Episode.15
ある日、は空厳寺に立ち寄っていた。高校に入学したばかりなので学業祈願を……という思いの裏には、空却と会えるかもしれないという下心が少しあった。ふられたばかりだが顔を見るだけなら、という淡い期待を原動力に、の足は動いていた。
正門前で掃除をしていた灼空に挨拶を交わして、その流れで、空却くんはいますか、と。そう尋ねた。すると、いつもよりも深い溜息を吐いた灼空は言った。
「……え?」
最初、灼空が何を言っているのか分からず、顔を少しひきつらせたは聞き返す。それでも、彼の返答は変わらなかった。
「あのドラ息子は家出しおった」
いえ、で?
いえで、家で、家出――どうしようもない事実が、の頭の中にこれでもかと深く刻まれる。
「空却に、何か用だったかな」と続いた灼空の言葉に、はぶんぶんと首を横に振る。なにもないです――自分でも分かるほど、その声は震えていた。
それ以来、は学校帰りにたびたび空厳寺へ訪れた。今日は帰ってきているかもしれない。明日こそ帰ってくるかもしれない。明後日は、その次の日は、次の次の日は――空却のいない季節が巡り、いつの間にか、高校最後の春を迎えていた。
今日も、境内に空却の姿はない。本堂に坐す御本尊様に手を合わせながら、は今まで何百回と繰り返してきた願いを念じる。
「(空却くんが、元気でありますように)」
怪我をしていませんように。病気をしていませんように。おいしいものをいっぱい食べていますように――毎日、毎日、は同じ言葉を捧げる。そして、一瞬頭に過ったもうひとつの願いを、仏様とないしょばなしをするようにひっそりとおもう。
「(すきなひとが……できていませんように……)」
合掌をしていても、指が震えそうになる。の知らない場所で……たとえば、空却を想っている人がいて、空却もまたその人を想っていて、その人と一緒にいることが彼の幸福と呼ぶものであったとしたなら――それだけで、はその場で倒れてしまいそうになる。彼の幸せを、胸の中に仕舞い続けている恋心が邪魔をしてしまう。
空却の隣に、想い合っている誰かがいる――その光景を、想像しないように。は毎日、空却が笑顔であり続けていることをただ願った。
「明日から、拙僧が送迎する」
その“明日”が来てしまった今日。
は全身に緊張を纏って登校した。朝起きた時から心臓は重く、息を深く吐かないと立っているのも難しいほどだった。そのせいで、どうやら周りから顔色が悪く見えていたらしく、「保健室行く……?」と心配そうな顔をしたクラスメイトらに度々言われた。きっと、頭に巻きついている包帯もあってのことだろう。教師や友達には、家の階段から落ちた、とだけ言っており、怪我をした本当の理由は隠している。
「(ほんとうに、来てくれとる……)」
下校時間になって、教室が賑やかになった頃。窓の外を見れば、早くも校門の前に空却が立っていた。驚きとはまた別の感情が沸き起こって、息が詰まった。
早く行かんと、と思いながらも、その足は竦んでしまう。空却くんのところに行ったら、なんて言えばいいんだろう。こんにちは? おまたせ? たったそれだけのことを言うことすら、山の頂きを目指すのと同じくらい困難なことに思えてしまう。
そればかりを考えているうちに時間は過ぎていく。結局、皆がほとんど帰ってからは教室を出た。空却に何を言えばいいのか……思いつかないまま。
「……行くぞ」
うぬぼれていた。空却と目が合うだけで体が動かなくなるのに、言葉を交わすなど到底無理な話だった。
まだお互いの間に数歩の距離がある中、空却はそう言って歩き始めた。はその後を追う。空却のすぐ近くまで歩いていこうとするが、足はそれ以上前に進まなかった。
元々の歩幅も違うので、空却との距離もだんだん開いていく。どうしよう、急がんと。はやく、はやく――緊張と焦燥で心拍数が上がる。今にも足がもつれて転んでしまいそうになる。そんな時、空却がこちらを振り返った。
「おい」
ひゅッ、と喉が縮こまった。
まだ何か言われたわけでもないのに、は思わず一歩退いてしまう。機嫌が良いのか悪いのか分からない表情をしている空却にじっと見つめられて、顔の筋肉が引きつっていくのが分かった。
どくっ、どくっ、どくっ――動悸が全身を侵す。冷や汗が背中に滲んでいく。遅いって怒られちゃう。怒鳴られちゃう。また、きらいって、言われちゃう――なにか言わんと、言わんと、言わんと。の頭の中は、そればかりで。
「ぁ、あ、あし……おそくて……ごめんなさい……」
今、が紡げる精一杯の言葉。なんとか最後まで言い切ったは、急いで空却の元に駆け寄る。しかし、どのくらい彼に近づいていいのか分からず、人ひとり分ほどの中途半端な距離が空いた。これでも近いかもしれない、なんて思うくらいだった。
……体を刺すような沈黙が生まれる。今度は、行くぞ、とも言わず、空却は顔を背けて、歩きだした。そんな彼を見て、から緊張がどっと抜ける。謝ったことが正解だと言われている気がした。これからは、空却くんの機嫌を損ねないようにしよう――そう学んだは、今ある空却との距離感を目で見て覚えながら、彼の後ろを慎重に歩いた。
空却は何も言わなかった。
店の前で待っている時も、歩いている時も、玄関先で別れる時も――空却の声を聞いていない月すらあるほど、彼はほぼ無言だった。は空却の後ろを追いかけているだけなので、顔はほとんど見れていない。最近のは、空却の無表情と怪訝な顔しか見ていない。彼の笑顔を、だんだん思い出せなくなっていた。
――「ッ、お前なんかっ、大ッ嫌ェだ……ッ!!」
一人で考えごとをしている時に、ふと思い出す。走馬灯のように頭を駆け巡るこの記憶から、ぎゅっと目を瞑ってしまいたくなる。今にも声を出して、存在ごとかき消したくなる。小さい頃、自分をたくさん助けてくれたその声が、今のの体の内側をずたずたに切り裂く刃物になっていた。時にそれは呪詛のように全身に絡まりついて、の意思すらがんじがらめにした。
きらい。空却くんは、わたしがきらい。
空却くんは……わたしが、きらいなのに。どうして、いつもおうちまで送ってくれるんだろう。
分からない。聞きたい。聞けない。考えれば考えるほど、むねが、いたい。
……あ。
「(……そっ、か)」
これが……この傷が、あるから。
包帯越しに、患部へ触れる。夜中に特に熱を帯びてじくじくとした痛みが走るそこは、あの日の出来事は嘘ではないと、に訴え続けていた。
空却くんは……やさしいから。
どんなにきらいでも、わたしの面倒を見てくれるのはきっと……責任を感じているから。それ以上でも、それ以下でもないから。
期待したら、だめ。空却くんは、やさしいから。すごく、すごく……やさしいから。
患部が癒えても、痣は残るかもしれないそうだ。それを聞いた灼空は痣を消す手術のためのお金を出すと申し出たが、は拒んだ。大丈夫です、必要ないです――頑なにそう言い張る裏には、どろどろとした欲が溢れていた。
――「いいか。おれがとまったらとまれ。あるいたらあるけ。おれがとおった道いがいの道をあるくんじゃねーぞ」
この傷があるから、空却くんはお迎えに来てくれてる。これがなくなったら、きっともう……二度と会えない。会ってくれない。そう、思ったから。
「ちゃーん。あの子、もう来てるわよ~」
あんなにもやさしい人を……利用している。
は罪悪感で毎日体が押し潰されそうになる。かと言って、空却がいない日々を想像するだけで、体に悪いものが胸から込み上げてきた。
くるしい。会いたい。くるしい。会いたい、会いたい、会いたい――顔が見えなくても、声が聞けなくても、わたしのことが、きらいでも……たった少しの、時間でも。わたしは――
「お、またせしました……」
が声をかけると、空却が微かに目配せをする気配がある。そして、しゃがんでいた彼はすっと立ち上がり、無言で歩きだす。その後を、は追う。いつもと同じ。何も変わらない、お互いの距離。いつ落ちてもおかしくない綱渡り。こんな日々が、いつまでも続くわけがないと分かっていた。いつかは真っ逆さまに落ちるか、縄が切れる日があるだろうと。それでも――
「(あと、すこしだけ……)」
千切れかけの縁の糸に縋りながら、は今日も空却の背中を追いかける。昔からあった景色のはずなのに、今は遠いところにあって、別人の背中にすら見えた。
空却との間には、見えない溝が生まれている。空却がいる向こう側に渡るすべも、飛び越える度胸もないまま、同じ日々を繰り返している。
自分から、終わりを告げる勇気などない。ならいっそ……今、この時間が息の詰まるものだとしても。は、このままがいいと願う。このままでいさせてほしいと祈る。
もしも、彼と繋がっている糸が切れる時……その時が来たら、きっと――
――「!」
もう、迎えには来れない……って、空却くんから、そう言われると思うから。
家の前まで送ってくれた空却の背中を見送って、は家に入る。今日も一日終わった、と一息つくと、今はほぼ使っていない、固定電話のランプがちかちかと光っていることに気づいた。
着信履歴を確認すると、見覚えのある番号が表示されている。ボタンを数度押して、受話器に手を当てる。コール音を六回ほど聞いた後、ザザッ、という雑音が耳を掠めた。
《も、もしもし……っ?》
少し上擦った声だった。久々に母の声を聞いたは、すぐに声が出なかった。最後に母と電話したのはいつだったか……すぐに思い出せないくらいには、母の声を懐かしいと感じていた。
「おかあ、さん」
《そ、そうっ。おかあさん……です》
音声は鮮明に聞こえているので電波はいいはずなのだが、母の声はたどたどしく、どこか弱々しい。やっぱり今もお仕事忙しいんかな、と思い、あまり余計な話はしないようにしようと決めた。
「ひさしぶりだねぇ」
《う、うん。ひさしぶり、だね》
「さつまいも、毎年送ってくれてありがとうね」
《ぜ、ぜんぜん大したことじゃないよっ。ちゃん、さつまいも好きだし……その……私もこれくらいしかできないから……》
年に数度、母はさつまいもを送ってくれる。それはもう、一人では食べ切れないほどのたくさんの量を送ってくれる。幸い、送ってくれる時期がちょうどバレンタインデーと被る時があるので、鬼まんじゅうや煮物を作っては、職場や近所の人におすそ分けをしていた。
無言の時間が続くと、《ちゃんは、さいきん元気……?》と母が話を振る。お仕事大丈夫かな、と気にしながら、「うん、元気だよ。おかあさんは?」と当たり障りのない会話を広げた。
空却と一緒にいる時とは、また別の緊張感がある。子供の頃には見えなかった、母との間に生まれていた距離がそのまま壁として浮かび上がってきているような……そんな感じだ。母の話し方や間の取り方が、今にも最後の花弁が散りそうな花を触るようにこわごわとしていて、もまた、実の母だというのに距離感を掴めないでいた。
「あのね、おかあさん」
《う、うん》
「わたしも働いとるし、このあいだ税金も安くなったから……お金、もう振り込まなくても大丈夫だよ」
世間話ついでに、ずっと伝えたかったことを言ってみる。毎月のように口座に振り込まれる、高額のお金。聞くところによると、カヨが生きていた頃から養育費という名目で母から振り込まれていたらしい。カヨが亡くなってから……そして、が中学を卒業してからはさらに金額が上がっている。
高校まではそのおかげで助けられてきたが、今はもう社会人として働いている。母からの援助なしでも、自分だけの収入でやりくりもできる。そんなようなことをやんわりと伝えると、再び無言の時間があって、《ぁ……そ、そう……》とかなり困った母の様子が電話越しに伝わってくる。なんとなく言ってはいけないことを言ってしまったような気がして、「お、おかあさんがよければ、だけど……」とは要領の得ないことを言ってしまう。母からの返事はなかった。
さらに重たくなった空気を払拭するように、「そ、そういえばっ」とは話を変えた。
「今も、お仕事忙しい?」
《う、うん……っ。中王区が発足されてから、またばたばたし始めちゃって……》
ニュースや人伝にしか聞いていない単語をまさか今耳にするとは思わず、は「そ、そうなんだ……」と動揺の色が交じった相槌をうった。
中央区築地――が住んでいた場所は今はもう分厚く高い壁で覆われており、名称も“中王区ツキジ”に変わっている。今まで普遍的なものだと思っていたことがこんな短期間で変わってしまうことがあまりにも信じられず、今でも遠い世界のことのように思えてしまう。
「それじゃあ……おかあさんも今は壁の中にいるの?」
《うん……。もともと中央区に住んでた女の人のほとんどは、そうなんじゃないかなぁ》
《私も、お仕事は変えられなかったから……》区役所で働いているらしい母は、とにかく大変なお仕事をしている、というイメージが昔から付いている。朝は自分よりも早く出て、夜は自分が寝た頃に帰ってきていた。自分がご飯を食べている間、目の前でうとうと微睡んでいた母……母がご飯を食べているところを、はほとんど見たことがない。
今も、そんな生活をしているのだろうか。大きな環境の変化もあるし、体は大丈夫なのだろうか――そんな心配をしていると、《そ、それでね》と母の声がした。
《このあいだ、家族申請が始まったの》
「家族申請……?」
《うん。いづれは壁の外に住んでる女の子も入区することができるんだけど、今は制限が厳しいからそうもいかなくて……》
「えっと……おかあさん……?」
《でも、中王区に戸籍を持ってる人の家族なら、手続きをすればすぐに移り住むことができるんだって》
お金もたくさんあるし、お休みも取れるようになった。おかあさん、昔みたいにぜったいにちゃんに苦労かけないから――苦労ってなんだろう、と途中で思いながら、母が言っていることを飲み込むまで少し時間がかかった。
中王区に一緒に住もう――そう言われていることに気づいて、はなぜか、他人事のようにその言葉を受け止めた。そして、これが今回電話をした用件なのだと察した。中王区への移住について、どこか興奮ぎみに語る母に、は思ったことをそのまま口にする。
「中王区に行ったら、ナゴヤにはもう戻れないの……?」
《そ、そんなことないよっ。ちょっと時間はかかるけど、届けを出せば外に出られるし……っ》
「とどけ……」
《うんっ。あ……でも、ナゴヤのお友達とか、お仕事のこととかあるもんね……》
徐々に自信なさげになった母の声が、謝罪に変わる。ちゃんごめんね、ほんとうにごめんね。私、昔から自分のことばっかりで。ごめんね、ごめんね――こちらが口を挟む間もないくらい、母は絶え間なく謝り続けた。
ちがうよ。おかあさんのこと言っとるわけじゃないよ――そう言ったら、さっきみたいに母を困らせてしまうと思い、は言うのをやめた。昔から、母の謝罪を聞いていると、自分が母にとって悪い子のように思えてしまって、は母の謝罪が少しだけ苦手だった。
……母の声が止む。電話口に声が入らないくらいの小さな音でふぅ、と息をついて、はようやく口を開いた。
「中王区のことは……すこしだけ、考えてもいいかな」
《うん……っ。うんっ。もちろんっ。ゆっくり考えてっ!》
今のができる、最善の返事。母にとってはあまり快いものとは言えないかもしれないが、母は嬉しそうに何度も肯定した。あまりにも母が嬉しそうなので、も自然と口角が緩んだ。
中王区への移住申請ができる期間は無期限ではないこと。申請ができるのは来年の今頃までということ。それを逃したら一般申請を待つことになるが、定員数も限られており、申請開始時期がいつになるか分からないこと――そんなようなことを簡潔に伝えられて、最後にまたね、とお互いに挨拶をして、電話を切った。
「(あと、一年……)」
受話器を置いて、は何もない空間を見つめる。
幸せな思い出がたくさんつまった、カヨとの家。美味しいものが立ち並ぶ商店街。大事な友達。支えて助けてくれた職場の同僚たち――色々な人に助けてもらって、今まで生きてきたといっても過言ではないくらい、は人の縁に恵まれた。
今から中王区に行けば、昔のように母と暮らすことができる。そうしたら、忙しい母のために、ご飯を作ってあげられるかもしれない。休みの日は二人でショッピングに出かけたり、ツキジで食べ物屋さん巡りをしたり……そんな日々を送れるかもしれない。自分が帰ってくる家に誰かがいること……そのありがたみは、自身よく分かっている。
――「!」
……もう訪れることはないと思い、埃をかぶってしまった幸せな思い出。その中で、今もなお生き続けている彼に呼び止められた。
空却くんは……? はっとしたは全身が冷えていくのを感じた。中王区に行くまで、このままずっと何も話せないで、あの時のことには一切触れず、空却と別れてしまうのだろうか。今のままでは、さよならもろくに言えないかもしれない。空却との間に深く刻まれた傷を残してナゴヤを離れるなんて――
「(……やだ、)」
は壁にかかっているカレンダーを見る。十二月に入ったばかりの今日から、未来の日付を追っていく。十二月の終わりになると、世界中の多くの人が楽しみにしている大きなイベントが控えていた。
「(クリスマス……)」
宗教上、空却にとってはあまり関係のない日かもしれない。それでも……なにかをする口実にはなり得るくらい、今のにはとても魅力的な日に思えた。クリスマスという日がサンタからのプレゼントだと錯覚するくらいには。
小さい頃、大人になってもこういうイベント事を空却と楽しめると信じていた。しかし、実際はどうだろう。バレンタインも、誕生日も、夏祭りも――かけがえのない時間は、いつの間にか消え失せてしまった。名前もない関係である空却と二人でいることに対して引け目を感じてしまったせいで、周りの目を気にして、心が揺らいで……自ら身を引いてしまったこともあった。
それでも……今はもう、そんなことは言っていられない。
「(空却くん……)」
せめて……せめて。物怖じせずに、話せるように。空却を怒らせてしまったあの時のことを、謝れるように。怪我のことも気にしていないよ、と言えるように。漠然とした願いを思っただけで手足が震えてしまうが、のこの意思だけは揺らがなかった。
クリスマス間近ということもあり、街中はいつも以上に賑わいを見せていた。華やかなイルミネーションを横目に、は次々と通り過ぎていく店を素早く観察する。空却の背中を気にしながらなので、文字通り、目が回るほど忙しかった。
「(プレゼント……プレゼント……。なにかいいもの……)」
家でも考えたが、お菓子しか思いつかなかった自分が不甲斐ない。あとはお団子とか、甘栗とか、天むすとか――あっ、天むすはわたしの好きなものだからだめだぁ……。数日間頭を悩ませてもこれといった成果がなかったので、実際に見た方が早いかもしれない、と思い、こうして帰り道に商店街に立ち寄っていた。が、空却が喜びそうなものはなかなか見つからない。
「(……あっ)」
食べものとかなら、形に残らんからきっと重たくないはず――そう思っていたが、今目についたものを見て、の体にびびっと電流が走った。
「う……っ」
そのとき、どんっ、との顔面にかたいものにぶつかる。じんじんと痛む鼻を押える。それが空却の背中だと分かった時には、前にいる彼がこちらを振り返っていた。
今日初めて空却と目が合ってしまい、は慌てて下を向いた。
「ごっ、ごめんなさい……」
背中、痛かったよね。怒られるかな――はびくびくしながら空却の反応を待った。
「……ちゃんと前向いて歩け」
冷めきった声色に、空却との間にある溝がさらに深くなった気がした。の口からは思わず、「ごめんなさい……」と二度目の謝罪が漏れる。もちろん、空却からの返事はない。
地面を見ていたはおそるおそる顔を上げる。空却はすでに前を見据えていた。自分たちの前方には横断歩道があり、信号機の色は赤。その隙に、は一目見て、これだ、と思ったそれを再びじっと見つめる。
最近できたばかりのガジェットショップ――店頭にはおすすめ商品、というキャッチーなデザインのポップとともに、楕円形の丸いボディをした電子カイロが展示されていた。カラー展開が豊富で、その中にある深いワインレッドのそれを見れば見るほど、空却へのクリスマスプレゼントはこれしか考えられなくなった。
「(空却くん、こういうの好きかなぁ……?)」
実用的かつ、デザインも申し分ない。しかし、本人の趣味ではないものをあげても意味がない――となれば、趣味であるものかどうかは本人に聞くしかない。そう思ったの口はすでに開いていた。
「く……空却、くん」
聞こえていませんように、と天邪鬼な自分が囁く。しかし、の呼びかけに空却はすぐに振り向いた。再び合わさる視線。頭が完全に真っ白になる前に、は店先にある電子カイロを指さした。
「空却くんは……ああいうの、どう思う……?」
「どう思うって、なにが」
「ぁ……ぇ、えっ、と……」
そ、そうだよね……。どう思う、なんて言われても困るよね。どうしよう。なんて言おう。早く言わんと――は目を泳がせながら、空中に浮かんでいるはずもない言葉を必死になって探した。
「……便利かどうかってことか」
途中から流れてきた空却からの助け舟に、「う、うんっ。そういうこと……っ」とは何度も頷いた。
すると、信号が青に変わる。周りの人間は一斉に歩き出すが、二人だけはその場に立ち止まったまま。空却は電子カイロを静かに見つめており、そんな空却を固唾を呑んで見守る。あまりにも長い間空却に集中していたので、ここの空間ごと時間が止まってしまったような、不思議な感覚を味わった。
「……まぁ、いんじゃねーの。使い捨てよか、何度も使えるもんの方が得だろ」
少々溜息混じりに言われた言葉――それを聞いただけで、全身が花開いたようにぶわっと膨れ上がった。
答えて、くれた……。空却にとってはなんでもないことかもしれないが、はこの場で飛んで跳ねたいくらい嬉しくて、「そっかあ……っ」と自然と笑みが零れた。たったこれだけのことで、あたたかいものが胸からじんわりと滲んでいく。温泉に浸かっているみたいに心地がよくて、頭がふわふわと軽くなった。
「(いいってっ。空却くんがいいって言ってくれたっ)」
は舞い上がらずにはいられない。今度、ここの電子カイロを買いにこよう。売り切れとらんといいなぁ。ラッピングは自分でしようかな。きっと緊張するだろうから、渡すときの言葉も考えとかんと。空却くん、使ってくれるかな。喜んでくれるかな。
あっという間に頭の中が空却のことでいっぱいになる。空却と歩み寄るためのはじめの一歩を踏みだせたことも嬉しくて、の笑みはなかなか戻らない。こんな浮かれた表情を空却に見られないように、は少しだけ顔を下げて、再び赤になってしまった信号をいそいそと待った。
今日は早く家に着いた気がする。照明を取り替えていないのに、いつもよりも明るく感じる玄関口にて。背中を向けた空却に向かって、は声を張った。
「お、おやすみなさいっ」
最近、頑張って言えるようになったただの挨拶。それに対して、空却はわざわざこちらを振り向いてくれて、「……おやすみ」と小さな声で返してくれる。空却が歩きだして、角を曲がるその時まで……はその背中を見守ってから、いつものように家に入った。
「(今日も言えたぁ)」
おやすみ――空却が自分の言葉に応じてくれることが奇跡のように思う。良い夢も見られそうだとも思う。今まで体に溜め込んでいた緊張をため息とともにふう、と吐き出した。
今日は大収穫の日だ。明日から、とても忙しくなる。クリスマスプレゼントを買うだけではだめだ。もっと自分から行動しないと。帰り道に世間話をして、開いた距離を少しずつ縮めていって、それから――
「(どうしよう……)」
そもそも、プレゼントなんていらないと言われたら? それを機に、もう会えなくなったら? 顔も見たくないくらい、今度こそ嫌われてしまったら?
有頂天だった気分がどん底に突き落とされる。嫌な未来ばかりが思い浮かんで、の体はびく、と竦んだ。
怖い。とても、怖い。こんなにも身がよだつのは初めてだ。今ある不安定な関係すら壊れてしまったらと思うと、は息ができなくなる。それならいっそ、このまま……時間に身を任せるだけでいいのではないか。これ以上直ることもなく、壊れることもなく、このまま……溝の向こう側にいる空却を見ているだけで――
――「大丈夫だ」
とんっ――の背中を、誰かの……小さな手で強く、優しく押される。
振り向くと、そこには少年が立っていた。彼の澄んだ金色の目はをまっすぐ見つめており、その口元は自信ありげに上がっている。
悲しみで押し潰されそうになるとき、隣でいつも支えてくれた……にとっての、小さなヒーロー。
――「ならできる」
太陽のように笑い、陽だまりのようにあたたかい手を差し伸べてくれる。幼い空却は、心から“できる”と疑わない眼差しを向けてくれている。の中にある力を、信じてくれている。
「くーちゃ――」
手を伸ばそうとして、幻影が消える。数年前からひとりぼっちの家に、いるはずがない人。ただ……その声が、いつも背中を押してくれる。たとえ時が経っても、大きなわだかまりがあったとしても……今までもらった空却の言葉は、いつまでもの心の中に在り続ける。
「だいじょうぶ……だいじょうぶ……っ!」
誰もいない家の中。はたった一人、決意を胸にする。強がりでもなんでもいい。この思いを声に出すこと――それだけで、在りし日の空却に褒めてもらえるような気がした。
――びくッ、と体が震える。突然体が急降下していく感覚を味わって、何が起きたか分からないはぱっと目を開けた。
「おはよう」
静かな店内と上品なカフェインの匂い。そして、目の前でコーヒーを飲んでいる男――小学生からの付き合いである野山がカップをテーブルに置いた時、はようやくはっとした顔をした。
「ご、ごめんねっ? わたし寝とったよねっ」
「いいよ。気にしんで。それに、連れ回したのは俺の方だから」
顔色一つ変えずに、野山はそう言った。そんな彼に「そ、そんなことないよ」と言いながら、覚醒した頭で今までのことをゆるゆると思い出していく。
杏の誕生日プレゼントを一緒に選ぶ――数ヶ月前に決まった野山との約束を今日果たしていた。本日帰省したばかりの野山とメイエキで待ち合わせをして、駅周辺にある店を半日ほど見て回った。野山くんが選ぶものなら、あんちゃんはなんでも喜ぶと思うけどなあ。そう思ったが、真剣な眼差しでフレグランスやアクセサリーを見ている彼に対して、水を差すようなことは言わないでおいた。
無事に杏へのプレゼントを買うことができたので、今は買い物に付き合ってくれたお礼ということで、カフェでコーヒーを奢ってもらっているところだった。寝起きのは自分の前に置かれているコーヒーを飲むが、やはり少し冷めてしまっている。ずいぶんと長い間眠っていたらしい。
そして、とても……とても、長い夢を見ていた気もする。内容はうろ覚えだ。夢の残滓として残っていた曖昧なものを、ぬるいコーヒーと一緒に飲み込んだ。
「わたしもお買い物付き合ってもらったし、野山くんに荷物たくさん持たせてまったから……」
「あんの買い物で慣れてるから、それは全然」
「あんちゃん、お買い物好きだもんねぇ」
「うん」
野山は昔から言葉数が少ないが、その声からは彼の気遣いと優しさが十分に感じられる。聞き手役の彼と話上手な杏とはとても相性がいいと思う。
もどちらかというと聞き手に回る方なので、野山と二人きりでいると無言の時間になることが多いが、はそれを嫌と思ったことはなかった。
「そういえば那須野って」
「うんうん」
「今は波羅夷と付き合っとるんだっけ」
突如出てきた名前に、ぐ、と喉がせり上がる。何の心の準備もしていなかったは飲みかけていたコーヒーでけほっ、と少しむせた。
つき……つき、あう? 空却くんと……? だんだんとの顔に熱が帯びていく一方で、野山は変わらず涼しそうな顔をしている。
「俺、波羅夷に何も言わずに那須野のこと借りてまったから」
「か、かり……ッ」
「うん。それで、悪いことしたかなと思って。すごく今更だけど、波羅夷はそういうの気に――」
「付き合っとらんよっ!」
周囲にいた客の何人かの視線を集める。声を張ってからはたとしたは、別の意味で赤くなってしまった顔を下げた。
「ご、ごめんね……。おっきい声だして……」
「……ううん。俺こそごめん」
動揺を隠したくて、はコーヒーをちびちびと飲む。まだ落ち着きを取り戻さない心臓の音を感じていると、「てっきりもう、告白したかと思っとった」と野山は言った。
「中学のときかな。那須野が波羅夷に告白するって、あんからも聞いとったし」
「し、しようと思ったんだけど……。その前にふられてまって……」
すると、野山が珍しく表情を崩した。眼鏡の奥で目を見開きながら、「那須野をふったの? 波羅夷が?」と、かなり驚いたような声色で言う。「う、うん……」
「だから……わたしのことはそういう意味で、見とらんのだと思う……」
自分で言ってから、胸にぐさりと刺さるものがある。卒業後に初めて空厳寺に行ったあの日のことは、あまり思い出さないようにしている。あの日見た空却の笑顔が今以上の関係になることを拒絶しているようで、の告白は失敗に終わっていた。
「那須野は、ちゃんと伝えた?」
「え?」
「好きだよって。波羅夷に」
野山の目にまっすぐ射抜かれて、は表情が固まってしまう。野山にとってはそれが答えになっていたようで、彼は目をすっと細めた。
「俺が言うのもおかしいけど、そういうのはちゃんと言った方がいいと思う」
「う……」
「中学卒業してから、波羅夷とは会っとるの?」
「あ、会っとるん……かなぁ」
その問いについてはイエスとも言えるし、ノーとも言える。というのも、ここ数日間、空却が店まで迎えに来ることはなく、顔も見ていなければ連絡も途絶えていた。
――つい先日のこと。祭りの途中で空却が体調を崩した。体調を崩した、という表現が正しいのか分からないが、あの少年のような男が何かしら働きかけたにしろ、空却が突然膝をついたことには変わりはない。
不思議な力を使った男もどこかへ行ってしまい、何が起きたのか分からないまま空却に体重を預けられていた。それからしばらくして騒ぎを聞きつけた獄と十四がやって来なければ、はずっとあのままだったかもしれない。
――「おい空却しっかりしろっ!」
――「くっ、空却さんがっ……! 空却さんが死んじゃうっすうぅぅ……っ!!」
――「十四は項垂れてねえでから空却を離せッ!」
半泣き状態の十四によって、体から空却をべりっと剥がされた。獄が空却の頬を強めに叩いても反応はなく、終始薄ら眼だったので意識があるのがないのか分からなかった。もでパニック状態だったのでよく覚えていないが、空却の口からはうわ言のようなものも漏れていた。
もちろん、楽しかったはずの祭りはその場でお開きになる。獄は空却を病院に連れて行き、は十四に家まで送ってもらうことになった。と同じくらい慌てふためいていた十四だったが、歩きながらいつもの調子を取り戻し、「空却さんならきっと大丈夫っすよっ!」と元気づけられた。十四くんも空却くんが心配なはずなのに、わたし、家に帰るまでずっと暗いままだったなぁ……。空却の安否が心配でどんよりとしていた自分を思い出したは、今度十四に会った時にきちんとお礼を言おうと思った。
そしてその翌日――仕事の休憩中、空却から一通のLINEが届いた。
――しばらくの間、迎えに行かねえ
危うくスマホを落とすところだった。“絶交”の二文字が過ぎって放心状態になった。一緒に昼食をとっていたオーナーに、「ちゃーん。賄いのハンバーグ冷めちゃうわよお」と話しかけられても、真っ青な顔をしていた。
――「ちゃんどうしたの?」
――「おっ、おむかえ行きたくないって……っ。行きたくないって空却くんが……ッ」
――「えぇっ!? ちょっとトーク見せて……って、全然そんなこと書いてないじゃない! んもうちゃんったらおおげさ~っ!」
よぉしよぉし、とオーナーにあやされながら、空却から送られてきたメッセージをもう一度よーく読んでみる。“ずっと”ではなく、“しばらくの間”――空却と会えないのは一時的によるものだと分かって、ひとまずほっとする。しかし、“行かない”という言い方が引っかかる。何か用事があって“行けない”のではなく、これは空却の意思によるものではないか……とオーナーは言った。
「あの子、なにかあったのかしらねえ」頬に手を当てながらそう言うオーナーの横で、は祭りのことを思い出していた。空却くん、体調がまだよくないんかな。大丈夫かな――LINEでそう聞きたかったが、その時のにはそんな勇気はなく、当たり障りのないスタンプを送って、それきりになっていた。
「微妙な顔しとるね」
「ちょ、ちょっと、いろいろあって……」
何も知らない野山にどこから話したものかと考えていると、「言いづらかったら、無理に言わんくてもいいよ」と彼は淡々と言った。
「どういうふられ方されたかは分からんけど、たぶん、那須野の言葉も足りんかったんじゃないかな」
「そ、それは……あるかもしれんね……」
足りないどころかそもそも言っていないと伝えるべきか迷ったが、は曖昧な言葉で場を濁した。
すき――たったこれだけのことを空却に伝えるだけ。言葉こそシンプルで短いのに、これを言うことによって様々なものが色や形を変えて、の知らない世界になってしまう気がした。
空却に間接的にふられたあの日……今の関係が壊れなければいい、とそう言い訳をした。しかし、実際にはあの後空却はナゴヤを出て数年戻らなかったし、戻ってきたあと、すぐにあんなことになってしまった。結局は壊れてしまう関係だと分かっていれば、あの時の自分も、もう少し勇気を出せていたのかもしれない。
「野山くんは、告白するとき怖くなかったの……?」
「怖い?」
「ふられちゃうかもしれんとか、今まで二人でできてたことができんくなっちゃうかもしれんとか……」
今となっては過去の話だが、同じく片想いをしていた大先輩に聞いてみる。「あぁ……」と野山は思い当たる節があるように目を伏せて、コーヒーの表面を見つめた。
「まぁいいか、って……思ってた時期もあったけど」
「けど……?」
「俺は、気持ちを伝えて今までの関係がだめになるよりも、何も言わないであんが他の人のものになる方が嫌だったから」
一つ一つの音に芯が篭っていて、力強い。野山の素直な言葉が、の胸に重たく響いた。
空却が誰かのものになる――それはにとって、あまり想像できないことだ。空却にはどこまでも自由であってほしいが、そんな彼にも将来、人生を添い遂げたいと思う人が現れるかもしれない。もしその時が訪れたら、自分はどうするだろう。何を思うだろう。穏やかに見守ることができるのだろうか。笑顔で祝福できるのだろうか。空却の幸せを祈って、心の底から――
「なにが正解……なんてことは、きっとないんだよ」
深いどん底に落ちそうになるところで、野山の声がの意識を掬い上げた。
「言っても言わんくても、今の関係が永続的に保証されとるわけじゃないからね。環境の変化とか、気分の移り変わりとか……お互いに、色々あるだろうし」
「それは……そう、だね」
「うん。ただ、今の那須野が波羅夷との関係に満足してないなら、言いたいことは言った方がいいと俺は思う」
「それに、」と野山は間を開けて、少しだけ表情を緩めた。
「波羅夷は自分の気持ちを正直に伝えた女の子を、これから先、邪険にするような男じゃないよ」
俺よりも波羅夷との付き合いが長い那須野も、そう思わない?
は唖然とした。知らない間に野山によって敷かれていたレールの上を歩いてきて、彼が本当に伝えたかった場所に辿り着く。そこから見える景色は雨上がりに虹がかかった世界のように、きらきらとした光に溢れていた。
――「!」
いつだってまっすぐで、平等で、心の優しい男の子。そんな彼に恋をしたのも、きっとそういう部分があるからだと……長らく向き合うことをやめていた想いを、は改めて見つめ直した。
店内が混んできたので、雑談も程々にして外に出る。休日のナゴヤは人で溢れており、駅前に行けば待ち合わせや道行く人で賑わっていた。
自分が買ったものが入っているショッパーを持ってくれている野山に申し訳ない気持ちになりながら、は昔よりも身長が伸びた彼を見上げた。
「話、聞いてくれてありがとう」
「大したことはしとらんよ。それに俺も、昔はあんのことでよく相談に乗ってもらっとったし」
「あんちゃん、ぜんぜん気づいとらんかったもんねえ」
「那須野が転校してこんかったら、俺は今あんと付き合えとらんかったと思う」
「それはぜったいにないよ~」「今の、結構本気で言ったんだけどな」そんなことを言い合いながら、は頭の隅で空却のことを考えていた。
以前よりも、空却との関係は修復されたという自負がある。最初は、友達のように気軽に話せるようになるだけでいいと思っていた。少なくとも、半年前の自分なら、もう大丈夫、と安心していた。しかし、最近はどうだろう。空却ともっと長い時間一緒にいたいと思うし、色々な話をしたいと思うし、声が聞きたいと思う。外に出れば、無意識に空却を探してしまうところまできている。正直、自分でもどうしようもないと思っていた。
――「波羅夷は自分の気持ちを正直に伝えた女の子を、これから先、邪険にするような男じゃないよ」
……わたしも、もう少しだけ頑張ってもいいのかな。そう思っていると、腕時計を確認していた野山がこちらを見下ろした。
「那須野はこのあとどうするの。家に帰るなら送っていくけど」
「あ……。えっと……どうしようかな……」
買うものも買えたので、ここに用事はない。ただ、帰りのバスの時間を調べていないので、すぐに返事ができなかった。野山は電車で来たらしいので、一緒に帰るとなるとも電車に乗ることになるだろう。
どうしよう……。地下鉄のりばがある方をちら、と見ると、「……そういえば」と野山がぽつりと言った。
「今、名鉄のりばで栗きんとんが売っとるって」
「えっ! 栗きんとんっ?」
の中で秋に一度は食べたいものランキング上位に君臨している栗きんとん。の顔が綻ぶと、「うん。ギフの有名なところ」と野山がスマホの画面を見せてくれる。表示されている店のホームページを見ると、そこはも一度は目にしたことがある栗きんとんの有名店だった。
「出店は期間限定みたいだけど……どうする?」
「食べたいっ」
「それじゃあ行こうか。あんも食べるかもしれん」
「わ、わたしも空却くんに買おうかな……っ?」
「いいと思う。話すきっかけにもなるよ」
バスから栗きんとんに頭が切り替わったは「名鉄のりばってどっちだっけ?」と嬉々として案内板を見上げた。
栗きんとん、売り切れてないといいなあ。お寺に行って、空却くんにもおすそ分けして、そのときに体調のこととか聞いてみよう。もしもなにか聞かれたら、すいかのお礼だよって言えばいいかな。うん、うん、きっと大丈夫。
が頭の中でシミュレーションをしている途中で、「あっちだね」と野山が体の向きを変える。もその方向に行こうとすると、不意に野山が周りをぐるりと見回した。
「……今、あんに呼ばれんかった?」
「え?」
突然そんなことを言われたので、もきょろきょろと周りを見回す。すると、聞き覚えのあるハイトーンがこちらへまっすぐ飛んできた。
「~っ! かなめえぇ~っ! こっちこっち~っ!」
声がする方を見れば、数年ぶりに会う杏が手を大きく振っている。「あんちゃ――っ」と彼女に応じようとした弾んだ声は、すぐに喉の奥へ落ちていってしまった。なぜならその隣には――
「(空却くん……っ?)」
それからすぐ、手を振っていた杏の腕を掴んだ空却。彼女はそれに抗いながら、やいのやいのと言い合いをしている。それすらも仲睦まじく見えてしまう二人を、は呆然と見つめる。どうして二人が一緒にいるのか――それを考えるよりも先に、の背中にぞわぞわとしたものが這った。
昔から、心の距離が近い二人。杏は、が越えられないと思っている溝をいとも容易く飛び越えていく。空却もまた、には見せない表情で、態度で、杏と接している。
目の前にある光景が、真っ黒に塗りつぶされていく。羨ましいという感情の裏でなりを潜めているもやを感じて、は震えそうになる唇をきゅッと締めた。
