだった。
 すると、タイミングを見計らったように聞こえてくるのは小さな足音。その音は部屋の前に来たところでぴたりと止まった。

「入れ」

 外に向かって呼びかけると、遠慮がちに襖が開いた。十四は「えッ? えっ!?」と、部屋の外にいた人間と空却を見比べて目を開いている。獄はまたしても深い溜め息を零した。

「こんにちは、十四くん」
「こんにちはっす! じゃなくて、ちゃん、どうしたんすかその格好っ!」

 急須を乗せたお盆を持って机のそばにやってきたのは、作務衣姿のだ。新しく持ってきた急須を、中身がなくなった急須と取り替えて、空になった湯呑みにトポポ、とそそいでいる。
 茶を注ぎ終えたは十四に苦笑いする。一瞬、の視線を感じたが、目の前に置かれた湯呑みに視線を落としている自分のものと交わることはない。淹れたての茶に口をつけるとかなり熱かった。舌がひりつく。噴き出すわけにもいかないので、空却は真顔を貫いた。

「ちょっと、いろいろあってね……。今はお寺で住みこみでお手伝いしとるの」
「いろいろって……もしかして、空却さんの怪我となにか関係あるんすか?」

 普段ぼけっとしているくせに、なかなか鋭い。しかし、の言葉を聞いて思い当たることといえばそれくらいなので、十四がドンピシャで言うのも無理はなかった。
 いろいろ――そう、あれから本当に色々あったのだ。

 二週間前――階段から落ちたを庇って、固い廊下に体を叩きつけられた。背中から落ちたので正面で抱えたは無傷だったが、当たりどころが悪かった自身の右腕には鈍い痛みが走った。
 それを隠せたらまだよかったものを、咄嗟の痛みに顔を歪めてしまった。他人の変化に敏感なが、それに気づかないわけがなかった。

 ――「空却くん大丈夫っ!? 痛いっ? どこか痛いッ? うでっ? 右腕が痛いのッ?」
 ――「痛くねえ……ッ」
 ――「くうちゃん動いちゃかんっ。頭は打っとらんね?」

 一部始終を見ていたういろの飼い主も加わって、大きくしたくないことが無駄に大きくなってしまった。しかし、やたらと救急車を呼びたがるを制してくれたことはありがたかった。べしょべしょに泣いているを落ち着かせながら、婦人はテキパキと言った。

 ――「どうしよう……っ。おばさんどうしようぅ……ッ」
 ――「大丈夫ちゃんっ。くうちゃん強い子だからっ。くうちゃん、足は平気? 立てる? 病院までおばさんが車出すから、二人ともうちにおいで」

 婦人は取り乱したを宥めながら――そんなは空却の腕を労っているのだから変な図だ――結局、病院に駆け込むことになった。皮肉にも、に怪我を負わせたときに行った病院だった。

 全治二ヶ月ですね――医者から言われた言葉に、なら一ヶ月で治るな、と空却は思った。骨自体折れているわけではなく骨にヒビが入っているから治りが遅い云々言われたが、話の後半あたりはほとんど聞いていなかった。治ったかどうかを決めるのはこの腕の持ち主である自分だからだ。しかし、それを一緒に聞いていたはすでに真っ青だった顔をさらに青くしていた。
 病室を出ると、婦人が良かれと思って連絡したらしい灼空が待合室で待っていた。そしてなぜか獄もいた。ちょうど灼空に用事があって、連絡を受けたときにたまたま寺にいたという。ここまで送ってくれた婦人は、すでに灼空が帰らせたようだ。
 集まった人間といい、今いる病院といい――まるで、に怪我を負わせたあの日のようだ。空却はあまり良い気分ではなかった。

 ――「おじさんごめんなさい、わたしが走り出してまって、階段から落ちて、空却くん庇ってくれて、いっしょに落ちてまってッ。空却くん骨折ってまってっ、ごめんなさい、ごめんなさいぃ……ッ」
 ――「分かった。分かったから、ちゃん。少し落ち着きなさい。まず、年末年始の準備をほっぽりだした空却がなぜちゃんの家にいるのか聞かせてもらえないか」

 灼空を見るなり、は泣きついた。あの日を再現しているかのように同じ構図だ。獄に至っては、“今度はになにをした”と言わんばかりの目で見てきた。今回はなんもしてねえ。
 ひとしきり落ち着いたと思えば、今度は金の話が始まった。「おかね……。慰謝料、払わんと……」と亡霊のように呟くは、特に見ていられなかった。

 ――「ひとやさん、お金どれだけ必要ですか……? 今ある貯金で足りるか分からんくて……どこかから借りんとかん……?」
 ――「落ち着け。金は必要ないってさっき灼空さんに言われてただろ。それに、のときに比べりゃ骨折なんてかすり傷だかすり傷」

 さめざめと泣くになにか言いたかったのに、「ややこしくなるからお前は黙ってろ」と獄に言われた。その通りと思った自分もいたので、不本意ながら黙るしかなった。

 それが終わると、の一方的な主張が始まった。この右手が使えるようになるまで、自分の身の回りの世話をしたいとのことだった。一度取り乱したは聞く耳を持たないので、たとえ灼空であろうと納めるのは難しかった。

 ――「空却くんのお世話させてくださいッ」
 ――「いや、世話をされるような怪我ではないから気にしなくても――」
 ――「空却くんの代わりに年末年始の準備もしますっ。お寺にお泊まりして一日中お寺のことやりますっ。朝早く起きるのもがんばりますっ。なんでもしますっ。お願いしますッ」

 ここで空却が口を挟まなかったのは、が、空厳寺に住み込みで、自分の世話をする、ということに対して満更でもなかったからである。

 そんなことがあり、こうしてが寺にいる生活が続いている。ういろは婦人の元へ返したので、今あの家は無人状態だ。
 寺に泊まることは許したが、「自分のすべきことが最優先」という灼空の言葉のもと、の仕事は休ませず、空いた時間に寺務をしてもらうという話に落ち着いた。あくまで“世話”ではなく“寺務”をしてもらうという名目での泊まりだ。余計なこと言いやがって、という不服な態度が出ていたのか、「世話が必要なら私がしてやる」と言われてしまったので、渋々言葉を飲み込むしかなかった。
 初日は違和感が大きかったの作務衣姿も今では見慣れてきた。自分が小学生のころに使っていたものがそのまま着れてしまったので、最初見たときは一瞬固まってしまった。改めての小ささを実感した瞬間だった。

 流れるように日々が過ぎていく。同じ屋根の下で暮らしているというのに、と会話する機会はほとんどなかった。というのも、怪我させたことに対して、が一方的に気まずくなっているからだ。目は合わないし、距離が近くなると居づらそうに体をそわそわをさせる。まるで去年までの関係に戻ったようで少し不愉快だ。こちらから話しかければいいのだが、こっちはこっちで考えることがあったので、それもできずにいた。

「うん。空却くんの怪我はわたしが――」


 馬鹿正直に説明しようとするを声の圧だけで制す。この場で何も知らないのは十四だけだ。わざわざ話を広げるまでもない。
 は過剰に体を震えさせて口を閉ざした。急に塞ぎ込んだようになったを見て「え? えっ?」と十四はと自分の顔を見合わせている。
 話を繋げるべく、空却はに視線をやった。

「ところで、中庭の掃除は終わったのかよ」
「ま、まだ終わっとらんっ。今からやってくるねっ」
「それ、本来お前がやることなんじゃねえのか」
「うるせーな。こんな腕じゃ箒も持てねえだろーが」
「片腕で大男一人倒せるやつが何言ってんだ」
「大丈夫ですひとやさんっ。わたしがしっかりやるのでっ」

 獄との間に入るようにが言う。に言われては黙っているしかないのか、獄は苦々しい顔のままこちらを睨みつける。ふん、痛くも痒くもねえ。
 すると今度は別の足音が近づいてくる。「失礼する」と、部屋に入ってきたのは灼空だった。次から次へと、と内心舌打ちをした。

「空却。中庭の掃き掃除は――」
「わたしがするので大丈夫ですっ」

 食い入るようにが言って、彼女はそそくさと部屋を出た。その背中を見送った後、深々と溜め息をつく灼空が、さっきがいた場所に腰を下ろした。

「灼空さん、いいんですか。この赤坊主の暴挙を許して」
「赤坊主言うな」

 空却が突っ込みを入れると、灼空は苦々しく口を開く。

「本来なら泊まりこみも断るところなのだが、年末も近づいているし、ちゃんは空却の倍働いてくれるので、正直とても助かっていてな……」
「断るに断れないってことっすね……」

 灼空は深く頷く。三人分のじっとりとした目線を受けて、「拙僧はなんも悪くねえッ」と声を張った。
 誰からも文句は言わせない。言われる筋違いもない。なにもかも、が自ら望んだことなのだから。それに、無理難題を頼んでいるわけでなはなく、でもできる仕事を回している。電話受け、お茶出し、掃除……言いつければは喜んでやるので、無問題だ。

本人は慰謝料代わりだと思っているでしょうね」
「慰謝料だなんてとんでもない。むしろこちらがお金を払うべきとさえ思っている」
「大変そうっすもんね……。お寺のこともして、カフェのお仕事もして……」
「おい。だからなんで拙僧を見んだよ」

 どいつもこいつも拙僧をいじめっ子みてーな目で見てきやがる。しかしまあ、そんな目も気にならないくらい、空却は今の現状に満足していた。
 が目の届く場所にいる――それだけでどれだけ胸のざわつきが減るか。ここにいる全員は知らないのだ。







 打ち合わせが終わり、十四と獄を正門で見送った空却は別の部屋に移った。
 ちょうど庭先に面している部屋で、ここからだとが掃き掃除をしている様子がよく見える。あっちは見られているとも知らずに、せっせと落ち葉を集めている。
 そんなを見てから、空却は一人考え事をしていた。

「(……拙僧がにやったやつだった。全部)」

 が“好きな人からもらった”と言っていた、あのカンカン――意図せず中身を見てしまったが、正直ガラクタばかりだった。

 そして、すべて自分がにあげたものでもあった。

 ひと目見たときは思考が停止した。嘘だろ、と何度も思った。なぜならあの中身は“が好きな人”からもらったものが入っているはずだからだ。
 なぜ自分があげたものが入っていた? あの中身を見られたくないがために、が好きな人からもらったなどと適当な嘘をついていた? なら、あの中を見られたくなかった理由は? あれを見た瞬間には自分から逃げた理由は? もしもあのカンカンがフェイクだったとしたら、“好きな人”からもらったものが入っている、本物のカンカンはどこに? そもそもそんなものは最初からないのか?
 疑問が疑問を呼んで、結論に辿りつかない。こんなことをぐるぐると考えていたら、ずいぶんと日が経ってしまっていた。ろくにと話もできないまま。

「(訳分かんねえ……)」

 空却は頭を抱える。
 が好きなのは、中学三年のときに同じクラスだった男子。これは杏からの情報だ。そして、カンカンの中にはその男からもらったものが入っている。これは本人が言っていたことだ。本来綺麗に完成するはずのパズルのはずなのに、別の絵柄のピースが入っていて、一つの絵がいっこうに完成しない。

「……分かんねえ。マジで分かんねえ」

 ついに声に出た。詳細を聞こうにも、今のは寺務をするという使命感で頭がいっぱいだ。その証拠に、カンカンの話は一切出てこない。聞こうにも、空却自身もどこから何を聞いたらいいのか分からなかった。情けない話だ。

「――ごめんね。今はいっしょに遊べんの」

 ふと聞こえてきた好きな声に、空却は顔を上げる。
 庭の様子を窺えば、が箒を掃く手を止めて、地面に話しかけていた。

「(いや……猫か)」

 小さな毛玉がの足元で転がっているのが分かった。ごめんね、と謝りつつも、の顔は緩みきっている。

「がんばってお掃除しなかんの。ね、また今度あそぼうね」

 幼子に言うように話しかけているが、猫に人間の言葉が分かるはずもない。箒の先端とじゃれ続けている猫に一方的に話しかけて、しばらく。
 が周りをきょろきょろと見回し始めた。なんだ?と思って見つめていたら、おそるおそるしゃがみこんで、箒を地面に寝かせた。

「ちょこっとだけだよ……?」

 意思が弱え。
 腹を見せた猫と遊び始めてしまったに呆れる。「ふふ、かわいい」などと言って、すっかり猫の虜だった。
 ああなると遊びっぱなしだ。空却は腰を上げて、外履きに履き替えて庭に向かう。ちょこっとだけ、と言ったのにも関わらず、はまだ猫とじゃれていて、背後に立った空却の存在に気づかないでいる。



 尖った声色にならないように呼びかける。遊んでいたことを咎めるつもりはないからだ。「空却くんちの猫ちゃんはみんな人なつこいねえ」と言いながら、笑って振り返るんじゃないかという想像だけで、ここまで足が伸びていた。
 しかし、現実のは体を震わせて、こちらを振り返る。「くうっ……!」と裏返った声を発して、慌てたように箒を持って立ち上がった。

「こっ、これはその、ね、猫ちゃんが可愛くて、すこしだけって思って……っ」

 想像の世界にいたが消える。この感覚は……あれだ。去年の今頃は、こうして声をかけるだけでこんな反応をされていた。さすがにあのときと比べたら、だいぶフランクになっているが。
 どうやらは怒っていると思っているらしい。たしかに、状況を見れば掃除をサボって猫に遊んでもらっていたともとれる。というかそうだ。しかし、今の態度はまたあの頃に戻ったように感じてしまい、決して面白いものではなかった。

「(……いや待て)」

 これはチャンスじゃねーか――空却は思った。この際白黒はっきりさせたいことを聞いて、この疑問を解消したい。最近はずっとカンカンのことばかり考えすぎていて、そろそろ頭が痛くなっていたころだった。

「掃除はもーいいから。こっち来い」

 今のならば聞く耳を持つだろう。灼空もたしかこれから祈祷依頼が入っていたので、しばらくは本堂から出てこないはずだ。
 邪魔者はいねえ、と空却は心の中でにやりと笑みを浮かべる。歩き出すと、後ろからは箒が擦れる音が元気なさげについてきていた。


 を連れ込んだのは、離れにある小さな茶室。借りてきた猫のようにおどおどしているを一瞥して、部屋の隅に積まれた座布団を二つ並べた。

「ここ、おじさんに空却くんがよくお説教されとったところ……?」
「んなこといちいち覚えてんじゃねーよ……」
「お布団でぐるぐる巻きにされたり、柱のところに吊るされたりしとったよね……っ?」

 皆まで言うんじゃねえ。葬り去りたい過去を掘り起こされて、空却は苦虫を噛み潰したような顔をする。
 ここに座れ、と顎で促すと、は座布団の上でおそるおそる足を折った。なにを勘違いしているのか、自分も灼空流の仕置きをされると思っているのだろう。は顔を真っ青にして詰め寄ってきた。

「つっ、つぎは、ちゃんとお掃除するから……っ」

 おしおきしないで、と顔に書いてある。そんなことをするように見えているのが心外だが、この状況を楽しんでいる自分もいた。

「(かわい……)」

 こちらの顔色を窺いながら言葉を選んで、自分の存在で頭が満たされているが。昔は腹が立ったものだが、なぜだろう。今は可愛くて仕方がない。ずっと見ていられる。
 ……が、ここで許したら面白くない。空却はすました顔で胡座をかいた。そのころには、をここに連れてきた目的が頭の隅に追いやられていた。

「どーすっかなァ」
「わっ、わたしどうしたらいいっ? なにかお詫びとか……っ」
「ちったあ自分の頭で考えろ」

 は目を泳がせて言葉を探し始める。えっと、えっと、と小さな口が動くたびに、その唇の柔らかさを想像していた。

「おかしも食べんし、ねこちゃんとも遊ばんし、朝も空却くんよりも先に起きれるようにがんばるし……っ」
「そんだけか」
「あと、あと……っ。あっ、ごはんも作るし、お洗濯もするし、お掃除もこれからはちゃんとするし……っ」
「あとは?」

 を困らせたい。自分一人ではどうしようもなくなって、助けを求めるが見たい。腰から背中にかけてぞくぞくとしたものが這っているのが分かる。ネタがなくなったが目をきゅっと細めてこちらを見る。あーたまんねえ。今度は部屋の周りをおろおろと見渡した。そんなところに答えなどあるはずないのに。
 ちょっと涙ぐみ始めたら冗談だっつって流してやるか、と思っていたら。の目の奥が閃いたとばかりにきらっと光った。

「お、お抹茶、立てます!」
「は?」

 意外な言葉に首を傾げる。は嬉々として部屋全体を見渡した。

「ここ、茶室だよね? 道具があれば、お抹茶立てられるよ」

 そういやこいつ中学んとき茶道部だったな、と思い出す。高校も茶華道部に入ったと言っていたし、素人ではないだろう。現に、自信あります!との顔に書いてある。
 昔、強制的に茶道の作法を叩き込まれたことがあるが、あまり好きではなかった。たった一つの所作でさえ堅苦しいし、抹茶は苦い。菓子も小さくて食べ応えがなかったからだ。
 しかし……それはそれとして茶を立てるは見たいし、の立てた抹茶は飲みたいと思ったので。

「……じゃあ頼むわ。道具は台所の棚にあっから、好きに使っていい」
「うんっ」

 待っとってね、とは軽い足取りで部屋を後にした。妙なことになった、と思いながら、空却は大人しくを待つ。

「(茶会……)」

 思い出すのは、中学の文化祭。数日前にからもらった茶会券。と合わせる顔がなくなって、行けずじまいだった。少し……ほんの少しだけ、もったいないことをしたと、当時は思っていた。

 ――「空却くん、お茶会、行けなくなってまった……?」

 あのときの、の悲しそうな顔。そのあと自分が言った言葉で、さらにその表情は歪んだ。以降、と話すのは進級してからだった。
 いくつもあった分岐。あの頃の自分ができる最善の選択だと思えば、後悔はない。むしろ、茨道を進んできたからこそ、今ある繋がりはなかったかもしれないと思うと、それはそれでいいとも思える。切ろうと言われても切らせない。切れそうとなれば力ずくでも結びつける。そんな強い意思が、自分の中で燃え滾っている。どん底を味わったからこそ、これからほんの少しの溝ができようと、自分から飛び越えることができると自負していた。

「おまたせしましたあ」

 軽快な声とともに笑顔のが入ってきた。直射日光を浴びたように、空却はぐっと目を細める。
 茶を立てる準備を始めたをぼんやり眺める。寺に来てからというもの、こんなに近距離で見ることもできなかったので、今のうちに堪能しておく。忙しなく動く小さな指、後ろでちまっと結ばれた髪から遊ぶ髪の毛、丸っこい肩……「これはこっちで……」と囁き声のような独り言も心地いい。
 粗方準備が終わったところで、小皿に置かれた茶菓子が出される。小さな風呂敷包みのような見た目で、包みを開けると黒い液体が入ったタレ入れと菓子切り、そして小さな長方形の容器が入っていた。これは――

「信玄餅か」
「うんっ」
「どうしたんだよこれ」
「このあいだ、おじさんに箱ごともらったの。いただきものだけどよかったら、って」

 親父に餌付けされてんじゃねーよ――灼空から渡された菓子箱を嬉しそうに受け取るを想像して、なんとなく不快に感じる。空却はちんまりとそこに佇む信玄餅を睨みつけた。

「ひさしぶりだからあんまり上手くないかもしれんけど……がんばって立てるね」

 着物も着させりゃよかったか、と思ったのは、が小さな茶漉しで抹茶をふるい始めてからだ。大きな器に抹茶の粉がさらさらと落ちていく。小さな人間が小さな動きをしているとさらに小さく見える。
 茶筅ちゃせんでシャカシャカと抹茶を点てる。出来上がった抹茶の表面には細かい泡がふんわりと被っており、みてえだな、と自分でもよく分からないことを思った。
 どうぞ、と緊張を帯びた声で茶碗を出される。片手で茶碗を持って、ひと口つける。口当たりはまろやかで、うちにある抹茶は苦味の強いものなのに、苦味はほとんど感じなかった。しばらく舌で転がしていると、ほのかに甘みさえ感じた。

「……結構なお手前で」

 茶碗を置きながら呟くと、それはもう分かりやすいくらいにが表情を綻ばせる。

「ほんとっ? ほんとっ?」
「ほんとだっての」

 あまりにもはしゃぐので、こちらも笑みが溢れる。「よかったあ」とは体を左右にゆらゆらと動かして、嬉しさを体の外に出している。さっきまでの奥ゆかしい雰囲気はどこへ行ったのやら。空却は喉の奥でもう一度笑った。

 自分の分の抹茶も立てたはまったりと過ごしている。すっかり茶会のような雰囲気だ。が横で信玄餅の個包装を開けているのを見ながら、の声に耳を傾けた。

「ここの信玄餅、すごくおいしいよね。わたしも職場の人のおみやげでよくもらうんだけどね、黒みつがとろっとしとって、きなこも甘すぎないから何個も食べちゃ――あっ」

 が不意に顔を上げる。手元にあった信玄餅を交互に見つめて、さっきまでの嬉しそうな顔がすっとなくなった。

「食べにくいよね……?」
「あ?」

 空却は首を傾げる。「信玄餅……」とが呟いたときに、ようやく彼女の言いたいことを理解した。
 右手がギプスで固定されているのでそれは確かに食べづらいが、黒蜜を適当にかけてひと口で食べようと思っていたので、心配されるほどではないのだ。
 しかし、それを伝える前に、が空却の分の信玄餅の封を開けてしまう。

「気づかんくてごめんね、無神経だったよね……。わたし、口のところまで運ぶね」
「は」

 片方の口角がぴくっと引き攣った。は申し訳なさそうな顔で黒蜜をかけ始めている。「おい待てって」と言えば、「あっ、ごめんねっ。黒蜜かけすぎたっ?」と的外れなことを言っている。そうじゃねえ。
 そのまま怪訝な顔を浮かべていると、がはっとした顔をする。さすがに片手でも食べられることに気づいたか。

「ちゃんと黒みつときなこは絡ませるから大丈夫だよっ」

 だからちッげえっつの。
 はどこまでいってもだった。にこにこしながらきなこと黒蜜を餅と絡ませている。止めてやりたいが、がとても楽しそうなので、これから襲いかかる恥は飲み込むことにした。

「はい、どうぞ」

 菓子切にささった信玄餅が口元に運ばれる。口を開いたら自分の中のなにかが許さないような気がしたが、の厚意を無碍にするのも本意ではなかった。
 空却は意を決して、口を開ける。ゆっくりと近づいた信玄餅が、口の中で優しく触れた。

「おいしい?」
「……うまい」
「もっと食べる?」
「ん……」

 正直、味がしない。五感の神経がすべてに持っていかれて、菓子を味わうどころではなかった。
 は満面の笑みで、「ちょっと待っててね。今いい感じにするからね」と二口目の餅に追ってきなこと黒蜜をかけている。餅食べさせてるだけなのに嬉しそうな顔しやがって――やけに響く心臓の音が本当に煩わしい。

「(……カンカンの中身、どういうことだよ)」

 今、そう言ったら、は取り乱すだろう。信玄餅も食べかけで、今ある笑顔も失われる。聞きたい気持ちはあるが、それらを犠牲にして聞くことかと問われれば、自分の中にある疑問は小さいことのように思えた。

「空却くん」
「おう」
「信玄餅、もう一個ずつ持ってきたんだけど……」
「……食う」

 「夕ごはん前のおやつだね」とはそう言って、二個目の信玄餅を開けた。







 夕暮れ時。夕方のおつとめを終えると、おつとめの見学だけしていたは夕食の支度をしに台所へこもった。
 一日の中で、この時間が一番暇だ。台所のあたりをうろうろしていても、「夕ごはんできたら呼びに行くから、空却くんはゆっくりしとっていいよ」と言われるので、に構うことができない。しばらくして台所から香ってくる匂いから、夕ご飯が何か想像するだけの時間だ。

「あ? なんだ親父。出かけんのか」

 法衣姿の灼空が玄関先にいた。見かけたついでに声をかければ、外履きを履き終えた彼がこちらを振り返る。

「ああ。お通夜が入ってな」
「帰りは?」
「先方の家に泊まることになるだろうから、明日の昼前には帰ってくる。夕ご飯を食べられずにすまないとちゃんにも伝えておいてくれ」
「おう。いってら」

 静かに仕舞った引き戸の音を聞いて、空却は踵を返した。この度ホトケ様になった方にはお悔やみ申し上げるとして、との二人きりの時間がやってきて、心が踊る。足取りも軽い。
 台所に入ると、カレーの匂いがふわっと香る。台所を覗くと、が背伸びをしながら食器棚から皿を取ろうとしていたところだった。


「わっ」

 背後から声をかける。上を向いたと目が合い、その手よりも先に皿を二枚取った。なんちゃって茶会を経て、少しだけの雰囲気が緩くなった気がした。

「今さっき親父が出かけたから、夕飯は二人分でいい」
「おでかけ?」
「通夜」

 すぐには納得した顔をする。この流れも慣れているだろう。小さいころに伊達に何度もうちに泊まったわけではなかった。
 炊飯器を開けると、炊き立ての白米がつやつやと輝いていた。しゃもじでかき混ぜると湯気が激しく踊る。平皿に山盛り注ごうとしたとき、鍋の前に立っているが「空却くん大変っ」と声を上げる。
 「どうした」と聞けば、なぜか彼女はカレー鍋に蓋をした。

「福神漬け、忘れとった……!」

 「今から買ってくるねっ。すぐ戻ってくるからっ」と、エプロンを脱いで今にも外に出ていきそうな。大したことではないだろうと思っていたが、本当に大したことではなかった。たかだか福神漬けに世界が滅亡するような顔を浮かべているに対して噴き出さなかっただけ御の字だろうと自分を褒める。
 窓から外を見る。冬至が間近に迫っており、見るからに真っ暗だ。こんな夜道を一人で歩かせる頭はなかった。

「支度終わったら玄関な」

 福神漬けなどあってもなくてもいいのだが、との散歩も悪くないと思った。というのも、店からの行き来以外に外に出していないのだ。決して軟禁しているわけではない。が外に出ようとしないだけだ。寺のことを真面目に取り組んでいる証拠でもある。

「福神漬け、コンビニに売っとるかなぁ」
「スーパー行った方が確実じゃねーの」

 正門を出て、二人で歩き始める。はトヨタで買ったマフラーを巻いていても、「寒いねぇ……」と声を震わせている。マフラーだけではなくブルゾンも着込んでいるおかげで、いつもよりもひと回り大きく見えた。
 雪ん子、と空却は頭の中で呟いた。

「(まぁ、さみぃっちゃさみぃな)」

 昼は日が照っているおかげでまだ暖かい日もあるが、この時間は芯から冷える。その証拠に、隣を歩くは一言も話さない。時折漏れる白い息が、ぷるぷると震えているようにも見える。徒歩五分圏内にあるコンビニよりも、往復で十五分かかるスーパーを選んだことに小指の先ほどの罪悪感を覚えた。

 スーパーに到着して、の足は迷いなく冷蔵コーナーに向かった。

「福神漬け、福神漬け……あったっ」

 棚の高いところにあったので、の代わりに手を伸ばす。あとは帰るだけ、と思いきや、はなぜか周囲を見回している。視線の先には、特売コーナーにずらりと並ぶサラダ油があった。

「なんかほかに買うもんあるのか」
「サラダ油、もうすぐなくなるなぁって思って……。でも、おじさんに買っていいよって言われとらんし、どうしよう」
「どうせ使うもんだから買ってけよ」
「それじゃあ、一本、中くらいのを……。あっ、あと、牛乳も最後のもの封切った気がするっ」

 一つのものを手に取れば、あれも、これも、と思い出していく。さすがに両手では足りなくなり、空却は近くにあったカゴを持ってきた。

「(くそ楽しいな)」

 買い物に集中しているは、カゴの中にぽこぽこと食料品を入れていく。「明日のごはん用にお豆腐と納豆も……」と独り言を言っては、「空却くん、次こっちねっ」と手招きをする。いつもよりも無遠慮なににやけそうになる。スーパーの営業時間が迫っているせいもあるかもしれないが、今はそれが喜ばしい。
 去年の今頃、鍋の買い出しに行ったときのことを思い出す。あのときは食材とにらめっこしているを見て満足していたが、まさかその上があったとは。噛めば噛むほど味が出るとはこのことかもしれない。

「あとはお会計――あ、こっちの列の方が空いとるね」

 極めつけには、上着を裾をくっ、と引っ張って連れて行こうとする。いつも手を引いていたのは自分だというのに。今はこうして買い出しモードになっているの手となり足となり――

「(なんだ、この感覚)」

 セルフレジにカゴに入れたものを通す。空却はそれを受け取って、彼女から渡されたマイバックに入れていく。さながらの助手である。男性が尻に敷かれるタイプの夫婦の姿が過る。ああいうのは男の方がだらしがねえ、と思っていた。拙僧はぜってえあんな風にはならねえ、とも。
 ただ、そうすることによって増える楽しみがあるかもしれないとは……ほんの少しだけ思った。







 帰り道。スーパーを出てからのは妙にそわそわとしている。寒さや腹が減ったとはまた別のことだろうとは、なんとなく分かっていた。
 そろそろか、と思ったころに「空却くん、」と口を開いたが顔を上げた。

「空却くんに怪我させちゃって、こんなお願いも変なんだけど……。いっかい家に帰って、おかあさんに電話だけさせてもらえんかなって……」

 とても言いづらそうに打ち明けた。ちら、ちら、とこちらの顔を見て反応を窺っている。
 空却はすぐには返事をせず、あの家にあるカンカンのことを思い出していた。

「……いいぜ」

 カンカンのことも、現物を目の前にして聞けばいい。清算すべきものは早くしておくに越したことはない。ほっとしたような顔をしたを一瞥して、空却は白い息を吐いた。
 万が一……この後に及んで東都に行くと言うのなら、本格的に寺に閉じ込めなければならないと思った。自分でも恐ろしいと思えるくらい、冷静だった。


 そうして久々に訪れたの家。は玄関に上がるなり、すぐに電話機の前に向かった。切った電話線を繋げてから、登録してある番号を押して、受話器を耳に当てる。空却はの横に立って、“通話中”という表示に切り替わった画面を見た。

「あっ……もしもし、おかあさん……?」

 内容までは聞き取れないが、おおよその音は聞こえる。なにか切羽詰まったような声だった。
 そういや、最後話したときはブツ切りしたんだっけか、そんで今日まで電話は繋げなくしてあっから――まあ、焦る気持ちは分かるな、と空却は思った。それでもナゴヤに来るという選択肢はねえのか、と舌打ちをしたくなる気分ではあるが。

「えっ? ううん、そんないいよ、有給使わなくても……大丈夫だよ。お友達のおうちに泊まってて、電話出られなかっただけだから……」

 直接会う時間はないのに、電話越しでなら人並みに心配する母親にイライラとする。が宥めている様子に我慢ならなくなって、空却はスピーカー機能のボタンを押した。

《――ちゃんが元気なら、よかった……》

 弱々しい、女の声だ。が驚いた顔でこちらを見る。気にせず話せ、と空却は目線だけで訴えた。

《それで、東都の移住する話なんだけど……。あれから、どうかな……?》

 昔と変わらず気弱な話し方だった。一時期のを彷彿とさせるので、やっぱ親子なんだなと思った。
 母親の問いを聞いたは、息を吸って、ゆっくりと吐く。電話機に入らない程度の音量で、細く、ひそやかに。

「ごめんね。中王区には、行けないの」

 ――言った。
 腕に鳥肌が立ち、髪の毛が逆立つ。に気づかれないように、空却もまた息を吐くと、安堵の気持ちが全身に広がっていく。

「すきなものも、お仕事も、お友達も、大切な人も……今は、ぜんぶナゴヤにあるから」

 の口から紡がれる言葉ひとつひとつが小さな宝石のように聞こえる。と同時に、ナゴヤにあるすべてのものが母親よりも勝ったことが、なによりも嬉しかった。これ以上の優越感は他にない。これで心置きなくを独占――ではなく、寺に置くことができる。
 表情には出さず、空却が心の中で何度もガッツポーズをする中、電話機の中からは重々しいため息が聞こえてきた。

《そっ、か……》
「え……えっと、おかあさん、ずっと待っててくれたのにごめんね。断る形に、なっちゃって……」
《う、ううんっ。ぜんぜんっ。ちゃんが気にすることないよっ》

 声が震えている。本当に、そっくりだった。全然大丈夫ではないときも、はそういう言い方をするのだ。
 一緒に暮らしていなくても、離れていても、なにを考えているか分からなくても――この人はの、母親だ。空却はガッツポーズしていた自分を抑えて、二人の会話をじっと観察する。

《いっぱい、考えてくれてありがとうね》
「う、うん」

 はなにか言いたそうにしている。しかし、母親は今にも電話を切ってしまいそうな雰囲気だ。特段仲が悪いというわけでもないのに、なぜこうも会話のテンポが悪いのか。
 ……通じあっていないような気がする。去年の自分たちの関係を想起させる。あの頃のもどかしい気持ちを思い出して、気がついたらスピーカーに向かって声を張っていた。

のお袋。拙僧は波羅夷空却っつーもんだが」
《え……?》

 「空却くんっ?」とが小声で名前を呼んだ。し、と人差し指を立てて、続けて話しかけた。

「カヨばあの葬式んときに、の横にいたガキだ。覚えてねーならそれでもいいが」
《……あっ》

 記憶のどこかに引っかかったらしい。まあ自分であんだけ謝り倒してたら嫌でも覚えてるわな、と頭の隅で思う。

に会いたけりゃあ、あんたがナゴヤに来い。カヨばあが死んでから、墓参りもしてねーだろ。一方的にこっちに送っといて、用事あるときだけ戻ってこいなんざ虫が良すぎんだよ」
《ご、ごめんなさい……》

 謝り方もにそっくりだ。謝罪は出てくるのに、ナゴヤに来る、という言葉は出てこない。
 戻れないのか、はたまた戻りづらいなにかがあるのか――どっちにしろ知ったことか。あいにく拙僧が大事なのはあんたじゃねえ。好きに言わせてもらう。

「たかだか死に目に会わなかったくれえで娘を恨むような婆さんじゃねーよ。むしろ、あんたがいつナゴヤに帰って来るか首長くして待ってんぞ」
《お母さん……》

 も横でうんうんと全力で首を縦に振っている。そんなに「んで、」と目をやった。

も行きてえんだろ」
「えっ?」
「ツキジ。うめえもん、たくさんあるって話してただろ」

 中学のころの話だ。修学旅行のときにツキジに行きたがっていた。いまだに行けていないが、行こうと思えば時間はあるはずだ。二人の間に見えない壁があるのを感じて、部外者である自分が拳一つで粉砕したい気分になっていた。

も行きたきゃあ行きゃあいいんだよ。実の親になに遠慮してんだ」
「え、遠慮じゃなくて……その、おかあさんの都合もあるだろうし……」
『お母さんは大丈夫だよっ。昔よりも融通きくようになったしっ。ランチでも、食べ歩きでも、なんでもちゃんの好きなことできるよっ』

 これは本当に大丈夫なときの“大丈夫”の言い方だろう。母親の言葉を聞いて、の目がきらっと瞬いた。

「そ、それじゃあ、今度、東都に遊びに行くっ」
『うん……っ、うんっ!』
「そのときはナゴヤのお土産も持って行くねっ。あと――」

 そこからはもう二人の世界だ。お互いに言いたいことだけ好きに言っていて、それぞれの話は繋がっていないのになぜか盛り上がっている。
 しかたねーな、と空却は電話台の隣でしゃがみこんだ。女同士の話は長いことをよく知っているからだ。


「空却くん、ありがとう」
「拙僧はなんもしてねえ。つか、お前らが今まで話さなさすぎなんだよ」

 受話器を置いて、ようやく場が落ち着く。まさかあれから一時間近く話すとは思わなかった。「さすがに腹減った」との耳元で言わなければ、あのままずっと話し続けていただろう。
 言葉でも拳でも語り合うのが親と子だ。少なくとも、うちはそうやって育ってきた。それに、もっと早く話せばよかったという後悔をにさせたくない。最後の方には、母親の声も涙混じりになっていたので、お互いのためになっただろう。
 「それでも、ありがとう」とは嬉しそうに言った。もしも東都に行くときは声をかけろと言うつもりだ。その手を引く役目だけは、誰にも譲りたくない。

「(あとはカンカンの話して……帰るか)」

 たしか二階で散らばったままだったか、と思い出していると、神妙な顔をしているがこちらを見上げていた。

「カンカン、」
「は?」
「みちゃった、よね」

 緊張と不安が混じった声色で、突然は言った。
 見た、という問いに嘘をつく理由もないので「おぅ」とだけ返事をした。の雰囲気に感化されて、こちらまで声が固くなる。

「わたし、言ったよね。ちゃんと、伝えるって。ごめんね、順番、まちがえちゃって……。でも、あの中身は、見せるつもりなくて、ずっと、わたしだけの宝物にしようと思ってたの。き、きもちわるかったら、ほんとに、ごめんね」

 声が硬い。母親に電話かけた直後よりも緊張しているに違和感を覚えた。言っている内容の半分くらいは理解できていない。きもちわるいってなんだ。
 そんな中、“ちゃんと伝える”という言葉の意味は分かった。この家に居候していたとき、は言ったのだ。自分の前で、母親に中王区には行かないと伝える、と。それがナゴヤにいる証明だと。だから今の時間があったのだ。そしては実行した。

「あぁ、だから今伝えてただろ。拙僧はもう十分だ」

 が自分の手の届く範囲にいればいいのだ。あとはもう、の好きに生きていたらいい。心がどこに在ろうが、なんでもよかった。
 声が聞ける。顔が見れる。手を繋げる。同じものを食べて、同じ場所に帰ることができる――これ以上の幸福がどこにある。他にはなにも望まない。望まないから、今のとの関係も保証されている。
 それでも――ちがう、と。そう言わんばかりに、は首を横に振った。

「わたしが伝えたいこと、ほかにもあるの」
「ほかに?」

 なんだよ、と促すが、その後の言葉がなかなか出てこない。なにかを恐れているように、は音のない空気の塊を飲み込んでは唇を結んでいた。
 可愛いな、と思う。もう、その唇にどんな感情が乗っていても、なんの情も湧かないという方が無理がある。真剣に聞いてやりたいと思うし、ほんの少し茶化して力を抜かせてやりたいと思うし、その動作を永遠と見ていてもよいとさえ思う。
 を構成するすべてを、を取り巻く事象すべてを。丸ごと飲みこめたならば。腹の奥に棲む獣は満たされるんだろうと思う。今もなお、唸り声を上げているこれは、自分の骨が灰になろうが共に在るだろう。
 の幸福を願うために、この欲望と共に生き続けると決めたから。輪廻転生――ふたたびの魂と出逢ったとしても、この魂はきっと、今と同じ生き方をするだろう。

「大丈夫だ」

 昔から、を励ましてきた言葉を伝える。長い間、自分に言い聞かせてきた言葉でもある。 ならできる、と。を守れ、と。
 が恐れているのなら、何度でも伝えよう。自分の言葉がなにかから踏み出す一歩となるのなら、背中を押す手となるのなら、この喉を枯れるまで震わせよう。

「全部上手くいく。全部思い通りになる。拙僧がお前の中にあるもん、一言足りとも残さずに受けとめてやっから」

 そう言って笑って、両手を広げる。の目がみるみるうちに潤んでいった。
 そのうち本当に涙が伝って、空却はぎょっとした。おい、と言葉を発しようとして、口を開いた瞬間。唐突に、がほろっと笑った。泣いているのに、笑っている。喜びを分かち合ってこちらも笑えばいいのか、悲しみを汲んで慰めればいいのか分からず、頭が混乱する。
 ろくに言葉も紡げず、の顔を凝視している間に、彼女の頬に新しい涙が伝う。そうして、あれだけ怯えていたの唇が、翼が生えたように軽やかに開いた。
 涙で濡れた目がこちらを映す。澄んだ黒色をした、綺麗な目だ。森の中にある湖の水面のように静かに揺蕩っている。そのあまりのうつくしさに、空却は息を呑んだ。










「すき」

 一秒にも満たない音。たったの二文字。どんなものよりもやわらかいのに、はっきりと、耳に届いた。

「くうこうくんが、すき」

 言葉を操るのが不得意ならしい、シンプルな言葉は、この心臓を突き刺した。涙を流しているのに、嬉しそうで、幸せそうで。そのまま目を閉じて、安らかな眠りについても不思議ではないくらいの穏やかさを孕んでいた。

「すき。くうこうくんが、すき」

 すき。くうこうくん。すき、すき――何度も、何度も、突き刺して。ついに、あれだけ煩かった唸り声が聞こえなくなった。獣が在った場所には、の言葉が広がって、満ちていく。渇ききった心の芯に、愛おしい存在の言葉が染み込んでいった。
 はさらに笑みを深くして、太陽を仰ぎ見るように目を細めた。

「わたしは、空却くんが、だいすきです」