Episode.19



「ん、見ろ! こんどはウメだぞ!」
「くーちゃんすごーいっ。これでみっつめだねえ」

 空に向かって高く梅おむすびを掲げる幼い空却。すでに一口だけ食べて、中身を確認した彼の口はもぐもぐと動いていた。
 その隣で、幼いは手をぱちぱちと叩いて喜んだ。早朝に突然、「しってっか。あっちのほうにある山には、いろんな味のにぎりめしがおちてんだぜ!」と言ってわざわざ家に来てくれたときは不思議な気持ちでいっぱいだったが、今ならその価値が分かる。ここは宝の山なのだ、と。
 落ちているおにぎりは好きに食べたり持ち帰ってもいいと、山の持ち主も言っているらしいので、実質食べ放題だ。それも貸切状態。そんな夢のような世界に、はいる。カヨへのお土産用に詰めるタッパーも何個か持ってきたので、今日は一日中ここで、大好きな空却とおにぎり拾いをするのだ。

「てんむすはおちとらんねぇ。ここにはないんかなぁ」
「天むすなら川でおよいでんじゃねーの。えびだしな」
「そっかあっ」

 くーちゃんはなんでもしっとってすごいねえ、と言うと、「ぎゃくにお前はおれがおしえてやんねーとなんもしらねーなっ」と嬉しそうに言った。くーちゃんがうれしいとわたしもうれしいなあ、とはふくふくと笑う。

「あっ。くーちゃん、川があったよ!」
「よっしゃ。んじゃおれが拾ってきてやっから、おまえはここでまってんだぞ」
「うんっ。ここでまっとるねえ」

 靴を脱いだ空却から上着を預かったは、それを胸の前でだいじにだいじに抱えこむ。すると、「とった!!」と川にバシャバシャと足をつけた空却が、さっそく声高らかに叫んだ。
 陸に上がった空却の手には、えびのしっぽが見えたおにぎりが握られていた。「ほらよ」と天むすのおにぎりを手の平の上にぽとんと落とされたは、笑顔をぱあっと咲かせる。

「ありがとうくーちゃんっ。いただきまぁ――」
「おいまて。びしゃびしゃのまま食うのかよ」
「だめ?」
「だめじゃねーけどよ。……おっ、そーだ」

 ぴこん、と頭上に豆電球を浮かべた空却は、近くに落ちていた木の枝やまつぼっくりを拾い始めた。それらを集め終わると、「上着のポッケにマッチあっからだしてくれ」と言われて、はごそごそと彼の上着のポケットを漁った。
 出てきたのは長方形の小さな箱……マッチ箱だ。それを空却に差し出すと、彼は慣れた手つきでマッチ棒にシュッと火をつけて、集めた木の枝とまつぼっくりの中に放った。

「びしゃびしゃなら、火であぶってかわかしゃあいいんだ!」
「そっかぁ! くーちゃん、あたまいいねえっ」
「だろっ!」

 めらめらと燃え始めた炎の前に、二人で並んで座る。天むすを適当な木の棒に通して地面にさくっと刺せば、あとは火に炙られるのを待つだけだ。
 そのあいだに、は自分の代わりに天むすを取ってきてくれた空却の足をハンカチで拭く。「じぶんでできるっつーの……」とぼそぼそ言いながらも、好きにさせてくれている。はありがとうの気持ちをこめて、空却の足についた水滴をていねいに拭き取っていった。

「おまえ、さむくねーか。ここ、山のなかだからひえるだろ」
「うん、ちょこっとだけさむいけど……火もあるし、くーちゃんもおるから」
「なんだそれ。おれの前でよけいながまんすんじゃねえ。もっとこっちこいよ」

 空却に招かれるがまま、は彼の体の横にぴっとりとくっついた。すると、の冷たくなった手を空却がぎゅっと握ってくれて、さらに体はぽかぽかと温かくなる。

はこうやって、おれにずっとあまえてりゃあいいんだ」

 ありがとう、くーちゃん。くーちゃんはやっぱりやさしいね。それでもね。わたしはね、しらないところでも、さむいところでも……くーちゃんといっしょなら、ぜんぶへっちゃらになるんだよ。ほんとうだよ。
 は空却の手をきゅっ、と握り返して、木の棒にささった天むすが乾燥するのを待つ。くーちゃんとくっついていられるなら、このままかわかなくてもいいや、とも思った。







「ふふ……。くーちゃ……てんむしゅ、あぃがと……」

 なにか聞こえた気がして、はぱち、と目を開ける。その“なにか”が自分の寝言だと分かったころには意識もはっきりしていたので、ゆめ……、とぼんやりと思った。
 知らない天井、馴染みのない寝具の肌触り……は昨日あったことを一つずつ思い出していく。空却くんとナゴヤで遊んで、電車に乗ってトヨタまでやってきて、それで――。
 はころん、と横をむく。隣のベッドでは空却が仰向けで眠っていて、昨日の出来事は夢ではないのだと思った。

「(えへへ……空却くんといっしょ……)」

 きゅん、きゅん、と上の方にのぼりっぱなしの胸。本当ならずっとこうしてもだもだとした時間を楽しみたいが、ホテルにいられる時間も限られているので、ほどほどにしないといけない。
 そういえば……と、は一つ気づいたことがあった。

「(空却くんよりもはやく起きるの、はじめてかもしれん……)」

 寝る前に、「明日はがんばって起きるね。空却くんよりも先に起きれるくらい」とたしかに意気込んだが、まさか本当に起きられるとは思っていなかった。
 いま、なんじだろう。空却くん、夢みとるんかな。夢って眠りが浅いときに見るんだっけ……? そんな雑学を思い出しながら、はベッドサイドにあるデジタル時計を確認する。まだ六時になったばかりだった。

「(準備だけしちゃおうかな)」

 はのそのそと布団から出た。暖房がきいているからか、朝特有のあの肌寒さはそれほど感じない。珍しく……本当に珍しく、朝なのに頭が冴えている。きっと、空却が隣で寝ているからだと思った。
 洗面所で顔を洗い終わると、ラミネート加工されたパンフレットが目に入った。どうやら有料サービスやオプションの一覧のようで、は歯を磨きながらなんとなくそれを眺める。アメニティの追加、サロンシャンプーのレンタル、オリジナルスキンケアの購入、そして――

「(ランドリーコーナー……。えっ、ホテルの中にお洗濯するところもあるんだ……!)」

 業者に依頼して服をクリーニングするサービスはもちろん、セルフで洗濯ができるようにランドリーコーナーもあるようだ。昨日はホテルの中を散策することができなかったので知らなかった。
 ホテルってすごい、とは目を輝かせる。服が洗えるのならぜひ利用したいと思った。

「あっ。外に出るなら書き置きしとかんと……」

 空却が起きたときのために、はテーブルの上にあったメモ帳にボールペンで文字をさらさらと書き置きを残す。“ランドリーコーナーに行ってきます。カードキーも持っていきます”と書き終えたところで、ペンを置いた。

「まだ誰もおらん……」

 昨日自分が着ていた服と空却の服を両腕いっぱいに持った。部屋を出て、廊下を少し歩いたところに“Laundry corner”というプレートがあるスペースを見つけた。
 そこにはいくつものドラム式洗濯機が壁に沿ってずらりと並んでおり、わあぁ、と小さく感嘆の声を上げる。普段使っているのは縦型の洗濯機のため、ドラム式というハイテクなボディがとても新鮮だった。

「すごーい……。入れるの楽ちん……」

 全部入るかな?と、は洗濯物をむぎゅむぎゅと突っ込んでみる。余裕で入った。すべて収まったところで、ドアをがちゃんと閉める。
 洗剤も柔軟剤も自動投入のようで、あとはスタートボタンを押すだけで洗いと脱水、乾燥までしてくれるらしい。なんて賢い文明の利器なのだろう。
 スタートボタンを押したは、洗濯機が回っている様子を透明なドア越しにじっと眺める。右にぐるぐる、左にぐるぐる……泡の中で踊っている洗濯物が面白くて、いつまでも見てしまう。
 そんなことをしていると少し目が回ってきてしまったので、洗濯機前にあるベンチにもたれかかる。すると、なにかの影が近づいた気配がして、は顔を上げた。

「あっ。空却くん、おは――」

 言い終わらないうちに、少し重たいものが肩にかかる。それは自分が昨日着ていたカーディガンで、人影の正体である空却はが座るベンチにどかりと腰かけた。
 そして、じとっとした目で横から見つめられる。寝起きなのか、ところどころ髪がぴよぴよと跳ねていた。わ、わたし、なにかしてまったかな……?と思っていると、空却の口が小さく開く。

「……おはよ」
「う、うんっ。おはようっ」
「その格好で誰にも会ってねえだろーな」

 その格好、と言われては自分が着ているバスローブを見てみた。誰かに会ってもだらしなく見えないように襟は整えてあるし、腰紐もきっちり結ばれている。
 としては大丈夫の範疇だったのだが、今の空却の圧からして、どうやら彼はお気に召していないらしい。

「うん、だれとも会っとらんよ」
「今度同じようなことあったら拙僧を叩き起こせ」

 思わぬ言葉にとくんっ、と胸がはねる。この先も、昨日のような幸せな時間があってもいいのだろうか、と。が心の中でときめいていると、「いいな」と強めな口調で釘を刺されたので、は慌てて何度も頷いた。
 ひとまずはそれで満足したのか、空却はくわ、と大きなあくびを漏らす。

「つか、なんで今日に限って早く起きてんだよ。いつもならぐーすか寝てんだろ」
「わ、わからん……。今日はたまたま目ぇ覚めちゃって……あっ」

 そうだ、とは閃く。今朝見た夢の話をしようと思ったのだ。「あのね、」

「夢を見てね、」
「夢ぇ?」
「うん。空却くんがね、おにぎりが落ちとる山につれていってくれたの」
「なんだそりゃ。食えんのかそれ」
「おいしかったと思うよ……?」

 うめ、ツナマヨ、たらこ――天むすやシャケは川の中に落ちていたことを話すと、空却が呆れたような……それでいて優しい眼差しを向けてくれたので、は目が覚める瞬間までの、夢の内容を事細かく話した。

「空却くんは? 空却くんはなにか夢みた?」

 他愛のない世間話だ。それでも、今の彼なら応じてくれるという確信がの中にあった。
 すると、空却はを一瞥してから、目の前にある洗濯機をまっすぐ見つめながらこう言った。

「……お前がいた」

 えっ!とは目を見開いて驚く。まさか、自分が空却の夢におじゃましていたとは。
 嬉しくなって、思わず前のめりになりながら空却に尋ねた。

「夢の中でわたし、なにしとったの?」
「掃除」
「お掃除? どこのお掃除しとっ――」
「メシ作って、洗濯物干して、寺に来たやつと話して、猫とじゃれてた」

 空却は一定のトーンでつらつらと言う。掃除以外にもたくさんのことをしていたとは思わなかったので、はぽかんと呆気にとられた。
 そして、空却に見下ろされる。不意に目がばちっと合って驚いたが、は空却の目の奥に吸い込まれるようにして、その金色に見入った。

空厳寺うちに、お前がずっといる夢だった」

 そう言ったあと、ふたたび正面を向いた空却は目を伏せる。それきり何も言わなくなってしまって、「そ、そっか……」ともその話を広げられずに、じっと俯いた。
 わたしがずっと、お寺にいた夢……。お寺にわたしがいて、空却くんはどう思ったんかな……。いやだったんかな……。聞きたいことはたくさんあったのに、いつの間にか重たくなっていた空気の中では、何かを言う勇気が出なかった。
 がたがたと忙しなく働く洗濯機の音が唯一の救いだった。音が止むまで、お互いに口を開くことはなかった。







 洗濯が終わり、部屋に戻って洗いたての服に着替えたあと。昨日話していた通り、食べ放題がやっているパン屋に行くことになった。ランドリーコーナーで生まれてしまった気まずい空気を引きずったまま店に行くことになるかと思ったが、その心配はすぐに破られた。

「しゃっ、ぷぃッ……!」

 ホテルから出た瞬間の、の第一声である。さむい、と言いたかったが、舌が回らないくらい寒い。寒すぎたのだ。
 え……っ? まだ十月、だよね……? 雪の気配さえする気温には体を縮こませる。一方、空却はなんでもないような顔で、早朝の空気を切るように先へ先へとずんずんと歩いていく。

「ぁ、あ、くぅ、こ、くん……まってぇ……っ」
「遅えよ。なにちんたらしてんだ」
「しゃ、ぁ、さ、さむぃ――ッ」

 びゅうッ、とひときわ冷たい向かい風が吹いて、は心の中で悲鳴を上げる。寒くて、悲しくて、切なくて……寒さ耐性がないばかりに、じわ、と目の奥が熱くなった。

「寒いだぁ? どこがだよ。昨日とほとんど変わんねーだろ」
「ぅう~ッ……」

 引き返してくれた空却がの目の前に立つ。おかげで、向かい風は彼によって阻まれた。あ……、ちょこっとあったかくなった……。
 空却が引き返してくれたことへの優しさも相まって、目尻に溜まった生理的な涙がほろりと零れる。その瞬間、空却の目がかッと開いた。

「なッ、泣くこたぁねーだろッ!」
「ち、ちがうの……っ。ほんとうにさむくてぇ……ッ」
「ったく……!」

 空却は着ていたスカジャンを脱いで、の肩にふわっと被せる。空却の体温を纏った暖気と白檀の匂いに包まれて、全身の力がゆるゆるとほどけていった。

「どうだ」
「いいにおい……」
「はぁっ?」
「あッ。じゃ、じゃなくてっ。あったかいっ。すごくあったかいっ」

 大好きなにおいでうっとりとしていたは慌てて言い直して、あたふたと袖に腕を通した。い、いつもはちゃんとがまんしとるのに……。気が抜けとるかもしれん……。ちゃんとしんと……。
 訝しげに眉をひそめた空却だったが、「……ちゃんとついてこいよ」と言って、再び歩き出す。スカジャンがなくなった空却は薄くも厚くもなさそうな長袖シャツだけになったのにも関わらず、痛くも痒くもないようだ。寒くないんかな、大丈夫かな、と心配になるが、ここで遠慮できるほども強がれなかった。
 貴重な上着まで貸してもらっているのだ。は刺すような風に負けないように、一生懸命空却の背中についていった。


 そうして無事、パン屋に到着する。暖房のきいた店内に入ると、「ふわぁ……」とは力の抜けた声を漏らした。優しいバターと香ばしい小麦の匂いを嗅いだら、お腹もいっそう空いてきた。
 パンを取る前に、レジで食べ放題コースの受付をする。なんとか八時前に入店することができたので、今から一時間は食べ放題の時間だ。
 受付が終わり、はるんるんでトングとトレーの置き場に行く。席を取りに行った空却を待ちながら、焼きたてのパンがずらりと並ぶカウンターに目を輝かせた。

「(なに食べようかな? 空却くんはなんのパン食べるんかな?)」

 うきうき。わくわく。トレーとトングを持ったは空却の帰りを待つ。そして、戻ってきた空却に「まだ取ってねーのか」とため息混じりに言われ、トレーを代わりに持ってくれた。

「あっ。ありがとう。空却くんはなにパンにする? おいしそうなパン、いろいろあるよ」
「お前と同じやつでいい」

 それじゃあ、ソーセージのパンも取らんとね。空却くん、中学生のころよく食べとったもんね。そう言うと、「そうだったか」と空却はわずかに首を傾げた。かわいい……、と思ったが、自分の胸の中に仕舞っておいた。
 ソーセージパン、クロワッサン、やきそばパン、メロンパン――すべて二個ずつトングで取って、トレーの上にひょい、ひょいと乗せていく。その後、空却がとっておいてくれた席に座って、はさっそくソーセージパンを両手で持った。

「あったかあい。焼きたてでうれしいねえ」
「そーだな」

 いただきます、とはぱくぱくと食べ進める。ぱりっとしたソーセージ……そこから弾けた肉汁と甘いパンの組み合わせに舌が喜んだ。波を描くようにかかったケチャップと控えめなマスタードとの相性も抜群だ。空腹だったこともあり、あっという間に食べ終わってしまった。
 それからも、しょっぱいパン、甘いパン、しょっぱいパン、甘いパン……と、交互に食べていく。飽きがこないので、ごちそうさまをするタイミングが分からなくなってくる。手の中にあったパンがなくなったら次のパンを、それもなくなったらまた次のパンを――という調子で、は黙々とパンを頬張っていく。どうしよう、全部おいしいからおなかいっぱいになるまで食べちゃう……。

「昔から、ほんと美味そうに食うな」

 んむっ、とは口の動きを止めた。空却はさほど減っていないソーセージパンを片手に、こちらをじっと見つめている。
 夢中で食べていた自分がなんだか恥ずかしく思えてしまい、は口の中にあるものをこくんっ、と飲み込む。

「ぱ、パンがすごくおいしいから……っ」
「ふーん」

 それに、空却くんもいっしょにいるから……。心の中でそう付け足して、はクロワッサンの最後の一口を口に含んだ。
 空却はいつも、自分が食べているところを優しい目で見守ってくれる。食べ終わるのを待っていてくれる。話も聞いてくれる。それは、頭の中がぽーっとぼやけるくらい――恥ずかしい気持ちがあるのはまた別として――とても嬉しいことだった。いつまでもこんな時間が続いてほしいな、とは思っていた。

「やっぱり、だれかと一緒に食べるごはんはおいしいねぇ」

 中学生のころから一人で食べるごはんが当たり前になってしまった。なので、誰かと一緒にごはんを食べたときに、もっとお上品なペースで食べるだとか、“おいしい”の気持ちをほんのちょっとの微笑みだけで済ませるだとか……そういうことができない。空却の前は特にだ。頑張っても取り繕えないのなら、おいしいものをありのままたくさん食べた方がお得だ。
 誰かとおいしいものを食べる幸せを噛み締めながら笑ったは、次はカレーパンに手をつけた。

「……うちに来れば、誰かしらはいるぞ」

 がカレーパンに向かって口を開けた瞬間、空却が呟くようにそう言った。
 耳の奥がキン、と鳴って、自分たちがいる空間だけ音が消えたようになる。うち……おうち、お寺? だれか、って……? 来るって、いつ……? が言葉の意味を完全に理解するよりも早く、空却の声が被さった。

「パンうめーな」
「え……? あ、うんっ。そう、だね」

 思わず当たり障りのない返事をしてしまった。空却は真顔でソーセージパンにかじりついており、もう話をする気はなさそうだった。

「(お寺に、いつでも来てもいいよっていうこと、なのかな……)」

 耳鳴りはもう止んでいた。空却の言葉の真意を聞きたいが、聞くのは怖い。自分の想像と違っていたときに、気分が底まで落ちていってしまいそうになるから、自分がつくった都合のいい答えに縋っていたいとも思う。もしも……もしも、空却と同じ気持ちだったのなら、は毎日でも空厳寺に遊びに行ってしまうだろう。
 心の中であれこれ考えているうちにも、現実世界には気まずい空気が流れている。は下を向いて、パンを食べるのに忙しいふりをしてしまった。
 そのあいだも、相変わらず空却からの視線は感じていた。食べているカレーパンの辛みを感じられないくらい、深い眼差しだったことだけは分かったので、じわじわと頬が赤くなっていった。



 お腹も満たされて、セルフサービスの水をちまちまと飲み始めたころ。ようやく日も昇ってきて、街全体が朝日に包まれた。

「そろそろ行くか」

 空却のからっとした声に、の体がぎくりと震える。それに気づいた空却が、「なんだ。まだここいんのか」と尋ねた。

「何時に行くんだ。時間決めねーと腰も上がんねえだろ」
「お、お昼すぎくらい――」
「五分後に行くぞ」

 ひゃっ、と声が漏れる。「昼近くに外に出てえ理由は見えてんだよ」と言われてしまい、は気まずそうに背中を丸めた。
 朝日が昇ったとはいえ、あの寒波の中歩くだなんてとてもじゃないが体が持たないと思ったのだ。今だって空却の上着を着ているくらいなのだから、の寒がりは尋常じゃない。
 しかし、わがままを言っていることは自分でも分かったので。がんばる、とが口に出そうとしたところで、空却のため息が聞こえてきた。

「ったく……世話が焼けるな。お前はよ」

 やれやれ、という文字が似合う顔で空却は言った。しかし、そう言った彼の声は心なしか明るかった。







 パン屋を出てからも、は空却の後を着いていくだけ。ホテルに出たばかりの時よりはきもち暖かくなったが、それでも寒いものは寒く、ずっと体を震わせながら歩いていた。こんなことならあったかい肌着を着てこればよかったなぁ、と後悔する。
 そうして歩くこと数分。空却はとある建物の前で止まった。

「ちょうど開いたとこだな」
「ここ……ショッピングモール?」

 そこは少し老舗の雰囲気が漂うショッピングビルだった。“営業時間 九時~”という看板を横目に、は空却共に店内に入る。

 まだ人がほとんどいないビル内を、空却はずかずかと歩いて散策する。一階を一周したら二階へ……特に目的があるというよりは、何かを探しているようだった。空却の隣でついていくがままのだったが、ようやく彼の足がぴたりと止まった。
 空却がじ、と見つめているのはナチュラルテイストの雑貨屋。ログハウス風の内装で、雑貨だけではなく、衣類系の商品も置いてある。
 かわいいお店、とが思っていると、空却が顎をつん、と前に出した。

「お前好きだろ。こういう森みてーなとこ」
「もり……?」

 森なのかはさておき、はたしかにこういう雰囲気の店は好きである。すると、目の前に可愛らしいフォントで書かれた“あったかグッズコーナー”というポップが目に入り、空却はおもむろにニット編みされた腹巻を手に取った。

「隣でさみぃさみぃ言われたら歩き辛えからな。ここらへんから好きなやつ選べ」

 このショッピングビルに足を運んだ理由と、空却が何かを探していた理由が一つの線で繋がる。そんな空却の優しさに埋もれそうになったは、はふ、と短く息を吐いた。パンでおなかいっぱいになったのに、さらに胸もいっぱいになってしまって顔が梅干しのようにきゅっとなってしまう。
 このままあたたかい気持ちに浸っていたかったが、空却を待たせてはいけないと思ったのでは陳列棚と向き合う。腹巻を始めとした、マフラー、手袋、レッグウォーマーなどの防寒具が置いてあって、心強い味方ばかりだった。
 ひとまず顔に当たる風を防ぎたいと思い、はマフラーを選んだ。まだ冬前なので種類は少ないものの、どのマフラーも肌触りが気持ち良くて迷ってしまう。

「空却くんはどれがすき?」
「お前が巻くんだろ。なんでもいいわ」
「く、空却くんの意見もだいじだからっ」

 横にいる空却は唇をんむ、とさせて、「これ」と指をさして即決した。それはホワイトを基調にしたブレンドチェック柄のマフラーで、差し色に赤色のラインが入っているものだった。
 空却が指を差したその瞬間、このマフラーはただのマフラーではなくなった。が「それじゃあこれにするねっ」と声を弾ませて言うと、空却がマフラーを横からすっと取ってしまう。
 そのまますたすたとどこかに行ってしまうかと思えば、が狼狽えているあいだに空却はレジでてきぱきと会計を済ませてしまった。マフラーを決めてからここまで、おそらく三十秒もかからなかっただろう。

「ほらよ」
「あ、え、そ、そんな――っ」
「拙僧がやるっつってんだ。他になんか言うことあんだろ」
「ぁ、あり、がとう……」
「おう」

 満足気な返事だ。タグを切ってもらったマフラーが手元にあるのを見て、これはプレゼントも同然の代物だと思った。は特別なマフラーをだいじにだいじに抱きしめる。こうしているだけでも、体の中心がじんわりと熱を帯びていく気がした。

「なにしてんだ。さっさと巻けよ」

 ――となれば、もう一つくらい欲が出てしまうもので。
 マフラーを抱きしめながら、は空却をそろりと見上げた。

「ま、マフラーって、いろんな巻きかたがあるよね……っ」
「巻きかたぁ? フツーに首に巻きつけるだけじゃねーのか」
「う、うん。巻きかたというか、結びかたみたいなのがたくさんあってね」
「ふーん」

 空却くんにマフラー巻いてほしいな――たったそれだけを言うためにかなり遠回りをしている。もっと言葉が上手だったらという“もしも”は、昔から数え切れないくらい思ってきたことなので、勝算のないことはしない。代わりに、がんばれわたし、がんばれわたし、と心の中で自分にエールを送る。

「そういや去年、十四も変わった巻き方してたな」
「うんっ、うんっ。結び目のところをリボンの形にしたり、二重に巻いてマフラーをフードみたいにしたり、いろいろあるんだよ」
「へー。拙僧は首に巻き付けりゃあそれでいいけどな。……で、なにが言いてえんだ」
「え」

 思わぬ展開には固まる。一方、空却は平然とした顔で少しだけ首を横に倒した。

「お前、言いてえことがあるときに突拍子もねえことから言い出して、結論言うまでもたついて話すだろ」
「ぇ、え、ぇ……ッ」

 責められてはいない。むしろ声はとても優しい。なのに、図星を一ミリの狂いもなく突かれたものだから、何も考えられなくなってしまう。どうして分かったんだろう、いつから気づいとったんだろう、とは頭をぐるぐる回して考える。

「ぁ、あっ、う」
「べつに言っても怒んねーからよ」
「へ」
「怒んねぇから」

 二度目の言葉はやや小さかった。は、空却くんに変に思われたかも、ということばかり心配していたが、彼は彼でまた別のことを考えていたようだ。
 心なしか空却の顔が沈んでいるような気がして、それは少し……いやかなり、やだな、と思ったので。はたどたどしくも口を動かした。

「ち、ちがくてっ」
「ちげえのか」
「ぁ、い、言いたいこと、あるのは、合っとって、それで、くうこうくんが、おこっちゃうかも、っていうのは、考えとらん、くて、くうこうくん、やさしいから、おこることなんて、ないと思うから」
「は、」
「そ、それでね、言いたいこと、はね」
「おぅ」
「ま、」
「ま?」
「まふらー、まいて……くださぃ……」

 過去一番で消えてなくなりたくなった瞬間かもしれない。両手で持ったマフラーを空却に差し出すように前に出して、俯いたはせめて心臓の音だけは落ち着かせようと、深く息を吸って吐いてを繰り返した。
 ……長すぎる沈黙の末。手の上からマフラーの重みがなくなった。が顔を上げた瞬間、首の後ろに柔らかな感触がふわんと落ちてきた。空却はマフラーの端を両手で持って、の頭上をくぐらせながら、ぐる、ぐる、とマフラーを二重に巻く。余った両端はぎゅっと後ろで結ばれて、空却の手が自由になるころには、の顔半分がマフラーに埋まっていた。

「苦しくねーか」
「うん……だいじょうぶ」
「結び目、リボンじゃねーけど」
「うん」
「形もフードじゃねーし」
「いいの。これが……いいの」

 みつかっちゃう、かくれとって、と空却がすきな気持ちにこれでもかと言い聞かせる。ふわふわもこもこのマフラーに包まれて、顔から上があつくなる。それだけが理由ではないことも、もちろん分かっている。
 たとえ皮膚を刺すような冷たい風が吹いても、今はもうあつくてあつくて苦しいくらいだ。ほぅ、と目を閉じて空却が与えてくれた熱を感じていると、「……こっち向け」と不意に声がかかる。はうっすらと目を開けて、言われた通りに空却のほうを向いた。
 視線が交わる。さきほどまで燦々とした輝きを放っていた空却の目は、今は重たくて濃厚な色を帯びている。はちみつみたいに甘そうに見えて、は彼の目の色にぽーっと見とれた。
 お互いに交わす言葉もなく、ただ見つめ合う。血色のいい頬、薄く開けられた唇、切れ長の目……一つ一つのパーツをうっとりと眺めながら、空却くんかっこいい……、とが惚けた頭で思っていたときだった。

「かわい……」
「え?」

 泡が弾けたように我に返る。カワイ――空却の口から、たしかにそんなような言葉が聞こえたような、聞こえなかったような。
 完全に上の空だったので、確証はなかった。が何かを言う前に、「なッ……んでもねえッ」と空却の荒らげた声が返ってきた。は不思議そうな顔でぱちぱちと瞬きをするが、空却はなにやら苛立った顔でぶつぶつと独り言を呟くだけだった。

「クソったれ……。緩んでやがる……」

 ゆ、ゆるむ……?
 今この場で締まっているものといえばマフラーしか思いつかなかった。とりあえず、空却の機嫌が少しでも良くなるようにと、後ろにあるマフラーの両端にこっそりと手を回す。改めて結び目をきゅっきゅっときつくすると、「ほんッとばか……」とまた空却の独り言が聞こえてきた。







 首が外気に晒されていないだけで、体感温度がプラス三度上がったような気がする。体を震えさせることなく、は背筋を伸ばして空却の隣を歩けている。行き先はもちろん、いまだに彼しか知らない。
 心も体もあたたまっただが、もう一つだけもやもやしたものを抱えていた。

「(手は、もう繋がないんかな……)」

 昨日はずっと繋いでいてくれた。見知らぬ土地ではぐれると面倒だからかもしれないし、足が遅いからかもしれない。理由はなんでもいいから、また昨日みたいに手を取ってくれないかと淡い期待をもっていた。
 ……いや、ここまできたら、もう――

「空却くんっ」
「なんだ」
「てっ、てて……っ、ててててっ」

 眉間にしわを寄せた空却が「はぁ?」と口を丸く開ける。は上顎に舌をくっつけたり離したりするだけで、その先がどうしても言えない。

「手、を……っ」
「手ぇ? ……あぁ、まださみぃのか。スカジャンにポケットあっから突っ込んどけよ」
「う」

 この流れで手を繋ごうだなんてとてもじゃないが言えない。相変わらず空却に上着を貸してもらっているは、やむを得ずポケットに両手を入れる。中に入っていた小袋(おそらくガムが入っている)を手の中でころころと転がしながら、それでもなんとかして手を繋ぎたい、という気持ちを膨らませた。

 日が高くなるにつれて、だんだんと人通りも多くなってくる。それでも、空却と歩いていると不思議と人が避けていく気がするので不思議だ。そんな中でも混雑していることには変わりないので、は空却に置いていかれないように頑張ってついていく。
 はぐれないように、はぐれないように――そう思って歩いていたら、空却との距離も自然と近くなる。意図しなくても、お互いの腕がとん、とん、と当たる。そのたびにどき、どき、との心臓が跳ねる。あたらんようにしんと、でもはなれんようにしんと、と両方のことを気をつけていたら、結局腕が当たる回数の方が多くなってしまう。

「ご、ごめんね。うで、当たっちゃうね」
「べつに気にしてねーよ」

 空却はこちらを見ずに言った。本当に気にしていない様子だったので、の欲の芽がまた一つ顔を出す。空却がいる方の手をポケットから出すと、今度は指同士が当たるようになる。
 一歩踏み出すと、指の関節同士がこん、と当たる。また一歩踏み出すと、爪どうしがこつん、と当たる。空却の顔を見る勇気はなく、はずっと下を向いていた。
 さわりたいな、にぎりたいな、昨日みたいに、つなぎたいな。ぷくぷくと増えて膨らんで、自分ひとりではどうしようもなくなってしまったものが、表に出る。十秒に二回くらい触れるようになった空却の手。自分からは繋げないから、こうしたささやかなふれあいで満足していた――のに。

「(あ、)」

 思わず……ほんとうに思わず。偶然指の関節が僅かに絡んだときに、指を曲げて空却の指をきゅっと繋ぎ止めてしまった。それから歩いていても指が離れることはなく、の心臓は今日一番荒ぶった。

「(ぎゅってしちゃったっ。指ぎゅってしちゃった……ッ!)」

 焦る。とてつもなく焦る。今ほどいてしまうのはもったいな……いや、変に思われるだろうか。かと言って、ずっと指だけ絡ませているのもいやらしいだろうか。
 朝から大パニックになっている頭の中。もしもこの繋がりを空却から振りほどかれたら、一日立ち直れないかもしれない。一歩も歩けなくなるかもしれない。いつ消えるか分からないろうそくの火を、吹雪の中で守っているようだった。
 ――刹那。ひ、と引きずった声を出しそうになる。

「(ぁ、あぁ……っ)」

 ぐ、と空却の指に力がこめられたのを感じた。そのまま指を手繰り寄せられて、手のひら同士がくっつくと、力強くホールドされる。
 熱いのか冷たいのか分からない汗がふきだす。手のひら全体で感じる、空却の熱。自分よりも薄着なのに手の中があたたかいのがとても不思議で、とても恥ずかしくて、は浅い呼吸を繰り返した。

「(手ぇ、つないでくれた……)」

 どうして、だなんて考えなかった。細かい理由はなんでもよかった。今はただ、手を握ってくれた嬉しさだけが頭を占めていた。
 怖いものがなくなったは手を握り返す。顔はきっとどうしようもなく緩んでいて、赤く腫れているので上を向けない。上着かしてくれてありがとう、と言ってスカジャンを脱げるくらいには、体も火照り始めていた。


 駅前にあるロータリーに着くと、停まっていたバスに乗りこんだ。バス停看板を見る暇もなかったので、二人がけの座席に座った後、は空却に尋ねた。

「空却くん、これからどこに行くの?」
「アスケ」

 知らない場所だ。どんなところか聞くと、トヨタの山奥にある町で、全国的にも有名な紅葉の名所となっているらしい。今は紅葉のシーズンではないが、それ以外にも四十年以上前からあるアスケ屋敷という民族博物館や歴史遺産があり、観光地としても栄えているとのことだ。
 周りにある山々や街並みも綺麗で、「お前が好きそうなとこだ」と空却は言った。それを聞いたはアスケに行くのが楽しみになったが、それ以上に――

「(空却くん、そういうところがすきなんだあ)」

 嬉しかった。今まで自分に合わせてあちこち付き合ってくれた空却が、彼の意思で行きたいところに連れて行ってくれることが。
 わざわざバスに乗って行くということは、きっととても行きたい場所なのだろう。新しい発見だ。空却くんのすきなもの、もっと知りたいな――そう思って、は嬉々として口を開いた。

「空却くん、スマホもらってもいい?」
「あ? なんで」

 昨日からずっと預かってもらっているスマホのことを話に出すと、明らかに空却の態度が変わった。それも悪い方に。
 アスケにある、空却くんがすきそうなものを調べたいの――と、言えたらよかったのだが、急変した空却に圧倒されてしまい、は返答に困った。空却の顔はさらに険しくなる。

「それともなんだ。連絡とりてえやつでもいんのか」
「えっ?」
「好きなやつ」

 ぴくッ、と空却と繋いでいる手の指が震えた。そうだ、彼はもう知っているのだ。自分に好きな人がいることを。
 の指を震えを感じたのか、空却は何かを吐き捨てるようにはっ、と笑った。

「拙僧がいんのに、お前は他のやつと話してえのか」
「ちが、ちがうよっ。そうじゃなくて……っ」
「どもってんじゃねーか。嘘つくんじゃねえ」

 嘘ではない。好きな人とは現在進行形で話せているから、もういいのだ。
 ……と、これは正直に伝えるわけにいかない。どう言えば納得してくれるか考えていると、空却の手に力がこめられた。握られているの手がきついと感じるくらいに、つよく……強く。

「お前の今日の時間は全部、拙僧がもらったもんだ。今さら返す気はねえからな」

 空却は肘置きに肘をとん、と立てて、手の上に頬を乗せる。空却がぶすっとした顔をしていたので、は「ごめんね……」とぽそりと呟いて、それ以降バスが止まるまで口を閉じていた。







 ビルが建ち並ぶ街を抜けてからは、田んぼと民家が目立つようになる。気がついたら周りは木々ばかりになって、幅の狭い坂道を走っていた。生い茂る林を窓から眺めるは、どんどん山の中に潜っているような気がしていた。
 駅から四十分ほどバスに揺られて、山に囲まれた平地に到着した。周りを見渡したら山、川、趣のある日本家屋……ナゴヤでは見られない風景が広がっていて、「わぁ~っ」とは声を漏らす。

「ここがアスケなんだあ」
「ほらよ」

 空却が観光案内所からパンフレットを持ってきてくれた。お礼を言ったはさっそくパンフレットを広げて、アスケにある施設や食べ物を見てみる。
 アスケ屋敷はもちろん、歴史遺産や神社仏閣もたくさんあるようで、丸一日かけないとすべて回りきるのは難しそうだった。特に心惹かれる場所をピックアップして、計画的に歩かなければ。
 空却くんはアスケ屋敷のほかにどこに行きたいんかな。がそう言おうとして顔を上げると空却と目が合って、「どっか行きてえとこあったか」と穏やかな声で尋ねてくれた。
 バスに乗っている間は少し気まずかったが、今はいつもの空却に戻っている。今、彼がどう思っているかは分からないが、あのとき、きちんと誤解を解けていたら……と思うと、の心にまた居心地が悪くなるもやが生まれた。

 ――「なにが正解……なんてことは、きっとないんだよ」

 ふと、先月言われた野山の言葉を思い出して、の体がぶわっと膨らんだ。

「(きょ、今日……言おう、かな……っ?)」

 自分の好きな人は誰でもない……空却なのだと伝えられたら。
 たとえ今までの努力が報われなかったとしても、すべてが無駄になるわけではない。野山の言っていたとおり、想いを伝えたとしても邪険にはされないだろう。せめて、顔を合わせたときに世間話ができるくらいの関係になりたい。
 そう思っていてもなお、不安になりそうなこの臆病な心に、空却くんはぜったいにそんなことしない、ぜったいにそんなことしない、とは何度も言い聞かせた。

「おい……。おい」
「へっ?」
「どっか行きてえとこあったかって聞いてんだが」
「あっ、あ、そうだね、ごめんね、わたしはどこでもいいよ。空却くんについていくよ」
「んじゃあ、とりあえずアスケ屋敷目指して歩くか。途中に色々あるみてえだしな」 
「うんっ」

 空却くんとのおさんぽ楽しい――全身に口がついていたら、きっとそう伝わっていただろう。は言葉の代わりに、空却の手をきゅっと握り返した。嬉しさのあまり、繋いでいる手を前後にぶんぶんと振ってしまわないように気をつけた。


 アスケ川と名前の付いた川に沿って歩いていく。道の左右で生い茂っている木々はまだ青々としていて、これらがあともう少ししたらすべて鮮やかな紅葉になるのだとしたら、さぞかし絶景なのだろうと思った。

「ここ、山ん中だが寒くねーか」
「うん、マフラーもあるからあったかいよ。あっ、空却くんは寒くない? 上着、返すよ?」
「いい。そのまま着てろ」

 空却の優しさに甘えて、はふふ、とはにかむ。こうして歩いているだけでも趣のある街並みを楽しめるので、どこまでも歩いて行ける気がした。
 ……ふと、どこからかいい匂いがする。空却の方を見ると目が合ったので、どうやら彼も自分と同じことを思っていたようだ。

「なにかな? 揚げものの匂いがするね?」
「あそこからだな」

 匂いの元と思われる平屋に寄ってみると、そこではコロッケが売っていた。商品の説明文を読んでみると、山で捕ったイノシシのお肉に山芋を混ぜ込んでいると書いてあった。
 いのししのお肉、食べたことない……。どんな味だろう? 食べたいなぁ、と漠然と思っていたら、「このコロッケ、二つくれ」と空却が店主に言った。
 店主から包み紙に入ったコロッケを受け取った空却から、「ほらよ」と片方のコロッケを渡される。ありがとう、とお礼を言ったは、両手で持ったコロッケにさくっとかじりつく。

「ん~っ」
「うまっ」

 いのししのお肉と聞いたらもっと野性的な味がすると思っていたが、意外にもまろやかな味わいで、クリーム系のコロッケだった。クリーム系といっても、何度も口を運んでもまったく飽きがこない。揚げたてなのか衣もさくさくで、のコロッケは早くも半分以上なくなっていた。

「(食べ歩き楽しいな、オオスでもしたいな)」

 もしもお誘いしたら、空却くんも一緒に行ってくれるかな。おいしいもの、いっぱい食べたいな。昔みたいに、天むすも一緒に食べたいなぁ。
 は、こうして空却と一緒にちょっとした惣菜や甘味を食べたいとずっと思っていた。小学生のころのように、ただ美味しいものを共有する……ただそれだけだが、それがいい。去年の今頃はとても想像できなかったことが、今はこうして普通に思えることが、は本当に嬉しかった。
 ……ふと視線を感じて、が上を向くと、またしても空却と目が合った。今日だけでもう何度目か分からないのに、不意に目線が交われるとどうしてもどきっとしてしまう。
 コロッケおいしいね、と言いたかったのだが、まだ口の中にコロッケが入っていたので。代わりに、は目だけでにこ、と笑って見せた。

「ッ、ぶ……っ!」
「ん……ッ?」

 突然空却がえづいた。げほっ、ごほッ、と苦しそうに咳をしている空却。慌ててコロッケを飲み込んだは、空却の背中をさすりながら「空却くん大丈夫ッ?」と呼びかけた。
 ……少しすると、空却が落ち着く。そのあとすぐに、彼はばくばくとコロッケを一気に食べきった。はぁ……という重たいため息の後に、じろりと厳しい目で見られる。咳き込みすぎたせいか、空却の目には薄い水の膜が張っていた。

「……お前よ、要とメシ食ったことあるか」
「野山くんと……?」

 唐突にそんなことを聞かれて、どうだったっけ……?とは首を傾ける。このあいだお茶はしたが、ごはんとなるとなかなか思い出せない。
 ……あっ。あんちゃんとならあったかな? 高校のころ、テスト勉強をするために三人でファミレスにいったことを思い出して、はぱっと顔を上げた。

「うん。あるよ」
「クソが……」
「えっ」

 心底機嫌の悪そうな顔でぼそっと言われたので、は体温がさっと下がった。

「だ、だめだった……?」
「べつに」

 そう言って空却がぷいっと顔を逸らすときは、大体“べつに”では済まされないことだと、は薄々勘づいていた。
 杏と野山は、もう昔のような関係ではない。は二人の友達であることには変わりないが、二人の間には新たな繋がりがある。二人がナゴヤにいたころ何度も遊びに誘われて、わたしも行ってもいいの……?とおそるおそる聞いたこともあったが、「ぎゃくになんで? かなめとだけじゃつまらんじゃん!」と即答されてしまった。そして、“つまらん”と言われてしまった野山もまた、顔色一つ変えずに「気にしんくていいよ」と言ってくれた。
 なので、二人は昔のまま自分を含めて三人で遊んでくれる。しかし、今の空却の態度を見るに、やはりそういうことは気にしないといけないのだと思った。

「こ、これから気をつけるね」
「気をつけんのかよ」
「うん。空却くんがよく思わないなら、きっとだめなことだから……」

 小学校から中学校まで……昔から三人でいて、それが当たり前になっていて、変わらない関係を続けていられたのは、二人の優しさに甘えていただけなのだと。自分の鈍感さを恨む前に気づけてよかったと思った。

「……なら、」

 空却の声に、痺れるような緊張感が生まれる。は唇をきゅ、と結んだ。

「一緒にメシ食うな」
「う、うん」
「話しながら笑うな」
「うん、うん」
「あいつの前で寝るな」
「うん、わかったよ」

 きっとこれからは、よほどのことがない限り、野山とは杏と一緒に会うことになるだろう。万が一二人でどこかに行くことになったら、たとえ二人が良いと言っても断りを入れるようにしよう。
 大丈夫だよ、ちゃんと分かっとるよ、という意味を込めて、はこくこくと頷いた。空却は目を細めて、何か言いたそうに口を微かに開いたり、閉じたりしている。こういうことはたまにあるが、空却は何も言ってくれないことが多かった。それでも今回は――

「なんか、食いたくなったら」
「うん」
「どっか、行きてえとこがあったら」
「うん」
「拙僧を呼べ。……一緒に、行ってやる」

 腹の奥から絞り出すような声だったが、一言一句、しっかり聞き取れた。聞き間違いなんかじゃない。空却の優しさに直に触れて、の世界がぶわあっと広がる。視界が一気に明るくなったのも、きっと錯覚じゃない。
 食べたいものも、行きたいところも、空却くんと一緒に、いっしょに――一瞬呼吸するのを忘れていたは、空却の目を見つめたまま恍惚とした顔でこう呟いた。

「うれしい……」

 目の奥が潤みそうになる。は生まれたばかりの素直な気持ちを伝えたあと、ゆっくり……ゆっくりと顔に笑みを浮かべた。
 うれしい、すごくうれしい。行こうね。いっしょに行こうね。ナゴヤに帰ったら、おいしいものいっぱい食べようね――そんなようなことを、たくさん言った気がする。我も忘れて、空却が今どんな顔をしているかも、ろくに見ずに。
 空却の手の中にあったコロッケの包み紙がぐしゃりと潰れた音を聞いても、はもう、長年溜め続けた“すき”の気持ちを留めることができなくなっていた。







 コロッケを食べ終えた後、道なりに歩いた。昼ご飯を食べたり、途中にあったお土産屋を見たりして、とても充実した時間だった。
 このままアスケ屋敷に向かうのだとは思っていたが、不意に空却の足が止まった。

「なあ」
「ん?」
「あそこ、行きてえ」

 あそこ、と空却が指した場所に目をやった。そこにはハイキングコースが描かれている看板と、スタート地点と思われる山道が続いていた。
 この旅をして初めて、空却の口からはっきりと行きたい場所が聞けた。はようやく空却のすきなことができると思って、心がふわんと舞い上がる。

「うんっ。いこうっ。ハイキングコース覚えてかんと道に迷っちゃうかもしれんから、案内板見てから――わっ」

 が最後まで言う前に、空却は手を引っ張って山道に入っていく。空却くん、もう道覚えたんかな……? 案内板を前にしたあの一瞬で頭に入ったかは分からないが、は空却を信じて先に進んだ。


 整備された道をひたすらに歩くと、木が拓いた場所に着く。途中、自分たちよりも先に登っていた人たちを次々に追い越していったので、ふつうよりもハイペースで登っていることはなんとなく分かった。履きなれた靴でよかった、とは思った。
 中間地点では、山を下っていく人もちらほらいた。しかし、空却はまだ上に登るつもりのようで、の息が整うと、「行くぞ」と声をかけられる。は戸惑いながらも、うん、と頷いた。

「(あれ……?)」

 そこからまた数分歩いたところに、木と木の間から小屋のようなものが見えた。山の中に入って初めて見る建物だったので、はつい立ち止まってしまう。
 の手を引いていた空却の腕がくい、と伸びる。振り返った空却に「どうした」と声をかけられたので、はその小屋を指さした。

「空却くん、あそこにあるのなんだろう?」
「なんだあれ。納屋か?」
「なや?」
「納屋っつーのは物置みてーな……まぁ、行ってみた方が早えだろ。ついて来い」

 「足場気をつけろよ」と言いながら、空却が先陣を切って木の間をすり抜けていく。ハイキングコースから外れるので、歩く場所は砂利と木の枝ばかりで、あまり良くはない。なので、が一歩を踏み出すまで空却はその場で待ってくれていた。彼が待つところに歩いていける感覚に、の胸がきゅんと疼いた。

 あまり人が立ち入らないような場所に、それはあった。黒々と変色した木造の建物で、正面には小さな階段が三段分ある。こうして見ると、まるで小さな御堂のようだった。
 中には入れないだろうと思いながら扉を開くと、鍵はかかっていなかったので驚いた。中は六畳くらいの畳の部屋で、空却が言っていたような物置よりも、ちゃんとした和室のようだ。

「ここは……?」
「寺だな」

 「お寺?」とが聞き返す。こんなにも小さくて、人のいない場所に、お寺……? の知っている寺とはかけ離れていたので首を傾げると、空却がくい、と顎を前に出す。それにつられて正面を向くと、部屋の中に長方形の大きな黒箱がある。開かれている中に何かあるのは分かるが、ここからではよく見えなかった。

「仏さんだ」
「えっ」
「ったく、部屋もあちこち砂埃まみれじゃねーか。ずさんな管理しやがって……」

 上がり框で靴を脱ぎ、部屋に上がる空却。えっと、えっと、と躊躇っていたも、彼にならって足を踏み入れることにした。
 大きな黒箱……仏壇の前に来た空却は、「お休みのとこ悪ぃな。しばらく邪魔するぜ」と挨拶をしている。も空却の真似をして、おじゃまします、と隣に並んで手を合わせた。

「お寺なのに、だれもおらんね……?」
「御堂もちっせえし、こんな辺鄙なとこにあっからな。参拝するやつもそれほどいねえんじゃねーの。管理してるやつがたまにここに来て、掃除する程度なんだろ」

 たしかによくよく見れば仏具もあるし、座布団もある。壁を見上げれば、人の顔の写真も飾ってある。もしかすると、ここを管理している歴代の住職たちかもしれない。部屋の中も砂埃が目立つが、人がしばらく居座っても不快感はない程度には綺麗だと思った。
 が部屋の中をあちこち散策していると、空却が仏壇周りの砂埃をはらって掃除をしていることに気づいた。それを見て、わたしもお掃除しよう、とも近くにあった藁のほうきで畳の上を掃除し始める。出入口付近に一箇所に集めて、埃や砂をさっさっと外に出していった。

「(空、もう暗くなっとる……)」

 まだこの御堂に入って数分くらいだと思うが、入ったときよりも空の色がくすんできたように見える。スマホは空却が持っており、腕時計もしていないは、今が何時か知らない。昼ご飯を食べてからここまで数時間は経っているので、体感的には四、五時くらいだと思った。
 だんだん夜も短くなってきたのかな、と思いながら外を眺めていると、後ろから自分のものではない手が伸びてきた。の身が御堂の中に引っ込められて、ばんッ、と大きな音を立てて戸が閉まる。
 外の光が消えた、暗がりの御堂の中――驚いたは振り返る。顔がよく見えずとも、背後にいる人は一人しかいないのは分かっていた。

「……閉めねーとさみぃだろ」

 空却の声が闇に溶ける。すぐに出ていくと思っていたが、どうやらもう少しここに滞在するようだ。ここの雰囲気も相まってほんの少しだけぞくりとしたものがあったが、気のせいかもしれないと思い、「う、うん。そうだね」とは返事をする。
 すると、空却がどこからか持ってきたマッチで――おそらく仏壇にあったのだろう――慣れた手つきで部屋のあちこちにあるろうそくに火をともし始める。一つ一つは小さな灯りでも、それらが連なると部屋全体が暖色の光に包まれた。
 やることがなくなってしまったは、仏壇の前にある座布団の上に落ち着く。戸を閉めたとはいえ、どこからかすきま風が入ってくるので、少し肌寒く感じた。

「(外が暗くなったら、山も登れんくなっちゃうかな……?)」

 夜、山道を歩くのは危険だ。でも分かるのだから空却もそれは承知しているはずだ。いつまでここにいるんだろう、と聞いてみようと思ったところで、部屋にあるすべてのろうそくに火をともし終えた空却が隣に座った。
 空却くん、いつここから出ようか……? さっそくそう聞こうとしたが、空却が胡座を組んで半分目を閉じてしまったので、は開きかけた口を閉じた。

「(空却くん、かっこいい……)」

 ろうそくの光に浮かぶ空却の顔。ゆらゆらと幻想的に揺れる黒い影にすら、恋に落ちてしまいそうになる。背筋を伸ばし、ほんの少しだけ目を開けて坐禅を組んでいる空却。その姿はもう立派なお坊さんで、そんなお坊さんに対する感想ではないかもしれないが、きれい……、とは率直に思った。

「……いいな。ここ」

 空却が目を開ける。独り言のようなものだったが、静謐な雰囲気も相まってはどきりとした。正面に坐す仏様を映している空却は、そのまま続けて言った。

「うるせえ親父もいねえし、掃除するとこも少ねえ。うちの無駄にでけえ寺よか、ずっと楽だ」

 それを聞いたは、普段の空却らしくない言葉だと思った。彼も返事を求めているわけではないのだろう。それでも反応せずにはいられなくて、はおずおずと口を開く。

「空却くん、ナゴヤにおるの、いやになっちゃったの……?」

 そもそもこの旅は空却がきっかけで始まった。ナゴヤから離れて、トヨタのアスケという遠いところまでやって来た。よくよく考えたら、行きたい場所は聞けたものの、“なぜ行きたいのか”は知らないのだ。
 すると、「ナゴヤが嫌になったわけじゃねえ」と返ってくる。そ、そうだよね、空却くんはそんなこと思わんよね……。ひとまずほっとするだが、覇気のない空却の声の裏に、彼の本音が隠れているような気がした。ナゴヤが嫌ではなくとも、ナゴヤから離れたかった理由は、別にあるのではないかと。

「(もしも、空却くんがまたナゴヤから出て行っちゃったら……)」

 もう、自分のことばかりで嫌になってしまう――それでもは考えずにはいられない。顔が見れなくても、言葉が交わせなくても……ただ、そこにいるだけで一日を迎えるのが楽しくなるのに、歩いて空厳寺に行っても空却に会えない悲しみは、高校生のときに嫌というほど味わった。

「なんでお前が暗い顔してんだよ」

 いつの間にか空却がこちらを見ていた。感情が顔に出てしまっていたらしい。言おうか言うまいか悩んだが、は、「空却くんがまたいなくなっちゃったら、やだなぁって……」と消えるような声で言った。
 高校生活は楽しかったが、空却のいないナゴヤはどこかさみしくて、心に穴がぽっかりと空いていた。その穴も今は塞がっているが、時々そのあたりがじくじくと痛むことがある。また、いつ空却が姿を消してしまうのかと考えてしまうからだ。はもう、あんな思いはしたくなかった。

「……なら、お前も来るか」

 ぶわっ、と鳥肌が立つ。空却のその言葉に全身が興奮して、すぐにでも声を張ってしまいそうになった。は喉をきゅ、と締めて、まずは首だけを縦に振った。

「うん……うん、いく、いくよっ」
「いつナゴヤに戻ってこれるか分かんねえぞ」

 それよりも、いつ戻ってくるか分からない空却を待つ方が辛いのだ。はもう一度、うん、と強く頷いた。

「北の方にも行くぞ。お前、さみぃの無理だろ」
「いっぱいいっぱい、着こんでいくよ。カイロもたくさん持っていくから、大丈夫だよ」
「金も無限にあるわけじゃねえ。毎日美味いもんは食えねえかもしれねーぞ」
「そうしたら、コンビニの肉まんとか、おにぎりとか、サンドイッチとか……全部はんぶんこにして食べよう?」
「最悪、寝るとこも外だ」
「屋根があるところで寝たら、きっと平気だよ」

 はなれたくない。一緒にいたい。つれていって、わたしも一緒に、空却くんと――そんな思いで胸がいっぱいになる。空却の言葉にしがみつくようには拙い語彙を駆使して、一生懸命口を動かした。

「(いま……いま、なら……)」

 すき、が溢れる。心臓の奥がじくじくと痛くて、目からも涙が零れそうになる。苦しい、愛しい、恋しい――全身が埋め尽くされて、もうだめ、とは思った。

「くうこう、くん……。あのね、わたし、ね……ずっと、空却くんのこと――」
「好きなやつとも二度と会わせねえ」

 突如つららのような鋭いものが降ってきて、頭の中にあった言葉がさっと消えた。
 空却に言われたことがすぐに理解ができなくて、「ぁ、」とかすれた声が出る。それを合図に、徐々に空却の顔が険しいものになっていった。

「“うん”って言えよ……」

 ひどく、か細い声だ。いつだって太陽のように燦々としている空却の口から出たものかも疑ってしまうような、ほんとうに……初めて聞く声色だった。

「寒いのも、美味いメシ食うのも、寝るとこも我慢できて、なんでそれだけ駄目なんだよ」
「く、空却くん、ちがうの、ちがくて、わたしの」

 すきな人は――と続くはずだったものは、突然空却が手首を掴んだことによってなくなった。ぽき、との手首から小骨の音がして、指に血が通わなくなる感覚がし始めた。

「あいつのどこがいいんだ……。なにがあいつとちげえんだよ……」
「え、ぁ」
「話なら拙僧が聞いてやる。美味いもん食いてえなら拙僧がたらふく食わせてやる。行きてえとこがあったら拙僧がどこにでも連れていく。あとはなんだ。なにが望みだ」

 ぎゅう、と手首を潰すように力が込められる。そして、空却からの畳み掛けるような言葉の嵐。頭の処理が追いつかなくて、はうわ言のような声しか出せなかった。
 早く答えないと、と空気も急かしているのに、真っ白な頭の中で浮かぶものは何もない。無言のままでいるを見かねた空却は、苦しげに顔を歪ませた。

「拙僧が……全部やりたかったことだ。誰でもねえ、拙僧が、ぜんぶ……」
「く、くう、こ、くん、が……?」
「だがお前は、ナゴヤに帰ったら全部好きなやつにしてもらうんだろ。それがいいんだろ」

 独り言のような呟きをしたかと思えば、急に早口でまくしたてる。まるでひとつの体に二人の空却がいるようだった。しかし、の知る空却は、どちらの彼でもなかった。

「“なんでもする”とか仰々しいこと言っておいて、肝心なことはなんもできねえんじゃねーか」
「く、くう」
「お前の“なんでも”はな、拙僧にしてみりゃあごく一部のことなんだよ」

 道が閉じていく。心が、離れていく。
 途端に寒気がして、はぶるっと体を震わせた。それを見た空却がはっ、と軽く笑う。

「今、さみぃだろ」
「へ、ぇ……?」
「山奥だからな。これからもっと冷えてくる」

 口角は上がっているが、を見るその目は冷ややかだった。先ほどまであたたかみを帯びていたろうそくの灯りが、今では妖しげなものを醸し出している。

「日が沈んで夜になりゃあ、足場も見えなくなる。お前、来た道分かんねえだろ。一人じゃこっから下りられねえだろ」
「く、くうこうくんと、一緒なら――」
「拙僧が帰らねえっつったら?」

 の語尾を噛みちぎるように、強い口調で言われる。あまりの迫力にはきゅ、と喉を潰して、黙りこんだ。冗談には聞こえなかった。

「拙僧はな、山に登りたかったわけでも、まだ色づいてねえ紅葉が見たかったわけでもねえ。ついでに言やあ、足助屋敷もどーでもいい」
「ぇ」

 がつん、がつん、と頭のどこかを言葉の鈍器で叩かれた気がした。空却が腰を上げて、人の半身分空いていたスペースを詰める。のすぐ目の前に、空却の胸板がきた。
 空却が近づいたことによって生まれた緊張を上回る、絶望。今までずっと、彼の望むことをしていたと思っていたのが、すべて違っていたこと。ようやく空却のためになにかできるという充足感で膨らんだ胸がずたずたに傷ついて、枯れるようにしぼんでいく。

「くぅ、こ……」
「お前が山を下りるのも、ナゴヤに帰るのも、あいつに会うのも……全部拙僧次第だ。拙僧の選択で、お前のすべてが決まる。全部拙僧のもんだ」

 ぐ、と掴まれている手首を引っ張られて、上半身が前のめりになる。額同士を突き合わせるように、空却の顔と至近距離になった。

「ざまーみろ……」

 く、と空却は笑った。なのに、眉は苦しげにひそめていて、喉を潰したような声だった。そんな空却の感情が伝播して、の胸がぎゅっと締め付けられる。
 空却の考えていることが分からない。なにが“ざまーみろ”なのか分からない。ただ、誤解をされている、ということだけはなんとなく察した。はふたたび切れそうになっている縁の糸をぎゅ、と両手で持って、ぷるぷると震える唇を動かした。

「くうこう、くん……き、きいて、わたし、わたしの、すきなひとは――」
「言うな」
「ぁ……っ、それでも、それでも、き、きいて、ほしくて……ッ」
「嫌だ」
「お、おねがい、くうこ――ッ、っ、わ……っ?」

 懇願の途中で、視界が回る。正面にいた空却が体に覆いかぶさってきて、の背中が畳にとん、と優しくついた。頭の後ろには、空却の手が回っていた。
 どうして、どうしてこんなことに……? さっきまでいっしょにコロッケ食べてて、お土産屋さんも見て回って、それで――が混乱している間に、両手を頭の横で拘束される。空却に言葉を拒否されたのがショックで、はく、はく、と空気を食べるように息をした。

「怖えだろ」
「は、ぇ……」
「あん時みてえ」

 あの、とき……? が考える前に、空却が両肘をついた。ぐ、と空却の顔が近づいて、の上半身に彼の体が乗る。少し、苦しい。胸で大きく呼吸をすると、今の中にある感情がすべて伝わってしまいそうで、動悸が強くなった。
 未だに、空却は苦しそうに笑っている。

「俺にいつなにされるか分かんねえもんなぁ? こんな山ん中の、誰も来ねえような無人寺で」
「ぁ、そ、そん、な、こと……」
「また同じとこ噛んでやろうか。安心しろ、今度は血が出ねえように、ちゃんと加減してやれる」

 空却の顔が、の顔のすぐ隣に落ちる。そして、マフラーから出ていた耳の縁に何かが這った。身に覚えのある感触で、びくんっ、との体が大きく跳ねる。

「怖いって言えよ。ほら」

 鼓膜を掠めるように囁かれて、はぎゅっと目を瞑る。そうしたら、耳のあたりに神経が集中してしまって、余計に音や感覚に敏感になってしまう。

「ぁ、はぅ……っ」
「言え」

 命令口調なのに、その声はずっとずっと柔らかい。耳たぶを裏側からぺろ、とゆっくり掬われた。あの日の感覚を思い出して、背筋がぞくぞくと強ばる。
 ……歯は、ずっと当たらない。噛む、というよりも、食む、という表現が正しい。耳の縁を唇ではさんだり、耳たぶを吸われたりしている。それに……同じ場所、と言っていたのに、今空却に弄ばれているのは左耳だった。

「(ちが、う……)」

 霧がかった頭の中で、は思った。あのときは、怖くて泣いたんじゃない。痛くて泣いたんじゃない。空却が何を言っているのか、なにに怒っているのか分からないのが辛かった。
 きらい、と言われたのが……ただただ、悲しかった。

「ふぁ……っ?」

 空却がはぁ、と息を吐いて、それが耳の中にじかに入ったものだから、力の抜けた声が漏れる。自分の声ではないような、今にも顔を覆いたくなるような……恥ずかしい音だった。
 空却が耳から顔を上げると、の顔にかかっていた髪の毛を退かした。そして、割れ物を触るように、空却の手のひらが頬を包む。
 冷えた頬からは、空却の手のひらの熱が伝わってくる。それはもう熱いくらいで、その温度差に頬がじんじんと脈打ち始めた。髪の毛も乱れていて、息も整っていなくて、きっと今、かわいくない顔をしているのに……視線が交わった空却は、とろけたような……切なさを孕んだ目をしていた。

……」

 やさしい人の……声がした。
 昔の――幼い空却の声と重なった。――毎日のように聞いていた、名前。そのときによって声のトーンもこめた感情も違えど、ずっとずっと、その言の葉には揺るがない芯があった。
 在りし日の空却の面影が駆け巡る。視界が揺れて、鼻の奥がつん、と痛くなる。は空却の目をじ、と見つめながら、微かに首を左右に動かした。

「いわん……」

 気がついたときにはそう言っていた。空却から目線を外さず、瞬きもしなかった。
 「は、」と空却の息をのむ音を聞いたもまた、ごく、と空気の玉を飲み込んで、呼吸を整えた。

「くうこうくんが……こわいんじゃ、ないから……言わんよ」
「うそつけ」
「うそじゃ、ないよ」

 まだ、頭は真っ白のまま。むずかしいことも、気の利いたことも言えない。そんな中でも、自分の気持ちを伝える。みっともなくても、はずかしくても、今伝えなければ、それこそ“あのとき”のように、なってしまう気がして。

「わたし、の、こわいことは、空却くんと、はなれちゃうこと、だから……」

 それでも言葉だけで伝わる自信がなくて、肌からも伝わってほしいと思った。頬に添えられた空却の手の甲に指先から触れていき、ゆっくりと手のひら全体で覆った。
 心も、体も、つながりたい。さっきまでずっと、通じ合っていたと思っていたのに。また一方通行になって、空却の隣へと続く道が閉ざされてしまうのは嫌だった。

「それだけ、それだけが……わたし、ちいさいころから、ずっと……ずっと、こわいの……ッ!」

 空却の目の奥がぐわんと揺れたのが分かった。はその隙に首を少し上げて、マフラーの結び目をほどく。緩んだそこから首からマフラーを引き抜いて、頭の横に置いた。一気に首元が寒くなったが、体は沸騰したように熱い。

「空却くんが……したいなら、いいよ」
「は……」
「耳でも、首でも……どこでもいいよ、それで、空却くんが楽になるなら、なんでもいいよ」

 そう言いながら、はワンピースのボタンを上から二つ外す。鎖骨から少し下までが露わになると、空却の喉仏が上下に動いた。

「いちぶじゃ、ないから……」
「お、い」
「空却くんの中の、“なんでも”を、おしえて……? そうしたら、わたし、なんでもできるようになるから……。空却くんのために、なにかできるなら、なんでもしたいから……」

 自分でも、何を言っているのか分からなくなっている。それでも今度は……今度こそ、きちんと伝えたかった。空却に対する想いが、こんなにも溢れていて、もう留まれないことを。
 すると、頬に触れていた空却の指先がぴくっ、ぴくっ、と動く。まるで拒絶反応でも起こしているような、不自然な痙攣だった。

「ちげ、え……」

 そう呟いた空却は、の頬からゆっくりと手を離した。畳の上にだらりと垂れたその手はの頭に回って、ふたたび空却の顔が耳の横に落ちてくる。

「拙僧は、そういうことが、したいんじゃねえ……」
「く――」
「同じことすんのは、嫌だ。拙僧はあいつの代替品じゃねえ、拙僧だけのじゃねーと……ッ、だから、こんな……ッ、こんなことしか……っ、あ゙ァくそ……ッ!!」

 がむしゃらに引き寄せられるようにして、の体に空却の腕が巻きついた。それと同時に空却の全身が覆い被さってきて、足にも、腰にも、“男性”の体重がずしりと乗る。
 重たくて熱い……空却の体を感じている。不安と混乱が恋心とぐちゃぐちゃに混ざって、はもう、息をするのも難しくなっていた。

「お前が……っ、が、そうやってなんでも、バカ正直に受け入れっから……ッ、くそがぁ……ッ」

 長い間、空却のそばにいた。強くて、かっこいい彼の口から、そんな弱々しい声を聞く日が来るとは、思わなかった。
 は、ろうそくのあかりで揺蕩う天井を映している。自分の体の上で苦しんでいる空却になにかしたくて、は自由になった両手を、彼の背中に回した。空却の体は感極まったようにぶるぶると震えていて、それを感じたの目から涙が一粒零れた。揺蕩って見えていたのは、ろうそくのせいではなかったようだ。
 今の空却は大変な思いをしているのに、彼に包まれている感覚が、とても心地いいと感じてしまう。この時間がずっと続くのなら、ずっと抱きしめられていられるのなら……このまま彼の激情に押し潰されても構わないと思った。
 くうこうくん――と、音もなく。涙をはらはらと流しながら、唇だけで、は恋しい人の名前を何度もかたどった。

 ――「仏さんは、ずっと見とった。お前の気持ちも、ちゃんと分かってくださる」

 空却くんが……くーちゃんが、わたしにしてくれたみたいに。わたしもくーちゃんに、なにか与えられる人になりたいなぁって……ずっとずっと、思ってたの。