Episode.23
空却くんは、やさしい。
「大丈夫だ」
その声が、言葉が、まなざしが、いつもこの背中を押してくれる。隣に立ってくれて、くじけそうになる体を立たせてくれる。いままで、何度こうやって助けてもらっただろう。
「全部上手くいく。全部思い通りになる。拙僧がお前の中にあるもん、一言足りとも残さずに受けとめてやっから」
空却くんは、力強くそう言ってくれる。もし、わたしが告白することを知っていても、空却くんは今とおなじことを言ってくれるかな。この気持ちを伝えても、今とおなじ温度のやさしさを向けてくれるのかな、なんて。いじわるなことを思ってしまう。そのいじわるにすがりたいくらい、自分の中の不安が胸をぎゅっと締めつけていた。
そんなわたしにも、にっと笑って、両腕を広げてくれる空却くん。ほんとうに、ほんとうに、やさしいなあ。そのやさしさが沁みて、目の前が涙でうるむ。強くて、やさしくて、誰かの道しるべになるように生きている、とてもかっこいい男の子。
昔も今も、わたしにとってたいせつな人。そう……どんなときでもわたしの心を掬ってくれる、そんな空却くんが、
「――すき」
あ。
もっと言葉を選んで、言うつもりだったのに。言う前は、“言わなきゃ”って体に力が入っていたのに。空却くんの笑った顔を見たら、安心しちゃって、口を開けたら、ほろっと出た。毎日、少しずつ湧いていた水がおけの縁からあふれるように、その言葉は自然とこぼれていった。
「くうこうくんが、すき」
目から涙もこぼれる。でも、悲しくない。今までずっと抑えていた気持ちが全身に広がっていって、ただただ、心があたたかい。こんなにもあたたかいものを、ずっとしまい続けていたなんて。なんてもったいないことをしてたんだろう。
こんなにも大切なものだったなら。もっと早くに、伝えていればよかったなぁ。そうしたらもっと、たくさんの時間をいっしょに過ごせたのかもしれないのになぁ。でも、今まであたためていた気持ちだからこそ、こんなにも素直に言えたのかもしれない。ずっとだいじにしてきた気持ちだからこそ、昔よりもずっとずっと大きくなったものを、自分のぜんぶを使って、伝えられてるのかもしれない。
「すき。くうこうくんが、すき」
止め方が分からなくなった気持ちが、口から溢れていく。顔は涙でくちゃくちゃになっているだろうから、今のわたしはぜんぜんかわいくないと思う。口を動かすのにせいいっぱいで、ほかのところを気にする余裕がない。
でも、いいの。これが、わたしだから。空却くんに恋をしたわたしが、わたしをつくっているから。泣いちゃうくらい幸せな気持ちになるのも、しかたがないの。
「わたしは、空却くんが、だいすきです」
笑うと、細まった目から新しい涙がつたう。あったかいなぁ、しあわせだなぁ、もっともっと、伝えたいなぁ。この時間が続くまで、後悔のないように、空却くんにぜんぶあげたいなあ。
全身が“すき”で埋め尽くされる。気持ちを抑えていたふたはどこかへ流れてしまって、見つからない。伝え終わったあと、きっとこの気持ちを隠していた前の自分には戻れないなあ、とぼんやり思った。
すんっ、と鼻をすすって、指で涙を掬う。気が済むまで伝えたいことを伝えて、の中に残っているのはあたたかい言葉の残滓だけだった。
とても晴れやかな気分だった。やっと言えた、という気持ちでいっぱいでしばらく沈黙していたが、すこし経ってから「えへへ……」と照れ隠しに似た笑いが漏れた。
「聞いてくれてありがとう。お寺、帰ろっか」
微動だにしない空却に、そう声をかける。は言いたいことが言えて夢の中にいるような気持ちだったので、空却の表情までよく見ていなかった。
「カレー、温め直さなかんかなあ。でも、煮込めば煮込むほどおいしいもんね。空却くん、先にお風呂に入っとってもいいよ」
独り言に似た言葉がつらつらと出てくる。心のどこかにはまっていたコルクがすぽっと抜けたようだった。解放された恋心が水蒸気のようにのまわりをふわふわと泳いでいる。
さあくつを履いて――と、玄関に腰を下ろそうとすると、突然空却に肩を掴まれる。の体は強制的に後ろを向かされた。
「ひ、」
そこで初めて空却の顔を見た。
赤かった。それはもう……彼の髪の色と同じくらいの真っ赤だった。耳までぷっくり赤く、熱湯を頭から被ったように茹で上がっていた。いったいどうしてそんなことに、と思考を巡らせることなく、すぐに答えは見つかった。
……あ、そうだ。わたし、告白、したんだ。
伝えたことによる充足感で胸がいっぱいで、空却のリアクションまで考えていなかった。自覚をした途端とても恥ずかしくなって、空却の赤が自分の頬へとじわじわとうつっていく。
……目の前で、空却が大きく呼吸をする。吸った息はシーッ、と歯の間から細く、長く、漏れていった。
「の」
「はひ」
「すきなやつ」
「う、」
「拙僧って、ことか」
頷くこともできたが、きちんと言葉で伝えたいと思い、うるさくなっていく心臓を抑えながら、は口を開いた。
「はい、わたしのすきなひとは、空却くん、です」
掴まれている肩にさらに力が入る。鋭い痛みがあって、は顔を苦くした。「おれは肩もみもうめーんだぞ。おやじにもほめられんだぜ!」と胸を張っていた幼い空却や、「くーこー、握力バカつえーじゃん!!」と中学三年生のときの体力テストで、周りの男子に空却がちやほやされている光景を思い出した。
空却くんって力強いんだぁ、とぼんやりとした感想を持っていた過去の自分と同化しそうになると、「おい」と声がかかる。目の前にいるのは幼い空却でも学ラン姿の空却でもなく、顔を真っ赤にさせた彼だ。
「いつからだよ」
「え?」
いつから――好きになったとき、のことかな。
空却の早口かつ唸り口調の問いに、はもたつきながらも考える。まるで尋問されているような気持ちがしたが、告白をしておいてなにも言わないのはあまりにも自分勝手なので、は正直に伝えることにした。
「小学、三年生のとき」
「っ、は?」
「わたしが、その……はじめてきた生理で、大変だったとき、いっぱい、助けてくれたでしょう?」
「ん? んん?」
「あのときから、かも」
いざ言葉にすると恥ずかしくて、たどたどしくなる。あのときはなにもかもが不安で、怖くて、くるしくて。ひとりぼっちで痛みに耐えていた自分の前に現れた空却がヒーローに見えたのだ。
重たいランドセルと自分を背負って、雨の中走ってくれた。家までついてきてくれて、落ち着くまでそばにいてくれた。月明かりに照らされた空却の姿がきらきらと輝いて見えて、あの日から、空却がそばにいると、の心臓はべつの動きをした。せつなくて、それでいてしあわせな音を刻むようになった。
「んな、前から?」
「う、うん」
「なん……いや、つか、あんときも、大したことやってねえ、だろ」
「おんぶ、してくれたよ……?」
おんぶだけじゃないけれど、もっとたくさんのことをしてくれたけれど、の口から咄嗟に出てこない。「たかが背負っただけで……?」と言葉通り受け取った空却は、眉間にしわを寄せて考え込んでいる。こんな彼を見るのは初めてだった。
やっぱり困らせちゃった、との中で罪悪感が芽生える。わたしの告白は気にしんでもいいよ、と言うタイミングを作りたくて、「あの――」と声をかけようとした。
不意に、空却がなにかを思い出したように顔を上げて、突然二階に上がっていく。いきなり動いた空却にぽかんとしていたが、今二階になにが散らばっているか思い出して、ぴゃっと体を震わせた。
空却の後を追って、もまた階段を駆け上がる。でも――ううん、あれ以来家には帰っとらんから、きっとまだ――っ!
「わッ!? 見ちゃかんッ!」
案の定、あのカンカンがそのまま残っていた。
床に散らばっているものを拾い上げて、それをまじまじと確認している空却。はその手から小物を取り上げるが、よりにもよってそれは穴が開いたネックウォーマーだった。
みられてまった、またみられてまった、と恥ずかしさでいっぱいになったは、すべての宝物を大急ぎでカンカンの中に戻して、蓋をした。今度はが顔を真っ赤にする番だった。
空却の影が後ろからゆらりと近づく。沈黙の中で、彼の息遣いがやけに大きく聞こえた。
「好きなやつから、もらったもんが入ったカンカン」
「ひ」
「それ、本物か」
本物、というワードが少し引っかかった。まるで偽物があるような口ぶりだ。それでも本物には違いないので、「そう、です……」とは絞った声で答える。
「が、拙僧を……」
「ぇ、えっと……」
明らかに混乱している空却に対して、は一呼吸おいてから、ここぞというタイミングで喉を震わせた。
「きにしなくていいからねっ」
「あ゙っ?」
ギロっとした眼差しを向けられての体が一気に冷たくなる。空却に凄まれるのはずいぶん久しぶりだった。しかし、ここで黙ってしまえば話し始める方が難しくなる。は勇気を出してふたたび口を開いた。
「あのね、わ、わたしが一方的に伝えたかっただけだからね、空却くんになにかしてほしいとかじゃなくて、ほんとうに、すきって気持ちを伝えたかったって、ただそれだけだから。空却くんがわたしのことなんとも思っとらんのは知っとるから、ほんとうにきにしないっ、で――っ!?」
視界がぐわんと揺れる。それ以上言うなと言わんばかりに空却に両肩を掴まれていた。さっきとは比べものにならないくらい、痛い。口を開けられたらばくんと食べられそうなくらいの至近距離で顔を覗き込まれて、は言葉を止めた。
「お前が、拙僧の、なにを知ってるって……?」
囁くように言われた言葉が頭の奥に響く。空却の瞳の中に吸い込まれるように見入ってしまい、ぁ、と小さく口を開けるが、なにも言えなかった。今までにない、かなしい色を帯びた目をしていた。
考えもなしに、空却の心を決めてしまった。しかし、そうに違いないのだから訂正する言葉も出てこない。が目を泳がせていると、はあ……、と諦めたようなため息が彼の口から聞こえた。
肩から手がするりと離れる。ようやく息ができるようになっただったが、空却にかける言葉は見つからないままだった。
「……帰るぞ」
そう言って向けられた背中がさみしそうで、部屋を出て行くときの空却の横顔が傷ついたものに見えてしまう。と同時に、は自分が思っている以上にとんでもないことを言ってしまったのではないか、と悟った。
どうしよう、と焦って動けないでいる。その開いた距離から去年の自分たちを連想してしまい、喉が渇いていく。待って、と言う勇気もなく、目線を畳の下に這わせることしかできない。
助けを求めるようにカンカンを抱いていると、一度部屋を出て行ったはずの空却が戻ってきた。がかける言葉を探す前に、カンカンを抱いている腕を空却が持ち上げて、立つように促してくれた。
今度は、二人一緒に部屋を出る。とん、とん、とん――と、転ばないように、ゆっくりと階段を降りてくれる足取りも、靴を履いたときに少し振り返りながら差し伸べられた手の所作も、優しいばかりで。カンカンを片腕で持ち直して、はその手を取った。この期に及んで、空却に寄りかかってばかりの自分の不甲斐なさに泣きそうになる。
空却くんの知りたいこと、まだぜんぶ言っとらんのにそれは………泣くのは、ずるいこと。そう思い直して、は唇をきゅっと噛みしめた。
「(どうしよう……)」
深夜を回った。
あとは寝るだけとなったは、空厳寺であてがわれている一室で悶々と考えていた。
「(話したほうがいいよね、そうだよね。わかっとるんだけど……)」
お寺に帰ってからも、空却はずっと無言だった。
道を歩いている間も、カレーを食べている間も、自室にこもるまでずっと、難しい顔をしていた。こんなにも困らせてしまうと分かっていたら、言わなかったのに。ああそれでも、これが告白をするということだ。相手の心も分からないまま一線を越える。そのリスクを負った人だけが、良くも悪くも次の関係へと進めるのだ。
空却と話したい。しかし、きにしないで――は、禁句ということは鈍いでも分かった。話し合ったとして、この気持ちはきもちわるがられてしまうだろうか。今さら、前のような関係に戻るのは虫が良すぎるだろうか。それでも――
「(また話せなくなっちゃうのは、やだ……)」
二度と話しかけるな、と言葉で直接言われるまでは諦めない――そう決意して、は立ち上がって部屋を出ようと襖を開ける。すると、ちょうど目の前に空却が立っていた。は驚きのあまり声も出ない。襖を開けようとしたであろう彼の手が、不自然に宙に浮いていた。
「……どこ行くんだよ」
空却もまた驚いたように目を見開いていたが、すぐにぐっと目を細めて低い声でそう言った。は頭が真っ白になるが、心の中で自分を奮い立たせる。ふう、と息をついてから、「く、空却くんとおはなししたくて……」とぽそぽそと言った。
すると、空却は怯んだように体を固くさせて、気まずそうに視線を泳がせた。
「逃げようとしたわけじゃねーのか……」
「え?」
「なんでもねえ。拙僧も、話に来た」
前の言葉を聞き返したかったが、話に来た、というひと言で、自分でも分かるくらい心が晴れた。よかったあっ、と口に出しそうになるが、さすがのも空気を読む。
代わりに、はうんうんっ、と頷いて、「どうぞどうぞっ」と部屋に招こうとした。しかし、空却はにがそうな顔をして、「ここじゃ駄目だ」と言う。
ここ?とは改めて部屋の中を見てみる。もうすでに布団が敷いてあるので、話すとなると確かに狭いかもしれない。
「お布団どかすよ?」
「スペースの問題じゃねえ」
が気にしていることをずばり当てる。スペースの問題ではないとすれば――と考える間もなく、「来い」と一言だけ言って、空却は背中を向ける。
廊下は冷え切っていて、立っているだけで足裏から冷気が体の中に入り込んでくる。全身が冷えないうちに、は早歩きで空却の後を追った。
通されたのはまた別の客間だった。そこにはあらかじめ用意されたお菓子がどっちゃりと盛られていた。スナック菓子、駄菓子、チョコレート菓子――そびえ立つお菓子の山を見て、はわぁ、と感嘆の声を漏らす。まるでいつぞやの真夜中の日のようだった。
「おかしパーティー……」
「そこに座布団あっから」
空却は手当たり次第お菓子の封を開けていく。は言われた通りに座布団を(隣同士か迷ったが)お菓子の山を挟むように二つ並べた。部屋の隅にはコンビニの袋が無造作に放られている。おそらく、自分が部屋にこもっている間にこのお菓子たちを買ってきたのだろう。
二人で座布団の上に座る。空却はさっそくせんべいが入った袋を開けて、バリボリと食べ始めた。
「」
「うん」
「拙僧のことがす――ッ」
不自然なところで声が止まる。かと思えば、またせんべいを口に入れて、鋭い歯で噛み砕く。飲み込んでからも、口をチャックされたように唇はむごむごと動いていた。
「……き、なのか」
「う、うん。すき、です」
空却が慎重に言葉を紡ぐので、こちらも緊張してしまう。はなにかしていないと居心地が悪くて、一番に目に入ったチョコレートの棒菓子を手に取った。
なぜお菓子が用意されているか分からなかったが、にとっては都合がよかった。お菓子を食べながら話せば気が紛れるし、手持ち無沙汰になったときの逃げ道になるものだから。
「……なんでだ」
空却が喉から絞り出すように言った。眉をひそめて、飲み込めないものを苦しげに喉奥で転がしているように見えた。
「言葉でなじって、体も傷つけた。嫌われることはしても、好かれるようなことはしてねえ」
したよ。たくさん、してくれたよ。空却くんが“嫌われること”って言ったことは、わたしにとってはささいなことなんだよ――はそう言いたかった。しかし、空却が罪として抱えている繊細な部分なので、それらを否定する言葉をかけるのは違う気がした。
「でも、すきなの」
なので、あえて刺々しいものたちには触れずに、自分の気持ちをまっすぐ口にする。しっかりと空却の目を見て、うそじゃないよ、と伝わるように。
しかし、空却は納得するどころか、ゔぐ、と喉を潰すような音を口から漏らした。うまく伝わらんかったかな、と心配になり、は言葉をつけ足していく。
「ほんとうはね。中学の卒業式のときに言おうとしたんだけど、その前にふられちゃったから、言い出せなくて……」
「は?」
「ずっと隠しておこうって思ったんだけど、気持ちが大きくなっちゃって、抑えられんくて――」
「待て待て、おい。待て」
空却が声を上げた。お前は一体なにを言ってんだ?と表情から伝わるくらい驚いた顔をしている。一方で、今日は空却くんのいろんな顔が見れてうれしいな、などとはおめでたいことを思っていた。
「今、ふられたっつったか」
「う、うん」
「んなことするわけねーだろ」
「え?」
さも当たり前のような声色で言われる。思わず首を傾げると、「それよりいつんなことしたんだよ」と前の言葉をかき消すように、空却に早口で聞かれてしまった。
「中学の卒業式が終わった何日かあとに、お寺でお話ししたでしょう?」
「卒業式ぃ?」
しばらく考えていた空却が思い出したように顔を上げて、「……ああ、そういやしたな」と目を伏せて答えた。表情があのときのものと似ていたので、の心の傷がざわっと疼いた。
「ぁ、あのとき空却くんが、わたしがだれかと結婚するとき、読経するからって、聞いて、わたし、空却くんに、ぜんぜん女の子としてみられとらんのだな、って思って……」
思い出すだけで鼻の奥がつんとしてくる。あのときのかなしみやさみしさに蓋をして、ずっと見ないようにしてきた。もう何年もたつのにな、やになっちゃうな、といまだにふられたことを引きずっている自分に落ち込んでしまう。
「はあ゙あぁぁッ!?!?」
「ひっ」
そんなの感傷を吹っ飛ばすような声が響く。怒りと驚きが混じった眼差しで見つめられ、空却のあまりの気迫にの心臓がばくばくと速くなった。
「だからお前あんとき泣い……ッ、つか、言いてえことってそれかよ……ッ!!」と、一つ一つの音を噛み締めるように独り言を呟いている空却。かと思えば、ぐぬぬ、とまた難しそうに顔をひそめてしまう。
なんと声をかければいいか分からず、はまたしてもお菓子に逃げてしまう。ちょうど手元にあったミニバームクーヘンの封を開けてちまちまと食べていると、現実に戻ってきた空却の眼光をきッ、と浴びた。
「ふってねーぞ」
「えっ?」
「だからふってねえっつってんだっ! あんときはお前が要のこと好きだと思っとったからああ言ったんだよッ!」
野山くんが、わたしを?
ははてなマークがいっぱいだった。おれ、あんずのことが好きなんだ――小学生高学年のころに、野山がぽつりと言ったことを、は今でも覚えている。それを聞いたとき、そうなんだあっ、と自分のことのように嬉しくて、それ以来ずっと二人のことを応援していた。
野山が杏のことが好きだったのは自分の中で当たり前のことだったので、は改めて口にしてしまった。
「空却くん、野山くんはあんちゃんのことがずっと好きだったんだよ?」
「んなこととっくに知っとるわッ!!」
勢いに任せて、空却が新たなスナック菓子の封を開ける。さっきまで食べていたせんべいはすべてなくなっており、堅く揚げられたポテトチップスをバリボリと食べている。
「くッそが……」
「ご、ごめんね……」
「今のは拙僧に対してだ」
「あ゙ー……」と空却が項垂れる。いつも溌剌としている空却が、こんな姿になっている。取り乱しているのは明らかだった。ごめんね、ごめんね、と思いながら、はバームクーヘンをひたすら口に詰め込んだ。
はあ……、とため息をつく空却の目の色は鈍く濁っている。あまりにも辛そうで、見ていられない。それが自分の言葉によって、と思うとなおさらだった。
「言いてえことはクソほどあるが」
「はい……」
「まあ、大事なのは今この時だな」
少しだけ声色に光が戻り、顔を上げた空却と目が合った。あ、いかん、との本能がアラートを出した。
「拙僧は――」
「へんじはだいじょうぶッ」
「あ゙ぁッ!?」
咄嗟に空却の言葉を遮る。今のはよくない流れだった。“拙僧はお前のことなんとも思ってねーから”と言われるところだった。
「わたしが伝えたかっただけだからっ。空却くんとなにかその……どういうふうになりたいとかはないからっ。これからもお友達でいてくれるだけでうれしいからっ」
「なんだその無責任な告白はよッ! つかそもそも拙僧はお前をダチと思ったことはねえッ!」
「え……?」
「あ゙」
今、絶望的な言葉が槍のように鋭く飛んできた。
お友達って、思ったことない……? なら空却くんにとってわたしは……? 元クラスメイトで、たまたまいっしょにごはん食べたり、どこかに行ったりしとっただけ……? わたしは、空却くんにとって、なんでもない人……?
一気に涙腺が緩んで、かなしみが濁流となって押し寄せる。「今のは違っ……お、おい、泣くな。泣くなよ」と空却の焦った声が遠く聞こえる。あ、そっか、わたし今泣きそうになってるんだ、と自覚するとさらに目の奥が熱くなってきた。
……ほろっ、と涙がこぼれた。ひと粒溢れたらまたひと粒、さらにひと粒と落ちていく。口の中に広がっていたバームクーヘンの味も霞んでいく。
「だッ、だから泣くなって言っただろーがッ!」
「ひっ……ぉ、おともだちじゃ、ない……」
「だから拙僧が言いたかったのはそういう意味じゃ――っ」
「それでもッ……!」
空却の体ががびく、と震える。自分で自分をがんばれと励まして、は千切れてしまいそうな縁に必死にすがりつく。
「いまの、ままでいいの……っ。空却くんとおはなしできるようになったのに、また、はなれちゃうのやだから、いまのままで……いまのままが、いいのっ」
おともだちじゃなくていいから、おともだちじゃなくていいから、と繰り返す。こぼれる涙を拭く余裕もなく、畳の上にぽたぽたと落ちていく。
いろとりどりのお菓子たちを見下ろしながらぐずぐずと泣いていると、空却の口から息をつく音が聞こえる。ティッシュを抜き取って手を拭く彼が視界の端に映った。
「だから……勝手に拙僧の返事を決めるんじゃねーよ」
「おへんじいらん……」
「おいこら」
こつん、と指の関節で頭をこづかれる。ん、と空却に差し出されたティッシュで涙を拭くが、彼の優しさにまた胸がちくりと痛んでしまう。
「お前んちに泊まった最後の日。一緒に寝ただろ」
「ぅん……」
「そんとき、拙僧がなんて言ったか覚えてっか」
もちろん覚えている。やさしい空却らしい言葉だった。これからもずっと宝物だ。
そこで、は気づいた。ああ、あの言葉を誤解しないように、と伝えたいのだと。
「うん。でも、だいじょうぶだよ。空却くんの言葉はそういう意味じゃないって分かって――」
「“そういう意味”だ」
は瞬きをする。ぽろん、と涙の最後のひと雫が畳に落ちた。
頭を何周回せど、空却の言ったことが理解できない。「……へぇ?」と気の抜けた声を出すと、目の前にはいつもの――燦々とした光を纏う、だいすきな男の子がいた。
「のことだから伝わんねえだろうと思ったし、伝わんなくていいと思った。だが、が拙僧を“そう”見てるんなら、話は別だ」
あのときの言葉を覚えている。嫌いではない、という事実がは嬉しかった。
空却が今言った、“そういう意味”――思考を巡らそうとして、ブレーキがかかる。その先を考えるのが怖かった。
「え、えぇ? えぇーっ……?」
「ああ、お前国語力ねえもんな。あんだけじゃ伝わんねーか」
拙僧としたことが、と言わんばかりに空却は鼻で笑っている。
逃げたい――と思ったそのとき。行動を起こす前に、空却に手を握られる。まるで心を読まれた気がして、の腕にぶわっと鳥肌が立った。
「が好きだ」
ひ、と喉が上擦った。知っている。もう伝わっている。大嫌いではないことは、もう十分伝わっているから。
「よく寝て、よく笑って、よく食うが好きだ」
空却の好みも分かっている。健康的な女の子――はそれを知ったときから、なるべく風邪を引かないように努めていた。おかげで、小学生のころは皆勤賞だった。
「拙僧を名前を呼ぶの声が好きだ。こっちを振り向くときに靡く髪が好きだ」
ひくん、とまた喉が震える。理解したくない。勘違いだと気づいたときが怖いから。一番高いところまで登って、落ちたときのかなしみが計り知れないから。
「ちいせえことで一喜一憂する、その心も好きだ」
逃げ出したい――そんな気持ちを見透かしたかのように、空却の指が自分のものと絡み合う。いくつもの指輪が、を捕らえるようにきらきらと光った。
「」
「ひ、ぁ……」
「同じだ。お前と」
言霊とともに、空却の瞳に心が射抜かれる。
あふれる感情を受け止めきれず、頭の中がパニックになる。さっと目線を下げて空却の眼差しから逃げるが、代わりに手を握る力が強くなる。これは現実だ、と知らしめるように。
わたしは、空却くんがすき。空却くんも、わたしとおなじ。空却くんは、わたしが――その先の答えを頭の中で呟くと、様々な想いがどっと押し寄せてきた。
「ど、どどど、どうしてッ? わたし好きになってもらうようなことなにもしとらんっ!」
泣きそうになりながら、はわっと感情を爆発させる。それを聞いた空却は、「お前がそんなに声荒げてるとこ初めて見たな」と他人事のように言うが、は突っ込んでいる余裕すらない。それどころではないのだ。
「どうしてっ? どうしてえぇ……ッ?」
「どーしてもこーしても、好きなんだからそれ以上も以下もねえ――」
「うそだぁっ……! 空却くん、わたしに気遣ってうそついとるんだぁ……っ!」
「拙僧はんなことしね――ッ、おい逃げるんじゃねえ!」
言葉自体は受け止めたが飲み込めるはずがない。なにも聞きたくないような、ぜんぶ聞きたいようなこの気持ちはなんだろう。いったん空却と離れたくてずりずりと後退したり手をぶんぶんと振るが、彼の手はそれを許してくれない。
「ちょっとでいいからはなしてぇっ」
「やだ」
「しんこきゅうっ。深呼吸するだけだからっ」
「このままでもできんだろ」
「空却くんが近くにおったらできんッ」
「根性でやれ」
「ないぃ、根性ないぃ……ッ!」
深夜一時を回っていることも忘れて大騒ぎしてしまう。鏡を見なくても分かるくらい自分の顔が熱い。そんな顔を見られていることすら恥ずかしいのに、手を繋がれ、澄みきった好意を伝えられ、どう消化していいか分からなくなっていた。
長きにわたる攻防戦の末、ひとしきり騒いでぎゃくに落ち着いてきた。心の中でべそをかきながらも、空却におそるおそる尋ねた。
「ぁ、あの……」
「なんだ」
「か、かくにん、を、したくて……」
「なにを」
「ゎ、わたし、たちは、その……りょ、りょうおもい、って、こと……?」
……沈黙。尋ねた瞬間に空却の手の震えが一瞬伝わった。すぐになにかしら答えてくれると思ったので、そのあいだの体は緊張でこわばる。
「……みてーだな」
空却がぼそっと答える。目線はそっぽを向いていたので、は少し不安になりながら言葉を続ける。
「りょ、両想いってね、すきな子が好きで、その子もその子のことがすきで――」
「好きだ」
「ひぇ」
「んで、は」
「すき……」
「ぐ」
好き、のひと言で寿命が縮む思い……いや、むしろ伸びているゆえの痛みかもしれないが、心臓に悪い。“好き”と言うときだけ空却が目を合わせてくれるので、破壊力がすごかった。
「お互いが好き同士なら、そーだろ」と空却は言う。しかし、ちがうの、ちがうの、とは首を何度も横に振る。
「わたしが空却くんに思っとるのは、特別なすきで――」
「恋人。カレシと、カノジョ」
「ひゃ」
「ちげーのかよ」
「あ、あっとる……」
「だろ」
「あの、」
「ん」
「わたし、が、空却くんの、か、かのじょ、に……?」
「ゔ」
空却くんのかのじょ――なんて甘い響きだろう。空却くんといっしょにおれたらいいな、ずっとずっと隣におれたらいいな、と何度も夢の中で描いたものだった。ぎゃくに、だれの彼氏にもならないでほしい、といじわるなことも思い、願ったものだった。
首のあたりがじんじんと熱い。風邪を引いたときのように頭がぼーっとする。ははふ、と熱い吐息を漏らして、少しでも体の熱を外へ逃した。
「正直、拙僧は俗世的な関係にキョーミはねーけどよ」
ゾクセテキってなんだろう、と考えていると、の頭のてっぺんから足まで空却の視線が這った。
「カレシとカノジョになりゃあ、誰にも文句言われず、誰よりも優先的に隣に立てる権利が得られるんだろ。それも四六時中」
「そうなの、かも……?」
そんなに難しく考えたことはないが、合ってはいるかもしれない。友人、仕事よりも優先するかどうかはその人次第だが。
でも、空却くんはそういうの苦手じゃないかなぁ、とは思う。自由を好む彼のことだから、そういうものに囚われずに過ごしてほしい。今も、そしてこれからも束縛はしないし、するつもりもなかった。
……って、だ、だめだよ。まるで空却くんとお、おつきあいする、みたいな話になっとる。おちついておちついて、と目の前の希望に目を輝かせている自分を抑える。
「なら、拙僧はと、“そう”なりてえ」
落ち着くまもなく、決定的な言葉が心臓のより大事なところに突き刺さった。
暗に、“誰よりも優先的に隣に立ちたい”と言われているようで、の胸がいっぱいになってしまう。夢かも、うそかも、といくつも防衛線を張って、自分を保とうとしていた。
「はどーなんだよ」
「ぇ……」
「拙僧がこんだけ言っても、まだ“どうなりたいとかはない”って言うのか」
分からない。自分が持っている器はとっくに満タンで、あふれているものを余さず掬おうと慌てている。もったいない。抱えきれない。その上でそれ以上のなにかをねだっても、受け止めきれない。空却と同じ量と質の気持ちを返しきれない。
「ゎ、わたしは、空却くんと……」
「ん」
「たくさん会いたいし、いっしょに、いろんなこと……ごはん食べたり、きれいなものを見たり、うれしいこととか、たのしいことも、いっぱいしたくて、」
「おう」
「それで、だから……えっと……」
――いいのだろうか。望んでも。
幸福の海に溺れて息ができなくなりそうで、怖い。考えるべきことがたくさんある気がする。もっともっと、ぶつけたい疑問や保険をかけておきたい気持ちがある。それをしたとしても、空却はそれらを“めんどくせえこと”として扱うだろう。だから、言えなかった。彼にとって、それらは自分たちの関係を語る上で余計なものなのだと、改めて自覚することになるから。
ああ――それでも。空却が……すきな人が、望んでいいというのなら。そうなりたいと、願っていいのなら。
「空却くん、」
全部上手くいく――その言葉に、背中を押されて。
「わたしと……おつきあい、してくれますか……?」
空却の瞳に向かって、問いかける。握ってくれている手にきゅ、と力を込める。消えてしまいそうな声に込められたこの気持ちが、どうか届きますようにと祈りながら。
びくびくしながら返事を待っていると、空却の顔が無言で近づいてくる。反射的に目をつむると、額にかたいものがこつ、と軽く当たった。ゆっくりと目を開けると、空却の額が自分のものとくっついていた。
「あぁ……よろしく頼む」
今まで生きてきた中で、一番高いところで心臓が脈打った。
の中で生まれたばかりの新たな恋が、ぽと、と落ちる音が聞こえた。こうやって、これからももっと、空却くんのことがすきになるんだろうなぁ――胸の中に広がって、大きくなっていく恋心を表す言葉が見つからなくて、は自分の額を空却のものにすり、とこすりつけた。
食べたお菓子のゴミを二人で片付けていく。
たくさん話した分、たくさん食べた。深夜にこれだけのお菓子を食べてしまった罪悪感はあるものの、のお腹は別のもので満たされていた。
「(空却くんも、わたしと、おなじ気持ち)」
正直、まだ飲み込めていないところはある。それでも、あの時間に空却がくれた言葉は、一言一句違わずに耳の奥で今も聞こえている。
分かっているのは、長年大事にして、育ててきたこの気持ちを、空却が受け入れてくれたということ。これからは抑えたり、否定しなくてもいい。すきで、いていい。いろんなものを我慢する必要はないのだと思うと、噴水のように想いが溢れてくる。
空却と一緒に歯を磨き終えた後。自分の部屋に戻るのがさみしくて、わざと廊下をゆっくり歩いてしまう。
「(すごく、はなれたくない……)」
今夜だけ、いっしょに寝ちゃかんかな。おじさんもおらんし、わたしが寝るまで空却くんにそばにおってもらうとか……。まるで子どものような欲がむくむくと湧いてくる。
は少しの期待をこめて空却を見上げるが、彼はまっすぐ前を見据えている。なぜか部屋を出た途端、つんとした態度になってしまって、目すら合わなくなってしまったのだ。
「(着いちゃった……)」
そうこう考えているうちに、部屋の前に着いてしまった。入りたくない。寝たくない。いっしょにいたい。わがままを言いたい――もだもだ考えていると、空却にとん、と背中を軽く押される。
「さっさと入れよ」
あまりにもそっけない言い方だったので、檻に入れられる囚人になった気分だった。さっきまでの優しいまなざしと甘い雰囲気はいったいどこへ。
名残惜しそうに空却を見上げると、顔をぐっとしかめられ、挙句舌打ちをされてしまう。えぇっ、とがショックを受けていると、空却は苛立ちを含んだ声でこう言った。
「拙僧がなんで菓子用意したか分かるか」
「おなかすいとったから……?」
「ちげえ。気ィ紛らわすためだよ。拙僧の努力を無駄にさせんじゃねえ」
夜中に男女が部屋に二人きり――そこまで考えて、は空却の言ったことが理解できた。
それでも……それでもだ。さみしいものはさみしいし、一緒にいたいものは一緒にいたいのである。いつもなら空却の言うことをきいていたが、今夜はだめだ。こうなるなら、朝までいっしょにいたい、と早めに言えばよかった。しかし、空却の気遣いがある手前、今から言うわがままは許されない。
はしょげながら部屋の敷居を踏む。あとは襖を閉めるだけなのだが、まだ諦められない心がその手を鈍らせた。
「おやすみなさい……」
「おやすみ」
「またあしたね……?」
「おー」
「うぅ……」
「その顔やめろ」
会話をして場を持たせようとしたが無意味だった。そう冷たくされると、さらにそばにいたくなる。あぁ……そうだ。そばにいられないのなら、抱きしめてもらいたい。今日の終わりに空却に包まれたい。一度そう思ってしまったら、止められなかった。
「空却くん、」
「だからやめろって――ッ」
「さいごにぎゅってしてほしい……」
言ってまった、いつもならぜったい言えんのに言ってまった――深夜ということもあって、いろんな理性が緩くなっている気がした。
これがさいごだから。ぎゅってしてもらったらちゃんと寝るから――そう願うと、硬直していた空却がゆっくりと動き出す。は伸びてきた空却の腕の中に入って、広い胸板に両手をそっと添えると、頭上で息を呑む音が聞こえた。
「苦しく、ねぇか」
「うん……」
慎重、という言葉が似合う力加減で、空却の腕が背中に回っている。小さい頃から何回もしているのに、このハグは特別な気がした。もっと強くてもいいのにな、とは思うが、これ以上のわがままは言えなかった。
「(あ……聞こえる……)」
トク、トク、トク、と。速くて、強い、心臓の音。今までよく聞いていなかったが――聞く余裕がないことが多かったので――手のひらや顔から感じる空却の鼓動に聞き惚れてしまう。
生きている、という当たり前な事実をこうして肌で感じるだけで、こんなにもいとおしさが増すものだろうか。空却のすきなところを新たに見つけてしまって、想いがまた深いところに沈んでいく。
「心臓の音、」
「はぁ……?」
「聞こえる……」
「そりゃそーだろ」
当たり前だよね。そうだよね。そんな当たり前なことでも、わたしのぜんぶを空却くんにあげたい、って気持ちになるの。
ひかれちゃうかな、はなされちゃうかな――いろいろ考えているうちに、欲は大きくなっていく。思いきって、は両腕をもぞもぞと動かして、空却の背中に回す。びくッ、と電流が走ったように空却の体が震えたが、もうこれ以上離れたくなかった。
「空却くんが生きてるって感じがして、すごくすきだなぁって思ったの」
もう、伝えても大丈夫だから。抑えなくても、いいから。は空却の肩甲骨の硬さを感じながら、すきな人のいろいろなものを堪能する。体温、におい、感触――一人で寝なくてはいけない心細さがなくなって、胸の中がどんどん満たされていく。
……数分間、ただじっと抱きしめ、抱きしめられる時間。すう、と最後のひと呼吸をしてから、はゆるゆると空却から離れた。充電満たん。勢いでお願いしてしまったが、後悔はない。照れ隠しにえへへ、と笑いながら、空却を見上げた。
「おねがい、聞いてくれてありがとう。今度こそおやすみな、さ――ッ!?」
ぐるんっと視界が回る。体が宙に浮き、聞こえてきたのは襖をぴしゃんッ!と締めた音とドスドスと乱暴な足音。お、お姫さまだっこされとる……っ、と現実を受け入れる前に、体が布団の上にふわりと落ちた。
混乱する頭の中、目の前に映るのは天井と空却の顔。両手をがっちり掴まれて、組み敷かれていた。空却の息遣いは荒く、まるで捕食前の虎のようだった。ひぇ、との口から震えた息が漏れた。
「お、おこっとるっ?」
「クソほど怒っとる。だから機嫌とれよ」
空却の顔が首筋に沈んで、すうっとにおいを嗅がれる。反射的に体が震えるが、空却のご機嫌をとらなければいけないなら、これからされることをすべて受け入れるほかないと思った。
「すっかりウチの匂いになってんな」
「せ、せっけん、おなじの使っとる、から……っ」
「それもそーか。……あーあ、もう消えてらぁ」
ふ、と息がかかったところを強めに吸われる。思わず体に力が入ってしまい、呼吸も浅くなっていく。これは……そうだ、お風呂上がりにタオル一枚で出てきてしまったときに味わった感覚と一緒だった。
唇が離れたと思ったら、次はカプ、と首を甘噛みされる。それを場所を変えて何度も食まれて、そのたびに体の芯が痺れるようにびく、と震える。
空却くんのご機嫌とらんと、と思うが、はなにをしたらいいか分からない。考えているあいだに甘噛みする場所が下へと移動していく。唇が鎖骨の上までくると、空却の舌先がちろっと鎖骨を撫でた。
「ふふ……ふふふっ」
空却の髪がふわふわちくちくと顔に当たってくすぐったい。されていることは恥ずかしいのに、つい笑い声が漏れてしまった。
「お前なァ……」
「あ……ごめんね……? くすぐったくて……」
顔を上げた空却にじぃっとにらまれてしまう。つづきしていいよ、と言おうとしたところで、「もーいい」と呟いて、の隣に横向きになって寝転がった。やる気をなくした、という感じだ。
もまた、空却と向き合う形で体を動かす。ぱちっと目が合うと、さっき見たギラギラとした光はなくなっていた。穏やかで、とがったところのない、まろいまなざしだ。
「ご機嫌、なおった?」
「……まだ」
短く、そしてすねたように言われてしまう。「どうしたらご機嫌になってくれる……?」と尋ねると、「もっとこっち来い」と空却に体を引き寄せられた。
今度は、の好きな力加減で抱きしめてくれた。強くて、遠慮のないハグだ。そっかぁ、空却くんはこうするとご機嫌になってくれるんだぁ、とはじんわりと学習する。
さっきの続きをしないのは……そうしないでいてくれるのは、空却の優しさなのだろう。横髪をかき上げて、の右耳を撫でている。いたわるように、なぐさめるように。彼自身が科した罪が少しでも和らぐように、はその手をやんわりと取った。
「空却くん」
「ん……」
「さっき、“伝わらんくていい”って言ったよね。その……空却くんの、気持ち」
「おー」
「どうして……?」
「好き勝手に傷つけといて、今さら気持ち伝えるなんざ虫が良すぎるだろ」
空却らしい理由に、は思わずふふ、と笑ってしまった。怒られちゃいそう、と思っていたら案の定、「笑いごとじゃねえ」と言われてしまう。
それでも、は笑みを崩さない。空却を構成するもの、生み出すものの中で、嫌いなものが一つもないものだから。
「あのね、空却くん。いま……ほんとうにいま、気づいたんだけどね」
人に対する想いが強すぎるあまり、時々出てしまう大きな手。正しさを求めて、救いの道を先導する背中を見ていると、そのうち自分の身まで滅ぼしてしまいそうで、怖くなるときがある。
だから少しでも、空却の想いが自分自身にも優しい形となって人へ届きますように。そして、耳にあるこの痕が彼にとって呪いではなく、おまじないとなりますように。暗闇を払い、彼の道を照らすしるべとなりますように。
「この“あと”も含めて、空却くんのことがすきなんだなあって思ったの」
いつか許せる日が来るまで、は空却の手の届く場所で、ずっと待っている。その“いつか”が来ないとしても、いつまでも隣で“だいじょうぶだよ”と言い続けたい。
空却はなにも言わなかった。その代わり、彼の体と同化してしまいそうなほど強く抱きしめられる。深く上下する胸の前で、は多幸感でいっぱいになった。言葉がなくても、昔からこのハグが優しいものだと知っているから。
「(だいすき……。くうこうくん……)」
ほどよい圧と温もりに、とうとう眠くなってきた。意識が遠くなったり、戻ってきたりを繰り返していると、「?」と優しい声が落ちてくる。も空却の名前を呼び返したが、ふにゃっとした声になってしまった。
「」
「ぅん……」
「……」
うん、うん。ここにおるよ。空却くん。
何度も、何度も、名前を呼んでくれる。その声にこたえたいのに、ねむくてねむくて、しかたがない。またこうして空却の腕の中で眠れる日が来るなんて、去年の今ごろは想像もしていなかった。
「(もう……大丈夫だよ)」
心の中にいるわたしへ、語りかける。空却くんとけんかをしてしまって、泣いているわたし。耳がガーゼで覆われて、痛みではなくて、ちぎれてしまいそうな空却くんとの縁におびえて、泣いているわたし。
きっと、きっと、大丈夫。その一歩を踏み出せば、照らしてくれるものがあるから。泣きながらでも、その足を止めないで。少しの勇気と、たくさんのだいすきの気持ちをもっていて。空却くんがくれた優しさとつよい心を、いつまでも胸の中にしまい続けていて。
空却に包まれながら、は眠りにつく。やさしいものだけでできている……繭の中で。この恋を、彼の傍でいつまでも紡いでいきたいとおもった。
End
「――起きたか」
目を開けると、どろっとした睡魔が全身にまとわりついていていた。
目の前には、天井と空却の顔が映っている。ごろ、ごろ、と数回寝返りを打つと、彼に膝枕をされているのが分かった。自分の体には毛布がかかっており、その傍らには照明代わりのろうそくがゆらゆらと揺れている。
「くー、ちゃん……?」
「懐かしいな。その呼び名」
上から落ちてきた声が思っていたより低かったので、少し驚いた。それでも、頭を撫でてくれるその手は、自分の知る空却のものだった。
は空却をぽーっと見つめる。彼の耳元で光るピアスを見て、あ、とは口を少し開けた。そっか、もうくーちゃんじゃ、ないね。
“くーちゃん”じゃないにしても……記憶の中の空却よりも髪が長いような気がする。特に、襟足が首筋に沿うように流れていて、あれぇ……?とは不思議に思った。
「はらいくん、かみ、のびたねぇ……?」
「髪ぃ? 何年も前から今の長さだが――ってお前、さては寝惚けてんな」
呆れたため息が降ってきた。ねぼけとらんよ、ちゃんとおきとるよ、と言ったが、「ムニャムニャなに言ってるか分かんねえ」と切り捨てられてしまった。
年末年始の準備で、早朝から夕方まで働く日が続いていた。今日はたまたま午後以降の予定がなかったので、二人で休憩をしていたのだった。休憩といっても特段することもなく、暖をとりながら話をしていただけだが、途中でが船を漕ぎ始めたので、膝を貸してそのまま起きるまで待っていた――と、“はらいくん”が教えてくれた。
「思い出したか」
「うん……。わたし、お寺のおてつだいしとった……」
「お手伝いっつーか……いまいち噛み合わねえな」
そんなにねとったかなぁ、とが考えを巡らせていると、毛布の中から腕をにゅ、と抜き取られる。空却の手首と自分の手首が重なったとき、カチ、と硬いもの同士が当たる音がした。
――数珠だ。自分の手首には二個の数珠が通っていた。昔、空却が作ってくれたものと、比較的新しいもの。特に、新しいものは今くっついている空却の数珠と対になるようなデザインをしていた。
……“むかし”?
「ようやくお目覚めか? 空厳寺の“お庫裏”サンよ」
お庫裏さん――そう呼ばれて、ははっと目を開ける。勢いよく上半身を起こすと、ろうそくの火がぼうっと激しく揺らめいた。
改めて、空却の顔を見る。さきほどまで少年だったのに、すっかり大人の男性になった彼がいた。まだ夢と現実の間にいるようで、頭が追いついていない。ただ、起きてすぐの自分の言葉を思い出しながら、わあぁっ、と声を上げたくなってしまった。
「どうした」
「は、はずかしくて……ッ」
「今更どこのなにを恥ずかしがるんだよ」
「いろいろあるんですっ」
乱れているであろう作務衣の襟元を正して、髪を手ぐしで整える。もう二十代半ばなのに、まだまだ子どもっぽいなぁ、とは反省する。
ふと壁時計を見れば、もうすぐ17時を回ろうとしていたので驚いた。いかんいかんっ、と体を温めてくれていた毛布をてきぱきと畳み始める。
「もう起きるのか」
「うん。もうすぐおつとめが始まっちゃうから」
そう言うと、空却はなぜか口を尖らせて、むすっとした顔をした。
朝と夕方の決まった時間に、空厳寺にいる僧が本堂に集まってお経を読むことを“おつとめ”と呼んでいる。同じく空厳寺の一員であるもその場にいて、荘厳なお経を聞きながら仏様を敬っていた。
「が起きなかったらこのままサボるつもりだった」と空却が言うので、タイミングよく起きてよかったぁ、とはこっそり思った。
「外、寒いかなぁ」
「さっき雪がちらついてた」
「え! 珍しいねえ」
ナゴヤで雪が降るのは稀なので、の声のトーンも高くなる。積もろうが積もらなかろうが、雪が降るだけで心が浮き足立つのだ。
寒いのは苦手だが、雪は見たい。「本堂まで、裏庭通って行こうよ」とは空却を誘う。なにか言いたげな顔をしていた空却は、着ていた羽織を脱いで、の肩にふわっとかけた。
「わあ、ありがとう。すごくあったかい」
「開けるぞ」
「うん。大丈夫」
部屋と裏庭に続く障子を開ける。一気に入り込んできた冷気に「ひゃ……」と声が出る。目の前に広がるのは、鈍色の空とうっすらと粉雪がかかった地面だった。
空却の言う通り、まだ細かい雪がはらはらと降っていた。ふわあ、と感嘆の声を上げた息は真っ白だ。庭を眺めながら、長い廊下を二人で歩いていく。
「昔の夢をね、見とったの」
「昔ぃ?」
「うん。空却くんがたくさん出てきたんだよ。小さいころの空却くんから、成人する前の空却くんまで」
「よりにもよってその時期かよ」
けっ、と空却が吐くように言う。どうして?と聞くと、「拙僧がクソガキの頃だったから」と返ってきた。そんな時期なかったと思うけどなぁ、と言おうとしたが、本人が言うならそうなのだろう、とは言葉を飲み込んだ。
本堂まで行く道すがら、何人かの僧と出会う。まだここへきて間もない修行僧が頭を下げてくれる中、軽く会釈をするの横で、「おう」と軽快に片手を上げる空却。厳格な灼空の評判を聞いて出家してくる僧が多いので、息子である空却のラフさに驚く者も多かった。
「あれ? お義父さんは?」
「お前が寝てすぐ、通夜が入ったから出かけた。メシもあちらさんで食うってよ」
本堂の真ん中の前方――仏様の正面に位置する場所に灼空の姿がなかったので、なるほど、と納得した。はいつも通り部屋の隅で正座をし、空却は迷わぬ足取りで仏様の正面へ向かう。灼空が不在のときは、副住職である空却が代理でお経を読むことになっていた。
時間になり、おつとめが始まる。空却の声が本堂中に響き渡ると、じきに他の僧の声も重なって、重厚な音となって空間を揺らす。は手を合わせて目を瞑り、今日一日何事もなく過ごせたことを仏様に感謝した。
十分ほどのおつとめが終わると、僧は皆自分たちの食事を作りに本堂を後にする。空却と二人きりになったは、ぐん、と背伸びをしている空却に話しかけた。
「空却くん」
「んぁ?」
「今夜のお夕飯、お鍋はどうかな?」
灼空がいない日に鍋は心苦しかったが、檀家の方々からいただいた野菜があることを思い出したので、年内にすべて消費するにはちょうどいいのだ。
空却は、いいなそれ、と言うようににやっと笑う。副住職になっても、こういうところは昔の面影が残っていて、その一面を見るたびにの中の“すき”の感情が深まっていく。
「んじゃ、買い出し行ってくるわ。この時間ならスーパーもぎりやってんだろ」
「わたしも行くよ?」
「一人で十分だが」
「空却くんと一緒に行きたいの」
今日は特に、少しでも長く一緒にいたい気分だった。空却は一瞬目を丸くしたが、すぐに顔をふっと背けて、「……なら好きにしろ」とぼそっと言った。
身支度をしに、二人で庫裏へ向かう。本堂を出てしばらくすると、空却がこちらを振り返って、無言のまま手を伸ばしてくれた。その手を取って、は彼の横に並ぶ。お互いの指と指が自然と絡み合った。
いつも、「副住職として示しつけねえとな」と頑張っている空却の邪魔をしたくないので、は彼の一歩後ろを歩くことが多かった。それでも、二人きりのときはこうして寄り添うことを許してくれる。それは照れくさくもあるが、とても幸せなことだった。
「豆乳鍋、もつ味噌鍋……あっ、キムチ鍋もいいかも」
「もつ味噌がいい」
「ふふ。それじゃあ、精肉屋さんにも行こうね」
「味噌、どうせなら高えやつ買おうぜ。年始で振る舞うおでんにも使えるしよ」
「いいねえ」
白い息が踊る。そういえば前にもお鍋の買い出しに行ったなぁ、と夢の中の空却のことを思い出していた。あのころは目が合うだけでうれしくて、はずかしくて、でも気がついたら食材選びに夢中になっとって、いっしょに歩いとるあいだはこのままずっと空却くんとお買いものしてたいって思っとって――
「」
「なあに?」
急に名前を呼ばれて顔を上げる。いつ見てもきれいな金色が、じぃっとこちらを見つめていた。なんだろう、と思いながら、は空却の言葉を待った。
ん?となにげなく首を傾げたとき。空却の手が頭の横に添えられて、顔が近づく。空却の影が目の前を覆い、あたたかいものが唇に触れた。ぴくっ、と震えた手を逃さないと言うように、空却の手の力がさらにこもる。
――いつもよりも長く、密やかな時間だった。ゆっくりと唇が離れると、満足げな顔をしている空却が映った。突然のことに理解が追いついていない中、「はよ行くぞ」と手を引かれる。
は自分の顔が熱くなるのを感じながら、空却の隣を歩いた。今のでもうすっかり目が覚めてしまい、幼い空却も、少年の空却も出てこず、思い出として胸の奥の方へ優しく沈んでいった。
