Episode.17



 緑色の葉っぱが橙や黄色に色づいてきた今日この頃。朝と夜だけではなく日中も肌寒くなってきたので、そろそろ冬物や防寒具を出そうと、は朝から張り切っていた。
 珍しく早起きをし、朝ご飯もしっかり食べた。さていざ、と衣装ケースが仕舞ってある押し入れを開けてすぐ、はぽかんと口を開けた。

「(去年、あんな高いところに仕舞ったっけっ?)」

 押し入れの一番高いところにすっぽり収まっている衣装ケースを見上げて、は呆然とする。お立ち台に乗って背伸びをしても、ぴんと伸ばした指は衣装ケースの表面をほんの少し掠めるだけだった。
 ……そこで思い出す。去年はたしか、近所に住んでいるおじさんが回覧板を回しに来たついでに、衣装ケースを出してくれたのだ。邪魔にならないように、と押し入れの高いところに入れ直してくれたのを覚えている。
 そのときのも衣装ケースを出してくれた感謝の気持ちでいっぱいで、来年のことなど何も考えていなかった。まさかこんなことになるとは。

「(押し入れに乗れば出せるかな……?)」

 ものは試し――は押し入れの二段目へ足をかける。勢いをつけてなんとか乗り上げることに成功するが、体制はかなりきつかった。押し入れの狭いスペースの中にしゃがみこんでいるだけだが、そこから立ち上がろうものなら、すぐにバランスを崩して畳の上にまっしぐらだろう。
 こんな状態で押し入れの一番上にある衣装ケースを出すことなど到底無理な話だ。早々に諦めたは、再びお立ち台の上に戻ってきた。

「(だれかに手伝ってもらわんと……)」

 そう考えたとき、まっさきに頭に過ぎった顔――いつもならば、忙しいだろうし、だとか、迷惑だろうし、だとか考えてしまうが、はこのあいだ空却が言っていた言葉も一緒に思い出していた。

 ――「……大丈夫だろ。お前なら」

 あの瞬間、背中をとん、と押された気持ちになった。先日言われた野山の言葉にももちろん勇気は出たが、想い人である本人に言われると、羽が生えたように体が一気に軽く感じた。今のわたしならなんでもできる――そんなことを思えるくらいに。

「(よしっ)」

 はさっそく空却に電話をかける。いつもなら三コール聞かないうちに声が聞けるのだが、今回はなかなかコール音が鳴り止まない。
 ……たくさんの勇気に溢れていた胸が、だんだんと不安に変わっていく。いつ切ろうかと悩んでいたところで、突然コールがぶつっ、と途中で切れた。

《なんだ》
「ひぇぁっ」
《あ?》

 不意打ちで空却の声を聞いてしまい、変な声を上げてしまった。「な、なんでもないよっ」と取り繕いながら、すう、はあ、と息を整えた。

「い、いそがしいときに電話してごめんね」
《別に忙しかねーよ。で、なんだ》
「う、うん。今日ね、衣替えしようと思っとって、」
《へえ。お前にしちゃあ朝早えと思ったわ》

 お前にしちゃあ――その言葉が胸にじんわりと広がっていく。空却くんが気にかけてくれとる、と勘違いしそうになり、「そ、そうなの……。あさはやいの……」と幼稚な返事になってしまった。

「あっ……そ、それでねっ。衣装ケースを出そうと思ったら、すごく出しにくいところにあって……」
《出しにくいところだぁ? 自分で仕舞ったんなら出すくらいできるだろ》

 ごもっともだ。一人では衣装ケースが出せない理由を説明すると、《へー……》と空却はなんとなく納得してくれた。あほかお前、という心の声も一緒に聞こえてきたような気もしたが。

「それで……もし時間があいとったら、衣装ケース出してほしいなぁ、って……」
《電話かけてきた用件はそんだけか》
「う、うん」

 ……無言。あまりにも静かだったので、は一度スマホを耳から離して通話が切れていないか確認してしまった。通話時間の秒数が刻まれているのを見てから再びスマホを耳に当てると、はあ、と空却のため息が聞こえてきた。

《お前……頼る相手が違うんじゃねーの》
「え?」
《他に適任がいるだろって言ってんだ。近所に住んでるやつとかよ》

 ぎくり、との肩が震える。たしかに、わざわざ寺からここまで空却を歩かせてまで衣装ケースを出しに来てもらうのもおかしな話だ。空却が言う通り、去年と同様、近所の誰かに手伝ってもらえばいい。
 しかし、すべては空却と会う口実のもと動いているので、理由を言うに言えないだった。

 ――「波羅夷は自分の気持ちを正直に伝えた女の子を、これから先、邪険にするような男じゃないよ」

 このあいだ言われた、野山の言葉を思い出す。言わなきゃ。伝えなきゃ。黙っていたり、引き下がるだけじゃなくて、自分の気持ちを、ちゃんと、空却くんに――空却に聞こえないように深呼吸をしたは、素直に、正直に、今思っていることを伝えた。

「空却くんが、わたしにとって一番頼れる人だから……」

 ……再び無言。今度はさっきよりも倍長い時間無音になって、は心臓をぎゅうぎゅうと握りつぶされている気持ちになった。
 あまりにも沈黙が長いので、言わんければよかったかも、とが後悔し始めたときだ。

《……今からそっち行くから待ってろ》

 一つ一つの音を噛み殺すように言われ、ブツッと切れた通話。途端に、はあぁ~っ、とは全身に纏わせていた緊張をゆるゆると解いた。突然あんなことを言ってしまって変に思われなかったか心配だったが、そんなことよりも達成感が優に上回っていた。

「(空却くん、今から来てくれるって)」

 自分の気持ちも伝えられたし、空却くんも来てくれる――すっかり浮かれてしまったはえへへ、と笑いながら、畳の上に横になってころころと体を左右に転がした。







 通話を終えて数十分後、空却が家にやってきた。玄関で出迎えて早々、「衣装ケースはどこにあんだ」と聞かれたので、は自分の部屋がある二階へと案内する。

「(空却くんが二階に上がるの、久しぶりかもしれん……)」

 最後に上がってくれたのはいつだったっけ――ひとまず部屋は綺麗にしておいたし、見られて困るものも仕舞ったので大丈夫なはずだが、少し恥ずかしい。しかし、自分で呼んでおいて今更お帰り願うこともできないので、は覚悟を決めた。
 さて、空却を部屋に招き入れて、二人で開いた押し入れの前に立つ。

「んで、出すのはどれだ」
「あそこにあるのと、その隣のと……あと奥にももう一個あるんだけど……」

 は衣装ケースを指しながら説明する。冬服はかさばる上に防寒具もたっぷり入っているので、出すものが多いのだ。話しながら、はだんだん空却に申し訳がなくなってきた。

「うっし。んじゃあやるか」

 それでも空却はやる気十分で、文句一つ言わない。作業の邪魔だと言って脱いだスカジャンは足元にばさっと落とされたので、は踏まれないところに寄せておいた。スカジャンの下に隠されていた作務衣は冬仕様なのか、普段のものとは違って袖があるタイプだった。
 いつものとちがうの着とる、とが思ったのもつかの間。そんな袖も邪魔だと言わんばかりに空却は豪快に肩までぐっ、とめくり始めた。

「(わああぁぁ……っ!?)」

 またしても不意打ちを食らったは、空却から素早く視線を逸らす。心の準備ができたところでゆっくりと空却を見るが、肩までめくりあがった袖からは逞しい腕がさらけ出されている。は目のやり場にとても困った。

「そこ、邪魔になっから退いてろ」
「う、うんっ、うんっ。どいとるねッ」

 裏返った声で返事をしたは、畳んで置いておいたスカジャンの隣で体操座りをした。そうしているうちにも、空却は押し入れの二段目に足をかけて「よっ、と……」と乗り上げていた。

「(うで……。空却くんのうで……)」

 空却が力を入れるたびに、腕の筋肉が固く張って、よりいっそう逞しく見える。それを見たは、なんとなく自分の二の腕を触ったり摘んだりしてみる。筋肉はほぼない。あるのは、薄い皮膚と指二本で摘めるくらいの脂肪だけだった。
 空却もなにかしらトレーニングをしているのかもしれないが、それ以前に男女の差を見せつけられたような気がして、の顔は熱く火照る。中学の頃、男子の水着姿を見て黄色い声を上げていたクラスメイトたちのことを思い出した。今なら、彼女たちの気持ちが痛いほどよく分かる。

「(あ、あんまり見ちゃかんね……)」

 なんとなく見てはいけないものを見ている気分になったが俯こうとしたとき、ごとんっ、と大きな音がした。見れば、空却の手によって次々に衣装ケースが畳の上に積まれている。押し入れの二段目に乗っている空却は、片手だけで押し入れの縁を持って体を支えながら、もう片方の手で衣装ケースを引き出しては畳の上に落とすように置いていた。
 そうして、あっという間に衣装ケースが三つ積み上げられて、はわあぁっ、と歓喜する。ぴょんっ、とお立ち台を使わずに畳の上に降りた空却は涼しい顔で、「これでいいか」と尋ねる。もちろんいいに決まっている。こんな短時間でこんなにもすんなり出してくれるとはも思っていなかった。今すぐにお礼を言いたい。ただ――

「う、うん。大丈夫だよ。ありがとう空却くん……」

 はぼそぼそとした声でお礼を言った。というのも、めくり上がっている袖が気になって――厳密には晒されている腕の方だが――空却と目が合わせられないのだ。心をこめてお礼を言いたい気持ちはあるものの、視界の端でちらちらと見える肌色が胸をざわつかせて、上手く言えなかった。
 空却からの返事はない。どことなく不機嫌そうな空気を察したが顔を上げようとしたとき、空却の足がどすどすと音を立てた。

「人に感謝を伝えるときは目ェ見て言えや」
「っ、ぇえっ……!? わあぁ……ッ!?」

 顔を上げた瞬間、空却の顔がアップで目の前にあったことに驚いて、は反射的に一歩後ずさる。そのとき、畳の目にスライドされるように足の裏がつるんっ、と滑ってしまった。
 重心が傾く。体が倒れる瞬間、空却の焦ったような顔が映った。が転倒の衝撃に耐えるように目をぎゅっと瞑ったとき、正面から良い匂いがぶわっと飛び込んできた。

「ぁ、いたぁ……っ」

 どすんっ、と腰あたりに痛みが走る。ただ、頭から落ちていったわりには後頭部はなんともない。痛いどころか、畳の感触とはまた別の……柔らかくて温かい感触に包まれていた。

「(ぁ……)」

 が今見ているのは天井……そして、空却の顔。視界の端には空却の腕があり、彼の手が頭を守ってくれたのだと分かった。
 ありがとう、とがお礼を言う前に、目の前の景色がぐわんと歪む。歪んだ先には、数年前の空却がギラギラとした目でこちらを睨みつけていた。

 ――「聞いとんだろうがッ!!」

 ……思い出した。あの日以来、空却がこの部屋に上がったことがないことを。
 今まさに、あの日と同じ景色が広がっている。あのとき、の胸の中で渦巻いていた感情が秒速で駆け巡る。そして、たった一言……体が裂けるくらい悲しかった言葉を思い出した。
 無意識に顔がこわばっていたのかもしれない。空却もはっとした顔をして、からすぐに距離をとった。

「ぁ、あの……」

 空却に続くようにしておそるおそる起き上がった。背を向けている空却にそっと声をかけるが、彼がこちらを振り向くことはなかった。周りの空気も重たくて、なんとなく息苦しく感じる。
 な、なにか言わんと……。あ、いまなら、傷のことなら気にしとらんよ、って言えるかな、いまならタイミングも……いいのかわからんけど……とにかく今は、なにか言わんと……っ。

「空却く――っ」
「なあ」

 空却の一際低い声に、の体が固くなる。空却はこちらを見ないまま、脱ぎ捨てたスカジャンを手に取った。

「要、しばらくこっちにいるんだと」
「えっ? 野山くん……?」

 空却の口から意外な人の名前が出てきて、はぽかんとした。

「う、うん。そうみたいだね……?」
「でかけなくていいのかよ」
「でかけるって……どこに?」
「どこにって……どこでもいいだろ。なんでお前らの出かけ先を拙僧が決めなかんのだ」

 ばさッとスカジャンを羽織った空却は明らかに苛立っていた。急に機嫌が悪くなってしまうのは今に始まったことではない。ないのだが、いらいらしていることは分かるのに、なぜいらいらしているのか肝心の理由は分からないのではいつも困っていた。
 ……まあ、それはさておき。

「(空却くん、野山くんと仲良くなったのかな……?)」

 は、空却が野山のことをあまり好きではないと思っていたので、彼の名前が出たときは少し驚いた。どうしてこのタイミングなのか分からないが、きっとこのあいだ買い物していたときに会ったからだろうと思い、はむすっとしている空却にこう言った。

「このあいだ、あんちゃんの誕生日プレゼントも買えたから、お買い物はもう大丈夫だと思うよ」
「はあっ? お前ら、あのときじゃじゃ馬のプレゼント買いに行ったんか」
「うん。野山くん、女の子がいっぱいいるお店入れんみたいで……」

 スカジャンの襟を整えて、ようやくと顔を見合わせた空却。しかし、その顔は控えめに言ってもかなり険しい。

「……お前、それ聞いてなんとも思わねーの」
「なんとも……? あ、えっと、わたしも男の子がたくさんいるお店には入りづらいって思うから、野山くんの気持ちも分か――」
「そっちじゃねーよ」

 間髪入れずに突っ込まれてしまい、頭の中で用意していた言葉が飛んでいく。もういい、というように、空却は再び顔を背けてしまった。
 空却と野山の関係について、はずっと不思議に思っていることがある。余程のことがない限り他人を邪険にしない空却が、野山に対してだけ当たりが強いのだ。それは中学に入学してからずっと続いており、原因も分からない。野山にそれとなく聞いたこともあったが、「まぁ……なんとなく理由は分かっとるよ」と苦笑いされるだけで、詳しいことは教えてくれなかった。
 それなら、空却くんはどうなんだろう……? 今更な話かもしれないが、気になるものは気になる。にとって、野山は小学校からの大事な友達で、空却は世界で一番大好きな人なのだから。

「空却くんは、野山くんのことどう思う……?」
「あ゙?」

 意を決して尋ねてみたら、想像以上の迫力で凄まれてしまった。「っ、ひぇ……ッ」と怯んでしまったに、「んなこと拙僧に聞いてどーすんだ」と空却は吐き捨てるように言った。

「ちゅ……中学のころから、空却くん、野山くんにはずっと冷たいから、二人になにかあったんかなぁって……」
「べつになんもねーよ。拙僧はただあの野郎のすべてが気に食わねえってだけだ」
「す、すべて……」
「んなことより、」

 ん、と空却は衣装ケースを顎でさして、「さっさと衣替えしろ」と言った。これ以上質問したら、空却の中にある火山が噴火してしまう。こくこくと頷いたは、衣装ケースにそろっと手をかけた。

「(空却くん……今もわたしのこと、きらいなんかな……)」

 いつのまにか、思考の中心は野山から自分へと移っていた。気に食わない相手のカテゴリーに自分も混じっているかもしれないと考え始めたら、止まらなくなってしまったのだ。仕事終わりの迎えには行くが、それ以外の理由で呼びつけるんじゃねえ――もしかしたら、心の奥ではそう思っているのかもしれないと。お前のそういうところが“大嫌い”なのだと。

「おい手ェ止まってんぞ。やる気あんのか」

 胡座をかいた膝の上で頬杖をついている空却にきッと睨みつけられる。ひぇっ、と肩を竦めたは「ありますっ。やりますっ」と慌てて衣装ケースを開けた。
 わたしが早く片付けんと、空却くんもお寺に帰れん――そう思いながらせっせと手を動かす。ひとまず冬物はすべて出して、今年着れるものと古着として処分するものを分別していった。

「(冬服、こんなに少なかったっけ……?)」

 分別を始めて間もなく。思っていた以上に着れる服が少ないことに気づいた。どうやら、へたっているものや色落ちしているものは冬服を仕舞うときに粗方捨ててしまったらしい。
 真冬になる前にどうにかしんと……。寒さに弱いは、冬は着込んで着込んで着込みまくる。よって、寒さが人並みに耐えられる人で“十分だろう”と思える冬服の量は、にとって“ちょっぴり心許ない”のである。

「あっ。このセーター、穴空いとる……。これも新しいの買わんとかん……」
「またあの古着屋行くのかよ」

 の独り言を拾った空却は、鋭さを含んだ声でそう言った。以前あった古着屋の出来事を思い出したは、「行かんっ。行かんよっ」と慌てて首を横に振る。

「あのお店に行くときは、空却くんに着いてきてもらわなかんから……。わざわざ付き合ってもらうのも――」
「別にいいが」
「え……? いいのっ?」
「いいっつーか、元々そういう話だった――」

 なにか思い出したような顔をして、空却は言葉を止めた。結んだ唇をむぐむぐと動かしたかと思えば、今度は控えめに口を開く。

「……古着屋、もし行くなら要について行ってもらえよ。あいつも帰省してどうせ暇してんだろ」
「あ……そうだね。あんちゃんも古着見たいかもしれんから、今度三人で一緒に行って――」
「だからなんでことある事に平塚が出てくんだッ!」

 空却はつくった拳で畳をどんッ、と強く叩く。またしても空却の地雷を踏み抜いてしまったらしい。「ごっ、ごめんねっ」と謝ったは、さっき以上に素早く手を動かす。空却くんに余計なことは言わんように、と心に決めた。
 冬物の分別が終わったら、たんすから夏服を出し、衣装ケースの空いたスペースに仕舞っていく。そんなとき、はまたしても“余計なこと”を考えてしまう。

「(空却くん、昔着とった冬の服とかないかなぁ……)」

 以前もらった夏服の中にあった白のロングTシャツはビスチェと重ね着したり、そのままワンピースとして着たりして、着回しがきいたのでとても重宝していた。なので、冬服もそんなアイテムがあるととても助かるのだ。
 そのTシャツは背中に大きな英字ロゴがプリントされていたので、「ちゃんにしてはいかついシャツねえ~」とオーナーに言われたこともあったが、普段とは違うテイストの服を着るのは新鮮だったし、なにより、“元々は空却くんの服”ということがの中で特別になっていた。
 空却くんの冬服……ほしいなぁ。たった今怒鳴られたばかりだというのに、次の欲がの中でむくむくと膨れ上がってしまった。

「く、空却くん」
「なんだ」
「もし、冬服の中で着ないのがあったら、前みたいに、その……譲ってくれたりとか……」
「だからお前、そういうのは拙僧じゃなくて――ッ、あ゙ーくそッ!」

 声を荒らげた空却がすくっと立ち上がる。突然部屋の中を歩き始めた空却にがびくびくしていると、彼はなぜか押し入れの一段目にあるものを出し始めた。

「く、くうこう、くん……?」
「また同じ場所に衣装ケース入れたら、次出すときにお前一人じゃ取れねえだろ」
「う、うん」
「だから、拙僧が一段目のスペースを空けて、そこにこいつらをぶちこんどいてやる」

 だからさっさと冬服出せ――暗にそう言われている気がした。は「あ、ありがとう」とお礼を言って、再び手を動かす。声を荒らげた理由を聞きたかったが、触らぬなんとかになんとかとも言うので黙っておいた。

 お互いが無言で作業をする部屋には、物音だけがしている。空却が押し入れの一段目に入っているものを出しては、衣装ケースが収まっていた二段目の空きスペースに入れ直してくれていた。
 も集中して作業を進めたおかげで、冬服をたんすに仕舞い終わり、あとは夏服が入った衣装ケースを押し入れに戻すのみとなった。

「ひっ……!」
「あ? どうした」

 空却くん、衣替え終わったよ――そう声をかけようとして視線を傾けたとき。空却が今手に持っているカンカンが目に映って、は悲鳴のような声を上げた。
 察してほしくなかったが、それも無理な話だった。空却はの顔とカンカンを見比べながら、あん? と首を傾げている。

「これがなんだよ。捨てんのか」
「すっ、すて、すてんよッ。とっとくよッ」

 カンカンから興味をなくしてほしい――とは心から願うが、興味をなくすどころか、空却はカンカンをじっと見つめている。持ち上げたり、上下左右に振ったりして、まるで中身を確認するように動かしている。がちゃがちゃ、とカンカンの中から雑貨たちがぶつかる音がするたびには寿命が一年、また一年と縮む感覚がした。

「(おねがい、おねがい、空却くん、カンカン押し入れに戻してぇ……っ)」

 そんな祈りも虚しく、空却は畳に腰を落ち着かせて、胡座をかいた足の間にカンカンを収めた。

「これ、中身はなにが――」
「わああぁぁッ!?」

 蓋を開けようとした空却に詰め寄り、は驚異的な速さでその手からカンカンを奪い取る。そのままお腹の前でカンカンを抱きしめて、空却とささっと距離をとった。
 驚いた顔をした空却がを凝視する。は両腕で大事にカンカンを抱えながら、誤魔化す言葉を一生懸命考えた。

「こッ、この中はいろいろっ、いろいろ大事なものが入っとってッ」
「いろいろってなんだよ。拙僧に見られたら困るもんでも入ってんのか」
「うんッ!」
「“うん”だあっ?」

 空却の表情ががらりと変わる。にとっては悪い方向にだ。
 今の一言でカンカンへの興味に火を付けてしまったらしい。空却は四つん這いになりながら、との距離を縮めていく。

「見せろ」
「えぇっ!?」
「見せたくねーなら何が入ってるか言いやがれ」

 がさらに空却から距離をとると、空却は逆に距離を詰めてくる。じり、じり、とお互いに畳の上で見えない攻防戦を繰り広げていると、の背中に壁がとん、と当たってしまった。もう逃げ場がない。
 ついに目の前に来てしまった空却がにやりと笑う。は横に逃げようと目を配らせるが、空却の手が顔のすぐ横についてしまったので、それもできなくなってしまった。
 四つん這いから立膝になった空却の影によって、体が覆われる。はさらに強い力でカンカンを抱きしめた。

「だめぇ……っ、だめえぇ……ッ」
「駄目って言われたら余計見たくなんのが人間なんだ、よッ!」

 かなり力を入れていたはずなのに、腕の中にあったカンカンは、空却によって呆気なく奪い取られた。
 「あぁッ!」が声を上げても、カンカンを手に入れた空却はもう一度それを上下左右に揺すったりしていて、返す様子は少しもない。「案外軽いな」などと感想を漏らしているのを聞いて、の頭の中で警鐘が鳴り響いた。

「(どうしよう、どうしよう、どうしよう……ッ!)」

 空却くんに昔書いてもらった漢字の紙とか、小さいころバレンタインのお返しにもらったおまもりとか、中学生のときに買った空却くんが映っとるスナップ写真とか、クリスマスにもらったネックウォーマーとか、あとは、あとは――数えだしたらキリがない思い出の品々。空却に中身を見られでもしたら引かれてしまう。気持ち悪い女だと思われてしまう。は涙目になりながら空却を見上げた。

「返してほしいか」
「うんッ。うんッ」
「なにが入ってるか言ったら返してやるよ」
「あ……ッ、え、えっと、大事なものっ」
「“大事なもの”じゃ分かんねーよ。具体的になにが入ってるか言え」

 は今年一番困っていた。ほんとうに“いろいろなもの”で“大事なもの”なので、何から言えばいいか迷っていると、「遅せえ」と空却にぴしゃりと言われてしまう。

「んじゃまあご開帳――」
「だめぇッ!!」

 叫んだは空却に突進して、カンカンに手をかけてぐっと引き寄せる。しかし、同じくらいの力……いや、それ以上の力で空却に引っ張られてしまっているせいでびくともしない。
 二人の間でバコバコと音を立てるアルミ製のカンカン――いくら力で空却に敵わないとしても、は必死だった。

「はっ。んな弱っちい力で引っ張っても意味ねーよ」
「かえしてぇ……っ! カンカンかえしてえぇ……ッ!」
「中身教えたら返してやるって言ってんだろー、がッ」
「あぁッ!」

 空却に力いっぱい引っ張られてしまい、の手から離れてしまったカンカン。得意げに笑っている空却は、「おら、さっさと言わねーと開けちまうぞ」と言いながら蓋の端を開ける。暗闇の中から、クリーム色のネックウォーマーがぼんやりと浮かんでいるのが見えた。
 だめ、だめ、だめ……ッ!! そのとき、の中で本能的な何かがぶわっと込み上げてきた。

「す……ッ!」
「す?」
「すきな人からもらったものなのッ!!」

 空却が呆けた顔をした横で、は震えた声で言葉を続けた。

「だっ、だから、それだけは……それだけはだめなの……ッ。ぜったいにっ、ぜったいに見ちゃだめで……っ」

 が一生懸命伝えているうちに、空却にカンカンを無理矢理押しつけられる。蓋が開いている部分を慌てて閉めてから、はほっと胸を撫で下ろした。
 カンカン、返してくれてありがとう――そう言おうとして空却の方を見るが、今にも舌打ちが飛んできそうな顔をしていたので、はう、と口を閉ざした。
 カンカン返してもらうとき、ちょっとだけ強引だったかな……。感じ、悪かったかな……。びくびくしながらが反省していると、空却の鋭い目線がに向けられた。

「おい」
「はいっ」
「お前、衣替えが終わったら拙僧のことタダで帰すつもりじゃねえだろーな」

 タダで帰す――言葉の意味が理解できずにいると、「こんな朝から呼び出されて、わざわざ肉体労働させられてんだ。礼の一つや二つあってもいんじゃねーの」と続いた。それを聞いたははっとする。

「もちろんお礼はするよっ。えっと……お礼、お礼は……」

 は考える。空却に何かプレゼントをする、ごはんを作る、ハンドマッサージをする――どれも一度はやったことがあることだが、果たして空却は満足してくれるだろうか? かといって、一人ではありきたりなことしか考えつかない。どうせお礼をするのであれば、もっとなにか、特別なことがしたいと思った。

「空却くんは、なにかしてほしいこととかあるかな……?」
「は、」
「空却くんがしてもらってうれしいことが一番かなあって思ってっ」

 変なことは言っていない……はずだ。本人が望むことが最も良いと考えたゆえの答えなのだから。が空却の返事を待っていると、顔を顰めた彼はぼそりと言った。

「……なんでもいいのかよ」
「うんっ。もちろんっ。なんでもいいよっ」

 わたしにできることならなんでもしたいな。なにかあるかな。唐揚げを作ったり、マッサージをしたり、お寺の手伝いをしたり――はわくわくしながら空却のためにできることを頭の中で思い浮かべた。
 ……彼にしては長い沈黙だった。明後日の方向を見つめていた空却は、ゆっくりとを見下ろす。

「お前、明日も休みだったよな」
「うん。お休みだよ」
「なら、明日一日空けとけ。朝迎えに来るから支度しとけよ」
「うんっ。わかっ――ん?」

 ん? んん? は首を傾げるが、何処吹く風の空却は再び作業を再開する。一度だけカンカンに視線をやったが、まるで汚いものを見るような顔をした彼はちッ、と大きな音で舌打ちをした。







 ――その翌日。は嵐が来た日のように慌てていた。

「(デートじゃないっ、デートじゃないっ、デートじゃないぃっ)」

 そう自分自身に暗示をかけながら、は姿見の前で服を着ては脱ぎ、着てはまた脱ぎを繰り返している。祭りの日のデジャブである。
 空却と二人ででかける――それも彼からの誘いだ。言われたのは朝方、意味を考え始めたのは空却が帰ってからの昼過ぎ、ようやく意味が理解できた夜に飛び起きて、着ていく服や持ち物を慌てて準備し始めた。前夜にあれだけ服を選び抜いたというのに、今日着て始めて“なにか違う”という違和感に取り憑かれてしまい、今に至っている。

「(きあい入っとるって思われたらどうしよう……っ)」

 それはとても恥ずかしいことだ。空却はただ“でかけるだけ”だと思っているのに、自分だけよそ行きの格好をしていたら変に思われるに違いない。しかし、少しでも良く見られたい。あわよくば可愛いと思われたいと思っているのも事実。の欲はここ数日で暴発してしまっていた。
 行き先は分からないが、どこに行くにしろ、今日の夜は冷えると聞いたので何か羽織るものを持たなくては。そう思っていたところでインターホンが鳴った。
 きっと空却くんだ――はこれだと思った服を着て、ぱたぱたと玄関に向かった。

「お待たせしま――っ」

 引き戸を開ける。目の前にいたのは紛うことなき空却――だったのだが。

「……おはよ」

 空却の顔を見る。明らかにいつもと違う装いに、はぽけ、と口を開けて静止した。
 ……固まること数秒。不審がるように「おい」と空却に声をかけられて、の体の中でせき止めていた熱が一気に顔全体に広がった。

「しっ、失礼しますッ!」
「あ゙ぁっ!?」

 ぴしゃんっ、と引き戸を閉める。勢い余って鍵もかけてしまった。は熱くなった顔を両手で覆いながら、あたふたとサンダルを脱いだ。

「(服変えんとっ、カバンも変えんとっ。髪ももう一回整えんとぉ……ッ!)」

 が廊下に上がろうとしたとき、がちゃん、と背後で引き戸の鍵が空いた音がする。「えっ!?」と声を上げて後ろを振り向けば、引き戸がものすごい速度で開けられた。

「なにが“失礼します”だよッ! なに勝手に締めてやがんだッ」
「くっ、空却くんどうして――っ」
「お前が拙僧に合鍵渡したんだろーが」
「あぁッ……!」

 それどころではなかったので合鍵のことなど頭から抜け落ちていた。は上がり框になだれ込むように腰をかけて、玄関にずんずんと入ってきた空却を見上げる。

「(かぁっ、かっこいいぃ……っ)」

 いつも付けているピアスのほかに、拡張ピアスに通された細長いピアスとインダストリアルにかかっているチェーンピアスがきらきらと揺れている。首からぶら下がっているのは大ぶりの飾りがついたロングネックレス。手首には念珠とバングルのようなものが付いていた。とにかくアクセサリー類が派手だった。
 格好もいつもの作務衣ではなく私服。着ているサルエルパンツとスカジャンはもちろん柄物。極めつけはアップされた前髪だ。まるで中学時代の空却と対面しているようだった。
 ぶわわッ、との顔が赤くなる。目を合わせるどころか顔すら見れない。膝からへなへなと崩れ落ちそうになる――否、もう崩れ落ちているのだが。
 なぜいつもと格好が違うのだろう。今日はなにか大事なイベントでもあるのだろうか。がじりじりと後退するが、大股で近づいてきた空却によってそれも阻止されてしまう。

「逃げんじゃねえ」

 肩をがしっと掴まれる。ギラギラと光る目に見つめられて、は顔中の筋肉がぴくぴくと痙攣する。ちかいっ、くうこうくんがちかいぃ……ッ。

「言っとくが、今日ばかりは拒否権ねーからな。お前自ら“なんでも”するっつったんだろ」
「な、なんでも……っ」
「今更怖気付いたってんなら、カンカンの中身を見せるのでもいいが」
「そっ、それはだめえぇ……ッ」

 消え入る声で言うと、ちッ、と舌打ちをする空却。いつもなら萎縮してしまうが、今はそれすらもときめいてしまう。自分の体はこの一瞬でどうかしてしまったのかもしれない。

「(きょうは……今日は空却くんに、お礼をする日……)」

 幾分か落ち着いたは、本日の目的を思い出す。空却くんになんでもする――そう、なんでもだ。どれだけ空却がかっこよかろうが、今日という日は空却のために与えられたものなのだ。
 わたしがもたもたしとったら一日が終わっちゃう。はよろよろと立ち上がって、深呼吸をする。肩からするりと離れていった空却の手の名残を感じながら、ぽそぽそとこう言った。

「と、戸締りしなかんから、もうちょっとだけ待っとってもらってもいいかな……?」
「おう」
「それからっ」

 は顔を上げる。空却と視線が交わったときに再び顔の熱が上昇するが、気にしていたらキリがないと思い、そのまま口を動かした。

「わたし、変じゃないっ? どこかおかしいところがあったら服とか変えてくるんだけど……っ」

 は自分の体に手を這わせる。膝丈のティアードワンピースに同じ丈のニットカーディガン。足は冷えそうなのでデニール数の高い黒タイツにした。空却の格好に比べたらシンプルだが、にとっては一軍の服で組んだコーディネートだった。
 すると、空却にじぃーっと穴が開くほど見つめられる。体の中心に太い芯が通ったように動けなくなってしまったは、カーディガンの裾をきゅっと掴んだ。
 ……長い沈黙の末。空却はからふいっと顔を背けた。

「……別にねーよ。さっさと戸締りしてこい」

 そう言って、空却は上がり框に腰を下ろす。ほっ、ととりあえず一安心したは、よたよたと廊下に上がった。戸締りをするついでに、髪だけもう一回整えよう、と思いながら。







 まず空却が立ち寄ったのは、オオスにある天むすの店。も幼い頃からの常連である馴染み深い店だ。ここが目的地というよりは、でかける前にとりあえずここで朝食を済ませる、ということらしい(歩いている途中で、「お前、朝飯まだ食ってねーのかよ」という話をしたからだと思った)。
 本当は食べる予定だったのだが、空却を待たせてはいけないと思い、戸締りをして早々に家を出てしまった。かなり余裕を持って起きたはずだったのだが、服を選ぶのに時間を取っていたのかもしれない。しかしそれも違った。が店の壁時計を見ながら逆算すると、空却が家に来たのは約束の時間よりも三十分以上前だった。

「(おみそ汁おいしい……)」

 まあ、そんなことも今となっては些細なことだ。
 今のの頭の中は朝ご飯一色。ほう、と息をつくと、赤味噌の優しい味が全身に染み渡る。小皿にちょん、と乗っているたくあんをぽりぽりとかじって飲みこみ、小さな天むすを箸で掴んだら一口でぱくんと食べる。口いっぱいで天むすの味を感じながら、もぐもぐと噛み締めているこの時間がはとても好きだった。

「(あっ)」

 夢中で天むすの味を堪能しているところではっとする。正面に座っている空却が眠たそうな眼差しでこちらをぼんやりと見ている。頬杖をついているので、なんとなくつまらなさそうな印象を受けた。
 少しは慣れたが未だに長い時間空却の顔を見れないは、俯きながら早口でこう言った。

「く、空却くんは朝ごはん食べんのっ?」
「うちで食ってきた」
「そ、そっか、そうだよね。待たせちゃってごめんね、すぐに食べるね」

 は短いスパンで天むすをぱくぱくと食べ進めるが、「おい」とすぐに声がかかった。

「んなに慌てんでも天むすは逃げねーよ」
「ち、ちがうの。空却くんのこと待たせちゃうのわるいから、早く食べんとって思って……」

 さらりと口から出た言葉。その代わりに語尾がだんだんと小さくなっていく。普段なら、自分の心に仕舞っておくべきものとして決して口から出ることはないものだ。それを聞いた空却は目を丸くして、頬杖をついていた手から少し顔を上げた。
 ど、どうしよう。余計なこと言ってまった――すぐにはなんでもない、と言って、なかったことにしようとしたが、空却は目を細めてそっとテーブルに目を伏せた。

「……今に始まったことじゃねーだろ。ガキん頃からこういう感じなんだからよ」
「そ、そう、だったっけ……?」
「そうだっつの。それにこういうとき、男は静かに待ってるもんだ。だから気にせず食え」

 驚いた。てっきり今まで――少なくとも数年前からは――こういうとき、ずっと苛立たせているかと思っていたから。もしかして……もしかすると、今までもそう思ってくれていたのかもしれない。

「(どう……しよう)」

 体が熱い。今からでもここから走り出して、この熱を冷ましてしまいたい。少しだけ本音を言うだけで、こんなにも世界が明るく見えるものなのだろうか。こんなにも、胸が熱くなるほど嬉しくなるものだろうか。今なら、世界中のどこへでも行けるような気がした。
 は天むすをもう一つ食べる。慌てずに、丁寧に、ゆっくりと噛んでいく。なぜだろう。今さっき食べた天むすと同じもののはずなのに、さっきよりも、ずっとずっと美味しく感じた。

「天むす……おいしい」
「そーかよ」
「おみそ汁も、おいしい……」
「ん」

 一つ一つ、自分の気持ちを吐露していく。些細なことでも小さく相槌をうってくれる、やさしい人。たったそれだけで、渇いていた心が潤っていく。空却の気持ちを知って、自分の気持ちも知ってもらう――そうしたら、心の距離がぐっと近づく。そんなことに、今さら気がついた。
 うれしくて、おいしくて、たのしくて――口の中に入っていたものをこくん、と飲み込んで、は満面の笑みでこう言った。

「空却くんと食べるごはんが、一番おいしいなあ」
「ごッふッ……ッ!」

 ちょうどお冷を飲んでいた空却が前のめりになって噴き出す。ぎょっとしたは椅子から立ち上がり、あちらこちらへ視線を散らかした。

「空却くん大丈夫っ? あっ、ティッシュっ。テーブルにティッシュあるよっ」
「知っとるわッ。んなことよりさっさと食わねーと置いてくぞッ!」

 あ、あれ? さっきはゆっくり食べていいって――が差し出したティッシュを何枚もとった空却は、むすっとした顔でテーブルを拭いている。そんな彼の顔は赤い。きっと水が入ってむせてしまったのだろう。涙目にもなっているので、見ているこちらが可哀想になってくる。
 これ以上見ていると怒られそうなので、椅子に座り直したは気持ち早めに天むすをぱくぱくと食べ進めた。空却のためのおでかけは、まだ始まってもいないのだ。







 次に向かったのはオオスの隣にあるフシミだった。大きな噴水がある公園を抜けたそこで、大きな球型の建物を目の当たりにした。口を薄く開けたは、名前だけ知っているその施設名をぽつりと呟いた。

「ナゴヤ市科学館……?」
「お前、ここ来んの初めてか」

 は頷く。その名の通り、科学に関する展示物や体験コーナーがある施設だ。老若男女、家族からカップルまで楽しめる観光施設の一つでもある。そしてなんといってもこの施設の目玉は、最上階ある世界最大級のプラネタリウム。も小さい頃からいつか行ってみたいなあと思っていた。
 施設の中に入れば案の定、友達や家族連れ、カップルで大賑わいだった。チケットを買うべく、は空却と一緒に列に並ぶ。そのあいだにも周りをきょろきょろと見回しては、近未来的な建物のつくりに興味津々だった。

「空却くんはここに来たことあるの?」
「学校の遠足かなんかで行った気ぃすんな。あんま覚えてねーが」

 そうなんだあ。それじゃあ二人で新しいものがたくさん見れるね――と心の中でぽんと浮かんだ言葉に自分で恥ずかしくなったは、「そ、そうなんだぁ……」と小声で返事をした。


 二階から五階には展示物や体験コーナーがあり、子どもたちが楽しそうに遊んでいるのを横目に、と空却は一気に六階まで上がった。スタッフに誘導されながら、プラネタリウムの入場開始時間まで通路の隅で待機する。
 周りは薄暗く、待っている人もひそひそと声を潜めてプラネタリウムを心待ちにしている。まるで遊園地のアトラクションに乗る前のような雰囲気なので、の心は早くも踊り始めていた。

「(平日なのに、こんなにも人がたくさんいるんだあ)」

 あまりにもきょろきょろとしていたので、「少しは落ちつけや」と隣から声がかかってしまった。

 入場開始時間になり、はプラネタリウムの施設へと入る。部屋の中心にある地球儀のような形をした投影機を囲うように座席が配置されており、映画館にあるような椅子が広い間隔をとってずらりと並んでいる。丸みを帯びた壁と天井は白いスクリーンで一面覆われており、今いる空間が半球の形を象っているようだと思ったとき、外で見たあの球体の上半分がここに位置しているのだと気づいた。
 チケットに書かれた座席の番号を探して、は荷物を膝の上に置く。ほう、と椅子にもたれると、背もたれが少しだけ後ろに傾いた。どうやらリクライニング仕様になっているらしい。座席も少しだけ左右にくるくると回るので、どこに座ってもすべての星が見渡せるようだ。
 この興奮を一人では消化できず、は隣に座った空却に向かってきらきらと目を輝かせた。

「プラネタリウム、楽しみだねっ」
「おー」

 空却は緩い返事とともにくわっ、とあくびを漏らしている。そんな彼ににっこりと笑いかけて、は再び背もたれにゆっくりと体重をかけた。

「(空却くん、星すきなのかな。あとで聞いてみようかな)」

 照明がゆっくりと落とされて、投影が始まった。学芸員の解説を聞きながら、はスクリーン上に浮かび上がる星々とともに、移ろいでいく夜空をぼんやりと眺めた。

「(きれい……)」

 本物の星ではないと分かっていても、うっとりと見惚れてしまう。星座の話をしてくれたり、誰もが知っている有名な星の説明をしてくれているので、素人のも理解しやすかった。
 しかし、時間が経つにつれて専門的な話になっていく。周りは真っ暗、上半身も軽く傾いていることもあって、普段よりも睡魔が強かった。おかげで、瞼が閉じたり開いたりを繰り返す。ちゃんと見なかん、聞かなかん――そう思えば思うほど、意識はだんだんと遠のいていく。
 序盤に紹介された一等星の北極星をぼんやりと目に映しながら、ほんのすこしだけ……と、はまぶたの重みにすべてを委ねた。



「お前、途中で寝とっただろ」
「へっ?」

 ほんのすこしだけ――のつもりが、部屋が明るくなるまで寝てしまった。退場できるときには目を開けていたので空却にはばれていないと思っていたが、どうやら甘かったようだ。

「ご、ごめんね……。せっかく連れてきてくれたのに……」
「……そういう意味で言ったんじゃねえ」

 独り言に近い、小さな声で言われる。瞳に影が落ちた空却を見て、は慌てて口を開いた。

「ま、また行こうっ? 月替わりでテーマが変わるって学芸員さんも言っとったから、今度は来月とか、再来月とかにっ」

 すると、今度は驚いた顔をして空却がこちらを見るので、はさらに焦る。も、もしかしてもう来たくない……っ? と思っていたら、すぐに別の方向に顔を逸らした空却が「……気ぃ向いたらな」と呟いた。


 せっかくなので展示物や体験コーナーも見て回った後、ナゴヤ市科学館を出る。その頃にはお昼前になっていて、のお腹もちょうど空いてきた頃だった。

「(空却くん、お昼はどうするのかな)」

 もしかしていっしょに食べたり……とか、できるかな。いっしょに食べたいな。それとも、もうここで終わりかな。いっしょに食べようって言ったら、お昼ごはんだけでもいっしょに食べてくれるかな――などなど、はいろいろな考えを巡らせる。ちら、ちら、と空却の様子を窺いながら、話しかけるタイミングを見計らっていた。

「んじゃそろそろ行――」

 きゅるッ――と、へんてこな音がした。ひっ、との全身が強ばって思わずお腹を両手で抑えるが、もう遅かった。
 空却と視線がぶつかる。じわじわと赤みを帯びていく顔すらも恥ずかしくて、「ぁ、あ……っ」とは言葉にならない声を上げてしまう。

「ぃ、いまっ、いまのは、あのっ……」

 ――不意に。ぶ、と空却が噴き出した。へ、との体から力が抜ける。見れば、空却は目尻をくしゃっとさせて、上がった口角からは鋭そうな犬歯がちらりと覗いていた。

「なんだよ。もう腹減ったんか」

 とすんっ、との心臓に一本の矢が刺さる。空却くんの、笑った顔――いつぶりに見たのか分からないくらい久しぶりで、細められた金色の目にぽーっと見惚れた。
 お腹が鳴ってよかったのか、悪かったのか……頭の中がごちゃまぜになるくらい動揺してしまい、「う、うん……。おなか、すいちゃった……」と機械のようには答えた。

「なら、先に昼飯食うか。どのみち目的地まで歩くから、それまでは我慢しろよ」

 当たり前ように昼食を一緒に食べる話になったので、の心臓はさらにばくんばくんと暴れだす。歩き始めた空却の隣で、は浅い呼吸をはふはふと繰り返した。







 ナゴヤ市科学館から歩いて十分ほど――ビルばかりだった街並みががらりと変わり、木々や空き地が目立つようになってきた。ナゴヤ市内だというのに都会でもなく、かといって田舎でもない……どことなく不思議なところだった。
 そのまましばらく歩いていくと、木が拓けて、人が密集している通りに入る。昔ながらの長屋が立ち並んだような光景に、の顔がぱっと華やぐ。そこには、ナゴヤを代表する飲食店が集結していた。

「すごいね空却くんっ。城下町みたいだねっ」
「まあ、あながち間違ってねえわな」

 金シャチ横丁――看板に書かれた文字と案内図を眺めていたら、「ここで昼飯食うぞ」と空却が言った。うんうんっ、とも嬉しそうに頷いた。
 ナゴヤコーチンの親子丼、味噌煮込みうどん、ナゴヤ豆腐の田楽、味噌カツ――どれもこれも目を引くものばかりで、店の前まで来れば、掲示されているメニュー表に見入ってしまう。
 あれもおいしそう、これもおいしそう――口の中で舌がちろちろと動き始めたところで、は我に返った。

「(わたしが食べたいものじゃなくてっ)」

 ばっと空却を見上げる。目が合った空却に「なに食うか決めたか」と聞かれ、は「ううんっ」と首を横に振った。

「空却くんはなにが食べたいっ?」
「なんでもいい。お前が決めろ」
「そ、そんな決められんよっ。今日は空却くんのためのおでかけだからっ」

 空却くんの行きたいところに行って、空却くんが食べたいものを食べる――は今回の目的を忘れないように頭の中で復唱する。しかし、空却はだるそうに「あー……」と声を漏らすだけだった。

「親子丼もあるし味噌カツもあるよっ。お肉いっぱいあるよっ」
「お前、肉食いてーの」
「えっ? ううん、わたしはなんでも――」
「米と麺ならどっちが好きだ」
「どっ、どっち? えっと、えっと……お米、かな……?」
「肉か魚なら」
「えっ? ど、どっちも好き……じゃなくて、うぅん、えっと、どっちかだったらお魚、かな……?」
「……お前、詐欺に引っかかんなよ」

 「こっち来い」そう言って、今いる店の前から離れた空却の後を追う。そして、とある店の前で立ち止まったので、はその店の前にあるメニュー表を見てみた。

「(ひつまぶし?)」

 どうやらそれがメインの店のようだが、には聞き覚えのない単語だった。ひつまぶしとは――他にも載っている画像やキャッチコピーを見てみると、どうやらここはうなぎ専門店のようだった。
 うなぎだったら、うなぎ丼とか、うな重とかがあるんかな? あれ、それじゃあひつまぶしって……? ひつまぶしというものを上手くイメージできないでいると、「お前、ひつまぶし知らねえのか」と空却から声がかかった。

「う、うん……。うなぎ丼みたいなものかなぁ?」
「……まあ、似て非なるものだな」

 「せっかくだ。ここにすっか」の返事を聞かずに店の中に入っていく空却。店員に案内されたテーブルに腰をかけ、はさっそく空却が開いてくれたメニューを見てみる。

「(あれ? うなぎ丼とかうな重は別にある……)」

 ひつまぶしがメニューの見開きいっぱいにどどんとある次のページで、うなぎ丼やうな重が控えめに載っている。うぅん? とが首を傾げていると、水とおしぼりを運びに来た店員に、「ひつまぶし二つ」と空却が注文した。

「口で説明するより、実際やった方が早えからな。少し待ってろ」

 やる? 食べる、見る、ではない空却の言葉に、ひつまぶしに対する謎はさらに深まった。


 メニュー表は店員に渡してしまったので、やることがなくなってしまった。店内をちらちらと見るのも他の客に迷惑かもしれないし、スマホを見るのも何か違う気がした。

「(な、なにか話したほうがいいかな)」

 正直に言うと、気まずい。
 うなぎを焼くまで二十分ほどかかると言っていた店員の言葉を思い出す。なにか見ているときや歩いているときは体を動かしているので、たとえ無言でも気を紛らわすことができたが、今はただ待つことに徹しなければならない。天むすの店はそれほど待つことなくすぐに出してくれたので、それほど沈黙を気にすることはなかったが、この状態があと二十分も続くとなると、とてもじゃないが耐えられる自信はない。
 今までも空却と食事をしたことはあったが、今日は、いつもと違う。空却の格好のせいだろうか。それともさっき見た笑顔のせいだろうか。きっと両方だとは思った。

「(空却くんは……)」

 あんまりそういうこと気にしんかな――と思っていたら、目が合った。微動だにせず正面を……の方をじっと見ていて、かと言ってなにか話すような素振りもなく、空却はただただを見つめている。
 えっ……? えぇッ……? は戸惑いが隠せない。こんな恥ずかしい状況に耐えられるはずもなく、は空却の視線から逃げるようにして店内をきょろきょろと見回す。しかしそれにも限界がある。正面から刺さる視線に白旗を上げた江麻は、意を決して口を開いた。

「く、くうこうくん、なにかあったっ?」
「なに……って別になんも。お前こそなんかあったか」

 もしかして自分を見ていたわけではないかもしれないと思い、は後ろを振り返る。しかし、の背中には無地の壁があるだけで、変わったものは何もない。
 おまけに、「壁がどうした」と空却が言うので、“壁を見ていた”という小さな可能性も消えた。

「ずっと、その……こっち見とるから、なにかあるんかなって……」
「なんもねーよ」
「そ、そう……?」

 そのわりには空却の視線がずれない。このままではひつまぶしが届くまでに心臓がもたないと思ったは、ぼそぼそと自信なさげに言った。

「ぁ……あんまり、こっちのほう見られると、は、はずかしいなぁ……なんて……」
「んなこと言ったって、他に見るとこねえんだから仕方ねーだろ」
「ほっ、ほかっ、にっ……!?」

 ほかに見るとこないって、え、ぁ、うぅ、わあぁ……っ? たしかに、と納得する自分と、自分以外見るところがないという自惚れも甚だしいことを思っている自分が衝突して、の顔の筋肉がへにゃへにゃと変なふうに動いた。
 力が上手く入らず、頬を両手で抑える。なにやってんだ、という空却の視線を受けながら、は「きょ、今日っ」と苦し紛れに話を逸らした。

「空却くん、中学のころみたいな髪型しとるねっ」
「あ? あー、前髪も伸びて邪魔だったからな。切んのもめんどくせーし」
「そっかっ。すごくいいと思うっ。すごくかっこいいっ」

 「っ、ぐ……」今度は空却が顔を引き攣らせた。口元を手で覆い、ようやく正面から横へ視線を流してくれた。人質にとられていた心臓がようやく解放された気分だ。

「……お前も」
「え? わ、わたし……?」
「髪、だいぶ伸びただろ。中学はそのくらいだった」
「そ、そうかな……?」

 言われてみれば、最近髪を切ってない。中学に入ってから今までずっと自分でブロッキングをしてなんとなく切っているが、特にこだわりもないので、長さは同じところを行ったり来たりしている。今は切るタイミングもなく伸びっぱなしにさせている時期だった。
 そんなことよりも、空却に外見のことについてあまり指摘されたことがなかったので、はまた別の意味で心臓が高鳴る。頬に当てていた手を離して、指で毛先をいじったり、手ぐしで髪を梳かしたりして、妙に意識をしてしまう。

「(もしかして、空却くんって髪短いほうが好きなのかな……?)」

 そういえば聞いたことがなかった。このタイミングで聞かなければいつ聞けるか分からないので、は勇気を出して尋ねてみる。

「空却くんは、髪は短いほうが好き……?」
「そりゃ短え方がいいだろ」
「えっ!」

 即答だった。「んなの当たり前だろーが。髪洗うのも楽でいいしよ」とまで言っているので、はぱちぱちと瞬きする。空却くん、ショートカットの子がすきなんだ……! は思わずテーブルの上に両手を置いて、上半身をぐっと前のめりにさせた。

「ち、ちなみになんだけど、どのくらいの長さまでがすきとか……あるかな……?」
「季節によるな。夏ならいっそ剃っちまった方が早えと思うが」
「そるっ!?」

 ソル、そる、剃る――たしかに、ショートよりも短いベリーショートならば、うなじ周りや耳の後ろは剃ったほうが見栄えがいいのかもしれない。一部の女子の間でも刈り上げヘアは流行っている。
 なるほど、とは頷く。たしかに空却が好きそうなヘアスタイルだ。

「わたしもやってみようかな……」
「はあッ? 頭とち狂ったかお前。くッそ似合わねーからやめろ」
「えっ!? そんなにッ?」

 はあ、と空却に呆れるようにため息をつかれる。せっかく空却の好みが分かったのに、それを全否定されてしまい、はがっくりと肩を落とす。似合わない……。すごく似合わないって言われてまった……。

「……もったいねえ」
「へ……?」
「理由がねえなら、せっかく伸びたもんをわざわざ切ることもねーだろ」

 最初の方にぼそっと言われたことを聞き返したかったが、その上から言葉が被ってしまったのでタイミングがなくなってしまった。
 髪を切る理由は、空却くんが短いほうがすきって言ったから――と言えるわけもないので、「それじゃあ、もう少しこのままにしとこうかな……」とは大人しく引き下がった。

「……髪、そのまま伸ばしたらよ」
「え? う、うん」
「年末には鎖骨あたりまで伸びてんのか」
「そう……だね。うん。一度も切らんかったら、そのくらいになると思うよ」
「ふーん……」

 空却は再び正面を……というより、をじっと見る。今度は特に顔あたりを重点的に見られている気がして、再び魔の時間がやって来た。
 こんな状況で新しい話題を提供できるわけもなく、は一分でも早くひつまぶしがきますようにと祈ることしかできなかった。


 ――そうして、待ちに待ったひつまぶしが到着する。大きなお盆の上にはご飯とうなぎが盛られたおひつ、お吸い物、漬物、薬味……そしてそば徳利のようなものが載っていた。

「これは……お湯?」
「そりゃあ出汁だ」
「おだし?」
「あとで説明してやっから、まずうなぎと米から食え。そこに茶碗あんだろ」

 よそって食え、と付け足した空却はいただきます、と手を合わせた。それに倣ってもそっと手を合わせる。小さなしゃもじを使って、ご飯とうなぎを茶碗に盛りつける。ミニうな丼のようになったそこから、箸で一口サイズのご飯とうなぎを掴んだ。そして――

「おいしい!」
「うっめえ」

 空却と声が重なる。それくらい美味しいのだ。炭火で焼かれたうなぎの香ばしい身と濃厚なタレ……それが、固めに炊かれたほかほかの白米とよく合う。噛めば噛むほどうなぎの身と米が混ざり合い、飲みこむのがもったいないと思えてしまう。
 一杯目がなくなったら、は続いてお吸い物を口に含む。味の濃いうなぎを食べた後に薄味のお吸い物を飲むと、舌の上がふんわりと優しい味わいに包まれた。

「お吸いものもおいしい~……」
「次は味変で薬味も入れてみろ」
「うんっ」

 言われた通り、二杯目には薬味であるねぎときざみのりを入れて、うなぎの上にわさびをちょんと付けた。薬味がすべてが乗った一口を贅沢に口の中に入れると、薬味一つ一つの味がアクセントになっていて、言葉にならない美味しさだった。
 「ん~っ」とは頬を丸く上げて、何度も何度も噛みしめる。こんなにも幸せな一口がまだこんなにも味わえるなんて……! はお吸い物と交互にうなぎとご飯を楽しんだ。
 そんな調子で再び茶碗が空になると、「次はそのだしを茶碗の中に注げ」と空却が言った。

「全部かけていいの?」
「雑炊みてーに食いたいならそうしろ」

 どうやらかける量は好みのようだ。茶碗にご飯とうなぎを同じように盛り付けた後、おそるおそるそば徳利を茶碗の上から傾ける。湯気を上げて出てきた液体が、うなぎをひたひたに覆う。ご飯とうなぎの身を崩しながら混ぜたものを、慎重に箸で掴んだ。

「(おいしい~っ!)」

 もはや言葉にも出ない。濃いタレの味が出汁のおかげで緩和されてマイルドなものになっている。かといってうなぎの美味しさが損なうことはなく、むしろ出汁の奥に仕舞われたうなぎの味が後からがつんと来るので、うなぎだけで食べるのとではまた別の味わいが楽しめた。
 まるでお茶漬けだ。うな茶漬けだ。はあっという間に三杯目を完食した。

「ひつまぶしは食べ方が色々あんだよ。そのまま食ったり、出汁かけて食ったりな」
「そうなんだあ~」

 ひつまぶしというものがなんたるかを知ることができた。次はどんな食べ方にしようかな、と迷ってしまう。ひとまずお吸い物をちびちび飲みながら考えていると、すでにひつまぶしを食べ終えた空却はお茶を啜っていた。

「うまいか」
「うんっ。ひつまぶしすごくおいしい!」
「そりゃよかったな」

 ふ、と上げられた口角。もう一度空却の柔らかい笑顔が目の前に飛び込んできて、の顔がかあッと熱くなった。
 わあぁッ、わああぁぁ……っ!? はお吸い物を飲むふりをして、器を大きく傾ける。行儀が悪いかもしれないが、今の自分の顔を見られるよりかはマシだった。

「(空却くん、今日はたくさん笑ってくれてうれしいなあ……っ)」

 しかし、空却を直視するのが難しいことには変わりない。多幸感でお腹がいっぱいになる前に、は四杯目のひつまぶしを黙々と茶碗に盛り付けた。







 ひつまぶしの店を出てから、またしばらく道なりに歩く。幅の広い道の横には浅めの川がさらさらと流れていて、とても風情のある散歩道だった。

「(次はどこに行くんだろう?)」

 朝にあった緊張はいつのまにかするすると解けていって、だんだんと楽しさが前に出てくる。は二人分の足音を聞きながら、このまま空却くんとずっと歩いていたいなぁ、と思った。

「(わたし、こんなにも楽しくていいのかな……)」

 歩いて、歩いて、歩いて――歩幅は違うのに、どちらかが前に出るということはない。早くもなく、遅くもない。そよ風に吹かれて流れていくように、ゆったりと歩いていく。
 ずっとずっと、この道がまっすぐ伸びていたらいいのに。そうしたら、二人でどこまでも歩いていけるのに。終わりもなく、別れもない。同じ時間を、ずっと二人で――

「っ、わわッ?」

 のすぐ真横から子供がたたーっと走り抜けていく。ぶつかる前に避けようとして体の方向を変えたとき、とすんっ、と両肩が別の何かに当たった。

「おーおー。元気なこったな」

 すぐ後ろで空却の声がする。それからすぐに親と見られる大人が「すみません……っ」と頭を下げて子供の後を追っていった。
 ぼーっとしていただったが、両肩が空却の手によって支えられていると分かって、「っ、あ、ありがとうっ」とすぐに体を退かした。

「(す、すごくやさしかった……)」

 肩を掴むわけでもなく、かといって触るだけでもなく、包むように支えてくれた空却の手。まだ肩に感触が残っているが、いずれ消えてしまうそれを、あのカンカンの中に仕舞っておきたいと思った。

「(もっと……さわってほしいな……)」

 ……さわっ、て?
 やかんが沸騰したように頭の中でピーッ! と音が鳴る。今度は汗ばむくらい全身が熱く火照って、は空却の方をぐるんっと向いた。

「立ち止まっちゃってごめんねっ。いこっかっ!」
「行くのはいいが、そこ右だぞ」

 前進しようとしたら空却にそう言われ、はかくかくとした動きで進行方向を変えた。

「(今日のわたしおかしいよ~……ッ)」

 浮かれるどころか、もっと別のものを欲しがっている。は穴があったら入りたい気分になった。気を抜けばもっと深いところに嵌ってしまう気がして、これから空却と過ごす時間が恐ろしく感じる。
 はもう一度念入りに暗示をかける。今日は空却くんとのおでかけ。空却くんのためのおでかけ。ただのおでかけ、ただの――っ

「見えたぞ」

 途中、空却の声によって現実に帰ってくる。が前を見ると、木々の間からナゴヤの象徴とも言える歴史的建造物が見えた。淡い緑色の屋根、てっぺんには金色に輝くシャチホコ。あれは――

「名古屋城だあっ!」
「こうして見ると案外でけえのな」
「うんうんっ。すごいねっ。名古屋城おっきいねっ」

 まさかこんなところにあったとは驚きだ。遠目から見ているだけでこんなにも気分が上がってしまうのだから、もっと近くで見たときにはどうなってしまうのだろう。は子供のようにはしゃいでしまう自分が容易に想像できた。

 空却から渡された観覧券を受け取り、名古屋城の敷地に入ると、城を囲むようにして本丸が広がっていた。細かい砂利をざくざくと踏みしめながら、は名古屋城のパンフレットをぱらぱらとめくる。

「お城の中って入れるんかな? 上のところまで行けるんかな?」
「天守閣な。今工事やってっから中には入れねえぞ」
「そうなんだぁ……。ならしょうがないね……。……あっ、ここの本丸御殿っていうところは中に入れるんだってっ。入口はどこかな?」

 のテンションは上がりっぱなしだ。隣の空却に話しかけながら、パンフレットに夢中になる。本丸、二の丸、西之丸など、エリアが複数に分かれているのでどこから見て回ろうか迷ってしまう。
 今いるところがここだから、本丸御殿の入口は、えっと――マップとにらめっこしながらそう考えたところで、ははっとした。

「(わたしがはしゃいじゃかんっ!)」

 今日は空却くんのためのおでかけ――そうだ、うっかりしていた。ついさっき自分に言い聞かせたばかりだというのに、これでは意味がないではないか。

「空却くんはどこに行きたいっ?」
「あ? 本丸御殿じゃねーのかよ」
「ほ、ほらっ。ほかにもいろいろ回れるところはあるからっ。空却くんの行きたいところに行こうっ」

 「こっちの方とか、あっちの方とかっ」は空却に向かってパンフレットを広げる。しかし、空却が見ているのはマップではなくだけ。何か考えるような顔をしながら見つめられてしまい、はう、と言葉が詰まった。

「ぁ、あの……っ」
「そういや、あっちに甘味売ってたぞ」
「え! 甘いものっ?」

 あっち、と空却が指さした方を振り返る。すると、小さな長屋のようなところに人がわらわらと集まっている。マップを見れば、どうやらそこはお土産屋さんのようで、隣ではアイスやソフトクリームなどのデザートも売っているようだった。
 甘いものも食べたいし、お土産屋さんも見てみたいなあ……! がぱっと空却を見上げると、「散策する前に食うか」と聞かれて、はうんうんっ、と何度も頷いた。

「甘いもの、なにがあるんかなあ?」
「さぁーな」
「あっ、その前におとなりのお土産屋さんも見ていいかな? 空却くんもおじさんと十四くんたちにお土産買っていく?」
「お前、わざわざ地元の土産買うのかよ」
「うんっ。ここでしか買えんものもあるかもしれんからっ」

 そう言いながら、足はすでに店の中へと入っていた。時代を感じさせる渋い内装で、食べ物や雑貨類が所狭しと並んでいる。スーパーやコンビニでよく売っているお菓子の手羽先味や味噌味があって、は目についたお土産を次々に手に取った。

「(おいしそう……!)」

 ここでしか買えないような限定品ばかりだ。シャチホコの形をしたお菓子に目を輝かせ、気になるものを手に取っては買い物カゴにぽんぽんと入れていく。会計をした後に買いすぎてまった、と思ったが、後悔はなかった。食べきれなかった分は仕事場や近所の人に配ればいいのだから。
 お土産がたっぷりと入った紙袋を二つ持って、は店の外に出る。すでに外で待ってくれていた空却を見つけて、はたたっと彼の元に駆け寄った。

「空却くん、おまたせしましたあ」

 ほくほくとした気分で空却の前まで歩いていく。お土産を買えた嬉しさでにこにことしていると、空却は無言で見下ろしたまま動かなくなった。
 「空却くん?」不意に、手が掲げられる。空却の片手がの頭上まで伸びていき、ぴくっ、とそこで静止する。かと思えば、その手はすっと下ろされて、代わりにが持っていた紙袋をかっさらっていった。

「……んじゃ、なんか食うか」
「あ……ありがとうっ。うんっ。食べるっ」

 虫とかいたんかな……? は軽く頭上を見上げるが、何もいない。紙袋を持ってくれた空却はすでに背中を向けて歩いていたので、は見失わないうちにその後を追った。

 隣の店に行くと、ソフトクリームやパフェなどの甘味はもちろん、唐揚げやフランクフルトなどの軽食もあった。なに食べようかな、と数分悩んだだったが、シャチホコの形をしたカステラが乗った金シャチサンデーを注文した。
 外のベンチに空却と並んで座って、はサンデーを堪能する。季節はすでに秋半ばだが、太陽はまだ高いところにあるので、ぽかぽかとした陽気の下で食べるアイスは格別に美味しかった。

「空却くんはなにかお土産買った?」
「なんも。親父と獄に詮索されても面倒だしな」
「そっかあ。わたし、お菓子いっぱい買ったから、もしよかったらおすそ分けするよ」
「おう」

 アイスクリームおいしい、カステラといっしょに食べるともっとおいしい――まったりのんびり、は時折空却に話しかけながら金シャチサンデーを味わった。
 そういえば、空却くんはなに買ったんだろう? からあげかな? そう思いながら隣を見るが、空却の手には何もない。空却は目の前にそびえ立つ、石垣の上に建っている名古屋城をぼーっと眺めているだけだった。

「空却くん、なにも食べんのっ?」
「あー? ああ、今は腹いっぱいだからな」

 てっきり自分が注文した後に頼んでいたと思っていた。もしかして、わたしが甘いもの食べたいって言ったから付き合ってくれとる……? またしても自分だけ楽しい気分に浸っていたと思ったは、アイスクリームを掬ったスプーンを空却にずいっと向けた。

「空却くんっ。この金シャチサンデー、すごくおいしいから一口食べやあっ」
「はあ!? いらねーよお前が全部食えッ」
「そっ、そんな遠慮しんとっ。あっ、それともシャチホコのカステラのほうがいいかなっ?」
「そういう問題じゃねえし遠慮もしてねえッ。お前それ――っ」
「あぁっ。アイス溶けちゃう……っ」

 スプーンの端からアイスクリームがとろっと溶け始める。「大丈夫だよっ。すごくおいしいよっ?」とさらにスプーンを空却の口元に近づけると、ぐぬぬ、と堪えるような顔をした後、空却は口をばっと開けてスプーンを豪快に含んだ。

「どうかな? おいしい?」
「…………うまい」
「よかったあ。あっ、よかったらもう一口食べ――」
「いらねえ」

 空却は口を抑えながら顔を逸らしている。サンデーの美味しさが共有できたは嬉しく思って、再びスプーンでアイスクリームを掬った。

「(このサンデー、ほんとうにおいしい――)」

 ん?
 アイスクリームのミルクの味を舌で転がしながら、は口から抜いたスプーンを見る。プラスチックでできた、何の変哲もないスプーンだ。だが、先ほどとなにかが違うような。なにか、なにかが――

「(くっ、くうこうくんがつかったスプーン……っ!?)」

 全身に電流がびりびりと走る。息を詰まらせたはあれだけ順調に食べ進めていたサンデーから顔を上げる。世間一般でいう、あれである。は今まさに空却とあれをしてしまったのである。
 く、空却くん、気づいとらん、かな……? とはこっそりと隣を見る。すると、赤い髪の隙間から見える耳がぽってりと赤く腫れたようになっていた。
 それだけならまだしも、不幸なことにタイミングよくこちらを向いた空却と目が合ってしまう。空却の顔は……赤い。お互いに思っていたことが繋がった瞬間、の心臓は今日一番激しく暴れだした。

「(ぁっ、あああぁぁ……ッ!)」

 わたしが使ったスプーンやだったよねごめんね――そう言おうとしても、唇が震えて上手く言葉が出てこない。空却の目がぐ、と細められたとき、は肩を震わせた。

「ご、ごめんねごめんねッ。わたしのスプーンやだったねごめんねッ」
「おい」
「はいっ!」
「もう一口食わせろ」

 「へっ!?」空却くん、いま、もう一口って……っ? サンデーと空却を交互に見るが、まだ顔を赤くさせている彼は、「さっき、もう一口食べるかって聞いたろ」と続けた。

「く、空却くん、さっきはいらんって――っ」
「気ぃ変わった」
「でっ、でもこのスプーンは……ッ」
「スプーンがなんだよ」
「えぇっ!? ええぇぇ……ッ!?」

 が大混乱しているあいだに、空却は、あ、と口を開ける。その姿がなんとも愛らしく子供っぽかったので、の母性がきゅんッ、とつつかれた。
 溶け始めているアイスをスプーンで掬い、空却の口元にそっと持ってくる。はライオンにエサを与える人間の気持ちになった。首を伸ばしてスプーンをまるっと口に含んだ空却は、むぐむぐとアイスを味わう。喉を上下させたら、はぁ、と薄く開かれた口から小さな息が漏れた。

「……ごちそーさん」

 最後に、スプーンを含むときに口の端についてしまったクリームをぺろ、と舐める。そうして再び正面を向いた空却は、先ほどと同じように名古屋城を仰ぎ見た。
 今この数分で見た表情といい動作といい……の心をかき乱すには十分すぎるほど刺激が強かった。

「(わああぁ~っ……! わああぁぁ~……ッ!)」

 心の中で絶叫したは、残ったカステラを摘んで一口で食べる。そのあと、残ったアイスクリームを――正しくはスプーンを――口に入れるたびに色々なことを意識してしまって、サンデーは冷たいのに、食べれば食べるほどの顔は熱く火照るばかりだった。







 サンデーを食べ終えたあとは、本丸御殿の中を見学した。天井の華やかな装飾は緻密に出来ており、壁や障子はほぼ金一色で彩られていた。歴史的建造物とは思えないゴージャスさに、良い意味での目はちかちかとする。

「金色いっぱい……!」
「うちの寺よかド派手だな」

 そんな本丸御殿を出れば、ちょうど広場で忍者ショーがやっていた。黒い衣を纏った忍者たちがアクロバティックなパフォーマンスを繰り広げている。短い刀を振り回し、声を張りながら演武を披露する忍者隊に、のテンションは上がりっぱなしだった。

「空却くんっ。今のばく転すごかったね! 忍者さんかっこいいね!」
「……あんなん拙僧でもできるわ」

 そんなことを空却と話しながら、は大いにはしゃいだ。歓声を上げたり、手を叩いたり……純粋に沸き起こる興奮を外に出して、空却にどう思われるかも考えず、ありのまま楽しんだ。スプーンの件が頭の隅に追いやられるくらいには、名古屋城の催しに夢中になっていた。


 忍者ショーも終わり、名古屋城の隅から隅まで見て回る。自然に囲まれた二の丸と名のついた庭園を歩きながら、は敷地内のどこにいても見える名古屋城を見上げていた。

「すごぉーい……。名古屋城すごぉーい……」
「お前……本丸御殿出てからずっと“すごい”しか言ってねーな」

 空却にそう言われて、はえへへ、と照れたように笑う。今日は初めて見るものばかりだったので、充足感で胸がいっぱいなのだ。
 今もこうして庭園散策をしているが、とても楽しい。なにか特別なものを見るというわけではなく、ただ庭園内を歩いているだけだが、がどれだけゆっくり歩いても、空却は隣に並んでくれている。なんでもないようなその事実だけで、は数年分の幸せを味わっていた。

「(空却くんはお散歩もすきなんかなぁ)」

 の中にある、“空却くんのすきなものやすきなこと”が増えていって、とても嬉しく思う。特に会話はないものの、その沈黙でさえ今は居心地のいいものになっていた。

「空却くん、次はどこに行こっか?」

 楽しい気持ちでいっぱいだったので、江麻は何気なくそんなことを尋ねてみた。すると、空却はまたしても驚いたような顔をしたあと、「あー……」とばつ悪そうな声を漏らした。

「決めてねえ……っつーか、行くって決めとったとこはもう行ったしな」
「あ……。そ、そうなんだ……」

 それじゃあ、もうおわりかな……。この楽しい時間の終わりが見えてしまった途端、心にすきま風がぴゅうぴゅうと入ってくる。それを意識しないように、は「そ、そういえばっ」と話を変えた。

「空却くんは星がすきなの?」
「星ぃ? 好きでも嫌いでもねーよ。なんでだ」
「え? 今日、プラネタリウムに連れていってくれたから……?」

 が不思議そうに言うと、「あぁ、あれか」と空却は他人事のような薄い反応をする。

「このあいだの祭りが途中でやめになったからっつーのもあるが……」

 お祭り? 思ってもみなかった単語が出てきて、は瞬きをする。そして、「中学んときの修学旅行」と空却はぽんと言った。

「行けなかったろ。拙僧を追って警察署来たせいで」
「え……?」
「今更だけどな。東都観光と比べたら似ても似つかねーが……まあ、埋め合わせみてーなもんだ」

 想像を上回る答えを聞いて、頭が真っ白になった。きゅっ、と丸くなった目で、空却のことをじっと見つめた。

「それが……今日、空却くんがしたかったこと……?」
「あぁ」

 なんでもない顔で肯定する空却に、は崖下に落ちたような感覚を味わった。
 ずっと、空却のためのおでかけだと思っていた。少し……いや、かなりはしゃいでしまったが、の目的は一日中変わらなかった。空却くんのためになにかできる――そう思っていた心に、ぽっかりと大きな穴が開いてしまった。

「どうして……?」
「あ?」
「どうして、そんなにもやさしくしてくれるの……っ?」

 何も分かっていなかった自分が恥ずかしくなる以上に、謎だった。空却が優しいことは知っている。けれど、これは、違う。親切心を通り越していた。

「……優しくしとるつもりなんてねえ」
「そんなことないよっ。空却くん、いつもお菓子くれたりとか、果物くれたりとか……今日以外にも、いろんな場所に連れていってくれとるからっ」
「だからそんなつもりねえっつってんだろ。拙僧が勝手にやっとることだ」
「ううん、ううん……っ。空却くんがそうじゃなくても、わたしにとってはやさしいことで……っ。だから……っ」

 上手く言えない。ぐるぐるとこんがらがった言葉の糸を解いている間に、空却はふ、と鼻から息を吐いた。

「……どっちにしろ、拙僧がお前になにをしようが、お前が拙僧になにかするこたぁねーよ」
「ぁ……そ、そんな――」
「お前からの見返りほしさにやってるわけじゃねえしな」

 興味がないように目線が外れる。まるで何も期待されていないような態度に、の体が一気に冷めていく。
 それでも……言わなきゃ。ちゃんと、思っとることは、言わなきゃ。おちついて。おちついて。今度は、あの日みたいに、間違えないように。
 は控えめにくんくんっ、と空却の上着を引っ張る。ゆっくりとこちらを見てくれた空却の目に、自分のことをぎゅっと閉じ込めた。

「お、お返しとか、そういうのじゃ、なくて、ね。わたしは、空却くんのすきなものとか、行きたいところとか、もっと知りたいなって、思うから……っ。だから、その、わたしのことだけじゃなくて、空却くんのすきなこと……とか、もっと、たくさん、してほしいって、思うの……っ」

 春は桜吹雪の中を走り回るのが好きだった。夏は山に行って、カブトムシやクワガタをとるのが好きだった。秋は落ち葉の上で寝るのが好きだった。冬は霜が降りた地面の上でスケートもどきをするのが好きだった――そんな、幼いころの記憶。小さなことでいい。は、今の空却の“好き”が知りたいのだ。

「……拙僧の“好きなこと”とやらに、お前は付き合うんか」

 伝わった……! ぱあっと花が咲いたような笑顔をうかべたはうんうんっ、と頷いた。

「もちろん付きあうよっ」
「それも“なんでも”とか言うのかよ」
「うんっ。空却くんがわたしにうれしいことたくさんしてくれたみたいに、わたしも空却くんになにかしたいからっ」

 純粋な願望だ。自分にできることで、空却のしたいことならばなんでもしたい。ほんとうになんでもいいのだ。自分ができることなどたかが知れていると分かっているからこそ、“なんでも”という簡単なものになってしまう。しかし、その言葉にはのありのままの気持ちがぎゅっと詰まっている。これ以上、なんという言葉で表現したらいいのか分からないほどだ。
 ……空却は、静かに俯く。そして、上半身が膨らむくらい大きく吸って……細く長く、息を吐いた。

「……そーかよ」

 顔を上げた空却と目が合った瞬間――捕らわれた、と本能が叫んだ。
 の全身が強ばるよりも先に、手と手が重なる。だれの手と、だれの手が? 呼吸を忘れたは、温かく包まれた自分の手をおそるおそる見た。

「(へ、ぇ、え……ッ?)」

 汗が滲む。喉が渇く。つながっている。空却の手が、自分の手と。手首でも、腕でもなく……手のひらと手のひらが重なっている。今まで指先が触れ合ったりしたことはあっても、こんなことは、あの日以来一度もなかった。
 握るというよりも包むという表現が似合うほど、優しい力。昔はなかった、かたくて冷たい指輪の感覚が、の指に伝わってくる。あたたかくて、かたくて、おおきくて――間違いなくそれは、男の人の手だった。

「……解くなら、今しかねえぞ」

 今しかない――そう言われたと同時に、空却の手の力がぐっと込められる。たとえ解かれそうになっても離さないと言われているように。
 解くつもりは少しもなかった。そもそも、はそこまで頭が回っていなかった。空却の手の熱と感触だけで頭がいっぱいだった。ただ――

 ――「つないでやる。まだ寝ぼけてるんだろ」

 ――「はぐれたときに探すの面倒だろ。こんだけ人いんだからよ」

 ……震えそうになる手で、握り返す。それが答えとして聞き入れてくれたように、空却は一歩、足を前に出した。
 くん、との腕が伸びる。それに合わせて、も歩き始めた。今まで空却との間に広がっていた溝……そこに、向こう側へ続く橋が架かっているのが見えた。その橋を渡って、空却はこちら側までやって来てくれた。

「(どこに、いくんだろう……)」

 今の空却が何を考えているのか分からない。これからどこに行くのかも分からない。真っ暗な森の中へ光もなしに飛び込んでいるのに、の中には恐怖も不安も、何一つなかった。
 ……どこでも、いい。空却くんとなら、どこでもいいの。はなれたくない。ずっといっしょにいたい。このまま二人きりで、どこにだって行きたい――空却に手を引かれながら、は今まで生きてきた中で一番といってもいいほどのわがままをたくさん呟いた。