Episode.21
ピ、ピ、ピ――一定のテンポを刻む大きな機械。そこから伸びる細い管の先にはカヨの体が横たわっている。
上半身部をギャッジアップされたベッドに寝ている彼女は、しわくちゃになった顔をさらにしわくちゃにさせてふふふ、と幸せそうに笑っていた。
「ちゃん、セーラーふくかわいいねえ」
中学の制服を受け取りに行ったその足で、は病院に来ていた。一緒に制服を受け取りに行った空却に、「これからおつとめがあっからおれは行けねーけど、一人で平気か」「車に気ぃつけろよ」と見送ってもらい、今に至る。
「ありがとう。えへへ、あのね、このリボンね、くーちゃんにむすんでもらったの」
もカヨにつられて微笑む。高学年くらいから空却のことを意識をしてしまって、本人の前では“空却くん”と呼んでいるが、カヨと二人きりのときは“くーちゃん”と呼んでいた。
カヨはかわいいねえ、りっぱだねえ、おおきくなったねえ、としきりに褒めてくれる。つい最近まで体調がよろしくなかったが、今日は久々に元気な姿が見られた。いつになく朗らかな祖母に、も笑みが絶えなかった。
そのまま何気ない話をして、はベッドサイドにある椅子に腰かけた。カヨも話し疲れたのか、上半身をゆっくりと布団に預けた。起き上がらないことを条件に、ベッド柵は外してもらっている。おかげで、とカヨの間に隔てるものはなにもない。
「ちゃんにいいこと、おしえるわあ」
「いいこと?」
思わず声が弾む。ぅん、ぅん、とカヨはうわ言に似た音と一緒に、首を縦に動かした。
「かなしいことがあったら、すぐにおふとんのなかに、はいって、ねやあね」
おふとんをぼんやりと思い浮かべて、は幸せな気持ちになる。寝るのはすきだよ。ばあばといっしょに寝るのはもっとすきだよ。
「ふぅ~、って、ためいきついてね、おなかのなかにある、やなものをね、ぜぇーんぶ、はきだすんだよ」
ためしに、ふぅ~、とゆっくりと息を吐き出してみる。今はいやなことがなにもないので、息を吐く前との違いはよく分からなかった。
それでもカヨは「そう、そう、」とゆっくりと頷いてくれたので、は照れくさそうに笑った。
「からだのまわりに、うすぅい“まく”をつくるんだよ」
「うすーい、まく?」
「そぅ、そぅ」とカヨはやはりうわ言のような音で、同じように頷いた。たくさん話したので眠いのかもしれない。カヨの目はもはや開いているか閉じているか分からないくらい細まっている。
「その“まく”は、ねぇ、ちゃんのことを、まもってくれる、ものだからね。そのあいだは、かなしいものも、はいってこんから」
「かなしいもの……」
「ちゃんのからだとね、“まく”のあいだにあるのは、やさしいものばかりなの」
「やさしいもの……」
「そぅ、そぅ。ちゃんの、すきなものしかないでね」
いつになく饒舌なカヨに、ほんの少しの違和感を覚えた。しかし、カヨとの話が楽しいはそれを隅に置いておいて、自分の“すきなもの”を想像した。あったかいお布団、ばあば、気持ちいいお風呂、ねこちゃん、天むすのおにぎり、それから、それから――
――「」
やさしくて、つよくて……だいすきなひと
姿を浮かべただけで照れてしまい、「えへへ」とはまた笑う。ぽふん、とベッドの脇に頭を預けると、カヨのしわしわの手が伸ばされて、頭を撫でてくれた。とてもとても、あたたかい手だった。
「かわいいねえ、かわいいねえ。ちゃんは、ほんとうに、いいこだねえ」
褒められて、頭を撫でられて、夢心地だ。このまま病院におとまりしたいな、なんてことも思った。は猫のように目を細めて、カヨからの愛情を享受した。
そうしているうちに、うと、うと、と微睡んでくる。卒業式でずっと同じ姿勢で座っていて、歌を歌って、友達とたくさん話して――少し、疲れてしまった。面会時間のぎりぎりまでカヨと話していたいのに、睡魔はそれを許してくれない。
「――ちゃんは、げんきかねえ。おなか、すかせとらんかねえ」
遠くの方で、カヨがさみしそうに呟いたのが聞こえた。カヨが呼んだのは、母の名前だった。カヨが入院してからたびたび連絡をしているが、応答はなく、折り返しの電話もないのだ。
記憶の中にいる母は朝早く家を出て、夜遅くに帰ってきていた。だから、今も仕事で忙しいのだ。は母が寝ていたり、ごはんを食べているところを一度も見たことがなかった。
だから、母の母であるカヨが心配する気持ちもよく分かる。そんなカヨを元気づけたくて、は頭を撫でてくれていたカヨの手をベッドの上に持ってきて、両手できゅっと握った。
ばあばの手ぇ、あったかいね。わたし、ずっとにぎっとるからね。ばあばがいつもしてくれてたみたいに、ずっと、ずっとだよ。
でも、やっぱりねむいかも。ほんのちょっとだけ、寝てもいいかな。ばあば、時間になったら起こしてくれる? ばあば、いつも早起きだもんね。わたし、今はもうひとりでも起きられるようになったんだよ。だから、今日くらいあまえてもいいかな?
あっ、そうだ。今度はくーちゃんといっしょに来るね。くーちゃん、ばあばのこと心配しとったから、今のばあばを見たらきっと安心するよ。あとね、くーちゃんの制服姿、すごくかっこいいんだよ。
また、くーちゃんといっしょにおなべしようね。次はもつなべにするからね。くーちゃんとおなべしたとき、約束したもんね。あっ、電話がつながったら、おかあさんも呼ぼう? おかあさん、おしごとおやすみしてくれるかな。ふふ、四人でおなべ、楽しみだね。ね、ばあば。ばあば――
「だぃすき……」
ピ――――…………
部屋の中で、ずっと鳴り響いている機械音。当時のは、この音の意味を知らなかった。
慌てた様子で病室に入ってきた医者と看護師が来るまで、遠い場所へ旅立ったカヨの手をずっと握っていた。カヨの言ったとおりに想像した、すきなもので満たされた薄い膜の中で。
悪寒のような感覚に起こされて、は目を覚ます。周りは無音なのに、なぜか耳のあたりがぞわぞわとして気持ち悪い。
布団から出ようとして体を起こすと、昨日までの秋の気候が嘘のように冷え込んでいた。十一月も半ばに差し掛かっており、本格的に冬がやってきたのだ。
「さむい……」
どうりで悲しい夢を見るわけだ。ぶるる、と身震いをして、ふたたび布団に被さる。足を折りたたんで、熱が集まっている布団の中心に身を寄せた。
「(お店、暖房きいとるといいなぁ)」
布団の中にある熱にあやしてもらって数分。このままずっと丸まっていたいが、遅刻はまずいのでのそのそと身支度をし始める。先週のうちに掃除しておいた暖房もつけた。数ヶ月ぶりに動くエアコンは、気怠げにゆっくりと羽を持ち上げている。
服を脱ぐ手が進まない。朝ごはんは食パンだけでいいかなぁ――は寝起きの頭でぼーっと考える。最近、仕事に対するモチベーションが低くなっている。その理由も明らかで、ここ一ヶ月ほど一人で家に帰っているのだ。
「(年末年始だもんね、いそがしいもんね、わがまま言っちゃかんね)」
来月は年末年始――つまりは寺の繁忙期である。そのため、先月空却から「しばらく迎え行けねえ」というアプリのメッセージを残されて以降、彼は店の前に来ていないのだった。今まで家まで送ってくれていること自体ありがたいことなのに、それだけでは物足りなくなった心が、寂しさを訴えている。
会いたいな、おはなししたいな、ごはんいっしょに食べたいな――幾度も考えたことを胸の中だけに留める。遠慮しないことと迷惑をかけることは違うので、はじっと耐えている。その代わり、繁忙期が終わって空却に時間ができたら、めいいっぱい、遠慮せずにたくさんお誘いをすると決めている。おでかけ、ランチ、散歩――一緒にしたいことは、たくさんある。
――「はずっと、ここにいるんだ」
空却のことを考えると無意識に引っ張り出される記憶――先月あったことを思い出すだけで、わあっ、との顔に熱が帯びる。寒かった室内が一気に適温になった気がした。
匂い、体温、感触――は自分を恥ずかしげに抱きしめながら、あの日味わった感覚をゆっくりと反芻する。結局、空却に言うタイミングがなく――彼も聞く耳を持ってくれず――ナゴヤにずっといる、とは言えなかった。
母に対しては、一年も返事を待ってくれた気持ちを無下にするようで罪悪感がある。しかし、それでも空却が、そしてナゴヤという場所が好きだという気持ちに嘘はつけなかった。今、中王区に行くことは考えられない――そう伝えたかった。しかし、あれから母から電話は来ないし、こちらからかけてもなぜか繋がらない。いそがしいんだろうなぁ、と思ったので、かけ直しが来るまで待っていようと思っている。
「(早く、伝えなきゃ)」
おかあさんにも、空却くんにも。
の意思は固い。かといって、先月の記憶に囚われては仕事に身が入らない。肝心な空却にはしばらく会えないし、母とも連絡がつかないので今はひたすら耐え忍ぶ時……一度外に出たら、自分だけではどうにもならないことはいったん忘れようと決めている。
「(外、さむいかなぁ。そんなにさむくないといいなぁ)」
淡い期待を抱きながら、玄関の引き戸をカラカラ、と控えめに開ける。冬の朝の路地裏はほとんど光が入らず薄暗いが、それにしても今日は影が濃いと思い、はふと上を向いた。
「おはよ」
目の前には、白い息を吐く空却が立っていた。
この光景を受け入れるまでに数秒かかった。はっ、と我に返ったはぎこちなく「ぉっ、おはようっ?」と上擦った声で言う。
え? 空却くんがどうして家の前に? でもひさしぶりに会えてうれしい、変な声出てはずかしい――頭の中がしっちゃかめっちゃかになっていると、空却がの体の横に体を滑り込ませて、ぼすんッ、と家の中に何かを投げ入れた。振り返ると、玄関には大きなボストンバッグが置かれていた。
「んじゃ行くか」
「えっ? いく? 行くって、どこに?」
「どこって、店行くんだろーが」
「今日仕事だろ」と淡々と言う。は首振り人形のようにかくかくと縦に頷いて、空却に見守られながら家の鍵を閉めた。
なぜ家に来たのか、あのバッグはなんだったのか、年末年始の準備は大丈夫なのか――分からないことしかないが、は空却と会えてとにかく嬉しかったので、細かいことはいったん横に置いて、一緒に店へと向かった。
歩きながら、会えなかった時間だけ他愛のない雑談をたくさんする。目の前で白い息が踊っていると、今の自分の気持ちが可視化されているようで少し恥ずかしい。あんなに寒いと思っていたのに、今では体の内側からどんどん熱が溢れて、むしろ少し汗ばんでいるくらいだった。
「(あれっ? もう着いちゃったっ?)」
あっという間に店の前に着いてしまった。もうちょっとゆっくり歩けばよかった、と後悔しながら隣を見る。空却とばちっと目が合った。
「今日から毎日迎えにくっから。勝手に帰んなよ」
「えっ? ま、まいにちっ?」
「おう。あと、しばらくお前ん家に泊まるからな」
それには声すら出なかった。え、だの、あ、だの組み合わせた音を口から出していると、ぽん、と頭の上に手を置かれる。
「じゃーな。頑張れよ」
くしゃっと頭をひと撫でして、にっと笑う空却。様々な感情が追いつかない。気がついたら、スカジャンの後ろに刺繍されている名古屋城が遠ざかっていた。
「(ぇ、ええぇ……ッ?)」
時間差で照れる。全身が熱い。外気との温度差で頬がぱんぱんに張って少し痛い。まだ打刻もしていないのに、今日集中しておしごとできるかな……、とはすでに不安を抱いていた。
一日はあっという間に過ぎた。
締め作業を終えて外に出ると、一ヶ月ぶりに空却が店の前に立っていた。その姿を見ただけでひどく安心している自分に驚く。一人の夜道は怖いと無意識に思っていたのかもしれない。
しばらく無言で歩く。空却からなにか話し始める気配はない。はというと、朝から気になっていることがたくさんあるので、聞きたいことを頭の中でまとめてから、「空却くん」と隣で歩く彼に声をかける。「おう」と軽快に返事をした空却に向かって首を傾げた。
「朝に言っとった、“泊まる”って……?」
「そのまんまの意味だ。しばらくお前ん家に泊まる」
「いつまでかは決めてねーけどな」と涼しい顔で言う空却。ぽけ、とは口を小さく開けた。
「(おとまり……空却くんが、おうちに、おとまりっ)」
改めて空却の口からはっきりと言われて、ようやく現実味を帯びてくる。すきな人との無期限お泊まり――今までで最大のビッグイベントだ。
しかし、問題がある。人を泊まらせる準備をまったくしていないということだ。は冷蔵庫の中や家の散らかり具合などを思い出そうとする。冷蔵庫になにがあったっけ……。昨日、お洗濯たたんだっけ……。こういうときに限って何も思い出せない。
「そういや、冷蔵庫ん中になんもなかったから買ってある」
「えぇッ。あ、ありがとう……っ」
「おー。あと部屋も片しといた」
全部アウトだった。店の前で別れた後、その足で家に戻っていたらしい。嬉しいのやら恥ずかしいのやらできゅ、を眉をひそめる。「ありがとう……」とは消え入る声でもう一度お礼を言った。
「まあ、あれだ。細けえことは家帰ったらまとめて話すから、とりあえず今は歩け」
流れるように空却の指が手の甲を滑る。ぎゅ、と手を握られて、は喉が口から出そうになった。朝のときもそうだったが、一ヶ月ぶりのボディタッチに感情が追いつかない。梅干しのような顔をしていたら恥ずかしいと思い、軽く俯いて歩いた。
もう冬だというのに、空却の手はとても暖かい。冷えていた指先が熱を帯びて、じんじんと痺れていく。も勇気を出してその手を握り返した。手のひらから心臓の音が伝わるといけないので、やわい力で。
おうちに着いても、空却くんとバイバイしんくていいんだ――そう思いながら小さく口を開けると、雲のように真っ白な息がゆるゆると夜に溶けていった。
「ただいまぁ」
「おけェり」
「わッ」
「あ?」
家に着くといつもの癖で言ってしまっただけで、返事を求めたわけではなかった。なので心の準備もしていないは、空却からの突然の“おかえり”に素っ頓狂な声が出てしまった。
「どうした」と空却のつっこみが入るが、なんにもないよ、と言うようには首をふるふると横に振った。ふぅん、と空却は目を細めて、靴を脱いだ。
「んで、どうする。先にメシ食うか」
「え? ごはん、あるの?」
「ある。作った」
「たべる! ごはん食べる!」
「んじゃ、座って待ってろ」
そう言って、台所に引っこんだ空却。手を洗って、上着を脱いだはおずおずと食卓に座った。先日出したばかりのこたつの電源を入れて、まるでよその家に来たように遠慮がちにこたつの中にもぐった。
「(夢かも……)」
家に帰ると夕食ができていて、なにより空却が家にいる――こんなにも幸せなことがあっていいのだろうか。想いを伝えることよりも今この時間の方が大事に感じてしまい、ここが終着駅でいいとさえ思えた。
食卓に並んだ、自分以外の誰かが作ったご飯。お腹が空いているは箸を止めることなく料理をぱくぱくと口に運ぶ。その正面で同じものをばくばくと食べる空却。早く終わっちゃうのもったいないからゆっくり食べよう、と思いながら、はいつもよりも回数多めに噛んだ。
「どうだ」
「おいしい~」
「そうか」
ふふん、と空却が笑う。笑ってくれたのが嬉しくて、おいしい、おいしい、と何度も言うと「もう分かったっつの」と彼は口角を上げて、鼻で笑う。こういう、屈託のない笑顔を見られることが増えた気がして、の中にある嬉しさがぷくっと膨らんだ。
ご飯を食べ終えたは、食休みついでに洗濯物を畳む。洗い物までしてくれた空却は、今は大仏様のように寝転がっていた。畳んでいるところをじっと見られているので、少し気恥ずかしい。
気を紛らすついでに、まだ胸の中でくすぶっている疑問を解消すべくは口を開いた。
「空却くん、ほんとうにお泊まりするの……?」
「なんだよ。わりぃか」
「ううん、すごくうれしいよ」
素直に気持ちを伝えると、不機嫌そうな顔からすねた子どもが浮かべるような可愛らしい顔にがらっと変わる。「ならいいだろ」と唇を尖らせている空却に、は困ったように笑った。カラカラに乾いたバスタオルを目の前で広げて、二つ三つと折っていく。
「年末年始も近いのに、お寺から出ていいんかなぁって思って」
「いいから出てきたんだよ。拙僧がなんで一ヶ月近く迎えに来なかったと思ってんだ」
「年末年始の準備と思ってたんだけど……」
「なんだ。分かってんじゃねーか」
タオルを畳み終え、次は服へ。空却と話がしたいので、どうしても手の動きがゆったりめになってしまう。
「年末年始の準備、もう終わったの?」
「おう。口開きゃあ雑用ばっか投げてきやがるクソ親父がぐうの音も出せねえくらいにな」
「え! すごいねえ空却くんっ」
「おうよ!」
空却は勝ち誇った顔をして、大仏様からぐるんっと起き上がり、あぐらをかいて座った。両手で足の甲を掴み、どっしりと構えている。
「んで先月から前倒しで準備してやったから、年末まで大してやることはねえわけだ」
「うん」
「だがうちにいたら親父にサボんなだの働けだの小言を言われるわけだ」
「うん、うん」
「だからお前ん家に泊まりに来た」
そっかあ、とは納得する。いろいろ突っ込むところはあったかもしれないが、十四や獄よりも自分の家を選んでくれたことがとても嬉しかった。ただ――
「わたし、なにもおかまいできんかもしれんけど……」
「構えよ。放置すんな」
「あ、えっと……ごはんとか、すごいおもてなしできる自信がなくて」
「なんだ、そっちか。んなもん気にしんくていい。つかメシくれえ拙僧が作る」
「一日三食な。昼は弁当持ってけ」と言いながら、空却は指を三本立てる。ええッ、とは声を上げた。
「そんなことしてもらっちゃっていいのっ?」
「おう。あと風呂も入るだろ」
「う、うん。入るよ」
「なら風呂掃除と皿洗いもやる。あと家の掃除も。洗濯物……だけはお前がやれ」
洗濯物の山を一瞥してから言い直したように見えたが、は特に気にしなかった。家にいてくれるだけではなく、食事の支度もしてくれるなんて願ってもないことだ。今日の夕飯も美味しかったので、明日も期待してしまう――と、同時に。
「また、わたしばっかり空却くんからもらっとる……」
「んなことねーよ」
空却はすぐに否定したが、穏やかな声だった。「人を家に置くってだけで色々嵩むだろ。拙僧はお前の倍食うしな」と続ける。
「おじさんは空却くんがここにおるって知っとるの?」
「知ってたら今頃ここの家の引き戸ぶち抜いて突撃してるだろうぜ。だからお前も言うんじゃねーぞ」
案の定である。嘘をついているようで責任を感じてしまうが、空却に一日でも長くいてほしいという願望が勝ってしまう。うん、とは固く頷いた。
「あーそれから。あれから母親とも連絡とってねえだろうな」
「うん。固定電話からかけても出んくてね。きっと忙しいんだと思うんだけど……」
「このあいだお前ん家の電話線切っといたからな。あっちからかけてたとしても繋がらねーよ」
「えぇッ?」
は立ち上がる。電話機の前までぱたぱたと小走りをして、配線回りを見てみる。たしかに、大事そうな線が本体から抜かれていた。
宙ぶらりんになった配線をつまんで、わぁ、とを口を開ける。
「ほんとだぁ、ぜんぜん気づかんかった……」
「繋ぐなよ」
後ろから声がして、電話線を奪い取られる。空却は奪った配線を電話台の足にぎゅっと結んだ。
「いつ? いつ切ったの?」
「お前が母親と電話し終わった後」
「わたしがおかあさんと――あ、」
――「はずっと……ここにいるんだ」
味わった体温と感覚がじわじわと呼び起こされる。あのときは頭がオーバーヒートしていて抱擁が終わってからの記憶があまりないが、もしかしたらその後に配線を切ったのかもしれない。いや、きっとそうだ。
「わ、わたし、おかあさんに言おうと思っとるのっ」
「言わせねえ」
「なごやっ。ナゴヤにおるってっ。ちゃんとっ」
「はっ。寝言は寝てから言えや」
鼻でせせら笑った空却は、どすどすと大股で歩いていく。どこに向かうのかと思い後を追うと、玄関にある靴箱の前で止まった。そこには分別しきれていない郵便物やチラシ類の紙が置かれていて、彼はそれらを片手でぶん取った。
「こんなにも中王区関係のチラシがあんのにか?」
空却からの蔑みの眼差しを浴びて、は言葉をなくす。夏祭りしかり、シラカワ公園でのイベントしかり……中王区の存在が大きくなっていたことは分かっていた。中王区関係のチラシが郵便受けに入ってくるようになったのもここ最近からだ。
空却が持っているチラシも回覧板と一緒に回ってきたものばかりで、次のゴミの日に捨てようと思っていたものだ。決してが自分から取り寄せたものではなかった。
「そ、それは回覧板で回ってきたのでっ。最近中王区のチラシが多くてっ。女の人が住んどるところには届けられるみたいでっ!」
「信じられるかっつーのッ!」
空却は元ある場所にチラシを叩きつける。誤解を解こうと焦って言ったことがさらに不信感を募らせてしまったらしい。空却の顔つきは厳しかった。
「そんなに認めてほしいなら、拙僧に証明してみせろ」
「しょ、証明?」
「お前が一生涯ナゴヤにいるっつー証明だ。口ではなんとでも言えっからな。目に見える形で拙僧を納得させろ」
これは難問だ。どうすれば“証明”になるのか分からない。が言葉を詰まらせていると、ほらみろ、と言わんばかりに空却が鼻を鳴らした。
今この場で空却が望むものはあげられない。ただ、一つだけ気になっていることがあって、は叱られる覚悟で彼と目を合わせた。
「あの……」
「んだよ」
「空却くんは、どうしてわたしにナゴヤにいてほしいの……?」
どうしてもこれだけが気になった。よく思っていない相手のことを引き止めることはしないだろうから、ほんの少し……ほんの少しだけでも、いい意味の理由ならうれしいな、くらいに思っていた。
怖い気持ち半分、期待の気持ち半分で言葉を待つ。すると、先ほどの気迫をすっと消した空却が、視線をずらしてから口を開いた。
「……まだ、言わねぇ」
「まだ?」
「とにかくだ! 信じてほしかったらそれ相応の行動で示すんだなッ」
シャッターを締めるようにぴしゃりと言うと、空却はその場を立ち去ってしまった。意味深な答えをもらって、胸の中のもやもやがさらに大きくなる。
“まだ”っていうことは、いつか言ってくれるんかなぁ。そんな淡い期待を抱いて、先ほど空却が手にしたチラシ類を見る。これ以上あらぬ誤解を生まないようにと、はいらないチラシ類を雑紙入れの中に捨てた。
じきに水音が聞こえてきたので、空却がお風呂に入ったのだと知った。チラシを片付け終えたは、彼が快適にお泊まりができるように二階で色々と準備をしていた。
「(着替えもさっき脱衣所に置いたし、お布団も敷いたから……あとはなにかすることあるかな)」
“おかまい”はできないとは言ったものの、最低限のおもてなしはしたいという気持ちはあるので。少しでも居心地がいいと思ってもらえるように考えを巡らせる。
布団を敷いたその足で二階から一階に下がっていくと、廊下にせっけんの香りがほのかに漂っていた。空却くん、お風呂から上がったかな?と思いながら、階段の一番最後の段から足を離した。
「おう。着替えあんがとよ」
「ううん。空却くんのお下がりの服があってよかっ――」
ちょうど廊下を歩いていた空却と鉢合わせる。思わずは「わあぁッ!?」と声を上げた。
空却は、春にお下がりでもらった短パンを履いている。トップスのユニセックスパーカーはというと、なぜか着ずに片手で持っていた。つまり上半身裸だ。
は飛び上がって空却に背中を向ける。「なんだよ」という彼の声は明らかに不満の色を帯びていた。
「化け物見たみてーな悲鳴上げるんじゃねえよ。失礼だろ。つかこっち向けや」
「ぁ、あ、ごめんね……っ」
空却の言い分はもっともなので、は背中を向けながら小声で謝った。しかしそっちを向けるかと聞かれると答えはノーだ。一瞬だけ見てしまった空却の上半身が目に焼き付いて離れない。肩はば広かった、腕のきんにくすごかった、おなかのきんにくも――ッ、わあぁ……っ!!
「わ、わたしもおふろ、入ってくる……っ!」
ひとまず、今の空却と距離を置かなければいけない。きっと自分がお風呂から上がるころには服を着ているはずだ。は着替え一式を持ってくるべく、空却から背中を向けながら居間に向かおうとした。
「待て」
「わッ?」
片方の肩が後ろに引っ張られる。反射的に振り返れば、今一番見てはいけない空却の顔――そして必然的に晒された上半身も視界にうつる。
「ひゃあぁ……ッ!」
「あからさまによそよそしくしてどういうつもりだ」
「よ、よよ、よそよそしくしとらんよ……っ」
「どもってんじゃねーか。……おいこら、だからこっち見ろっつってんだろ」
顔を逸らそうとすると、空却の手で顎を固定されてしまう。後ろを向くことも、俯くこともできなくなってしまった。顔に熱が集中するのが分かって、せめて見ないでほしいと思うのに、まっすぐ射抜く空却の目は少しもずれない。
「な、」
「あ?」
「那須野家には、おふろのあとははだかで出てきちゃかんっていうルールがありますっ」
震える唇を必死に動かして、口からでまかせを言った。この状況から脱するためならなんでもする。その一心で叫ぶようにそう言えば、「はあ?」と空却が首を傾げた。
「なんだそのルール。つかお前だって半裸で出てきたことあんじゃねーか。人のこと棚に上げんな」
「え? いつのこと……?」
空却の言葉にきょとんとする。そんなことがあっただろうか。ましてや好きな人の前でそんなことをする勇気がどこに? 過去の記憶を漁っていると、みるみるうちに空却の顔が険しくなっていく。
「……むかつく」
「えぇッ?」
「拙僧が覚えてることを、お前が覚えてねーのがむかつく」
世界で一番大切な人との思い出を忘れるわけがない。むかつく、と二度も言われたが傷つく暇もなく、 は慌てて弁解する。
「わっ、わたしも空却くんとの思い出、ぜんぶ覚えとるよっ」
「嘘つけよ。ならなんで風呂上がったばっかの格好で出てきたこと覚えてねーんだ」
「そんなことしとらんから……?」
「したんだよ拙僧の前でタオル一枚だけ巻いて出てきやがってッ」
「たっ、タオル一枚ッ? 空却くんの前でそんなことしんっ!」
「だからしたんだっつーのッ!」
掴まれている顎をうりうりと左右に小刻みに振られる。それでもまったく記憶にない。もしも空却が言っていることが本当なら、昔の自分はなんて大胆なことをするのだろう、とは思った。
「ふ、服着んと風邪ひいちゃうっ」
「拙僧はそんなヤワじゃねえ。あと風呂ん中くそ熱かったからしばらく服いらねえ」
「そんなぁ……ッ」
熱かった、と言われて、お風呂の温度高すぎたね、明日からもうちょっと低めに沸かすね、と言えるはずだった。本来なら。空却が半裸でなければ。
じり、じり、と距離が縮まる。ついにの背中は壁についてしまい、ルームウェアのワンピースが空却の胸板を掠める。逃げ場がなくなった。顔も徐々に近づく。空却の影に覆われながら、はだめ、だめ、と言わんばかりに首を横に振る。
「はっ。タコみてえ」
「ふく……っ、服着てぇ……っ」
「だからくどいっつーの。拙僧はんなことで風邪ひか――」
「わたしがどきどきしちゃうのっ!」
自分の中でなにかが破裂して、は叫ぶように言う。当たり障りのない理由を考える余裕がなく、は思っていることをそのまま口にした。
言っちゃった、とさらに顔が赤くなっていく気がした。おずおずと空却の顔を見上げると、
「……ふぅーん?」
「ぁ、い、いまのは……っ」
「ま、いいわ」
へ、と気の抜けた声が出たと同時に、空却の手が顎から離れる。そして持っていたパーカーを頭からがばっと着て、「あー、あっちィ」と腕まくりをした。
再び目が合うと、口元にはにんまりと笑みが浮かんでいた。どこかご機嫌なような気もする。
「“男”として意識してるんなら仕方ねえ。なあ?」
「え? ぁ、う、うん……?」
「んで、ルール違反したらどうなるんだよ」
「ルール違反……」
「那須野家のルールなんだろ」
“那須野家のルール”というのはもちろん咄嗟に出た言葉だ。なにかペナルティがあるわけではない。それでも、うそにうそを重ねるためには考える。空却の眼差しを受けながらなんとか考えて、ぴんと閃いたものがあった。
「いっこ、わたしのおねがいを聞いてもらいますっ」
「へえ~」
なぜかずっと楽しそうな空却。空却くん、ほんとうにお手伝いがすきなんだぁ、とは思った。いつも嫌がっているお寺の掃除や雑務はよほど大変なことなのだろう。こちらからなにか頼み事をして、断られたことは一度もないものだから。
「なら考えとけよ。なんでもいいからな」
「う、うん。ありがとう」
話の終わりが変なところに着地してしまったが、大事な部分には触れられなかったのではほっとする。空却くんやさしい、と思いながらきゅ、と口角を上げた。
さて、今度こそ空却と入れ違いでお風呂に入ろうと思い、は着替え一式を持って脱衣所に向かった。
「あっ、空却くん。二階にお布団敷いたから、先に寝とっていいからね」
「おう、さんきゅ――って、待ておい」
ふたたび引き止められる。振り返ると、またしても険しい顔をした空却が人差し指をぴっと立てて上を指していた。
「二階はお前も寝るんだろ」
「うん、そうだよ。ふふ、なんだかおとまり会みたいで楽しいね」
わたしだけかな、と思っていてもつい口に出してしまった。もし空却くんがいいよって言ってくれたらおかしパーティーもしようかな、などと考えていると、大きくて長いため息が空却の口から漏れた。
「……拙僧は一階で寝る」
「え! どうしてっ?」
「どうしてもだ」
「一階、すごく寒いよ? 二階で寝たほうがあったかいよ?」
「寝るっつったら寝るんだよ」
が止めても、空却は二階へどすどすと上がる。このままではせっかくのお泊まり会の楽しみの一つがなくなってしまう。
もしかしたらそのままお布団を下に運んじゃうかも、と思い、もその後を追う。「はあッ!?」と裏返った声を聞いて階段を上がりきると、空却はの部屋の前に立ち尽くしていた。
「なんッでお前の部屋に布団が敷いてあんだよッ!!」
「おとまりだから近くの方がいいと思って――あっ、やだったっ?」
自分の部屋に敷いてあるのは二組の布団。小さい頃の感覚で特になんの抵抗もなく敷いてしまったが、よくよく考えれば、なんの関係も持ってない二十歳の男女が同じ部屋に寝るのはいかがなものかと思えてきた。
空却がどう思っているかはさておき、の中ではじわじわと羞恥心が滲んでくる。首がじんわりと熱くなってきたところで、慌てて部屋の中に入った。
「ごめんねッ。空却くんのお布団はとなりの客間に敷くからちょっとだけ待っとっ――」
そのまま布団を畳んで持とうとしたら、腕を掴まれて制止される。びくっと体を震わせたは、掴まれた腕の先にいる空却を見た。
「拙僧と寝たいってことか」
「え」
「そういうことだろ。隣に敷いたってことは」
真剣な目だった。意味合いはそうだとしても、直接言葉にされると羞恥が襲う。は目を泳がせて震える声で言った。
「く、空却くんと寝たいなんて、そんな……。ただ、近くのほうがうれしいなって、思っただけで、わたしは……」
の記憶にあるのは、一枚のタオルケットを半分ずつして昼寝をしたり、心寂しくなった夜に添い寝をしてくれた空却との思い出。その思い出に浸りながら寝床を準備していたせいで、今の空却を見ていなかった。
しどろもどろに答えると、空却は疲れたように片手で頭を抑えた。
「据え膳……」
「え?」
「よかったな。拙僧が辛抱強え男でよ」
呟いたことを打ち消すように、からっとした声で流される。の理解が追いついていないうちに、空却はてきぱきと自分で布団を畳み、客間の空いているスペースにぼふんっと投げた。
「なんもねえ男女が布団並べて寝るってのはありえねえからな。ふつーは」
「そうだよね……」
「ちったあ考えろよ」
「うん……」
離れてしまった布団を名残惜しく見つめる。空却の言いたいことは分かっているが、それでもさみしいものはさみしいもので。
昔、お昼寝をしようとなったときはふくふく笑いながらタオルケットにくるまって、「おまえもうちょっとそっちよれよ」と言われながら、空却にくっついていた。しかたねーな、と呟かれながら、同じ熱を共有して、しあわせな気持ちになっていた。
今は……もう、だめなんだ。そうだよね、これはわたしがいかんかった。反省の池にぶくぶくと沈むは、表情も一緒に底へ沈ませていった。
「どうせ拙僧だからって気ぃ抜けてんだろ」
「うん……あっ」
今、言っちゃかんこと言っちゃったような気がする――危機感もってないですという看板を持って歩いているような気持ちになって、背中に冷や汗が滲む。案の定、空却にじとっとした目で見られた。
「拙僧は男だ」
「う、うん。空却くんは、男の子」
「幼稚なお前に今更なんの期待もしてねーけどよ。拙僧にもそれなりに欲はある」
「欲?」
「どんな……?」と話の流れで聞いた。特に深い意味はない。どうしても一階で寝たいっていう欲かな、と軽い気持ちでいた。今、この時までは。
尋ねた後、空却に人差し指でちょいちょいと招かれる。近くに来いということだろう。は素直に距離を詰めると、耳の横あたりに空却の顔がそっと近づいた。
「……お前の近くにいてえって欲」
――甘くて、どろっとした声色。空却の口から発せられたものとは到底思えなくて、自分の耳を疑いにかかるところから始まった。は、自分の耳から離れた空却の顔を見ながら、瞬きをぱちぱちと繰り返した。
「っ、ぁ、え……?」
「んじゃ、拙僧は先に寝っから。お前はとっとと風呂行ってこい」
そうして、半ば追い出される形で部屋を出た。ばたん、と閉じられたドアの向こうからは電気を消す音が聞こえた。
取り残されたは言われた言葉をなんども噛んで飲みこもうとするが、なかなかそれができない。欲……欲? 近くにいたい? わたしと? 近くって、一緒にってこと? 一緒に、わたしと、いたい……?
「(え……。えぇ……ッ?)」
どういう意図で言われたのか分からない。閉じられたドアを開けて空却に聞く度胸もない。はようやくひと噛みできた言葉の意味に、ただただ顔を赤くすることしかできなかった。
「(あんまり眠れんかった……)」
翌朝――はうとうととしながら身支度をする。寝る前に空却に言われた言葉が頭から離れなかったこともあるが、隣の部屋にいる空却の気配や息遣いを感じてしまい、眠りに落ちるまで布団の中で悶々としていた。
ぎゃくに安眠できるとさえ思っていたのに、これは予想外だ。空却が真隣で寝ていたら、今ごろ寝不足では済まなかっただろう。お部屋分けてよかった、今日お仕事お休みでよかった、とは心から思った。
「おはよ」
「お、おはようっ」
部屋を出て一階に降りると、髪をタオルドライしている空却とばったり会う。がしがしと豪快に髪を拭っている空却を見て、起き抜けの心臓がきゅん、と縮んだ。
太陽が昇るよりも早く起きた空却は朝のランニングに行ってきて、そのままシャワーを浴びたらしい(今度はきちんと服を着てくれている)。今の時刻は七時――普段ならまだ寝ている時間だが、せっかく家に空却がいるのに寝ていてはもったいない。空却の“おはよう”が聞けただけで、の朝はすでに満たされていた。
顔を洗って居間に行くと、食卓の上には謎の紙袋が置いてある。紙袋の表面には、見たことのないロゴがプリントされていた。
「空却くん、これどうしたの?」
「パン。今朝商店街のあたり走りに行ったら売ってた」
「商店街? こういうロゴのパン屋さん、あったっけ……?」
「一昨日開店したばっかのパン屋なんだと」
「え~っ。そうなんだっ」
パン、と聞いては心を踊らせる。「開けてもいい?」と聞くと、「いいもなにもお前の朝メシだ。好きなの食え」と返された。
さっそく紙袋を開けると、小麦の匂いが優しくふんわりと香る。すでに幸せな気持ちになりながら中身を覗いて、パンを一つ一つ出していく。どれもほんのりと温かくて、焼き立てということが分かった。
「わあっ。こんなに買ってきてくれたのっ?」
「なに食うか分かんなかったからな」
「わたし、なんでも食べるよっ。ありがとうっ」
出したパンは片手では数え切れないくらいあった。は腰を下ろす前に冷蔵庫から牛乳を出して、二人分のコップに注ぐ。髪を拭き終わった空却と一緒に食卓に座り、はさっそくパンを一つ手に取った。大きなハッシュドポテトが乗ったロールパンだ。
「どうだ」
「ん~っ」
「うめえんだな」
空却はふ、と笑ってから、パンを取る。なんのパンかな?と思って見てみたら、自分と同じパンを取っていたので、言葉にはできない感情が込み上げて、はにっこりと笑った。
「ふふ、」
「なんだよ」
「ううん、なんでもないよ。ふふ」
「笑ってんじゃねーか」
「言えよ」「ないしょだよ」「言えったら」「ふふふっ」と柔らかい言い合いをする。はロールパンを食べ終えると、すでに二個目を食べ始めている空却と同じたまごパンを手に取って、かじる。卵のまろい甘さが口の中を満たした。
パンの包み紙の音だけが部屋を満たしている。空却と話すのも楽しいが、同じものを食べてじっくり味わうこの時間はひときわ尊いものに感じた。しばらく無言で食べ進めていたが、はふと気になることがあって顔を上げた。
「空却くん、朝ごはんはお米じゃなくてよかったの?」
「米?」
空却は米の方が食べ慣れているだろうと思ったゆえの質問だった。は返事を待っている間にもパンを一口かじって、口をもぐもぐと動かす。
もしかして、トヨタでパン食べたからかな。あのお店のパン、おいしかったもんねぇ。空却くんと食べられるものが増えてうれしいな。はぽわぽわといろんなことを考える。返事を待ちながら、幸せの味も一緒に噛み締めた。
「見慣れねえパン屋があったから、興味本位で入ったのもあるが」
「うんうん」
「パン食ってるが見たくなった」
……。……??
はゆっくりと首を傾げる。口の中に残っていたパンをこくん、と飲み込むが、数秒考えても空却の言葉は喉奥に引っかかったままだった。
「トヨタ行ったとき、朝にパン食ったろ」
「う、うん」
「すげえうまそーに」
「うん。パン、おいしかった……」
「だから買ってきた」
しれっと言って、パンを豪快にかじる。あっという間に自分の分を完食して、「ごちそーさん」と手を合わせた。牛乳を飲みきっても、空却は座ったままでいる。こちらに濃い視線を向けたまま、ふー、と鼻からゆっくり息を吐いた。
「(みとっ、た……?)」
“食べる姿を見るため”に……見ていた?
最初はどきどきしていたものだが、最近は慣れつつあった。特に理由はなく、食べ終わるのを待ってくれているくらいに思っていたから。しかし、食べているところを見られていたその理由が、ちゃんとあった。いま、ようやく分かった。
――「……お前の近くにいてえって欲」
途端にパンの味が分からなくなる。
ぶわっ!と顔が熱くなる。甘くておいしいパンがスポンジのような食感になってしまい、は口の中にパンをぎゅっぎゅっと詰め込む。すべて牛乳で流しこんで、勢いよく立ち上がった。
「わたしっ、猫ちゃん見てくるっ」
「は? っておいッ、まだパン残ってんだろーがッ」
適当な理由を言って、早々にその場から立ち去る。後ろから空却の声が飛んでくるが、一度も振り返らなかった。熱く火照った首の付け根を両手で冷やしながら、は早足で玄関に向かった。
「(勘違いしちゃかん、勘違いしちゃかんのにぃ……ッ!)」
思い上がってしまう。思い上がったら、もっといろいろなものがほしくなる。これ以上はだめという自制もきかなくなる。“すき”を入れておく容器はもう満タンなのに、もっともっとすきになってしまう。溢れてしまう。“すき”が、口から漏れてしまう。
逃げるように家から出た。なにも着ずに出てきたので体は一気に冷えてしまうが、顔は火照ったままだったのでちょうどよかった。
「(猫ちゃん、今日はおらん日かな……)」
顔をクールダウンをさせながら、視線だけで猫を探す。朝は三匹ほど見るものだが、この時期の路地は冷えるので、もしかしたら今日はいないかもしれない。
「(おらんかったら、家のまわり歩いてようかな――あっ)」
は路地の隅に目を凝らす。最初はビニール袋かと思ったが、わずかにもぞもぞと動いている。間違いなく生き物だ。
驚かせないようにゆっくりと近づく。毛玉のように丸まっているそれは子猫だった。
「震えとる……」
身を縮こませて凍えている子猫を見て、は自分のことのように眉をひそめる。細くて長い毛がハリセンボンのようにピンと立っていて、体はぷるぷると震えている。足元は薄汚れているが、その毛並みは野良とは思えないほどの綺麗なトラ柄だ。いろんな野良猫が遊びにくるが、トラ柄の子猫を見るのは初めてだった。
「(もしかしたら、飼い猫ちゃんかもしれん)」
家から出てきたはいいものの、迷子になったのだろうか。このまま寒空の中で一匹でいたら、カラスか鳩にいたずらされてしまう。念のために親猫が近くにいないか確認してから、は子猫に声をかけた。
「猫ちゃん、猫ちゃん。そこにおると冷えちゃうから、こっちおいで?」
ひとまずおうちで保護しよう――が控えめに手を伸ばすと、顔を上げた子猫と目が合った。毛玉の中から手足が伸びて、一歩、また一歩、と短い足を前に出して近づいてくれる。そうして差し出した手の指に鼻先を近づけて、くんくんと匂いを嗅がれた。
しばらく様子を伺ってもらってから、そおっと胴の裏に両手を通す。大人しくしてくれているのでそのまま持ち上げた。病的にやせ細ってはいないものの、その体は羽根のように軽かった。
「いったんおうちに入ろうね。外よりもあったかいからね」
猫ちゃんが食べられるもの、なにかあったかなぁ――そう思いながら、玄関の引き戸を開けるために片手と肩口で子猫を支える。
引き戸を開けて体を滑り込ませた瞬間、突然「ミ゙ッ!」と子猫が大きく鳴いた。
「ぃた……ッ」
鋭くて、小さな痛みが耳の端に走る。それでも子猫を落とすわけにはいかないと胴をしっかり持って、急いで鍵を閉めた。そのあいだにも、子猫はよく鳴いた。知らない家に入って、不安になったのかもしれない。
子猫を廊下に下ろすと、やはりぷるぷると震えて一歩も動こうとしない。にーにー、と玄関に響く鳴き声……が呼ぶまでもなく、空却が早足で玄関に来てくれた。子猫を見るなりに早口で尋ねる。
「どうしたこの猫」
「路地のところにおったの。迷子かもしれんくて、震えとるからタオルでくるもうと思って」
「取ってくる。どこにあんだ」
「脱衣所にある棚の真ん中に――」
言い終わる前に、空却は踵を返す。そのあいだには玄関に上がって、二階へ駆け上がった。
「(入れものっ。なにか入れものっ)」
子猫の仮住まいとなる箱のようなものを探す。しかしいい感じの空箱は見当たらない。
そこで、はは、と思いつく。自室の押し入れから宝物箱として使っているカンカンを取り出し、中身を全部出した。空却からもらった、大事なものたちを。
出したものはひとまず部屋の隅にあったクッションで隠し、空になったカンカンを抱いて一階に降りた。
「ほら」
「ありがとうっ」
タオルを取りに行った空却はハンドタオルを数枚片手に持って待ってくれていた。カンカンの底にタオルを敷いて、鳴いている子猫をその中に入れる。余ったタオルは布団代わりにして子猫の体の上にかけた。最初のうちは相変わらずにーにーと鳴いていたが、害はないと分かってくれたのか、じきに鳴き声も止んだ。
「たしかに、野良にしちゃあ毛並みがいいな。目やにもねえ」
「うん……」
子猫の頭を指でくすぐる空却。その様子を微笑ましく見ていると、耳のあたりが熱を持っていることに気づいた。
あつい。はれとる……? ちょっとだけ痛いかも……。家に入ったとき、子猫の爪が耳に当たってしまったかもしれないとぼんやり考える。驚かせてごめんね、とは子猫に心の中で謝った。
「ひとまず水でもやっとくか。あとなんか猫が食えそうなもんがあったら――」
不自然に言葉が止まる。が空却の方を見ようとすると、空却の手によって横髪が持ち上がった。
耳が露わになって、熱を持っているところが外気に触れる。空却は近くにあったティッシュ箱からありったけのティッシュを抜いて、首筋から耳にかけて強めに拭われる。
ど、どうしたんだろう? が狼狽えていると、自分の体から離れたティッシュが赤く染まっていた。
「えっ!?」
「持ってろ」
ティッシュ越しに耳をつまむように指示されて、言われるがまま手を持ってきた。たしかに熱は持っていたものの、まさかこんなにも出血しているとは思わなかった。
「さ、さっき猫ちゃんの爪が当たっちゃったの。たぶん、そのときに傷ついちゃっ――っ」
「動くな」
にがくなった空気が体を刺す。淡々とした言葉しか言わない空却に、心の余裕がなくなっていくのを感じた。怒っているのか、呆れているのか、はたまた別の感情か――弁解する余地もないと思ったは、下手なことを言わない方がいいと思った。
「消毒液は」
「今切らしてて……」
「ならシャワーで流して、絆創膏あったら貼っとけ。なけりゃ血ぃ止まるまで押さえてろ」
早口でそう言われて、空却は子猫を抱き上げてどこかへ行こうとする。「どこいくのっ?」とが焦ったように尋ねるが、彼は目も合わせず、抑揚のない声で答えた。
「薬局。ついでにこいつのこと知ってるか近所に聞いて回ってくる」
「それじゃあわたしも――っ」
「怪我人は家にいろ」
ぴしゃりと言って、居間を出る空却。階段を下り、廊下を歩いて、じきに玄関の引き戸が閉まる音まで聞こえた。しん、とした家の中で、は一気に心寂しくなる。
「(水で、洗い流そう……)」
立ち上がって、とぼとぼと洗面所へ向かう。鏡を見ると思っていた以上に血が伝っていたので、一度服を脱いでからシャワーで耳から首にかけて血の跡を洗い流した。
よりにもよって、引っかき傷は右耳の縁にあった。出血しているところの上にある痕を触りながら、は重いため息をついた。
「(ちゃんと、言わんとね)」
きっと、“これ”も目に入ったはずだ。臭いものには蓋をしてきたせいで、そのツケが今日回ってきた。もう、隠したりはしない。目を背けたりもしない。きちんと、向き合わなければ。その勇気も、自分はもう持っている。
ティッシュで傷口をぎゅっと抑えながら居間に戻る。空却くん、いつ帰ってくるかな。は壁時計を見上げた。あと数分したら、昔から聞いている時報の音楽が鳴るころだった。
――みぃ、とか細い鳴き声が聞こえて、は目を開ける。いつの間にか寝てしまったらしい。横向きから仰向けになると、こちらの顔を覗き込んでいる子猫と、すぐそばに座っていた空却が一緒に映った。
「ぉかえりなさぃ……」
前に出していた子猫の前足とあくしゅをして、やわく笑む。まだ意識があいまいで口は上手く動かなかったが、「……たでーま」と上から言葉が降ってきた。
「猫ちゃん、どうだった……?」
「おー。見つかったぞ、飼い主」
「えっ。ほんとっ?」
目をわっと見開いて、は起き上がった。「お前んちの裏にある家んとこの猫だ」と言いながら、空却は子猫の頭をひとなでした。
「息子夫婦とその飼い犬が遊びに来てて、犬が一発吠えたら外に逃げちまったんだと。一昨日から探し回ってたらしい」
「おとといからっ? それじゃあ、それまでずっと外に?」
「だろーな。まだ一度も外出したことねえっつってたから、箱入り息子だったんだろ。そりゃあ自分の家も分かんなくなるわな」
そう言って、空却は軽く笑った。とにかく最悪なことにならなくてよかった、とは安堵する。
ふと、空却の傍にトートバッグとビニール袋が置かれていた。どちらも家を出るときには持っていなかったものだ。
「それ、どうしたの?」と聞けば、空却はバッグの中に手を突っ込む。その中からキャットフードの袋や猫用のおもちゃを取りだした。
「明日まで犬がいっから、よかったら一晩預かってほしいって持たされたんだよ」
「え! 猫ちゃんの面倒みていいのっ?」
「おう。どうせお前はいいって言うだろうから、そのままこいつと帰ってきた」
「うんっ。もちろんいいよっ」
今まで猫は見て愛でるだけの存在だったが、まさか一晩一緒にいられるとは。むしろありがたい申し出だった。
トートバッグはお世話に必要なものが入っており、飼い主に丸々持たされたらしい。他にもスティック型のおかしや猫用のおもちゃが入っており、猫ちゃんといっしょに遊べる、とはきらきらと目を輝かせた。
「この子のお名前はなんていうの?」
「“ういろ”」
「ういろくん? お名前もかわいいねえ」
ナゴヤ名物の“ういろう”からきているのだろうか。ういろは空却にお腹を見せて、彼の腰から垂れている数珠の房で遊んでいた。寝ている間にお風呂に入ったのか、出会った頃よりも毛がふわふわになっていた。
「ふふ、空却くんになついとるね。かわいいね」
ぐるぐると喉を鳴らしているういろを見て、は微笑ましくなる。さっそく猫用のおもちゃで遊ぼうとしたら、その腕を空却に引っ張られた。
「お前は遊ぶ前にあっち向け」
あっち、と空却に対して横向きに座らされる。すると空却はビニール袋から色々なものを取り出した。消毒液、コットン、包帯、固定用テープなど……仰々しい応急処置セットに、は首を横に振った。
「も、もう大丈夫だよ。水で流したし、ばんそうこうも貼ったから――」
「染みるぞ」
ぐい、と顎を掴まれて、振っていた頭を固定される。絆創膏を剥がされ、ぷしゅっ、とした音ともに冷たいなにかが耳に降りかかる。おそらく消毒液だろう。じわじわと傷口に入り込んで、弾けるような痛みが走る。ここで痛いと言ってはいけないような気がして、は手を強く握って耐えた。
消毒液を拭われて、絆創膏の代わりにぺたぺたと貼られ、ぐるぐると巻かれ――なにやら壮大な処置をされているような気がする。ただの引っかき傷だよね……? とぎゃくに不安になってしまうくらいに。
頭を包帯と思わしきもので巻かれると、それ以降右耳が少し聞こえづらくなった。この感覚を、は以前体験したことがある。
「(あのとき、看護師さんがやってくれたみたいにしてくれたんかな)」
針で縫われた後の処置をおぼろげに思い出して、なんとなく今の状況と一致する。今回は引っかき傷なのでここまで必要ないと思うが、せっかくしてくれたものを解いてとは言えなかった。
空却はずっと無言だった。処置中、ずっとあの日の痕が目に入っていたと思うと、息がしづらくなる。少しずつ傷口に触れていきたいのに、体が思うように動かなくなる。触れない方が居心地がいいからだ。開けてしまって、あのときのようになるのが怖いからだ。そのときの苦しさを知っているから、つい逃げ腰になってしまう。
それでも……はゆっくりと思い出す。この部屋で起きたこと、獄に連れられて駅から家に帰ってきたこと、駅長室での会話――記憶の巻き戻しをしているうちに、「終わったぞ」という空却の声が降ってきた。
「空却くん、ありが――」
お礼を言いかけたとき、あの日の記憶のはしっこが脳裏を掠めた。
――「もう……っ、なにも言わんでいいから……ッ」
――「あんなになるまで、たくさんぶつことないよ……ッ!」
あれ……?
救急箱を閉じている空却の手元をぼんやりと映す。自分から空却へ向けた言葉の数々が蘇ってきて、はぞわ、と寒気がした。
「おい、どうした。耳痛むのか」心配して呼びかけてくれる空却の声が遠くなる。違和感が徐々に確信に変わって、は衝動的に空却の片手を両手で握った。
「なん、だよ」
「わたし……空却くんに、駅でお礼言っとらんかった」
口が自然と動いた。あいまいに揺れている金色の瞳をまっすぐ見つめる。あんなに避けていたことなのに、触れてこなかったことなのに、今は伝えたくて仕方がない。なにも言わないで後悔ばかりしていた過去の自分が、今の自分の背中を押してくれている気がした。
「男の人に体触られたとき、空却くんが代わりに怒ってくれたのに、わたし、冷たいこと言っちゃった。警察の人に空却くんのこと悪く思われたくなくて、連れていっていってほしくなくて、“もうなにも言わんくていい”って、止めちゃった。駅員さんにも怒ってくれたのに、空却くんがわるいみたいに、言っちゃった」
蓋がゆっくりと動く。じわじわと香ってくる記憶を数年越しに吸い込んでいく。自分の不甲斐なさに視界が滲んだ。自分のことでいっぱいいっぱいで、やさしくしてくれた人をぞんざいに扱ってしまった。
あんなに、あんなに……やさしくしてくれていたのに。どうして、今まで言えなかったんだろう。
「おうちでも、うれしかったのに、そのときは、空却くんがどっか行っちゃうのが、いやで、“あんなにぶつことないよ”って、言っちゃった……」
ぐ、と顔に力を入れる。ここで泣くのは違うと思っていても、今にも目から溢れてこぼれそうだ。鼻を一度すすって、口だけでも、と懸命に動かす。頭の中にある言葉を、不揃いな形でも、伝えなければ。
「怒ってくれて、助けてくれて……ありがとう。ごめんね、ごめんね、お礼言うの、こんなにもおそくなっちゃった……」
た、の音が鼻声まじる。自分がいらないと言って突き返してしまった優しさを、今改めて手を伸ばす。
今さら伝えたこの気持ちに応えてくれるか不安で、指先が震える。しかし、それもすぐに消えた。空却はもう片方の手を指先の震えがなくなるくらい強く握り返した。
「……駅に、」
「うん、」
「駅に、拙僧がいて……よかったか」
空却にしては芯のない声だったが、一つ一つの言葉に気持ちが宿っていた。沈んでいる金色に向かって、は何度も何度も頷いた。伝わってほしい、と祈りながら。
「うん。空却くんがいてくれて、よかった。よかったよ」
ほかにどんなことが言えただろう。考えても、簡単な言葉しか出てこないのがもどかしい。空却の手のひらのあたたかさが心地よくて、甘えるように指の腹でその大きな手をさすった。
すぅー……、と細く長く、空却が息を吐く。顔が上がると、その目は心臓を射抜かれるくらい強い光を放っていた。いつになく真剣な眼差しに、の喉がこくりと鳴った。
「――、っ、あ?」
呼びかけた途中で、空却が後ろを向く。も首を傾けて空却の背後を見れば、ういろが彼の背中によじ登っていた。
「てめこら、今大事な話してるんだっつの」空却が背中にいるういろを回収しようとするが、スカジャンに爪が引っかかっており上手く取れないようだ。離れたくないういろと離したい空却――そんな微笑ましい攻防戦を見て、出そうになっていた涙が引っこんだ。ふふ、とが笑っているあいだに、ついにういろが空却に捕まった。みよーん、と長く伸びた胴がとても愛らしい。
「お前はそっち行ってろ――っ、だから遊ぶんじゃねえって」
さっき、空却くんはなんて言おうとしたんだろう――そう思ったときに、夕方の時報の音楽が鳴った。このあいだから五時に鳴るようになったそれを聞いて、おなかすいたなあ、とぼんやり思った。
「空却くん、ういろくん」
一人と一匹がほぼ同時にこちらを向く。はいっそう笑みを濃くしてこう言った。
「先にごはん、食べよっか?」
幸せな時間は長く続かない。けれど、それが“また今度”があるのなら、不思議と寂しさはなかった。
「受け皿、これでいいか」
「うんっ」
「んじゃ、あと箸だけ頼むわ。鍋とガスコンロは持ってった」
「ありがとう〜」
夕飯の支度も二人で準備をすれば早く終わるが、もっと長くてもいいと思える。いつもなら早く食べたくて急いでしまう夕食の準備。こうして空却と一つの作業を分担していると、今ある繋がりが深くなっていく気がした。
「すげーなういろ。“待て”ができんのか」
居間に箸を持っていくと、しゃがみこんだ空却がういろに話しかけていた。そうだよ、と返事をするようににゃあ、と鳴くういろは、トートバッグの中に入っていた猫用のお皿を前におすわりをしている。お皿の中にはすでにキャットフードが盛られているのに、ごはんにありつかずにじっと待っている。
「すごいねえういろくん。かしこいねえ」
「、こたつの電源どこだ」
「そっち側のね、机の足のところにあるよ」
空却はこたつに入りながら、机の上でぐつぐつ煮えている鍋を様子見る。食卓には、普段仏壇に置いているカヨの写真も立てていた。
二人で手を合わせて、箸を取る(ういろへの「よし」も忘れずに)。食べ終わりたくない、と思うくらい、ずっと続いてほしいと願う時間。ずっとずっと、が待ち望んでいた時間でもあった。
――「来年も、みんなでごはん食べたいなあ」
――「めしくらい、いつでも食えるだろ」
――「それじゃあ、来年は味噌鍋でもしようかねぇ」
――「みそなべすき~」
――「もつもたくさん入れようねえ」
――「わあい」
ようやく、約束が果たされた。今日の夕食はもつ味噌鍋だ。
「空却くん、いつまでおうちにいてくれるの?」
鍋をつつきながら、はなんとなく尋ねる。すると、空却はなぜかむ、とした顔をして、もつと一緒に入れた豚肉をごそっと取った。
「お前が中王区に行かねえっていう証明ができるまでに決まってんだろ」
「そ、そっか……」
「んで、証明の仕方は考えたのかよ」
「えっと……空却くんの前で、中王区には行かんっておかあさんに電話する、とかかな……?」
今もなお電話線は切れており、連絡手段はない。母の電話番号はスマホにも登録しておらず、母もまた自分の番号を知らない。よって、連絡をとるにはあの固定電話しかない。
証明する方法がなんであれ、こうでも言わなければ、空却は母と連絡を取ることも許してくれないだろう。今年中には、なんとしてでも母と今後のことを話しておきたいのだ。
「(すきな人が……空却くんがいるナゴヤに、ずっといたいの)」
ナゴヤに残りたい一番の理由を、頭の中に浮かべる。母の気持ちを無下にしたくないが、それ以上に、空却から逃げも隠れもしたくなかった。
……言おう。告白、しよう。これがきっと、最後のチャンスだ。
「あした、」
「あ?」
「明日、言うね」
は声を固くさせて、宣言する。空却の眼力に負けないように目を合わせると、彼の目は三日月型に細められる。「へーぇ?」と空却の口角がにやっと上がった。
「そんじゃ、楽しみにしてるぜ」
そう言って、空却は箸で掴んだ大量の豚肉を一口でばくんと食べる。まるで百戦錬磨の獅子に勝負を挑んだような心持ちだった。も負けじと白菜ともつを一気に口に入れた。
夕食を食べ終えて、先にお風呂に入った空却。彼がお風呂から出たころにういろが寝落ちてしまったので、二階で寝かしつけてからもその後に続いた。
湯船に浸かりながら、このまま寝落ちてもいいかな、と思うくらいには満腹で、満足で、幸福だった。夢心地気分で、は顔の半分を湯の中にぷくぷくと沈ませる。
「(あした……)」
入浴剤の匂いに包まれながら、頭の中で告白のシミュレーションをする。何時くらいがいいかな、とか、場所はおうちでいいんかな、とか、なんて言えば伝わるかな、とか、色々考える。もちろん、断られたときのことも考える。変に気まずくならないように、笑って、そっか、と流せるように。今のうちに心の準備をしておく。
「(気持ちを伝えても、今まで通りでいてくれるかな)」
きっと大丈夫だよ――と、内なる自分が答える。もう二度と喫茶店から家までの道を辿れなくても、鍋を囲めなくとも……顔を合わせたら世間話ができるくらいの仲になっていれば、いい。ほかは、なにも望まない。
「(ううん、ほんとは……)」
それ以上考えたら、今後が辛くなるだけだと分かった。はこの想いにそっと蓋をして、湯船から上がる。少しのぼせてしまったのか、一瞬だけ頭がふわりと浮いた感覚がした。
脱衣所に出てバスタオルで髪を拭き、体についた水気を取る。さて服を着よう――そう思って、いつも着替えを入れているカゴを見た。
「あれ?」
思わず声が出た。カゴの中はすっからかん。え、え、とうろたえること数秒。火照った体が末端から一気に冷えていった。
「(着替え持ってくるの忘れてまったぁっ!?)」
いつもタンスから着替えを出して持っていくのに、今日に限って忘れてしまった。忘れたときも、人目もないのをいいことにそのまま裸でタンスまで歩いているのだが、今日は違う。一番見られてはいけない人が、家にいる。
洗濯はもう回してしまったので、お風呂に入る前に着ていた服は着れない。体を隠せるのは、今手に持っているバスタオルだけだ。
「(く、空却くんに、持ってきてもらおうかな……)」
そんな考えが浮かぶが、着替えの一式すら用意してないので、タンスを漁って一から準備してもらわなければいけない。服はともかく、下着を見て、触れられる――それは恥ずかしいというか、申し訳ないというか……つまり、空却には頼めないことだった。
「(急いで取りに行ったら……いいかな)」
空却くん、まだ一階におるかな……? バスタオルを体に巻いて、少しだけ開けたドアからひょっこりと顔を覗かせる。物音一つしないが、居間の電気はついている。一階にいてくれているのなら問題ない。タンスがあるのは二階だった。
よし……!と、意を決したはタオル一枚で脱衣所から出る。ぱたぱたっ、と小走りで階段を登った。廊下の電気もついていないし、二階も薄暗いままだったので、このまま二階で服を着てしまおうかと思っていた。
「、風呂上がったのか。今からコンビニでアイス買ってくっけどお前はなにが――ッ!?」
「わあぁッ!?」
ちょうど二階に上がりきったとき――真っ暗な客間から出てきたのは空却だった。
まさかいるとは思わず、は悲鳴に似た声を上げた。空却もまたの格好を見て表情を強張らせている。
「ぁ、あ、ぁ……ッ!」
一階の電気はついていたし、ここは電気がついていなかったし、人がいる気配もなかったし――すべて言い訳に過ぎないが、今のはそれに縋っていないと立っていられなかった。なにか言わんと、と思えば思うほど、頭の中が真っ白になる。立ち去るにも、足がすくんでこの場から動けない。
一方、空却は見開いた目を一寸も逸らさずにいる。じきにそれは厳しく細められて、大股で歩いて距離を縮められた。
「風呂の後は、裸で出てきたらいけないんじゃねーのかよ」
「は、はぃ……ッ」
「ルール違反だ」
近づかれると、反射的に距離を置きたくなる。しかし廊下は狭い。の背中はすぐに冷たい壁にくっついた。外気に晒されている肩をぶるっと震わせて、頭の中にある言葉をつらつらと並べた。
「き、きがえ忘れてまってっ、空却くんおらんと思ってっ、こんなかっこうでごめんなさ――ッ、わ、」
両肩をがっしりと掴まれて、壁に強く押し付けられる。肩口のあたりに空却の顔が迫っており、は一瞬呼吸を忘れた。
「(え、ぇ……ッ?)」
湿った息が首にかかって、肌になにかが吸いつく。柔らかい刺激がちくりとしたものに変わって、首から上に熱が集まった。
恥ずかしさのあまり、足から力が抜けていく。かくん、と膝が折れそうなところで、空却の片腕が腰に回って体が引き寄せられる。赤色の髪が頬にかかってくすぐったい。赤色きれい、わたしと同じシャンプーのにおいする、手ぇあったかい――ぼーっとしてきた意識の中で考えられるはそれくらいだった。
そのあとは、かたくて鋭いものが首筋を挟む。歯だ、と過去の経験からは漠然と思う。ふと見れば、タオルドライしただけの髪の先からぽた、ぽた、と雫が垂れて、空却の服にシミを作っていた。
「ぁ……、だめ、ふく、ぬれちゃ……」
やっとのことで出た言葉はそれだけ。か細い声だったが、ほんの少しだけ空却の体がびく、と震えて、彼の体温が離れていく。一気に肌寒くなった体に鳥肌がじわじわと立った。
伏せられていた空却の目がゆっくりと持ち上がる。一瞬だけ合った濃厚な眼差しにぞくりとしたものが背筋を這って、は呼吸を止めた。
「(あっ……)」
しかしそれはすぐに逸らされる。そっけない態度に心臓がずきりと痛んだ。空却は無言で階段を下り、暗い居間へ引っ込んでしまった。
廊下に取り残されたは、その場に残った空気感と寒さに耐えきれなくなって、とぼとぼと着替えをしに自室に向かう。
「(また、やっちゃった……)」
古着の件を思い出して、はずぅんと落ち込む。ドアを閉めてからタオルを脱ぎ、服を着て、冷たい雫が伝う髪を乾かした。心の中はドライヤーの音に負けないくらいの後悔の嵐が吹き荒れていて、せっかくお風呂に入ってあたたまったの心身は冷え切ってしまった。
身支度ができて、空却に謝ろうと下に降りようと思ったが、階段の下は真っ暗で、何者も立ち入ることを許さないような雰囲気だ。拒絶されている気さえした。もしかしたら、空却は今夜一階で寝るつもりかもしれない。
「(わたしも、寝よう……)」
もやもやとした気持ちが胸に渦巻いている。は冷たい布団の中に入った。足先が冷えて仕方がないので、膝を折って背中を丸めた。
胎児のような体勢で、目を閉じる。明日への勇気がみるみる萎んでいる気がして、唇をきつく結んだ。だいじょうぶ、だいじょうぶ――自分を励ましながら、朝一番に空却に謝ろうと思った。
――ギシ、と廊下が低く唸って、微睡んでいたはうっすら目を開けた。体を起こそうと思ったが、それよりも先にドアが開く音がしたので、思わず布団の中で固まってしまった。
畳みが軋む音を拾う。徐々に近づいてくる人の気配に体が動かない。ふたたび目を閉じて、反射的に寝たふりをしてしまう。
……気配がすぐ近くで止まる。なるべく寝息っぽい呼吸を意識して、その場の沈黙に耐えた。
「(わぁっ?)」
頭の上をなにかが覆う感覚があった。ゆっくりと髪の毛が動いて、緊張でさらに体がこわばる。鼓動が聞こえないように祈りながら、は狸寝入りを続けた。誰が撫でているかなんて、見なくてももう分かる。うれしい、うれしい、空却くんに頭なでてもらうの、すき。ずっと、ずっと、そうしててほしい――
しばらくあやされるように頭を撫でられ続ける。このまま眠ってしまいそうになったところで、手がふっと離れてしまう。え、とは目を開いた。
「(やだ、)」
いかないで、という衝動のまま起き上がった。その後のことは考えておらず、目の前にある気配と目が合って、喉の奥がきゅっと締まる。
カーテンの隙間から漏れる月明かり――ほの暗い部屋の中で、ぼんやりと浮かぶ空却の顔。品定めをするように、その目はわずかに細まった。
「……起きてたのか」
「えっ」
「お前がこんなに寝起きいいはずがねえ」
今起きたふうに誤魔化そうと思ったのだが、そうもいかなかった。撫でられたがった自分を隠したくて、は布団の上にいそいそと座った。
「ぁ、あの、」
「なんだよ」
「えっと……あ、アイス、買ったんかなぁって……」
「食う気失せたから買ってねえ。お前が食いてえなら今から買ってくるが」
「ううんっ。もう遅いしそんなことしんでも――っ、じゃなくて、その……」
空却はきっと分かっている。本当に言いたいことを言うまで待ってくれている。は大きく深呼吸をして、肩をすとんと下げた。
「さっき、タオル一枚で出てきて、ごめんなさい……」
改めて口に出すととても恥ずかしい。無言の圧に耐えられずに、視線を泳がせてもじもじしていると、空却がその場で胡座をかいた。
「」と名前を呼ばれたので顔を上げると、空却の指がすぐ目の前に迫っていた。
「おら」
「う」
こつん、と額を人差し指の関節でノックされる。優しすぎる制裁だ。まったく痛くないが、は無意識に額を手で抑えた。
「ほんッとに学習しねーなお前はよ」
「はい……」
「一応理由は聞いてやる。今度はなんで出てきた」
「着替え、持っていくの忘れちゃって……。空却くん、まだ一階におると思って、急いで行ったら着替えとれるかなぁって……」
語尾が萎むと、空却の口から深い溜息が落ちる。呆れられているのがよく分かった。ひとつ屋根の下で過ごしている以上、軽率な行動は控えるべきだったのだ。
ただ、“今度は”という空却の言葉は聞き捨てならない。「タオル一枚で出てきたのは、これがはじめてだよっ」と言えば、「覚えてねえならいい」と取り合ってくれなかった。こんなにも言われてしまうと、過去にタオル一枚で出てきたことが本当にあったのかもしれないと思えてしまう。
「いつまで経ってもそういう危機感がねえなら、拙僧が男だって意識してんのか疑わしいな」
「そんなぁ……っ」
「食われそうっつーときも服が濡れるだの言いやがって」
「まあ、おかげで目ェ覚めたけどよ」と空却は付け足す。言葉の意味は分からなかったが、服が濡れる、という部分でなんの話をしているかは大体見当がついた。
は自分の鎖骨を撫でる。さっきは少しだけちくりとしたが、今は痛くもなんともない。それに――
「やさしかったよ……?」
まるで、親猫が子猫にしつけをするようだった。空却も加減してくれていたし、そういうことばっかしてるとこうなるんだぞ、と諭してくれるような優しさが滲んでいたから、まったく怖くなかった。
そもそも、幼いころから襲いかかってきた危機から救ってくれた人に対して危機感を持てと言われてもなかなか難しい――そう言ったら、きっとまた空却は機嫌を損ねると思うので、言うのはやめておいた。
「優しい人間は、怒りに任せてこんなことしねえ」
不意に、横髪が右耳にかけられる。空却の中にある地雷を踏んでしまったのか、彼は唸るように言った。
「しでかした過去は消えねえ。傷つけた事実も変わらねえ。一回ぶっ壊したもんは、元の形には綺麗に戻らねえ」
お風呂に入る前に包帯はとったので、耳は外気に晒されている。引っかき傷は薄いかさぶたになっており、触られるとちくりと痛いような、くすぐったいような感覚が這った。
そして、引っかき傷とはまた別のところを空却の指がなぞる。こわれものに触れるように、その手つきはひどく優しい。きっと、今の空却は過去にいる。彼はいまだに自分を許せないでいるのだ。たった一人、思い出の中で“あの日”を繰り返しさまよっている。
今まではその姿を見ているだけだったが、今は違う。は歩み寄る方法を知っているし、手の伸ばし方も分かっていた。
「空却くんの、言うとおりなら」
は、過去に沈んでいる空却を現実に掬い上げるように、しっかりと目を合わせた。
「空却くんが今までしてくれたことも消えないし、変わらないよ」
「んなもん――」
「小さいころいっしょに帰ってくれたことも、ばあばが入院してお寺にお泊まりさせてくれたことも、お葬式のときにそばにいてくれたことも……たくさんたくさん、やさしくしてくれたこと、わたしは覚えとる。だから、ぜんぶなかったことにはならんよ」
空却との思い出を辿る。もちろん、すべてが完全にきれいなものだけとは限らないけれど、それもひっくるめて、にとって大切な宝物だった。
それがある限り、空却の中で過ちになっている過去、手を伸ばす理由になる。誰がなんと言おうと――たとえ空却の言うことでも――あのときの嬉しさは自分だけのものだ。
それでも……空却の中では飲み込めていないことは分かる。許すのが簡単ではないことも。だからせめて、自分ができることはなんでもしたいとはずっと思っている。
「許してあげて、ってわたしが言っても、空却くんはきっと許すことができないだろうから。空却くんが自分のこと許せなくても、いいよ。許せないままでいいから、これからもいっしょにごはん食べたり、いろんなところに行ったりしたいな」
「むかし、みたいに」とは以前空却が言ったことをそのまま真似た。伝えることは恥ずかしくて、怖くて、勇気も必要だ。語尾が萎んでしまいそうになりながら、続きの言葉を紡いだ。
「でももしも、これから空却くんが自分のこと許せそうってなったときは、言っていいからね。わたし、いいよ、っていつでも言えるから。大丈夫だからね」
人一倍他人に優しくて、人一倍自分に厳しい、彼だから。こういう道もあるんだよ、と教えたかった。
言いたいことは言ったが、伝わったかどうかは分からない。なぜなら空却の反応がないからだ。一気に不安に取りつかれたは、言葉間違えたかもしれん、と思って慌てた。
「え、えっとねっ? 空却くんが今までしてくれたことも残っとって、耳のことがこれくらいなら、今までしてくれたことはこんなにもあって――っ?」
両手でジェスチャーをしていたら、空却の頭がゆっくりと垂れてきた。前……つまりはの方に倒れてきて、彼の頭はとん、と肩口に当たる。空却はなにかに耐えるように「ゥ゙ー……」と唸っている。
一瞬だけ心臓が跳ねたものの、それはすぐに落ち着いた。いつも頼もしくてかっこいい彼が、どこか幼く見えてしまったからだ。猫ちゃんが唸っとるみたい……、とも思った。
の中で名前を知らない感情がむくむくと膨れ上がる。なんだか無性に空却の体のどこかに触れたくてたまらなくなった。
「(頭……さわっても、いいかな)」
だめかな、どうだろう――そんなことを思いつつ、手は伸びていた。目の前にある赤色の髪に触れようとすると、手のひらが微かに跳ね返る。少しかたい髪質で、だけども触るとふわふわしている。
かわいい――熱にぽーっと浮かされながら本格的に頭をひと撫ですると、空却は夢から醒めたようにいきなり顔を上げた。
「子供扱いすんなっ」
「あ、ご、ごめんね。やだった……?」
すると、少し間を置いて、「……嫌とかそういうんじゃねえ」と言われる。お返し、というように今度は空却にが頭を撫でられる。こうされると全身からふっと力が抜けて、急に眠たくなってしまうのだから不思議だ。もちろん恥ずかしさもあるので、寝落ちてしまうほどではないが。
撫でられるたびに、こてん、こてん、と頭がかすかに揺れる。すきだな――とぼんやり思ったときに、あ、とは気づいた。
「(今の、これって……)」
夜の一室にて。布団の上には付き合っていない男女が二人。密接な距離で、体にも触れられている。誰がどう見ても、危険なにおいが漂うシチュエーションだ。
数分前に“危機感を持て”と注意されたばかりのは、撫でてくれている空却の手を遠慮がちに両手で持って、ゆっくりと下ろした。
「だ、だめ、です」
「はあ?」
「いきなりなんだよ」と空却は怪訝そうな顔をしている。それはそうだ、とも思う。しかし今の状況は“だめ”なのだと自分の中で警告があった。
「いま、わたしのお布団の上におるから」
「だから?」
「男の子と女の子が、その、こういうところで、こういうことしちゃだめ……?だと思うから……」
しん、と沈黙が降りる。お前にしちゃあよく気づいたな――なんて褒められると思ったが、甘かったようだ。現実の空却はまるで鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている。
かと思ったら、いきなり両肩を強く掴まれた。掴んだ本人は首を下げて、「ッ、ぁ゙ー……」と押し殺したような声を出している。
「ど、どうしたの?」
「どうもしねえ……」
「でも、肩ぎゅって――」
「今なんも言うな……。聞くとやべえ」
空却の言っている意味がなに一つ理解できない。わたし、またなにか違っとった? そう聞こうにも空却はなにかぶつぶつと唱えていてそれどころではなさそうだった。たしか、古着を試着していたときに今と似たようなことになっていた気がする。
今 空却はなにかに堪えているようで、辛そうだ。大丈夫かな、とが肩に乗っている手をさすろうとしたときに、ようやく空却が首をもたげた。
「那須野家ルール……だったか」
やけに落ち着いた声だった。肩から離れた空却の手はの両手を手繰り寄せて、しっかりと握った。いつもそっと繋いでくれているそれはとても強い力で、逃がさないとでも言われているかのようだった。
「“おねがい”、拙僧も聞いてもらえるんだろ」
「お、おねがい?」
那須野家ルール、おねがい――昨日、口から出まかせを言った、あのことだ。そんなに深くは考えていなかったが、空却の頼みごとがきけるチャンスだと思った。こんなことはめったにない。なにかあるならばぜひ聞きたい。
「そうだねっ。うん、もちろん――」
「今夜お前のこと抱きしめて寝てえ」
どストレートに飛んできた言葉を受け止めきれずに、ぽとんと落としてしまう。は慌ててそれを拾い上げて、混乱しながら中身を何度も確認する。
“今夜お前のこと抱きしめて寝てえ”――頭の中で響く言葉は一言一句、間違いないものだった。
「拒否権はやるから選べ」
「ぇ、ぁ、あぅ、あっ、え……ッ?」
「けどあんま待てねーから早くしてくれ」
「だ、だめ、というか、だき、しめ……って、きゅうに、そんな……ッ。それに、こ、こういうことあんまりしちゃかんって、さっき……っ」
「言ったが、もー限界」
空却の口から発せられたとは思えない単語が飛び出したので、「へぇっ?」と情けない声が漏れる。限界――心身共に強い彼がそんなことを言うとは思えなかった。聞き間違いかとも思った。
すると、ぴと、との頬に空却の手のひらが触れる。輪郭を確かめるように頬骨から顎をなぞるように撫でられて、体の中が一気に熱くなる。
「これからは、男を煽んのも駄目ってことも覚えとけ」
あおる? あおるってなにを……? わたしがいつしたの……? どうやって……? 考えても答えは見つからない。空却は答えを急かすことなく、ただ静かに待っている。こわいくらいに、静かだった。
こんがらがった思考の中で、今考えることは一つだけ――全身をかたくさせながら、答えてしまったらどうなるか分からない不安と、その後起きることへの期待に頭が沸騰しそうになる。口を開いて声を出そうとしたら、ぁ……、と情けない音がはじめに漏れた。
「だ、だめ、じゃ、なぃ……」
「ん」
「ぅ、」
下唇に空却の指が掠める。彼はまだ返事を待っている。あいまいにするんじゃなくてちゃんと言わんとかん、とは雰囲気で察した。
息を小さく吐くだけで泣きそうになる緊張が、体を支配している。きっと今は、息遣いまで空却の耳に届いている。はずかしい。もう後には引けないし、引き返したくないと思う自分もいた。
「くぅこうくんと、いっしょに寝て……ぎゅ、って、してほしい――」
その瞬間――熱の爆弾が正面からふわっと押し寄せて、体がゆっくりと後ろに倒れた。
布団に預けられた背中、体の正面から感じる熱――足元で遊んでいた掛け布団が体にかけられて、枕は敷布団の外に追いやられた。もう、はどこにも行けなくなった。
……どこにも、行きたくない。ここがいい。体の向きを横に変えられたときにぼんやり思った。すでには大好きな人の胸の中にいる。ばくばくと弾けそうな心音と息が止まりそうになるほどの幸福感を受け入れて、は布擦れの音に混じって、大きく息を吐いた。
かち、かち、かち――時計の音が顕著に聞こえる。この空間がほぼ無音になってから、何十分か経過していた。
お互いに横向きになって、向かい合っている。空却は眠らずに、一定のテンポで頭を撫でてくれていた。腰に回されているもう片方の腕は太くて、かたい。 たまに抱き直すようにわずかに動くので、そのたびに腰あたりがぞわぞわしてくすぐったい。
は、空却に抱かれたまま両手をどこにどうしていいか分からず、とりあえず自分の胸の前に収めていた。最初は心臓から弾けてどうにかなりそうだったが、今は幼いころに戻ったような安心感がの心を覆い尽くしていた。
「空却くん、寝んの……?」
「寝んのもったいねぇ」
そっか。空却くん、お寺にいるときは早寝しなかんもんね。夜ふかし、なかなかできんもんね――は自分でそう納得させて、空却の胸の前で体をきゅ、と小さくさせた。意味は違えど、“もったいない”という気持ちはよく分かる。寝てしまったら、この夜が終わってしまうから。そもそも、この状態で眠れるわけがないのだが。
……ふと、髪が右耳にかけられる。不思議に思ったは顔を上げると、空却の顔が部屋の中にうっすらと浮かび上がっていた。その眼差しは傷を負った獅子のように弱々しい。
「耳、」
「ん……?」
「もいっかい、触っていいか」
はうん、とすぐに頷いた。空却の声が固くなっていたのが分かったからだ。
自分ではない指が、耳の縁を這う。感覚は鈍くなっているものの、触れるというよりもなぞる感覚に近いような気がした。空却に触れられているという事実だけで耳に神経が集まって、鼓膜がそわそわと揺れる。
ういろくんはもう寝たかな――隣の客間に置いたカンカンの中で寝ているであろう子猫を思い出す。あんなにも耳の痕の存在には触れてほしくなかったのに、今は別のことを考えれるほど慣れてしまっていた。もっと早くこうしていれば……と後悔が頭をよぎったところで、頭を撫でていた空却の手が止まった。
「……あのとき、の全部が俺のになりゃあいいって思った」
“あのとき”――そう言われて、はじわじわと理解する。空却はまた、あの日にいるのだと。
このままなにか言ってしまえば今の時間を壊してしまう気がして、は耳だけ傾けていた。
「にとって、俺が一番に頼られる人間だっていきがってた」
昔も今も、空却くんはわたしにとって頼れる人だよ――と、言いたかった。それでも、誰にも頼らずに生きようとしていた時期はたしかにある。自分から空却を突き放してしまった事実が、それを言葉として伝えることを許さなかった。
「病院行った次の日に、親父とお前ん家に行った。そしたらお前、すぐに帰したろ。……正直、安心した」
安心、だなんて。またらしくない言葉を使う空却に、はなぜだか泣きそうになる。彼の胸の前に収まっているこの両手を伸ばして、今すぐに抱きしめ返したくなるほどに。
空却の言う通り、耳に何針か縫ったその翌日に、謝罪をしに空却と灼空が家にやって来た。が、正直あまり覚えていない。大丈夫です、平気です、空却くんのせいじゃないです――きっと、一方的にそんなようなことを言って、追い返してしまったのだと思う。それも、面と向かって言う勇気がなく、モニターホン越しに。
今思えば、誠意のない対応だったと思う。ふっと息を吹けば壊れそうな関係に触れてほしくなくて、あの日の自分は逃げたのだ。今日まで逃げ続けていたから、空却に長いあいだ嫌な気持ちを持たせてしまった。
「謝罪を受け入れられねえなら、これから贖罪するためになにかしらできる。不健全だろうが歪んでようが、なんだってよかった。どんな繋がりでもいいから、と――……」
空却は口を噤んだ。わたしと……なんだろう。その先の言葉を待っていると、抱きしめる力が強くなって、なんでもねぇ、という小さな声が届いた。
「だが今は……今は、“そんだけ”じゃねえって、思ってもいいか」
“それだけ”じゃない――今の二人のあいだには、いろんなもので満たされている。楽しくて、おいしくて、幸せで、あたたかいものばかりだ。痕以外の繋がりがたくさんある。そう思っていたのは、だけではなかった。
ただのひとりよがりではなかったことに目を見開いて、は嬉しさで震えそうになる声に芯をつくる。
「うん、うん。わたしも……そう思いたいな」
「……そうか」
「それから……わたしも、ね。安心しとったから」
伝えることを、もう怖いと思わない。伝えない方がもっと恐ろしいことになると知っているから。たとえ今は上手に伝えられなくても、丁寧に汲み取って飲み込んでくれる大好きな人が、すぐ隣にいる。だからもう、なにも怖くない。
「空却くんが、おむかえに来てくれるの、うれしかったの。もう、自分からは会えないと思っとったから。でもこれがあるから、まだ大丈夫、って。いっしょにおれるって思ったの」
“これ”――耳の痕が皮肉にも空却を繋ぎ止める理由になっていた。つぎはぎが多い言葉だが、はそのまま続ける。
「ずるくて、ごめんね。ずっと、空却くんにやな気持ち、持ってもらっとったね。でも、もう大丈夫だよ。なにがあっても、わたしから会いに行けるから」
空却の背中に乗っている罪悪感を下ろしてあげたい一心で、は片腕を空却の背中に回す。空却の背中が大きく膨らんで、深くしぼむ。この広い背中を全部覆うことはできないが、少しでも自分の気持ちが彼にとって救いになってくれたらいいと思った。
「、」
この先何度呼ばれても、何度も聞きたいと思える声と音。こんなにも自分の名前が好きだと思える瞬間は、きっとない。
「許さなくていい」
「……うん」
「ただ、ちゃんとここでけじめをつけねーと、前に進めねえ。拙僧が、これ以上。おんなじとこで足踏みして、お前にいつまでも甘えちまう」
「うん、大丈夫だよ。ぜんぶ、受けとめるよ」
子供をあやすように――と言ったら怒られるかもしれないが――は空却の背中を撫でる。いつも、空却が自分にしてくれているように。空却の中にあるよくないものが和らいだらいいと思いながら。
空却の腕の力が抜けて、二人のあいだに少しだけ空間ができる。暗がりで見えないはずの金色が、一瞬だけ鈍く光ったように見えた。
「……ごめん」
そのたった三文字が、全身に染み渡る。は自然と口角が上がって、なぜだか、自分が泣きそうになってしまった。
「うん。いいよ」
「痛かったろ。正直に言ってくれ」
「……う、ん」
「あの日散々つれえ思いしたのに、拙僧が追い討ちかけちまった。守るどころか、傷つけちまった」
痛かったと感じた事実はあっても、空却に対する感情にマイナスなものなんてない。かと言って、平気だよ、大丈夫だよ――そう言葉にするのは少し違う気がして、どうしたら彼の言葉を受け止められるかを考えた。
「空却くん、あの日はいっぱい、たくさん、わたしのことで考えてくれとったんだよね」
「ん……」
「ありがとう、空却くん。わたしも、受け取れんくてごめんね。あの日の空却くんのやさしい気持ち、ぜんぶもらうからね」
あの日、怒りに変わってしまった優しさを、今。
その気持ちだけ伝わってくれたらと、は思いっきり空却にくっついた。気恥ずかしいのも相まって、必要以上に背中に回した腕に力がこもってしまう。
「な、なにやってんだ」
「い、いま、もらっとるの。ぎゅうってして」
「は、」
空却が狼狽えているのが声で分かった。改めて言葉にするとさらに恥ずかしさが増してしまう。空却と顔を合わせられなくて、はごまかすように彼の胸の中に顔を埋めた。
「お前、ほんッと……」とたっぷりと息を溜めた声が落ちてくる。と思ったら、自分の力以上の圧で抱き返された。くっつくだなんて生ぬるい。このまま空却と一つになってしまいそうだ。サウナのように熱苦しくて、息がしづらい。はずかしい、くるしい、しあわせ――の中でいろんな感情がごちゃまぜになって、目がぐるぐると回ってきた。
「く、くぅこうくん……ちょっとだけ、くるし……っ」
「がわりぃ」
「え……」
溝に溜まっていた悲しみが溶けて、代わりにあたたかいもので埋まっていく。がはふはふと余裕のない呼吸をしていると、空却のほんの少しだけ力を緩めてくれた。やっぱり、どこまでいってもやさしい人だった。
離れたくない。寝たくない――となると、このまま話をしたくなるのは必然で。「空却くん、」とが呼びかけると、「どうした」とやわらかい声が返ってくる。たったそれだけなのに、空却くんすき、と恋心がそっと呟いた。
「空却くんがね、むかし、わたしに“よすが”って漢字、教えてくれたことがあったの」
「よすがぁ? ……あぁ、んなこともあったな」
空却の意外な返答に、「おぼえとるの?」とは目を大きく開いて尋ねた。
「小四……いや、そんときはカヨばあもいたから小三か。夏休みの宿題やってたときだろ。たしか」
思った以上にこと細かに覚えてくれていた。驚いて言葉を見失ったが沈黙していると、空却は怪しむように目を細めた。
「ちげぇか」
「ううん、あっとる……」
そんな細かいところまで覚えてくれているとは思わなかった。嬉しいような、恥ずかしいような……そんな感情を整理する前に、今このときに言いたいことがあった。
「ずっとね。わたしのよすがは、空却くんなの」
一つ一つの音を丁寧に紡ぐ。伝えるだけではなく、自分の胸に改めて、そうなのだと刻み込んでいく。
「ずっと……ずっと、それだけは変わっとらんの。これからもきっと、それは変わらんの」
周りの目を気にして、空却と距離をとった時期もあった。それでも冷たくされたくないという矛盾を抱えて、背中を追いかけた時期もあった。だから、あの日だけが原因じゃない。今まで蓄積されたものが亀裂となって、あの日たまたま壊れただけだ。
だから、これから先はどんなことがあっても、ただ一人をよりどころとして生きていきたい。これは決意であり、自分への誓いでもあった。
「これからも、か」
「うん」
「好きな男と付き合っても」
「……うん」
「昔のまま、か」
そうありたい、と思っている。はうん、ともう一度頷いた。想いを伝えたあとどうなるかは、には分からない。すべては空却次第だが、なにが起きても、自分にとっての“よすが”が空却であることは変わらない。
「……そーか」
空却は長く息を吐いた。体のこわばりが抜けて、深く沈みこんでいって、彼の存在に自分が溶けていきそうだ。それでもいい、とは思った。
そして、あと一つだけ――自分の胸の端をちりっ、と焼いている言葉がある。今も口に出すのもおそろしい、呪いの言葉だ。
「あの……それとね、」
「おー」
「空却くんに、やなこと思い出させちゃうかもしれんのだけど……」
「やだったのはお前の方だろ。なんだ」
「わたしのこと、まだ……き、きらい……?」
ずっとずっと聞きたくて、聞きたくなくて、箱にしまい続けてきたものを、手に取った。
「きら……、は?」と、空却は力の抜けた声を漏らす。は少し臆病になりながら、これでもかと勇気を絞って口を動かした。
「空却くんは、覚えとらんかもしれんのだけど、あの日に、だ、だぃ……、だぃ、きらいって、言われたのが……か、かなしくて……頭、なんにも入ってこんくなって、あのあとすぐに、わたし、息しづらくなっちゃって……」
大嫌い――自分で言うと、ようやく血が出なくなった傷跡をつついているようで、ひどく痛む。今も大きく深呼吸をしながらでないと、あのときの感覚を思い出して、息が乱れてしまう気がした。
全身に力を入れて空却の返事を待っていると、「あー……」と掠れた声が流れてきた。
「そう言ったのは……あれだ。拙僧の、勘違いだ」
「かんちがい……? 空却くんの?」
「あぁ。だから忘れ――。……いや、」
大きな布擦れの音とともに、空却の額と自分の額がこつん、とくっついた。そこからじんわりとした熱が伝い、頭に流れ込んでくる。額同士をくっつけているだけなのに、穏やかな熱に侵されたように、体がほてる。気がつくと、自然と穏やかな呼吸ができていた。
「」
こんなにも近い場所にいて、こんなにもやさしい声で名前を呼んでくれている。それなのに、もっとよんで、とねだりたくなった。
「この先どんなことがあっても、お前の心がどこに向かっていようと、拙僧の心は変わらねえ。が望む限り、拙僧はお前の“よすが”であり続ける。今、ここで誓う」
頭に刻み込まれる言葉たち。強くて、しなやかで……まるで宝石のようにきらきらしたそれらをはひと粒ずつ手に取って、飲み込んでいく。
空却の額が、ゆっくりと離れた。
「――好きだ」
……五感が、息を止めた。
暗闇でよく見えないはずの金色の瞳がこちらを射抜いている気がして、その一点から目を逸らせない。
空却の言葉をうまく拾えずに、うろたえる。なのに、なぜか視界が水膜で覆われていく。ぇ、え、とつたない音を漏らす。そんな心を安心させてくれるかのように、空却の手がの頭をひと撫でした。
「拙僧は、が好きだ」
今度こそ……ちゃんと拾えた。
落とさないように、こぼれないように、だいじに、だいじに、抱えこむ。涙も一緒に溢れてしまいそうになって、はきゅ、と目の周りに力を入れた。だめ、だめ。いま、泣いたら、空却くんが、こまっちゃう。
「(すき……すき……っ)」
この日のために……あの言葉を上書きするために、去年の自分は今日まで頑張ってきたのだと思った。大嫌い、の文字とあの日の傷がだんだんと薄れていく。嬉しい気持ちをしまっておく場所から、しあわせが溢れて止まらない。
はなにも言えなかった。声を出すと、涙の止め方が分からなくなるから。どうしていいか分からずに目だけ泳がせていると、ふ……、と軽く息をついた空却はもう一度胸の前で抱きしめてくれた。
「さすがにもう寝るか。仕事休みっつっても惰眠は許さねーからな」
「うん……っ」
「んで、お前の決意も聞かせてもらうからな。母親にちゃんと言うんだぞ。わかったか」
「ぅん……っ。うん……ッ!」
言う。ぜったいに言う。告白、する。ついに一粒溢れてしまった涙を隠すようにも空却の胸に顔を埋める。彼の腕に力がこもって、熱っぽい息が髪にかかった。
「……おやすみ」
返事はできなかった。声を上げて、こどもみたいに泣いてしまいそうで。代わりに、は一度だけ強く頷いた。
おはようが言える未来を、こんなにも恋しいと思った日はない。明日、この気持ちを伝えたら空却はどんな顔をするだろう。想像をして、期待をしてしまう。
でも、いい。さっきの言葉があれば、どんな結果になっても笑顔で受け止められる。たとえしわくちゃのおばあちゃんになっても、一人で生きていける。明日、この縁がどんな形になっても空却の幸せを心から願うことできる。
明日、そしてその先の未来で、空却が笑顔で名前を呼んでくれる――そんな幸福を想像しながら、ゆるりと降りてきた微睡みに包まれた。
「ん……、んん……?」
たしっ、たしっ、と顔に当たるやわらかいもの。が目を開けると、まんまるな目がこちらを見下ろしていた。部屋は明るい。
「ふふ。ういろくん、おはよう」
寝起きのせいで顔に力が入らず、はへにゃへにゃの笑顔を浮かべる。カーテンは開けられており、気持ちのいい朝日が部屋に差し込んでいる。
一緒の布団に寝ていた空却はすでにいない。ういろを抱き上げると、彼の胴がみよーん、と可愛らしく伸びる。エサはすでに食べたのか、晒されたおなかはぽんぽんに膨れていた。
「今日でお別れだから、カンカンもなしにしようね」
ういろを布団の上に下ろしたはゆっくりと布団から出る。よいしょよいしょと部屋の隅に這っていって、昨日カンカンの中身を隠してくれていた座布団をめくった。座布団の下で一晩過ごしてくれた宝物たちを見て、またしても口元がふにゃりとゆるむ。
ういろの家にしていたカンカンを手繰り寄せて、底に敷いていたタオルを取り出す。代わりに宝物たちを丁寧に敷き詰めていると、ういろが前足をカンカンの縁にかけて、その中を名残惜しそうに覗いている。
「カンカン、気に入っちゃったかな。ごめんね、これはね、わたしの宝箱だからあげられんの」
そう話しかけると、ういろが中にひょいっと入ってしまう。「あっ」とが声を上げるが、彼は最後に入れた穴開きネックウォーマーの上で丸くなってしまった。
困っただったが、毛糸玉のような愛らしさに白旗を上げた。しかたないねぇ、とまんざらでもない笑みを浮かべて、無理にういろを外に出すことはしなかった。
ひとまず一階に降りていって、物音がしている台所に向かうと、ちょうどガスコンロに背中を向けた空却と目が合った。
「おはよ」
「おはよう空却くん。わっ、いいにおーい」
「朝メシできてっから。ちゃっちゃと顔洗ってこい」
空却が持っているフライパンから、大きな卵焼きがお皿の上にぼとんと落ちる。は目を輝かせながら、空却の言うことを聞いて洗面所に早々と向かった。寝起きとは思えないくらい、その足取りはとても軽い。
台所に戻ると、空却は作ったものを皿に盛り付けている最中だった。その傍らでも朝食の支度を手伝う。
「ういろはまだ上にいんのか」
「うん。朝ごはん、もうあげたんだよね?」
「おう。朝っぱらからにーにー鳴くからよ。起きちまった」
そうなんだ、ぜんぜん気づかんかったなぁ。そんな雑談を交えつつ手を動かす。昔はカヨと小学生の自分たちがいても十分なスペースがある台所だったが、成長した今は少し狭く感じた。
大きくなったんだねぇ。そう思いながら、なんだか一人で笑いそうになってしまった。空却に「なに笑ってんだよ」とつっこまれて、上手くごまかせる自信がなかったので、声は出さずに口元だけで密かに笑んだ。
ごはんを食べ始めても、空却とはぽんぽんと会話が進んだ。昨日の秘め事が夢かのように、からっとした空気が部屋に流れている。
「そーいやあのカンカン、お前のだろ。ういろのやつ、今朝から我が物顔で占拠してたぞ。どうすんだ」
「おうちに帰るまでは中に入れようと思っとるよ。さっきもね、中身入れたらういろくんもいっしょに入っちゃったから、かわいくてそのままにしちゃった」
あとでお写真とろう、なんて思う。大きくて太い卵焼きを半分に割って食べると、だし醤油の味が口の中にふんわりと広がった。空却くんちの卵焼きはしょっぱめだったなあ、と幼いころに食べたお寺の朝ご飯を思い出す。
「もしかしてあれ、お前の大事なもんが入ってたやつか」
どきっ、と心臓が大きく動く。
話の流れが変わってしまい、は焦った。卵焼きをよく噛んでから、なんでもないようにお茶をひと口飲んだ。落ちついて、落ちついて、と自分に言い聞かせながら。
「う、うん。昨日は中身だけ出して、ういろくんのおうちにしとったの」
「ふーん」
もっとなにか言われると思ったが、意外にもそれ以上聞いてくることはなかった。もしかして中身を見られただろうか、とも思ったが、空却を見る限りそんな様子でもない。
先月の尋問のような態度と比べると、違和感を覚えるくらいあっさりとしている。そういえば、なんだか全体的に毒気が抜けたような顔をしていた。
「空却くん、」
「あ?」
「なにかあった……?」
思わず自分から聞いてしまった。の漠然とした質問に、案の定空却は首を傾げている。
「えっと……いつもと感じがちがうから、なにかあったんかなぁって」
「あー……まあ、なんだ。いろいろつっかえてたもんが取れたっつーか。今はそんな気分だからよ。多分それじゃねーの」
「それって、いいこと……なんだよね?」
空却はしばらく考えて、「かもな」と軽く笑ってみせた。彼にしては曖昧な返事だが、その表情から不安を感じる要素は一つもなかった。
マイナスなことじゃなかったら、とも無理に詮索はしなかった。ふたたび箸を持つ手を動かしていると、この時間では珍しくインターホンが鳴った。
「だれだろう?」
「ういろの飼い主じゃねーのか」
たしかに。心あたりはそれしかない。いったん箸をおいたは居間を出て、念のためにモニターを確認する。そこには、カヨが亡くなった日に色々と面倒を見てくれた婦人が立っていた。あっ、ういろくんの飼い主、おばさんだったんだあ。
「今出まあす」はモニター越しに声を張って、ぱたぱたと玄関まで駆け足で向かう。
「おはようちゃん。こんな朝早くにごめんねぇ」
「大丈夫ですよ〜。ういろくんですか?」
引き戸を開けると、柔和な笑顔を浮かべた婦人が立っていた。目元のしわをくしゃっとさせて、の言葉に「そう、そうなのよ」と何度も頷いた。
「昨日、くうちゃんから全部聞いたよ。ちゃん、ういろのこと見つけてくれてありがとねえ。あっ。これね、お礼のお菓子。忘れんうちに渡しとくわあ」
「わあっ。ありがとうございますっ」
かっちりとした正方形の箱を笑顔で受け取った。箱の表面にはバームクーヘンが美味しくて有名なお店の名前が書かれていた。
「くうちゃんと半分こして食べやあね」
「はいっ。あっ、ういろくん、今二階にいるので連れてきますねっ」
「よお。もう来たのか」
婦人に玄関の上り框に座ってもらったときに、ちょうど居間から空却がぺたぺたと玄関にやってきた。「あら! くうちゃんもいたの!」と婦人はぱっと笑顔になる。
「昔と変わらず、ちゃんと仲良しねえ」
「まーな」
そのやりとりがとても照れ臭くて、は二人の会話に混ざらずに、小走りで二階に上がった。
ふふふ。なかよし。“まーな”、だって。持ち上がったままなかなか下りない頬を、両手でふにふにと揉みながら。
「ういろくーん、おむかえ来たよー」
客間に入って呼びかけながら、カンカンの中を覗く。幸いにもういろは起きていたが、穴開きネックウォーマーの上でゆったりまったりリラックスモード。ふっくらおなかを前に出してころんと横になっていた。
「ふふ、かわいい」
きゅん、との胸がうずく。我慢できなくなって、手元のスマホでういろの写真を一枚撮った。
そのまましばらく様子をうかがっていたが、ういろがカンカンから出る気配はない。心苦しいが、はういろを抱き上げて強制的にカンカンの外に出した。
「ごめんねういろくん。カンカン、気に入ってくれてありがとうね」
あとはカンカンに蓋をして押し入れに仕舞い、ういろを抱き上げて一階に――と思ったところで、彼は素早い動きで再びカンカンの中に入ってしまった。
「えっ? わ、わ、ちがうよ。もうおうちに帰れるんだよ」
先ほどと同じ体制でくつろぎ始めたういろ。完全に自分の家と思ってしまっているらしい。もう一度ういろを抱き上げようとするが、今度はネックウォーマーを爪に引っかけて一緒に釣れてしまった。
ど、どうしよう。無理矢理引き剥がすと、ネックウォーマーが今よりも破れてしまうかもしれない。悩んだ末、はとりあえずういろの頭を撫でながらご機嫌をとることにした。
「ういろくん、ういろくん。ネックウォーマーはなしてほしいな。だめかな」
猫なで声で言うが、ういろの耳はぺたんと閉じている。きこえないよ、と言わんばかりにネックウォーマーのはしっこをかしかしと甘噛みしていた。
「おい。なにもたついてんだ」
「わあぁッ!?」
突然部屋に入ってきた声に、心臓が口から飛び出しそうになった。振り返ると、腕組みした空却が部屋の柱にもたれかかっていた。
「んな驚くことねーだろ。ばあさん、下で待ってんぞ」
「ぁ、あ……ッ!」
自分の体が影になって、空却がいるところからはカンカンの中身は見えていないようだ。しかし、空却は部屋の敷居を跨いで、こちらへ近づいてくる。
中身が、見えてしまう――パニックになったは、ういろが入ったまま、カンカンの蓋を閉じてしまった。
にー、にー、とカンカンの中で鳴くういろ。息ができるようにほんの少し隙間は空けてあるが、か細い鳴き声を聞くたびに罪悪感で押し潰されそうになる。それとサンドされるように、こちらへ近づいてくる空却に危機感を覚えていた。
「ういろ、まだその中にいんのか」
「ぁ、う……っ」
「なんだよさっきから。はっきりしねーな。つか、蓋することねえだろ。ういろが可哀想だろーが」
「す、すぐっ。すぐだすっ。すぐだすから、先におばさんのところいっとるねッ」
は一刻も早くここから立ち去りたい一心で、早口でまくし立てる。余裕なんてない。ういろが入っているカンカンを持って、あまり空却の顔を見ないように部屋から出ようと……した。
「ミャッ」
パコン―― ――カシャン
軽快に開いたカンカンの蓋が、音を立てて畳に落ちる。びっくり箱のように頭から飛び出したういろと目が合っているであろう空却は、彼とともに箱の中身を凝視していた。ういろの口には穴開きネックウォーマーがくわえられている。
ういろの下にあるのは漢字が書かれた紙、御朱印の挟み紙、中学生のころの行事写真――わなわなと震えているをよそに、空却はういろの首根っこをつまんでカンカンから出した。そして、その中にあるものを一つずつ手に取りながら、「はぁ?」と首を傾げている。
「んだこれ。中坊んときの写真? なっつかしーな。体育祭のときのやつじゃねーか。お前写ってねーけど。こっちはうちの寺印……御朱印で使う挟み紙か?」
の頭の中は真っ白だった。なにも考えられない、ではなく、考えることを放棄していた。でなければ、自分の体が溶けてなくなってしまう。
「って、おいなんだこの不細工なお守り――いや待てよ、こんなようなやつ昔作ったことあるな」
あつい。あつい。顔が、首が、胸が……全身があつい。体温だけでのぼせて、今にも後ろにくらっと倒れそうだった。空却を見ているのに、だんだんと彼の体が、声が、小さく、遠くなっていく。
「っておい、これ昔お前に漢字の見本書いて渡した紙じゃねーか! お前こんなん、まだ……もって――」
ゆっくりと……目が合った。
全身に電流が走る。は、とようやく息ができたは、カンカンを自分の方へ強めに引き寄せた。中身を隠すように胸の前に抱いて、部屋を飛び出す。にー、にー――空却に捕獲されたういろの高い鳴き声を背中で聞きながら。
「っ、あッ? おいッ!!」
空却の声が飛んでくる。今はどんなものよりも彼が恐ろしかった。何度もこけそうになりながら、は狭い廊下を必死で駆けた。
「(やだっ、やだッ! どうしてこんなことになるのッ?)」
すきだって……だいすきだって、言おうと思っとったのに……! ほんとうに、今日……きょう、言おうって、ちゃんと言おうって思っとったのに……!!
感極まって溢れた涙が視界を覆う。見られてしまった。一番見られたくないものを、一番見られたくない人に、一番見てほしくないタイミングで。
こわい、こわい、こわい――あんなに心の準備をしていたのに、まさかあの中身を暴かれるとは思っていなかった。誰にも見せるつもりがなかった、自分だけの宝物。なのに、見られた。勇気と恋心でいっぱいになっていた胸の中が、嫌われちゃう、という恐怖で満たされていた。
狭い廊下を走る。その勢いのまま、幅の狭い、急斜面の階段を駆け下りる。何十年、何百回とおりてきた階段でも、今まで慎重に下りていた。足を踏み外すと、危ないから。「気をつけやあね」と、この家に住み始めたころからカヨに口酸っぱく言われていたから。
昔から、軽い足取りでたったと下りていた小さな空却は、自分が下り終わるのを一階で待ってくれていた。この急斜面の階段を見て、おまえんち、にんじゃ屋敷みてーだな――そう言って、いつも笑っていた。
「あ――……」
片足を階段から踏み外す。先に腕から離れたカンカンが宙に舞い、ガシャンッ!!と大きな音を立てた。
「ちゃん!? くうちゃん!? どうしたのっ!?」
婦人の焦ったような声が聞こえる。は本能的に目を瞑って、両腕で頭を守る。逃れようのない衝撃に備えて、全身をかたくさせた。
ぞわっとする浮遊感が全身を襲う。うまく息ができない。それでもなぜか、怖いという気持ちはやってこなかった。今と同じような感覚を、昔味わったことがあるからかもしれない。
――「今からおれがみっつ数えてやる!!」
木の下で両手を広げている小さな空却。自分一人では抱えきれない悲しみに飲み込まれそうになったとき、そのまばゆい光にすがった。一人分の悲しみを半分持ってもらっていたから、あのときの自分は目に見えないなにかに押し潰されなくて済んだ。
今もなぜか、その頃の空却が階段の下にいるような気がした。幻覚だ。分かっている。それでも、自分の中にある勇気を信じて、にやっと笑う彼の顔が今でも目に浮かぶのだ。
――「いーちっ! にーのッ!」
眠る時に心寂しくなった夜は、昔の夢をよく“見ていた”。
――「さんっ!!」
ぐんっ、と引っ張られる体。自分の腕以外のなにかによって、頭が覆われる。え……、とは目を開く。いつのまにか、自分よりも大きな体に全身が包み込まれていた。
――「」
あぁ、ああぁ――もう、あのころの夢は見なくていいんだ。
今、目の前にいる大好きな存在を感じて、の下瞼に力がこもる。過去も今も変わらずそこに在る彼を想って、新しく生まれた涙が頬を伝った。
