Episode.20
すべて、夢だけでよかった。
おはよう、と明るく笑いかけるも、本堂と庫裏を行き来してせかせかと働くも、父親と二人だけで囲んでいた食卓にいるも――全部全部、夢の世界だったから、よかったのだ。
思い出すだけで吐き気がする過去も、一緒にいるだけで罪悪感も、全部なかったことにして――の心を、都合のいいように捏造した。そうしたら、それはそれは自分にとって素晴らしい世界ができたものだから。
その世界だけで……笑い合いたいと思ったから。
「ぁ゙、あ……?」
目が覚めても、夢の世界に片足を突っ込んだままだった。いつもに比べたらかなり遅い目覚めで、隣のベッドにがいないことに気づいてからようやく、意識が一気に明瞭になった。
のほほんとした字体で書かれたメモ書きを見つけて、すぐにランドリーコーナーとやらに向かった。バスローブ一枚でいたに青筋が浮かんで今にも説教をしたくなったが、そんなことよりも先に、部屋から持ってきた彼女のカーディガンをすぐに羽織らせた。
「空却くんは? 空却くんはなにか夢みた?」
何気ない会話の中で、にそう尋ねられた。あぁ、見たぞ。お前にしちゃあ悪夢みてーなやつを。
内容を言うつもりはなかった。が反応に困るのは目に見えていたから、適当に言葉を濁して話を逸らすつもりだったのに――
「空厳寺に、お前がずっといる夢だった」
そんな思いとは裏腹に、口は勝手に動いていた。
の顔を見れば、驚いたような、困ったような表情をしていた。今のの思考の中に自分がいると思うと、そういう表情ですら存外悪くないと思えてしまう。
その時点で……新たな縁を築くことなんてできないと、気づけたらよかった。自分が思っているよりも、に対して大きな感情を抱いていることに気づいていなかった。気付かないふりばかりしていたツケが、今ここで回ってきていたのだ。
朝食のパンを美味しそうに頬張る。その顔を、毎朝見れたらいいと思った。そういう、幸せそうな顔を見せてくれるだけでよかった。
――誰にも見せたくない。
マフラーを巻いてゆきんこのようになった。たとえ離れていても、彼女が寒い思いをしていなければいいと思っていた。
――いつまでもそばにいて、あたためてやりたい。
なんでもいい。昔とは違う、新しい縁を結べたら、それでよかった。どんな形のものでも、どれだけ遠くにあっても。たとえ、の中で一番尊い糸でなくても――
……嫌だ。虫唾が走る。だから、偶然絡まったの指を、掴んだのだ。
「なんか、食いたくなったら」
「うん」
「どっか、行きてえとこがあったら」
「うん」
「拙僧を呼べ。……一緒に、行ってやる」
あの日から、を縛りつけるな、と言い聞かせていた。でないと、また同じことをしてしまうと思ったから。善行の皮を被った支配欲を捨てて、のさせたいようにしようと思ったのに。それがのためだと言い聞かせたのに、止まらなかった。
「うれしい……」
理性が、ぱん、と乾いた音を立てる。
が、ほんとうに……ほんとうに、嬉しそうに笑うものだから。それが彼女の望みだというのなら、“それ”に応えようと。自分のしたいことが、が思っているものと形が違うと分かっても、それを教えるほどの“やさしさ”は持ち合わせていなかった。
「(このまま……攫っちまうか)」
にこにこと笑っているの横で、物騒なことを考える。この場所を他の男に取られるくらいなら、の幸せを遠くで見ているだけなら――いっそ、何も伝えずに連れ去ってしまおうか、と。
散り散りになった理性を、かき集めることなく。今にも爆発しそうな胸を抑えるように、爪が手のひらに食い込むくらい拳に力を入れる。持っていたコロッケの包み紙はぺしゃんこになった。
後ろで息が切れる音がしても、の手を引いて前に進んだ。山を登るにつれて寒くなっても、辺りが暗くなっても……の道が閉ざされていく感覚があるだけ。それの、なんと気持ちの良いことか。後悔は微塵もなく、むしろなぜもっと早くこうしなかったんだ、とさえ思えた。
「……いいな。ここ」
が見つけた廃寺にて。瞑想が終わり、目を開ける。坐禅をして心穏やかにしても、思うことがのことばかりなのだから、もう自分を偽ることはできないのだと思った。
二人きりの空間。少し肌寒いが、それだけだ。誰にも邪魔されないし、誰にも心動かされないがいる。他にほしいものはなかった。昔からずっと……これだけがほしかったのだ。
「空却くん、ナゴヤにおるの、いやになっちゃったの……?」
の言葉に「ナゴヤが嫌になったわけじゃねえ」と、嘘ではないが不十分な返事をする。いつからこんなに回りくどいことを言うようになってしまったのだろう。“お前がナゴヤに帰って、あの野郎と会うことが嫌なんだよ”という本音は、胸の中で渦を巻いている。
これからも、の未来は広がっていく。いずれは野山と付き合って、籍を入れて、一緒に住むようになって、家庭を持つかもしれない。ナゴヤにいる限り、その可能性があるのなら――己のすべてを投げうってでも、の隣にいたいと、思ってしまう。
「なんでお前が暗い顔してんだよ」
しゅん、と肩を落としていたに声をかける。すると、「空却くんがまたいなくなっちゃったら、やだなぁって……」なんてことを言うものだから。
「……なら、お前も来るか」
悪魔の囁きとはよく言ったものだ。きれいなところだけを見せて、にすべての責任を押し付ける。この道を選んだのはお前だと。後から後悔をしても、この手を振りほどけないように保険をかけた。
暖かい場所も、美味いものも、寝心地のいい寝床もいらないと言う。は、それでもついて行きたいと言う。謙虚で、素直で、大馬鹿者で……たった一人の、恋しい女。
「好きなやつとも二度と会わせねえ」
そう言うと、は黙った。あぁだろうな、と思う反面、やはりこの心は言ってほしかったらしい。“空却くんがいい”、と。
厚かましくも期待していた。最高潮まで引き上げられていた幸福が一気に地の底まで落ちていく。それが苛立ちに変わっていくのを感じて、目の奥がじりっと焼けるように熱くなった。
「“うん”って言えよ……」
それからはもう、衝動に駆られるがままだ。濁流のような激しい言葉をに浴びせる。墓場まで持っていくと決めたものも一緒に流れ出る。やつあたりのようであり、懺悔にも近いものだ。もう名前をつけられないほど汚い色になった感情を、の澄んだ心に塗りたくった。
小学生のときにこの気持ちに気づいていたら、そしてこれを素直に伝えられていたら……は、隣に立つことを許してくれただろうか。のことになると、未練がましく過去を振り返ってばかりで、ほんとうに……どうしようもなく惨めだ。
「お前が山を下りるのも、ナゴヤに帰るのも、あいつに会うのも……全部拙僧次第だ。拙僧の選択で、お前のすべてが決まる。全部拙僧のもんだ」
惨めついでに、傲慢でもあった。その心を支配したい。自分なしでは生きられないようにしたい。頼られたい。縋られてもいい。なんでもいいから……の“特別”になりたかった。
「ざまーみろ……」
どれだけが思い描く“やさしい”をなぞらえても、の中の一番になれないのなら……やはり、もう、これしかないのだ。
自分一人では処理しきれなくなったものを、の罰だと言わんばかりに押しつける。どれだけ尽くしても、ほしいものは手に入らない。朝起きても、がおはようと言う未来はやって来ない。それなら、それならば――
「俺にいつなにされるか分かんねえもんなぁ? こんな山ん中の、誰も来ねえような無人寺で」
「ぁ、そ、そん、な、こと……」
「また同じとこ噛んでやろうか。安心しろ、今度は血が出ねえように、ちゃんと加減してやれる」
冷えた床にの髪が散らばっている。の顔に、影が落ちている。なんておぞましい影だろう。そんな影から、守るはずだった。の耳を覆う包帯を見たときに、もう二度と傷つけないと……そう誓ったはずだった。
今のはきっと、不安と恐れで満たされている。それでいい。それがいい。笑わなくても、その心を独占できるならなんでもいい。舌で耳をなぶって、の声が漏れるたびに神経が焼ける。胸が……ひどく苦しい。
分からない。己の欲望に忠実に行動しているはずなのに、どうしてこうも全身が痛む。上手く動かない四肢に、頭に、どうしていいか分からず、の目の中に答えを求めた。
「……」
どうしたらそんなに想われるのか、なぜその枠に自分がいないのか……腹立たしい気持ちを通り越して、の想い人を羨むことしかできない。他人に対して、そんな感情を抱くことなど今までになかった。それでもたしかに今、“羨ましい”と思っていた。
本当に……情けない話だ。好きになった女一人の幸せすら、祈れないなんて。
ドアが閉まる。しんとした車内に身を浸しながら、電車に揺られる。小刻みに揺れているつり革をぼんやり見上げながら、空却は股を大きく開いて呆然としていた。
「(また……泣かせちまった)」
遡ること二時間ほど前――の言葉に打ちのめされて、縋るようにしてその体を抱きしめた。しばらくは何も考えられなくなってそこから動けなかったが、の鼻をすする音が寝息に変わってから、はたと顔を上げた。
案の定、は寝落ちていた。朝も早かったようだし、昨日に引き続きたくさん歩かせたので無理はないが、状況が状況だ。こういうときでもよく寝る虫であることに変わらなくて、拍子抜けする自分がいた。
それはそれとして冷えた山奥で眠らせるのはさすがにまずいと思い、を背負って山を下りた。停留所に来ていたバスに乗ってトヨタに戻り、ナゴヤ行きの電車に乗りこむまでも早かった。は自分の肩に頭を預ける形ですやすやと眠っており、今に至る。
聞き覚えのある駅名のアナウンスが流れ始めてようやく、この旅の“おわり”を意識する。空却はふー……と、細く、長く、息を吐いた。
を起こして適当な駅で降りる選択肢もあったが、少しでもこの穏やかな時間を享受したい気持ちが勝ってしまった。正直に言うと、足は鉛のように重たくなっていて、びくとも動かない。
「(かえしたくねえ……)」
心の底からそう思っているのに、なぜ電車に乗ってしまったのか。答えはもう分かっている。と対等な関係を築く未来を、諦めきれないからだ。
―― 「わたし、の、こわいことは、空却くんと、はなれちゃうこと、だから……」
――「それだけ、それだけが……わたし、ちいさいころから、ずっと……ずっと、こわいの……ッ!――」
……んなこと言われたら、期待すんだろーが
のことだ、きっと深い意味はない……はずだ。そう言い聞かせているのだが、そんな幻にすら希望を見出してしまう。人を導く立場の人間が他者に縋るなど、聞いて呆れる。甚だ滑稽だ。
《まもなく カミマエヅ カミマエヅ お出口は左側です――》
今はとにかく、離れたくない。電車を降りたらの家に行って、を布団に寝かせて、朝日が昇るまで一緒にいて、朝食を作って、一緒に食べて――と、空却はこれからの予定を頭の中で雑把に立てていった。
電車のスピードが落ちてから、重たい腰を上げる。電車が止まってもは起きなかったので、もう一度背負って、開いたドアからホームに降りた。
「ぅ……」
地上に出ると、後ろでがもぞりと動いた。寒いだろうと思いスカジャンを背中にかけていたが、やはり冷えるようだ。
歩く速度を少しだけ上げると、「くぅ、ぢゃ……?」という鼻声が続けて聞こえる。痛々しく思って眉をひそめるが、をこうさせたのは自分だと思ったので、心配する言葉は喉の奥に押しやった。
「さみぃか」
「しゃ、ぅ゙……」
「家に着いたら起こしてやっからな」
「ん……」
すると、から背中にくっついてきた感覚があった。そうしてまた、寝息が聞こえる。たったそれだけで、このまま永遠に、どこまでも歩ける気がした。
このまま外にいたらが風邪をひく、ということだけを原動力にして、足を動かす。これから自分がどうするかも定まっていないが、いったんは、かえさなければ。を、あの家に。
「――波羅夷?」
夢から醒めたように、視界が鮮明になる。
ちょうど、の家の塀を辿っているところだった。路地の角から現れたのは、黒いロングコートを着た眼鏡の男――見間違えるはずがない。要だ。
の想い人であり、恋敵の男。二人だけの世界に亀裂が入り、空却は眉間に皺を寄せた。
「てめえ……こんな時間になんの用だ」
「俺は――」
「かなぁ、どーしたの~。もしかして帰ってき――」
続いてひょこっと塀の影から出てきたのは、なんと平塚だった。げッ、と思わず顔を苦くさせると、「波羅夷じゃん!!」と平塚は馬鹿みたいに大きな声を出した。うるせーよ今何時だと思ってんだ。
「どーしたのどーしたの! もしかしてに会いに来たの? ったら今家におらんくて――って、波羅夷がしょっとんのじゃん!?」
「波羅夷と一緒にいたんだね」
よかった、と小さく呟いた要。拙僧とが二人きりでいて、なんも“よくねえ”くせに。善人ぶりやがって。お前のそういうとこが昔から嫌いだ。
これから二人きりの時間を有意義に過ごそうと思っていたのに、早々に期待が地に落ちてしまった。不機嫌度MAXになり、二人の横をずかずかと通り過ぎて玄関の前に立った。
「あッ、ちょっと玄関の鍵開いてな――ってなんで波羅夷がんちの鍵持っとんの!?」
「合鍵……?」
要の独り言に舌打ちをし、開いた戸から玄関に体を滑り込ませる。後ろできゃんきゃん言っている平塚をスルーしながら、二階へと上がった。
客間に入り、を畳の上に下ろす。部屋の隅に置いてあった座布団を適当に三つ並べてから、彼女をそこにころんと転がした。風邪をひかないように、押し入れにあった毛布を上から被せて。
「まだ、しばらく寝てろよ」
言われなくともよく眠っているの寝顔を見て、ふ、と笑みが落ちる。小さな頭をひと撫でしたあと、ふたたび一階に戻った。
「……てめェら、まだいたのかよ」
「あたしたち、に用があって来たんだけど!」
「那須野、調子が悪いなら出直すけど……」
平塚と要が玄関に上がっていた(鍵締めときゃよかった)。空却は何も話す気になれなくて、「なら出直せ」とだけ言う。特に要はもう二度と来んな、くらいは言いたかったが。
「になんかあったのっ? に電話しても繋がらんし、家行ってもおらんしめっちゃ心配したんだから!」
「拙僧と、二人で、出かけてただけだ」
一つ一つ言葉を強調しながら、平塚ではなく要の方をじっと見る。しかし彼は眉一つ動かさず、相変わらずすました顔をしている。この野郎余裕ぶりやがって……。
「どうせ大したことじゃねえくせに、こんな時間にひとン家押しかけやがって」
「ごめんね。夜分遅くに」
「大したことだし! 来週、式の打ち合わせがあるから、も一緒に行ってもらおうと思ったんだよ~。ナゴヤにいるときくらいしかできんし!」
「LINEで言えばいいんじゃないって言ったんだけど、あんが直接言いたいって聞かんくて」
「あわよくばんちにそのままお泊まりしたいなって!」
「本当にごめん」
平塚をフォローするように要が謝る。とどのつまり、この家に泊まることが目的ということか。百歩譲って平塚は許せるが要は駄目だ。ただでさえ玄関に上がられてこんなにイライラしているのに――
……式?
「おい。式ってなんだよ」
「結婚式!」
ドヤ顔をした平塚を見て、空却ははぁ?と口をぽかんと開けた。
「平塚お前……まさか結婚すんのか」
「そーだよ。てかから聞いとらんの? てっきりもう知っとると思った」
一言も聞いていない。から伝えられたところで「ふーん」以外の感想はないが、まぁめでたいものはめでたい。「おめっとさん」と言えば、「ありがと!」と満面の笑みが返ってきた。
「式は来年の夏にする予定なんだけどさ、波羅夷も来てくれる? 中学のときの友達は数人呼ぼうと思っとるんだけど」
「あいにく夏は繁忙期だ。だがまぁ、お前みてえなじゃじゃ馬もらう婿がどんな顔してんのかは興味あんな。地方で会ったやつか」
「え? 目の前にいるじゃん」
けろっと言う平塚の言葉が理解できなくて、空却は表情を変えずに瞬きを数回した。
「目の前にいるよ」と杏がもう一度言う。それでもなにがなんだか分からない空却は固まっている。すると、ちょいちょい、と平塚が要に向かって手招きをする。要がそのまま素直に彼女に近づいたと思ったら、平塚は彼の腕にぎゅっとしがみついた。
「こーいうこと!」
見せつけるようににかっ!と笑う平塚。脳内のどこかが爆ぜた感覚があって、やっとのことで出た声も掠れた。
「…………は、ァ?」
「てか、かなめも話しとらんかったの? 水臭いじゃん」
「俺も那須野が話しとると思って、わざわざ波羅夷に言わんかったから」
二人だけで淡々と会話を進めており、置いてけぼりになっている空却。二人の声が遠くなっている中、深く深く思考の海に潜った。
「(おい……おいおいおいおいおい)」
空却は頭が真っ白である。
どういうことだ。要はのことが好きなのではないのか。平塚も平塚だ。の気持ち知っていて、の想い人と付き合って結婚までするのか。鬼畜か。要もに思わせぶりなことばかりしてといてこの有様か。どういうことだ。分からない。なにがどうしてこうなったのか分からない。情報が足りなさすぎる。
「……なんかの冗談か」
「まっさかぁ」
「嘘だろ」
「嘘じゃないよ」
二人して、事実であることを認めている。今日まで生きてきた中で一番早く頭を回しているのに、“受け入れられない”と叫ぶ自分がいて、思考回路がまるで使いものにならない。
「……あいつは、知ってんのか」
「?」
「お前らのこと、知ってんのか」
「あったりまえじゃん。このあいだ婚姻届出しに行ったときも、に証人になってもらったし」
「証人だぁッ!?」
「声でっか」と笑いながら言う平塚。信じられない。は知っているのか。この事実を。二人の関係を。知っていて何も言わずにこの二人を好きにさせているのか。
の気持ちだったり、立場からして、恨み言の一つや二つ言ってもバチは当たらないだろうに。穏やかで、争うのを好まないのことだから、もしかしたら自分の気持ちを言えずに、今日まで隠しているだけかもしれない。
「あ、ついでにあたしらの友だちってことで、スピーチもお願いしとるよ! 夏っていってもお盆明けくらいだと思うからさあ、波羅夷も来なよ~っ」
「那須野、一人でスピーチできるか不安がっとったから。波羅夷がおってくれたら心強いと思う」
まだ頭がごちゃごちゃしているところに、新しい情報をぽんぽんと投げ込まれる。おかげでいつまで経っても情報が片付きやしない。
友情を優先させたであろうの気持ちだったり、こんな男のために一歩離れたところから見守ろうとしていた自分の気持ちだったりが肥大化していく。なぜこんな二人のために、が損をしなければならないのだろう。自分の幸せを諦めなければならないのだろう。
要のことを話しているときの、の楽しそうな顔をありありと思い出す。その瞬間、ぶちんっ、と太い堪忍袋の緒が切れて、要の胸ぐらを掴み、「ふざけんなっ!!」と顔面に声をぶつけた。
「ちょっ、ちょっとちょっとッ! 波羅夷なにやっとん――ッ」
「は要が好きなんだろーがっ!!」
もう夜だということもお構いなしに、要を怒鳴りつけた。「え……?」「へ?」と目を丸くしている二人の顔がさらにムカついて、襟を掴んだ手の力をさらに込める。
「二人しての知らねえとこでくっつきやがって! の気持ち考えたことあんのか! それでもダチか! 人の心はねーのかッ! 恥を知れ!! 地獄に落ちろ!! てめーら二人とも金輪際二度とに近づくんじゃねえッ!!」
勢いのまま、思いつく限りの罵倒を浴びせた。そんな空却の目の前には、目を点のように丸くさせた平塚と要がいる。
しばらくして、最初に口を開いた要は、「あぁ……そっか」と表情の温度を変えないまま、目を伏せる。胸ぐらを強く掴まれているのに、だ。ここまで顔に感情が出ない人間はいっそ気味が悪かった。
「波羅夷」
「なん、だよ」
あれだけ怒鳴り散らしたのに、なぜ要はこんなにも余裕綽々なのか。分からない。今はとにかくひるんでなるものか、と空却はさらに睨みをきかせた。
ふ――、と。要はひと息ついてから、まっすぐ目を合わせてくる。要が首をほんの少しだけ動かしたとき、彼がかけている眼鏡の細いフレームが街路灯に反射して、知的にきらりと光った。
「那須野の好きな人は……俺じゃないよ」
「もぉ~~ちょーーウケるんですけど~~っ!! なにがどーしたらそんなことになんのぉ!?」
「ねーカヨばーちゃん聞いたぁ~っ!?」と仏壇に話しかけ、どったんばったんと笑いこげる平塚……いや、杏に対して、「あん。もう夜だから声抑えて」と要が窘めている。
そんな二人の正面で、空却は胡座をかいて彼らを睨みつけている。とてもじゃないが数分では終わらない話だったので、三人で一階の居間に上がりこんでいた。
――「那須野の好きな人は……俺じゃないよ」
平手打ちを食らわされたような気分だった。
情報が散らかるどころか、その一言ですべて吹き飛ばされて跡形もなくなった。震える息を吐き出しながら、空却はじくじくと痛み始めたこめかみを人差し指で抑える。
「おい……。笑ってねえでどういうことか説明しやがれ……」
「はー笑った笑った~。え? 説明もなにもそのまんまじゃん」
どのまんまだ。要は杏が好きで、二人とものことは友人と思っていると? は? ざけんな。どこにそんな要素があった、と空却は憤りを隠せない。
――「俺は平塚とそっちのクラスに資料届けに行くから、く……じゃなくて、はらい……だっけ。那須野と一緒に、俺らのクラスに資料置いてきてくれんかな」
――「女の子の前で負けるのは、もっと嫌だな」
――「波羅夷だって、好きな子には笑ってくれとった方がいいでしょ」
……いや。いやいやいやいや。
要の言葉を思い出していくと、今思えば杏を中心にして言っていたようにも取れ……なくも、ない……が、それを認めたら負けのような気がするのだ。空却は過去の記憶をぶんぶんと打ち消した。
「俺が波羅夷を勘違いさせるようなこと、言ったのかもしれん。ごめん」
「どっちにしろだめだってかなめ。波羅夷、だいぶこじらせとるみたいだから。と直接話させるしかないよ」
「人を手遅れみてーに言うんじゃねえ」
「だって実際そーじゃん」
何年も思い続けてきたことが勘違いだと済ませたくないと思っている自分がいる。百歩譲って、要が想っていたのが杏だとしても、ならの心は誰に向いている?という話になるのだ。
「の好きなやつって誰だよ。杏お前中三のときにうちのクラスの男っつっただろーが」
「えぇ~? ここまで言っても分かんないかなぁ。の好きな人はぁ――ん゙むッ?」
「波羅夷が直接、那須野に聞いてみたら」
要に口を抑えられて、もごもごとしている杏。人前でいちゃついてんじゃねえ、ともう一度怒鳴りたくなった。
聞かずとも、分かっていたから。わざわざの口から言わせることも今までしなかった。……嘘だ。聞きたくなかった。が紡ぐ“好き”の方向を、知りたくなかったのだ。
だから、人伝に聞いただけで、の口からはっきりと“要”が“好き”だと聞いたことがない。背中に嫌な汗が伝うのを感じた。
「ほんッとうに……」
「うん」
「ほんッッとうに……の好きなやつは、要じゃねーんだな」
「違うよ」
即答だった。要は眉一つ動かさずにこちらを見ている。嘘は言っていない顔だ。それがまた脳みそにがつんとタックルを食らわされた気がして、奥歯をぐ、と噛み締めた。
「はー、なるほどねー。だーからが要と話しとるとき、波羅夷がイライラしとったんだあ~。なっとく~」
この空気にはそぐわない声色で杏が言った。すると、ようやく要はふ、と笑って、能面のような表情を崩す。「俺、中学までずっと波羅夷になにか悪いことしたかなって思っとったよ」といたずらっぽく言うので、顔がかっと熱くなった。
「そりゃあ悪かったなッ」
「ううん。俺も説明足らずでごめん」
「じゃーお互いさまってことで、今度みんなでごはん行こ! も入れた四人で! それでチャラね! これからもなかよくしよーね~っ」
笑顔満面の杏に背中をべしべしと叩かれる。相変わらず力が強い。隣で同じく要も背中を叩かれているが……あぁ、もう説明するまでもない。気持ち悪いくらい、昔となんにも変わっていない二人だ。
「あれ? てことは波羅夷、まだに告ってないの? デートまでしといて?」
「デートじゃねえ」
「さっき二人で出かけたって言っとったじゃん! それはデートだよ!」
「那須野は疲れて寝とるの」
「そーだよ」
「波羅夷、寝とるに変なことしとらんよね?」
「んなことやってね――っておい、おいっ。どこ行くんだよっ」
いきなり杏がすっと立ち上がったので、嫌な予感がした。声をかけると、振り返った彼女はにんまりと嫌な顔で笑っていた。
「ちょぉ~っとのとこ行ってくるね!」
「あッおい待ちやがれ――っ、寝てんだから起こすんじゃねーぞっ!」
まだ心の整理がついていないのに、今に起きてこられても困るのだ。どんな顔で会えばいいのか分からない。
二階に上がっていったであろう杏に舌打ちをすると、その場に残った要と目が合った。
「拙僧は手ェ出してねえッ」
「俺はなにも思っとらんよ」
さっきはほんの少し表情豊かになったと思えば、また能面に戻ってしまった。この野郎、やっぱ気に食わねえときはとことん気に食わねえ……。
むぐぐ、となにかしら理由をつけて怒鳴りたい衝動を抑えていると、「俺は、来栖……ううん、蓮の件から、波羅夷のことは信頼しとるから」と言った。だからなんもやってねえっつってんだろ、と言いたかったが、それよりも懐かしい名前が出てきたので、そちらの方に食いついた。
「久々に聞いた名前だな。お前、今も蓮と会ってんのか」
「大学が一緒なんだ。蓮と。学部は違うけど、たまにごはんにも行くよ」
「へえ……」
「今度、波羅夷も一緒に行こう。蓮も会いたがっとったから」
即答するのはなんとなくプライドが許さなかったので、少し間を開けてから「……おう」と返事をした。
普通に、会話ができている。恋敵というレッテルが剥がれたら、目の前にいるのはただの元クラスメイトの男だった。こんなにも人の印象ががらりと変わるのだから恋というものは厄介だ。
「那須野も、波羅夷も……大事な友達だから。俺はどっちも応援したいと思っとるよ」
「あのじゃじゃ馬にも言ったがそれだと矛盾してんだろ……」
すると、「波羅夷に今必要なことは、那須野と話すことだね」と、何もかも分かったような顔で言われる。どいつもこいつも好き勝手いいやがる……、と思ったが、ここまで拗れているのも半分は自業自得なのだから何も言えずに終わった。
そしてふと、要が腕時計を見た。
「もう遅いし、今日は出直すよ」
「そうしろ。あとあいつも回収していけ」
「うん。波羅夷はこれからどうするの」
「まだしばらくここにいる。それから――」
今までの自分の態度を思い出して、一瞬喉が詰まる。微かに首を傾げた要を見たあと、ふいっと顔を背け、口を開いた。
「……“空却”で、いい」
こういうことを改めて言うのは、あまりない。おかげで語尾が縮んでしまった。だせえ、と思っていると、「……うん。分かった」と要は短く言った。心なしかその声がワントーン高く聞こえたのは気のせいにしたかった。
「それじゃあ、俺はあんを呼んで――」
「ねーの目ぇめっちゃ腫れとるんだけど! 波羅夷泣かせた!? のこと泣かせた!? さいッてーっ!!」
二階から飛んでくる声にぴき、と青筋が浮かぶ。ふ、と前から空気が漏れた音がしたので、要の方を見た。彼は困ったように笑っていた。まるで、可愛くて仕方がない飼い猫がティッシュをすべて抜き出してしまった時のような……そんな、責めてもしょうがないことだと言わんばかりの顔だった。
今思えば、杏がどんな粗相をしても隣にいる要はいつも彼女を甘やかしていた。こんなにも好意の方向があからさまなのに、なぜ今まで気づかなかったのだろう。
「骨抜きじゃねーか……」とぼそりと呟いたが、穏やかな顔をしている彼には届いていないだろうと思った。
そのまま夜が更け、いつも通りの朝がやって来る。杏と要を見送った後、空が明るくなるまでが寝ている横で雑魚寝をした。おかげで体の節々が少し痛む。
朝食でも作ろうかと思ったが、ふとスマホを見たら灼空からの着歴が三十はゆうに超えていたことに気づいた。これ以上無視すれば後々面倒になことになると思い、が起きる前に渋々家を出た。
「ったくあンのクソ親父……! ちょっと帰らなかったくれえでギリギリまでこき使いやがって……!!」
二日間無断で外出したことに対して、灼空に数倍雑用を言いつけられてしまい、それらをこなしていたらあっという間に夜は更けた。今日はなにがなんでも迎えに行きたいのに、寺を出るのがいつもよりも遅れてしまった。迎えに来ない、と勘違いしたが先に帰ってしまったらどうしてくれる。
息を切らしながら、店の前に着く。幸い、まだ店の明かりはついていた。いつもなら店の前で待っているが、無性にの顔が見たくなったので、半開きのシャッターをくぐって堂々と店の出入口から店内に入った。
「すみません、今日はもう閉店で――っ、え、くうこうくんっ?」
「よお」
出迎えたに向かって、軽く片手を上げる。は焦った様子で空却と店の中を見比べて、「ご、ごめんね、今日閉店時間が遅くなっちゃって、まだ締め作業終わっとらんくて、えっと、どうしよう……っ」とあたふたしている。それは好都合だ。おかげで着替える前のと会えた。
普段はあまり見ることがないの着物姿を、この機会にじっと観賞する。くすんだ橙色の小紋着物と白の帯は実に秋らしい色合いだ。そして、一日中働いた証拠として後ろで団子にしている髪型から、細くて短い髪の毛が数本ふわふわと遊んでいた。
「いいわよ~。そのまま中入ってなさい。どうせあたしとちゃんしかいないし」
カウンターからひょっこりと顔を覗かせたのは、あのいけ好かないオーナーである。
「ちゃんはもう上がっていいから着替えてらっしゃ~い」と続けて言えば、はオーナーに頭を下げて奥に引っ込んでしまう。下駄を鳴らしながら小走りしているの後ろ姿をぼーっと眺めていると、「今日は外で待たないのねぇ?」とオーナーがカウンターから身を乗り出してきた。
「いいだろべつに。文句あっか」
「文句はないけどぉ。あ、ちゃん待ってるあいだヒマでしょ? そこの椅子たち、テーブルに上げておいてくれるー?」
拙僧はここでもこき使われんのか。そう思っていたら、「ちゃんのこと早く帰してあげるからっ」と語尾を上げて言われた。おそらく、この作業も途中まではがやっていたのだろう。「しかたねーな」と言いつつ、体は素直に動いていた。
「そ、れ、で? あれからちゃんとどうなのよぉ」
「なんの話だよ」
「んもうっ、とぼけちゃって! 一昨日と昨日、デートしたんでしょ~? ちゃんったら、はにかむだけでなーんにも教えてくれないんだから」
椅子を上げることに忙しふりをして、オーナーの顔は一切見ない。しかし、にっこにっこと薄気味悪い笑みをしているような気がして、なんとなく腹は立つ。
が言っていないのならこっちも何か言う必要はないと思い、「なんもねーよ」と素っ気なく返事をした。
「一夜を同じ部屋で過ごしておいてなにもないわけないじゃなーい! なにかしら進展あったんじゃないの?」
「変な言い方すんじゃね――って、なんでそのこと知ってんだ。あいつが言ったのか」
「一昨日あたしが電話したとき、『隣にいる』ってあなたが言ったじゃない。ベッドの上でにゃんにゃんしたんじゃないの?」
「にゃ……?」
「あらごめんなさい。これ死語だったかしら」
「まぁでも、その様子じゃほんとになにもないのねえ……」と一人で勝手に納得したオーナー。あからさまにつまらなさそうにしているのが癇に障る。
最後の椅子を上げたところで、奥から物音が忙しなく聞こえてきた。だ。ラフなパーカーとスキニー姿で、髪も団子からほどいたからか、毛先がくるんと跳ねている。
「ごめんね空却くんっ。おまたせしましたっ」
「ぜんぜん待ってないわよぉ」
なんでてめーが言うんだよ。がオーナーと店内を見比べたあと、「あっ。いす……」と呟いた。「拙僧がやった」とすかさず言うと、目をぱっと大きくさせて、「ありがとう空却くんっ」と嬉しそうに微笑んだ。ふん。
「今日はお客さんいっぱい来たから疲れたわよねえ~。近くになにかあったのかしら?」
「フシミでラップのイベントがあるって、先輩が言ってました。たしか、女性限定のイベントみたいで……」
「へえぇ~。今どきそういうのもあるのねえ。もしかして中王区が仕切ってるのかしら」
ようやくを連れていけると思えば、取り留めもない世間話が始まって、なかなか店から出れない。さっきまであったの笑顔は、すべてオーナーが持っていってしまった。
……今日は、いや、これからはあまり我慢がききそうにない。空却はの背後に回って、とん、と彼女の背中に体を軽く当てた。
「」
そのまま真上を向いたと視線が交わる。驚いたように口をぽかんとさせている彼女を見て、軽く目を細めた。
「その話、今じゃなきゃ駄目か」
「ぁ、あ、えぇ、と……ッ」
「ぜんッぜん今度でいいわよぉ~! 逢い引きの邪魔してごめんなさいねえ!」
「あいびき……?」
ソーセージじゃねーぞ。目を丸くしているの横で、いたずらっぽく口角を上げているオーナー。これ以上の時間を取られてたまるかと思い、「行くぞ」と彼女の手を取った。
「めっずらしぃ~……。“俺のものだ”アピールするなんてぇ」
去り際にオーナーがそんなことを呟いてきたので、心の中で中指を立てておいた。
まばらにある街路灯に導かれるようにして、の家へ続く道を歩く。かれこれもう何百回も通っている道なのに、日によって長くなったり短くなったりする不思議な帰路だった。ちなみに、今日はやたら長く感じる日だ。
「空却くん」
「なんだ」
「その……昨日のこと、なんだけどね……」
との手は、繋いだまま。振りほどかれるどころか、から手に力を入れてきたので、そのままにさせている。その真意を聞けるほど、まだ心の整理はついていない。
言いづらそうに口ごもっているの唇にじ、と見入る。微かに開いたり閉じたりしている動きを無言で見守っていると、ほぅ、と唇のわずかなすき間から小さく息が漏れた。
「わたし、お堂であのまま寝てまって、起きたら家におって……それで、おでかけも、変な終わりかただったから、家に着いたらちょっとだけおはなししたいなぁって思って……だめかな……?」
言い終えた後、おそるおそるこちらを見上げてくる。たしかに、目が覚めたらあの御堂から自分の家に一人でいたのだから、さぞかし不安だっただろう。あれ以来、とはろくに言葉を交わしていない。今思えば、不穏な別れ方だった。
だから今日……どうしても会いたかった。
「いいぞ。拙僧も、お前と話してえって思ってたとこだ」
言いたいことがありすぎて、まだ考えがまとまっていない。それでもいい。口を開けば、きっと堰き止められていたダムのように勝手に溢れ出すはずだ。それくらい、長年腹の奥に溜めていたものがあった。
――「くーちゃんっ」
ずっとずっと……に話したいことが、たくさんあったんだ。
家に着いたら、が夕食を食べるところを見守り(「空却くんも食べる?」と誘われたが、断った)、そのまま風呂に入っていったのを見送った。
遠くで聞こえる水音を耳に入れながら、空却は二階にあるの自室の押し入れを漁った。
「(お……あった)」
紙のスリーブに入った、中学の卒業アルバム。が出てくるあいだ暇なので、適当にページを捲った。
まだ制服に着られている一年生の、調理実習で鬼まんじゅうを作っている、社会実習で自分よりも大きなリュックを背負っている――たとえ後ろ姿でも、それが彼女だと分かるくらいには惚れ込んでいる。
そういえば、が要と相思相愛だと知って(今となっては勘違いなのだが)、卒業アルバムはろくに見てなかったな、と思った。否が応でも、他の男に恋をしているが目に入ってしまうから。
「(くそ、どいつだよ……)」
アルバムを引っ張り出した目的――それは、三年生のクラス別集合写真のページにある。杏が昔言っていた、“このクラスに、の好きな男子いる”という言葉が正しければ、この中にの想い人がいるはずだ。
自分たちのクラスのページを開いて、お前の好きなやつは誰だ。こいつか、それともこいつか、と順番に指をさしていけばいい。は分かりやすいので、きっと指差したら多少表情が変わるはずだ。そこを突く。
男子の顔ぶれをひと通り見た後に、空却は顔をしかめる。どいつもこいつもワンパンで倒せてしまいそうなやつばかりなので、ぜってえ拙僧の方が強い、という自負が膨らむばかりだった。十数人いる男子が全員――要を除いて――敵に見えて、写真越しに睨みをぐぐ、ときかせる。
「空却くんおまたせ――あっ。それ、中学生のときのアルバム?」
「なつかしいねえ」との弾んだ声を聞く。ドライヤーで乾かし終えた髪がしっとりとしているからか、いつもよりも幼く感じた。そして全身からせっけんのにおいがふわんと香るので、変な気分になる前にと話をしようと思う。
「ここ。座れ」
自分の隣にある座布団をぼふ、とたたくと、は素直にそこにぺたんと座った。そのときにやわらかな風が来て、またせっけんのにおいがふわふわと泳いでくる。くそ……いちいちいい匂いさせやがる。
「昔の話だがよ」
「うん」
「中学……いや、小坊のころか。まだあの時は」
「あのとき……?」
「呼び方、変えたろ。急に」
「あれ、なんでだ」と短く言葉を続けた。
に関わることで、一番最初に“我慢”をしたのは、それだったように思う。それに似た我慢が積み重なって、あの日にすべて壊してしまった。
が望むなら、と思って何も言わなかったのは、自分の中にあったもやもやを暴けなかったのをのせいにしていただけだった。最初からこうして腹を割って話をすればよかったのだと、今では思えた。
大丈夫だ、今ならどんな答えが返ってきても冷静に聞ける。そう思いながら反応を窺っていると、が両指をこしょこしょと交差させ始めた。言葉を選んでいるときによくする手癖だ。
「あれ、は……その……」
「おう」
「た、たぶん、空却くんは男の子だから、って、いろいろ、意識しちゃってたんだと……おもう……」
「は?」
空却くんは男の子だから、いろいろ意識しちゃってた――
空却くんはおとこのこだから、意識しちゃってた――
くうこうくんを、意識してた――
頭の中で、その部分だけが木霊する。意識、している? が? 拙僧を? 男として??
予想の斜め上どころか真上を行く答えに頭の中が宇宙になる。なにも反応がとれなくなっていたのを不思議がっているが首を傾げたころに、空却は品定めするような眼差しで彼女を見た。
「ふぅーん……。お前でもそこらへんは分かってんのか。ふぅーーん……」
「ごめんね、急に呼び方かえちゃって……。も、もしかして空却くん、今までずっと気にしとった……?」
「まぁ、距離はなされた気ぃして、あのときは胸糞悪かったけどよ」
「う……」
「もういいわ。んなちいせえことは」
そんな小さいことを今までずっと気にしていたことは触れないでおくとして。
もちろん、のことだから“そういう意味”での男としてではなく、お年頃ゆえのものだろう。それでも、男女のあれこれなどは考えずに、「な、なんとなく……」などという、答えになっていない答えが最悪返ってくることも予想していたので、及第点だ。
くうこうくんを、意識してた――頭の中では未だにの言葉が響いている。おそらく今夜布団の中に入ってもずっと響いている。
「それじゃあ、これからは昔みたいに呼んだほうがいいかなぁ……?」
「あ?」
「“くーちゃん”って――」
「ぐ」
なんの準備もできないまま、そのワードが心臓にダイレクトに響いた。が酒に酔ったときに呼ばれるものとはまた違う破壊力があって、なんの受け身も取れなかった。
顔をしかめたのを嫌悪だと勘違いしたのか、「ご、ごめんねっ。もう呼ばんとくねっ」とは慌てたように言った。呼ぶなとは言ってねえ。
「……たまになら、いい」
「たまに……? そ、そう……?」
心臓が落ち着いてきたころに口を開くと、「またやな気持ちになったときは、いつでも、なんでも言ってね……?」とは善意しかない言葉をかけてきた。そろそろ“なんでも”というワードを禁止にしようかと少し思った。
話せば伝わるし、も素直なのでこうして理解してくれる。なるほど、こうして話す方がいいのか。そりゃそーだ。なんで今まで話すことから逃げてきたのだと、過去の自分を殴りたくなってきた。
「じゃあなんだ。中学んときに苗字呼びになったのも同じ理由か」
「あっ、あれは、その……付き合ってる子同士でしか、名前呼び、しとらんかったから……。女の子のあいだで、そういうの敏感になっとったみたいで……」
「“みたい”?」
「あんちゃんがね、小学校のころに野山くんのことでお友達といろいろあったみたいだったから、気をつけやあってわたしに教えてくれたの」
「いろいろってなんだよ」
「呼びだし……? とか……。ごめんね、わたしもよく分かっとらんくて……」
あいつの入れ知恵かよ……。鈍感なが気づかないようなことをいちいち吹き込みやがって。おかげで深読みしたの態度に振り回されてしまった。
女社会のことはよく分からないが、今はもう学校という狭い世界にいない。と共有しているこの世界が平和なら、それでいいのだ。
「なら、もう苗字で呼ぶことはねーな。つか呼ぶなよ二度と」
「うんっ。わかったっ」
聞き分けが良い。そしていい返事だ。よしよし、と空却は過去につまづいた石を一つ排除した。
「あともう一つ」
「うん」
「拙僧はお前に遠慮されんのがいッちばんむかつく」
「え……」
の周りにある空気が固まる。心なしか目がじわっと潤んできたように思えて、やべ、と頭の中で警鐘が鳴った。
「お、おい。まだなんも言ってねーぞ」
「く、空却くんが、むかついてたの、わたし、し、知らんくて……っ」
「そりゃそうだろ言ってねーんだから。……おい、ちゃんと聞けよ人の話。おい、聞いてっか」
「む、むかついとったのっていつから……っ? もしかして、今も……っ?」
「だから今は拙僧が話す番――」
「ごめんなさい……ッ」
出だししくったな……、と空却は心の中で舌打ちをする。一瞬でに壁を作られてしまい、本人はぷるぷると怯えている。焦りと悲しみが入り交じった表情をしていて、さっきまで遊んでいた両指は痛そうなくらいぎゅうぅ、と力が入っていた。
「(そんな顔で聞いてほしいわけじゃねえ)」
そう思ってから、の緊張ほとばしる手を包むように両手で覆った。大丈夫だと落ち着かせるように優しく……やさしく、手の甲をさすった。
すると、「ひぇ……っ?」との口から声が漏れる。手からだんだんと力は抜けていくものの、今度はなぜか目が合わなくなった。
「拙僧の話、聞けるか」
「き、きけ、きけぅ……っ」
ほんとかよ、と突っ込みたくなったが、こくこくと何度も頷いているので信じるしかない。はあ、とひと息おいてから、一階の仏壇にあったカヨの写真を思い出した。
「なんかあるくせに“なんでもない”とか、大丈夫じゃねーくせに“大丈夫”とか、言ってんだろ。カヨが死んでから。ずっと」
途端に、の顔がこわばった。どうやら心当たりがあるようだ。そこを突くように言葉を続ける。
「昔は雛鳥みてーに拙僧に付きまとってたのに、急に一人でなんとかしようとしてんのが腹立ってしょうがなかった」
「そ、れは……ばあばがいなくなって、一人でもちゃんとしんとって思ってたの、かも……。空却くんに迷惑かけないように……」
「拙僧がいつ迷惑っつった」
「い、言っとらん……」
「だろ。勝手に人の心読んだ気になってんじゃねえ。すげえ感じ悪かったぞ。お前」
「うぅ……」
感じが悪いというよりは自身が気に入らなかっただけなのだが、こうすればの心に深く刻まる気がしたのでそう言った。もう二度と、あんなことをする気が起きないように。
「……ま、とにかくだ。これからは拙僧になんでも相談すんだぞ。お前保護者いねえんだから。つかしろ」
「く、空却くんは、迷惑――」
「じゃねーから。坊さんは人の役に立つことをしてなんぼだろ」
「むしろ遠慮される方が“迷惑”だ」と付け足せば、はさらにショックを受けたような顔をする。罪悪感が芽生えないわけではないが、こうでも言わないと変なところで距離を取ろうとするの心には響かないのだ。
が考えあぐねているあいだに、空却は彼女の手の感触をにぎにぎと楽しむ。指は細くて手のひらも小さいのにほどよい弾力があって、離しがたいのだ。もされるがままになっていた。
「わたし……」
「なんだよ」
「わたし……空却くんのために、なにもできん……」
はぽつんと言った。何を言い出すかと思えばそんなこと――と息をつきたくなったが、突然彼女の手にきゅっと力が入った。
「空却くんにいっぱいいっぱい、うれしいことしてもらって、これからもっとうれしいことしてもらっちゃうと、わたし、どうしていいか分からんくなる……」
声に、いつもとは違う重みがあった。そんなこと、と自分が思っていても、にとっては、それはとても大事なことなのだろうか。
呼吸が浅くなっていく中で、は絞り出すようにこう言った。
「今まで、ずっとずっと、空却くんにいろいろなもの、もらってばっかりで、わたしも空却くんになにかしたいって、今度こそって、おとといと昨日のおでかけのときも、ずっと思っとったんだけど……」
その先はしぼむようにして消えた。空却くんはなに食べたい? 空却くんはどこに行きたい? 空却くんは――何度も、厚意を向けられていた。そして、のその気持ちを踏みにじる言葉を、御堂で確かに言った。
――「拙僧はな、山に登りたかったわけでも、まだ色づいてねえ紅葉が見たかったわけでもねえ。ついでに言やあ、足助屋敷もどーでもいい」
……そうだ。どうでもよかった。といれば、あとのことはなんだってよかった。それを、あのときに言えていたら。
「……拙僧は、お前と、どっかに行きたかった」
「え……?」
「どうでもいいのは、場所のことだ。地元でも、市外でも……どこでもよかった。拙僧は、お前がいりゃあそれでよかった」
は目を丸くしている。改めて言語化するとどうにも体のどこかがこそばゆくなって、の視線から逸れるようにしてそっぽを向いた。
「お前が、たらふくメシ食って、ぺらぺら話して、初めて見るもんに目ぇきらきらさせて……そういうお前を見てんのが、拙僧は楽しいからよ」
「たの、しい……?」
「あぁ」
……沈黙が降りる。の顔をちらりと見れば、「そっか、そっかぁ……」と自分に言われたことを、心にじんわりと広げるように小さな声で呟いていた。
「ふふ、」
「あ?」
「よかったぁ……。たのしいって思っとるの、わたしだけじゃなくて」
えへへ、えへへ、とは照れるように笑っている。たったそれだけで、胸がぎゅっと苦しくなって、息がしづらくなる。おまけに、握っている手をきゅっきゅっと握り返してくるので、顔がだんだんと熱くなっていった。
「だ、だから、あれだっ。お前が特別なことしなくたって、拙僧のためになってんだよっ」
「それだけで……?」
「それだけって……お前だっていつもメシ食ってるだけで嬉しそうじゃねーか」
「それは、空却くんと食べるごはんがおいしいから……」
さらりと小っ恥ずかしいことを言うにいらぁっ、と謎の苛立ちを含ませて、「そーかよっ」と吐き捨てる。言葉以上の意味はないと分かっているから、余計に胸の奥がむずむずとしてしまう。
――「くうこうくんが……こわいんじゃ、ないから……言わんよ」
――「わたし、の、こわいことは、空却くんと、はなれちゃうこと、だから……」
――「空却くんの中の、“なんでも”を、おしえて……? そうしたら、わたし、なんでもできるようになるから……。空却くんのために、なにかできるなら、なんでもしたいから……」
……御堂で聞いた、あの言葉たちも同じだ。
ほんとうに、“なんでも”してしまうのだろう、と思った。分かっていない。は何も分かっていない。に対して、どれだけの想いをこの胸に秘めているのか。
この気持ちを晒してしまえば、今度こそどこにも行けないように、閉じ込めてしまう。拒むことも許さずに、どんな形でもその心が向けられるまで、きっと離さない。離せない。そんな狂気じみた己がいることを、は知らないのだ。
「……泣かせて悪かったな。御堂で」
「え……? う、ううん。あれは、空却くんのせいじゃないから……大丈夫だよ」
いっそ、突き放してくれた方が楽だ。しかし、の“怖いこと”というのは自分と離れ離れになることという、また頭を抱えたくなるような理由なので途方もない。
の手を離してから――一瞬、悲しい顔をしたように見えたのは都合のいい幻覚だろう――流れるような動作で、の頭の上に手を乗せた。
「これからはお前の気持ちを尊重しつつ、拙僧のしてえこともする。これから、お互いに遠慮はなしだからな」
の気持ちを無視することも、自身の心に嘘もつけないのなら――どこかで折り合いを見つけて、これらと付き合っていくしかない。
髪の毛をまぜるように、小さな頭を撫でる。細くて、やわっこい髪だ。昔のようにくてんくてんと首は動かず、は左右にはたらく力にじっと耐えていた。
「え、えんりょは、なし……」
「あぁ」
「それじゃあ、」
「ん」
「空却くんと、ごはん食べに行ったり、おでかけしたいときに、お誘いしてもいい……?」
「おう」
「昨日みたいなお泊まりもっ?」
お泊まり、の部分での目がきらっとする。泊まりの部分は気合いでどうにかするとして、「……お前がそうしてえなら、拙僧も応える」と返した。
「だからお前も、小難しいことあれこれ考えるんじゃねーぞ。そういうの向いてねえんだからよ」
「うんっ、うんっ」
「昔みてーにしてろ」
「むかしみたいに……!」
じわじわとテンションが上がっていくの顔。しかし、それはすぐに右肩下がりにしゅん、と元気をなくした。なにか思うところがあるのか、じっと黙りこんでしまった。
空却はするん、との頭の上から手をのけて、自分の膝の上に戻した。
「さっそく言いてえことか」
「た、たいしたことじゃ、ないんだけど……」
「大したことじゃねえかどうかは拙僧が決めることだ。とっとと言っちまえ」
が俯いたとき、彼女の横髪が肩からさらりと落ちる。「その……さっきの、名前の話になるんだけどね……」とひそひそ声で言った。
「空却くんが、お堂とお店でわたしの名前を呼んでくれたの……すごく、ひさしぶりだなぁって思って」
喉の奥がうぐ、と締まる。かなり敏感なところを突かれて、咄嗟に言葉が出てこなかった。
加えて、きゅう、と内臓が一回り小さくなる感覚があった。しかし、そんなことなど知らないは、勢いのまま言ってしまえと言わんばかりにずいっと体を前に出した。
「わ、わたしねっ、空却くんに名前呼んでもらうの、すごくすきで、うれしくて……っ。だから、これからもいっぱい、呼んでほしいなぁって――」
すごくすき――たわむれのような、つたない言葉。しかし、たったそれだけですべてを捧げたくなるくらいには……目の前はもう、恋一色に覆われている。
の肩を両手でがっと掴む。幅を狭めるようにぐぐぐ、と左右に力が入ってしまい、爪までも立てそうになる。目を逸らすな、というメッセージを込めて、強い眼光での目を縫いつけた。
「……」
目の奥で、バチバチと火花が散った。顔が熱い。名前と一緒に、なにかが一緒に出そうになる。これを、これからを呼ぶたびにいちいち飲み込まなければならないのか。
の目は大きく見開かれている。しばらくはなんの反応もなかったが、急に、ぺちっ、と自分の両頬を手のひらで抑えた。
「……なにやってんだ」
「く、くうこうくんに名前よばれるの、うれしくて……。ほっぺ、へんな形になっちゃう……」
お前が“すき”っつったんだろ――明らかにが照れているのが分かって、体の至るところがむずむずッと痒くなる。そんなの両手首をぎゅ、と掴んで、無理やり頬から手を剥がした。
「ぁ、あ……ッ」とうわ言のような声を上げている。そんなことはお構いなしに、無防備になったの顔をじろじろと観察した。様々な感情が入り交じった表情をして、今にもパンクしてしまいそうだ。これをさらに追い詰めたくなって――の頭の中を自分の存在でいっぱいにしたくて――ゆっくりと口を開いた。
「」
「ひゃぇ」
心臓が一気に重たくなる。
の目にじわっと水の膜が張る。さっき、“むかつく”と言ったときと似たような顔なのに、悲しいだとか、痛いだとか……そういうものが混ざっていないだけで、どうしてこんなにも興奮するのだろう。
本当なら、この後にに好きなやつは誰だと問い正して、その男のところに行って喧嘩をふっかけて、に見合う男かどうか腕試ししようと思ったのだが――この顔を見ていたら、すべて後回しにしたくなった。
「(やべぇ……)」
潤んでいる目が、とても綺麗で。震えている唇が、とてもおいしそうで。背筋に未知の感覚が這う。もっと近くで見てみたい、と思ったので、顔を数センチ近づけてみた。すると、の目がわっと大きくなったかと思えば、逃げるように顔を伏せられてしまった。もったいない。
もう一度名前を呼んだら、顔を上げてくれるだろうか――そう思ったところで、遠くからプルル、という機械音が聞こえてきて、二人で共有していた空気に亀裂が入った。
「ぁ……で、でんわっ。でんわっ、でてくるねッ」
我に返ったに手を振りほどかれ、逃げるようにして一階へ降りていった。一気に冷めきった部屋の空気と持て余した体の熱の温度が凄まじい。消化不良の思いをふつふつと煮えたくらせながら、空却はくそ、と悪態をついた。
「(邪魔しやがって……)」
とは言いつつ、心臓は限界だった。あれ以上あの時間が続いていたら、自分でもどうなっていたか分からない。片膝を立てて、膝小僧の上に額を乗せたあとに、ふー……と息を吐く。部屋が静かになった分、鼓動の音がやたら大きく聞こえた。
……電話、長くねーか。ようやくなにか考えごとができるようになるまで落ち着いたときに、ふと思った。待てども待てどもは戻ってこない。体感的には二十分は経っていると思って壁時計を見たら、が出ていってからまだ三分も経っていなかった。あの時計ぶっ壊れたか。
じっとしているのも飽きた空却は、の後を追うようにして一階に下りた。ついでに、台所に菓子かなにかあればかっぱらおうと思いながら。もう九時を回ったころだが、もちろん引き続きここに居座ってと話すつもりである。言いたいことも聞きたいことも、まだまだたくさんあるのだ。
「――そ、そうだよね。もうすぐ一年たつもんね。えっと……」
声が聞こえてくる。は廊下にある固定電話の前でなにやら困ったように話していた。
いたずら電話にしては、の態度がフランクだ。どうやら知人のようだが、が困って見えることに変わりはない。空却がわざと足音を立てると、こちらに気づいたがちら、と一瞥する。
さっさと切れ、という無言の圧を送りながら、の元へ足を伸ばした。
「今ね、おうちにお客さん来とって……ぁ、ううんっ、謝らんでいいよ、わたしこそごめんね……。またかけ直してもいいかな……? うん、ごめんね、おかあさん――」
の口から、めったに出ない単語――カヨの葬式で出会った切羽詰まった女性を思い出していたら、かちゃん、と受話器が置かれた。
「……母親か」
隣に立って、顔を覗き込む。はこくん、と小さく頷いた。「で、用件はなんだって」と続けて聞くが、の目は不自然に泳いでいる。こういうとき、大抵ろくでもないことがあるのだ。
「去年から、ね。おかあさんが、いっしょに住まない?って、言ってくれとって……。あれからちゃんどうかな、って聞いてきてくれたの」
「一緒に住もうだぁ?」
今さら? と空却は思った。仕事が忙しいだかなんだか理由をつけて、まだ小学生のをカヨの元に預け、カヨの葬式を一人に任せ、手のかからない成人になってから“一緒に住もう”だなんて、かなり虫のいい話ではないか。
ふざけんな! と正直言いたいところではあるが……自身は母親のことを悪く思っていないようだし、他人が頭ごなしに否定するのは違えだろ、と内なる獄が説教をしてくる。それに、の気持ちも尊重すると言った手前、下手なことは言えない。
まあ……実の母親といえ、長い時間過ごしているのは自分なので、一緒に暮らしていようが今まで通り仕事の迎えには行くし、なんならたまに夕食も食べていくつもりまである。
もう、を悲しませるような選択はしない。ここまで数秒で考えた末、「へーえ」と空却は物わかりの良さそうな相槌をした。
「ま、いんじゃねーの。あんな母親でも、お前が一人でこの家にいるよかマシだろ」
「あ、そ、そうじゃなくて……」
言い淀んだ後、は重たそうに口を開いた。
「わたしが……おかあさんのところに行くの」
……。…………はぁ?
二日連続で背後に雷が落ちた気がした。要に、「那須野の好きな人は……俺じゃないよ」と言われたとき以上の衝撃だ。体が痺れて動けない。
が? 母親の元に? 中王区に? なぜ? なにがどうしてそうなる?
「お前が? 母親んとこに?」
「う、うん」
「ナゴヤから出るってことか」
「えと、それは――」
「東都のどこだ」
「ど、どこ……?」
「いや、中学んときにツキジに住んでたっつってたか。ツキジって何区にあんだ」
「ちゅ、中王区に……」
「は、」
よりにもよって、男である自分は足を踏み入れることができない場所――を閉じ込める、監獄のような場所に……行く? が?
この家は? 仕事は? 友人は? カヨの墓は? 第一に、好きな男はどうなる? 母親に一緒に住もうと言われただけで、ほいほいついていけるものなのか? 好きな男にもらったものをご丁寧にカンカンの中に仕舞ってあるくらいなのに、会っても会わなくてもどちらでもいい存在にまで成り下がるのか? それも、大した愛情も注がれていない母親以下にまで?
――「すきな人からもらったものなのッ!!」
……所詮、が好きな男を想う気持ちは、“その程度”だった?
「……く、ははッ」
ごちゃまぜになった感情が渋滞して、乾いた笑い声に変わる。の想いを尊重していた自分が馬鹿馬鹿しくなって、喉と腹の痙攣が止まらなくなってしまった。
「あ、あの……空却くん、わたし、行くってまだ決めてなくてね、おかあさんにも、去年からずっと返事は待ってもらっとって――っ」
「“その程度”のもんなら、」
「え?」
笑いが収まった後、まともな顔でを見れなかった。今なら、悪者を十人ほど縄で縛り上げ、この体一つで市中引き回しの刑にできるくらいの怒りがあった。
「拙僧に……寄越せや」
の背中に手を回して、前に押す。いとも容易くバランスを崩したので、前のめりになったその体を自分の腕と、胸で……受け止めた。
「ぇ、え……っ?」の体がぶるぶる震えているのを感じて、さらに力を込める。服にしわがつくくくらい、くるしい、と言われるまで……きつくきつく抱きしめた。
が、いる。胸の中に……腕の中に、いる。成長したの体は、相変わらず自分の体にうまい具合に収まって、抱き心地がよかった。ほのかにあたたかくて、ちいさくて、やわらかい。御堂でも同じことを思ったが、今は、という存在を全身で感じている。
「ふざけんな……。ふざけんじゃねえ……」
「ぇ、ぁ、あ、ぁ……ッ?」
との境界線をぶちぶちと切っていく。こんなにも離しがたいのに。ようやく、これからまともな繋がりを見つけられそうだったのに……離れていく。手の届かないところに、が行ってしまう。想像するだけで吐き気がする未来を破り捨てて、湧き起こる苛立ちを腕の力に変えた。
「く、ぅ……っ?」
腕の隙間から声が漏れる。苦しいだろうに、は自分を引き剥がそうともせず――したとしても力の差は歴然だが――狭い空間の中で懸命に呼吸しようとしているのが伝わってきた。それでも、腕の力を緩めることはせず、頭の後ろと腰に手を当てて、が逃げられないように拘束に似た抱擁をする。
まだ……まだ、が好きな男と共に生きているところを、近くで見守る方がマシだった。目の届くところで、幸せな姿を見られるならそれでもいい、と腹をくくる覚悟もするつもりだった。
しかし、がその気なら……自分の恋心はその程度のものなのだと言うのなら、遠慮する必要はない。この胸にあるものは、が大切にしているものよりも大きくて、濃くて、深いものだと声を大にして言える。
今すぐここから連れ出してほしい、とに言われたら……たとえ行き先が業火の海でも、共に歩んで生きることだって、できるのだから。
「はずっと……ここにいるんだ」
これ以上、との時間を奪われるのは嫌だ。もう、我慢はしない。誰にもこの縁を切らせない。なにがなんでも、をナゴヤから出さない――そんな念を込めた。忌々しい傷があるの右耳に吹き込んだ。
呪いをかけるように、の体を鎖で雁字搦めにする想像をしながら、低く、ゆっくり、囁いたのだった。
