Episode.14
暑い日ばかりだった八月も終わり、残暑が続く今日この頃。巷では早くも食欲の秋が訪れており、オオスにある売店や屋台で栗やさつまいものフェアが開催されている。毎年街に繰り出すたびに数々の誘惑に打ち勝ってきただったが、今年は違うことで頭を悩ませていた。
「(紫がいいかなぁ。それとも赤?)」
自宅にて。はうぅんうぅんと唸りながら、持っている浴衣を箪笥から出して、姿見の前で合わせては首を捻る動作を繰り返していた。
普段よりもコーディネートが慎重になるのも無理はない。なんといっても来たる明日……空却と祭りに行くのだ。当日にばたばたする心の余裕はない。といいつつ、浴衣の色を決めるだけでかれこれ一時間は鏡の前に立っている。これではまるでデートの前日──
「(デートじゃないっ。デートじゃないからっ)」
浮かれすぎた思考になる寸前で、はぶんぶんと首を横に振る。浴衣なら学生の頃に文化祭で着たこともあるが、三年間通して、空却が茶道室に顔を出したことはなかった(一年生の頃は避けられていた時期と被り、二年生は空却の長期欠席、三年生は彼が謹慎中だったため)。あとは幼い頃に一度と、数ヶ月前に行けなかったあじさい祭りの時──どちらも体調を崩してしまっていて、あまり見栄えがいいとは言えなかっただろう。
わたし、空却くんにまともな浴衣姿見られとらん──今回こそは、という気持ちがのやる気をさらに上げていた。
「(あ、スマホ……)」
不意に、ポロンポロンと鳴り出したスマホの画面を見る。表れている文字列を確認するなり、は両手に持っていた浴衣を畳の上にばさっと落としてしまう。動揺を隠す暇もなく素早くスマホを取ったは、画面の上に指を滑らせた。
「もしもしっ」
《拙僧だが》
うん、空却くん──心の中でそう返事をしながら、頬はふにゃ、と緩む。電話越しという環境に甘えているせいもあり、今のの顔はかなりだらしない。空却の声を聞くだけで胸がどきどきと高鳴る一方、あたたかいお茶を飲んだ時のようにほっと息をつきたくなるのだから不思議だ。
最近、空却くんから電話くれること多くてうれしいなぁ。にこにこしながら畳の上にすす、と正座したは、スマホ越しに聞こえてくる彼の声に耳を澄ませた。
《明日の祭りの話だがよ》
「うんっ」
《……お前、やけに元気だな》
「えッ? そ、そうかな……っ?」
空却に指摘されて、の体がびくっと跳ねる。図星だ。スマホを持っていない方の手で浴衣の生地をさわさわと撫でながら、そ、そんなことないよ、と無理やり誤魔化した。
それでも何か言いたそうな空却だったが、《……まぁいいわ》とすぐに引き下がってくれた。よかった。少しだけ気まずくなってしまったものの、空却くんとお話できてうれしい──なんて言ったら、それこそ空気が凍ってしまうだろう。はすぐさま、「な、なにか用事だった?」と話を変えた。
《明日の祭り、そんなにでけえやつじゃねえけどよ》
「うん」
《人はそれなりにいるはずだ》
「うんうん」
《そしたら迷子も多くなるわけだ》
「そうだねぇ。毎年自治体テントのところに小さい子いるもんねぇ」
祭りの最中に保護者とはぐれて半泣きになっている小さい子供を想像していると、《よく分かってんじゃねーか》と空却に褒められた。うれしい。はにんまりと上がってしまった頬をスマホを持っていない方の手でぎゅっと抑えた。
《だから拙僧が直接お前ん家まで行ってやる。それまでに準備して待ってろ》
「えッ」
予想外な申し出にが声を漏らす。てっきり現地で待ち合わせをするかと思っていたからだ。
《『えッ』じゃねーよ。これは決定事項だからな》
「あのっ」
《なんだ》
「もしも集合場所で会えんくても、その時に連絡取り合えば──」
《だめだ》
「く、空却くんに会う前に迷子にならんようにするから……っ」
《お前さっき自分でちっせえやつは迷子になるって言ったろ》
「えっ? ……あっ、そういう意味だったんだ……っ」
空却が言っていたのは年齢ではなく身長的な問題だったらしい。それでもだめだ。今回ばかりはだめだ。このままで自分が何か言わなければ電話を切られそうな雰囲気だったので、は体を固くさせながら細い声でこう言った。
「わ、わたしね、できたら待ち合わせしたいなぁって思ってて……」
《できねえから無理》
「ええぇ……ッ」
《つか、なんでそんな待ち合わせに拘るんだよ》
空却に核心を突かれて、は声を詰まらせる。空却と一分でも長く一緒にいたい気持ちももちろんあるが、それ以上に浴衣姿を見られるまでの心の準備をしたいという気持ちがいっそう強かった。
そのことを正直に伝えられるわけもなく、ただただ口をどもらせる。すると、そのうちに深い……かなり深いため息をついた空却が、《……わぁったよ》と渋々折れてくれた。ぱあっと晴れ渡った表情をしながら、「ありがとうっ」とが礼を言うと、彼がすぐさま言葉を挟む。《ただし、》
《時間より早く来んなよ》
「ど、どうして……?」
《どうしてもこうしてもねえ。拙僧より一分でも早く来たらその場で帰らせっから》
脅迫にも似た条件を出されて、はうんわかったっ、と即答する。了承したあと、空却と二言か三言ほど話をして、電話はあっさりと切られた。
スマホを机の上に置いて、ふうぅ……、と息をつく。お祭り、たのしみだなぁ……。ふわふわとした心持ちで畳の上にころんと寝そべり、今さっき空却とした会話を思い出しては、「えへへ……」と一人で思い出し笑いをする。
前日に電話をしただけでこんなふうになってしまうのだから、明日はどうなってしまうのだろう。浴衣を選ぶことも忘れているは、体をごろころとさせてはいつまでも幸せな余韻に浸っていた。
祭り当日──夜は少し肌寒くなったものの、浴衣を着ている人はまばらにいた。一人だけじゃなくてよかった、と胸をなで下ろしながら、は浴衣の柄と合った下駄をカラコロと鳴らしていく。
「(浴衣、変じゃないかな……)」
悩みに悩んだ結果、空却からもらった念珠をつけようと思い、浴衣の色は白にした。柄も控えめなので少し地味かもしれないが、秋の祭りなのでこれくらいでちょうどいいと思った。
自宅からゆっくり歩いて、は集合場所であるオオスまねき猫の前に到着する。やはり鉄板な待ち合わせスポットなだけあって、かなり人が密集していた。は辺りを見回して赤い髪を探すが、彼の姿はどこにもなかった。
もしかして早く来てまった……? 最悪の事態を想像したが一人で青ざめていると、帯の間に挟んでいたスマホがヴーッ、と震える。電話だ。画面を見ると、かけてきた相手は探し人の空却だった。
「もしもしっ」
《今どこだ》
「えっとね、今まねき猫の背中のところに……」
《あぁ? 人多すぎて分かんね──》
電話口から聞こえるものとはまた別のところから声が聞こえる。と同時に、背後に人の気配を感じ取ったは、ぱっと後ろを振り返った。
「(あ……)」
そこには、スマホを耳に当てた空却が立っていた。彼と会った時に言う言葉を色々と考えていただったが、すべてどこかへ飛んでいってしまう。というのも、空却の服装が彼らしいテイストの洋服だったからだ。てっきりいつもの作務衣だと思っていたは、不意打ちを受けて固まってしまう。
空却も空却で、を見るなり無言だった。すぐさま、んじゃ行くぞ、と言われるかと思ったが、それもない。彼はメデューサを見たかのようにぴくりとも動かなかった。
……お互いがお互いを見つめ合うこと数十秒。先に我に返ったのは空却だった。
「……行くぞ」
「う、うん……」
喉をほんの少し震わせただけの声。雑踏にかき消されそうになる空却の言葉を聞き逃さずに、はこわごわと応じた。
「(わたしだけ、浮かれちゃってたかな……)」
歩き出した空却の背に隠れるように歩を進めながら、俯いたは考えごとをする。空却は、何も言わなかった。この姿を見て、何かしらの言葉を望んでいたわけではないが、思っていた以上に落胆している自分がいたので、心のどこかで期待していたのかもしれない。
浴衣じゃなくて、私服で来ればよかったかもしれん……。髪も、下ろしたほうがよかったかもしれん……。恋は盲目、とはよく言ったもので、空却と祭りに行けるというだけで舞い上がってしまい、変に気合いが入ってしまったようだった。
そんな自分を恥ずかしく思いながら、は空却の背中を追う。仕事帰りの時と歩幅は変わらないが、今日のは下駄なので必然的に歩く速度は落ちる。おかげで下駄の音がからッ、ころッ、とずっと忙しなかった。
「おい」
空却をせっせと追いかけていると、人が少なくなってきたところで彼が立ち止まり、こちらを振り返ってくれる。金色の目に見下ろされたは、緊張のあまり肩を丸くしぼめた。
歩くの、遅かったかな……。下駄の音、うるさかったかな……。遅い、もしくは煩いと言われるのを覚悟して体を強ばらせていると、空却の目が僅かに細められた。
「……隣歩け」
「え」
「後ろにいたらついてきてるか分かんねえだろーが」
返事をする暇も与えられないまま、空却は再び歩き出す。先ほどよりも少しだけ歩く速度が落ちた気がして、は言われた通り彼の隣に並んだ。
隣を歩け、と改めて空却から言われるのは初めてだった。去年の今頃は、彼の後ろしか歩けなかった。後ろにいろと空却に言われたわけではないので、が勝手にしていたことなのだが、なんとなく、あの頃は彼と距離を縮めてはいけないと思っていた。
しかし、今は──
「(となり、歩いていいって……)」
見えない壁をつくっていたのは、もしかしたら自分の方なのかもしれない──そう思ったら、ほんとうに不思議なくらい胸がふわっと軽くなって、はからからッ、と元気よく下駄を鳴らす。「走んな」とすぐに空却に注意されてしまったが、はまったく反省の色のない笑顔を浮かべて、「うんっ」と頷く。これからの仕事帰りは、気兼ねなく彼の隣を歩いていいだろうか、なんて思いながら。
道路に沿うようにして、屋台はずらりと並んでいる。四方八方で飛び交う客引きの声、どこからか聞こえてくる祭囃子の音色──久々に味わう祭りの空気感に、は目をきらきらと輝かせた。
「お店、たくさんあるね~っ」
「そーだな」
歩けば歩くほど人も屋台も増えてくる中、空却の足は迷いなく前へ進んでいく。着いた先はたませんの屋台。まずは腹ごしらえをするようだ。
子どもにも大人にも人気のたませんの屋台は長い列ができており、そこの最後尾に二人で並ぶ。「見えるか」と空却が前方を指さしたので、は少しだけ背伸びをしてみる。たません、チーズたません、明太子チーズたません──屋台の屋根に掲げられているメニューを見ながら、どれにしようかなと悩む。最終的には、まだ最初の屋台だから、とふつうのたませんを頼むことにした。
たません、久々に食べるなあ。最後にお祭り行ったのいつだっけ──お腹を空かせながら、徐々に列は短くなっていく。待っている間もの視線はきょろきょろと遊ぶ。祭りの雰囲気に当てられて、気分が高揚しているせいもあるかもしれない。
「(あっ。焼きそばだあ)」
ちょうど向かい側に焼きそばの屋台を見つけた。香ばしいソースの香りがここまで漂ってきて、食べたいなぁ、と早くも舌が踊る。今からたませんを食べるのに、なんてわがままな食欲だろう。いつもよりも帯を緩めた状態で着付けをしてよかったと思った。
「次寄ってやるから待ってろ」
え? はたとしたは空却を見上げる。しかし、彼は何も言っていないような涼しい顔で前を見つめている。まるでこちらの心の声を聞かれていたような言葉に、ははてなマークを頭の上にたくさん浮かべたのだった。
空却の宣言通り、たませんを買った後は焼きそばの屋台に寄った。その次はベビーカステラ、フルーツあめなど──屋台をハシゴするにつれて、空却の腕からぶら下がるビニール袋が増えていく。持つよ、と言ってもさらっと断られてしまい(加えてお金も払わせてしまった)、かき氷を買ったところでどこかに座るか、という話になった。
「(あっ。あそこ空いとる)」
普段は駐車場として利用されている広場に設営されているベンチテーブルの中で、空いている席を発見する。からころっ、と早歩きでテーブルのところに行ったところで、そこのテーブルの端にビール缶が置かれていることに気づいた。
そして、そのテーブルの影にいたのは地べたに座る男性の集団。色とりどりの髪色と顔面に開けられたピアス──あまり目つきが良いとは言えない彼らと視線が交わった。
「あ、すみませ──」
彼らがこの場所を取っていたのだと思い、は謝りながらそこから去ろうとする。すると、にたにたと笑い始めた彼らがゆっくりと立ち上がった。
てっきりそこから退くつもりなのだと思ったは、他のところを探しますから大丈夫ですよ、と伝えようとする。しかし、それよりも早く彼らのうち一人がのすぐ目の前までやって来た。
「ねえ、君って一人──」
「二人だが?」
背後から足音がしたとともに、後ろからやって来た空却が大きめの声で言い放つ。すると、に話しかけた男を筆頭に皆明らかに顔を青くさせて、その場からそそくさと立ち去ってしまった。
あれ……? がぽかんとしているあいだにも、空却は買ったものをベンチの上に置いていく。そして、端に置いてあった缶ビールを左右に振ると、「あのクソ共……。ゴミくらい捨てとけや」と小声で悪態をついた。
「その缶、場所取りに使っとったのかもしれんね」
「場所取りっつーか縄張りみてえなもんだろ。ベンチに座りもしねーで占領たぁ迷惑極まりねえ」
「ここ使ってくださいって言いに行った方がいいかなぁ……」
「……お前意味分かってねーな」
空却はため息をつくと、缶ビールを片手だけでぱきぱきッと潰した。「これ捨ててくっから先に座って食ってろ」「う、うんっ」あまり力を入れていないように軽く潰したものだから、は目を大きく開けて驚いてしまった。
さて、空却に言われるがままはベンチに座るが、缶を捨てに行くはずの彼はそこから立ち去らずこちらをじっと見つめている。な、なんだろう……。普段と格好が違うため、そんなに見つめられると恥ずかしくなってしまう。
すると、空却は自分が着ていた上着をさっと脱いで、それをの両肩へすとんと被せる。へ、と口を開けたが空却を見上げると、彼は満足そうに鼻を鳴らした。
「一応羽織ってろ」
「い、いいの……? そんなに寒くないよ……?」
「ちげーよ。あと、知らねえやつに話しかけられても無視すんだぞ」
なんかあったら電話しろ、とも付け足されて、空却は人混みの中に消えていく。何が違うのかは分からないが……それはそれとして。空却がもう少し長くこの場に留まっていたら、徐々に赤くなっていったこの顔を見られるところだった。危なかった。
「(えへへ……。空却くんの上着……)」
白檀の香りと彼の残った体温がを優しく包みこむ。一人になったのをいいことに、水に溶けたまんじゅうの皮のように顔がふにゃりと蕩ける。昨日から、頬の筋肉がほとんど機能していない気がした。
おかけで頭はぽやぽやとするが、溶けないうちにかき氷はシャクシャクと口に運んでいく。抹茶の蜜のほかにつぶあんと白玉がちょんと添えられていて、ほどよく渋甘い味だ。このあとはたませんを食べようと心に決めた。
「──あれっ? ちゃんじゃないっすか!」
突然どこからか声がして、はかき氷から顔を上げる。きょろきょろと声の主を探すと、遠くから高身長の男性二人組が歩いてくるのが見えた。
「(ひ、ひとやさん……っ!)」
目をよく凝らすと、その二人は十四と獄だった。は慌てて空却の上着を膝の上──テーブルの下にさっと隠す。一方、十四が満面の笑みでこちらに駆け寄ってくるのを見て、も作りたての笑顔で手を振った。
「こんばんはっす! わあ~っ、今日の浴衣もすごく可愛いっすね!」
「ありがとう~。十四くんの浴衣もかっこいいねえ」
黒を基調とした十四の浴衣姿は様になっていた。「えへへ。ありがとうございますっす。ちゃんもお祭り来てたなんて奇遇っすね」と十四が言う。そうしているあいだにも、ゆったりと歩いてきた獄が彼の隣に立った。
獄の視線を受けて、はテーブルの下に隠した上着をぎゅっと握りしめる。空却くんがまだ帰ってきませんように……。そう祈っていると、獄は誰かを探すように周辺の様子を伺った後、に厳しい目を向けた。
「。連れはいるんだろうな」
「あ……はいっ。一人いますっ」
「ならいいが……。さっきガラ悪そうな連中があっち歩いてったから気をつけろよ」
「でも、あの人たちなんかびくびくしてたっすよ。あっちにあるおばけ屋敷にでも入ったんすかね」
獄と十四の言葉に、そんな人たちがいるんだぁ、と思ったは、気をつけんと、と気を引きしめる。空却がいるとはいえど、不用心な行動は控えなければいけない。
「もし遅くなるようなら連れの子も一緒に送ってくが」「いえっ。大丈夫ですっ」獄とこうして会話をするだけでも胸がひやりとする。彼は連れの子を女の子と勘違いしているようだが、実は空却くんなんですと言えるわけもなく、は話をそらすように私服の獄に着目した。
「ひ、ひとやさんは今日お休みですか?」
「休みっつーか無理やり切り上げてきたんだよ。こいつが祭り行きたいってうるせえから」
「だっ、だってえ! 今年はいろいろあって夏祭り行けなかったんすよぉ! やっぱり年に一回はお祭り行きたいじゃないっすか!」
わかるなぁ、と思いながら、うんうんとは相槌をうつ。すると、「やっぱりそうっすよねっ」と嬉しそうに十四は話を続けた。
「バンドのみんなは予定が合わなくてだめだったし、空却さんも誘ったら『その日は先約があっから無理だ』って言われちゃったんすよ」
「えっ……」
「へえ。空却がこっちからの誘い断るなんて珍しいな」
「もしかしたらお寺のことかもしれないっすね。お盆もすごく忙しそうだったんで」
二人の会話を聞きながら、は変な汗をたらたらとかいてしまう。空却くん、お祭り、先約──もしかして、とが思ったところで、正面からこちらへ向かってやってくる赤髪の存在があった。
「あれっ? 空却さん?」
かなりよろしくないタイミングだ。
十四が空却に気がついて、素っ頓狂な声を上げる。一度断られた祭りに本人がいるのだから当たり前だ。空却はげっ、というような顔をして、ぴたりと足を止めた。
十四はまだいいとして、問題は──はゆっくりと獄の方を見た。彼は一言では形容しがたい顔で空却と対峙しており、その眼差しはかなり冷たいものだった。
「……へえ」
「なんだよ」
「いやべつに」
そうは言っても、なにか言いたそうな顔をしている獄。なにか詮索されたり昔のことを掘り起こされたりしないかと、は気が気でなかった。
一方、「空却さんっ。先約ってちゃんのことだったんすね! これってもしかしてお祭りデ──―」「その口閉じねーとあつあつの唐揚げ棒突っ込むぞ」「あつあつなのはいやっすっ!」などと、十四が場の空気を緩ませてくれているおかげで、少しだけ気が楽だった。十四くんありがとう……、とは心の中でお礼を言った。
そんな二人の会話を聞いていると、空却がこちらへがつがつと歩いてくる。ベンチに座っているのそばまで来ると、こちらを親指でくいっと指して、ごみを捨てに行く途中で買ってきたと思われる唐揚げ棒をむしゃっと食べた。
「言っとくが、お前らよりもこいつとの約束が先だったからな。変な勘違いすんなよ」
「大丈夫っすよ! だれもちゃんのこと優先したなんて言ってな──ッ、あっつぅっ!?」
「おら十四。唐揚げうめえぞ。丸々突っ込んでやっから口開けろ」
大股で十四に近づいた空却が彼の首裏にがッ、と腕を回して、文字通り口の中に唐揚げ棒を突っ込もうとする。十四は涙目で自らの口を抑えながらぶんぶんと首を振っていた。
二人とも仲いいねぇ、とがぼんやりと見つめていると、今度は獄が空却のことを親指で指した。
「。一応聞くが、女友達と祭りに来た途中で空却に拉致られたわけじゃねえな」
「ち、ちがいます……」
「おい獄。今クソ失礼なこと言わなかったか」
「お前ならやりそうなことだろ」
十四と話していた空却が、獄にターゲットを変える。二人の間で静かに火花が散っているのを見た十四が、「獄さん、空却さんとちゃんのことになると厳しいのなんでなんすかね……」と小さな独り言を漏らしていた。「ど、どうしてだろうね……」と苦笑いをしたは、彼だけは何も知らないままでいてほしいと思った。
「とにかく、今日はこいつのお守りで拙僧は忙しいんだ。用がねえならさっさと散ってくれや」
「どっちかって言うとお前がお守りされる方だろ」
「どこがだッ!」
「まあまあ二人ともっ」
今にも喧嘩が勃発しそうな二人の間に十四が入る。こういう時、十四の存在がとてもありがたいと思う。一人では終始はらはらとしていたところだった。十四くんありがとう、とは二度目のお礼を言った。
──そこから三人のやりとりを見守ること数分。十四が宥めてくれたことも相まって、獄が大きな溜息をついた。どうやら折れてくれたらしい。せっかくの空却とのお祭りがだめになってしまうことを危惧していたとしてはかなり胸が軽くなった。
「。空却に人気のないとこに連れ込まれてたら一目散に逃げろよ」
「な、なんか注意の仕方おかしくないっすか……?」
「おかしくねえよ。なあ空却」
話を振られた空却は何も言わずに口を噤んでいる。その代わりに眼光だけはめらめらと熱く燃え滾っており、はそろそろ耳と目を閉じたくなってしまった。
そして、冷戦状態の空却と獄を見比べた十四が、これ以上気まずくならないところで獄の腕をがっと掴む。と目が合った時、十四はこちらを安心させるようににっこり笑った。
「それじゃあ、おじゃま虫はこれで退散するんでっ! 二人とも、お祭り楽しんでくださいっす!」
「あ゙ッ……おい十四腕引っ張んなッ」
突然のことで声が出なかった代わりに、は精一杯の笑顔で手を振った。二人の背中が見えなくなると──獄に至っては無理やり退場させられたのだが──最後の唐揚げを食べた空却は、が食べ終えたかき氷の容器に串を投げ入れた。
「あっ、空却くん」
「どこにも連れ込まねえよ」
「そ、そうじゃなくてね……」
「かき氷、はよ食べんと溶けちゃう」がテーブルの上にあるいちごのかき氷を差し出すと、空却はむ、と唇を結んでの隣に座った。
すぐにかき氷を食べ始めた空却を横目に、は獄が言ったことを頭の中で反芻させる。人気のないところへ連れ込む──要は、不安な思いや怖い思いをさせるようなことがあったら、と解釈したは、その上で一つの結論に至る。
「(もしも、なにかあっても……)」
きっと、この体と心は受け入れてしまうと思う。それは倫理的にどうなのかと聞かれたら曖昧なことしか言えないだろうが、それでも、彼から向けられるものならば、抵抗する気も起きないだろう。彼を信じている、と言えば、少しは聞こえがいいだろうか。
これを言ったら色々な意味で怪訝そうな顔をされるのが分かったので、は脅威のスピードで減っていくかき氷を見つめる。このひとときが……空却と過ごす穏やかな時間が保証されているのであれば、どこかへ連れ込まれようと、またどこかに傷が増えようと──はなんだってよかった。
焼きそば、フルーツあめ、ベビーカステラなどなど──甘味と酸味を交互に味わえる最高のラインナップ。簡易的な包装紙とパックに詰められた屋台飯とデザートは、今しか味わうことができない新鮮なものたちばかりだ。
ちなみに、空却の上着はまだの膝の上にあった。何かを勘違いをした空却が、「足冷えるならしばらく掛けとけ」と言ってくれたからだ。が上着を膝の上に置いた本当の理由はそうではないが、その気遣いが嬉しくて、うん、と流れで頷いてしまった。
「(おいしい……。たませんおいしい……)」
あまり顔に出すと恥ずかしいが、口元から自然と笑みが零れてしまう。ぱきっ、とえびせんを歯で割って、中に挟まれているたまごと一緒にはむはむと食べていく。マヨネーズとケチャップのバランスがとても良く、食べても食べても飽きがこなかった。
おうちでも作ってみようかなあ──そんなことを思っていると、隣では空却がようやく焼きそばを食べ始めた。がたませんを食べてから、なぜか何もせずにただ黙っていた彼だが、ようやく次の屋台飯に手をつけたようだ。
プラスチックのパックを開けると、空却はのものよりも倍量ある焼きそばを口に頬張っていく。濃厚なソースとあおのりの香りがここまで香ってきて、食欲がじわじわとそそられる。たませんを食べて、そのあとにフルーツあめを食べたら、次は焼きそばを食べようと思った。
「空却くん、このあと寄りたいお店とかある?」
「ねえ」
空却はの方を見ずに答える。会話は終わってしまったが、も伊達にここ数年、彼とぎこちない会話をしてきたわけではない。こういう返答があるのは想定内だ。
「お祭り誘ってくれたから、どこか行きたいところあるかと思ったんだけど……」
「行きてえ場所っつーか、屋台飯食いたいってお前が言ったんだろ」
さっそく予想外の答えが出てきて、は目を丸くする。わたし、お祭り行きたいって言ったっけ……? 無意識に心の声が出ていたかと思いながら、はここ最近の記憶を辿った。
──「たませんとか、焼きそばとか……。あとはフルーツあめとベビーカステラと……あっ、それからかき氷も」
……は今しがた食べ終わったものたちを見てみる。すべて、いつかに自分が言っていた食べものばかりだ。あれは昔の思い出を懐古して口から出ただけなのだが、空却はそう捉えなかったらしい。
食い意地がはっていると思われているという心配とは別に、品目も一つ余さず覚えていてくれたことが嬉しくて、は残りのたませんを口に入れて、ふにゃふにゃになりそうな頬を両手でぺちっと抑えた。
「なにやってんだ」
「なんでもないよっ。なんでもっ」
は空却からささっと背中を向ける。ううぅ、顔が直らん……。頬をふにふにとマッサージしながら、は深呼吸を繰り返した。
わたしがあんなこと言ったから、お祭り誘ってくれたんかな……。ううん、もともとはあじさい祭りに行けんかったから、きっとその埋め合わせだよね……。空却くん、約束ごととかちゃんとしとるから。うん、うん、きっとそう……。都合良く想像してしまう自分をどうどうと抑えて、ふう、と静かに息を吐いた。
「(せっかくのお祭りなのに、わたしだけ楽しんだらかんね)」
よし、と気合いを入れ直して、は再びテーブルと向き合う。さっそくフルーツあめの袋を開けて、飴で丸々コーティングされたりんごを口に含んだ。見た目以上に甘くて美味しい。噛むのはもったいないので、少しずつ舐めて食べることにした。
「ぜんぶ食べ終わったら、あっちの方の屋台も見てみようね」
「おー」
「射的とかスーパーボールすくいとかあるから、きっとたくさん遊べるよ」
「お前やりてーの」
「えっ? ううん、わたしは見とるだけで……」
昔、夏祭りに行った時によく空却がやっていたゲームをそのまま言ったのだが、彼は“なぜ言った”というような顔をしている。
空却くん、もう屋台のゲームとかやらんのかな……? あてが外れてしまったは、再び思考を巡らせる。空却くんが好きそうなもの、なんだろう。からあげはさっき食べとったから……。うぅん、空却くんの好きそうなもの、好きそうなもの──ぐるぐると考えた末、さきほど耳に挟んだ単語がぴん、と引っかかった。
「そういえば、あっちにおばけ屋敷もあるって十四くんが言っとったよ」
「おばけ屋敷ぃ?」
早くも焼きそばを食べ終えた空却がたませんに被りついた。豪快にバリバリと食べながら、「へえ。どんな」と話を促してくれる。興味を示してくれたのが嬉しくて、はスマホで詳細を調べながら話を始めた。
「えっとね、“史上最恐のホラーハウス、ナゴヤに初上陸。秋一番の恐怖をあなたに……”だって」
「やけに自信満々だな」
「ホームページもすごく凝っとる……。あ、口コミの評判もよさそうだよ」
「ふーん。そんなに言うなら覗いてみっか」
「うんっ」
来たる恐怖の時間のために、腹ごしらえはきちんと済ませておく。おばけ屋敷入るの、高校の時の文化祭以来だなあ──その時の出し物を思い出しながら、はフルーツあめをちゅ、と優しく吸った。
高校の頃にクラスメイト全員で作ったおばけ屋敷──広げたダンボールを黒いビニール袋でコーティングしたり、ゲストを怖がらせるしかけをつくったり、百均で買ってきた仮装で驚かせたり……そんなようなものを考えていたが、の想像はかなり裏切られた。
「(す、すごく怖そう……)」
大広場を貸し切って設営されたお化け屋敷は、規模もクオリティも中々のものだった。外から見るだけではただの大きな黒いテントにしか見えないが、中からは絶えることなく悲鳴が聞こえてきて、並んでいるゲストに恐怖感を与えている。中の環境がどうなっているかまったく想像ができないので余計にだ。
それでも、そんなお化け屋敷に挑もうと意気込む人達が長蛇の列をつくっている。しかし、テントから聞こえる悲鳴によって退場する人もちらほらと見られる。ちょうど今、列に並んでいた子供が急に泣き出してしまい、その子と共に親が離脱したばかりだった。
高校の文化祭のおばけ屋敷のようなものを想像していた。まさかこれほどのものとは思わず、列に並ぶ前から足が竦んでしまった。
「で、どうする。並ぶんか」
「う、うんっ。並ぶよっ」
怖気付いていたを察したのか、空却が声をかけてくれる。それでもの意思は固かった。こういうスリルがあるの、空却くん好きそうだし──空却くんがいるならだいじょうぶ、だいじょうぶ……。そう念じながら、は空却とともに最後尾に並んだ。
回転率が良いのと途中離脱者がいることも相まって、列が短くなるのは早かった。お化け屋敷の舞台は古民家──そこの住人である老夫が孤独死をして以来、その家では怪奇が続いているという。家を管理する人もいないため、屋内もかなりの荒れ放題……というのが大まかな設定らしい。
よくある作り話のようだが、人の反応を見る限り、さぞかしクオリティが高いのだろう。SNSから仕入れた情報によると、“老人の霊を見た”という目撃情報がいくつもあった。運営側のしかけというのも考えられるので、本当かどうかは分からないが、演出としては十分なものだろう。
カウントダウンをするように徐々に入口へ近づいていく。気を紛らすために鈴カステラをぱくぱくと食べていたが、それもすぐになくなってしまった。手持ち無沙汰になったは入口の様子をちらちらと確認しながら、両手の指をこしょこしょと遊ばせていた。
「こういうの無理ならやめとけよ」
隣で、空却が最後の忠告をしてくれる。柔らかい毛布で体を撫でるような優しい声で言われて、の体がふっと軽くなった。
どうしてだろう……。空却くんに言われるとすぐに安心できるの……。まるで寒いところから急に暖かいところへ移動した時のように、体がむずむずとしてしまう。自分のことを心配してくれた……と思い上がってしまうところで、は平然を装って口を開いた。
「びっくりするだけなら平気なんだけど、痛そうなのはちょっと……」
「ふーん。ゾンビとかそういう系か」
「うん……。空却くんはこういうの大丈夫……?」
「所詮作りものだしな。本物には劣るだろ」
元も子もないことを言っているかもしれないが、今はその言葉がとても頼もしい。入口が近づくにつれて、列を誘導しているスタッフからスマホの電源は落とすように指示されてその通りにする。そして、スマホの代わりに小さなLEDライトを渡された。
これで足元照らすんかなぁ。受け取ったが横にいる空却にライトを渡そうとすると、「お前が持っとけ」とあしらわれてしまった。責任重大なライト係になってしまったは、その小さなライトを両手で大事に握りしめる。落とさんようにしんと。
そこからはあっという間に入口までやってきて、最後にスタッフから入場する上で簡単な説明と注意事項を聞く。その後、「いってらっしゃーい」という陽気な声とともに、黒いカーテンが開けられた。
「(わっ……。すごく暗い……)」
暗いが、なんとなく玄関らしき空間ということは分かる。一歩一歩、地面をしっかりと踏み締めながら慎重に歩いていく。ライトが小さいおかげで、光で照らせるところはほんのわずかだ。
なるべく空却の方にライトを向けながら、は暗闇の中で薄ぼんやりと浮かび上がっている彼の顔を見上げた。
「空却くん、足元見える……?」
「おー」
「見えんかったら言ってね。わたし、ライト当てるの下手かもしれ──っ、ひゃッ……!?」
突然うなじに冷たい何かがぴちゃッと触れる(その時、隣の空却も体をびくッと揺らした)。つー、と何かが伝っていく感覚がして、気が動転したはうなじに手を当ててみる。触ってみるが、それはさらさらとした無臭の液体だった。
「び、びっくりしたね……っ。空却くんもびくって──」
「ビビってねーよッ。お前の声のせいだッ」
あ、そうなんだ……。うるさくしてごめんね……。なるべく声は上げないようにしようと思った。そのあとも手の甲や頬に冷たい雫が落ちてきて、試しに少しだけ舐めてみたが、ただの水のようだ。古民家ならではの雨漏り仕様だろうか。
「なんでも口に入れんなよ……」
「いっ、入れとらんよっ。ちょっと舐めただけ……っ」
「同じだろ」呆れた声がぼそっと横から聞こえて、は顔に熱が集中するのが分かる。み、見られとった……。暗いからと気を緩めたの誤算だった。
それからもしばらく歩を進めるが、空却は至って冷静だった。数々の仕掛けにも動じず、が別の道に進もうとすると、「おいこっちだ」と声をかけてくれる。まるで出口までの道を知っているようだった。
「空却くん、こんなに暗いのに見えるのすごいねぇ……」
「深夜の境内もこんくらい暗えからな」
多少夜目が効くのだと空却は言う。そういえば、小さい頃も夜中に起きてたらすぐに見つけてくれてたなぁ……。寝れんときは一緒にお菓子パーティーして、そのまま一緒に寝たっけ……。そんなことをぼーっと考えていたら、新たなエリアに侵入した。
「(わ、あぁぁ……っ)」
昔ながらの釜や冷蔵庫があるので、おそらくここは台所だろう。そこの床や壁には様々な種類の虫がたくさん群がっていた。一匹一匹を口にするのははばかられるが、家にいたら普通の人は悲鳴を上げて大騒ぎするような彼らだった。
さすがにすべて作りもののようだが、見た目といい動きといい、かなりよくできている。なるほど、古民家らしいしかけだ。
「(あ、あんまり見んようにしよう……)」
さして虫が苦手ではないでなくとも、顔を苦くしてしまう。一方、山に囲まれた寺暮らしで慣れている空却は、「とっとと行くぞ」と涼しい顔で急かした。
それからも人為的な仕掛けが続いていく。偽物の蜘蛛の巣だったり、どこからか吹いてくる生暖かい風だったり、謎の物音だったり──思わず声は出てしまうものの、立てなくなるほどの恐怖は今のところはない。外にいたときに、中から聞こえてくる悲鳴で心が臆病になっていたようだった。
空却くんがいるから平気なんかな……。まだしばらくはこのままでもいいなぁ……。暗いことをいいことに、はこっそりと隣を見上げる。今の空却は、猫のように何もないところをじっと眺めているので見放題だった。暗く、それでいて静かな空間で二人きり……そんな中でも、今のは怖いものなしだった。
さて、いつまでもこのままで、という願望も贅沢なもので。ようやく出口らしきところが見えてくる。もう終わりなんだ……、と残念そうに肩を竦めただったが、ライトを照らした先にあるものを見て、「ひッ、」と悲鳴を漏らした。
「ねッ……! ねねっ、ねねねッ……っ!」
「あぁ? なんかいんのか」
そのままライトを落としてしまったは出口から顔を背ける。それでも、耳を塞ぎたくなるような鳴き声はの中に容赦なく入ってきた。
一瞬……ほんの一瞬だけ見えたのは、二人分横に歩ける幅の通路。その奥に出口らしきものがあり、その通路の壁と天井にはチュウチュウと鳴く生き物がうぞうぞと這っていた。
昔、が寺に遊びに来て、それを目撃するたびに大騒ぎしていたのを見ていた空却はライトを拾い上げるなり、「あー……」と察しがついたように声を漏らした。
「ねず──」
「空却くん言わんでえぇぇ……ッ」
「ったく……あれも作りもんだぞ。ハリボテが動いて、どっかで鳴き声の音源流してるだけだ」
「本物が混じっとるかもしれん……ッ」
「んなわけあるかっ。つかさっきの虫の方がキモかっただろーが」
「空却くん、入口から帰らん……っ? さっきおばけ役のスタッフさんがいたからその人に言って──っ」
「こんなとこ逆走するやつなんざ聞いたことねーよ」
も聞いたことがない。しかし、このまま立ち往生していても進める気がせず、はここでへなへなと座り込んでしまいたかった。それからも空却が言葉を選んで宥めてくれるが、はいやいやと首を振るばかりだった。
……出口付近でこうしていること数分。ライトを消した空却が、静かに息をつく。また呆れられてしまっただろうか。このままこうしとったら、他のお客さんにも迷惑かかっちゃう……、との中で恐怖心よりも理性が前に出てきた時だった。
「ッ、わ……っ?」
横から謎の力が加わって、は空却の体にどすんと突っ込んでしまう。謝りながらすぐに退こうとするが、離れるなと言わんばかりにさらに力がこもってそれも叶わなかった。
の両肩にかけてするりと回っているのは空却の腕。おかげで、彼の体に左耳がぴったりとくっついていた。
「拙僧がいいって言うまで目ェ瞑ってろ」
そう言うと、空却は腕を回した方の手での右耳をぐっと抑えた。両方の耳が塞がれたおかげで、は周りの音がくぐもって聞こえるようになる。ねずみの鳴き声もほとんど気にならない。
しかし、今度はそんな恐怖心よりも羞恥が最高潮に達する。上着よりも空却の体温が直に感じられて、ぶわわわッ、と体中の熱が沸騰する。「ぁ、ぅ、う……」とまともな返事すらできなかった。きっと今、耳まで真っ赤になっているだろう。触っていて、熱くないだろうか。今自分がどんな顔になっているか、空却に気づかれないことを祈るばかりだ。
「(空却くん……こういうこと、すぐにしてくれるの……)」
こんな状況も相まって、少し……ほんの少し、甘えたな自分が顔を出す。これだけでは心もとないからと言い訳をしながら、目を瞑ったは両手で空却の腕をぎゅ、と掴んだ。しばらく立ち止まっていた空却だったが、少ししたらゆっくりと歩き出した。
すぐそこに彼らがいると分かっているので、気配だけでも身震いしてしまう。にとっては恐怖の音、目を開けてしまえば地獄のような空間──それでも、今は彼がつくってくれた薄い膜に守られていた。
「──案内ごくろーさん」
そして、外からの光で視界が明るくなる直前──空却が不可思議なことを言ったような気がした。ただ、彼の手が耳からが離される寸前のことだったので、の聞き間違いかもしれない。
覚えとったら、あとで聞いてみようかな……。徐々に大きくなる祭囃子とともに、外の世界から差し込む光を受けたはゆっくりと目を開けた。
お化け屋敷を出てから、と空却は屋台巡りを再開した(空却に指摘されるまで、テントから出てからも腕を掴みっぱなしで、しばらく気まずい空気が流れた)。
昔から空却は老若男女問わず人気者だが、ディビジョンバトル関係でメディアに顔を出すことになってから、その勢いがさらに増したと思う。一緒に歩いているだけでもう何人に声をかけられたか分からない。
射的、くじ引き、スーパーボールすくい──様々な屋台へ引っ張りだこの空却。最初は誘われるたびに空却がちら、とこちらを見ていたが、いいよ、とが言っているあいだに、他の人たちにわいのわいのと囲まれてしまっていた。
「(邪魔にならんところにいようかな)」
蚊帳の外になったはそそ、と屋台の影に体を寄せる。屋台飯でお腹はいっぱい。おばけ屋敷にも入ることができた。あとは楽しそうな空却が見られるだけでいいと思った。
「(かっこいいなぁ……)」
レプリカの鉄砲を持って笑顔満面の空却をうっとりと眺める。たくさん遊んだら喉が渇くかと思い、近くの自販機でジュースを買ってこようとした時だった。
スマホがヴーッ、と震えたのが分かって、は光った画面を確認する。未登録の知らない番号だ。しばらく画面を見つめていたが、バイブが止む気配がなかったので、おそるおそるスマホに指を滑らせた。
「もしもし……?」
《もしもし》
聞いたことのあるテノールに、の中ですぐさま安堵が生まれた。
「野山くん?」
《うん。野山》
「わあっ、久しぶりだね~」
《そうだね。電話、出てくれてありがとう》
《知らん番号だったでしょ》と付け足した野山。こうして話すのは高校卒業以来だが、番号が変わったという知らせは受けていなかった。
うん、とが肯定すると、どうやら新しい携帯番号を杏が教え忘れていたのだと言う。《伝えておいてって言っておいたんだけどな》と平坦なトーンで言う野山に、しかたないよ、とは苦笑する。杏と話したのはつい先月のことだが、あの時は嬉しい報告で頭がいっぱいだったのだろう。でも忘れてしまいそうだ。
《今、話しても平気?》
「うん。大丈夫だよ」
久々の旧友との会話に胸が踊る。ただ、空却が帰ってこないか様子を見る必要がある。というのも、昔からなぜかこの二人は不仲だからだ。野山はそうでもないようだが、主に空却が彼のことを嫌っているようだった。どんな人とも分け隔てなく接する空却にしては珍しいことだと思うが、今でもその理由は聞けないでいる。
《来月の頭くらいにナゴヤに戻ってこれることになって》
「そうなんだ~っ」
《それで……杏の誕生日、もうすぐでしょ。プレゼントを買いに行きたいんだけど……》
野山にしては珍しく、その先の言葉は濁された。彼は小学生の頃から女子向けの店に入るのが苦手だった。昔からよくあった話なので慣れたものだが、今となっては立場が違う。自分と二人で出かけていいのか聞くと、《那須野とならいいって》と野山は言う。良い友人に恵まれたとは思った。
そのあとはちょっとした世間話と、出かける日時はまた追って連絡──という話をして電話は切った。あんちゃんの誕プレ、わたしも考えとかなかん。そう思いながら野山の連絡先を新しいものに更新していると、新たな影がに迫った。
「オネーさんっ」
「わあぁッ」
突然、背後から男の子が目の前に躍り出てきて、は声を上げる。どっ、どっ、と脈打つ心臓を抑えていると、彼は「驚かせちゃってごめんねっ?」と申し訳なさそうに眉を下げた。
「オネーさん、ずぅ~っと一人でいるからなにしてるのかなぁ~って気になって声かけちゃったんだっ」
「そ、そうなんですか……」
フレンドリーに話しかけてきたのはピンク色の髪をした、可愛らしい顔の男の子だった。初対面にしてはあまりの距離の近さにも一線引いているが、さして気に留めていない彼は一人でぺらぺらと話し始める。男性にしては身長も低めで、あまり威圧感がない。ずっとにこにこ笑っていて感じも良い。なんとなく悪い人ではなさそうだと思った。
あっ……空却くんに知らない人に声かけられても無視しろって言われとったんだった……。しかし、もうすでに相手をしてしまっているので後悔しても遅かった。今から無視をしても感じの悪い人のようになってしまう。それはそれでいかがなものか。
どうしよう、とが空却の方に視線をやるが、彼は相変わらず足元にいる子供たちと話をしていた。
「──って、オネーさん聞いてる~?」
「えっ? あ、はいっ。聞いてますっ」
「タメ口でいいよう。それでいまぁ、あそこのテントですっご~くおもしろいことやってるから、よかったら一緒に行こーよってお誘いしてるんだけどぉ」
「おもしろいこと?」
「うん! あっち!」彼が嬉々として指を指した先には、ショッキングピンクのテントが立っていた。その周りには、テントと同じ色のTシャツを来た女性のスタッフ達がにこやかに客引きをしている。ミニゲーム、美容相談、お菓子コーナー、中王区移住相談窓口──なにより、女性限定という文字が目立つところに書かれているのを見て、はぽけ、と口を開けることしかできなかった。
「ゲームもあるしぃ、あまーいお菓子もあるしぃ、お金もとったりしないし! 女の子なら誰でも大歓迎だよっ★」
「女の子……」
は再び空却の方を見る。たった今射的で獲得した景品をもらって、小さい子供に渡しているところだった。わぁ、大きくてかわいいぬいぐるみ──あ、空却くんと目合っちゃった……。
「ごめんね、今日は男の子と一緒に来てるから……」
「えぇ~? でも今はいないじゃーんっ。その人が戻ってくるあいだのちょっとの時間でいいから──っ、と」
男の子がぴょんっ、とうさぎのように後ろへ跳ねる。の横髪がふわっと揺れたのと同時に、彼の顔があったところには堅そうな拳が伸びていた。誰のものかは、振り向かなくともすぐに分かった。
「こっわぁ~いっ! あとちょっとでオネーさんに当たるとこだったよ?」
「当てるわけねーだろクソが……」
地を這うような空却の声を聞いて、の全身が縄で縛られたようにこわばった。空却くん……怒っとる……? その対象が自分ではないと分かっていても、その声を聞くだけでぞく、と背筋が凍るくらいには、尋常でないくらい彼はご立腹のようだった。
目の前で男の子がにこにこと笑っているのを見ていると、突然の体がぐんッ、と後ろに傾く。倒れる──かと思いきや、手首は空却の手によってがっしりと掴まれ、の目の前には彼の背中が壁のように立ち塞がっていた。どうやら後ろに下がらせてくれたらしい。でも、なんのために? 状況が把握できていないは、彼らを見比べてただ狼狽えるばかりだった。
「こんなナゴヤのど真ん中にまでなにしに来やがった」
「えーっ? ただのおシゴトだけど~? だから、今回キミには用事ないんだよね~」
「テメーになくともこっちは大ありなんだよ」
が悠長に考える間もなく、空却によって肩口をどんっ、と押され、さらに後ずさる。空却が上着からマイクを出したの見て、え、とは目を見開いた。
「あれれ~? もしかして半分解けかけてるのかなぁ? でもでもぉ、それは“前のボク”がやったことだから、今のボクにやってもただのやつあたりじゃない?」
「なに訳分かんねーこと言ってやがる。つべこべ言ってねえでさっさと出せや」
男の子の弾けた口調とは対照的に、空却の声色から苛立ちが増しているのが分かる。頭の中で、自分はここにいてはいけないと理解できても、棒のように固まってしまった足はそこから動かなかった。
彼は、空却の知っている人なのだろうか。でなければこんなにも嫌悪感を露わにするわけがない。ならば、彼は悪い人なのだろうか。の中で疑問が一つ、また一つと生まれる。それにしても、よくよく見たら彼のことを動画サイトかニュースで一度見たことがあるような──
「ん~。ボク、今日はやる気ないからマイクは出さないよっ。こんなとこでトラブル起こしたら、あそこにいるこわぁ~いオネーさんたちに怒られちゃう!」
「あ゙ぁッ!? って、なんで中王区のやつらが──」
「なーんてねっ★」
ヴヴゥゥン──すぐ後ろから聞こえてきた、不気味なノイズ。その音につられてが振り返ると、そこにはキャンディーの形をした物体がふわふわと浮遊していた。中心部にはスピーカーのようなものが埋め込まれており、まるで一つ目小僧のような見た目をしたそれと目が合ったは、得体の知れない物体を前にして呆然と立ち尽くしていた。
すると、スピーカーから聞いたことのない音楽が大音量で流れてくる。オオスのゲームセンターで聞いたことがあるような、ポップでリズミカルな曲調だった。それを数秒聞いた後に、男の子の息を吸う音が聞こえて、の意識がぴん、と張る。これは聞いてはいけない──本能が悟ったその瞬間、鼓膜が痛くなるほどの衝撃が両耳に走った。
「(え──)」
くぐもった音、軽い耳鳴り、おばけ屋敷の時に感じた、優しい温もり──背後から飛んできた空却によって両耳が抑えられていたは、目の前のキャンディーを呆然と見つめていた。
噂には聞いていた。それでも、には分からない世界だった。不思議なマイクを通した言葉が武器となり、人を傷つけること。その原理も意味も分からないまま、ヒプノシスマイク、違法マイクなどとH歴が発足されて以降、新たなワードが飛び交うようになった世間や政治を、他人事のように思っていた。
何を言っているのか聞き取れない。ただ、耳を抑えてくれている空却の指先が小刻みに震えているのが、すべてを物語っていた。このままいてはだめだと分かっていても、彼の手は頑なに離れなかった。自分の体も、動かせなかった。
「──あっはは~っ★ ボクは最初からキミが狙いだったよ! オネーさん庇っても意味なかったのにザンネンだったねっ」
空却の手のひらが離された頃には、音楽は止んでいた。明瞭になった聴覚が、ざわざわとした雑音とともに男の子の声を拾い上げる。は、彼の方を振り返ることができなかった。ただ、楽しそうに笑っていることは、分かる。人を傷つける行為をしたはずなのに、ワンゲーム遊んだ後のようにはしゃいでいることも、分かる。
目の前で浮いていたキャンディーはいつの間にか消えていた。男の子に抱く感情の整理もつかないまま、「それじゃあ、メンドーなことにならないうちにボク戻るねっ。ばいび~っ★」と言って、彼はスキップのような足音とともにどこかへ去っていってしまった。
声が出ない。指先さえ動かない。頭が真っ白になっている中、どさッ、と背後で嫌な音がする。が咄嗟に振り向くと、自分の後ろに立っていたはずの空却が膝から崩れ落ちていた。
「空却くんっ? 空却くんッ」
かろうじて片膝をついていた空却の前にはしゃがみこんだ。空却の両肩に手をおいて、不安定になっている彼の上半身を支える。俯いている彼の顔からは大量の汗。おまけに、ふーッ、ふーッ、と息の音を立てて苦しそうに呼吸をしている。明らかに様子がおかしい。これもあの音の影響なのだろうか。
どうしよう、どうしようっ──たった数分の間、自分の目の前で起きたことが理解できない。頭が回らない。助けを求めたいが、こんな人気のない場所で声を出しても誰も気づいてくれない。移動するにも、こんな状態の空却を一人で動かせるわけもなかった。
「(ひっ、ひとやさんに電話……っ!)」
かろうじてはたらいた頭で策をうつ。彼らがまだこの近くにいることを祈りながら、は震える手でスマホに手をかけた。
コール音を聞いているあいだにも気は急いていく。出てください、出てください──そんなの必死の祈りが通じたのか、三コール目の途中でざざッ、と雑音が混じった。
《俺だ。、どうかしたか》
「ひとやさんッ、空却くんが……っ!」
《空却? まさかマジでどっかに連れ込まれ──》
「ちがうんですッ! 空却くんが倒れて──っ」
話の途中でいきなり前に重心がかかって、は両膝をついてしまう。ついに片膝でも体を支えられなくなった空却がくたっと力をなくして、に寄りかかっている状態だった。
の体からさあっと熱が消える。《おいッ、どうしたッ。今どこに──ッ》今の空却に意識があるかも分からず、不安に駆られたはスマホを手放してしまう。少しでも体制を直そうと空却の両肩を押すが、びくともしない。重たい。空却のこの重みがさらにの不安を助長させて、情緒がぐちゃぐちゃに乱れていった。
「くーこーくん……ッ、くーこーくんッ……!」
どこか痛いのだろうか。なにが苦しいのだろうか。こういう時、無闇に揺すったらだめだと聞いたことがある。は、空却の体をただ支えることしかできない。名前を呼ぶことしかできない。怖い。怖い。自分がこんなにも何もできない人間だとは思わなかった。
助けてください、誰か来てください──今更助けを呼んでも、すっかり怯えてしまった声は誰の耳にも届かない。地面に落ちたスマホを拾い上げたいが、今手を放したら空却が倒れてしまう。そうなれば、二度と彼が起き上がれなくなるかもしれないと……本気でそう思ってしまった。
ああ、こんな屋台の裏になんて行かなければよかった。一緒に屋台へ行ってゲームを楽しめばよかった。空却の言いつけを守って、彼の言葉に耳を傾けなければよかった。そもそも自分が祭りに行かなければ、こんなことには──
「ぁ……」
今まで俯いていた空却が、ゆっくりと顔を上げる。しかし、いつも太陽のように燦々としている目は、光のない虚ろな色をしていた。
それでも、彼の瞳の中にはが映されている。そんな空却を見つめ返すは、歪んだ視界の中で浅い呼吸を繰り返していた。
「なに……泣いてんだ……」
ほとんど息を含む声で、微かに呟かれる。空却にそう言われて、は初めて自分が泣いていることに気づいた。
すると、地面についていた空却の足がぐぐ、と持ち上がる。錆びたロボットのような動きだったが、ようやく立ち膝の状態になった空却を、は涙でぐしゃぐしゃになった顔で見上げた。支えたかったのか、縋りたかったのか……彼の肩を支えていた両手は、どうしても放せなかった。
そんな中、おもむろに空却の腕が伸びてきて、の後頭部に添えられる。そのまま弱い力で前に引き寄せられると、の額が彼の肩口にとん、と当たった。
──「泣きてえときはおれを呼べ。おまえが落ちつくまで、そばにいてやる」
どうして、どうして──いま、そんなことをするのだろう。どうして、いま、こんなことを、してくれるのだろう。
現実では、か細い息遣いしか聞こえない。ただ、昔の記憶が今の時間とぴったり重なった気がして、は都合のいい幻聴を聞いた。空却は、ずっと昔のままだ。自分は、今も変わらずこうして守られてばかりで、空却がいざこうなった時に、なにもできない。無力で、弱い人間だ。彼のために何もできない。そのくせ、自分本位な想いばかりが強くなって、どうしようもなかった。
「(や、めて……)」
やるべきことはたくさんあるのに、優先されるべきことはこんなことではないのに、また涙が出てきてしまう。なにもできない自分への自己嫌悪と、空却がどうにかなってしまうことへの恐怖──ついに、の口から嗚咽が漏れて、泣く以外のことを脳が拒絶し始めた。
そうしているうちに、空却の手が自分の頭を撫でるように動き始めたことに気づいて、またしても涙が溢れる。やめて、と声にできない代わりに、は空却の肩を支える指に力を込めることしかできなかった。
