Episode.16
意識が揺れる。
地鳴りかと思ったが、誰かに体を揺さぶられているだけだと分かって、空却はゆっくりと目を開ける。目の前では小さな――おそらく小学生低学年くらいの頃の――が、えぐえぐと泣きじゃくっていた。
「くーちゃん……っ」
の両手は作務衣の裾を掴んでいる。小さな手の甲が真っ白になるくらい、強く強く握りしめている。助けを乞うようにぎゅっぎゅっと引っ張られるたびに、空却の体は前後に揺れた。
まだ、無邪気だった頃の――丸い瞳の中はかなしみで揺れ動いていて、瞬きをするたびに涙がぽろぽろと落ちている。水気を帯びた声で、懸命に空却を呼んでいる。過去の中だけで生きているはずのが、なぜここにいるのか。考えるよりも先に、空却は今ここで起きていることは夢なのだと悟った。
「なに泣いてんだ」
それでも……たとえ夢でも、放っておけるわけがない。が泣いているというだけで、膝をつく理由になる。
の前にしゃがんだ空却は、泣いている訳を聞こうとする。どこか怪我をしたのか、ねずみを見たのか、雷の音を聞いたのか、はたまた夢にカヨが出てきたのか――思いつくものを手当たり次第挙げていくが、は首を横に振って、新しく生まれた涙で頬を濡らしていく。
「くーちゃん……っ、くーちゃん……ッ」
の泣き顔を見ていると胸が痛む……はずだった。
作務衣から離れたの両手が、前へ伸ばされる。二本足で立てるようになったばかりの赤子のように、その姿はとてもか弱く見えた。が倒れる前に、空却は彼女の背中に手を回した。
腰をすとんと下ろして、胡座をかいた足の中にを招く。ちょうどよく収まったの体を引き寄せると、心臓の音が自分のものと重なった。小さくて、弱々しくて……息を吹きかければ、すぐに飛んでいってしまいそうな。ばいばい、と笑顔で手を振って、どこかへ駆けていってしまいそうな――との漠然とした別れを想像した空却は、彼女を抱きしめている腕の力を強めた。
「大丈夫だ。拙僧がついてる」
大丈夫。大丈夫だ――片方の手での頭を撫でながら、空却は同じ言葉を繰り返す。が落ち着くまで。涙が止まるまで。穏やかな寝息を、たてるまで。
の泣き声が次第に大きくなる。しがみつく力も強くなる。体の震えごと抱きしめるように、空却は彼女の不安に寄り添った。
「いかんでえ……っ。どこにもいかんでえぇ……っ」
「どこにも行かねえよ」
「くーちゃん……っ」
「大丈夫だ」
鼻をすするの背中を撫でる。あつくなっていく体をあやしながら、空却は自分の頭の中が濃い霧で覆われていくのを感じた。その代わりに、これは夢だ、と諭す己の存在が薄れていく。が泣いてんだ。拙僧はまだ、目を覚ますわけにはいかねえ。
じきに、の泣き声が止む。ひっぐ、ひっぐぅ、としゃっくりだけ上げるようになる。それを聞きながら、もうじき寝るかもな、と空却が思った時だった。
「――ごめんなさい」
はたとする。腕の中を見ると、そこに幼かった頃のはいなかった。いつの間にか少女の姿になっていたは髪が伸びていて、体つきも幾分かふくよかになっている。
「空却くん……」
そして……顔を上げたの目に光はなかった。
うつろを見ているにぐわんと目眩がして、空却の口の中は血の味で埋め尽くされる。の風貌も痛々しいもので、前が肌蹴た白いシャツには所々赤い染みが付いており、目の下は赤紫色に腫れて、髪もひどく乱れている。おまけに、その髪の隙間から見えるの耳は――
「ごめんなさい……空却くん……ごめんなさい……」
この光景を、何度も何度も夢で見た。汗だくになって目が覚める時もあった。幼いがどれだけ頭をちらつこうと、あの日の血の味と肉の感触は死ぬまで忘れることはない。己の弱さが今目の前にいるに牙を立ててしまった事実も、一生消えることはない。
「――っ」
「ごめん、なさい……っ。ごめ……っ、なさぁ……ッ」
名前を呼ぶと、の呼吸が変わった。ひっ、ひゅっ、ひゅッ――あの日のように過呼吸を繰り返す。空却の胸に収まっていたは、体をよじってそこから逃げようとしていた。
空却は咄嗟にの手首を掴んで前へ引き寄せる。の顔が強ばったのが分かっても、この手は離せなかった。
「逃げんなっ。俺はなんもしねえっ。お前を傷つけるような真似は二度と――ッ」
「ごめッ、なっ、さ……ッ」
「謝んじゃねえッ。お前はなんも悪くねーんだよッ!」
「ごめんなさ……っ、ごめん、なしゃ……ッ」
「ッ!!」
ひッ、との喉が鳴る。かたかたと震え始める体。今にも食われる寸前の小動物のように、は絶望的な顔をしている。はなして、と言われた方が楽だったのかもしれない。どれだけ呼びかけても、は震える声で謝罪を繰り返すだけだった。
血の味がする唾液をかき集めて、空却はそのあたりにぺッと吐き出す。何か垂れている感覚がする口元を拭えば、手の甲に血がべっとりと付いた。
「ひ、ひぅ゙……ッ。ご、め……っ、ひ……ごめ、な゙……さ……」
たくさんたくさん謝るから、もう痛いことはしないで――の心も体も傷つけた空却の耳には、そう聞こえた。
「(っ、ッ、……ッ)」
ごめんなさい、ごめんなさい――謝るだけの機械になった。触れることも名前を呼ぶことも許されず、ただ、の謝罪を受け入れることしかできない。なぜ、今になってこんな夢を見るのか。それもこれも、ここ最近で緩みきってしまった理性のせいだと思って、空却は奥歯を強く噛み締めた。
守りたい。そばにいたい。笑顔が見たい――そう願えば願うほど、の顔は悲痛の色に変わる。本来、そんなことを望む資格すらないのだと……空却は改めて思い知らされた。
――ばしゃんッ
皮膚を切るような冷たい水が跳ねる。滝から身を離し、髪から滴り落ちていた水滴を払うように、空却は頭を左右に振った。
「(あ゙ー……くッそ……)」
しかめ面で濡れた前髪をかきあげる。どのくらい滝に打たれていたのか――水の冷たさや滝の勢いに全身の感覚がなくなってきても、幻覚の中にいたが意識のあちこちで動き回るものだから、長時間滝に打たれて精神統一を試みても、まったく集中できなかった。
空却はため息をついて、滝壺から足を上げる。いっそ親父に殴られに行くかとすら考えながら、更衣室を兼ねている小屋に入った。
水を吸って重たくなった襦袢を肩から脱ぐ。タオルで髪をぐしゃぐしゃと拭いている途中で、着替えの上に置いてあるスマホが震えていることに気づいた。
「(……獄か)」
画面に表示されている文字列を一瞥して、空却は無視を決めこむ。用件はなんとなく分かっているので、出るのは気が進まなかった。
しかし、いくら時間が経ってもバイブレーションがいっこうに鳴り止まないので、「ああうるせえッ」と痺れを切らした空却はスマホを手に取った。拙僧から連絡してもめったに出ねーくせにこの野郎。
《調子はどうだ》
「なんの話だよ」
獄の第一声で予感は的中した。空却はシラを切るが、《お前な……このあいだ俺らに迷惑かけまくったこと、もう忘れたのか》と突っ込まれる。そもそも迷惑をかけた覚えはないので忘れたも何もない。
先月の祭り、不審な男、ヒプノシスマイク――タオルで髪を拭きながら、獄の話をなんとなく聞き流す。正直さっさと通話を切ってしまいたいが、次会った時の嫌味が二倍増しになる気がしたので切るに切れなかった。
《ったく……俺や十四はお前の丈夫さをよく知ってるからいいけどな。には一言言っとけよ。この世の終わりみてえな顔してたぞ》
どんな顔だよ――そう突っ込みたくなるのをぐっと堪えて、「あっそ」とぞんざいに返す。今回のことはには関係のないことだ。そもそも普段から、とは会うなと口酸っぱく言っている獄にそんなことを言われる筋合いはない。
――「なーんてねっ★」
……今思っても、なんてことはない幻惑だった。いつもならば、踏ん張って精神を保つこともできていたはずだ。それができなかった理由は空却が一番よく分かっていた。
そもそもなんであいつがナゴヤに――と考えたところで頭痛がするものだからやってられない。ろくに考え事もできない自分に嫌気がさして、祭りの日からずっと山篭りしていた。とはしばらく顔も見ていなければ、連絡すらとっていない。
《空却お前、にかっこ悪いところ見られてへこんでんじゃねえだろうな》
「はあッ!? へこんでねーわ変な勘違いしてんじゃねえッ」
《うちの事務所へデリに来るたびに、にお前のことを聞かれるんだよ》
「はぁ? なんでんなこと獄に聞くんだよ」
《お前がに連絡しねえからだろ》
「あっちから拙僧に連絡しやあいいだろーが」
そう言うと、獄に《重症だな》と失礼極まりないを言われたので、こめかみあたりに青筋が浮かんだ。いつも一言多いんだよてめえは。
裏でこそこそされるのは好きじゃない。昔からそうだった。それはも知っているはずなのに、なぜ本人ではなく何の関係もない獄を介すのか理解できなかった。しばらく迎えには行けないとは言ったが、連絡するなとは言っていない。言葉を履き違えているに空却はいらいらした。
「そんなことより、あいつは無傷だったんか。変な洗脳食らってねえだろうな」
《念のために病院に行かせたが、何の異常もなかったらしい。つか、それこそ本人に聞けよ》
「おめーが会うなって言ったんだろーが」
《会いてえ時には自分から会いに行くくせに、都合のいい時だけ俺を使うんじゃねえ》
会いてえんじゃねえ。迎えは義務だ――心の中でそう言うが、獄に言っても言い訳として受け止められてしまうのが目に見えていたので黙るしかなかった。
空却が唇を結んでいると、耳元で小さな舌打ちが聞こえてきた。
《マイクの攻撃食らっても、の名前を連呼するくらい執着してんなら、傷の件はまだ反省してねえようだな》
「は?」
《どちらにしろ、そんだけ減らず口叩けるんなら心配いらねえか。お前が相変わらず生意気だったってことはに伝えておく》
「おい、おいっ。獄待ちやがれッ。今なんつっ――ッ!」
ツー、ツー――無機質な機械音が聞こえてきて、今はもう繋がっていない獄に「くそッ!」と言い放つ。せっかく何時間も滝行をしたというのに、今の数分ですべて無駄に終わった。
「(なんだよ連呼って……ッ!)」
拙僧がんな女々しいことしてたってのか。ありえねえ。どうせ獄のはったりだ――そう思うが、意識がなかった自分よりも実際耳にしていた人間の言うことの方が信憑性は高い。情けない話、空却はマイクの攻撃を受けた以降の記憶がほぼないのだ。
――「くーちゃん……っ。くーちゃん……ッ」
……大丈夫だ、と。あやしていただけだ。まさか、それも現実でやっていたというのか。あり得ない。そもそも、はもうあんなふうに呼んだりしない。むくむくと膨れ上がる疑惑と羞恥に、空却は頭がいっぱいになっていく。
「(だっせえなくそが……)」
一人で考えるのも面倒になった空却はスマホを弄る。LINEを開いて、とのトーク画面を見れば、からのスタンプでトークは終わっていた。このやり取りをしてから、もう数週間は経っている。
本当に異常ねえんだろうな――ぼやけつつあるの顔を思い出しながら、空却は作務衣に袖を通した。
「……医者なんか信用ならねえ」
に関わる大人はろくでもない人間ばかりだという印象が昔からあるため、空却は自分自身で確かめなければ気が済まない。それにもし、あのマイクのせいで体や精神に何かしら影響を受けていたらと思うと――近くにいて守れなかった己が一番許せない。
――「空却くんっ」
……ただの安否確認だ、安否確認。顔見たらすぐ帰るっつの。最近、顔を見合わせるだけで笑うようになったの顔を追いかけるようにして、着替えを終えた空却は小屋から出た。
「(そういや、このあいだまた大量にもらっとったな)」
豪快にスカジャンを羽織って、檀家さんから貰ったたくさんの菓子折りを思い出す。がお菓子に囲まれて満面の笑顔を浮かべているのを想像しながら、いかに灼空にバレないよう棚からお菓子をくすねるかを考え始めた。
残暑も終わり、ひんやりとした秋風が体の横を通り抜ける。空却の手には名のある店の栗きんとんが入った紙袋がぶら下がっていた。棚を覗いたら同じものが二箱あったので、一つくらいなくなっていてもバレないだろうという判断だ。
「(もしも祭りのこと覚えてやがったら、忘れろって念押さねーとな……)」
押してどうにかなるものではない――ということはさておき、空却の足はの自宅へと向かう。今日は仕事が休みのはずなので、家にいるはずだ。空却はが外にでかけているという可能性を考えない。
――の様子がおかしいと感じたのは、去年のクリスマスが最初だった。
違和感が確信に変わったのはここ最近の話だ。やけに距離を詰めてくるというのか、接点を持とうとしているというのか……とにかく、から何かしらアクションを起こされることが多くなったように思う。
クリスマスのプレゼントから始まり、年始の鍋の買い出し、バレンタインデーの鬼まんじゅう、ピアスを開けたいと言ったり、体調が悪い時は引き止めたり――そのたびに、空却は充足感で満たされそうになる胸に喝を入れた。思い上がるな、と。
「(ただの機嫌取りだろ)」
空却が苛々している時、がおどおどしていることくらいは知っている。機嫌を損ねて、あの日のようなことなるのを恐れているのだろう。きっとそうだ。それ以外に理由なんて考えられない。
――「こっ、これ、ありがとうっ。大事に使うねっ」
――「ごめんね……。ごめんね……。さっき床に頭打ったよね……っ。腕辛いよね……っ。体もえらいよね……っ。体重たくてごめんねぇぇ……っ」
――「あ、頭なでられるとねっ……神経細胞が反応して、リラックス効果があるんだって……!」
――「フラペチーノはね、細かく砕いた氷をベースにして、その中にシロップとかホイップが入っとってね――」
――「小さいころから……ずうっと、だいすき……」
「あ゙あ゙ぁ゙ぁクソッ!」
通りすがった民家の庭にいた犬がびくッ、と震えた。きゅぅん、と怯えた目でこちらを見る犬と気まずい空気になってしまい、片目を細めた空却はその場から立ち去るついでに歩幅を大きくする。
距離をおくと誓った――はずだ。なのに、がずっとあんな調子なものだから、空却も気がついたら一歩、また一歩と歩み寄っていた。わざわざサカエにまで行っての誕生日プレゼントを探しに行ったり、空却の誕生日に何かしたいというのもてなしを受けたり、檀家さんから貰ったものの中で一番良い音が鳴ったスイカを届けたり、自分から祭りに誘ったり――思い出せば思い出すほど自己嫌悪が止まない。何かしら理由をつけては足が動いてしまう。それもこれも全部、がよく笑うようになったからだ。
早いとこ手ェ打たねーと――と思っているが、今もこうして手土産付きでの家に向かっていることに空却は気づいていない。
「――波羅夷?」
不意に後ろから呼び止められて、空却は足を止める。波羅夷、という苗字はめったにない。加えて、自分のことをそう呼ぶ人間に、空却は身に覚えがあった。
……ゆっくりと振り返る。そこには、空却と同じくらいの身長の女が立っている。明るいグレージュの髪を肩より上にばっさりと切ったヘアスタイルに、はっきりとした顔立ちをした女……髪型こそ変わっているが、その面影は空却の記憶の中にいる彼女と重なった。
「お前――」
「わ~ッ!! ほんとに波羅夷じゃん!! めっちゃ久しぶり!! てかナゴヤに戻ってきとったんだっ!?」
「ぜんッぜん変わっとらんね~っ! ウケる~っ!」相変わらずきんきんと鼓膜に響く声に、空却は顔を顰める。なんもウケねーよ。そう睨むが、ぺかーっと笑った彼女に背中をばしばしと叩かれていた。
平塚杏――忘れもしない、の友人。人懐っこい子犬のように周りをきゃっきゃとはしゃぎ回られて、杏がひとしきり落ち着いた頃には空却はどっと疲れていた。
「……お前もクソほど変わってねーな」
「ありがと~!」
「褒めてねえ」
「てか波羅夷、今からどこ行くの? もしかしてんち?」
久々に会ったというのにこの勘の良さ。心の中で動揺が生まれたのを隠したくて、空却はそっぽを向いた。
「……ちげえ」
「うっそだぁ~っ。こっちはの家がある方じゃん!」
「通り道なだけだ。拙僧はその先にある団子屋に用がある」
黙っていても頭の中を覗かれそうだったので、早々にここを立ち去りたいと思った空却は、「じゃーな」と会話を雑に切って踵を返した。
――が、そう簡単にいくわけもなく。
「ちょーどあたしもんち行くとこだったの! ついでだし一緒に行こ!」
一歩踏み出そうとしたところで、杏にがッ、と腕を掴まれる。引っこ抜こうとしても、しつこい雑草の根っこのようにくっ付いてなかなか取れなかった。
「放せやッ! 拙僧は団子屋に行くって言ってんだろッ」
「波羅夷はいつこっちに戻ってきたの? てかどこ行ってたの?」
「お前に話す義理はねえ」
「あたしは学校がちょー忙しすぎて全然ナゴヤに帰ってこれんくてさ~っ。とも連絡できなかったんだけど、このあいだやっとと電話で話せて――っ」
「無視すんじゃねえッ! って、だから引っ張んなッ!」
腕を組みながら杏がずんずん前進するものだから、空却も一緒に歩かざるを得ない。ぺーらぺらぺらとよく動く口が憎らしい。この場に針と糸があれば、その上下の唇を合わせて縫い付けていたところだ。
途中まで抵抗していた空却だったが、杏がの家に行くのならどうせ逃げられない、と思い直す。せめて知人に出会わないことを祈りながら、空却は杏と共に渋々の家へ向かった。
「わあ~っ。んちもぜんぜん変わっとらんね~っ」
の家の前に着くと、杏は大きな独り言を漏らす。よほどのことがないかぎり杏の相手にしないことにした空却は、彼女を置いて路地裏に入っていく。「あっ、ちょっと待ってよ~っ」と後ろから追いかけてくる声も無視した。
道の隅にはいつものように猫がいたが、なぜか今日はぴゃっと逃げていった。珍しいな、と思っていたら、「あたし、昔から猫に避けられるんだよねー……。ちょーぴえん」と後ろからついてきた杏が残念そうに言った。なるほど。逃げたくなる猫の気持ちは空却にも痛いほどよく分かる。つか“ぴえん”ってなんだよ。
「~! 杏だよ~っ! 帰ってきたよ~っ!」
玄関の前で声を張って、インターホンを連続で鳴らす杏。のことだ。杏の声を聞けばすぐに出てくるだろう。こんな時間まで寝ていなければ、だが。
「ー? ~っ」
もしかすると、後者の確率の方が高いかもしれない。杏がインターホンを何度も押すが、はいっこうに出てこなかった。
……やっぱ寝てんのかあいつ。相変わらず惰眠を貪るのが好きなに溜息をつく。インターホンごときで起きないことをよく知っている空却は、上着のポケットを漁り始めた。
「あっれぇ? もしかして留守――」
「どけ」
杏を押し退けて、空却は引き戸の前に出る。空却が合鍵を鍵穴に差し込むと、「えぇっ!?」と杏がオーバーなくらい大声を出した。
「なんで波羅夷がんちの鍵持っとんの!?」
「ガキん頃に渡されたんだよ」
「え、そんなことある? てか波羅夷、まさかそれ毎日持ち歩いてたりとか――」
「ねーよッ。たまたまだッ」
杏の引いた声に空却はぴしゃりと言って黙らせる。さすがに必要ではない時……裏山に登る時やラップバトルするときは持っていない。たまに置き忘れて持って行ってしまう時はあるが。
……いや、なんだかんだで毎日持ち歩いてんな、と空却は思い直す。それを言ったら杏がまたどんなことを言ってくるか分かったものではないので黙っておいた。
「おじゃましまーす! ~? 杏だよーっ? ついでに波羅夷もつれてきたよ~?」
引き戸を開けるなり、いの一番に家の中に入った杏は靴を脱いで家の中をばたばたと駆け回る。“ついでにつれてきた”ってなんだよ。てめえが強制連行したんだろーが。
空却が心の中で愚痴を零している間に、杏は二階へ上がっていく。ひとまず栗きんとんが入った紙袋を玄関の脇に置いて、空却はが下りてくるのをガムを噛みながら待つことにした。
「波羅夷どーしよー! いないっぽーい!」
しばらくすると、杏の声が二階から飛んでくる。空却が応じる前に、杏が大きな足音を立てながら一階に下りてきた。
「いねーのか」
「いなーい。え~、どこ行ったんだろー。今日は休みだって聞いとったから、ぜったい家にいると思ったんだけどなー」
少し前まで杏と同じことを考えていた空却は複雑な気分になる。無言でガムを膨らませながら、さてこれからどうするか、と考え始めた。
寺に帰ってもやることはない。が帰ってくるまでここで待っていてもいい。栗きんとんだけ置いていくという選択肢もあったが、それはそれで何かもったいない気もした。空却の目的はに栗きんとんを渡すことではなく、その後のの反応を見ることにすり代わっていた。
「しょーがないから出直そっかなー。こんなことなら来る前に連絡しとけばよかったぁ~」
一方で帰る気配を醸し出し始めた杏に、空却は心の中でしっしっ、と追い払う。おー帰れ帰れ。ここまでご苦労だったな、と見送る気満々の冷めた目をした。
しかし、杏はくるんっとこちらを振り向く。その口元はにんまりと引き上がっていて、空却はなんとなく嫌な予感がした。
「波羅夷、これからヒマだよね? 今からちょっとお茶しない?」
「断る」
「えーなんで~っ。おねがい~っ!」
腕を掴まれようとしたところで、ふいっと避ける空却。何度も同じ手に引っかかるかよ。ふん、と杏に向けて鼻を鳴らすと、彼女はつやつやした唇をむうっと尖らせた。
「せっかく波羅夷にいいものあげようと思ってたのになーっ」
「はっ。お前からもらうもんなんてろくでもねえ――」
話の途中で目の前に出されたスマホの画面。そこには白装束を着た笑顔満面の杏……と同じ格好をしたがピースしていた。
そして、よくよく見ればその装束は巫女装束――巫女姿のと目が合った瞬間、空却の目がぐわっと見開いた。
「んな……ッ!?」
「かわいいでしょ~っ。これ、高二の時に波羅夷のとこでバイトしたときの写真なの!」
「なにサボってやがんだ働けやッ!」
「三が日終わったときに撮ったやつだもーん。波羅夷のパパもいいよって言っとったもーん」
嫌な笑みを浮かべる杏は、「この日の写真、まだあるよ~っ」と言って画面を次々にスワイプしていった。
猫とじゃれている楽しげな、池の囲いに座って鯉を見ている、仮眠をとっている……次から次へと空却の知らないが視界に飛び込んでくる。心臓がばくばくと煩くなり、思わず息を止めた。
「波羅夷めっちゃ見とるじゃんウケる」
「てんめえぇ……ッ」
「あ、これとか可愛くない? 波羅夷はどれが一番好き?」
次は賄いであろうおしるこを飲んでいるが映る。おしるこに入っている餅を食みながら、スマホを向けられていることに気づいて目元をにこっと細めていた。
かッわ……じゃねえ、美味そうに食いやがってくそがッ……。空却は目の下の筋肉がぴくぴくと痙攣するのを感じた。
「いっぱいたーべるキミが好きぃ~っ」
「うるせえッ! つか人様の写真をエサにしてんじゃねーよ! それでもダチかッ!」
「ダチどころかちょー大親友だし!」
「どーだか! あいつはそう思ってねーかもなっ!」
「そっ、そんなことないもんッ! 大親友だもんっ! 波羅夷だって画像ガン見しとったくせに! のことちょー好きじゃん!」
「ガン見してねーわッ!!」
やいのやいのと言い合いをする。数年経っても中身は何も変わっていない杏に、空却の調子も狂っていく。勝手に熱くなっていく顔と体を冷水にぶちこんでやりたい気分になった。
「あたし、知ってるもんねっ! 波羅夷が中学の卒業式の日にのこと隠し撮りしとったの」
「はあッ!?」
「ねーねーほんとにほんとのお願いっ! お茶しながら話したいこともあるしさ! あたしが奢るし!」
このとぉーり! 頭を下げながら両手を合わせる杏に、今度は口先が痙攣し始める。奢る奢らないの問題ではないことを、杏は何も分かっていない。
それとは別に、女に頭を下げられてそれに応えないのは男が廃る。そして、このまま杏を野放しにしたら自分の知らないところで誰に何を言うか分かったものじゃない。
この誘いを断った時に生じる様々なデメリット……誰にも知られては困る情報と天秤にかけても、それよりも重たいものは見つからなかった。
「ふう~ん。波羅夷はやっぱりお寺継ぐんだねー」
なんだかんだでサカエまで歩かされ、適当な和菓子屋に入った杏は、聞いてもいない身の上話をし始めた。
地方にある大学に通っているらしい杏は、数ヶ月に及ぶ海外研修を終えて帰国したばかりらしい。そして今回、一時的な帰省でナゴヤに帰ってきて、お土産を渡すついでにの顔を見たかったとのこと。ふーん、と空返事ばかりしている空却は、すでに何杯目か分からない緑茶を湯のみに注いでいた。
「親父の倅である拙僧が住職になんのは当たり前だろーが。むしろ拙僧じゃなきゃ務まらねーっつの」
「波羅夷は一人っ子だもんね~。そりゃあ大変だ」
「そういうお前はなにになるつもりだよ」
「あたしはヘアメイクさんになりたくってさ! 専門に行ってもよかったけど、ここの大学の方が色々都合いいんだよね~」
「はあ? 都合ってなんの」
「だって遠距離は辛くない?」
いまいち話が噛み合わない。深く聞くほど興味もなかったので、空却は先ほど運ばれてきたぜんざいをスプーンで掬った。
「(ん、ここのぜんざいうめーな)」
オオスにある行きつけの和菓子屋といい勝負かもしれない。無意識にがぜんざいを頬張っている光景を想像していると、「おしるこうまぁっ!?」と目の前から飛んできた声に我に返る。想像でつくられたが消えていなくなり、現実では杏がクリームあんみつを食べていた。
「ここ入って正解だったね~っ。見た目もオシャだし、今度と一緒にいこーっと!」
……理由は考えたくないが、腹の奥からムカついたので杏を睨みつけた。「え? なに? 、おしるこ好きだから大丈夫だよ?」と杏は見当違いなことを言っている。そうじゃねえ。
「ところで、とは仲良くしとる?」
「知らねえ」
「知らんことないでしょ! 中学卒業してから、と話しとらんの?」
「それが話してえことってんなら拙僧は帰るぞ」
「ぎゃくにあたしと波羅夷が話せることなんてのことしかなくない? コスメの話でもする?」
「あ? なんだって? 米?」
ぶはーっ! と吹き出した杏。色々と文句は言いたい気分だが、空却も杏に全く用がないわけではなかったのでなんとか堪えた。
「この際だ。拙僧もお前に話すことがある」
「えーっ! 波羅夷があたしになんてめずらしーじゃん! なになに?」
「中一と中三の時の担任。覚えてるか」
杏の顔から笑みが消える。しばらくして口角だけ上げた彼女は、「うん。覚えとるよ」と静かに言った。
「拙僧と同じクラスだったろ」
「そーだね」
杏にとってはもう捨ておきたい記憶だろう。それを承知の上で、空却は話を切り出した。たとえ自己満足でも、あの頃の自分に一度けじめを付けなければ気が済まなかった。
「……あのクソ野郎がやってたことに気づいてやれなくて、悪かった」
そう言うと、杏の目がきゅっと丸くなる。すぐにぱちぱちと瞬きをしたかと思えば、ぶふッ! と口を抑えて噴き出した。
「人が謝罪してんのになに笑ってんだッ!」
「いやっ。なんかっ。ごめんっ。謎にツボってまって……ッ、ぶふぅッ……!!
数秒前の研ぎ澄まされた空気との温度差に気が抜けてしまい、空却はぐぬぬ、と喉の奥を鳴らす。目の前でひいひい言いながら笑っている杏が落ち着くと、「いやあごめんて」と軽く言った。
「あたしもまさか、波羅夷に謝られるとか思っとらんかったからさ」
「あのときは拙僧が一番お前の近くにいたろ。気づけなかったのは拙僧の落ち度だ」
「でも、あたしも周りに知られたくなくてフツーに振舞っとったし、むしろ気づかんくてよかったんだよ。あのときは。今もこうやって波羅夷に言われるまで忘れとったし、もう、ほんと、ぜんっぜん気にしんでいーよ」
あはは、と笑い飛ばす杏。が電車で痴漢された時のことを思い出して、空却は苦虫を噛み潰したような顔をする。杏のその顔が作り笑いなのか本物の笑顔なのかは、付き合いの浅い空却には分からなかった。
「てかそもそも、波羅夷が悪いわけじゃないし! あたし以外にも“されとった”子おったみたいだからさ。その子たちと手ぇ組んでそいつ訴えてやった! みたいな感じだよ」
「訴えたって……まさか――」
「アマグニさんだっけ? 波羅夷が濡れ衣着せられた時と同じ時期だったから、事務所に署名持っていった時とかちょーいそがしそーだったよ」
「てか事務所にバーカウンターとかあってマジやばかった」とまた話を脱線させる杏に向かって、空却は口を開いた。
「被害に遭ったの、お前だけじゃねーのか」
「うん。胸出てた子とかスカート短い子とかが多かったかな。あとはあいつと部活で関わりある子の何人か……ま、もう終わった話だけど」
「もしかして今まで気にしとってくれたのー?」と茶化した笑みが戻ってくる。素直に答えるのが癪だったので、空却は誤魔化すようにそっぽを向いた。
――「さ、三年生のときの、担任の先生に……頭とか肩、なでられたり……しただけ……」
……昔そう言ったの声には、嫌悪よりも困惑の色が混じっていた。あの様子だと、一体どういう意味であの男に体を触られたのか分かっていないのかもしれない。
それに、ほんとうに頭や肩を触られただけだったのか、と空却は疑いにかかる。が言っていないだけで、もっと何か別のことをされたんじゃないかと……想像するだけで腸が煮えくり返る。
「……あいつはどうだったんだよ」
「のこと? それが分かんないんだよね。あたしもその時は怖くて、人にちゃんと話せるようになったの三年からだしさ。その時にあいつに近づいちゃかんよって釘刺しといたけど……。そもそもはあいつのターゲットじゃなかったっぽいし」
「ターゲットだぁ?」
「さっきも言ったじゃん。は発育遅めだったから、あいつもキョーミなかったんじゃない?」
「からはそーゆー話、あたしはなにも聞いとらんよ」杏がそう言うなら、あの時聞いたこと以上のことはされていないかもしれない。しかし、触られた場所がどこであれ、下心ありきでの体に触れたという事実だけが重要な空却にとっては、どちらにしてもあの元教師を一発殴らなければ気が済まなかった。
「ありがとね。波羅夷」
「あ?」
「あ? じゃなくて。あたし、波羅夷に嫌われとると思ったから。気にかけてくれとったとか、意外すぎて笑うしかなかったわ」
「笑うな。つか、好き嫌いに関わらず、知人が困ってんなら気にすんのは人として当然だろ」
「波羅夷言うねえ~っ! がクーちゃんクーちゃんって懐いとる理由、なんか分かった気がする~」
「その呼び方やめろ。もうとっくの昔から呼ばれてねーよ」
「ところで、にはいつ告んの?」
また話がふりだしに戻る。空却は飲みかけていた緑茶を軽く噴きながら、ごんッ、と机に叩きつけるように湯のみを置いた。
「だからその話すんなら――っ」
「好きなんでしょ? のこと」
腹の奥で眠っていたものを無理やり叩き起された気分だ。空却が返す言葉を考えているあいだにも、杏の口はよく動いた。
「波羅夷が警察行ってからは仲良かったじゃん。もしかしてまたケンカしとんの?」
「してねえ。つか今まで喧嘩した覚えもねえ」
「中一の頃とかはギクシャクしてたじゃん」
「あれはあいつが拙僧と距離を置いたからだ」
「えっ!? そんだけで波羅夷はぷんすこしとったのっ!?」
しまった。口を滑らせた己を悔やんでいると、「おとなげな~いっ」と杏はわざとらしく口の前に手のひらを当てた。人を小馬鹿にしたようなその顔やめろ。
「もさあ、あのときはお年頃だったんだよ~。波羅夷ったら裏でちょーモテとったし、それでも仲良くするの遠慮して――」
「その態度が腹立ったんだよ。理由がなんであれ、わざわざそんなしち面倒なことをする意味が分からねえ。おまけに他人みてえに苗字で呼びやがって……」
「うちの小学校では苗字呼びがフツーだったよ? それに女社会にはいろいろあんの~。特に恋愛沙汰で気に入らんことがあると、人気のないとこで呼び出しとかざらにあるんだから!」
「んなもん拙僧に言やあ一発解決だろーが」
「分かっとらんねえ~波羅夷は」やれやれ、と肩を竦める杏にむかっとする。まるで経験者と言わんばかりの偉そうな態度だった。
「まー二人になにがあったか知らんけどさ、波羅夷がとまた仲良くできるようにあたしが人肌脱ごうじゃん!」
「必要ねえ」
「まーまーそう言わんと!」
そう言ってささっとリップを塗り直した杏は腕時計を確認する。「まだ時間はあるかな~」と独り言を呟いた後、こちらを見てにこっと笑いかけた。嫌な笑顔だ。
「波羅夷、まだ時間あるよね?」
「お前に割く時間はねえ」
「あたしじゃなくてもに割く時間はあるでしょ? いろんなお店見て回って、にあげるプレゼント選ぼーよ」
「はあ? んななんでもねー日になんで――」
「と会う口実づくりに決まってんじゃーん! 栗きんとんプラスアルファでが喜びそうなもの買ってこ!」
「んなッ……お前なんで知って――ッ」
「の家にいたときにちょこっとだけ栗きんとんのパッケージ見えちゃったから! てかほんとににあげるやつだったんだ? カマはかけてみるもんだね~っ」
こいつとは一生相入れる気がしねえ――憎らしげな眼差しで杏を見た後、空却は彼女が持ったばかりの伝票を横から強引にぶんどった。
徒歩でメイエキまで移動した後、空却は杏に連れられてゲートタワーにやって来ていた。
小綺麗な店ばかりが並んでいるので、どこもかしこも居心地が悪い。さっさと外に出てしまいたいと思う空却だが、杏が「に写真のこと言うよ? なんからあたしから波羅夷が好きだって言おーか?」と脅す(本人は厚意で言っているようだが)ので黙ってついていくしかなかった。くそが。
「ボディミストはありきたりかな~? あ、ハンドクリームとかはどう? 波羅夷、ちょっとこれ嗅いでみて!」
「くッせっ!」
「うっそぉ~っ? サボンの香り、最近流行っとるよ?」
「んじゃあこれは?」フレグランスショップにて、次々に鼻先に押し当てられるきついにおいに顔をしかめる空却。フローラルジャスミン、マンダリンローズマリー、ペパーミントアンドホワイトリリー――けったいな横文字ばかり並んでおり、結局なんのにおいがベースになっているのか分からない。いい加減鼻がひん曲がりそうだ。拷問かこれは。
「意味わかんねー……。なんでわざわざ体にこんなん付けるんだよ……」
「おしゃれだよおしゃれ! 畳のにおいもおばあちゃんちみたいでいい匂いだけどさ~」
「畳ぃ?」
「、昔から畳のにおいしとらん? 波羅夷もなんか変わったにおいするけど」
すんすん、と顔を近づけて体を嗅いでくる杏。空却自身、自分の体から放たれるにおいを意識したことはなかったが、線香の匂いがする、お香の匂いがするなど……人から散々言われてきたので、何かしら香りを纏っている自覚はあった。
ただ、から畳のにおいがすると感じたことは一度もない。強いて言うなら、もっと別の……なんとも言えないなにかだ。杏は気づいていないようだったので、このことは空却の心の中に仕舞っておくことにする。これ以上杏の冷やかしを受けるのは御免だった。
「あーもういい。出るぞ。ここにめぼしいものはねえ」
「波羅夷、だんだんノリノリになってきたねー」
「拙僧はさっさと帰りてえだけだッ!」
惣菜かお菓子――には適当な食べ物を渡しておけば間違いないのだから、こういう店ではなくデパ地下に行きたい空却であった。
しかし、せっかく店を出ても少し歩くだけで「あっ! ちょっと待って!」と杏が呼び止めるものだから、空却の足が止まってしまう。こいつまさか……この階にある全部の店見てく気か。
「ヘアブラシはどう~? の髪きれーだし!」
「櫛は縁起悪ぃだろ」
「くしじゃなくてヘアブラシ! てかそれ昔の話じゃない? 今はプレゼントにうってつけのアイテムだよ?」
ヘアケアショップにて、杏は棚に並んでいた商品を手に取って興味深そうに見ている。プレゼントにうってつけ、と言われても気が進まないものは進まないのだ。
空却が却下しても、「ほかにはなんかないかなー」と杏はめげずに店を見て回る。空却が黙って杏の後ろをついていくと、「あっ!」とまた彼女の目に何か留まった。
「バスソルトはっ? 、お風呂好きだし!」
「バスソルトってなんだ」
「入浴剤みたいなやつ! いい匂いするし、肌もすべすべになるよ! 波羅夷も買ってく?」
入浴剤、肌――その言葉だけで連想されるもの。湯けむりの中にいるのあられもない姿が思い浮かんで、空却はその光景をかき消すようにちィッ、と大きく舌打ちをした。
「え、なんで舌打ち?」
「拙僧は買わねえ」
「えぇ~っ。そーなのー? じゃああたしはこれ買おーっと」
これはにはにおいきつすぎるかなー。これはいい匂いだけどっぽくないかなー――置かれているにおいのテスターを嗅ぎ比べて、杏はいくつも種類があるバスソルトを吟味し始めた。
の好きなものは大方把握している空却だが、さすがにおいの好みまでは分からない。杏の真剣な眼差しを見て、空却はぽつりとこう言った。
「……お前、あいつが喜びそうなものぽんぽん出てくんのな」
「大親友だからねっ!」
バスソルトが入っているビンを両手に持ちながら、えへんと得意げな顔をする杏。どうやら、の趣味趣向に関する知識は杏の方が上らしい。今まで実用的なものといえば防寒具くらいしかあげたことがなかった空却も、それは認めざるを得なかった。
……こいつにはぜッッてえ言ってやらねーけどな。
ゲートタワーを出た後、空却は杏とともにメイエキ構内をぶらりと歩いていた。
へのプレゼントを買うという名目だったので、杏に渋々ついてきた。しかし、あれからバスソルトを買って満足した杏が服屋まで見始めた時は、色々と弱みを握られている空却もその場からトンズラしようかと思った。
しかし、空却が逃走する前に杏に先を越され、ああでもないこうでもないと着地点が見えない試着に付き合わされた挙句、買った服を持たされる羽目になった。結局、空却自身はへのプレゼントは何も買わなかったので、ただただ杏の買い物に付き合っただけとなった。
なんでこいつの買い物はこんなに長えんだよ――肉体的にというよりも精神的に疲れた空却は、買いたいものが買えてご機嫌な杏を睨みつけながら、新しいガムをくッちゃくッちゃと噛み始めた。
「波羅夷はどーしてに告白しんの?」
ガムを膨らませている途中で、杏はそんなことを尋ねる。空却が杏を無言で睨みつけても、彼女が物怖じしている様子はなかった。
「だって波羅夷、言いたいことはすぐに言うタイプでしょ? 告らん理由が思いつかんのだけど」
「色々事情があんだよ」
「事情ってどんな事情?」
「お前に教える義理はねえ」
「またそれぇ~? やっぱ二人でケンカしてるやつじゃん」
だから喧嘩じゃねえって言ってんだろ――喧嘩すれば仲直りすればいい話だが、今自分たちの間に蔓延っているものはそんな簡単なことで消えてなくならないのだ。再び膨らまし始めたガムはすぐにぷすっと穴が空いてしまい、舌でかき集めながら口の中に仕舞った。
「それよかお前、あいつの大親友って豪語するくせに拙僧の味方してんのはどういう了見だよ」
「え? どーゆーこと?」
なぜ杏がの好意が向いている方向に気づいていて、こちらの肩を持つのか空却には分からなかった。の好きな男を教えたのは紛れもなく杏で、杏ものことは大親友だと言っている。のことを第一に考えるならば、邪魔者である自分はから遠ざけるべきだろう。
「波羅夷を応援するイコールを応援することになるからじゃん?」
「どこをどう考えたらイコールになんだよ」
「どこをどうってフツーに考えて――って、あれっ?」
杏の目が一点に集中する。そしてスカジャンを無言でぐいぐい引っ張るので、「なんだよッ」と空却が声を荒らげると、杏は遠くの方を人差し指でぴしッと指した。
「あそこにいるのじゃないっ?」
そう言われて、空却も思わず指された方向を見る。人と人の間に目を凝らすと、一際小さな女子が視界に映った。
だ。あれは紛うことなきだ。そしてその隣には――
「(あの野郎……帰ってきたのかよ)」
要がいた。顔を見るのは中学以来だが、人の顔と名前を一発で覚える空却の目に狂いはなかった。
は要を見上げながら話をしている。おまけに、屈託のない笑顔を浮かべて、とても楽しそうにしている。それだけで今すぐあの二人の間に割って入って、だけどこかへ連れ出したくなったが、腹に力を入れてぐっと我慢した。
……獣が、唸り声を上げている。笑うな、話すな、そいつを見るんじゃねえ――腹の奥に押し込んでも、獣は容赦なくに牙を向ける。あの日からずっと仕舞い続けていたものが、がの好きな男と話しているというだけでいとも容易く檻から出てしまった。
「あれっ!? なぁんだ! かなめも一緒にいるじゃーん! おーいっ! ーっ! かな――ッ!」
心を落ち着かせる暇もなく、ぎょっとした空却は杏の肩に手を回して、その煩い口を塞ぐ。腕の中でふごふごと暴れる杏と、自分の中で雄叫びを上げる獣が重なった。今の杏の奇行がなければ、今頃あそこに乱入していたところだった。
「波羅夷なにすんのっ!」
「呼ぶんじゃねえッ」
「なんで!?」
口を押えられながらも器用に話す杏に、空却はぴしゃりと言う。あの二人がいつぶりに会うかは知らないが、せっかくの再会に水は差せない。杏が割り込めば、あの時間は壊れてしまう。の残念そうな顔がありありと目に浮かんだ。
しかし不幸なことに、杏の声が大きかったのか、要が周りに視線を配る。そして、も要に釣られるようにしてきょろきょろとし始めた。まずい。空却が杏を連れてこの場から立ち去ろうとしたところで、腕からするりと抜け出した彼女がすうっと息を吸った。
「~っ! かなめえぇ~っ! こっちこっち~っ!」
「ばッか……!」
遅かった。要とが同時にこちらを見る。完全に目が合っている。もうどう繕っても無駄だと思った。
なんてことしてやがる、と空却は杏をきッ、と睨む。しかし本人は何を勘違いしているのか、「よかったね波羅夷!」などと笑顔で言っている。なんも良くねーよ。
「おめーはなにがしてーんだよッ!」
「波羅夷とをくっつけたいのー! だから波羅夷は今日とちゃんと仲直りすんだよ? あたしたちが邪魔ならどっか行くし!」
「だから何の話をしてんだ! 邪魔者は拙僧らの方だっつのッ!」
「え? なんで?」
はて、と首を傾けられて、さすがに杏をはっ倒したくなった空却。それだけのことを考えていて、なぜ自身が望んでいることが分からないのか。好きな男と一緒にいたいのは当たり前のことだろう。
「つっ立っとらんではよ行こ!」そう言った杏によって腕をぐいぐいと引っ張られる空却。この力に抗えないことは中学の頃から分かっている。そして、ついさっき杏に貼ったばかりの“の大親友”という肩書きをべりっと剥がした。昔も今も、てめーはただのトラブルメーカーだ。
「もぉ~っ。二人でメイエキに来とるなら来とるって言ってよね~っ」
クソ最悪だ。
たちと合流した杏はにこにこ笑いながら、要の背中をばしばしと叩いている。要も要で、顔色一つ変えずに杏の挨拶を受け入れていた。相変わらず無駄に体幹の良いやつだ、とはたから見た空却は思った。
「(……んで、こいつは)」
杏が乱入してきてから要と少し距離をおいたは、必然的に空却の隣にいた。気まずそうな顔で要と杏を交互に見ては、杏に対して何か言いたそうに口を開けたり閉じたりを繰り返している。金魚かよ。
……少し、見つめすぎてしまったのかもしれない。不意に顔を上げたと目が合うと、顔を強ばらせてさっと俯かれてしまう。こんな態度をされるのももう慣れた。空却は今更どうとも思わない。
「あん、ナゴヤに帰ってくる前に寄り道するって言っとらんかったっけ」
「んちに行っとったの! でもがいなかったからメイエキでぶらぶらしよーってなって!」
「波羅夷と?」
要の問いかけに、杏は「そーそー!」と呑気に笑っている。そして、要の目線がこちらに向けられたことに気づいた空却。眼をつけられていると感じてひどく気に食わなかったので、ガムを噛みながら不本意そうにこう言った。
「……道歩いてたらこいつに拉致られたんだよ」
「同意の上じゃない? あ、今日のお礼にさっき見せた写真送っとくね~!」
「写真のデータ……?」隣にいるが小さく呟く。おい余計なこと言うんじゃねえ。空却の視線に気づかない杏は、涼しい顔をして要に話しかけている。
「てか、明日帰るって言っとったかなめがなんでナゴヤにいんの? と買い物してたの?」
「まぁ……そうだね」
「あんちゃん、あやしいことはしとらんからねっ。なんにもしとらんからねっ」
「え? なにが? てかなんであたしのこと誘ってくれんかったの!? あたしもとショッピングしたかったんですけど!」
「はばちょはんたぁ~いっ!」と声を大にしてぼやく杏。ついでに、頭一個分違うの後ろに回ってぎゅっと抱きしめたので、空却のこめかみがぴくっと震えた。
「こ、今度は一緒に行こうね」「今度っていつー? あたしたち、年末には地方に戻っちゃうから早めがいい~っ」すっかり二人の世界ができあがっており、まるで女子の園だった。
「(大人しく収まりやがって……)」
“あやしいこと”ってなんだよ。それ言う時点で下心あんの見え見えなんだよ。つかてめーはさっさと離れろ。こっちは女子同士の抱擁なんざ見たかねえっつーの。お前も満更でもねえ顔してんじゃねえ。
目のやり場を失った空却は別の方を見ながら、ガムを奥歯でぎりぎりと捏ねた。味も水分も抜けてからからになった塊を舌で転がしたところで、「波羅夷」と声がかかった。要だ。
「久しぶりだね」
「……おう」
「ところでそれ、あんの荷物?」
それ、と要に指されたものは空却が肩から提げているショッパーたち。昔よりも身長が伸びた要に見下げられて、空却は鋭い眼光で要を見つめ返した。
「拙僧がこんな女物買うと思うか」
「そういうイメージはあんまりないかな。杏の荷物は俺が持つよ。俺が持っとるのは那須野のものだから――」
要が肩から荷物を下ろしたところで、空却はそれらを丸ごと奪い取る。代わりに杏の荷物を要に押し付けると、彼も大人しくそれを肩にかけた。
女子二人に視線を配るが、まだぺちゃくちゃと話をしている。しばらく終わりそうにない雰囲気を察して、空却は新しいガムの封を開ける。口の中に入っているものをちり紙に包むのも面倒だったので、そのままごくんと飲み込んだ。
「……あんの誕プレを選びたくて、俺が那須野のこと誘ったんだよ」
「なんの話だ」
「俺と那須野が一緒にいるの、気にしとるかなと思って」
「クソほどのキョーミもねえ」
拙僧はお前のそのすかした目が昔から気に食わねーんだよ。借りはあるがそれはそれ。雑談をするつもりはなかったが、要はなぜか話す気でいるようだった。
「波羅夷はもう、ずっとナゴヤにいるの」
「さぁな。つか、お前も拙僧がナゴヤから出たこと知ってんのか」
「うん。那須野から話は聞いとったから。波羅夷がナゴヤに戻ってきてくれてよかった」
なにがよかったんだよ。拙僧がどこにいようがお前には関係ねーだろ。要の言うことがいちいち癇に障ってしまって、堪忍袋の緒が伸びきってしまう。
このまま要のペースで冷静に話せそうになかったので、空却は会話の流れを変えるべくこちらから話を振った。
「お前はしばらくこっちにいんのか」
「うん、大学の授業もあるからね。年末が近くなったら、あんと一緒に地方に戻るつもり」
「はあ? なんであいつと一緒なんだよ」
「俺とあん、通ってる大学が同じだから」
「那須野から聞いてない?」と首を傾げる要を見て、空却は顔の片側が引き攣る。あの女……とことん他人の恋路の邪魔をしやがる。まさかわざとか。空却は未だに戯れている女子二人を見る。と杏は相変わらず仲良さげに見えるし、和気あいあいと何かしら話をしている。
そうしているうちに、杏と目が合った。こっち見んな。あとにやにや笑うんじゃねえ。
「ねーねー。メンズ同士でなんの話しとんのー?」
杏はの頭の上に顎をこつんと乗せながら尋ねてくる。おい、んなことしたらただでさえちっせえのにもっと小さくなっちまうだろーが。やめろや。
しかし、は何も言わずに要を見上げているので、空却はちっとも面白くなかった。もしもの視線が糸でできていたのなら、それをぶちっと千切っていたところだ。
「ただの世間話だよ。それで、あんは波羅夷との買い物は終わったの」
「うん! とかなめは?」
「終わったと言えば終わったけど……」
要もまたに視線をやる。すると、なぜかは首を横にぶんぶんと振っており、明らかに何かある様子が窺えた。
「……そうだね。俺たちも今から帰ろうとしとったところ」
「そんじゃ~っ」
から離れた杏は、要の腕をがしっと掴む。要の体の重心が杏の方へ寄ると、彼女はにこーっと笑って要と自分自身を交互に指した。
「あたしたち、これからちょーっと寄るとこあるから! 波羅夷はのこと家まで送ってあげてね!」
「はッ?」
「えっ」
空却との声が重なる。思わず空却がを見ると、もまた空却を見上げており、視線が交わってしまった。空却がさっと顔を逸らすと、そこには“あたしに任せて!”と言わんばかりの杏がぱちんっとウインクをしていた。
「だってえ~、もうだいぶ暗いし危ないじゃーん? も波羅夷いた方が安心だよねー? ね~っ」
「え、えっと……っ」
「俺もその方がいいと思うな」
“俺も”じゃねーよ。どの顔して言ってやがる。こいつはてめーと帰りてえんだよ。つか好きな女なら一緒に夜道歩いてやれや。
空却は横目でを見る。は俯いたままもじもじするばかりで、自分からアクションを起こそうとしない。お前もお前で要と帰りたいって言えよ。
「拙僧は送らねーぞ。んな暇ねえし」
「えッ……」
「ちょっ……なんてこと言うの波羅夷っ」
今から帰るだけなので暇も何もないが、こうして突き放さなければ、杏に無理矢理くっつけられるのは目に見えている。杏がこそこそと小声で何か言っているが、空却は知らないふりをした。
これでいいだろ――そう思った空却は再びを見る。そこには要と一緒に帰ることができていきいきとしているがいるはずだったのに、顔色が悪いしかいなかった。なぜだ。空却は眉をひそめる。
「波羅夷、このあと用事あるの」
「ねえ」
「なら、那須野のこと――」
「今そういう気分じゃねーんだよ。だからお前がこいつ送ってけ。このじゃじゃ馬が邪魔なら拙僧が引き取るが」
「え!? かなめ、あたしのこと邪魔なの!?」
「いや、俺は邪魔だと思ってないけど……」
この二人とは昔から話が上手く噛み合わない。架け橋であるも、今は会話に参加しようとしないのであてにならなかった。要も要で「あんはここにおっていいよ」と言っており、のことを少しも気にかけない。
……まさか、こいつ。
「おい要……。まさか拙僧に譲ってんじゃねえだろーな」
「譲る……って、なにを?」
「とぼけんじゃねえ。んなことされても拙僧は一ミリも有難いと思わねーから余計なことすんな」
「俺は那須野と波羅夷が一緒の方がいいと思って――」
「だからそれが余計なことだって言ってんだよッ」
「あーはいはいっ! もーなんで波羅夷はケンカ腰なのさぁ! そんなに言うんだったら四人で一緒に帰ろ! そうしよ! ね! みんな地下鉄でいいっ?」
地下鉄――その単語が聞こえてきた瞬間、ようやくが顔を上げた。「あ、あんちゃ……」と小さな声で杏に話しかけようとしているが、彼女は全然気づいていない。
「地下鉄ってどこから乗るんだっけ?」「一回外に出てから階段下るんだよ」などと要と話しており、このままではほんとうに電車に乗ることになってしまう。
「(……痴漢に遭ったこと、こいつらに言ってねーのか)」
空却がを見つめていると、視線に気づいたがこちらを見上げてくる。は小刻みに首を横に振っており、二人には言わないで、という無言のメッセージを伝えてきた。
「(このまま黙っとっても、お前が辛いだけだろーが……)」
と要を二人きりにさせるために、杏をどこかへ連行する方法を考えていた空却だったが、をこの場から連れ出すという選択肢が増えてしまった。は杏に何か言うのを諦めて、幼馴染の二人に今後どうするかを任せてしまっている。
なんで何も言わねーんだよ。乗れねーならちゃんと言えよ。このままだとお前、電車で帰ることになんぞ。それでいいのかよ。なあ。おい。黙ってねーでなんとか言えや。
「(……っ、あぁくそッ!)」
我慢の糸がぷちんと切れる。の腕をひっ掴むと、驚いた顔をしたと目が合う。拙僧のせいじゃねえ。今回は何も言わねえお前が悪いんだからな。
空却がの腕をぐっと引いて歩き始めると、は少しバランスを崩しながら足を動かした。「波羅夷やるぅ~!」と背後から聞こえた野次を聞いて、後ろを振り返った空却は二人に向かって中指をぴッ、と立てた。
メイエキからカミマエズに向かって歩いていく。途中でオフィス街であるフシミを通ると――もう日が暮れたせいか――至るところの飲み屋が繁盛していた。凍てつく夜風を受けつつ熱気がこもった人の声を聞いていると、体温も良い塩梅となっていく。
少し前にの腕を解放した空却は、隣を歩くに向かって口を開いた。
「まだ乗れねーのか」
主語がなくても伝わったらしい。空却の顔を見上げたと思えばすぐに下を向いたは、「うん……」と小さく頷いた。
「せめてあいつらには話しとけよ」
「話すタイミングが分からんくて……」
「さっきも十分話せただろーが。つか、ダチなんだからタイミングなんざ気にしなくてもいいんだよ」
「う、うん……。そうだね」
分かっているような、分かっていないような。おそらく、後者の割合の方が多いであろう声で相槌をうつ。言いたいことがあんなら言えよ、と空却は心の中で愚痴を零した。
「空却くんは、よかったの……?」
「なにがだ」
「あんちゃんともっとお話したかったんかなぁって……」
「お前の目ぇイカれてんのか。それにさっきも言ったろ。拙僧は勝手に連れ回されたんだっつの」
話が変わった挙句に変なことを聞いてくるは、「そ、そっか……。空却くん、昔からあんちゃんと仲いいもんね……」などとまたよく分からないことを呟いている。あれのどこが仲良いんだよ。
わざわざ突っ込むのも馬鹿馬鹿しいので、空却は会話を広げることなく無言で歩き続ける。ようやくオオスに到着し、カミマエズの駅に続く地下への階段を一つ見かけたところで、が「え……?」と声を漏らした。
「空却くん、どこ行くの……?」
「どこって、お前の家以外にねーだろ」
「えっ。お、送ってくれるのっ?」
「むしろ今までなんだと思っとったんだよ」
「わ、わからんかった……。それにさっき、そういう気分じゃないって言っとったから……」
「あぁ? 何の話だ」
今日は特に会話が成立しない。本当は要と一緒にいたかったであろう……それがこんなことになってしまって、本人も残念がっているに違いない。まあ、最後まで何がしたいのか分からなかった杏と要ももちろん悪いのだが、そもそも意思表示をしなかったにも非はあると思っていた。
「……お前よ」
はすぐに目を合わせてくる。少し前までは、顔すらまともに見なかったというのに。電灯の光に照らされてきらきらとしている澄んだ瞳を見つめながら、空却は言葉を続ける。
「自分からもっと行動しねえと、欲しいもんも手に入らねえんじゃねーの」
相手も人間だ。ひとところにずっと留まっているわけじゃない。自分から声を上げて捕まえておかないと、目を離した隙にどこか遠いところへ行ってしまう。それは心も同様だ。
そう言っても、いまいち理解できていない様子のは微かに首を傾げている。こいつには皆まで言わねーと伝わらねーな。はあ、と空却は大きな溜息をついた。
「積極性がねーんだよ積極性が」
「せ、積極性……?」
「やりてえことがあんなら、頭使うよりまず先に口と手と足を使いやがれ。てきとーに動かしてりゃあ、いづれはどうにかなるもんだ」
「そう、かなぁ……?」
の心の扉が微かに開いた気配がする。の……眩いばかりの好意を向けられている相手を思いながら、空却は押し殺した声でこう呟いた。
「……大丈夫だろ。お前なら」
あいつと相思相愛なんだからよ――そう続くはずだった言葉は、どうしても言えなかった。
いつも通り、空却はを家の前まで送り届ける。玄関に入ると、栗きんとんの入った紙袋が隅の方にぽつんと放置されていた。
そういやこれ置きっぱだったな、と空却が思っていたら、も紙袋の存在に気づいたらしい。「あれ……?」と呟きながら、ゆっくりとそれを持ち上げる。紙袋の中身を見ると、「わぁっ」と嬉しそうな声を上げた。
「栗きんとんだぁ。どうしてこんなところに――」
「拙僧が持ってきた」
「えっ!? ご、ごめんねっ。中見てまった……っ」
「お前宛てだから気にすんな」
案の定、は目を丸くする。さて、ここからやりとりが長いのだ。どうを丸め込むか考え始めた空却の頭に、ふと昔のがたったったっ、と足元に駆けてきた。
――「え! いいのっ? 栗きんとんもらってもいいのっ? ありがとうくーちゃんっ。あっ、そうしたら、栗きんとんをはんぶんこしていっしょに食べよう? わたし、お茶いれてくるから、くーちゃんは先にすわって待っとってねえ~っ」
……なんて言うだろーな。昔なら。
在りし日のを思い出して、空却は遠い目をする。成長したといえば聞こえはいいが、空却としては以前のような――人の話は聞かないが、人の好意は素直に受け取る――の方が色々と楽だった。
それに、あの頃はが望んでいることが手に取るように分かった。今はもう、顔どころか口にも出なくなってしまったが――
「いいの……?」
の声が玄関に通る。声こそ小さかったが、それでもたしかにとの間にあった溝がほんの少しだけ浅くなった瞬間だった。
「栗きんとん、ほんとうにもらってもいいの……?」
改めて、は尋ねる。聞き間違いではないことはの見開いた目が証明していた。状況を受け入れている間に喉が渇いてきて、我に返った時に空却はようやく生唾を呑みこんだ。
「……おう」
空却が答えると、の顔がぱっと華やぐ。かと思えば、顔全体に力がきゅっとこもって、唇を固く結んだ。それもすぐにふっと力が抜けて、今度は息を吸ったり吐いたりを繰り返している。百面相、という文字が空却の頭を過った。
「え……えっと、えっとね……」
今ほどの頭をぱかっと開けて覗きこみたいと思ったことはない。の口から吐き出される息が目に見えるくらい見入っていると、は勢いよく顔を上げた。
「くっ、栗きんとんっ、はんぶんこして、い、いっしょに、食べたりとか……するの、とか、ど、どうかなぁ……?」
……また、都合のいい夢をみているのかと思った。
目の前にいるは間違いなく本物だ。拙い日本語で、自信なさげで……こちらをまっすぐと見つめるが、手を伸ばせば届くところにいる。
これだ。こういう態度が、普段のと違うのだ。びくびくしているくせに、開いた距離を縮めようしてくる。こいつは一体何を企んでんだ、と空却が返事するのを忘れていると、徐々に俯き始めたがぼそぼそと言った。
「や、やなら、無理しんでも――」
「嫌じゃねえ」
空却が食い気味で答えれば、ぱっと顔を上げたの目に光が灯る。その眼差しが幼いのものと重なって、空却はぐ、と喉奥を締めた。
……スイカの時と同じだ。一人で食いたくねーんだ。こいつは。別に、付き添う相手は誰でもいい。なあ、そういうことだろ。自惚れる前にの行動に意味を持たせた空却は、細く息を吐いた。
「……なら食うか」
「うんっ。うんっ。いっしょに食べようっ。あっ、それならわたし、あったかいお茶いれてくるねっ。空却くんは先に座って待っとってねっ」
返事も聞かずに家の奥に消えていった。ぱたぱたと忙しない足音を聞きながら、上がり框に腰を下ろした空却は靴を脱ぎ始めた。
「(なにやってんだよ……)」
こんなことしとる場合じゃねーだろ――それは自分自身に言ったことであり、にも言えることだった。が誘ったからと言い訳をして、との関係の変化に見ぬ振りをしている。近くなればなるほど、今度こそがそばから離れるのを許さなくなる。
それに、今日はが待ち望んだ一日だったはずだ。好きな男ともっと一緒にいたかったはずだ。余計な邪魔が入ってもがあんな調子なので、空却は正直理解に困っていた。
――「年末が近くなったら、あんと一緒に地方に戻るつもり」
……いいのかよ。お前らはそれで。
が踏み越えた一線が宙に浮遊している。これ以上近づくな、と定めていたものがなくなっている。距離をおかなければならないと分かっているのに、いざと対面すると、体が言うことをきかなくなる。
……やりきれねーな。家に上がった空却が居間に入ると、机の前で正座をしたが机の上にある何かをじっと見つめていた。
「あっ、空却くんっ。ちょうど今咲き始めたよっ」
咲いた? なにやら興奮しているを見て、空却は机の前に腰を下ろした。
見れば、透明なポットの中で色鮮やかな花がゆっくりと花弁を開いている。ポットの傍には空却も見覚えがあるパッケージがあり、「それ、」とだけ口にすると、はうん、と頷いて嬉しそうに口を開いた。
「お誕生日に空却くんがくれた工芸茶だよ。使うのもったいなくて、ずっとしまっとったの」
「へえ」
「きれいだねぇ。お茶の中でお花が咲くんだねぇ」
「そーだな」
ほんとうに……綺麗だと思う。
やわらかく緩められた口元と、とろんと下がった目尻。はうっとりとした表情でポットの中にある花を覗き込んでいる。果実のような赤い花と白い小花が縦に連なって咲いており、見た目も華やかだ。直感で選んだので花の名前は知らなかったが、パッケージの中に入っている説明書を見ると、千日紅と白百合とだけ書いてあった。
「(よくもまぁ飽きずに見とんな)」
お湯を注ぐために使ったであろう小さなやかん……その横に置いてある栗きんとんのことは、今だけの頭の中から抜け落ちているだろう。
……に気づかれないように、空却は机の下へ栗きんとんの箱を移動させる。工芸茶がよっぽど気に入ったらしい。完全に咲ききった花を鑑賞し始めたは、ポットを机の上に置いたままくるくると回している。
「……そういや、祭りの話だがよ」
空却がそう切り出すと、ぱちんと夢から醒めたようにポットから目を離す。そして、待ってましたと言わんばかりにの体がこちらに向かって前のめりになったので、空却は一瞬息を詰まらせた。
「あれから大丈夫だったっ? 体えらくないっ? 病気とかじゃなかったっ?」
「わッ……かったから一気に質問すんじゃねえ。拙僧は大丈夫だ。つかそんなことより――」
何か言ってたか――それだけ尋ねると、は首を傾けた。
「空却くんが……?」
「あぁ」
「倒れちゃったときに……?」
「そうだ」
「えっと……なにか言っとったのは分かったんだけど、あんまり聞きとれんくて……」
「なら全く聞いてねーんだな」
「うん……。ごめんね……」
「謝んな。聞いてなけりゃあそれでいい」
ひとまず男のプライドは守られた空却は胸を撫で下ろす。は、ほんとうに? といった顔をしていたが、数分もしない間に工芸茶へとふたたび興味が移った。
「工芸茶って冷めたほうがおいしいのかなぁ……? それともあったかいほうがいいのかなぁ」
「言っとくが、茶葉自体はふつーの緑茶だからな。飲む人間の好みだろ」
「そ、そっか。空却くんはどっちがいい……?」
「どっちでもいいが、いれたばっかなら熱くて飲めねーんじゃねえの」
「あっ、そうだね。舌やけどしちゃうね」
は自分自身を笑うようにえへへ、と小さくはにかむ。久々に心臓がぎゅッと締め付けられたように苦しくなった空却。に呆れたふりをして壁の方を向いた。首から上がひどく熱い。
「あれ? わたし、栗きんとんどこおいたっけ……? あれ……?」
ようやく栗きんとんの存在を思い出したが机の上を見渡す。空却は机の下に潜り込ませた栗きんとんを足の間に滑らせ、それを隠すように胡座をかいた。
「湯沸かすときに台所に置いてきたんじゃねーの」
「あっ……そうかもしれんっ。ちょっと取ってくるねっ」
「栗きんとんはあとでもいいだろ。とりあえず茶だけ飲めや。初めてだろ、工芸茶」
「う、うん」
「こん中にある花を見ながら飲むのが粋なんだと」
立ち上がる寸前だったはすとんと腰を下ろして、「そうだね、まずはお茶から飲むのがいいね」と素直に頷いた。栗きんとんを隠したのは自分だが、こいつは本当におめでたいやつだな、と空却はつくづく思う。
「まだだいぶ熱いねぇ……。もう少し待ってようかなぁ」
お花きれいだねぇ、お茶の中で咲くなんてふしぎだねぇ――ついに花を鑑賞しながら独り言を言い始めた。花に話しかけている危ない女にも見えるが、自身がとても楽しそうだったのでわざわざ指摘はしなかった。
工芸茶を見つめる穏やかな横顔……そんなを見ながら、しばらくはこのままだろうな、と息をついた空却は、机の上でとん、と頬杖をついた。
