Episode.13



 ――にゃあー、なぁーぅ

 民家の間をぬって路地に舞い込んでくる風――太陽の下で干された夏風は余計な湿気を帯びることなく、暑さを微塵も感じさせないくらい涼やかなものだった。この心地良さを求めに来訪するものは後を絶たず、それは家主であるも共感せざるを得ないものだ。
 先月空却に買ってもらったハンドファンを持ちながら、地面にしゃがみこんでいる。エサをあげた後、これからやることもなかったので、暑さを凌ぎにやって来た猫たちをぼーっと眺めていた。丸まっている猫、伸びをしている猫、毛繕いをしている猫――外敵のいないこの場で、猫たちは各々リラックスしている。

「まだまだ暑いねぇ」

 いつでも涼みにおいで、と思いながら、猫たちに笑いかける。視覚的に癒されたところでそろそろ家の中に入ろうとすると、不意に、寝ていた猫も他事をしていた猫もなぜか一斉に顔を上げた。
 ん? 猫たちに釣られて、は道路がある方向……路地の出入口を見る。そして、一番最初に目に飛び込んできた鮮明な赤に目を見開いた。

「(空却くんっ?)」

 声を出すには勇気が足らず、は心の中でわあっと歓喜する。太陽に反射した水面のように目をきらきらとさせていると、その場にいた猫の何匹かが空却の足元まで寄っていった。
 「おい道塞ぐな。踏んじまうぞ」優しさが溢れる彼の言葉を聞きながら、は自分がいる玄関口まで空却が歩いてくるのをただ見つめる。髪の生え際から伝った汗が、今目の前で起きていることは夢ではないと知らせてくれた。
 ……じゃり、と砂利が擦れ、空却の足が止まる。何も言わずにこちらを見下ろすだけの空却に向かって、はゆっくりと口を開いた。

「お、おはようっ」
「はよ。つかもう昼過ぎだが。お前何時に起きた」
「えぇっと……。一時間前くらい……?」
「仕事休みだからって寝過ぎだろ」

 空却が容赦のない言葉を放っても、さほど強くない口調だったので半ば冗談として受け取る。そう思えるようになってきた自身の心の変化にも嬉しくなりながら、はほのかな苦笑いで返した。

「で、こんなクソ暑ィのに外出て何やってんだ」
「猫ちゃんのこと見とって……」

 すると、今度は溜息をついて呆れられる。しかしすぐに、「……水分ちゃんと摂れよ」と小さな声で言われて、またしても嬉しくなったは「うん」と頷いてゆるりと笑った。

 ……さて、そんな空却を一目見たときから気になっている点が一つ。会うときは大体手ぶらな空却だが、本日は網に入ったスイカを持っていた。
 すいかだあ、とが物珍しい顔でじぃっと見つめていると、空却はスイカを持っている方の腕を少し上げながらこう言った。

「スイカだ」
「えっ? う、うん。すいかだね……?」

 ――みゃあ
 沈黙を埋めるように、空却の足元にいた猫が鳴く。お互いに言う言葉をなくしてしまって、はぽけ、と小さく口を開けた。
 え……? すいか、だよね……? ちがうんかな、すいかに似とるメロンとか……ううん、空却くん、今すいかって言ったからたぶん合っとる……。がおどおどしながら空却とすいかを交互に見ていると、彼はぐっと目を細めた。まるで、手順通りに作ったおもちゃが上手く動かなかったような表情だ。
 なんだろう……? が微かに首を傾げていると、空却は持っていたすいかを前に突き出した。

「……やる」
「え?」

 そう一言言われて、改めてスイカと空却を見比べる。この状況で彼の言葉の意味が分からないほども鈍くはない。空却を見上げた時には満面の笑みが出来上がっていた。

「いいのっ? すいかくれるのっ? ほんとうにっ?」
「おう」
「ありがとうっ。あっ、すいかのお金――」
「貰いもんだから気にすんな。この時期に檀家さんからあほみてえにもらうから、うちだけじゃあ食いきれねーんだよ」
「そうなんだあ」

 そういうことであれば是非とも頂きたい。スーパーに行くたびに丸々と美味しそうなスイカを横目で見ているが、マイバッグを肩に下げながらスイカひと玉持って帰るのは大変なので、いつも通り過ぎてしまうのだ。
 うれしいなあ、うれしいなあ。今年初めてのすいかだあ。は嬉々として立ち上がる。すると、空却は持っていた網をくんッ、と引き上げて、サッカーボールのように軽々と片方の手のひらに乗せた。彼の手のひらにスイカが乗ったとき、ぽんっ、と中身の詰まった良い音が鳴って、の表情がさらに綻んだ。

「ちゃんと持ったか」
「うんっ」
「放すぞ」

 空却に少しだけ近づいたは、スイカの側面を両手でしっかりと支える。そして、底の部分を支えていた空却の手がするりと抜けた。
 その瞬間、ぐんッ、との腕が伸びる。あれ? 空却くん、あんなにも軽い感じで持っとったのに……? そんなことを他人事のように思いながら、想像以上に重量があったスイカとともにの体が前のめりに倒れていった。

「わあぁッ……っ!?」
「おッま……っ、馬鹿ッ!」

 罵声とともに、背をかがめた空却の手のひらがスイカを持っているの手の甲を支えるように覆う。熱を帯びた手の温度にの喉がひくんっ、と痙攣して、肩は未知なるものに触れられたかのように大袈裟に跳ねた。

「全然ちゃんと持ってねえだろーがッ!」

 スイカは地面に落ちて粉々――という事態は免れたものの、上からガミガミと聞こえる空却の声は鋭い。しかし、それどころではないは謝る余裕もなく、全身の神経は自身の手の甲に収束しているようだった。
 「おい聞いて――ッ」不意に空却の声が止む。それと同時に、ぴく、と空却の指先が震えたのが伝わった。そして、喉を詰まらせるような音が聞こえたかと思えば、空却によって半ば強引にスイカが奪われてしまう。行く宛てのなくなったの両手は寂しげに宙に浮いていた。

「……もういい。拙僧が運ぶ」

 玄関の網戸を開けて、サンダルを脱いだ空却は廊下をどすどすと歩いていく。そんな彼の後ろ姿を見送りながら、は再びその場にへなへなとしゃがみこんでしまった。

「(て……。空却くんの、手……)」

 大きかった。そして、とても熱かった。今まで手首を掴まれるなどはたまにされたが、手に直接触れられたのはいつぶりだろうか。ごくん、と生唾を飲んだは、はあぁぁ、と震える吐息を吐き出した。空却くんも、わざとじゃないから……。たまたま、触っちゃっただけだから……。意識しない、意識しない……。自分自身にそう言い聞かせながら、はゆっくりと深呼吸をした。
 すると、もう一度餌をもらえると勘違いをした猫たちがの周りに群がってくる。猫のふわふわとした毛が密集したおかげで、の体温は下がるどころかまたさらに上昇してしまった。しばらく家の中には戻れそうにない。







 猫たちの壁をくぐり抜け、体の熱が冷めたところで、は家の中に入った。空却が脱いだサンダルの隣に外用スリッパを揃えると、台所の方から冷蔵庫が閉まる音が聞こえてきた。

「ひとまずこん中に入れといたぞ」
「う、うん。ありがとう……」

 がそろりと台所に足を運ぶと、冷蔵庫の前に空却が立っていた。こんこん、と指の関節のところで野菜室を軽く叩いたのを見て、はたどたどしく礼を言う。先ほどよりも気分は落ち着いたが、空却とはまだ目を合わせられなかった。
 すいか、食べるの楽しみだなぁ。おっきかったし、いい音もしたし、今夜くらいには食べられるかなぁ――

 ――「ちゃーん、くーちゃーん。スイカ切ったで下降りて来やあ~」
 ――「たべる~!」
 ――「食う!!」

 ふと、小学生の頃の思い出を懐古する。カヨに切ってもらったスイカ、空却と一緒に食べたスイカ――今でも、あの時に食べたスイカが一番美味しかったと言える。きっとこれからスイカを食べる機会があったとしても、あの時のスイカに勝る味はないだろうと思った。
 すいか、ばあばにもお供えしんと……。現実の空却をそっちのけで、がぼんやりと考えごとをしていると、「おい」と不意に声がかかった。

「このあいだ言っとった、飯の話だが」

 飯――空却のその一言だけで先月の話を思い出したは、体をぴしっと固くさせた。

「今日から何日か暇もらったから、その日のどっかならいつでもいい」
「いとま……?」
「休日みてーなもんだ」

 「お前は毎日が休日みてえなもんだろ」――そんな獄の声が聞こえた気がしたが、幻聴だろう。とにかく、空却がわざわざ空いた日をこうして伝えてくれることがはとても嬉しい。「そ、それじゃあいつにしよっかっ?」と声が弾んでしまうのも仕方がない。そして、「だからいつでもいいっつってんだろ」と空却に返されてしまうのも仕方がないことだった。

 さて、はじっと考えこむ。明日からまた仕事なので、仕事から帰ってきて夕食の準備するとなるとばたばたしてしまうし、万が一残業があった時には空却の帰りが遅くなってしまう。の次の休みは来月……名目は空却の誕生日プレゼントなので、来月を待っていては遅い気がした。
 どうしよう――そう思ったところで、はふと野菜室に眠ったばかりのスイカを思い出した。

「(すいか、一緒に食べられる……?)」

 もしも……もしも、今日食べることにしたら、冷えたスイカを食後のデザートとして出せるのではないか。スイカを切って、空却に食べてもらえるのではないか。そう、まるで昔のように――

「……まあ、今決める必要もねえ。日にち決まったらまた連絡しろ」
「えッ?」

 どうやら決めかねていると勘違いさせてしまったらしい。途端に空却が帰る雰囲気になってしまい、は慌てて彼を止めた。「待って空却くんっ」

「決めとるっ。もう決めとるのっ」
「あぁ? ならいつだよ。さっさと言え」
「え、えぇっと……」

 はスイカが仕舞ってある野菜室をちらりと見て、「きょ、今日……とか……」とぼそぼそと言う。沈黙とともに空却が纏う空気が変わっていく気配がして、は唇をきゅっと結んだ。

「さすがに急すぎんだろ」
「う……」

 呆れたような、そしてどこか疑心じみた声色だった。空却の言うことはごもっともで何も言えない。しかし空却がすぐに、「まぁ……あれだ。お前がいいならいいけどよ」と言ってくれたので、一気に元気を取り戻したは顔をぱっと明るくさせた。

「それじゃあ今夜にするねっ。がんばって作るねっ」
「ん」

 そうと決まれば――は台所から居間に移動して、ショルダーバッグに鍵やハンカチを詰め始める。そのまま急ぎ足で戸締りを確認していると、その後を追ってきた空却が家の柱に手をかけながら訝しげに眉を顰めていた。

「おいなにしてんだ」
「えっ? お出かけする準備……」
「はあ? 今から出かけんのか」
「うんっ。材料とか買いに行かんとかんからっ」

 ……無言。何か言ってはいけないことを言ってしまったかと思い、は畳みかけるようにこう言った。

「く、空却くん、いっかいお寺に帰るよね? 夕方にはごはんできとると思うから、十八時くらいにまた来てくれたら――」

 言っている途中で、空却が机の前にどすんと胡座をかいた。はて、とが首を傾げると、空却がちろっとこちらを一瞥した。

「買い出し」
「え?」
「どうせ商店街あたりだろ」
「う、うん」
「親父に買い出し頼まれとったの思い出したから、拙僧もついでに行ってやるよ」
「えっ! ほんとっ?」

 やったあ。うれしいなあ。おじさん、空却くんにおつかい頼んでくれてありがとう――そんな思いを込めながら、「すぐに支度するねっ。ちょっと待っとってねっ」と、は先ほどよりも張り切って身支度を始めた。







 オオス商店街――日中、そして夏休み中ということもあり、観光客や学生でごった返して普段よりもかなり蒸し暑かった。天井窓に設置してある機械から水のミストが降ってきているものの、人口密度が高いおかげであまり意味を成さないものになっている。

「(なんだか、いつもよりも人多い……?)」

 商店街を歩きながら、はきょろきょろと道行く人を観察する。今日ってなにかあったっけ、と商店街のイベントを思い出していると、突如、どんッ、と前方から押し寄せてきた人にぶつかってしまった。

「あ……すみま――」

 最後まで謝る暇もなく、どすん、どすん、とは新たに流れてくる人にぶつかっていく。気がつくと、はなんとなく左側通行している中で逆流してきた集団の群れの中心にいた。
 えっ? えぇッ? 周りを見回してもと反対方向に進む人々ばかり。隣にいたはずの空却もいつの間にかいなくなっている。今すぐにでもここから抜け出したい気持ちでいっぱいだが、地面は他人の靴にほぼ埋め尽くされてしまっていて、の足が着地できる場所はほぼなかった。
 一歩踏み出すことすらできず、四方八方から人の圧がかかり、ぎゅうぎゅうと押し潰されてしまう。の中にある戸惑いが恐怖に変わるまで、そう時間はかからなかった。

「ぁ、あ……ッ、空却く――っ」

 不安の溢れた心が彼の名を呼ぶよう駆り立てる。すると、どこからかの腕を掴むものがあって、は一本釣りのように人の群れから引き上げられた。
 そのまま軒下に移動させられると、ぱっと腕を放される。ようやく人の密度の薄い場所に来れて、はふう、と一息つけた。そしておそるおそる隣を見上げると、真顔でこちらを見下ろす空却の眼差しとぶつかった。

「あ、ありがとう……。ごめんね……」

 何か言われるかと思って覚悟していたが、意外にも空却からの返事はなく、から目線を外した彼は、恨めしそうに人混みをじっと見据えた。

「どいつもこいつもこのクソ暑ィ日に……。どっから湧いて出やがった」
「今日、やっぱりいつもよりも人多いね……?」
「祭りだからだろ。こんなんじゃ夕方が思いやられるわ」

 空却の言葉を聞いて、えっ? と目を丸くする。言われてみれば――赤門を潜る前からいつもよりも屋台の出店が多い気がしたし、道行く人の中でも浴衣や甚平を着ている人がちらほらといる。
 ようやく謎が解けたような気持ちになった。そっかぁ、今日はおまつりなんだぁ、それじゃあ花火も上がるんかなぁ――時期的に今月最後であろう祭りに思いを馳せていると、「とにかく、」と空却から声がかかった。

「必要なとこだけ行ってけェるぞ。どこ寄るんだ」
「う、うん。とりあえずスーパーだけで――」

 ……そういえば、なに作るかまだ考えとらんかった。
 大事なことを思い出してが固まっていると、案の定空却が首を傾げる。これは由々しき事態だ。は勢いよく空却に尋ねた。

「空却くんってなにか食べたいものとかあるっ?」
「はあ? 決めずに外出たのかよ」

 うん、とは自信なさげに頷く。もちろん、献立はずっと考えていた。寝る前も、出勤時間も、ランチ中も、入浴中も……空却が喜ぶものは何かと考えて、考えて――考えるだけでそれ以上の進展はなかった。早いうちに空却に聞けたらよかったのだが、寺のことで忙しい彼にわざわざそんな連絡をするのも気が引けてしまった。

「なんでもいいんか」
「う、うん。あんまり凝ったのはむずかしいかもしれんけど……」

 やっぱり和食かなぁ。それとも、洋食とか、中華とか……。どうしよう、中華だったらチャーハンしか作れないや……。自分で言ったもののさっそく不安に駆られただったが、空却はほとんど唇を動かさずにぼそりと言った。

「……唐揚げ、作れるか」
「からあげ?」

 空却の口から漏れだした単語を思わず復唱する。一言で唐揚げといっても多種多様……その中で、は唐揚げといえばというものを口にした。

「鶏もも肉のでいいかなぁ?」
「ん」

 口を閉じたまま肯定した空却に、はほぅ、と小さく息を漏らす。そっかぁ、からあげかぁ、空却くん、からあげ食べたいんだぁ――品目のチョイスがなんとなく微笑ましくなってしまって、「うん。作れるよ」とは口角を上げた。

「それじゃあ、お肉もたくさん買おうねえ」

 そう言って空却を見上げると、視線が交わった彼はなぜか眩しそうに目を細めていた。







 人通りの多い通路を避けて進んでいくと、なんとかスーパーまで辿り着くことができた。買い物かごは例のごとく空却が持ってくれているおかげで、は陳列棚に集中することができた。
 精肉コーナーに着くと、幸いにも鶏もも肉はたくさん並んでいた。よかったぁ、とひと息ついたは、違う鶏の種類のもも肉を両手に持ちながらそれらを交互に見比べた。

「(どっちがおいしいかなぁ。やっぱり高いほうがおいしいんかなぁ)」

 自分が食べるならまだしも、今日は空却が食べるもの――少しでも美味しいと思ってもらいたい。値段を気にせず買ってしまおうか。しかし、高いとはいえ必ず美味しいとは限らない。やはりここは食べ慣れている安い方がいいかもしれない、などと考えてしまって、中々決められなかった。

「空却くん、空却くんはどっちが――」

 思いきって空却に尋ねてみることにした。てっきり別の方向を見ていると思っていた彼を見上げると、一寸の狂いもなく空却と目が合ってしまった。ぁ……え? は矢で射抜かれたように体が硬直し、空却も目が合った瞬間目を見開いていた。
 ……しばらく空却と見つめ合った後、ぼんッ、と頭のてっぺんが熱で爆発する。我慢の限界、と言わんばかりに顔を赤らめたはへなへなと俯いた。

「い、いいと……おもいますか……」
「……なに畏まってんだよ」

 空却にしては小さな声でぼそぼそと言う。そして次に、「食えりゃあなんでもいい」とも付け足してくれた。
 そうだよね、食べられたらなんでもいいよね、と余裕のなくなったは思考を放棄する。値段の安い方は陳列棚に戻し、高い方の鶏もも肉を両手で大事に持ったは表面のラップの部分を指の腹で撫でる。あとは何パック買うかだ。

「(男の子って何個くらい食べるんだろう……?)」

 とりあえず三百グラムのものを二パック重ねる。これで十個はできると計算すると、「おい」と空却の声が降ってくる。

「それで何個分だ」
「十個分だよ」

 が答えると、かなり不服そうな顔をした空却。すると、彼は陳列棚からさらに二パックを手に取って、自身が持っている買い物かごの中に入れた。状況の読めないがぽかんとしていると、空却はの手元を指差した。

「それもさっさと入れろ」
「えッ」
「なんだよ」
「ぁ……く、空却くん、作れるからあげが一パックあたり五個くらいでね、四パック買ったら、それのかける五個だからだいたい二十個――」
「んなもん分かっとるわッ。お前拙僧が算数できねえと思ってんだろ」
「思っとらんっ。思っとらんよッ」

 空却の癇に障ることを言ってしまったらしいがぶんぶんと首を横に振る。ふん、と鼻を鳴らした空却はが持っていた鶏肉を奪って買い物かごの中に突っ込んだ。「……つか、」

「お前も食うんだろ」
「え?」
「“え?”じゃねえ。まさか夕飯抜くんか」
「ぬ、ぬかないっ」

 「ならこんくらいでいいだろ」空却はぶっきらぼうにそう言った。彼の言葉がじわじわと胸に染みていくのを感じながら、は浅い呼吸を密かに繰り返していく。
 空却くん、からあげいっぱい食べてくれる……。それに、一緒に、食べてもいいんだ……。空却くんと、夕ごはん、いっしょに――ほんとうにこれは彼への誕生日プレゼントになるのだろうか。贈る側の自分が、こんなにも満たされていいのだろうか。
 虚ろ眼でがほわほわと浮かれていると、「次なに買うんだ」と空却に急かされる。はぱちっと我に返った。

「えっとね、からあげに合うものだから――あっ、空却くん、お吸いものかおみそ汁、どっちがいい?」
「味噌汁」
「それじゃあ、赤みそも買おうねえ」

 だんだん買い物が楽しくなってきて、はまた笑ってしまう。今までで一番楽しい買い物かもしれない。頭の中で唐揚げに合うものを考えながら店内を回っていくと、空却がすぐ隣についてきてくれる。この状況では当たり前のことなのかもしれないが、それだけでもの頬はだらしなく緩んでしまった。


 ――順調に目当てのものを買い、レジへ向かっている途中でアルコールコーナーに差し掛かる。今までは場違いなところとして避けていたところだが、二十歳になったもそれなりに興味がでてきたのだった。

「あっ」

 その中で、可愛らしいデザインの酒缶が目に入る。“新発売”、“夏季限定”という鮮やかなポップに惹かれ、ほろりと酔えるその酒缶をじっと眺めた。

「(甘夏味……!)」

 の目がきらりと光り、陳列棚からその最後の一缶を手に取る。青い空、白い雲……そしてその下でひまわりと共に新鮮な甘夏のイラストが描かれている。夏のために開発されたといってもいい、見た目爽やかそうなリキュールだ。
 同じシリーズの白いサワーもおいしかったなあ。また飲みたいなあ。買っちゃおうかなあ。缶に印刷された可愛らしいデザインを見たくて手の中で缶をくるくると回していると、「おい」と不機嫌そうな声が降ってくる。
 ふと見上げれば空却の怖い顔が目に入る。あっ、と声を上げたは慌てて首を振った。

「だいじょうぶっ。一人のときっ。一人のときに飲むからっ」
「信用ならねえ。戻せ」
「もう最後の一本しかないしっ、期間限定だからなくなっちゃうかもしれん……っ」
「蜜柑ジュース飲みたきゃあ裏にあんぞ。粒入っとるやつ」
「炭酸が入っとるのはこれしかなくてぇ……っ」

 興味本位が大半を占めるものの、期間限定という言葉に背中を押されて中々引き下がれない。駄目だ、と視線だけでも圧がある空却だったが、どうしても今欲しい。おもちゃが買ってもらえずに親に駄々をこねる子どもの気持ちが分かった気がした。
 しばらく目力だけの攻防戦が続き、が負けを認めそうになる手前のところ……空却は天井を見上げて、深々と息を吐いた。

「……買ってもいいが、今日飲めよ」
「きょ、今日……?」
「飯食うときに」

 えっ? 飲んでもいいの? 空却くんいるのに……? は思わずぱちぱちと瞬きをしてしまう。今日買いたいが、飲むのは後日でいいと思っていた。それに、今日飲むとなると一つ問題がある。

「空却くんの前でよ、酔っぱらい……? になっちゃうのは……その……」
「ならねえように少しずつ様子見ながら飲め。飲めねえ分は拙僧がもらってやっから」

 人前でお酒飲んじゃかんって、空却くんこのあいだ言っとったけど、一杯だけなら人前で飲んでいいってことかなぁ……? だんだんと頭がこんがらがってきてしまい、は何も言えなくなってしまう。それに、これ以上言うと酒缶を没収されかねないので、は素直にこくこくと頷いた。

「うん……。それじゃあ、今夜飲むね」
「んじゃあ入れろ」

 そう言われて、は買い物かごの中に酒缶を入れる。このあいだは一缶丸々飲んで酔っ払ってしまった(らしい)ので、もしかすると、これを機に自分が楽しめるアルコールの量が分かるかもしれない。
 そしたら、お店の飲み会とか、帰ってきたあんちゃんたちとも楽しくお酒飲める――近い未来に期待を膨らませながら、大人の階段に足をかけたは思っていたことをそのまま口にした。

「一杯でも酔わんかったら、これから人に迷惑かけんくていいねえ」
「あ゙ぁ!? だから人前で酒飲むなってこの前言っただろーがッ!」
「えぇっ!?」

 いきなり逆上した空却を見て、は頭の中がクエスチョンマークいっぱいで満たされたのだった。







 材料の調達を終えて、家に帰る頃には二人で汗だくになっていた。家を出てからさほど時間は経っていなかったので、室内にエアコンの冷気は残っていたものの、それでも体にこもった熱を冷ますには不十分だった。

「あ゙っつ……」
「あついねぇ……。すぐにエアコンつけるねぇ……」

 サンダルを脱ぐなり、空却は持ってくれたマイバックを肩にかけたままどすどすと台所へ向かった。は覚束ない足取りで居間に向かい、エアコンを付ける。家を出る前よりも温度を少し下げて稼働させた。除湿機能ももちろん忘れない。

「とりあえず冷やしておくもんは適当に入れたぞ」
「あっ。ありがとうっ」

 台所から戻ってきた空却は部屋の隅にあった扇風機のコンセントを差して、スイッチを押すなり扇風機の前に座った。「あ゙ー……」汗で水気を帯びた空却の前髪がふわふわと揺れ動いているのを、はぼんやりと眺める。
 スイカを持ってきてくれて、さらには買い物にも付き合ってくれた――自分よりも働いてくれた空却に何か報いたいと思い、は浴室のある方向をちらりと見た。

「空却くん、お風呂入ってくる……?」
「あ……? 風呂?」

 うん、とは頷く。「体、べたべたしとると気持ちわるいかなぁって」そう付け足すと、少し考えた素振りを見せた空却はこちらを見上げた。

「入れるなら入りてえが、着替えなんざねーぞ」
「あ、そっか……」

 さすがに脱いだ服をそのまま着させるわけにはいかない。どうしたものかと家にある衣類を順々に思い出していくと、「あっ」と不意には閃いた。

「あるよっ。お着替えあるっ」
「あんのか」
「うんっ。空却くんがお風呂入っとるあいだに置いておくから、先に入ってこやあ」

 そう言って、は空却を脱衣所に誘う。またしても一考した空却だったが、最終的に「……んじゃ、ありがたく」と言って、扇風機の前から腰を上げた。


 そうして、二人で脱衣所に向かってから、ははたと思う。空却くんって、うちのお風呂入ったことあったっけ……? どうだっけ……? 昔の記憶が定かでないまま、はひとまずシャワーの使い方を一から説明し始めた。

「温度は蛇口を開けて調節するタイプだから、冷たかったり熱かったりしたら水とお湯の量を調節してね。こっちがお湯で、こっちがお水だよ」
「色見りゃあ分かる。うちと同じだから問題ねえ」
「そっかあ。あっ、脱いだ服は洗濯機の中に入れてくれたら、洗っておくからね。そのまま乾燥もしてくれるから、ごはん食べ終わるくらいには着て帰れるよ」
「おー」
「シャンプーとリンスはこれとこれで、ボディーソープはこっちだよ。体洗うタオルはあそこにかかっとるの使っていいからね。あと、体拭くタオルもあとでお着替えと一緒に――」
「あー。大体分かっからお前はさっさと飯作ってこい」

 面倒くさそうに空却に言われ、半ば追い出される形で脱衣所を後にした。しゃッ、と仕切りのカーテンが締められてから、早々に服を脱ぐ音がしたので、は慌てて脱衣所から離れた。
 その足で台所に向かったはエプロンを装着して、お盆に掃除したばかりの綺麗なシンクを見つめる。ここからが本番、と言わんばかりに「よしっ」と台所の前で意気込むと、浴室からシャワーの音が聞こえ始めた。







 祖母と知り合いに教えてもらった唐揚げのレシピを思い出しながら、衣につけた鶏もも肉を丁寧に揚げていく。そのあいだにも米を炊き、味噌汁を作り、小松菜のおひたしを作った。いつもよりも段取りが良いのはきっと空却のおかげだ。
 粗熱のとれた唐揚げを菜箸で摘み、一つだけ味見をしてみる。サクサクに揚がった衣を噛むと、じゅわっとした肉汁とともに香ばしいしょうゆの味が口全体に広がる。鶏肉の柔らかさと相まって、の頬がとろんと蕩けた。

「(今までで一番おいしくできたかもしれん……)」

 頬が落ちないように気をつけながら、もぐもぐと口を動かす。あともう一個だけ、と手につけようとして、だめだめ、とは自分を制する。なんといっても、今日の晩餐は空却のためにあるのだから。

 ご飯もあと少しで炊けるので、はひとまずお茶と箸だけ居間に運ぼうとする。石鹸の匂いが廊下に散らばっているのを感じて、は水音のしない脱衣所を見た。

「(空却くん、お風呂上がったんかな……?)」

 居間の扇風機の前で涼みながら漫画を読んでいる空却を想像する。もうすでに夕飯の時間を回っているし、お腹が空かせているかもしれない彼のために、は早足気味に居間へと向かった。

「――だから飯食うだけだっつっとんだろ」

 居間の敷居を跨ごうとしたとき――空却の鋭い声が聞こえて、はびくっ、と肩を震わせる。自分宛の言葉ではないが、部屋を入るタイミングを見失ってしまったは無意識に息を潜めた。

「あぁ……食ったらさっさと帰るわ」

 会話の続きが聞こえてきた瞬間、はずぐん、と重たい痛みを胸に覚えた。
 食べたら帰る――当たり前だ。ほんとうにその通りなのだが、その瞬間をいざ想像してしまうと、の心に冷たい風が吹き荒れる。前までは、ご飯を食べてくれるだけで喜んでいたと思う。その先を望むことなどきっとなかったはずだ。

「(だめ……。だめだなぁ……)」

 梅雨の時もそうだった。与えてくれるだけもらってしまうから、その先のものを欲してしまう。空却くん、やさしいから……帰らなくちゃいけなくても、いてくれる……。おじさんにあとで怒られても……。そこまで気づいていて、それを良しとしているのは自身だった。甘えている。頼りすぎてしまっている。口では空却に気を遣うふりをして、結局のところ、自分の本心はどろどろとみにくいものしかないのだ。
 空却くん、夜遅くに起きなかんから、早く寝なかんのに。あんまり、夜中まで一緒にいちゃいかんのに。もしかしたら、夜のお迎えだってほんとうは――今まで考えてこなかったことが芋づる式のように事実として掘り上がっていくところで、の頭上を濃い人影が覆った。

「盗み聞きたァ趣味悪ぃな」

 声に驚いたが顔を上げると、BATのライブTシャツとチノパンに身を包んだ空却が目の前に立っていた。チノパンは古着屋で買ったユニセックスもので、が履くと緩く着こなせるそれも、空却が着ると丈が少し短いくらいできつそうには見えなかった。ライブTシャツも、オーバーシャツとして着たくてLサイズを買っておいて正解だった。
 空却の姿を見て、服着られてよかったぁ、と安心したかったが、彼はじっとりとこちらを見下ろしている。聞いとったよな、と眼差しから音が漏れてくるようだ。
 どうしよう……。なにか言わんと……。目を泳がせながら、は喉を絞ってこう言った。

「お、おじさん、怒っとったよね……」
「親父なんて年がら年中キレてんだろ」
「わたし、空却くんが帰ったあとに電話して――」
「しんくていい。それよか腹減ったんだが」

 何度もしたやり取りを跳ね除けられ、話が逸れる。腹減った、という空却の一言でぴゃっと肩が跳ねたは、「すっ、すぐに持ってくるねっ」とお盆を机の上に置いて、他の料理の配膳を始めた。


 炊きたての白いご飯、赤味噌で作ったなめこの味噌汁、小松菜のおひたし、そしてメインである唐揚げ――どれもこれも、いつもの倍のボリュームだ。いつも一人分の食器が並ぶ机には、数年ぶりに二人分の食器が並んでいた。

「酒は」
「ここに――」
「貸せ」

 は胡座をかいて座っている空却の前に箸とお茶、そしてお酒用のグラスを並べていき、手元にあった酒缶を空却に渡した。空却がタブを開けるとプシュッ、という軽快な音ともに、爽やかな柑橘の香りが部屋にたちこめた。
 いいにおいだなあ。おいしそうだなあ。やることを終えたが空却の隣でわくわくと胸を踊らせていると、彼は用意されたグラスに酒を注いでいく。無色透明な液体が並々注がれて、そちらは空却に。そして、「とりあえずこんなもんか」と、もう片方に半分注がれたグラスはの方へスライドされた。

「(空却くんとお酒……)」

 グラスを自分の手元に引き寄せたはひとり密かに感動に浸る。こうして、空却と過ごす特別な時間が増えていくことがどれほど幸福か……彼はきっと知らないだろう。
 「ん、」と隣から微かに音が漏れる。が空却の方を見ると、彼はグラスを片手に持ってこちらをじっと見つめていた。しばらく固まっていただったが、ようやく空却の意図が分かって、両手で持ったグラスを彼のグラスに近づけた。夢にも見た、大人のやりとりだ。
 飲み口の部分を空却のグラスに微かに当てると、からんっ、と中に入った氷がくずれる。ぐぐっと飲んだ空却を習って、もグラスを仰ぐ。炭酸泡とともに柑橘の味が弾けて、はふわあっ、と息を吐いた。

「甘夏おいしい~っ」
「……これほんとに酒かよ」

 グラスから口を離した空却はそんな感想を零した。はそれを横で聞きながら、グラスにあるだけの酒をごくごくと飲んでいく。喉が渇いていたのもあって、グラスの中にある酒は一気に飲み干してしまった。
 もうなくなっちゃった、と思い、は酒缶に手を伸ばそうとする。しかし、空却の手によって酒缶は机の端に避けられてしまった。あれ? とは不思議そうな顔で空却を見上げる。

「空却くん?」
「一気に飲みすぎんな」
「あともう半分飲めるよ……?」
「分かっとるわ。飲む前に飯から食え」

 そっかぁ、と少し残念そうに肩を落とす。しかし、空却が言うなら、とは箸を手に取って丁寧に手を合わせた。
 まずは味噌汁を一口飲んで、甘夏の味で満たされている口の中を味噌いっぱいにする。なめこのぬめりが味噌に深いコクを生み、味噌が染み込んだ木綿豆腐も大豆の味が良いアクセントになっていた。
 ほう、と温かい息をついて、続いて小松菜のおひたしを一口摘む。水分をぎゅっと絞った小松菜にはだし醤油とかつおぶしをあえており、口の中に含めばだしの味が、一度噛めば小松菜の味が舌の上で踊った。茹で時間もいい具合で、小松菜のシャキシャキとした繊維もきちんと生きている。
 おいしい……! 今日のごはん、すごくおいしい! 空却くんがいるからかな、きっとそうだね。自問自答したはにこにこしながら、続けてメインの唐揚げに箸を伸ばした。

「(あれ?)」

 唐揚げが乗っていた大皿……あまりに山盛り乗せると見栄えが悪くなるので、ひとまず五、六個だけ乗せていたはずだが、なぜか唐揚げは残り一つだけになっていた。ちなみには(味見用の一つを除いて)まだ一つも食べていない。
 ふと空却を見ると、彼の口はもごもごと動いている。そして、茶碗の中にある米も半分以上減っていた。あれれ? がぽかんとしていると、ごくん、と喉を上下させた空却は手元にあったお茶をずずっ、と流し込んだ。

「……白飯と唐揚げ、もうねえの」

 こちらにちらりと視線を配った空却が呟くように言う。まるで、おかわり、と言われたようで――空却の本心は違うかもしれないがにはそう聞こえた――はぱあっと顔を輝かせた。

「あるよっ。たくさんあるっ。すぐ持ってくるねっ」
「転ぶなよ」

 続いて味噌汁のお椀を持ち上げた空却は言う。彼のそういう優しい言葉にも嬉しくなってしまって、台所に向かうの足はさらに急いてしまった。


 ――楽しい時間は刻々と過ぎていく。総数二十個弱の唐揚げは片手で数えられるほどになり、は(空却の許しを得て)残りの酒をちびちびと飲んでいた。
 空却はおひたしを摘みながら、唐揚げとご飯を引き続き食べ続けている。完食するのも時間の問題だ。その様子をつまみにグラスを傾けているは、ゆっくりと口を開いた。

「くうこうくん」

 なぜか舌が重たく感じて、どこか幼い口調になってしまった。しかし、それでも空却は茶碗から顔を上げてくれる。咀嚼しながら傾聴する姿勢になっているのが堪らなく嬉しくて、はふふ、と笑んだ。

「からあげ、おいしい?」

 首を傾けて、彼の顔を覗き込むようには言う。すると、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした空却はごく、と喉を上下させる。そして、しばらく居心地が悪そうにそっぽを向いたかと思えば、彼の唇の間からはぁ、と重たい息が漏れた。

「……うまい」

 ぱちッ、との頭の中でスパークが走る。暖かい風がすうっと抜けていくように体が軽くなり、の目がみるみるうちに大きく見開かれた。
 空却はまたすぐに目を逸らしてしまったが、の笑顔は消えることはない。長年の願いが今ここで叶い、「そっかあっ」との体の中で歓喜が弾けた。

「わたしね、くうこうくんにね、作ったごはん、おいしいって、ずっと言ってもらいたかったの」

 カヨが入院するまで、誰かに作ってもらったご飯だけを食べていた。自分で作るにも初めは作り方も分からず、味付けの仕方も分からず、試行錯誤を繰り返しては空却に味見をしてもらってばかりだった。
 これから自分が一人で生きていくため……美味しいご飯を作ることが目標だったのが、ただ空却に褒められたいがために頑張るようになったのはいつからだろう。幼い自分の気持ちを思い返しながら、「えへへ……」とは上がったまま動かなくなってしまった頬を両手で包んだ。

「……昔も今も変わんねーよ」
「うん?」

 言葉の意味が分からず聞き返そうとすると、空却は先ほどよりも勢いよくばくばくと唐揚げや白飯を口に運んでいく。食べる、というより吸いこむといった表現の方が似合うかもしれない。
 おかげであっという間に食器は空になり、「ごちそーさん」と空却が手を合わせるまで一分もかからなかった。完食してくれたことがとても嬉しくて、「おそまつさまでしたあ」とは朗らかに言う。空却に何を聞こうか忘れてしまった。まあいっかぁ、と思ったが食器を片付けようとその場から立とうとすると、空却が先に腰を上げた。

「あとは拙僧がやっとくから座ってろ」
「え?」
「顔が赤え。半分酔ってんだろ」

 酔ってないよ、と言いたいところなのだが、どうなのだろう。自分としてはそうでもないのだが、違うのだろうか。うぅん? とが考えているうちに、空却は机の上にある食器をてきぱきと片していく。カフェで働くも目を張るほどの無駄のない動きだ。
 なんだか申し訳ないなあ。くうこうくん、お客さまなのになぁ。わたし、そんなに顔赤いのかなぁ。今の自分の顔色を確認したいはきょろきょろと鏡を探すが、あいにくそれらしいものは近くになかった。
 すると、空になった酒缶を手に取ってじっと見つめた空却が、「三パー……」と小さく呟く。そして、机の前に座っているを見下ろしたかと思えば、呆れたように重たい溜息をついた。

「たかが一杯でこれかよ……」
「どれ?」
「どれでもねえ。お前、ぜッッてえ外で酒一滴も飲むんじゃねーぞ」
「うんうん。ひとまえで飲んじゃかんのだよね。……あっ、今日はくうこうくんと飲んじゃったけど……」
「拙僧はいいんだよ」
「くうこうくんはいいの?」
「あぁ」
「それじゃあ、くうこうくんがいるときにおさけ飲むようにするねえ」

 そう言ってが柔らかく笑うと、空却はまた眩しそうに目をぐっと細める。そのとき、微かに唇が動いたような気がして、「くうこうくん?」とは空却の名を呼んだ。そのまま、どうしたの? と言葉を続けようとしたのだが、口をぐっと閉じた空却は、空いた食器を持ってそそくさと居間を出ていってしまった。
 ……ひとり、ぽつんと置いていかれた。さっきの、なんだったんだろう……? そう思ったのは数分だけで、時間が経つにつれて、小さな疑問がその答えをじわじわと形どっていく。幻のように一瞬のことでも、見間違いではないことだけは分かる。そして、その時空却が何か言いたいことを飲み込んだように見えたと、の長年の勘のようなものが鈍感な心に訴えていた。







 洗いものもやると言ってくれた空却に甘えて、その間に入浴を済ませた。居間に戻る途中で洗い場を通ると、シンクの上は何もなく、食器類は綺麗に並べて水切りかごの中で乾燥してあった。
 「シャワーはぬるま湯で浴びろ。あと風呂上がったら水飲んどけ。三杯くらい」そんな空却の言葉を守って、冷蔵庫から天然水のペットボトルを取り出したはコップ一杯の水を注ぐ。人は一度に飲める水分の量が決まっているというが、空却が言うのだから仕方がない。それでも三杯目はかなり苦しかった。
 ぬるま湯のシャワーを浴びたものの、アルコールがまったく全身に回らないわけではないらしい。少し頭がふらふらとするような気がするが、きちんと自我はある。だいじょうぶ、酔っとらん。そう自分に言い聞かせた。やけに家の中が静かだったので空却が帰ってしまったのかと心配だったが、居間を覗くと畳の上にある赤髪が見えたのでほっと胸を撫で下ろした。

「(あ……)」

 空却くん、ねとる……。
 そろっと居間に入ると、自身の腕を枕にして、大仏のように横向きに寝ている空却がいた。時計を見ると二十時を回るところ……いつもなら彼が寝ているであろう時間だ。洗いものを終えた後、そのまま寝落ちてしまったのだろう。
 ……邪な心が生まれたは、空却と向き合う形で彼の隣にころんと横になる。その距離は今までよりもかなり近い。端正な顔に見惚れながら、はうっとりと目尻を下げた。

「(しあわせ……)」

 ほぅ、と熱っぽい息をつく。空却くんが……隣にいる。こんなにも……近くにいる。距離こそ人間の半身分ほど空いているが、にとっては至近距離だ。空却の目が開かないことをいいことに、は時間の許す限り彼の寝顔をぽーっと見つめた。
 空却くん、エアコンつけとってさむくないかな。タオルケット、いるかな。このまま寝ちゃったら、お泊まりになるね。体痛くなっちゃうまえに、おふとんも敷かなくちゃ。もしかして、朝までいてくれるかな。おはようって、言えるかな……。そしたら、朝ごはんとかもいっしょに――

 ――「食ったらさっさと帰るわ」

 ……数時間前の空却の言葉を思い出して、の願望がすぐさま泡となって消える。すると不意に、外からぱんッ! と空気が割れるような音がして、慌てて起き上がったはカーテンを開けた。
 真っ黒な夜空の中、浮かび上がるのは電灯の光と月明かり……そして、民家の屋根の端から色とりどりの火花が覗いているのを見て、はわぁ、と感嘆の声を漏らす。そっか、今日は花火もあがるんだぁ……。半分しか見えないそれを眺めていると、後ろから布擦れの音が聞こえてきた。

「パンパンうっせーな……」

 振り向くと、あくびをした空却が上半身を起こしていた。おはよう、と言う前に襲った落胆の大きさに自分で驚いてしまって、は一瞬言葉をなくした。
 空却くん、起きちゃった……。二度目のあくびをする空却を残念そうに見つめながら、はきゅっと唇を結ぶ。なんだろう、すごく嬉しいことが続いとったからかな……。空却くんが起きちゃったの、すごくかなしく思えてまう……。
 そんな気持ちを隠しながら、「洗いもの、してくれてありがとう」とが言うと、「おー」と軽く返される。そんなやり取りをした後、空却もまた窓際に寄り、じっと外を見つめた。のすぐ横に来た時、空却の体から自分と同じせっけんの香りがして、変に照れてしまったはさっと俯いた。

「あんま見えねーな」
「う、うん。……あっ、二階のほうが見やすいかも……」
「なら二階上がれよ」
「空却くんも見る……?」
「あ? お前が見てえんだろ」

 噛み合わない会話の締め方が分からず、は曖昧な笑顔で濁した。空却くんが見ないなら、いいかなぁ……。そんな言葉を胸に留めて。
 民家が障害になってしまっているせいでほぼ見えない花火に興味をなくしたのか、空却はすぐに窓から離れてしまった。も早々にカーテンを締めて、空却と同じくそそ、と卓袱台の前に移動する。

「……夏も、もう終わりだね」

 机に肘を立てた空却に、はぽそりと言った。そーだな、と返されるか無視されるかの五分五分だったが、結果は後者だった。
 ……部屋に流れる何とも言えない空気に呑まれてしまい、言わなければよかった、とが後悔したときのことだ。

「……今年、祭り行ったか」

 空却によって新たな切り口を見せられた。口から言葉が駆け足で飛び出そうとするのをぐっと抑えて、嬉しさで震えた声で答えた。

「う、ううん、行っとらんよ。空却くんは……?」
「行ってねえ」

 行ってないんだぁ……。てっきり十四と獄、もしくは違う友達と行ったと思っていたので意外だった。
 祭り、と聞いてが思い出すのは、小学生の頃に空却と行った祭りだ。七月中に夏休みの宿題を終わらせれば、灼空から外出許可が降りたのだ。寺の掃除や雑務が免除になるからか、それとも美味しいものが食べたかったからか……その頃の空却はかなり熱心に課題に取り組んでいた印象があった。

「……小学生の、ころ」

 緊張を帯びている声に気づかないでほしいと願いながら、はまだ頭の中で完成していない言葉を懸命に紡いだ。

「夏休みの宿題が終わったら、行っとったね、おまつり……」
「そうだな」

 誰が、とは言わなかったが、空却は応じてくれた。自分の想像と空却が思っていることが同じであることを願いながら、は言葉を続ける。

「あの頃も、すごく人多かったから……一歩歩くのも大変だったね」
「お互いチビだったからな。何度も踏まれそうになったわ」
「おじさんからもらったおこづかい、小さいおさいふに入れて……」
「お前だと落とすからっつってんのに、親父が頑なに拙僧に持たせなくてよ」
「無駄遣いしんようにって言っとったね」

 「たくさん買っちゃうの、わたしの方なのに」長年日に当たらずに枯れつつあった思い出が、突如溢れてきた淡い色水に滲んでいく。あれもこれもたべたいと言った自分に呆れていた空却。食いすぎだろ、と言いながらも屋台に並んで買ってくれて、おらよ、と空却の手から渡された食べ物の味は、は未だに忘れていない。

「たませんとか、焼きそばとか……。あとはフルーツあめとベビーカステラと……あっ、それからかき氷も」

 小さい頃に食べたものを思い出しながら、は品目を指折り数えていく。なんとなく、今の会話が途切れてしまったらこの幸せな時間が終わってしまうと思った。
 口を動かしながら、変な汗がじわりと浮かぶのを感じる。ぱっと思い出したことを丁寧に噛むこともせず、は考えもなしにそのまま口へ運んでいった。

「あのときもすごく人が多かったから、空却くん、はぐれんようにって、よく手ぇ――」

 突然、頭の中で警鐘が鳴る。気がつくと、の目の前には深い溝が広がっていた。今、自分が何を言おうとしたのか自覚して、咄嗟に音を飲みこむ。酔いが冷めたように我を取り戻した。その先を言ってしまえば、底の見えない溝がさらに開いてしまう気がした。
 不自然に会話が切れてしまい、は指先の感覚がなくなっていくように気が遠くなった。じくじくと体を蝕む空気に耐えきれずに、畳の目を数えるように俯く。やっぱり、なんでもない、と。震える声でそう言おうとした時だった。

「……なぁ」

 唐突に聞こえた空却の声に、はおそるおそる顔を上げる。少し伏せられていた金色の目がまっすぐにこちらを射抜くまで、は無意識に息を止めていた。

「行くか」
「え……?」

 どくん、と心臓が大きく脈打つ。主語のない言葉が上手く理解できず、は思わず声を漏らした。

「六月にあった紫陽花のなんか、行けなかったろ」
「ぁ……あじ、さい……?」
「祭り。来月にもう一回ある」

 「規模は今日ほどねえやつだが」会話が成立しないまま、空却は言葉を並べていく。一つ一つの単語を手に取って確認するまでに数秒かかってしまい、は指先を隠すようにして両手をきゅっと握った。
 おまつり……? 空却くんと、おまつり……? いっしょに、おまつり――空却の言葉のピースと自分の理解が重なった瞬間、は飛び跳ねるように前のめりになった。

「ぅ、うんっ! 行くっ。お祭り行くっ。すごく行くっ!」
「すごく行くってなんだよ」

 空却に即突っ込まれたが、は気にしなかった。体が現実を受け入れてきたのか、ぽかぽかと温かくなってきた気がした。空却くんとお祭りに行ける。いっしょに行ける。うれしい。たのしみ――そんな中、どうしてだろう、と思ったのは一瞬だけ。理由なんてなんでもいい。空却が誘ってくれた事実だけでお腹はいっぱいだ。これ以上はもう入り切らない。
 すると、頃合を見た空却が、「んじゃあ、そろそろ――」そう言って立ち上がろうとした素振りを見せた。そんな空却に向かって、「あッ」とは声を上げる。優しい彼は「あ?」とその場で静止したまま振り返ってくれた。
 ……言おうか迷ってしまったが、ここまできたら、と意を決したは、「あ、あのね……」と重々しく口を開いた。







 改めて見てみると、とても大きなスイカだった。
 最初は包丁片手に悪戦苦闘していただったが、「貸せ」の一言で空却に包丁を握ってもらうことになった。真っ二つに切ってみれば赤い身はたっぷりと詰まっており、食べやすい大きさに切ってみれば、一人では三日かけて食べられるかどうかの量になった。空却くん誘ってよかったぁ、と胸を撫で下ろしたほどだ。
 大皿に盛られた三角型のスイカは、半月型に切ったものは空却の分として分けられた。曰く、ちまちま食べんのめんどくせーから一気に食いてえ、とのことだった。とても空却らしいとは思った。

「すいか、甘いねぇ」
「そーだな」

 綺麗になった食卓に色鮮やかなスイカが並ぶ。がにこにこしながら食べ進めているのは、もちろんスイカの味が甘いだけではない。
 空却もしゃぶりつくようにスイカに手をつけている。これで三切れ目だ。会話はほぼないが、今のにとってはこの沈黙すら幸福に思えた。どうしてかな。お酒飲んだからかな。空却くんとすいか食べとるからかな――様々な可能性を上げていくが、なんでもいいや、とは再びスイカに集中した。
 二人がかりで食べていけばすぐになくなるかと思っていたが、そうでもなかった。空却はゆっくり食べ進めては時折食べるのをやめて、どこかしら一点を見つめているのが横目で見て取れた。なんとなく見られている気がするのは、きっとのただの願望だろう。
 空却くん、おなかいっぱいだったかな、無理やりさそっちゃったかな――そんなことを思いながら、はスイカの白いところが見えるまで丁寧にかじっていった。

「空却くん」
「なんだ」
「わたしに、言いたいことがあったら、なんでも言ってね」

 まだ少し、頭がふわふわとしている。だからこそ口から出た本心。空却の顔を見れないのは、それでもまだ勇気が足りないからだった。
 あれは無理だ、これは駄目だ、それは嫌だ――昔はよく、そう言って空却は意思表示をしてくれた。それがだんだん少なくなっていたのはなぜだろう。空却の性格が変わったと思っていたが、十四や獄といる時はそうでもないので、原因はまだ別のところにあると思った。心当たりなど、作ろうと思えばいくらでも思いついた。

「言わないまま、体の中にずっと溜めておくと……空却くんがつらいかもしれんから」

 体がはち切れんとばかりの衝動をずっと抱えながら、去年、それが爆発した。知らないあいだに、空却に気を遣わせていた。自分が痛みを覚えるくらいなら、いい。が我慢できないのは、そのあいだに空却が重たいものを抱えたまま一人で苦しんでいることだ。

「空却くんは、わたしがうれしいなって思うこと、たくさんしてくれるし、言ってくれるのに……わたし、なにもできんから」

 すると、空却はこちらを見ながらまた眩しそうに目を細めた。あ、また、その顔……。空却がその表情の裏に隠してあるものをは懸命に探そうとするが、空却は頑なに見せようとしない。
 今も、空却がこうして自分に何かを秘めているのがあると思うと、胸が張り裂けそうになる。は知りたいのだ。自分といる時、どんな気持ちでいてくれているのかを。

 ――「ッ、お前なんかっ、――――……ッ!!」

 ああ言った彼が、なぜ今こうして自分とスイカを食べていてくれているのか。そばにいるだけでは飽き足らず、そんな烏滸がましいことを想像してしまう。思い始めたら止まらない。これから先、事あるごとにそう思わずにはいられない。そうしたら今度は、また別の欲が溢れてしまうだろう。決壊したダムのように、すべて出し尽くすまで止まらないだろう。表に出してしまえば、空却が離れていってしまうようなことばかりを、求めてしまうのだろう。

「……んじゃあ、一つ言うけどよ」

 沈黙を読んだ空却が口を開く。思いもよらぬ言葉に、はぱっと目を輝かせた。まさか、本当に空却から言ってくれるとは。
 空却ははぁ、と観念したように息をついた後、が持っているスイカをじーっと見つめた。

「お前、さっきから種飲んでねーか」
「え……?」

 今持っている分はもう半分食べ進めていた。スイカの種、黒い種、小さな種――空却の皿の上には口から吐かれた種がある一方で、の皿にはスイカの赤い汁しかない。
 ……あ。は食べ終わったスイカの皮の数を確認して、さあぁっと青ざめた。

「飲んでまった……ッ!」
「最初に気づけや」
「どっ、どうしようっ? もう四切れも食べちゃったッ」
「食っちまったもん吐くわけにもいかねーだろ」
「おっ、お腹からすいかが生えるってうわさだよねっ? ちょっと消化悪くなるだけだよねっ?」
「拙僧のじいさんは生えたらしいぞ」
「えぇっ!?」
「嘘だわばァか」

 くはっ、と弾けるように笑った空却。目尻をくしゃっとさせて、十四や獄に見せるような笑顔を浮かべた彼を見て、の顔はスイカの色を吸ったように真っ赤に熟れてしまった。