Episode.12
「おいてめえさっさと降りやがれッ!!」
その日、は人が殴られるところを生まれて初めて見た。そして、空却が人を殴るところも。
満員電車の中、空却はの背後に立っていたと思わしき男を殴った。その後すぐに彼の胸ぐらを掴み、一発、二発、三発――無言で男の顔に向かって固い拳を何度も振りかざす。そして、スピードを落としかけていた電車が駅に停まると、ドアが開くなりすでに虫の息になっていた男を半ば強引にホームへ引きずり下ろす。その後、地面に横たわった男に馬乗りになったかと思えば、彼に向かって再び拳を掲げ始めた。
子鹿のような足取りでよろよろと電車を降りたは、頭が真っ白だった。心配そうに声をかけてくれた女性の通行人の声もよく聞こえなかったほどだ。数日間恐怖を与えられていた元凶が目の前にいること、あんなにも優しかった空却が鬼の形相で力を奮っていたこと――非日常的な光景がの目の前に一気に飛び込んできて、紡ぐ言葉すら見つからなかった。
そして、思考が停止していたの中でようやく生まれた感情……それは、長きに渡る恐怖から逃れた安堵感でも、我を失っている空却に対する恐れでもなかった。
「おいなにやってんだッ!!」
その時、偶然その駅のホームにいた獄が、仲裁役として空却と男の間に割り込もうとする。しかし、獄と揉めてもなお、空却は男から降りようとしなかった。挙句、獄に腕を掴まれた空却はじたばたと暴れ、その拍子に空却の足が男の顎を蹴り飛ばしてしまう。ごりッ! と骨が抉れるような不吉な音がして、は思わず口を片手で覆った。
獄の介入を皮切りに、通行人である他の男達が空却を取り抑えようとする。「ッ、放せやァッ!!」複数人の大人達に囲まれてもなお、大声で怒鳴りながら抵抗する空却。彼の握り拳には男のものと思われる血痕が生々しく付着しており、空却によって殴られ続けた男は呻き声一つ上げずにぐったりと横たわっていた。これでは、どちらが加害者なのか分かったものではない。
どう、しよう……。とめなきゃ……。いいよって、もういいんだよって……いわなきゃ……。じゃないと、また――の中で焦燥と不安がぶくぶくと膨れ上がる。目元がじわっと熱くなり、目の前が潤んだように視界が揺れる。そして、肺がぎゅうっと握り潰されたように苦しくなり、けほっと咳き込むと、その拍子に目から一筋の涙が零れ落ちた。
――「波羅夷、くん……?」
頭の上から離れていく手のひら、一人去っていく背中――意味深に細められた金色が、今でもの目に焼き付いている。最初は何が起こっているのか分からなかったが、日を重ねていくにつれて……空却がいない教室で過ごしていくにつれて、は大切な人がいなくなった現実を徐々に理解した。
――「……修学旅行。楽しめよ」
このままだと……また、空却くんがいなくなっちゃう。手を伸ばしても届かないような、遠くに行ってしまう――もう……あんな思いは、二度と。
「空却くんッ!!」
の叫びは駅のホームに響き渡る。沸き起こった衝動が体を突き動かすまま、空却を取り囲んでいた人らを押しのけて、は空却を羽交い締めにするように背後から抱きついた。大きくてかたい、男の体だ。大人数人をもってしても完全に抑えられなかった今の彼を、一人で押さえられるとは思っていなかった。
それでも……いつだっては、誰かにしがみついて、こうして声を上げることしかできない。今までずっと自分を守ってくれていた人を守るすべが、未だに分からなかった。
「もぅ……もうぅ……ッ、いいよぉ……っ」
いつの間にか、雨のようにぼろぼろと降り出していた涙。顔をぐしゃぐしゃに濡らしながら、は空却が着ているスカジャンをぎゅうッと握りしめた。
抵抗されても、決して離さない――そう硬く決意していたをそっとあやすように、強ばっていた空却の体は、みるみるうちに力が抜けていく。そしてついに、男に向けて掲げていた拳がぶらんと垂れ下がった時、獄が男に跨っている空却を、抱きついているごとずるずると引きずり下ろした。
――複数人の警察を連れた駅員が現場に到着したのは、その数分後だった。男は顔面殴打により意識不明のまま……駅構内にいる通行人は、男が青年に殴られているという事実しか知らない。空却が加害者だと思われても仕方がない状況の中、彼の無罪を証明するべく、は駅員と警察に向かって必死に状況説明をした。こんがらがっている頭の中を整理する間もなく、私情と現実を織り交ぜにして、機械のようにただただ口を動かしていた。弁護士である獄が都度フォローをしてくれていなければ、支離滅裂なの発言が仇となり、最悪な事態になっていたかもしれない。
言いたいことを言って頭が真っ白になったを庇うように、改めて獄が事情を説明してくれた。その時、は隣に立っていた空却の腕をぎゅっと掴んで離さなかった。空却が、もう二度と警察に連れていかれないように。たとえ連れていかれることになっても、自分も同行できるように――長い間、ナゴヤではない外の世界へ行っていた空却。は、彼のいなくなったナゴヤではもう息をすることはできないと確信していた。
外から聞こえる蝉の声は留まることを知らない。エアコンが効いた涼しいスタッフルームにて昼食をとっていたは、数日間に及ぶ考えごとを悶々と繰り広げていた。
「(お酒がおいしくて、空却くんがおうちに来てくれて、うれしくて、それから……)」
何度同じ場面を想像して、同じ場所で行き止まりになったことだろう。その先にある肝心な部分を思い出そうとしても、脳内の記憶が暗がりのように真っ黒になってしまい、結局徒労に終わってしまう。そして、ろくな成果も出ないまま、重たい溜息で思考を締めるまでがテンプレートになっていた。
先月にあった誕生日の夜――なぜか、が気がついた時には朝になっていた。座布団を縦に二つ連ねた上……かつ、タオルケットにくるんと丸められた状態で目を覚ました。生まれて初めての飲酒を楽しんでいる最中、空却がの家に訪れたことだけは覚えているが、どんな用件だったかが思い出せない。空却を玄関で迎えてからの記憶が、の中で綺麗さっぱり消えている。そして、机の上には空却が持ってきたものだと思われる、小さな紙袋が置き忘れられていた。
これ、空却くんのだよね……。忘れものだよね……。起き抜けのは、紙袋をまじまじと観察した。なぜかその紙袋は開けられた形跡があり、それを見つけた時ははて、と首を捻ったものだ。まさか自分が開けたとは思いたくないが、なにぶん昨夜の記憶がないので真実が何なのかは分からない。
ど、どうしよう……。これ、空却くんに返さんとかん。その前にわたしが開けちゃった……かもしれないこと、謝らんと――様々な心配事とともにタスクが山積みになって、は非常に焦った。それらを解消するためにあの夜の訪問はなんだったのか……事の顛末を本人に聞くのが一番早い。……のだが、なにせ今はお盆真っ最中。寺の繁忙期とも言える今の時期、空却に連絡することも躊躇してしまった。もちろん、家までの迎えもここ暫くないので、最近は空却の顔すら見ていない。
「ちゃーん。午後からデリ頼めるー?」
そんな中でも、仕事はきっちりこなさなければいけない。スタッフルームを覗きに来たオーナーの声に「はあいっ」と返事をした。もやもやとした胸を抱きながら、たまごサンドの最後の一口をぱくんっと食べた。
お得意様を三件回った後、は最後の一件である獄の事務所に向かう。ビルの中に入ると、洗練されたオフィスの匂いとひんやりとした空気がの体を優しく包みこんだ。すずしーい……。は額についた汗をハンカチでぽんぽんと拭いながら、いつ来ても緊張するオフィスビルの雰囲気にふう、と心を落ち着かせる。
そして、自動ドア付近に立っている警備員に会釈をしながら、は獄の事務所がある階までエレベーターで向かった。
「(あれ? 受付のお姉さんがいない……)」
エレベーターの扉が開いて少し廊下を歩けば、事務所のドアの付近に受付係の女性がいるはずなのだが、本日のカウンターはなぜか無人だった。
もしかして、お昼休みかなぁ? 何時に終わるんだろう。ここで待ってたら変な人みたいになるかなぁ……。いったんビルの下に降りようかと視線をうろうろとさ迷わせていると、「あれっ?」と背後から声がした。
「ちゃんじゃないっすかあ!」
「え?」
聞き覚えのあるソプラノに、は振り返る。そこには十四が立っていた。彼は被っていた黒のキャップを脱ぐと、こちらに向かってにっこり笑いかけてきた。
無人のフロアで心細かったの心に、大きな安心感が生まれる。知り合いがいて一気にほっとしたは、十四の前まで下駄をカラコロと歩いていった。
「十四くんっ。久しぶりだねえ」
「お久しぶりっす! というか、その浴衣可愛いっすねっ。今からお祭りに行くんすか?」
「ううん。これは夏のお仕事着で――」
二人でわいわいと話していると、閉ざされていた事務所のドアがゆっくりと開いた。その僅かな隙間から覗いたのは涼し気なクールビスにおしゃれなリーゼント――の中で今二番目に会いたい人である人物を視界に捉えたは、「あっ」と声を漏らした。
「ひとやさ――」
「我がゴッドヒトヤよ! 火の海にて生まれた不死鳥が猛威を振るうこの炎暑の中、癒えぬ傷に苦しむ人々の声に耳を傾けるとは……さすがの我も感涙に咽ぶ他ないぞ!!」
の真横できんっ、と耳が鳴る。そして目の前では、「うっるせ……っ」と言いながら、片耳を手のひらで抑える獄の姿があった。そんな十四と獄を交互に見つめながら、はほ、と息をつく。
「ひとやさん、いてくれてよかったです。事務所にいなかったらどうしようって思って……」
「あー悪ぃな。今日は事務所自体休みだから、俺以外誰もいねえんだ」
「ヒトヤよ……。我の言の葉もなしに固く閉ざされし正門が開いたということは、長きに渡る我との旅路を経て、絆の書に記された奥義テレパスィーを会得――」
「テレパシーでもなんでもねーよ。お前らの話し声が部屋まで届いてたんだっつーの」
「うるさくしてまってすみません……」
「あぁいや、には言ってねえ――」
「此度、我は主に伝えたいことがあり、闇の深淵よりこうして馳せ参じた。……が、先客は我の隣に佇むこのドワーフの少女である。幸い、我は急ぎの要件ではない故に、寛容な我は彼女の用件から聞き入れることを許可しよう……。そしてその間、この猛暑の中、主の聖域まで足を運んだ我には、生贄として柑橘の果実を絞った清水を――」
「煩えのはこいつだけだッ!」
「ぁいっ、たあッ!?」獄に頭を強く叩かれ、叩かれた場所を両手で抑える十四。目が点になったままのは、深々と溜息をついている獄を見上げた。ひとやさん、なんだかおつかれだなぁ。暑いからかなぁ……?
「……とりあえず、二人とも中入れ。話はそれから聞いてやる」
「はいっす!」
疲れたように目頭を抑えながら背を向けた獄に続き、十四は事務所の中に入っていく。そんな十四に習ったも、彼の背中に隠れるようにしてこそこそと入室したのだった。
通されたソファーに座るよう獄に促され、すでに腰を下ろしていた十四の隣に座る。高さはさほどないソファーだが、座った直後はバランスを崩して、両足が軽く浮いてしまうくらい腰がずぶずぶと沈んでいく。いつ座ってもふかふかのソファーだ。革の触り心地も良く、いつまでも触っていたくなる。……だめだめ、今はお仕事中だからちゃんとしんとっ。
「十四はさておき、はどうし――あぁ、そういやデリ頼んでたな」
「はいっ。オリジナルブレンド三百グラムです」
は持っていた紙袋を獄に手渡す。「毎度ありがとうな」と笑いながら、彼はヴィンテージカウンターへ向かった。
「外暑かっただろ。コーヒーかジュース、どっちがいい」
「いえっ。今お仕事中なので……っ」
「少しくらい休んでいっても労働基準法には触れねえよ。で、十四は」
「オレンジジュースでお願いするっす!」
それ以上の言葉も見つけられないまま二人の会話の流れに乗っかってしまったは、「こ、コーヒーでお願いします……」と遠慮がちに頼んだ。喉が乾いていたのは事実だったので、断る意思が元々弱かったのもある。
「ちゃんはコーヒー豆届けに来たんすか?」「うん。お店のサービスでね――」十四と他愛のない話をしていると、香ばしいカフェインの匂いが事務所中に広がり始める。いいにおーい……。くんくん、と密かに空間を嗅いでしまう。一方、カウンターでコーヒーメーカーを弄っている獄は、手元から目を離さずに淡々と話を始めた。
「で? 十四は何の用だ」
「空却さんのお誕生日会のことっす!」
えっ。
は驚いて十四の方を見る。言われた獄はさして驚いた様子はなく、「あぁ、このあいだ言ってたやつか」と静かに応じていた。
お誕生日……。空却くんの……お誕生日……。未だ十四の声が木霊しているは、脳内にあるカレンダーを高速でぺらぺらと捲る。するとなんと、十四の言う来たるその日は来週まで迫っていた。
「(そ、そっか……っ! 空却くんのお誕生日、もうすぐだっ!)」
去年までは意識していただけで何をする勇気もなく素通りしていた日だったが、今回はすっかり忘れていた。言い訳をするならば、先月の空却の来訪と忘れ物の件で頭がいっぱいだったのだ。
それでも……それでも、空却くんのお誕生日、忘れとったなんて……。うう……。自分が自分で許せなくなって、が自己嫌悪に浸っている中、十四と獄との会話は順調に進んでいく。
「んで、本人の予定は聞いたのか」
「まだお寺はバタバタしてるみたいっすけど、その日だけは夕方から空けとくって言ってくれたっす!」
「へえ。さすがにあの我儘坊主もこの時期は寺のことやってるみてえだな」
獄は感心しながらそう言った。すると、未だに悶々としているの隣で、「あっ!」と十四が唐突に声を上げる。
「よかったらちゃんも一緒にしないっすかっ?」
「す、するって……もしかして、空却くんのお誕生日会……?」
「はいっす!」にこにこしながら言う十四に、行きたいっ、と即答した自分を抑えた。うろうろと目を泳がせた後、その視線はそのまま下を向いてしまった。
「ど、どうしようかなぁ……」
「もしかして、お仕事があるっすか……?」
「ううんっ。その日はお休みなんだけど……」
は俯きながら、事務所の床に落ちているわけでもない言葉を懸命に探す。気持ちとしては行きたいものの、体は気まずさを孕んでおり、どう言えば差し障りがないのか分からなかった。
「ほ……ほらっ。男の子の中に一人だけ女の子が入ったら、空気が盛り下がらんかなぁってっ」
「ちゃんも空却さんみたいなこと言うんすね……。お誕生日会するのに男の子とか女の子とか関係ないっすよっ。それに、ちゃんも来てくれたら空却さんも喜ぶと思うっす!」
「えっ……。そ、そうかなぁ……?」
十四の言葉を聞いたは、最初に抱いた欲望の方に天秤が傾いてしまう。人の言葉でいとも容易く揺らいでしまうこの心をそろそろ何とかしなければとは思っている。
自分が行くことによって空却が喜ぶ……かどうかは別として、不機嫌になることはないかもしれない。最近の空却を見ているとさらにそれが顕著に思えてきて、の意思は行きたい方向へとじわじわと向かっていく。
「が行きたくねえって言ってんだから、無理に誘う必要ねえだろ」
ぱちんっ、と弾けるようには我に返る。顔を上げると、コーヒーメーカーからティーカップにコーヒーを注いでいる獄が鋭い眼光でこちらを見つめていた。
「獄さんっ。ちゃんは行きたくないんじゃなくて遠慮してるだけなんすよっ」
「どっちにしろ止めとけ。めんどくせーことになる」
「えぇ? 面倒ってなにがっすか?」
ぽかんとしている十四はを見る。が、いたたまれなくなったは彼の視線から逃げるようにして目を逸らしてしまった。
獄が、空却と自分が会うことを快く思っていないことは知っている。その理由も最もなので、は何も言えない。言う資格がない。その代わり、横髪に隠れている右耳を守るように、髪の上からそっと撫でた。
「(空却くんに会いたいなぁ……。お祝いもしたいし、お話もしたいなぁ……)」
一度心に抱いてしまった願望は留まることを知らない。の胸の中からどろどろと溢れてしまい、我慢をするという選択ができなくなっている。いっそ、“来るな”と本人に言われた方が楽かもしれないと思ったが、それはそれで数ヶ月先まで萎んでしまう自分の姿が想像できてしまった。
「――あっ、すみません。自分のスマホっす」
突如、十四のスマホがポロンポロンと鳴り出したのを聞いて、は顔を上げる。十四がスマホに出て会話を始めてすぐ、の目の前に縦長のグラスが置かれた。
「ミルクと砂糖だ。好きに使ってくれ」
「ありがとうございますっ」
「おう」優しい口調で応じた獄は、グラスの傍らに小さなミルクポットとシュガーポットを置いた。そして、芳醇な香りがするブラックコーヒーの中に、ミルクポットをゆっくり傾ける。電話をしている十四の前にもオレンジジュースが置かれた。彼は会話の途中でも「ありがとうっす!」と律儀にお礼を言いながら、再び通話を再開する。
コーヒーの黒とミルクの白がマーブルに溶け合う様は、いつ見ても好きだ。用意されたマドラーでゆっくりかき混ぜると、中に入っている氷がからんからんと涼やかな音を立てた。
そして、グラスを両手で持ち上げて、こくんと一口。舌の上を滑ったコーヒーはとてもコクがあり、それでいてフルーティーな味わいだ。最新式のコーヒーメーカーと高級なコーヒー豆で作られたと思われるコーヒーは、自分が淹れるものよりもとても美味だった。獄の腕が良いというのもきっとあるだろう。
「すごくおいしいです~っ」
「そりゃあなによりだ」
ほう、とひと息ついたはまた一口グラスに口付ける。喉かわいとったからほんとうにおいしい~。あんまりごくごく飲んだらお行儀悪いかなぁ。そう思いながらも、がグラスをテーブルに置いた頃には、中にあったコーヒーは半分以下になっていた。
ふと獄を見ると、彼は向かいのソファーに腰をかけていた。コーヒーかそれ以外か……片手で持っているグラスを凛々しく仰いでいる。相変わらず十四は通話に夢中で、はなんとなくの気まずさにもじもじと指先で遊び始めた。
「……空却のやつはまだ迎えに行ってんのか」
「い、いえ……。空却くん、お寺のことで忙しいので、今は一人で帰ってます」
「で、盆が終わったらまた会うわけか」
獄の言葉に頭がフリーズしてしまった。すると、いつかの日のようにバツ悪そうな顔をした獄が「……まぁ」と小さな声で呟いた。
「九月になりゃあ、日が暮れるのも早くなるしな。柄の悪ぃ空却がいれば、厄避けくらいにはなんだろ」
「そ、そうですねっ。暗い道を一人で帰るのはちょっと不安で……っ」
焦るあまり、は普段言わないようなことをぽろぽろと言ってしまう。一人で帰りたくない理由は他にあって、獄も獄で思うところがあるからそう言っているということは理解できているのに……本当に自分はずるい女だと思う。
そんなの心情を察してか、獄は「の気持ち自体にどうこう言う気はねえよ」と溜息を混じりに言った。
「俺はただ、あの馬鹿坊主をあんま図に乗らせたくねえだけだからよ」
「図に、乗る……?」
「犬を躾ける時、褒美ばっか与えてたら芸が身につかねえだろ。それにあいつは、芸どころか人間様の歯向かい方まで身につけてるときた」
「く、空却くんはわんちゃんなんですか……?」
「ただの比喩だ。気にすんな。とにかく、二度と人間様に牙向かねえように上下関係ははっきりさせる必要がある。だから、もあんまあいつのこと甘やかすなよ。迎えの時以外で会うのも程々にな」
獄の話を聞きながら、犬耳がついた空却がぐるるッ、と牙を向いている姿を想像する。ちょっとかわいいかもしれない……と一瞬思ってしまったが、獄が言っているのはおそらくそういうことではないのだろう。
話の内容がいまいち理解できなかったので、どういうことか獄に再度聞こうとすると、隣にいる十四の声が一段と大きくなった。
「あっ! そうだ空却さん! 空却さんのお誕生日会、ちゃんも参加していいっすよね?」
突如十四の口から飛び出した名前に、の体からさあっ、と血の気が引いていった。
は目を張って十四の方を見る。獄もまた十四に注目しており、「電話の相手、空却だったのかよ……」と片手で頭を抑えていた。
「えぇっ? なんで、って……色々あってちゃんも参加――色々ってなんだって言われても……」
十四の声色が雲行き怪しくなり、言葉もどこかたどたどしくなる。どうやら電話の向こうにいる空却と揉めているようだ。話の内容もおおよそ理解できる。元々三人で開催する予定だった誕生日会に、なぜが参加するのかということだろう。
空却くん、やっぱり三人でお誕生日会したいんだ……。そうだよね……。十四の声を聞きながら、がしおしおと肩を丸くさせていると、空却としばらく攻防戦を続けていた十四がむっと眉を顰めた。
「もうなんなんすかあ空却さんっ。ちゃんが行ったらだめなんすかっ?」
「ったく……十四代われ。俺が説明――」
十四の様子を見兼ねた獄が彼のスマホを奪い取ろうとした時のことだ。「あっ」と声を上げた十四が、耳に当てていたスマホを離した。
「電話、切れちゃったっす……」
「だから面倒なことになるっつったろ……。で、あいつの用件はなんだったんだ」
「夕ご飯は焼肉がいいみたいっす!」
「そんだけかよ……」
はあ、と溜息をつく獄だったが、「いつものところでいいな」と言いながら、すぐにスマホを弄り始める。店の予約だろうか。いつものところ、ということは、この三人で食事をすることも少なくはないのだろう。
やっぱり、仲が良いんだなぁ。そんなところに全然関係ないわたしが入ったら邪魔しちゃうよね……。そんなことを思っていると、帯の間に入っているのスマホがヴーッ、と震えた。着信用のバイブレーションだ。
「すみませんひとやさん。ちょっとだけ出てきます」
「ここでいいぞ」
獄がスマホから目を離さず言う。一瞬だけおろっとしただが、「自分も気にしないっすよ!」と十四も笑顔で言ってくれたので、二人の言葉に甘えてこの場で出ることにした。
だれだろう? スマホの画面を確認した時、は思わず声を上げそうになった。「獄さん。人数は四人っすよ」「お前な……」そんな会話を交わしている十四と獄をこそっと盗み見ながら、はおそるおそる画面をスワイプした。
「もっ、もしもしっ」
《拙僧だが》
ひゃああぁぁ……っ!!
嬉しさが表情に出てしまわないように、はきゅっと唇を結ぶ。久しぶりに聞いた空却の声がすぐ耳元で聞こえて、全身がぞわぞわとしてしまった。
だめだめ、落ちつかんと……。ふう、と小さく息をついたは、空却の続きの言葉を待った。
《その……なんだ。聞きてえことがあんだがよ》
「うんっ。なあに?」
声を弾ませないように意識したら声が裏返ってしまった。は、はずかしい……。隣にいる十四の視線を感じながらも、は空却の声にじっと集中した。
《さっき十四から聞いたんだが》
「うんっ」
《来週末に――っ、あ゙ー……》
唸り声に似た声を出して、中々本題に移らない空却。もしかして、お誕生日会のことかなぁ? も、もしかして、邪魔だから来んなって言われちゃうかなぁ……っ? だんだんと空却の言葉を待つのが怖くなってきたは、彼に何か言われる前に自ら口を開いた。
「空却くん大丈夫だよっ。お誕生日会、三人の方が楽しめるだろうし、わたしは行かな――」
「えっ? 空却さん?」
目を丸くした十四がこちらを見て首を傾げた。「電話の相手、空却さんなんすかっ?」その声に釣られた獄もまた、スマホを弄っている手を止めてを凝視し始める。あ……どうしよう……。空却くんの名前、言っちゃかんかったかな……。
《……おい。今十四の声がしたんだが》
「う、うん。十四くん、今喋ったから――」
《喋ったのは分かんだよッ! なんで十四と一緒にいんのかって聞いとんだッ》
「あっ……ぇと、そのっ。い、今ね、ひとやさんの事務所にいてね、十四くんが空却くんのお誕生日会一緒にどうかなって誘ってくれて――」
《獄の事務所だあぁッ!?》
びりびりッ、と音割れがするほど大声で怒鳴られる。ど、どうしようっ、わたしまた変なこと言っちゃった……っ? ひとやさんの事務所来ちゃだめだったんかな……っ。どうしよう、どうしよう――突然怒り出した空却に言う言葉もなく、はスマホを耳に当てたまま黙りこんでしまった。
すると、空却が《場所移せ》と低い声で言った。混乱しているの中で、“はい”以外の選択肢はなかった。すぐさまがスマホを持ってソファーから立ち上がろうとした時、「そのままでいい」と背後から声がかかった。
「。ハンズフリーにしろ」
「は、ハンズフリー……っ?」
《ぁあ゙!? お前何言ってんだ早く場所――ッ》
耳からスマホを離したは首を斜め後ろに回す。すると、いつの間にかソファーの後ろに回っていた獄を視界に捉え、あわあわと戸惑っているうちに、彼の指がのスマホの画面にとん、と触れた。
《――って言っとんだ馬鹿ッ!》スマホの内蔵スピーカーから聞こえてくる空却の声が、事務所中に盛大に響く。ソファーの背もたれに両腕を組むように置いた獄が、のスマホに向かって声を投げた。
「残念だったな空却」
《ぁあ゙!? てんめえ獄ァッ! こいつに変なこと吹き込んでんじゃねえぞッ!》
「空却さん、ちゃんに何の用事だったんすか? お誕生日会のことっすか?」
《だからなんで十四も……ッ、くッそがッ!!》
怒っとる……っ! 空却くん怒っとるっ……! が声を出そうか出さまいか迷っているうちに、三人の間で決して穏やかではない会話がとんとんと進んでいく。
「来週のことだが、は行かせねえから。十四の言ったことは気にすんなよ」
《なッ……》
「えぇっ! 獄さん、ちゃんの意見は無視なんすかっ」
「意見っつっても行かない寄りだろ。そもそも、こんだけキレてる相手の誕生日なんて祝うことねえよ」
「何にキレてんのか知らねえがな」《ッ、こんッのクソ……ッ!》何かに耐えるような空却の声。獄の言葉に物言いたい気持ちでいっぱいだっただが、口を開く前に十四がスマホに顔を近づけた。
「空却さんっ。もしもお邪魔だったら、自分たちはまた今度でもいいっすよっ」
《てッめえはなんの話してんだ十四ッ!》
「えぇっ? だって空却さん、ちゃんと二人で誕生日過ご――」
《それ以上変なことほざいたら次会った時ぶん殴る》
「ひいぃっ!?」
「俺の前で傷害宣告とはいい度胸だな」
そうこうしているうちに話が脱線しそうに――否、もう脱線している。ぶるぶると体を震えさせたは我慢ならなくなって、ソファーからばっと立ち上がる。二人の視線を一心に集めたは、「すみませんッ」と勢いだけで謝り、スマホを大事に胸の前で抱えた。
「あッ……おいッ」「ほらあっ。獄さんがいじわる言うからっすよおっ」「いじわるじゃねえッ。お前はなんも知らねえから――ッ」そんな会話をしている十四と獄の方を振り返ることもなく、は一目散に事務所の外に出る。そして、同じフロアの廊下を颯爽と歩き、人が近寄らなさそうな非常ドアの裏を見つけ、その場にしゃがみこんだ。未だにスマホから聞こえてくる空却の怒声に身じろぎつつも、はこわごわと口を開いた。
「空却くんっ?」
《――ッ、ぁ゙あ!?》
「場所移したよっ。あとスピーカーも切ったよっ」
……しん、と静まる電話口。その奥から伝わる怒気がみるみるうちに小さくなっていく気配がして、ひとまずはほっと息をついた。
《……近くに誰もいねえな》
「う、うん。いないよ」
《ならいい》
そんな会話をした後、空却もまた息をついた。きっと人払いをしなければ話せない内容だったのだろう。二人には悪いことをしてしまったが、こればかりは仕方がない。
「それでね、さっきの続き……聞こうと思って……」
《あ? あー……》
が仕切り直すが、先ほど同様、空却はなぜか言いどもっている。そしてようやく、《……さっき、十四が言っとったことだが》とだけ言った。
「空却くんのお誕生日会のこと……?」
《おー》
こそこそと話すことでもないのだが、空却の声が先ほどのものと打って変わって穏やかだったので、の声も自然と小さくなっていった。なんだか、内緒話しとるみたいでどきどきする……。そんなことを思いながら、無意識にの話す声も徐々にまろくなっていく。
そうして空却と話しているうちに、お前も来んのか、という話になって、今度はが言いどもる番だった。建前は先ほど言ってしまったのだが、この場に誰もいないことによって、の中の枷が一つ消えた。
「わ、わたしは、お祝いしたいなぁ、って……思っとったんだけど……。空却くんは、三人だけの方が楽しいかなぁ、って……」
後から傷ついてもいいように、逃げ道をいくつも作る。語尾が近くなるにつれて声が小さくなってしまったが、聞こえていただろうか。どうだろうか。
もしも聞き返されたら、なんでもないよって言おう……。は固唾を呑みながらそんなことを思っていると、電話口から微かに声が漏れた。
《……しろ》
「え?」
《お前の好きにしろっつってんだ》
小さな声……それでいて、が一番欲しかった言葉。目の前が一気にぱっと明るくなった気がして、は前のめりになりながら声を発した。
「ほっ、ほんとっ? ほんとうにいいのっ?」
《何度も言わすんじゃねーよ。つか、当日も大したことやんねえぞ。肉食うだけだ》
なにをするかは、の中でさほど重要なことではない。空却と会えるということが、最も外せないことなのだ。それが、彼の特別の日というのならなおさらだった。「うんっ。お肉食べるっ」とすぐに肯定すると、《……腹空かせて来いよ》と空却は言った。
それから、お互いに大した言葉を交わすことなく、通話はぷつりと切れる。空却との会話の余韻にしっとり浸りながらぽーっとしていると、「あっ」とは声を上げた。
「(忘れもののこと、聞くの忘れとった……)」
真っ黒になった画面に映るのは、浮かれた顔をしている自分。当日はこんな顔しないようにしんと……。決意を新たにするように、はスマホを両手でぎゅっと握りしめるが、空却の穏やかな声を思い出すたびに口角がへにゃあ、と蕩けてしまった。
思えば、空却以外の男性と食事をするのは初めてかもしれない。緊張しないといえば嘘になるが、それでも似た空気感を持つ人間が一人でもいると、とても心強いものだ。
「青紫の炎に包まれし地から遥々参ったドワーフよ! 本日は我がマスターの生誕祭に足を運んでくれたこと、マスターに代わって御礼申し上げる……。さて、此度はそなたがマスターに捧げる供物を選別すべく――」
「十四くん、こんにちは~」
「はい! こんにちはっす!」
ロゴ入りTシャツを着た十四を見上げる。十四が自分の身長に合わせて少しだけ屈んでくれているのが分かり、彼の優しさにさらに笑みを濃くした。
十四はV系バンドに属しており、その業界独特の言葉遣いがあるらしい。出会った当初も、開口一番に異国語のような言葉を並べられてぽかんとしてしまっただったが、「十四が妙なこと言い出したら、挨拶するか適当に頷いときゃあいい」という助言を空却からもらった。その通りにしたら十四と滞りなくコミュニケーションが取ることができたので、はわあ~っと感動したものだった。
十四くん、難しい言葉たくさん使えてすごいなあ。そんなことを思いながら、「ごはんの前に付き合ってくれてありがとう」と言うと、「全然大丈夫っすよ!」と十四は笑顔で答えた。
「とりあえず、適当にお店くるくる回ってく感じでいいっすかね?」
「うんっ」
八月二十一日――本日は待ちに待った空却の誕生日なのだが、獄の事務所に来訪してからというものの、は空却に贈るプレゼントをずっと考えていた。
あれ? 昔のわたし、空却くんになにあげとったっけ……? という疑問から始まり、うんうんと頭を捻りながら思い出したものといえば、小学生の頃にあげた駄菓子三百円分だとか、プラスチックビーズで作ったネックレスだとかの記憶しかない。そんなものでも、「おー! さんきゅーな!」と言いながら笑顔でもらってくれた空却を思い出して照れてしまった今のだが、それはそれとして……。今年でお互いに二十歳になるのだから、もう少し値の張ったものが欲しいところだった。
前日になってもプレゼントはいっこうに決まらず、焦燥に駆られたは急遽十四に助けを求めた。すると、優しい彼は「いいっすよ!」と快い返事をしてくれたのだった。
さて、焼肉屋へ向かう前にその付近のショップを見て回ることにした二人。ゲートタワー、高島屋、百貨店――メイエキ付近なので、プレゼントを選ぶ店は溢れているのに、メンズものとなると、実際に見て入る店はかなり限られてしまった。
「空却さん、ちゃんからならなんでも喜ぶと思うっすけど……」
「そ、そんなことないと思うよ……。あっ、十四くんのプレゼントはなににしたの?」
「ネイルポリッシュっす!」
さすがである。は零しそうになった溜息を飲み込んで、十四の隣を歩きながら、次々と通り過ぎる店を横目で捉えた。
「(十四くん、空却くんと会ったの最近だって言ってたのに、空却くんが喜びそうなもの分かっててすごいなぁ……)」
それに比べて――これ以上は悲しい思考に陥ってしまう気がして、はぶんぶんと首を振る。しっかりしんとっ。昔見た空却の笑顔を思い浮かべながら、は自身をよしっ、と鼓舞した。
十四と世間話をしながら、数あるショップを見て回る。服、雑貨、アクセサリー――予算のことを考えると余計に数が絞られてしまい、空振りは続いていった。
「ちゃん、疲れてないっすか? 歩くの早かったら言ってくださいっす!」と気を遣ってくれる十四にだんだん申し訳なさすら覚え始める。大丈夫だよ、と言いたかったが、時間だけが経過していく現状に焦りを感じてしまい、は十四の言葉に甘えてフロア内にあるベンチに腰をかけることにした。
現在時刻は十七時半。店の予約時間は十八時。移動時間のことを考えると、そろそろタイムリミットだ。
「十四くん、空却くんの好きなものってなんだと思う?」
「えっ?」
ぽろっと口から出た言葉は、十四に素っ頓狂な声を上げさせた。そしてその後、顔に穴が開きそうなくらいじぃーっとこちらを見つめられ、「十四くん……?」とは心配そうに首を傾げる。
すると、十四ははっと我に返ったように首を横にぶんぶんと振った。「なっ、なんでもないっすよっ」
「自分もあんまり分からないっすけど、空却さんと一緒に買い物する時は、直感で気に入ったものを買ってるっぽいっす」
「そっかぁ……」
十四の言葉をしみじみと飲み込む。となると、良かれと思って買ったものが、空却の気に入らないものという可能性もある。使わないものとして、彼の自室に物を増やしてしまうだけになるのは嫌だ。と言っても、これといった贈り物も今のところないのだが。
うぅ……。なんだか自信なくなってきちゃったなぁ……。は今まで我慢していた溜息をはぁ……と小さく零してしまった。
「……今思ったんすけど、ものじゃなくてもいい気がしてきたっす」
「え……?」
十四の神妙な声が聞こえて、は顔を上げる。すると、何か思案をしていた彼は、勢いよくこちらを向いた。
「ちゃん、今年のバレンタインに鬼まんじゅう作って空却さんにあげてたじゃないっすか」
「う、うん……。空却くんは食べとらんかもしれんけど……」
「そんなことないっすよっ!」
わっと言った十四にたじろぐ。び、びっくりしたぁ……。驚いたの表情を見てか、「あっ……。急に大きな声出してごめんなさいっす……」とすぐさま謝った十四。今度はひそひそ話をするように、彼は縦にした片手を口元にそっと当てた。
「これ、空却さんには内緒にしてほしいんすけど……」
「う、うん」
「空却さん、ちゃんが帰っていった後に、ものすごい勢いで鬼まんじゅう食べてたんすよ」
「えっ? ほ、ほんとっ?」
「ほんとっす!」
「なのでっ」目をきらきらとさせた十四は、に向かってずいっと体を前のめりにさせながらこう言った。
「また別の日に、空却さんに手作りご飯を作るっていうのはどうっすかっ?」
――ごはん。手作りの、ごはん。
迷路のゴールが見えたように、はぱあっと顔を輝かせる。盲点だった。雑貨類より食品系の方が形に残らないので、相手も気兼ねなく受け取れる。なんといっても、空却の好きなものを作れば、気に入る気に入らないに関わらず喜んでもらえるかもしれない。それに、の中にも、昔のように自分が作ったご飯を空却に食べてもらいたいという私欲がうっすらとあった。
すごい十四くんっ! そう思って、十四のアイデアに乗ろうとしただったが、すぐにその顔は曇ってしまった。
「や、やっぱりだめかも……」
「ええっ!? なんでですかっ?」
「昔ね、空却くんにごはん作った時に、一回もおいしいって言ってもらったことないの……」
「空却さんちゃんの手作りご飯食べたことあるんすかっ!?」
十四の勢いに圧倒されながら、はおそるおそる頷いた。
「う、うん。小さい頃、ごはん作る練習しとる時にね、空却くんによく味見してもらっとったんだけど、どうかなぁって聞いても、まぁまぁとかしか言ってもらったことなくて……」
プロ並みの料理の腕があるのならも自信を持って作っただろう。しかし、当の本人から可もなく不可もなく、という感想を常に貰っていた身としては、作らない方が吉、とも思ってしまう。
どうしよう……。空却くんの好きなものが買えるようにギフト券とかにしようかなぁ……。あまり考えたくなかった最終手段のプレゼントが頭を過ぎると、隣でなぜかぷうっと頬を膨らませた十四がいた。
「そんな心配することないっすっ!」
「ええっ?」
「空却さんのことだから、ちゃんにかっこつけたくて変な意地張ってるだけだと思うっす! というかぜえ~ったいそうに決まってるっすッ!」
「い、いじ……?」
「とにかくっ」
なぜか蒸気を上げるようにぷんぷんと憤っている十四は、勢いのままわっと言った。
「焼肉屋さんの帰り、多分……というか絶対に空却さん、ちゃんのこと家まで送ってくれるはずなんで、その時にご飯の話をすればいいっす!」
「え……っ? ええっ……!?」
「LINEとかじゃだめっすよっ。こういうのは面と向かって言った方が空却さんも喜ぶっす!」
「こっ、断られたときはどうしたら……っ?」
「そしたら、『じゃあ、十四くんとひとやさんに食べてもらお~っ』って言ったら秒で食いつくと思うんで大丈夫っすよ」
「空却さんからの飛び火がちょっと怖いっすけど……」十四がぼそっと小声で言った言葉の意味は分からなかったが、は唖然としてしまう。十四くん、わたしの声真似上手だねえ……。本題ではないところには感心しながらも、「う、うん……。わかった……」と、場の空気に呑まれてしまい返事をしてしまった。……何の決心もついていないままに。
――さて、時間も頃合いになったので、そろそろ目的地である焼肉屋に向かおうとする。その通りすがりにあったファンシーショップのディスプレイに飾られていたものたちに、の視線は瞬時に釘付けになった。
「かわいい~っ」
「自分も思ったっす~っ!」
同じく十四も同じ方向を見つめており、二人の足は誘われるようにぱたぱたと店頭に向かっていった。
そこに並んでいたのは動物のぬいぐるみだった。ちょうどアマンダくらいの大きさのものばかりで、触感もとても柔らかくふわふわだ。すっかりぬいぐるみの可愛さに取り憑かれてしまったは、十四と一緒に各々好きなぬいぐるみを抱き上げた。
はサルのぬいぐるみを胸の前で抱きながら、「かわいいねえ。ほわほわだねえ」と口元を緩ませる。十四も別のぬいぐるみを両手で持ちながら、「ほわほわっす~っ」と笑顔満面だ。
「空却くんはぬいぐるみとかあんまり持たんかなあ?」
「あんまりイメージないっすけど……ちゃんからもらった子なら大事にしてくれそうっす」
十四くんはやさしいねぇ。十四の言葉がお世辞だと思っていても、一か八かいけるのでは……? という考えが頭を過る。このサルのぬいぐるみもどちらかといえば赤毛に近い色をしていて、見れば見るほど心なしか空却に似ている気も――
……はたと我に返った。抱き上げていたサルのぬいぐるみを元の位置に戻し、隣にいる十四に早口でこう言った。
「これはわたしたちが気に入ったものだからっ。どうせなら空却くんが気に入るものの方がいいよねっ」
「あッ……。そ、そうっすよねっ。自分たちの趣味に走らない方がいいっすっ。やっぱりさっき話してた手作りご飯に――」
「おい」
背後から聞こえてきた、地を撫でるような低い声。は体を強ばらせながら後ろを振り返ると、くッちゃくッちゃとガムを噛んでいる空却が立っていた。
「くっ、くうこう、さん……ッ?」
「随分と楽しそうだな」
ノースリーブパーカーのポケットに手を突っ込んで、刺すような眼差しでこちらを睨んでいる空却。不機嫌だ。とても不機嫌だ。こんなにも機嫌の悪い空却を見るのは古着屋の時以来かもしれない。
そんな空却を見たが声を出せずにいると、「き、奇遇っすねえっ!」と隣の十四が震えた声を出した。
「く、空却さん、こんなところでどうしたんすかっ?」
「早く着いたから暇つぶしとったんだわ。てめえらこそ何しとんだ」
「自分たちももちろん焼肉屋さんに行こうとしてたところっすよっ!」
「ここ、焼肉屋と真反対だろうが」
十四の言葉も無慈悲にばっさり切り捨てられる。あたふたとしたが二人を交互に見つめていると、今まで空却と対峙していた十四とぱちんっと目が合った。
「みっ……道に迷っちゃったんすよ! ねっ! ちゃんっ」
「えっ? ぁ……そ、そうっ。道に迷っちゃったのっ」
「すごく迷っちゃったっすよねっ」「うんっ。すごく迷ってまったっ」話を合わせてくださいっす、と十四の顔に書いてあるがまま、は必死に首を縦に振る。見れば分かる嘘でも、二人で言えば怖くない……と思いたい。その相手がたとえ空却でも、そう思いたかった。
……しかし、しばらく経っても返答がないので、はちら、と空却の方に視線をやる。すると、相変わらず眉を顰めている空却だったが、ある時、不愉快極まりないと言わんばかりに顔をそっと伏せた。
「……あっそ」
空却は半ば投げやりにそう言った後、踵を返してすたすたと出口に向かって歩いていく。「あっ……」とが口を開くと同時に、「空却さん違うんすよおッ!」と十四が空却の背中に向かって声を張った。
そのまま空却の後を追った十四を見つめながら、は一気に重たくなってしまった胸を服の上からさする。焼肉を食べる前にお腹がいっぱいになってしまった気分だ。
「(空却くん、せっかくのお誕生日なのに、あんまり機嫌よくないや……)」
小さくなっていく二人の背中を拙い足取りで追いかける。空却へのプレゼントを選んでいたテンションがぐぐっと下がってしまい、あまり力が出ない。このままでは、ご飯の話を切り出すどころか、先月の件を話すことすらもできそうになかった。
壁から屋根まで真っ黒な外装。出入口も建物の裏にあり分かりづらかったが、知る人と知る隠れ家的焼肉店のような印象を受けた。の知る焼肉店とは違い、外にいても肉を焼く香りや換気扇の煙が全く出ていないことがとても不思議だった。
「空却さん! 今日はたくさんお肉食べられるっすね!」
「……ふん」
「くうこうさぁん……。いい加減機嫌直してほしいっす~……」あれから十四が頑張って話しかけているが、店に着いてもなお、空却はずっと機嫌が悪いままだった。
わたしも、なにか言った方がいいんかな……。変なこと言って、もっと機嫌悪くさせちゃったらどうしよう……。今までの経験から、空却を逆上させてしまう光景の方が先に目に浮かんでしまった。言わぬが仏――は引き続き口にチャックをしたまま、店の中に入っていく二人の後についていった。
獄は仕事の都合で少し遅れて来るそうで、とりあえず三人で始めていてもいいそうだ。加えて、「俺の名前で予約してっからが言ってやってくれ。十四だと回りくどい」という伝言も事前に預かっていた。
店内に入ると、綺麗なワイシャツと黒いベストを着た一人のウエイターが出迎えてくれた。あれ? ここ、焼肉屋さんだよね……? 高級レストランのような風貌の彼に首を捻る。の知る焼肉店の店員はバンダナと腰エプロンを身につけているのが印象的なのだが、ここの焼肉店は西洋スタイルなのだろうか。
変わったお店なんだなあ、とぼんやり思っていると、「いらっしゃいませ。ご予約のお客様ですか?」とウエイターににこやかに話しかけられた。
「いかにも! 今宵はゴッド獄の名の下に命じ――ッ」
「うるせえ十四。拙僧が言うから黙って――」
「はい。十八時から四名で予約している天国です」
「天国様ですね。確認いたしますので少々お待ちください」かしこまって一礼をしたウエイターが去っていき、はほっと一息つく。なんだかここのお店、緊張するなぁ。ほんとうにわたしも来てよかったんかなぁ。
ウエイターを待ちながらしばらく無言でいると、上の方から視線を感じる。なんだろう……? がふと二人を見上げると、空却は目を丸くしてこちらを凝視しており、続けて十四を見ると、彼はにこにこしながら楽しげに口を開いた。
「ちゃんが天国ですって言うとなんだか――っ、ぁいたたたッ!?」
十四の腰から手を回した空却が、彼の脇腹をぐぐっと抓っている。体を拗らせて痛みに耐える十四を見て、は狼狽えるように空却を見上げた。手には力を入れているはずだが、空却はさも涼し気な顔をして明後日の方向を向いている。
「空却さん今日は特に当たりが強いっすよおっ!」「自業自得だ」二人がそんな会話をしているうちに、再び先ほどのウエイターが現れる。こちらへどうぞ、と案内されるがまま、三人は店の奥へと進んでいった。
ウエイターを追い抜かす勢いでずんずんと歩いていく空却。その後ろにがついていくと、の隣に並んだ十四がこそっと耳打ちをした。
「自分のプレゼント、ちゃんがいない時に渡すんで気にしなくてもいいっすよっ。獄さんもこの焼肉がプレゼントみたいなものなんでっ」
「ありがとう十四くん……」
「お安い御用っす!」そう言って笑う十四に対して、はさらに感謝の気持ちが溢れた。
通された個室に入る前に、「メニューのご説明はお連れ様がいらっしゃってからの方がよろしいですか?」「あっ、初めてじゃないんで大丈夫っすよ! あともう一人はもうすぐ来ると思うんすけど――」スマホで時間を確認している十四がウエイターと会話をし始める。そんな様子をが静かに見守っていると、不意に後ろから肩をとん、と軽く叩かれた。どきッとしたはさっと振り返る。相手は言うまでもない。
「おい」
「はいっ」
「お前、この店来たことねーだろ」
「え……? ぁ、う、うん……」
「最初に言っとくが、ここの肉はクソ美味い代わりに値段もクソ高え」
「えっ?」
「んで、だ」が考える余地もなく、空却は言葉を続ける。
「高え店には相応の決まり事がある」
「決まりごと……?」
「あぁ。知りてえか」
ぽけぇ、とする。二人はこの店に来たことがあると言っていたので、その決まり事やらも事前に把握しているのだろう。もちろん獄も。となると、知らないのは自分だけということになる。
中華、フレンチ、イタリアン――それぞれの料理形式に合った食事のマナーがあるように、この店もそういうものなのかもしれない。大人である獄にマナーが悪いと思われるかもしれないのは避けたいところだ。あくまで自分はおまけなのだから、行儀だけはきちんとしなければ。
「うんっ。知りたいっ」そう言って、は頻りに頷く。すると、「よし」と言った空却の口角が僅かに上がった。あ……空却くん、笑ってくれた……。うれしいな……。ご機嫌治してくれたんかな……。はそんなことをぽーっと思いながら、空却の口からゆっくりと紡がれる決まりごとに耳を傾けた。
そこは四人から六人がけのテーブル席がある広々とした個室だった。長方形の火鉢は半分テーブルに埋まっており、そこに置かれたシルバーの網が暖色の照明に反射してきらきらと輝いている。
「ちゃん、バッグ預かるっすよ!」そう言って、個室の壁を開けた十四が手を差し出してくれた。どうやら中はクローゼットのようになっており、焼肉の匂いが付かないようにバッグやアウターを仕舞うことができるらしい。
今まで椅子の上にしか置いたことがなかったは狼狽えながら、「あ、ありがとうっ」と十四にぎこちなくバッグを渡す。なんだかすごいところに来てまった……。そう思いながら、は改めて個室全体をぐるりと見回した。
「(こういうときって、ドアの近くに座った方がいいんかな……?)」
空却くんは十四くんか獄さんの隣の方がいいだろうから……えぇっと……。そんなことを考えながら二人の出方をきょろきょろと窺っていると、後ろから肩をとん、と触れられる。振り返ると、やはり空却だ。先ほどもそうだが、空却からの不意のボディタッチには過剰にどきっとしまう。
「お前はあっちの奥座れ」
あっち、と空却に指されたのは入口から遠い方の席。が思っていた席の真反対の席だ。一瞬迷っただったが、空却の言葉に反射的に頷いてしまい、彼に言われるがままその席に座る。すると、後から空却がどかりとの隣に座った。
へっ、と声が出そうになると、荷物を仕舞い終えた十四が「よいっしょ……」との正面に座った。これは、もしかして――
「(空却くんのとなりだぁ……っ)」
いいのかな……っ。空却くんのお誕生日会なのにわたしばっかり嬉しくていいのかなぁ……っ。正面に座る十四と目が合うと、彼はにこ~っとこちらに向かって笑いかけてくれた。今の自分の気持ちが筒抜けな気がして、は恥ずかしさのあまりぎゅっと俯いた。
しばらく一人でもじもじとしている間にも、「十四。メニューくれ」「はいっす!」と二人の間ではやり取りが進められる。十四からメニューを受け取った空却は、無造作にそれをテーブルの上に広げる。偶然にも真ん中に置かれたので、も首を少し伸ばしてメニューを見ることができた。
しかし、が思っていたメニューとは少し違う。カラフルな挿絵は一切なく、目立つ文字装飾もない。あるのは、ただの白い紙一枚に均一な文字の大きさで料理名と値段だけが書かれているだけだった。そして――
「(え……っ!?)」
赤身カルビと書かれた文字の右に点々が続いていたのでそれを辿ると、は目を丸くした。そこに記されているのは¥2300という文字。え……? カルビだけのコースメニューってことかな……? あ、ううん、ちゃんと一人前って書いてある……。一人当たりの食べ放題と同じ値段を見て、は困惑する。見れば、他のものも二千円以上のものがほとんどで、見れば見るほどの目が回っていく。
状況が理解出来ず、助けを乞うように空却の方をちら、と見るが、「とりあえずいつも頼むやつらの四人前でいいか」「そっすね~っ」と十四共々平然としている。さすがだ。慣れている。しかし、このままでは一度の注文で一万を優に越してしまいそうだ。
きょ、今日のわたしはおまけだから、食べるならサラダとかにしよう……。すっかり弱腰になってしまったは、高額な肉から逃げるようにしてサラダメニューを探した。
「ちゃん、サラダ食べますか? 自分、いつもチョレギサラダ頼むんすけど、ここのチョレギすごく美味しいんすよ!」
「うんっ。じゃあ、分けっこして食べよっかあ」
よかったぁ。誰かとシェアするなら頼みやすいや。十四の言葉にほっと一息ついた。そして、ようやくチョレギサラダの文字を見つけて、右に続く点々の後を辿っていくと、はわっと目を見開いた。
「せんろっぴゃくえんっ!?」
「値段口に出すんじゃねーよ。行儀悪ぃ」
「空却さんに行儀のこと言われたくないと思うっす……」
「あ゙? 今日の主役に何か言ったか」
「なっ、何も言ってないっすッ!」
二人の会話など右から左。高いっ……。お肉高い……っ! サラダも高い……っ! は今にも泡を吹きそうな気持ちでいっぱいだ。
「ここのお肉めちゃくちゃ高いんすけど、す~っごく美味しいんすよ!」空却同様、十四も同じことを言う。高い――そういうことか。ここは焼肉店といっても高級が付く焼肉店。どうりでお店の雰囲気やウエイターが厳かなわけだ。はメニューからそおっと目を逸らして、席の奥へ縮こまってしまった。
「わ、わたし、飲み物だけでいい……っ」
「お金のことなら気にしなくていいっすよっ。自分たち、ライブの後とかもこのお店に来て獄さんに奢ってもらってるんで!」
「銭ゲバだけあって、金だけは持ってっからな」
十四が明るく、そしてメニューから顔を上げることなく空却がそれぞれ言う。それでもすっかりメニューを見る勇気をなくしてしまったは、愛想笑いをするだけで背もたれに背中をくっつけたままそこから動けなかった。
「空却さんは飲みものなににするんすか? やっぱりお酒っすか?」
「コーラ。最初は親父と飲むって決めてんだ」
「へえ~っ。なんだかんだで仲良いんすねえ~っ」
「うっせえ」そんな会話を聞きながら、じっと背を丸めている。すると、にぱっと笑った十四が、テーブルに置かれたメニューを手に取った。
「ちゃんっ。ドリンクの値段はふつうの焼肉屋さんみたく良心的なんで大丈夫っすよっ」
こちらに見やすいようにと、十四はメニューをテーブルに垂直に立てて見せてくれている。十四が指を指してくれているところをおそるおそる見ると、アルコールとソフトドリンク、そしてデザートのメニューがあった。
ようやく三桁だけの数字が見えてほっと息を撫で下ろしたは、そそっとテーブルに近づいた。
「ありがとう十四くん……。飲みもの、いろいろあるんだねえ」
「はい! お肉たくさん食べるなら炭酸抜きのソフトドリンクがおすすめっすけど、そういうわけじゃないならなんでも――」
「烏龍茶」
横から鋭い声が被さる。隣を見ると、メニューを見るのに飽きた空却が足を広げて怠そうに背もたれにもたれかかっていた。
ウーロン茶? あれ? 空却くん、さっきコーラって――がぱちぱちと瞬きをしていると、「どうして空却さんがちゃんの飲むもの決めるんすかあっ」と十四が怒ったように言った。えっ?
「どうせ烏龍茶だろ」
「た、たしかに烏龍茶は油ものと相性良いって聞くっすけど……って、そういう問題じゃなくてっ」
十四は引き続きメニューを指さしながら、それをにずいっと突き出した。
「ちゃんっ。こっちにアルコールもあるっすよ? ちゃんの飲みたいもの注文していいんすよ?」
「酒なんざ勧めるんじゃねえ! めんどくせえ昭和オヤジかてめえはッ」
「そういうつもりないっすよぉ! ちゃんもこのあいだ二十歳になったって聞いたから――」
「こいつは酒飲めねえ」
「えっ?」
「えっ?」
十四と反応がハモる。は十四と顔を見合せた後に空却を見ると、彼はじっとりとした目でこちらを見据えていた。
「飲めねえよな」
「えっ? あ、ぇ、えぇっと……?」
「飲めねえって言え」
「脅迫はよくないっす!」
「飲めない……」
「そら見ろ」
「ちゃんは空却さんの言うこと聞きすぎっすよぉ~っ!」
十四が空却に反論するが、本人は何処吹く風と言わんばかりにそっぽを向いている。自身、ほんの少しカクテルにも興味があったものの、ソフトドリンクの中なら烏龍茶を頼もうとしていたので、結果的によかったのだ。
「大丈夫だよ十四くん。わたしもウーロン茶頼もうとしとったから」と十四に言うと、「そ、そうっすかぁ……?」と彼はおずおずと引き下がる。ふん、と鼻を鳴らした空却を一瞥して、はほ、と胸を撫で下ろした。今日は空却の誕生日――なぜ空却があんなことを言ったのか分からないが、理由がなんであれ、これ以上空却の気に障るようなことはしたくない。
「なにごちゃごちゃ騒いでんだ」
溜息が混じった声とともに個室のドアが開かれる。獄だ。姿を見るなり、おつかれさまです、とすぐに言っただが、「遅刻だぞ獄ァ!」「獄さん、お仕事お疲れさまっす!」と二人の声に被ってしまう。少し考えたは、獄に向かって少しだけ頭を下げた。
すると、獄は個室の座席を見るなり、の隣に座る空却に向かって、咎めるような視線を投げる。な、なんだろう……? 分からないのは自分だけかと思いきや、「え? え? なんなんすか?」と十四も何が何だかという顔をしていた。空却もまた、下から押し上げるように獄を睨んでおり、その後しばらく冷戦状態だった二人だが、不意に空却から視線を外した獄が、今度はの方を見た。
「。十四の隣に行ってくれ」
「え……」
「ええっ!? だ、だめっすよ獄さん! どうしてそういうこと言うんすかっ」
「お前な……」
「自分、獄さんの隣がいいっす!」「おい腕引っ張んなッ!」――獄と十四がやいのやいのと言い合いをしている中、は腰を浮かせようか迷ってしまった。獄の言うことよりも自分の欲求が膨れ上がってしまって、いつもなら軽く動く体がひどく重く感じた。
このままがいい、けど……やっぱりだめだよね……。一人でもやもやと葛藤していたその時、の手首が何かによって包まれる。驚いたが隣の空却を見るが、彼はじっと目を伏せ、誰とも話す気がないようなつんとした表情をしている。
――とてもじゃないが、今の手首を掴んでいる人の顔とは思えなかった。
「(ぁ……え……?)」
が手を引っ込めようとすると、逃がさないというように、ぐ、とさらに力が加わる。決して痛くない。かといって、の力では振り解けるものでもなかった。
十四と獄の声が遠ざかっていく。座席の上――向かいにいる二人の位置から見えないところで、は空却と繋がっている。の手首を軽く一周する手の大きさ、手のひらの皮膚の硬さ、の手よりもさらに熱い体温――の興奮がぶわあぁっと花咲いて、堪らなくなったは震える唇をゆっくりと開いた。
「ひとやさんっ」
「ッ――あぁッ?」
「わっ、わたし……っ、ここが、いい、です……ッ」
語尾を消え入るような声でぼそぼそと言う。しん、と静まり返った個室。するとじきに、「ほらあ! ちゃんもああ言ってるっすよ!」と十四が後押しをしてくれて、獄は渋々といった形で十四の隣に座った。
やったっすね! と正面を向いて口パクで伝えてくれた十四ににこりと微笑みながら、は再び空却を見つめた。
「(あ……)」
すると、の手首を掴んでいた手はさっと離れていった。は名残惜しそうに空却を見つめていたが、彼の目がこちらに向けられることはなく、そのままそっと俯いた。
さっきの、なんだったんかな……。ひとやさんの隣、やだったのかな……。は空却に触れられていた手首を優しく擦る。未だに活発に活動している鼓動に身を浸していると、メニューを手繰り寄せた獄が口を開いた。
「で、何頼むかもう決めたのか」
「とりあえず、いつも頼むお肉四人前とドリンクっす! あとは個々で食べたいものを~って感じっすね!」
「分かった。、今日は俺の奢りだから遠慮すんなよ。好きなの頼め」
「は、はいっ」
「あっ、そうだ! 獄さん聞いてくださいよ! 空却さんったら勝手にちゃんの飲みもの――ッ、あたぁっ!?」
「終わった話をぐちぐちぶり返すんじゃねえ」
「ぁいたッ……いたッ! そんな足でげしげし蹴らないでくださいよおッ!」
「おい空却。さっそく何した」
「さっそくってなんだよ。何もしてねえわ」
三人の和やかな会話を聞きながら、はほのかに笑う。自分だけでは決して見れない――仲間との会話に年相応に笑っている空却の明るい表情を密かに見つめながら。
ドリンクが届くと、さっそく四人で乾杯をした。いつおめでとうを言えばいいかタイミングを見計らっていたが、「空却さん! お誕生日おめでとうっす~っ!」という十四の音頭に便乗して、もその後になんとか続くことができた。空却くん、お誕生日おめでとう。緊張のあまり、勢い余って三人分のグラスと自分のグラスを当てた時に、中に入っている氷がからんっ、と音を立てて崩れた。
その後、すぐにカルビやホルモンなどの肉が到着する。すると、トングを持った空却が我先にと皿をごそっと手前に引き寄せ、網の上に肉を次々と敷いていった。
「ちゃん、サラダどのくらい食べるっすか?」
「あっ、自分でするよ。十四くん、自分の分だけ取ちゃやあ」
「そっすかあ?」はサラダを取り終えた十四からボウルをもらい、サラダ用のトングで取り皿に盛り付けていく。その最中もごま油の良い匂いがして、食べる前から幸せな気持ちになった。
ふと、肉を焼き続けて中々トングを離さない空却を見かねたは、彼に向かってそっと口を開いた。
「空却くん、あとでわたしがお肉焼くからずっと食べとっていいよ……?」
「うるせえ。お前は黙って草でも食ってろ」
「おい空却。その肉、の分もあるんだからな。自分の分だけ食えよ」
「知るかバーカ」「お前な……ッ」獄の顔すら見ずに、ひたすら肉と網とにらめっこしている空却。きっと、彼なりのこだわりがあるんだろう。余計なこと言っちゃったなぁ、と思いながら、はひっそりと箸を持った。
それからは、取り分けたサラダをむしゃむしゃと食べ進めていく。葉物と大根はシャキシャキとした食感で、韓国のりはぱりッとしていてとても香ばしい。ドレッシングも酸味が効いており、量も絶妙だ。こんなにも美味しいチョレギサラダを食べたのは初めてだった。
「ちゃん、サラダどうっすか?」
「うんっ。すごくおいしいっ」
「そうっすよね~っ!」
「ったく……肉から先に食やあいいのによ」
「サラダから食べた方が消化に良いんすよ獄さんっ。あと、お肉食べ過ぎ防止にもなるっす」
そうなんだあ。全く意識してなかったは心の中でそう思う。そのまま十四と獄の話を聞きながら箸を進めていると、シルバーのトングが近くで光ったのを横目で捉えた。
「(あれ……?)」
焼けた肉がの取り皿に置かれていく。数秒しない間に肉の山が出来ており、はぱちぱちと瞬きをした。肉を置いた本人である空却は、網の上にある肉を掴んだり、新しい肉を焼いたりして、未だにトングを操っている。
空却くん、自分のお皿と間違えとるんかな……? そう思って首を傾げていると、空却は次に焼けた肉をもう一方の取り皿に乗せている。そちらはれっきとした空却の皿だ。あれれ?
「……皿、そっから動かすなよ」
「え――」
「十四。追加すっから呼び鈴押せ」
「了解っす!」十四の声を聞いたははっとして、慌てて口を噤んだ。
……ふ、と息をついて気を取り直したは、取り皿に乗った肉をじっと見つめる。空却がぼそっと言った“そっから”とは、取り皿がある位置――ちょうど火鉢の手前で、十四と獄からは見えないところにあった。
このお肉、食べてもいいのかな……? 空却をちらっと見ると、視線に気づいた空却が顎をくいっ、と前に動かした。良しの合図だ。の視界がぱあっと明るくなり、目の前に餌を用意されて待てをしていた犬の気持ちがよく分かった気がした。
「(いただきますっ)」
手を合わせて、肉を箸で摘む。見た目カルビのようだが、空却が焼いてくれたものなので肉の種類までは分からない。高級肉なので、最初は何も付けずに頂くことにした。ぱく、と一口食べると――
「(おいしい~っ!)」
数回噛んだだけで肉が口の中で蕩けていく。舌で転がす前に消えてしまって、はもう一枚同じ種類の肉を頬張る。程よく乗っている脂がじゅわっと広がり、赤子でも噛めるような柔らかさだ。こんなにも美味しい肉を食べたのもまた初めてだった。
お肉すごくおいしいっ――感想を口に出して言いたくなる衝動を抑えて、は隣にいる空却を見る。すると、彼もまたこちらに視線を寄越していた。
「……もっと食うか」
こそりと呟かれた言葉。別の話をしている十四と獄には聞こえていないようだ。は目を燦々と輝かせながら何回も頷く。空却は無言で肉を焼いていき、は取り皿の上にある肉を次々に食べていった。
「(おいしいっ。すごくおいしいっ)」
それからも、は取り皿に乗っているお肉をぱくぱくと消化していく。あっ、このお肉、さっきのお肉とちがうっ。おいしいっ。これはタンだあっ。すごく厚いのにやわくておいしい~っ。
お肉だけでもおいしいけど、お米も食べたいなあ。十四くんとひとやさんは食べないかなあ。一際大きな肉を口に運んでもぐもぐと咀嚼していると、「失礼します」と個室に訪れたウエイターに向かって、空却がメニューを読み上げた。
「赤身カルビ、壷漬けカルビ、上肩ロース、和牛ステーキ、特上塩タン。全部四人前で」
「おい。来とるやつ全部片してから食えよ。皿で溢れるだろうが」
「いちいちうっせーな。無礼講なんだからケチケチすんじゃねーよ。あと特選炙り寿司四貫と白飯」
「あっ! 自分、ナムル四種盛り食べたいっす!」
「だから十四は肉を食えっての……。ああ、それでは。なんか注文――」
「以上」
メニューをテーブルの端に避けた空却はすぱっと言う。一礼したウエイターが個室から出ていくと、獄は厳しい顔で空却を睨みつけた。
「に聞いとる途中だっただろうがッ」
「まだサラダがあるんだからいいだろ」
二人がそうして話している間も、は受け皿に乗っているお肉を摘む。噛んでも噛んでも味が染み出てくるホルモンをごくんと飲み込んだは、ふわあ~と恍惚とした表情を浮かべた。
それから時間が経ち、今までトングを離さなかった空却がようやく箸を持つ。一度だけ空になったの受け皿には、再び肉の山が積まれていた。もちろん置いたのは空却だ。
「いただきまァす」と空却が手を合わせたかと思えば、彼は今までの遅れを取り戻すように肉をばぐばぐと食べ始める。食べる所作こそ丁寧だが、一口が大きく、口に運ぶペースがとても早いので、は目をまん丸にして驚いてしまった。
「あ゙ーうッめえ~。やっぱここの肉食ったら他の焼肉屋行けねーわ」
「ひふんもっふぅ~」
肉に手をつけ始めた十四も頬を片手で抑えながら美味しそうに食べている。も心の中でうんうんと同意した。ひとやさんありがとうございます、とも付け足して。
が受け皿に乗っている肉を摘んでいると、先ほど空却が注文したものがテーブルに届く。空になっていた皿は回収され、新たに来た肉でテーブルの色が見えなくなった。その中でが一番驚いたのが、米がお椀ではなくお櫃で届いたということ。炊きたてなのか、照明の光に反射した真っ白な米がつやつやとした光沢を放っていた。
空却はしゃもじを使い、米をお椀に次いでいく。お椀の縁から出ないくらいの量を注いだ空却は、それを素早くの傍に置いた。肉用の取り皿同様、またしても火鉢の影に隠れる位置だ。
「(お米いいのっ? わたしにくれるのっ?)」
お椀と空却を交互に見つめるが、空却は二つ目のお椀に溢れるほどの米を注いでいる。それはじきに空却の手元に置かれて、は再び自分のお椀を見る。
空却くん、わたしのついでくれたんだぁ……。お米欲しいって、どうして分かったんだろう。たまたまかな。どうなのかな。なんであれ、あとでお礼だけ言おうと思ったは念願の白米が盛られた椀を手に取った。
「空却さん! 自分もお米欲しいっす!」
「拙僧は肉焼くので忙しいんだよ。自分で注げ」
「そんなぁ~っ」
「空却。せめてお櫃寄越せよ」
「おらよ」「おう……って、ほとんど残ってねえじゃねえか!」「また頼みゃあいいだろーが」「あっ、さっき食べたカルビもうないっすよ!」三人の会話を聞きながら、は再びホルモンを食べる。今度は米も一緒に頬張ってみた。
お肉とお米、一緒に食べたらもっとおいしい~っ。カルビとご飯を一緒に含んだは、それからしばらく至福の時を過ごした。
――真っ黒になった網を新品のものに交換してから、また時間が経つ。腹八分目になったは、烏龍茶をちびちび飲みながら何をすることもなくぼんやりしていた。もうおなかいっぱい、と空却に言いたいのだが、取り皿に肉がなくなった矢先に肉が置かれるので、言うタイミングが中々掴めなかった。
……すると、のスマホがヴーッ、と震える。はいったんグラスを置いて画面を見た。表示された名前を見てぱっと顔を輝かせただが、すぐさま隣から声が飛んできた。
「電話すんなら外出て話せよ」
そう言いながら、ドアの手前に座っていた空却はわざわざ席を立ってくれた。空却くん、ありがとう。こくんと頷いたはよいしょと腰を上げた。
「個室の番号は十二っすよ~!」という十四の声にも笑顔で応じて、はバイブレーションが鳴り止まないうちに素早く個室を出た。
来た道を戻り、いったん店の外に出た。未だに震えているスマホの画面をスワイプして、嬉々として耳に当てた。
「もしも――」
《やっほ~っ!!》
電話口から聞こえてきた活気ある声を聞いて、は口元がゆるっと緩んだ。「あんちゃんやっほ~っ」
「久しぶりだねえ。高校卒業して以来かなあ? ホームステイ先はどう?」
《も~ちょー楽しくてサイコ~っ! みんな良い人ばっかだし!》
「わあっ。よかったねえ」同じ高校に進学し、そのまま就職をした。一方で大学に進学した杏は、先月から海外に留学していた。はメッセージのみのやり取りは頻繁にしていたが、彼女の声を聞いたのは数年ぶりだった。
小学生からの親友の声を聞いて、歯止めがきかなくなる。わいのわいのとお互いの近況に花を咲かせ、ようやく落ち着いたところでは本題に切り出した。
「それで……どうしたの? なにか大変なことあった?」
《あ~……。大変っちゃ大変で、電話で言うのもあれなんだけどさあ……》
急に声の覇気がなくなった杏の声。彼女がそんなような声を出すなど珍しい。どうしたんだろう……? もしかして怪我しちゃったとか……? それとも帰国できんくなっちゃったとか……っ? 嫌な想像が頭を埋め尽くす中、すうっと息を吸い込む音が電話口から聞こえた。
《あたしたち、結婚することになりました!》
ぱんっ、と目の前が弾けたような錯覚を見たは、杏の言葉を飲み込むまで数秒を要した。そして、意味が理解できた頃には体の中から生まれた興奮の渦がみるみるうちに大きくなっていた。
「えぇっ!? ほんとっ? ほんとのほんとっ?」
《ほんとのほんと~っ》
「わわっ! わあぁぁっ! よかったねえっ。ほんとによかったねえ!」
《うん! 近いうちに一緒にナゴヤ戻ってくるから、またんち行くね! その時また話聞いて~っ!》
「うんっ。聞く聞くっ」《お土産もたくさんあるよ~!》「やったあっ」――外ということも忘れて、嬉しさのあまりその場でぴょんぴょんと飛び跳ねながらハイテンションのまま話す。それ以降も長々と世間話をしてしまい、電話を切った頃には通話時間が二十分を越していた。今まで話せなかった分と思えば短い方だと思う。
「(あんちゃんたち、結婚するんだあ~。おめでたいなあ)」
二人にあげる記念のプレゼント考えなくちゃ。スキップをしたくなるくらいご機嫌になったは、軽い足取りで店内に戻った。
十四くん、お部屋の番号は十二って言っとったっけ……。きょろきょろと周りを見回しながら、一、二、三……と個室の番号を辿っていく。そうして、十二の数字が掲げられたドアに手をかけて個室に入れば、部屋にはなぜか空却一人だけしかいなかった。
「(空却くんと、ふたりっきり……)」
の顔の熱がぶわっと上がる。徐々に早くなっていく心臓がとても痛い。ふと顔を上げた空却と目が合うと、彼は先ほどと同じように席を立って、奥の席を開けてくれた。
慌てたはその身を小さくさせながら、席にちょんと座る。受け皿にあったお肉はなくなっており、ほっと息をついたは空却を見上げた。
「席、開けてくれてありがとう……」
「ん」
「十四くんとひとやさんは……?」
「十四は便所。獄は煙草」
空却はこちらを見ることなく、ジューッ、と肉を焼いては一人で淡々と食している。分厚いステーキを肉バサミで切り、細長くなったステーキの一切れにご飯を巻くようにして箸で掬いあげる。ばくんッ、と効果音が聞こえてきそうなくらい豪快な食べっぷりだ。口を開いた時に覗いた犬歯を見たとき、耳にある痕がじりっと痺れたような気がした。
「……食うか」
「ううんっ。もうおなかいっぱいだから大丈夫だよっ」
空却を見ている理由が肉を食べたいと勘違いしたらしい彼の言葉に対して、は慌てて首を振る。空却くんの食べとるところ見とっただけだよ――など、とてもじゃないが言えない。
空却はそんなを一瞥した後、今焼いている分もすべて自分の受け皿に持っていく。そして、「なんか食いたきゃあ自分で選べよ」とも言われ、メニューも渡してくれた。
わたし、そんなに見とったかなぁ……。それとも食いしんぼうって思われとる……? 空却に言われるがままメニューを見るが、内容は全然頭に入ってこなかった。それよりも――
「空却くん、」
「なんだ」
「お米、ついでくれてありがとう」
「思いのほか量が多かっただけだ」
そうかな……? 空却くんならぺろんって食べられそうだけどなぁ。会話がぷつりと切れてしまい、はメニューの隅を指の腹でなぞる。肉も焼き終わり、今は空却の生む食器の音と微かな咀嚼音しか聞こえてこなかった。
十四くんとひとやさん、いつ帰ってくるかな……。帰ってきてほしいような、帰ってきてほしくないような。このまま二人きりで、もっと話がしたいような――この状況に体がうずうずとして
「……肉」
ぼそっと独り言に近い声色で、空却はぽつんと言う。「美味かったか」と続いた言葉にが顔を上げると、彼の視線がほんの少しだけこちらに向いていた。
空却くんが話しかけてくれた――その瞬間、の顔にぱあっと光が灯った。
「うんっ。すごくおいしかったっ」
「そうか」
「最初に食べたカルビ? かなあ? 口の中で脂がふわーって溶けてねっ、お肉なのにすごく甘くておいしかったっ」
「へえ」
「ホルモンも噛んでくとどんどん味が出てきてね、あとタンもすごくやわらかくておいしくてっ」
「おー」
「あとね、あとね――」ずっと喋れなかった分、いつもよりも口がぺらぺらと動く。いつの間にか空却も箸を置いており、最初は目だけだったのが、今では顔ごとこちらに向けてくれていた。うれしいなぁ、たのしいなぁ、ずっとこのままがいいなぁ――なんて、思うだけで、口には決して出さないのだが。
――一通り焼肉の感想を言ったところで満足したは、残りのサラダをさらってちびちびと食べていく。あれからまた時間が経ったが、今のところ二人が戻ってくる気配はなかった。
今しかない――は改まった態度で空却に尋ねた。
「あのね、空却くん」
「なんだ」
「このあいだ、サカエでお買い物したとき、なんだけど……」
「サカエ? ……ああ、先月のことか」
「うん。その日の夜……空却くん、わたしの家に来た、よね……?」
が自信なさげにそう言うと、空却の目が薄く細められる。何の感情も読み取れない眼差しに、の中にある不安がさらに膨れ上がった。
「……来たけどよ。お前、覚えてねーの」
「覚えとるよっ。空却くんが来てくれたことは覚えとるんだけど……っ」
「けど?」
「なにをお話したとかは、あんまり覚えとらんくて……」
まず、空却が家に来た理由も分からない。それも自分がただ単に忘れているだけなのだろうか。それはかなりもったいない――ではなく、かなり申し訳のないことをしてしまった。
がその日の夜の詳細を尋ねようとすると、それより前に目を伏せた空却がそっぽを向いた。
「……大したこと話してねーよ」
「ほ、ほんとう……?」
「あぁ」
「じゃあ、あの忘れものは……」
「あぁ? 忘れものだあ? なんだそれ――」
空却の声を遮るようにして、不意に個室のドアが開けられる。「ったく……毎度毎度別のフロアで迷ってんじゃねえよ」「壁一面が真っ黒だから無茶っすよお~」長いこと席を外していた獄と十四がやいのやいのと言いながら、と空却の向かいの席に座った。
……半端なところで会話が途切れてしまった。空却が言いかけていた言葉はぴたりと止んでしまい、彼は何事も無かったかのようにドリンクを飲んでいる。もう話す気はないと言いたげな態度だ。
「あっ。ちゃん、おかえりなさいっす!」
「うん。十四くんもおかえりなさ――」
すると、視界の端での受け皿にぽいぽいと肉を乗せられる。あれ? これ、空却くんのお皿にあったお肉――が隣を見る頃には、空却はすでにトングを置いており、の目の前にあったメニューをかっぱらった後だった。
「十四。呼び鈴」
「はいっす!」
「お前まだ食うのかよ……」
「何言ってんだよ。こっからが本番だっつの」
「自分はそろそろデザート食べたいっす! ちゃんもデザート食べないっすか? 個人的にシャーベットがおすすめっすよ!」
十四の言葉にはこくこくと頷く。デザートを食べる前に、まずは皿にある肉を片付けてからだ。不思議とホルモン類が多いのはなぜだろう。は肉をぱくぱくと口に入れては、いつまででも肉の旨味が出るホルモンを丁寧に味わっていった。
店に入る前は明るかった外も、今はどっぷりと日が暮れて夜になっていた。夏の星は闇の中で色濃く瞬いており、は首が痛くならない程度に煌びやかな夜空を見上げた。
「いっぱい食べたっすねえ~」「しばらくは肉食わんでも舌もつな」そんな会話をしている二人よりも少し離れた場所にいたは、誰かの足音が近づいてくるのをうっすら感じ取った。
「、気分でも悪いか」
「えっ?」
振り返ると、会計を終えた獄が立っていた。まるで予想していなかったことを言われ、はほんの少しだけ首を傾ける。
「店でほぼ喋んなかっただろ。十四が話しかけても空却が遮っちまうしよ。つか、あいつばっか肉食いやがってたから、あんま食えなかったんじゃねえか」
「そんなことないですよっ。空却くん、焼いたお肉たくさんくれたのでっ」
むしろ焼かせていたと言ってもいいくらいだ。は誤解を解こうと必死に首を横に振る。空却が肉を分けてくれた時もかなりさりげない動作だったので、向かいに座る獄が分からなかったのも無理はない。
すると、「空却が、肉を、他人に、分ける……?」と獄はなぜか覚えたての日本語を紡ぐようにたどたどしく言う。はい、と頷いたはさらに言葉を続けた。
「あと、気分もわるくないのでっ。お肉すごくおいしかったです! ごちそうさまでしたっ」
「ならいいけどよ……。俺らに遠慮しないで喋ってもよかったんだぜ」
「お話したかったんですけど、受け皿にお肉が入ってたので……」
「は?」
「え?」
は獄と顔を見合わせながらぽかんとする。そんなは空却を一瞥して、おそるおそる獄に尋ねた。
「じ、自分の受け皿にお肉が入ってる時は、喋っちゃいけないんじゃ……?」
「はあ? 誰がんなくだらねえこと――」
獄の言葉は止み、じきに顔を顰めながら、「一人しかいねえよな……ったく……ッ」と苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた獄。は何が何だか、という顔をしながら彼の言葉を待った。
「……で、空却はなんて言ってた」
「お、お店の決まりごとって……」
「そんなルール、この店にねえよ。そもそも、俺らも肉キープしながらふつうに話してただろ」
「え? ……あっ」
そう言われてみればそうだ。なぜ気づかなかったんだろう。そしてなぜあんなことを――思わず空却を見ようとすると、ちょうどこちらに近づいていた彼と目が合った。
鼓動が口から飛び出しそうになるのをごくんと飲み込む。目が合った瞬間、空却の足の動きも鈍ったような……そうでもないような。気がつくと堂々と歩いてきていた空却がの目の前までやって来た。
「……帰んぞ」
「う、うん……っ」
「待て空却。お前またに妙なこと――ッ!」
「ひーとやさぁ~んっ!」
横から現れた十四が獄の腕をぐっと掴む。あ……十四くん、ひとやさんより身長おっきいんだぁ……。おおよそ場違いなことを思ってしまうだが思うが、まるで父親と息子のように仲良しに見える。
「じゃあ、自分と獄さんはこっちから帰るんで!」
「はあっ? おい十四っ……~ッ、放せッ!」
「こういう空気は読まなきゃだめっすよ獄さんっ」「なんも知らねえお前は黙ってろッ」獄をぐいぐいと引っ張って、と空却が帰る道の反対に歩いていく十四。少し距離がおかれると、獄の腕を抱いた彼はとてもにこやかな笑顔で手をぶんぶんと振っていた。
「ちゃ~んっ! ファイトっすよ~っ!」
その言葉の意味は、きっと自分にしか分からないだろう。返事をしようか迷ってしまったが、結局感謝の気持ちをこめて、胸の高さで手を振るだけになった。
「……なんだあいつ」不可思議そうに十四の後ろ姿を見送った空却は、踵を返してすたすたと歩いていく。あっ……待って空却くんっ。はぴゃっと体を跳ねさせて、彼の背中を慌てて追いかけた。
無言の帰り道――メイエキからの家まで三十分ほど歩かなければならないが、は駅に寄らなかった空却の後ろについていくことしかできなかった。声をかけてもよかったが、それはなんとなくやめておいた方がいいとの勘が言った。去年のあの日以来、空却と電車に乗ったことは一度たりともなかった。
「(空却くん、まだ電車乗るのやなのかなぁ……)」
先月、サカエから家まで歩いて帰った時も、歩いた方がその分のお金が浮くからと思ったが、さすがに今回は電車には乗らないという固い意思が窺えた。夜といえど蒸し暑い街中……歩いている最中も、の首元で汗が幾度も伝う。それでも、空却と長い時間こうして歩けるならば安いものだった。去年のことが、空却が電車に乗らない理由に含まれようと含まれていなかろうと、にとって幸せな時間は一定数約束されている。
――さて、は空却の手元をちらっと見る。彼の手には、行きの時にはなかったショッパーがぶら下がっていた。きっと十四からのプレゼントだろう。
「(おうちに帰ったら忘れもの渡して……ご、ごはんのことも言って……)」
頭の中でシミュレーションを何度も繰り返す。これからやることが山積みの中、は最初の言葉をどのタイミングでどう言おうかを考えていた。
すると、「おいッ!」と性急に声をかけられる。空却の声ではたと我に返ると、の目の前に電柱が飛び込んできて、思わずびくうッ、と体を揺らした。
「わあっ!?」
「“わあっ”じゃねえんだよ……。ぼさっとしとんじゃねーぞ」
ぶつぶつと小言のように言う空却に、「うん……」とは小さく返事をする。地面から離していた右足を踏み出していたら、きっと額から電柱に激突していただろう。危なかった。
もっとしっかりしんとっ――せっかく十四がこの状況になるようにセッティングしてくれたのだ。彼にはせめて良い報告がしたい。もっとも、がいくら頑張ろうと、すべては空却の返事によるのだが。
長い帰路を辿り、ようやく家の前に到着する。いつものように路地で起きている猫がいれば、空却の足元でごろごろと喉を鳴らして時間を稼いでくれるかもしれないと思ったが、不幸なことに今夜は一匹も路地に屯っていなかった。
味方が一匹もいないと分かって、路地に入る足取りが重たくなってしまう。そうこうしているうちに玄関の前についたので、あとは鍵穴を差し込んでしまえば終わり。このチャンスが、次にいつ巡ってくるか分からない。は手の中にある鍵をぎゅっと握りしめた。
「何やってんだ。さっさと入れ」いつまで経っても家の中に入らないを見兼ねて、空却はそんなことを言う。は意を決して、くるっと空却の方を向いた。
「空却くんっ!」
「な、んだよ」
こういうことは勢いが大事だ。ほんの少したじろいだ空却に向かって、は早口でこう畳み掛ける。
「ちょっとだけっ、ちょっとだけここで待っとってっ」
はそう言い残し、空却の返事を待つことなく急いで家の中に入っていった。こんなこと、前にもあった気が――あ、去年のクリスマスだ。あの時に振り絞った勇気を思い出しながら、は居間にあった紙袋を取って、ばたばたと玄関先へ戻っていく。
いなかったらどうしよう、とも思ったが、幸いなことに空却はそこから動かず待ってくれていた。あ……うれしい――じゃなくてっ。はいちいち幸せになってしまう思考を追いやるようにぶんぶんと頭を振り、空却に向かって紙袋を見せつけた。
「これのことなんだけどっ」
「あぁ? 工芸茶がどうした」
こーげーちゃ?
すん、と一気に勢いのなくしたはクエスチョンマークを頭上に浮かべながら首を傾げる。の手の中から紙袋をすっと抜き取った空却は、今度は彼がにそれを見せつけた。
「お前、拙僧がこれやったことも忘れたんか」
「や、やった……っ?」
あげる、差し上げる、と同義の言葉を言われて、「空却くんの……忘れものじゃ、ないの……?」とは途切れ途切れに呟いた。
「これはお前宛に贈ったもんだ。拙僧の忘れもんじゃねえ」
「空却くんが、わたしに……?」
「そうだ」
どうして、と口を開きかけて、は一度言葉を飲み込んだ。
「(わたしの、お誕生日だったから、かな……。空却くん、わたしのお誕生日覚えとってくれたんかな……)」
なんとなくあげたくなった? そしてその日がたまたま誕生日だった? そんな偶然が重なることはなくもないだろう。自惚れていると分かっていても、空却に面と向かって理由を聞くのが怖くて、は何も言えなかった。ただ――
「も……」
「あ?」
「もいっかい、渡してくれんかなぁ……っ」
一度はもらっているものらしいが、いかんせん今のにあの夜の記憶はない。自分本位なお願いとは分かっているものの、どうしてもこれだけは言いたかった。
空却の手から貰い受けたい――そんなの願いが届いたのか、しばらく一考したように見えた空却は、差し出したの手のひらの上に、紙袋をそっと乗せた。
「……誕生日、おめでとさん」
ぽつんと言われた空却の言葉を聞いて、の全身の毛がわあっと逆立つ。ぱくぱくと口を開閉させながらも、「あッ、ぁあ、あっ……あり、がとう……っ」と、どもりながらお礼を言う。おまけに裏返った声で。恥ずかしさはそれをも凌駕する嬉しさでかき消された。
お誕生日……。これ、わたしのお誕生日プレゼントだったんだぁ……。空却くんからの、贈りもの……。工芸茶って、なんなんだろう……。お茶でいいのかなぁ……。あとで調べてみよう……。空却の忘れものだと思っていた紙袋が急に愛おしくなった。周りに小花をふわふわと舞わせながら、は改めて空却からの贈りものを大事そうに両手で持った。
「……なあ」
「な、なあに?」
「ほんとに何も覚えてねーのか」
「なにも……?」
「あの夜。自分がしたこと言ったこと」
空却にそう言われて、改めてはじっと考えてみる。酒を飲み、スナックを摘み、頭がふわふわとして、チャイムが鳴ったので玄関を開けたら空却がいて、とても嬉しかった――以上。やはり、それ以降の記憶はなく、朝目覚めた時の記憶まで飛んでしまう。
「ごめんね……。ほんとうに覚えとらんの……」
「ふぅん……」
「わ、わたし、空却くんとなにかお話したの……?」
がこわごわと聞くと、空却は「べっつに?」と意味深な声を漏らした。
「大したこと話してねえっつったろ。ただ、お前の酒癖がすんッげえ悪かっただけだ」
「そっかぁ。わたしの酒癖が悪かっただけ――え?」
さけぐせ? 頭の中で反芻したは、すかさず空却にずいっと詰め寄った。
「さっ、さけぐせっ? さけぐせってっ?」
「酔っぱらい」
「よっぱらいっ!?」
「人間、酒飲んだらあんだけ人格変わるのな」
「えっ? えぇッ?」
「あれは言葉にすんのもはばかられるレベルだったわ」
宙を見上げながらやれやれ、と言ったふうに言葉を紡ぐ空却。目が合わない。それだけひどかったということだろうか。ドラマや漫画を見て得た“酔っぱらい”の言動を思い出しながら、顔を青くさせたは必死で空却を見上げた。
「わっ、わたし、変なこと言っとったのっ? そんなにはしたなかったのっ? どんなふうだったのっ?」
「さぁーな」
「おっ、教えて空却くんっ。これからお付き合いでお酒飲むかもしれんからぁッ」
「やめとけ。ダチいなくなんぞ」
「ええぇっ!?」
空却は嘘は言わない。そして世辞も言わない。その空却がそこまで言うということは……先月の自分はそれ相応のことをしてしまったということだ。
ど、どうしよう……っ。はしたないところ空却くんに見られちゃった……。どうしよう、どうしよう――が覚えている限りの酔っぱらいの図を想像すればするほど、その場で穴を掘って埋まりたくなってしまった。
「……まァ、飲んじまったもんは仕方ねえ。過ちは誰にでもある」
「あ、あやまち……っ」
「だから、これから人前で酒は飲むなよ。金輪際。二度と。いいな」
「うぅ……」
「返事は」
「うん……うん……っ」
「よし」満足そうに頷いた空却だが、はすっかりしょぼくれてしまった。酒で人は変わると聞いたことはあるが、まさか自分が……という後悔が後を絶たない。あのお酒、おいしかったのになぁ……。ナゴヤに帰ってきたあんちゃんたちと飲みたかったなぁ……。あと、空却くんとも……その、できたら――そんなの淡い希望は儚く散っていってしまう。これ以上、空却の前で醜態は晒したくない欲の方が勝った。
「……で、お前の用件は終いか」
「あッ。あと一つだけっ」
空却に尋ねられて、は顔を上げる。いつまでもお酒の件は引きずっていられない。気を取り直したは、今回の本題に切り出した。
「あのね……焼肉屋さんに行く前に、十四くんと一緒におったことなんだけど……」
「二人仲良く道に迷ったんだろ。いいわそれで」
「ちがうのッ」
空却の投げやりな言い方に、は必死に食らいつく。目を丸くした空却の隙をつくように、は言葉を続けた。
「空却くんのお誕生日プレゼント買おうと思って、十四くんに付き合ってもらっとったの……」
本人の前でネタばらしはとても恥ずかしいが、今手元にプレゼントがないのだから隠していても仕方がない。が細々とそう言うと、強ばっていた顔をした空却がみるみるうちに気の抜けた表情になり、どっと溜息をついた。「そーいうことかよ……」と言いながら、彼はばつ悪そうに頭をがしがしと掻いている。
「んなもん、わざわざ十四と選ばんくてもいいだろーが」
「十四くん、空却くんと仲良しだから好きなものも詳しいんじゃないかなぁって思って――」
「あっそ。で、店でいいのがなかったからごめん、ってか」
「えっ。どうして分かるのっ?」
「顔見りゃあ分かるわ。何度も電柱ぶち当たりそうになりやがって」
空却に言われて、は数分前の自分を思い返す。今日はなぜだか空却に恥ずかしい姿を晒してばかりだ。いたたまれなくなったはしゅん、と俯いた。
「気にすんな。誕生日っつっても、何ももの貰うための日じゃねえし、大事なことはもっと別のとこにある。つか、んなことでうじうじしとんじゃねえ」
「う、うん……。そう、だね……」
今だよ。今言うんだよ。今だよ――自身を鼓舞しながら、は喉をぎゅっと絞った。
「あのッ!」
「だっ……からいちいち声がでけえ――」
「わたしの家で夕ご飯食べてくれませんかっ!」
空却からの返事を待つ前に、は用意した言葉をぽいぽいと投げつけた。
「じゅっ、十四くんがどうかなって言ってくれてねっ。プレゼントも形に残るものよりも消えものの方が気兼ねなくていいかなぁってわたしも思ってっ……。今日はもうお腹いっぱいだから、また空却くんが都合が良い日に家に来てくれたら……うれしいなぁ……って……」
だんだん自信がなくなってきて、語尾が小さくなっていってしまう。空却の顔を見るのも怖くて、彼が履いているスポーツサンダルをじっと見つめながら、上から降ってくる声を待った。
「……それ」
「っ、え?」
どれ? と思いながら、思わず顔を上げてしまった。何を考えているか分からないような表情をしながら、空却はを静かに見据えている。
「飯」
「ぁ……う、うんっ」
「お前が作るってことか」
「うんっ。わたしが作るよっ」
改めて自分で言うととても恥ずかしい。いやならデパ地下で買ってくるよって言おうかな……。あっ、そしたら私のおうちで食べる意味ないよね……。そんなことを考えていると、空却の足が砂利を転がすようにじりっと微かに動いた。
「……まぁ、あれだ」
「う、うん……」
「人の好意を無下にするっつーのも……あんまよくねーからな」
「うん……っ」
「誕生日だしな」
「うん、うん……っ」
会話が成立しているのかいないのか……言いたいことを言って空白になったの頭の中はもう限界だった。空却の言葉一つ一つに相槌を打つことしかできず、呼吸はみるみる浅いものになっていく。
……そしてそれ以降、空却の言葉が降ってこなくなる。あれ……? これって、もしかして……断られとる……? 直接的な言葉こそないものの、遠回しに食べないと言われているような気がして、絶望的な気持ちになったははく、と空気を食んだ。
「……おい。何か言えよ」
「え……ッ?」
沈黙が耐えきれなくなったように空却が苛立ちげに言葉を放つ。体を震わせたは今期で一番変な汗をかいていた。
ど、どうしよう……。ショックおっきくてなんにも言えん……。顔から血の気が引いていったは、貧血一歩手前のように目の前が真っ暗になる。それでも、空却が何か言えと言うのならなにか言わなければ、と思い、たどたどしく声を絞った。
「そ……そう、だよね……。わたしの作るごはん、あ、あんまり、おいしくないもんね……」
「は……? おい何言っ――」
「小さい頃も、まぁまぁってよく言っとったもんね……」
「あっ……れは、その……おおよそ言葉の綾みてえな……って、おい、お前また人の話聞いて――」
「へ、変なこと、言ってごめんね……。プレゼント、また今度ちゃんと選んで渡すから、今日はお誕生日おめでとうだけ――」
「だから一人で暴走すんじゃねえってのッ!」
空却にがっと肩を掴まれて、一歩距離を詰められる。ふわっと香った白檀の香りがの言葉をぴたっと止めた。
ちっ、近い……っ! 空却くんが近いぃ……っ! 空却の服がの目の前に迫っている現状。首根っこを掴まれた猫のように大人しくなったは、「その……なんだ」と歯切れの悪い言葉を放つ空却を見上げた。
「……言ってねえ」
「えっ?」
「美味くねえとは、言ってねえ」
そっぽを向きながら、地面に吐き捨てるように言った空却。え……? えっ? 何の話だろうか。たしか夕ご飯を食べないという話をしていて……あれ? 空却くんなにか言っとった……? 自分が混乱している時に空却が言っていたことを思い出そうとしても、自分のことで頭がいっぱいで何も思い出せなかった。
「ご、ごめんね空却くんっ。わたし、お話聞いとらんくて……っ。えぇっと……言っとらんって、なにを……?」
「なにを……って、言葉のまんまだろーが。何度も言わすんじゃねえ」
「え……? ご飯は……その、食べないんだよね……? 美味しいって言っとらんって……?」
「だからお前がさっきそうやって言ったんだろーがッ。あと食わねえとも言ってねえ」
「……えっ?」
「“えっ?”じゃねーんだよッ! 存じ上げねえみてーな顔しとんじゃねえぞッ!」
空却が憤慨している理由が分からない。おおよそ原因は飲み込みの悪い自分なのだが、分かったふりをするとさらに怒られてしまう気がするので、きちんと理解したかった。
空却くん、食べないとは言ってないって言った……。それじゃあ……もしかして……? 一縷の希望に縋るようにして、は震える声でこう言った。
「ご、ごはん……食べてくれる、の……?」
「おー。仕方ねえから食ってやる」
「えぇっ!? 大丈夫だよっ」
「あ゙ぁ!?」破顔した空却に向かって、はいいよいいよと言わんばかりに首を小刻みに振った。
「そっ、そんな無理しんくていいよっ。ごはんは楽しくおいしく食べんとっ。無理やりなんて悪いよ!」
「なんッでそうなんだよっ! 食ってやるっつってんだろーがッ!」
「た、食べてあげるって、わたしのために食べてくれるってことだよね……っ? そんなの空却くんのプレゼントにならんよっ。空却くんがわたしのわがままに付き合ってくれてるみたいになっとるからっ」
「こんッ……の……っ!」
仕方がないから食べる――それでは意味がないのだ。だめなのだ。たとえ悲しくても、空却の意図を理解しようとして、は懸命に口を動かす。空却自身も、実際は乗り気ではないがあまりにも自分が必死に言っているものだから、食べてあげることにしたのだろう。は、その優しさだけで十分だった。
「あっ、そうだっ! ほかに空却くんがしてほしいこととか、ほしいものとかないかなっ? 言ってくれたらわたし頑張るよっ。すごく高いもの買うのは難しいけど……一人じゃ行けんところとか、付き添いならいつでも……っ」
「だァから俺はお前の飯が食いてえっつってんだッ!!」
……無音が空間を満たす。「……ぇ?」と声を漏らす頃には、空却は唇をぎゅっと結んで押し黙っていた。
呆然としたままのだったが、空却の顔色がみるみる変わっていくのを見て、はたとする。玄関の照明に照らされた空却の顔は、髪色と同じくらい真っ赤に染まっていた。
へ、と音が漏れそうになった。もしかしたら、実際に出ていたかもしれない。空却くん、かお、まっか……? さすがのも、今の空却がどんな感情なのかは見て分かるし、感じ取れる。そんな空却をじっと見つめていると、の顔もだんだんと熱くなってきた。おそらく、今、お互いに顔を紅潮させている。そして、空却がそっぽを向いて口元を片手で隠した時、の首や耳まで熱を帯びてしまい、見てはいけないものを見たようにささっと俯いた。
……いつこの熱が治まるかの保証もない中、は黙ったまま浅い呼吸を繰り返す。空却も何も言わない。先ほどの沈黙とは違って、今の空却の気持ちがの体に流れ込んできているようで、羞恥がいつもの倍感じてしまう。
ど、どうしよう、なにか言わんと――そう思っていた時、空却のスマホがけたましく鳴ったので、お互いの体がびくッ! と跳ね上がった。び、びっくりしたぁ……っ。空却が自身のスマホに手をかけている間に、はぱたぱたと手うちわで顔の熱を冷ましていった。
「なんだよ。……あぁ? 今帰っとるとこ――って、嘘じゃねえっつのッ!」
「ちゃんと寺に帰るわボケっ!!」――おそらく電話の相手は灼空で、空却の帰りが遅いことを心配してゆえの連絡だろう。長らく話し込んでしまったので申し訳ない気持ちになりながらも、同時にこの空気を打ち破ってくれた灼空に感謝もしていた。
しばらく攻撃力の高い言い合いをした後、空却は電話を切る。「あんのクソ弁護士……。親父にチクリやがったな……」と悪態をつきながら、スマホをポケットに乱暴に仕舞った。
「わ、わたしが引き止めてまったから帰るの遅く――」
「ちげえ。あと、拙僧が帰った後親父に連絡して余計なこと言うんじゃねーぞ」
まさにそうしようとしていたと思っていたことをずばり当てられて、は言う言葉をなくしてしまう。空却は気を取り直すようにはぁ、と小さく息をついた後、をじっと見下ろした。
「……飯の件だがよ」
「う、うんっ」
「また……連絡する」
日時のことだろうか、それともそれ以外のことだろうか――色々と想像できてしまう短い言葉だったが、はうんうんと何度も頷いた。ご飯を食べてくれるということが夢でも、ましてや聞き間違いでもない――が受け止めるのは、それだけの事実で十分だった。
「空却くんっ」
「今度はなん――っ」
「お誕生日おめでとうっ」
衝動のまま口から出た言葉に、空却は目を丸くしている。それもすぐさま元の形に戻り、穏やかな眼差しをに向けてくれた。
「……焼肉屋でも聞いたが」
「も、もいっかい、言いたくなって……」
やだったかな、と不安になりつつも、空却の言葉を待つ。地面のあたりに視線をうろうろとさ迷わせていると、視界の端で空却の片腕がふっと消えた。
――不意に、頭が少し重たくなる。少しだけの顔が下に向き、頭頂部に生まれたとある感覚を察して、は息を止めた。
「……あんがとよ」
頭の上を二、三往復した手の平は、ひどく熱っぽかった。伝染したかのようにわあっと熱が上がり、思わず指にも力が入ってしまったは、持っていた紙袋をほんの少し潰してしまった。
わあぁぁ……っ! わああぁぁ……ッ! 言葉こそなかったものの、の心中は大混乱だった。体感は三秒ほどだったが、もっと長かったかもしれない。頭から空却の手の重みがふっとなくなり、が顔を上げる頃には、空却の背中が路地を出て角に消えたところだった。
一人だけで処理できるはずのない熱量が、の体の中で轟々と暴れている。頭は真っ白のまま、はひとまず家の中に入り、玄関の縁にへなへなと腰をかけた。
「(空却くん……あたま……なでて、くれたぁ……)」
それに……ごはんも食べたいって言ってくれた……。空却くん……ゎ、わたしの、つくるごはん、食べたいって……。うれしいなぁ……。作るの、たのしみだなぁ――夢見心地のような気分になったは、隣にある壁にとん、ともたれかかる。空却に撫でられた感覚を思い出しながら、一人幸せすぎる余韻に浸っていた。
