Episode.11



 七月下旬。学生は夏休みに突入し、観光シーズンということもあってか、街はいつも以上に活気があってとても賑やかだ。おかげさまで勤め先の喫茶店も大繁盛。も仕事着の浴衣でホールを駆け回っては忙しい毎日を送っている。
 そんな中、は今日という日だけは一ヶ月ほど前から公休を貰っていた。なにせ、一年に一度だけの特別な日。自分の好きなものを買って、好きなことをたくさんする……そんな幸せな一日にすると決めていた。

「よしっ」

 部屋着からお洒落着に着替え終わったは、姿見の前でくるくると回ってみる。春のうちに買った夏物のワンピースがようやく着られるようになり、は出かける前からとても上機嫌だ。仕上げにシアーシャツを羽織り、手首に念珠を通せば準備完了。目の前には、姿見の前でにこにこと微笑んでいる自分がいた。

「あっ」

 最後に持ち物をチェックしようとして、はたと思い出す。家用のメイクポーチから使い切ってしまったリップを取り出して、裏側に書かれている品番をスマホのメモアプリに控えた。クリスマスのお返しとして空却に貰ったものが、先週ついになくなってしまったのだ。ほぼ毎日使っていたので、他のものと比べて減りも早かったように思う。
 アプリを閉じたは、次に押し入れの中に潜り、そこから正方形の角缶を取り出してきた。巷では"カンカン"と呼ばれているそれは、随分昔に「大事なものあったら、これの中に入れやあ~」とカヨから渡されていたものだった。の両腕でようやく抱えられるほどの大きさで、元々はお菓子の詰め合わせか何かが入っていたものだったと思われる。
 カンカンを畳の上に置いたは、ゆっくりと蓋を開ける。そこには、小学校の頃に空却が書いてくれた漢字の紙、今年の冬に捨てろと言われた穴開きネックウォーマー、中学校の行事で空却が映っているスナップ写真など……。空却に関するものがたくさん詰まっている、いわばの宝物箱だった。仕事で失敗してしまった日、理由もなく気分が落ち込んでいる時など……時折、こうして一つ一つ取り出しては元気をもらっていた。

 ――「くーちゃん。さっきの紙、もらってもいい?」
 ――「おれがさっき漢字書いたやつか」
 ――「うんっ」
 ――「……べつにいーけどよ。おまえ、おれが教えるたびに紙ねだるのなんなんだ」
 ――「去年もらったのもあるよー」
 ――「リスかッ!!」

 「ふふ……」在りし日の思い出に浸るは一人、笑みを零す。気持ちが満たされた頃、リフィルから使い切ったリップを外してカンカンに入れた。また一つ、宝物が増えてしまった。こんなものを空却本人に見られでもしたら……そう思うと身が裂けるような羞恥に見舞われるが、現状ではそんなことは万一もないだろう。たとえリスでもいいのだ。どれだけ宝物を蓄えていても、本人に見られさえしなければ。

 蓋をしたカンカンを押し入れに仕舞い直して、は最後に火元の点検をする。その後、玄関にてサンダルを履いている最中、今日の予定を頭の中で復習した。

「(夏服とリップ買って、雑貨屋さん見て回って、天むすお持ち帰りして、それから――)」

 買い物リストとやることリストを順々に確認したは、「よしっ」と再度気合いを入れる。今日はいつもよりも長く、それでいて楽しい一日になりそうだ。







 ヒートアイランド現象――道路が広いために起こる地表面からの大気加熱、及び車の排気熱などの要因によって、街中が高温になることを指す。
 この現象こそ、“ナゴヤの夏は暑い”と他ディビジョンから言われる由縁の一つでもある。特にナゴヤでは、日を遮るものが極端に少なく、自動車保有数第一位ゆえに交通量も非常に多い。夏場にメイエキやサカエ付近を歩く時は、地上ではなくあえて地下を選ばなければ熱中症で倒れてしまう。地下は迷いやすいというデメリットを背負ってでも、だ。

 さて、そんな猛暑日ということもあってか――サカエチカは老若男女問わず、大勢の人で賑わっていた。特に、待ち合わせや休憩目的でごった返しているクリスタル広場の端で、は自前のタンブラーで水分補給をしながら一息ついていた。

「(服、すごく買ってまった……)」

 肩から提げているショッパーの重みを感じながら、は買い物の余韻に浸かっていた。あれもいいなあ、これもいいなあ、二点以上で十パーセントオフ、三点以上でさらに十五パーセントオフ――セールの文字に釣られてしまい、ついつい財布の紐が緩んでしまった。そしてついにエコバッグだけでは足らなくなり、最終的にはすべての服を有料のショッパーに入れてもらうという結果になった。序盤からかなりアクセル全開で大金をはたいてしまったせいか、頭からアドレナリンが大量放出されているようで、の今の気分は雲の上にいるようにほわほわとしていた。
 この調子でショッピングを続けると体力が持たない――理性がそう叫んでいるのを聞いて、はふと我に返る。どうしよう……。とりあえず、荷物置きにおうち帰った方がいいかなぁ。ロッカーに入れとくとお金かかっちゃうし……。うぅん、と悩みながら、はスマホで時間を確認する。現在時刻は十三時。家を出たのが十一時頃だったので、かれこれ二時間はサカエチカをくるくる回っていたことになる。いつもはめったに履かない、少しだけヒールのあるサンダルを履いているせいか、足にかかる疲労感もいつにも増して凄まじかった。
 おなかもすいたなぁ。今の時間、どこのお店も混んどるし、入れるところもないよね。やっぱりお昼休憩ついでに、おうち帰ったほうがいいかも――そう思ったが、くるりと方向転換しようとした時だった。

「おい」
「わぁッ!?」

 ちょうど後ろを向いた先にいた人物を見て、は体を震わせて驚く。そして、の声に驚いたらしい声の主も目を見開いていた。

「く、空却くん……っ?」
「……なんだよ。亡霊でも見たような顔しやがって」

 の反応が気に入らなかったのか、すぐさまむすっとした顔をした空却。「ご、ごめんね……。びっくりしちゃって……」とは小さな声で謝るが、ふん、と鼻を鳴らして彼はそっぽを向いてしまった。
 く、空却くんだぁ……。何日ぶりかに会うことができた空却を、はじっと見つめる。今日は作務衣ではなく、柄物のノースリーブパーカーとゆるっとしたサルエルパンツを身に着けている。手首についているのは、二重三重にもなっているパワーストーンブレスレット。そして、彼にしては珍しく黒色のキャップを被っている。
 いつもとは違う装いに、の胸もいつも以上に高鳴る。そ、そうだよね。もう夏だもんね、スカジャンも暑いよね……。は無防備に晒された空却の腕から目を逸らしながら、なんとか場を持たせようと口を開いた。

「こっ、こんなところで奇遇だね……っ」
「……おー」
「えっと、その……。空却くん、なにか用事あった……?」
「あ?」
「え?」

 話しかけたということは用事があったのだろう。でなければわざわざこんな地下街で声などかけないはずだ。
 いまいちの言葉の意味を分かっていないらしい空却は首を傾げ、そんな彼を見て、もまた首をこてんと横に倒した。

「……特にねえ」
「そうなの……?」

 あれ? じゃあ、どうして声かけてくれたんだろう。が不思議そうな眼差しで空却をじっと見上げていると、みるみるうちに破顔していった空却がわっと口を開いた。

「用なかったら声かけちゃ悪ィんかッ!」
「えっ!? ううんっ。わるくないっ。ぜんぜん悪くないよっ」

 空却の勢いに押されて、慌てて否定する。首をぶんぶんと横に振ると、再び空却はふんっ、とそっぽを向いてしまった。先ほどまで白かった空却の首が、少しだけ赤くなっている気がした。
 雑踏の声はの耳から遠ざかっていき、二人の空間はしん、と静まり返る。履いている靴に高さがあるせいか、いつもよりも空却の顔が近いように感じる。場を持たせたいという気持ちはあるものの、上手く言葉が出てこない。ど、どうしよう。何か話さんと――

「くっ、空却くん、最近お寺はどうっ?」
「はあ? どうってなんだ」
「お盆も近くなってきたから、忙しいんかなぁって」

 空却と会うのは久々――というのも、盆前ゆえに空却が迎えに来れなくなったのだ。夏と年末年始が繁忙期である寺では、毎年恒例のことだった。去年も、今の時期のは一人で帰路を辿っていた。家に帰った後は必ず一言連絡しろという空却の言いつけを守って。
 「この時期は、毎年大変だよね」がそう言うと、宙を仰いだ空却は「……まあ、ぼちぼちな」とだけ言う。すると突如、ヴーッ、というバイブレーションらしきが音が鳴った。のではない……となると、空却のスマホだが、当の本人はバイブ音を無視している。

「空却くん」
「なんだ」
「今鳴っとるのって、空却くんの――」
「そうだな」
「出んくていいの……?」
「どうせ親父だ。用事なんざたかが知れてる」

 そんな会話をしているうちに、音が止んだ。「うちにいたら色々と雑事押し付けられるからな。盆前くらいゆっくりさせろっつの……」空却は溜息をついて、愚痴をぶつぶつと漏らしている。要するに、盆前の準備が嫌で、空厳寺からサカエまで逃げてきたらしい。
 寺の繁忙期は、毎年猫の手も借りたいほどの忙しさと聞く。灼空にとっては堪忍袋の緒が切れる案件だと思うが、は素直に嬉しかった。

「(空却くんと、会えた……)」

 それも、衣替えをした彼と。こんな偶然はめったにない。少なくとも、九月に入るまでは会えないと思っていたので、は全身から嬉しさが滲みでないようにぎゅっと耐えた。
 ……まあ、それはそれとして。これ以上ここに留まっていても意味はない。とても名残惜しいが、変なことを言って気まずくなる前に、空却の前から立ち去ろうと思った。「じゃ、じゃあ……。わたし、もう行くね。またね」とが空却に背中を向けた時だった。
 足を一歩踏み出した瞬間、ヒール部分が上手いこと地面に着かず、体のバランスが崩れる。持っている荷物も相まって、上手くバランスを取れずに、前のめりになったの体が地面に向かって倒れていった。
 あ、だめ、ぶつかる――は反射的に地面に手を伸ばして受け身を取ろうとした……その時。

「ッ、っぶね……」

 ……視界が回ったのは、一瞬だけ。悲鳴を上げるよりも先に支えられた体。すぐ耳元から聞こえてきた声と腹部に回った腕……そして、背後から香ってきた大好きな匂いに、は全身から熱が噴き出した。







 なぜこんなことに。
 サカエチカにある雑貨屋にて。は目の前の棚に並んでいる雑貨ではなく、隣にいる大きな存在ばかり意識していた。

「く、空却くん、好きなの見とっていいよ……?」
「ねえ」

 そうだよね……。ここのお店、空却くんの趣味とちがうもんね……。「そっ、そっかぁ」とは愛想笑いをしながら、適当な雑貨を手に取る。手持ち無沙汰だと全身が落ち着かなくて敵わなかった。

 「お前、そんな大荷物持ちながら地下歩く気か」――すべては、空却のその一言から始まった。「ちょっとバランスくずしちゃっただけだよっ」危うく転倒しそうになったがいくらそう言っても、空却からの不信な眼差しを終わらせることは出来なかった。そして、一度荷物を置きに家に帰ると言えば、「時間の無駄だろ」と一蹴されてしまう始末。その結果――

 ――「今日一日、お前の荷物持ちになってやる」

 そして、今に至る。
 空却によってトートバッグ以外の荷物はすべてとられ――否、持ってくれている。最初は丁重に断り続けていただったが、空却から「くどい」と言われてしまって、ついに黙りこくってしまった。
 決して少なくはない荷物を持たせてしまって申し訳ない反面、空却と一緒にいられることに対して、は嬉しく思っていた。早く買い物を終わらせて空却を解放しなければ、という思いもあるが、少しでもこの時間が長く続けばいいとも――
 ……いかんいかん。そんなこと思っちゃかん。はぶんぶんと首を横に振る。あの梅雨の一件以来、いつも以上に自分の欲が溢れて仕方がない。久しぶりに空却と会うことができて、気分が浮ついているせいもあるのかもしれなかった。

「……おい」
「っ、えッ。な、なあに?」
「それ、買うんか」

 それ、と向けられたのは、が今持っているマトリョーシカの置物。我に返ったは再び首を横に振って、マトリョーシカを静かに棚に戻した。

「(どうしよう……。買いたいもの忘れてまった……)」

 店内を歩きながら、後ろから付いてくる空却の圧をひしひしと感じる。頭に占める空却の存在が大きすぎて、正直買い物どころではない。
 こんなことなら、買うものもアプリにメモをしておけばよかったなぁ……。が今更な後悔していると、店内のとある一角で足がぴたりと止まった。

「(すずし~い……)」

 商品サンプルとして、いくつかの小型扇風機が小さなファンをくるくると回しており、緩やかな風を起こしている。ディスプレイに飾られているパステルカラーが目立つそれらをはじっと見つめた。

「なんだそれ」
「小さい扇風機だよ」

 空却に尋ねられて、は簡潔に答える。名の通り、簡単に持ち運びができる小型扇風機――大体の店ではハンディファンという商品名で売られているが、の言葉だけで理解したらしい空却は、「そういや、十四もこんなん持っとったな」と言った。
 ハンディファン。本日、が買いたいものの一つでもある。まさかこんなところで出会えるとは。はサンプルとして置かれているハンディファンを一つ手に取ってみる。見た目のわりにとても軽く、万人受けするデザインはシンプルで男女問わず使えるもののように見える。USB充電で動いてくれるというのもポイントが高かった。

「わあ~っ……」

 自分の顔にファンを向けてみると、前髪と横髪がふわっと持ち上がる。地下に潜ってから大分時間は経っているものの、首元はまだ汗ばんでいる。空いている手で後ろ髪を少し上げると、項まで風が通ってとても心地が良かった。
 髪もだんだん伸びてきたなあ、そろそろ切らんと――がそう思っていると、なにやら上から視線を感じた。

「空却くん……?」

 が隣を見上げると、空却が金色の瞳を小さくさせて、こちらをじっと見下げていた。もしかして、空却くんも風ほしいんかなぁ、と思っていると、突然彼がはっとした表情を見せた。

「拙僧はなんも見てねえ」

 空却はそう言って、つん、と明後日の方向を向いてしまった。今日、空却くんから目ぇそらされちゃうの多いなぁ……。日頃の空却に対する自分の行動を見直すと人のことは言えないのだが、それはひとまず置いておくとする。髪を下ろしたは、手元のハンディファンをじっと見つめた。

 ……空却くん。こっち、向いてくれんかなぁ。

 自分でも、何を思ってしまったのか分からない。は、風を起こしているファンを空却の方にゆっくりと向けてみた。空却の髪がふわっと揺れると、彼は再びこちらに顔を向けてくれた。やはり、空却も暑かったのか、風を受けた途端に力が抜けたように目が伏せられて、彼の表情からふっと力が抜けていく。稀に見ない珍しい表情に、は思わず見とれてしまいそうになる。
 浮き出た鎖骨、首筋に伝っている一筋の汗、キャップのつばの影から覗く瞳、薄く開けられた唇――同い年とは思えない色香を目の当たりにして、の頭はオーバーヒートをした機械のようにくらくらとしてしまった。

「……で、それ買うんか」
「えっ? ……あっ、う、うんっ。買うっ」

 空却の言葉によって現実に戻ってきたは慌てて返答する。サンプルをディスプレイに戻しながら、ふう、とゆっくり息を吐く。だめだめ、ちゃんとお買い物しんと……っ。は邪な心を持った自分自身に喝を入れた。
 さて、ショッピングの頭に切り替えたは、ずらりと並ぶハンディファンをじっと吟味する。色はどうしようかなあ、かわいい色たくさんあるから迷っちゃうなあ――そんなことを思いながら、がディスプレイをじっと見つめていると、横からブラックのハンディファンが一つかっ攫われた。隣を見ると、ちょうど空却とぱちんと目が合う。

「拙僧も買う。盆回りの時の伴だな」

 そう言ってあどけなく笑った空却にどきっとする。加えて、自分の好きな人が自分が気になっていたものを気に入ってくれると、とても嬉しいものだ。は照れてしまいそうになった顔を伏せながら、「そ、そうだねっ。お盆は暑いもんねっ」と当たり障りのない言葉を返した。
 わあ……。わたし、空却くんとお買いものしとる……。なんだか夢みたい……。改めて、現実をじんわりと飲み込んでいくと、いつのまにか空却がレジの前に立っているのが見えて、はびくッと体を跳ねさせた。
 こんなことしとる場合じゃなかったっ。だめだめ、わたしも早よ選ばんとっ。このままでは空却を待たせてしまう未来が見えて、は再度ハンディファン選びに集中した。

 ……迷って数分。カラーをグレージュかアイボリーの二択に絞るまでには至ったが、未だうんうんと考えている。早よしんと空却くんのお会計終わっちゃう、などと思っていると、背後に見知った気配ができた。

「おらよ」
「え?」

 声がした方をくるりと振り返ると、空却が小さな袋をこちらに向かって突き出していた。思わず受け取って空却と袋を交互に見やる。見ろ、と言わんばかりに顎を前に出した空却の指示通り、は袋の中身を見てみる。それは、先ほど買おうか迷っていたアイボリーカラーのハンディファンだった。

「え……っ、えぇっ!?」
「もう見ねーなら行くぞ」
「あッ……待って空却くんっ」

 未だに状況を呑み込めていない。すでに店の外に出てしまった空却の背中を慌てて追ったせいで、頭はさらにこんがらがってしまった。







「だからいらねえって言ってんだろ」
「そんなぁ……っ」

 何度も差し出しているお金は受け取られることなく、空却に完全スルーされてしまっている。しかし、虚しい気持ちでいっぱいになりながらも、はいっこうに引けないでいた。

「つか、飯食ってる時に金の話すんな。お前も早よ食え。麺伸びるだろーが」
「あ……。ご、ごめんなさい……」

 前言撤回。空却に強く言われてしまってはその限りではない。はお金とともにおずおずと引き下がる。出したお金はいったん財布に戻して、目の前に置かれた冷うどんに向かって、「いただきます……」と手を合わせたのだった。

 ――場所は変わって、ここはサカエチカにある定食屋。昼時ということもあってかどこも混んでおり、ようやく入ることができたこの店もカウンター席しか空いておらず、は空却と横に並んで食べることになった。正面だと緊張して食べられなかったかもしれないので、こればかりはよかったように思う。
 はうどんの上に乗った天ぷらをさくさくと食べながら、ロースかつ定食を食している空却に向かって口を開いた。

「空却くん、どうしてわたしが買おうとしとった色分かったの……?」
「そんなような色、よく持っとるだろ」
「そ、そうかなぁ」

 しかし、あのまま迷っていても短時間では決められなかったかもしれないので、よかったといえばそうだ。よく持っている、などと空却はなんともないように言うが、普段から私物など見られているのだと意識してしまって、の中でまた熱が上がってしまう。
 それにしても――ちゅるん、とうどんを食みながら、はぼんやりと考えごとをする。

「(空却くんは、サカエチカになんの用事だったんだろう……?)」

 空厳寺から逃げてくるのであれば、人の多いサカエまでわざわざ来なくともよかったはずだ。もしかして、ここまで来たのも何か理由があってのことかもしれない。買い物か、人と会うのか、それとも本当にただ遊びに来たのか――空却の考えていることは昔も今も計り知れないことばかりだ。
 空却くんに、あとで聞いてみようかなぁ。はそう思いながら、うどんをせっせと食べていくことに集中した。

「……で、この後どうすんだ」

 早くも定食を平らげた空却にそう尋ねられたので、はうどんから顔を上げた。

「三越に行ったあと、オオスで天むすをお持ち帰りするよ」
「三越ぃ? んなとこで何すんだ」
「リップが欲しくて……」
「リップって……拙僧が前やったやつか」

 「うん、そうだよ」そう言って、は頷いた。デパートコスメのセレクトショップやオンラインショップでも買えるようだが、これから長らくお世話になるかもしれないので、自分の足で公式のショップに行きたいと思っていた。調べたところによると、高島屋と三越にあるようだったので、は近場の三越を選んだ。
 デパートは大人が入るところ、というイメージがあり、今まで足を踏み入れたことがなかった。しかし、今日から名ばかりではあるが自分も大人へ成長するのだ。心も少しずつ大人の道に進んでいってもいいかもと思った。

「……同じもんも芸がねえか」
「え?」

 「なんでもねーよ」何かを呟いた空却は素っ気なく返す。そして、「買うもん、他になんかねえの」と続けて言った。
 他に買うもの……服も買えたし、ハンディファンも買えたし、リップと天むすもこれから買うし、あとは――はうんうんと考える。食料品で買うものあったかなぁ。冷蔵庫の中身を思い出しながら悶々としているが、いざそう聞かれるとなかなか思いつかないものだ。「……あっ」

「おうちのお茶っ葉、切らしとったかもしれんっ」
「茶葉ぁ? 拙僧が聞いとんのはそういうやつじゃ――」

 何か言おうとして言葉を止めた空却は「ふぅん……。茶葉ねェ……」と何か考え始めた。空却くん、どうしたんだろう……? それはそれとして、は買うものリストの中に普段使っている茶葉をつけ加えておいた。


 ――さて、会計時になり、はそこでも空却と揉めた。

「わたしが払うよっ」
「拙僧がもつ」

 伝票を持ってレジに行こうとした空却をすかさず止めてから、かれこれ何分か経っている。自分の買い物に付き合わせている挙句に荷物を持ってもらっているのだから、これくらいはさせてほしいというのがの言い分。何かを言う隙すら与えてくれない空却だが、は負けじと食い下がっていた。

「空却くん……っ」
「駄目だ」

 空却の声から堅い意思が窺えて、は言葉を詰まらせる。日頃からお世話になっているのにも関わらず、これでは空却に何もかもしてもらってばかりになってしまう。も人の子だ。心が痛んで仕方がない。
 空却に対して何も施せない心苦しさがあり、は肩を落とす。手に持った財布を見つめながらはもごもごと口を動かした。

「わたし、空却くんとは同じふう……じゃなくて、同じところ、でもなくて……えぇっと……」
「……お前それ、対等って言いてえの」
「うん……うんっ。そうっ。対等っ」

 うんうんと頻りに頷くと、空却は面倒くさそうに溜息をついた。

「……なら、端数だけお前が出せ。それ以上は譲歩しねえ」
「は、端数だけ……っ?」
「あと再三言うが、扇風機の金もいらねえ」
「えッ」
「文句あんなら拙僧が全額払うが?」

 そう言われてぎろっと睨まれてしまったら、口を閉ざすしかなくなる。ついに、はおずおずと引き下がって、「ごちそうさまです……」と呟いた。
 「最初からそう言っとけっつの……」空却にぶっきらぼうに言われながら、はレシートを見ながら端数の金額を確認する。

「これからも飯食う時そうすっからな。会計のたびにいちいち揉めんのめんどくせえし」
「う、うん」

 は端数分の小銭を空却に渡してから、あれ? とすぐさま首を傾げる。

「空却くん、」
「なんだよ」
「今、これからも、って……」
「だから会計のたびにこんなことしとったら面倒――」
「ご飯、また一緒に食べてくれるの……?」

 胸の内から沸き起こる興奮を抑えきれなくなって、空却の言葉が終わらないうちに尋ねてしまう。さて、しばらく目を丸くして沈黙していた空却だったが、突如顔をぶわッ! と赤くさせた。

「例えばの話だっつのッ! つかいちいちんなこと聞くなッ!!」
「ごっ、ごめんなさいッ」

 咄嗟に謝ったに向かって、ふんッ、と鼻を鳴らす空却。そのまま足早にレジへ行ってしまい、その場にはだけが取り残された。
 そして、の中では、先ほどの空却の言葉が波紋のように全身に広がっていく。これからも……。空却くん、これからもって、言ってくれた……。たとえばの話って言っとったけど、ちょっと……ほんのちょっとだけ、どきどきしとってもいいかなぁ……。膨れ上がるばかりの乙女心をきゅっと締めたは、トートバッグを肩から提げて、空却がいるレジへと駆けていった。







 地下直通の道を通って、は三越のコスメティックエリアまで辿り着く。広いフロアには煌びやかなコスメカウンターが並んでおり、生まれて初めて見る世界には目を輝かせていた。

「(わああぁぁ~っ)」

 至るところがきらきらとしていてとても眩しい。あとすごく良い匂いがする。右と左を見回せば、一度は目や耳にしたことがあるコスメブランドのロゴが飾られている。店頭に並んでいるコスメのテスターも、まるで宝石のように独特な輝きを放っていた。
 すごいっ。きれいっ。かわいいっ。今だけは傍にいる空却の存在も薄れて、は終始大興奮だった。
 さて、案内板を見ながら、は目当てのブランドのカウンターを探す。空却を連れてフロアを歩いていると、西洋菊と猫のモチーフが目の前に飛び込んできて、はぱあっと目を見開いた。

「空却くんっ、ここで待っとってくれるっ?」
「おー」

 そう返事をした空却は、近くの壁にもたれかかった。相変わらず荷物は彼が持ってくれており、空却にかなり頼りっぱなしだ。
 せめて、空却を待たせる時間だけは短くしたい。リップ、早よ買わんと……! 幸い、買うものは決まっているのでお金を払えばすぐに済む。は若干の緊張を孕みながら、コスメカウンターの前まで足を伸ばす。リップのテスターは通路側のカウンターに分かりやすいように置かれており、色とりどりに並んでいるリップを見て、はさらに目を輝かせた。
 いいなあ、かわいいなあ。あっ、このリップ、先っぽが猫ちゃんになっとるっ。思わず他のものに目移りしそうになるところで、ははたとする。だめだめ、今日はリップ一本買って終わりにしんと。えぇっと、番号は――アプリにメモをした品番を確認して、はカウンターのリップの番号を目で辿っていく。おしゃれな商品名と該当の番号を見つけたと同時に、はう、と喉を詰まらせた。

「(在庫切れ……っ?)」

 “SOLD OUT”という小さな札が品番と共に目に飛び込んできて、はフリーズする。ショックだ。てっきり今日買えるものだと思っていたので余計にショックだった。
 思わぬ誤算に目の前が真っ暗になるは、その場で石のように固まってしまった。そう、だよね……。売り切れっていう時もあるよね……。どれだけそうしていたか分からないが、ようやく現実を受け入れたは、空却の元にとぼとぼと帰っていった。

 フロアの隅に戻ると、スマホをいじっていた空却が顔を上げる。彼はスマホをパンツのポケットに仕舞い、壁から背を離した。

「やけに早かったな」
「うん……」
「もういいんか」
「うん……」

 数分前まで羽のように軽かった気分はどこへやら。せっかく空却が尋ねてくれていると分かっていても、すっかり意気消沈してしまったは生返事しかできなかった。

「欲しいもんなかったんか」
「うん……」
「取り寄せとかできねーの」
「きいとらん……」
「あれ、阿呆みてーに色数あったろ。全部ねーのか」
「ううん……」

 が中身のない返事ばかりしていると、深い溜息が落ちてきた。びく、と体を揺らして顔を上げると、意外にも柔らかい眼差しでこちらを見下ろしている空却がいた。

「んな落ち込むくれえなら、代わりのもん適当に選びゃあいいだろ。似たような色ばっかなんだからよ」

 空却はご最もなことを言っている。正論だ。微妙に色合いは違うが、赤と言えば赤だし、オレンジといえばオレンジ。唇に塗っても、ほんの少しだけ印象が変わるだけだ。
 しかし、が気にしているのはそういうことではない。色だとか印象だとか……そういうことは一切関係ないのだ。

「空却くんが、選んでくれた色だから……」

 口から無意識に漏れだした声に、ははっとする。今から口を閉じても遅い。空却の反応を窺うのが怖くて、は再び俯いてしまった。ど、どうしよう……っ。また変なこと言っちゃったぁ……っ。
 ――はあぁぁぁ、と。今度は長い溜息が落ちてくる。「ぁ゙ー……。っとに……」という独り言まで。さらに焦ったがとにかく何か言わなければ、と思っていると、俯いていた視界の中で、空却のつま足が動いた。

「来い」
「え……っ?」

 空却にそう言われ、戸惑いながらもは重たい足を動かす。再びコスメカウンターの前へ行き、リップのテスターの近くまで来ると、空却はテスターを流し見て、数あるリップの内一つを手に取った。

「手ェ出せ」
「手?」

 言われるがまま、は空却の前に手を差し出すと、空却によってその手をぐっと引っ張られた。
 ばくんッ、と心臓が飛び跳ねる。親指以外の四本の指を包むように空却の手に取られてしまい、顔の熱が急上昇したはまたしてもさっと俯いてしまった。
 く、くうこうくんの、て……っ。彼の手に触れるのはハンドマッサージをした時以来だ。やっぱり、大きい……。すっかり硬直して動かなくなってしまった指先でも、空却の手の温かさはきちんと伝わる。そして、堅い皮膚とごつごつとした骨の感触……すっかり男性のものになった空却の手の感覚に、目の前にもやがかかるようにぼおっとしてきた。

「これ」
「っ、え……?」
「だからこれだって言ってんだ。さっさと店員呼んでこい」

 ん、と差し出されたのは一本のリップ。我に返ったは自分の手の甲を見てみる。すると、そこには何種類かのリップで何本か線が引かれている後だった。正直、全然気がつかなかった。
 え……。えっ? は目の前に突き出されたリップと空却を交互に見やると、空却がすっと目を細めた。

「……拙僧が選びゃあいいんだろ」

 ――瞬間、全身からぶわっと熱が溢れた。
 「う、うん……。うん……っ」震える声で頷きながら、はこわごわとリップを受け取る。色味を見ようと、自分の手の甲にちょん、と付けてみると、それは柔らかいコーラルレッドだった。前のものはオールシーズン使えるものだったが、今回はとても夏らしい色だ。
 かわいい赤色……。どうしよう、すごくうれしい……。がうっとりとした目で自分の手の甲をじっと見つめていたせいで、別の影が迫ってきていることに気づかなかった。

「――よろしければ、こちらのコットンをお使いください」

 ぴゃッ、と体を跳ねさせたは声がした方に体を向ける。すると、カウンターの奥からやってきたらしい店員がそこに立っていた。美人な女性と対面したは空却の時とは別の意味でどきっとしてしまう。
 「あっ、ありがとうございますっ」訳も分からず受け取ってしまった小さなコットン。それを持ちながらぼーっと立っていると、「手の甲拭けってことじゃねーの」と隣の空却に言われた。あ、そっか……っ! 言われたままに、は手の甲を拭う。かなり濃く付いていたリップだったが、ひと拭きで綺麗に消えてしまった。あれ? このコットン、なんだか湿っとる……? あっ、もしかしてクレンジング……? 使って初めて、コットンにクレンジングが含まれていることを知った。続けて、使い終わったコットンは店員が引き取ってくれて、はさらに驚いた。
 すごーい……。クレンジング、お店の人が用意してくれるんだぁ……。が感動していると、「リップをお求めですか?」と続けて尋ねられた。はこくこくと頷いて、「こっ、このリップを、ください」と言うと、店員はうっすらチークの入った綺麗な頬を上げて、にっこりと笑った。

「かしこまりました。タッチアップはよろしいですか?」
「たっちあっぷ……?」

 は首を傾げる。思わず空却を見上げると、「拙僧も知らんわ」と言われてしまう。すると、「実際に唇に付けることができるんですよ」と店員が付け足してくれた。
 すごいっ。ここでお試しできるんだあ! 子供っぽく喜んでしまいそうになる衝動をなんとか抑えて、「そ、そうなんですねぇ」と、は当たり障りのない反応をする。試せるのならぜひ試したいが、きっと時間がかかるだろう。隣にいる空却の存在を感じながら、はじっと考える。
 ……うん。これ以上、空却くん待たせちゃかんよね。「だいじょうぶです」とが丁重に断ると、「やんねーのか」と隣の空却が言った。

「う、うん。大丈夫だよ」
「それ、拙僧を待たせるからだとかしょーもねえ理由じゃねえよな」

 「あ……っ」小さく声を上げたのを最後に、はすん、と黙ってしまう。加えて、ちッ、という舌打ちが降ってきて、さらに体を縮こませた。

「なあねーちゃん。それってけっこー時間かかんのか」
「お試しするのはリップ一本でよろしいですか?」
「ん」
「では、十分ほどお時間頂きます」
「えぇっ。十分も……っ」
「なんだ。たかが十分か」

 見事に声がハモってしまう。しかし、正反対の反応を受けて、店員は苦笑を浮かべている。すると、不服そうな空却がじろっとこちらを見下ろした。

「十分くれえなんだ。この後寄るとこも決まっとんだろ」
「わっ、わたしの用事はいつでもよくて……っ。空却くんのこと待たせちゃうし、空却くんのお買いものとかっ――」
「あーごちゃごちゃうるせえな。本人がいいって言っとんだからいいんだよ」

 「っつーことだから頼むわ」背中をとんっと軽く押されてしまい、は店員の前に出てしまう。突然店員と近距離になってしまい、その女性も一度驚いた顔をするが、すぐににこやかな笑みを浮かべた。
 き、綺麗な人だぁ……。ここ、一人じゃぜったいに来れん……。目の前で星がちかちかと瞬いているような錯覚を見せられて、は口をぽかんと開けたまま静止していた。







 その後、店員によってあれよあれよとカウンターに案内され、は女優が使うような大きな鏡の前に座らされた。隣にいる店員が手元のツールを準備しているのを横目に、は目をぱちくりとさせていた。
 あれ……? リップ、塗ってもらうだけだよね……? 首にケープかけるの……? ブラシも使うの……っ? 初めてゆえに理解できないことばかりで頭がぐるぐると回っている間に、店員によって今塗っているリップを落とされ、リップ下地を塗られ、空却に選んでもらったリップを丁寧に付けてもらう。自分が塗るよりも唇の形がとても綺麗に見えて、タッチアップを終えたは鏡の前でわあっと感動した。
 ちなみに、その頃に店の外に出ていた空却が隣にやってきて、の顔を少しだけ見た時には、「……いんじゃね」というあっさりとしたリアクションだった。それでも嬉しいものだ。自身もリップの色味をとても気に入り、その場でお会計を済ませた。


「(すごいなあっ。デパコスすごいなあっ)」

 リップを無事購入することができ、三越から出たはまたしても頭がほわほわとしていた。これが大人の買い物……未だにコスメカウンターの余韻から頭が離れず、はとても有頂天だった。

「……満足か」
「うんっ」

 空却の問いにも、は嬉々として頷く。それだけでは足りず、は今さっき買ったリップが入っている小さなショッパーを空却に見せた。まるで、初めて書いた落書きを親に見せる子どものように。

「あのね空却くん、すごいんだよ。この可愛い紙袋、無料でもらえてね、化粧品とスキンケアのサンプルももらってね、あとショップカードも作ってもらって、アプリもインストールしたんだけど、ダウンロードできる壁紙もすごくかわい――」

 は、とは口を開けたまま止まる。興奮のままに言葉を紡いでしまった。空却が訝しげな表情で見つめる中、一気にテンションのゲージが下がったは小さな声でぼそぼそと言った。

「り、リップ、選んでくれてありがとう……」
「……おう」

 何か言いたそうにしていた空却だったが、それ以外に何も言わずに、前を向いてすたすたと歩いている。は途端に、先ほどまでぺらぺらと喋っていた自分を穴の中に入れたくなった。

「(しっかりしんと……!)」

 心の中でぱちん、と両頬を叩いた。感想会は家に帰ったら一人ですればいい。今はただ、大人しく……大人しく。は心の中で自分自身にそう言い聞かせながら、次の目的地へと向かった。


 日差しは弱まり、気温も昼よりもだんだんと落ち着いてきた。は空却とともにサカエから歩いて、オオスまで戻ってきた。あとは天むすをお持ち帰りするだけだが、馴染みの店に行く途中で、なにやら行列ができている店舗の前を通った。
 なんだろう? ここ、なにかお店あったっけ? の記憶を辿っても、特段何か有名なものはなかったように思う。足を止めずにちら、と覗いてみると、人と人の間から見えた店内の様子が窺えて、はすぐさま目を輝かせた。

「(フルーツ大福……!)」

 そこで、は思わず立ち止まる。店の正面に飾ってある店名を見て、さらに目を見開いた。たしかここは、フルーツ大福で有名な店だ。本店はカクオウザンはあると聞いていたが、まさかオオスに新店舗を構えていたとは知らなかった。
 コスメカウンターの時と同じような好奇心旺盛な眼差しでフルーツ大福の店をじいっと見つめていると、ぬるりと動いた人の列によって隠れてしまい、店の中が見れなくなってしまった。

「(いいなぁ……。食べたいなぁ……)」

 それでもなお、の興味はフルーツ大福一点のみだった。店の出入り口から伸びている列を見てみると、それはなんと何メートルか先までずらりと並んでいた。一世を風靡したタピオカ屋と大差ないほどだ。
 今、ここに一人だったら確実に並んでいたが、今は連れである空却がいる。空却くん、ただ並んどるだけじゃつまらないだろうなぁ……。ちら、と空却を見上げると、ちょうどこちらを見下ろしていたらしい彼と目が合ってしまい、の心臓がどきりと跳ねた。

「……お前、この店知っとんのか」
「う、うん。フルーツ大福屋さんだよ」

 「フルーツ大福ぅ?」空却が眉を顰めてに言ったので、は両手で大福に見立てるような円形を作った。

「大福の中にね、フルーツが入っとるの。カクオウザンに本店があって、テイクアウトだけで毎日行列ができとるんだって」
「ふーん。それ、美味えの」
「わたしはまだ食べたことなくて……」

 が説明をすると、空却の目線は店の方に注がれた。空却くん、もしかしてフルーツ大福に興味あるのかな……? しばらく空却を見つめていただったが、締めていた蛇口を開けるようにして、ゆっくりと口を開いた。

「……フルーツだけじゃなくてね、白あんもちょこっと入っとるんだよ」
「果物と白餡って合うんか」
「美味しい黄金比……? みたいなの、考えて作られとるんだって。白あんも甘さ控えめみたいでね、フルーツもすごく美味しいみたいだよ」
「へえ。よく知っとんな」
「うんっ。このあいだテレビでやっとってね、そのときのリポーターさんはいちご大福食べとったんだけど、そのいちごがほんとうに大きくてすごくおいしそ――」

 一人で盛り上がりそうになったところで、再びは自分自身にブレーキをかける。危ない。今日の自分は本当におかしい。舞い上がっているにも程がある。
 「た、立ち止まっちゃってごめんね……。行こっか」が愛想笑いをして歩き出そうとすると、「おい」とやや大きめの声で空却に呼び止められた。

「ここの大福。食いたくねーの」

 親指で店を指しながら空却は言う。嘘がつけないは唇を結んでしまったが、すぐに「い、いまは、いいかなぁ……」と言いながら、目を逸らした。
 食べたい……。でも、空却くんを待たせてまで食べたいわけじゃない……。口ではああ言ったものの、視線だけはちら、ちら、と店の方に引き寄せられてしまっていた。

「――あーあー。なんか甘味食いてーなァー」

 突然。独り言にしては大きすぎる空却の声が届いて、の目が点になる。

「か、かんみ……?」
「甘いもん」

 目をぱちくりとしただったが、はっと我に返って、すぐに周りをきょろきょろと見渡した。

「お団子屋さん行くっ? 甘栗屋さんならお向かいにあるし、羊かん屋さんもこの近くに――」
「いや。今は大福の気分」
「えっ」
「っつーことだから並ぶぞ」

 そう言って、空却は最後尾に向かってずんずんと進んでいく。何か言う暇もなかったは、彼の後ろをただただついていくことだけしかできなかった。
 空却くん、やっぱりフルーツ大福に興味あったんだぁ……。でもここ、テイクアウトしかできんけどいいんかなぁ。大福、今食べたいんじゃないんかなぁ。空却の後に続きながら、はそんな心配をする。今この場で改めて伝えた方がよかったのかもしれないが、空却の気が変わってしまうことが少し怖くて、はじっと黙ってしまった。
 空却くんと大福が買えてうれしいな――心の中で無邪気にはしゃいでいる自分を宥めながら。

 長蛇の列も永遠ではない。客は、お金を渡して商品を受け取れば店から出ていくので、少しずつではあるが列は着実に短くなっていく。時間はかかるし、長時間外で待っているにもまだ暑い時間帯が、少しでも空却と長く一緒にいられると思うだけで、にとっては贅沢なひと時だった。
 そんな中で、は嬉々として待つ。並んでいる途中にあった看板には、季節の国産果物を使用した贅沢な一品――という旨の宣伝が書かれており、の期待値は上がるばかりだった。

「季節のフルーツって、今はなにがあるんだろうねえ」
「調べりゃあ出てくるだろ」

 あっ、そっかぁ。空却に言われたはさっそく、スマホで店の公式サイトを開く。すると、おしゃれなWebサイトがじわじわと出てきて、その中の取扱商品のページをタップした。

「あったか」
「うん。今はね、いちごと、メロンと、マンゴーと……。えっ、シャインマスカットもあるんだあ。あとみかん……わあっ、空却くんみてみてっ。みかんも大福の中に丸々入っと――」

 る、の音を形どろうとした口はみるみるうちに閉じていく。ま、またやってまったぁ……。はバツ悪そうな表情をしながら、小さな声でぽそりと言った。

「ご、ごめんね……。今日のわたし、すごくうるさいね……」
「別に煩かねーよ」

 溜息混じりの声が落ちてくる。その声色が一段と柔らかかったものだから、は空却を見上げる。そして彼もまた穏やかな眼差しでこちらを見下げていた。

「……全部聞いてっから。好きに話せ」

 ――変な声が出そうになって、は息ごと言葉を飲み込んだ。みるみるうちに、顔が赤くなっていくのが分かる。髪の毛の生え際から汗が滲んでくる感覚もして、は肩を窄めながらぎゅっと俯いた。
 「み、みかん……。まるまる、入っとる……」「それさっき聞いたが」顔から湯気が出ている今のでは、それを言うだけで精一杯だった。


 ようやく店の前に着き、ガラス張りの窓から店の中の様子をじっくり見ることができた。そこはとても小さな店舗で、店内に入れるのは一組だけらしい。レジカウンターの前に商品サンプルが置かれており、並べられている大福の種類はが公式サイトで見たものそのままだった。
 前の客が出ていき、ついには空却と共に店の中に入る。冷房の効いた店内にほう、と息をつきながら、「あまおうと温州みかんを一つずつください」と店員に注文をした。その後、隣の空却もそれに続き合計金額が出ると、空却がポケットから財布を取り出す。そして、をちらっと見るなり、「端数」とだけ言った。

「え?」
「昼にそういう話したろ」
「こっ、これお昼ご飯じゃな――」
「後ろつっかえてんだから早よしろ」

 包装が終えた店員が会計を待っている。言っても負ける気配しか見えなくて、は泣く泣く小銭を出す。十円って、払ったうちに入るんかなぁ……。横で二千円札を出している空却を見つめながら、の胸は複雑な気分でいっぱいだった。



 予定外の収穫もあり、はついにオオス商店街に踏み入れて、天むすの店に到着した。そのまま天むすを持ち帰ろうとしたが、「腹減った」という空却の一言で、その場でも天むすを食べることになった。四個入のものを買って、はその内の一つだけ食べることに決めた。夕食もまだ食べなくてはいけないので、お腹は十分空かせておきたい。
 外にあるベンチに二人並んで座り、空却との間に天むすを置く。オオス商店街の通りはおおよそ屋根がついているため、室外でもそれほど暑さは感じない。銀紙に包まれた天むすはまだ温かく、衣と海苔の香ばしい匂いがした。

「(なんだか、久しぶりだなぁ……)」

 すでに大きな口を開けて天むすを食べている空却をちらりと盗み見ながら、は両手で持った一つの天むすをちまちまと食べる。本当はもっと早く食べられるが、この方が、少しでも長い時間空却といられる気がした。
 ……ふと、の視界に、前方のベンチに座っている兄妹と思わしき小さな子ども二人が映る。時折、兄の方が妹の食べこぼしをちょいちょいと摘まんでは、自分の天むすにもばくっと齧りついている。そんな微笑ましい光景を見て思い出すのは、在りし頃の自分たちだった。

 ――「ん。うめえな」
 ――「ねー」

 ……今思えば、とても尊い時間だった。カヨが病院で寝たきりの生活になってから、空却が家に遊びに来てくれたり(曰く、サボりに来たとのことだったが、理由がなんであれは純粋に嬉しかった)、空却に誘われるがままが空厳寺に足を踏み入れていた頃もあった。
 空却になら、なんでも言えた。言えないことなどなかった。いつからか、言いたいことから言えることに分類されてしまい、その範囲もどんどん狭くなっていって、今となってはわざわざ言葉を選んでいるところもある。あえて、自分の意志を抑えつけていた。でなければ、自分はまた調子に乗ってしまうだろうから。

 ――「空却くん」
 ――「なんだよ」
 ――「また、いっしょに食べようね」

 ……しかし、今は。
 は食べかけの天むすをじっと見つめる。小さな空却を思い浮かべながら、は意を決して喉を絞った。

「くっ、くうこうくんっ」
「ふぁ?」

 口をもごもごと動かしながらこちらを見下げる空却。本日何度目か分からないくらいばくばくと動いている心臓を抑えながら、は口を開いた。

「また、いっしょに――ッ」

 パシャッ
 不意に聞こえた、何かの音。それがシャッター音だと気づいたのは、が視線をやった先にスマホのレンズがこちらに向かって掲げられていたからだった。お店を撮っているにしては店頭からずれており、シャッターミスかなぁ、などと思っていると、「マナーのなってねえクソ野郎が……」と隣にいた空却が苛立ち気味に声を発したので、はびくっと肩を揺らす。いつの間にか天むすはすべてなくなっていた。

「わゎっ?」
「しばらく被っとけ」

 いきなり空却がキャップを脱いで、の頭に被せてきた。深めに被せられたキャップのせいで前が見えない。「そっから動くなよ」という空却の声だけがして、キャップをずらした頃には、なぜかここから走って逃げていく男と、その男を猛ダッシュで追いかけていく空却の背中があった。
 ……ぽつんと、一人残された。どことなく空虚な気分になりながらも、気を取り直して、残りの天むすをもそもそと食べ進めた。

「(空却くん、すごいなぁ……。人気者だなぁ……)」

 おそらく、Bad Ass Templeのリーダーの肩書きを背負っている故だろう。時期が時期なので、先ほどの男も観光客か何かで、物珍しさに撮ったのかもしれない。
 それにしても……空却も空却でファンサービスは良い方である気がするが、あんな風に苛立ちを露わにするとは思っていなかった。もしかすると、今はそういう気分ではなかったのかもしれない。わたしがいたからかなぁ……。なんだか悪いことしちゃったなぁ……。
 悶々と考えている間に食べ終わってしまった天むす。手を合わせたは、中身がなくなってしまったタッパーをゴミ箱に捨てる。そして、空却に言われた通り、大人しくベンチに座って彼が戻ってくるのを待った。

「(……言えなかったなぁ)」

 ……いや、今思えば、言えなくてよかったのかもしれない。一体、なにを考えていたのだろう。もう、あの頃の自分たちとは違うというのに。特別仲が良いというよりも、様々な縁が巡りに巡って、互いの糸が故意的に絡まっているだけのような関係に過ぎないのに。これ以上、自分は彼に何を望むというのだろう。

「(……だめ)」

 どんな名前のものであれ、みるみるうちに溢れて止まらないこれは、表に出してはいけないものだ。こんなこと、思っちゃかん。わがままも、ほどほどにしんと。空却の頭のサイズに調節されたキャップはぶかぶかで、目の前はつばの裏側で覆われてしまう。キャップには、未だに空却の温もりが残っていて、はじわじわと高鳴っていく自分の鼓動を感じながら、じっと俯いた。

 ――「……おー。またな」

 記憶の中で生き続けている小さな空却の言葉を繰り返す。それだけで、はほんの少しだけ……笑うことができた。







 それから十分後、空却は何食わぬ顔で戻ってきた。
 何かあったのかとが尋ねると、「さっきの野郎とちょっと話してきただけだ」と指をパキパキと鳴らしながら空却は言った。やっぱりファンの人だったんかなぁ、と思っただけで、はそれ以上聞かなかった。必要以上に口を開けば、この口がまたどういう風に動き回るか分からないものだから。
 そして、長いようで短かった買い物も終わり、空却とは赤門付近で別れることになった。曰く、「用事がある」とのことだ。もちろん、お約束のように家に着いたら連絡しろ、とも言いつけられている。
 約半日も一緒にいたというのにまだ一緒にいたいと駄々をこねる自分を抑えてつけて、「うん。またね」とは空却に向かって笑顔で別れを告げた。



 ――家に到着する頃には、日が沈みかけていた。空却と別れた後、ほんの少しの寄り道をしていたは、約束通り、空却との個人チャットにて帰宅した旨を伝える。
 その後、本日買ったものを片付けて、夕食を終えた。そして、お風呂には今日のために奮発して買ったの高級入浴剤を入れて、湯船に二時間浸かった。少し逆上せてしまったが、猛暑の中歩き続けていた疲れもどこかへ飛んで行き、上品なアロマの香りにも心が癒された。

 ――そしてこの後が、にとって本日のメインイベントだった。

「(お酒だあ……っ)」

 缶ジュースよりもやや大きい缶を両手で持ち、三百六十度くるくると回す。ラベルには“お酒”と大きく書かれており、はわぁっ、と小さく歓声を上げた。
 空却と別れた後、寄り道先であるドラッグストアで買った缶のお酒――年齢確認の時にすぐ出せるように身分証明証を片手にレジに並んだが、画面を一つ押しただけで終わったのでかなり拍子抜けだった。大人っぽく見られとるってことかな? と少し照れてしまったものだ。
 アルコール類の知識が皆無だったは、事前に職場の先輩から低アルコールでほろりと酔えるお酒とおつまみのチーズスナックをおすすめしてもらっていた。こうしていると、なんだか悪いことをしている気分になるが、もう未成年じゃないんだ、と改めて自覚することが出来た。

「(お酒って、どんな味なんだろう……)」

 ――は本日、二十歳の誕生日を迎えたのだった。


 お風呂に入り、家事も全て済ませた。一階の居間にて、はどきどきとしながらお酒のタブを開けると、今日という日を祝うかのようにプシュッ、と軽快な音を立てた。ほのかに香ってきたカルピスの匂いに「わあ……」とはまた小さく歓声を上げる。これだけならば、普通の炭酸ジュースと変わらないように見える。
 「いきなり一気に飲まんと、ちょっとずつ飲まなかんよ」――先輩の言葉を思い出して、は氷を入れた透明なグラスにお酒をほんの少し注ぐ。しゅわしゅわと弾ける炭酸が水面に立ち込め、グラスの表面に小さな泡がぴっとりとくっ付いた。
 舌先で舐めるように、はほんの少しだけグラスを傾ける。お酒が舌を伝って喉を通り越した瞬間、わっと目を見開いた。

「(味もジュースみたい……!)」

 ごくん、とお酒を飲んだはきらきらとした目でグラスを見つめる。思っていたより苦味もなく、むしろ甘い。今度は舌全体で味わうようにして、口の中にお酒を流し込んだ。ごくん。何度飲んでも炭酸ジュースのようだ。
 おつまみに買ってきたチーズのスナックの封も開けて、スナックを一つつまむ。これもとても美味しい。一つ、また一つとスナックを口に含んで、喉が渇いてこればお酒を飲む……これが大人の時間というものなのだろうか。中々に楽しい。
 最初に注いだ分を飲み終えると、今度はグラスの半分くらいの量を注いで、スナックもハイペースで食べ進める。そして、はお酒の味を舌で転がしながら、今日あったことをゆっくり懐古していった。
 ほんとうに、とても楽しかった。ほぼ半日、空却と一緒にいることができた。荷物を持ってくれたり、ハンディファンを買ってもらったり、昼ごはんを奢ってもらったり、リップを選んでもらったりと――特別な日である今日にさらなる彩りを与えてくれて、いくら感謝してもしきれないほどだ。

「(たのしかったなぁ。またいきたいなぁ)」

 この気持ちを、どう昇華していけばいいのだろう。再び空になったグラスに、はまた一杯注ぐ。今度は並々注いだ。炭酸の泡が未だに衰えることはなく、水面で元気よくパチパチと弾けている。グラスに入れた氷だけが時間の経過を示唆するように、からん、と涼やかな音を立ててていた。


 ――時間は、刻々と過ぎていく。は今日あったことを順番に思い出しては、一人でふくふくと笑っていた。お酒は少しずつ飲んではいたがペースは落とさなかったので、あっという間に缶一本飲み干してしまった。意識はきちんとあるが、なんだか顔が熱くなってきた気がしたので、はクーラーの温度を二度ほど下げた。
 残ったスナックをぽりぽりと食べながら、はぼんやりと思う。お酒のんでも、あんまりなんともないんだなあ。わたし、お酒つよいのかもしれん。えへへ、と得意げに笑っていると、不意に家のチャイムが鳴った。
 んー? こんな夜中にだれだろう? はゆらりと立ち上がって、廊下をぺたぺたと歩いて玄関に向かった。あ、モニターみるのわすれちゃった。まぁ、いっかぁ。
 「はあい」は玄関の灯りを付けて、玄関の引き戸をカラカラと開ける。すると、賑やかな柄物の服が目の前に飛び込んできて、はそのまま上を見上げた。

「……くーこーくん?」

 そこには、夕方に別れたままの空却がいた。あれ? ゆめかなぁ? そう思っていると、「……おう」と目の前の空却(仮)が小さく返事をした。声は本物だ。それでもは信じられなくて、空却の目の奥を覗き込むようにじいっと彼を見上げた。
 こちらを見下ろす綺麗な金色も、玄関の灯りに反射する赤髪も、じわじわと香ってくる白檀の匂いも……すべて、彼を構成するものだ。夢と思っていたものがだんだんと現実味を帯びてきて、空却の存在を受け入れたは、思わず顔がふにゃりと垂れた。

「くーこーくんだあ」

 また会えたあ。うれしいなあ。うれしいなあ。がそう思いながら笑っていると、ふと気づいたことがあった。

「あれ? くーこーくん、今日はうちのかぎ持っとらん?」
「あ? 鍵?」
「おうちのかぎだよー」
「……持っとるが」
「ぴんぽん押さんと、あけて入っとってよかったのに~」

 わざわざチャイムを鳴らして待っているのも面倒だろうと思い、「これからは、かぎ使って入っとっていいからねえ」と言う。すると、空却が何やら眉を顰めてこちらをじいっと凝視している。あっ。そうだあ、くーこーくんになにか用だったって聞かんとー。

「どうしたお前。なんか変だぞ」
「くーこーくん、こんな時間にどうしたのー? もう二十時だけど、ねんくていいのー?」
「用済ませたら帰る。つか人の質問に答え――」

 言葉を止めた空却によって、再び体を穴を開けられるが如くじっと見つめられる。ちょっとはずかしいなぁ、でもうれしいなぁ。お返し、というように、もまた空却をじっと見上げながらにこにことしていた。
 すると、「……いったん家ん中入れ」と言いながら、目の前の空却が迫ってくる。「わあ~っ」とは暢気な声を上げながら玄関に後退り、空却によって引き戸が閉められる音を聞いた。
 が玄関の灯りの下に行くと、空却の表情が明らかに変わる。そして深い溜息をどっと零して、「お前、酒飲んだな」と厳しい声で言った。

「えぇ?」
「“えぇ?”じゃねえ。顔真っ赤だぞ」

 空却にそう指摘されたは玄関にある姿見で自分の顔色を見てみる。そこには、全身の血を集めたような色をした自分の顔が映っていた。

「わあ~っ! ほんとだあ!」
「何杯飲んだ」
「すごいねえ。おもしろいねえ。こんなにも赤くなるんだねえ」
「何杯飲んだかって聞いとんだが」
「うぅん?」

 なん杯だっけ? わすれちゃったぁ。それにしても面白い、とは自分の両頬を両手で包む。熱が出ている時のようにとても熱くて、「すごーい」と言いながらは笑った。

「あのねぇくーこーくん、缶のお酒なんだけどねえ、カフェのせんぱいに教えてもらったのでねえ、すごくおいしいのー」
「おい――」
「味もカルピスみたいでねえ、にがくなくてねえ、チーズのおかしもいっしょに食べとったんだけど、これもすごくおいしくて――あっ、くーこーくんもおかし食べる? まだたくさんあるんだあ」
「いらねーよ。拙僧は渡すもん渡しに――」
「おうち、おそうじしといてよかったあ~」
「だからッ!」

 は靴を脱いで上がって、空却を家の中に通す。どうぞどうぞ、と招くと、空却は渋々といった表情で靴を脱いだ。そのままどすどすと居間に向かったので、もその後に続いた。
 が居間に入ると、空却はなぜか机の上に置いていた缶を手に取っている。左右に振って、どうやら中身を確認しているようだ。

「もう空じゃねーか!」
「から?」
「酒だよッ」
「くーこーくんも飲みたかった?」
「飲まねーわっ。つか拙僧はまだ二十歳じゃねえ」
「これねえ、コーラのあじもあったよー。くーこーくんもおたんじょうびに飲みゃあ」

 そう言いながら、は食べかけのチーズスナックをぽりぽりと食べる。空却はというと、「こんの酔いどれが……」と呟いて、片手だけで酒缶をべこッと潰してしまった。「わあ~っ」とが拍手をすると、彼にぎろっと睨まれてしまった。はくしゅ、うるさかったかなぁ?
 すると、空却がどこかに行こうとするので、はたとしたも彼の後ろについていった。

「くーこーくん、どこいくの?」
「台所」
「わたしもいく~」

 またしても空却に溜息をつかれてしまったが、何も言わずに歩き出したのでいいのだろう。は空却の広い背中を見つめながら、上がりっぱなしの熱い頬を両手で包んでいた。

 台所に行くと、空却は無遠慮に冷蔵庫を開ける。その中から2Lペットボトルの飲料水を掴むと、適当にあったコップに並々注いだ。
 がその様をぼんやりと眺めていると、空却が水の入ったコップをの目の前に突きつけた。

「水だ。飲め」
「おみず、くれるの?」
「やるから早よ飲め。残すなよ」
「わあい」

 空却に言われるがままコップを受け取る。おみず、おみず、くーこーくんからもらったおみず。コップを揺らすと水面がゆらゆらと揺れて、それだけでもが笑う理由になった。
 ちゃぷちゃぷ、とコップの水面で小さな音を立てていると、それを見かねた空却がわっと声を張った。

「だから早よ飲めってッ!」
「飲んだら、おみずなくなっちゃうよ」
「はああぁぁ?」

 「せっかくくーこーくんからもらったのに、飲んだらもったいないもんねぇ」はコップの水をちゃぷちゃぷと揺らしながらそう言う。すると、呆れたように目を細めた空却に、「……駄目だこいつ」と小声で言われてしまう。だめ? くーこーくん、なにがだめなんかなあ?

「……水なくなったら、いくらでも注いでやっから」
「えっ? いくらでも?」
「ああ。だからさっさと飲め」

 いくらでも――お酒を飲んでお腹はいっぱいのはずだったが、そのたった五文字が魅惑の言葉に聞こえる。空却の口から紡ぎ出されたのであれば尚更だ。
 はコップを傾けてこくこくと水を飲む。冷蔵庫から取り出したばかりの水はとても冷たくて、いつも飲んでいる水のはずだったが、今まで飲んできた水の中で一番美味しく感じた。
 火照った体に水の冷たさがじんわりと染み込んでいき、とても心地が良い。もっと飲みたいなあ。そう思ったは、空になったコップを空却に差し出した。

「くーこーくん、おかわり~」
「ん」

 すると、空却は再び並々注いでくれる。こくこく、とあっという間に二杯目を飲んで、空却にまた新しい水を注いでもらった。これはちょっとずつ飲もう――は最初の時のようにコップの水面をちゃぷちゃぷと揺らした。

 水のペットボトルを持って居間に戻る空却。そして、その後ろから彼についていく。くーこーくんがおうちにいる。うれしいなあ。嬉しい以外の感情が見当たらなくて、はぽろぽろと零れる笑みを取り切ることができなかった。
 は机の前に座って、水の入ったコップを机の上に置く。食べかけのお菓子をぽりぽりと食べていると、空却はと少し距離を置いたところに座り、机の上で頬杖をついていた。

「くーこーくん、チーズのおかしたべる? おいしいよ~」
「さっき食わねえっつったろ」
「そうだっけ? あっ、くーこーくん、うちになにか用事あった?」
「渡すもん渡しに来ただけだ」
「おみず?」
「ちげーわ」

 空却は少し考える素振りを見せて、「……素面は素面でめんどくせえか」と呟いた。がはて、と首を傾げていると、畳の上に置かれていた紙袋を机の上に滑らせた。

「ん」
「ん?」
「やるっつってんだ」
「これ、もらっていいの?」
「あぁ」
「わあい」

 きょうは、くーこーくんからたくさんもらってばっかりだねえ。「あけてもいい?」「おー」空却に許可をもらって紙袋を開けてみると、中に入っていたのは長方形の箱。両の手のひらにすっぽり収まる程度の大きさで、さほど重くはない。箱の表面に書かれている文字を読もうとしても、なぜか視界がゆらゆら揺れていて上手く読むことができなかった。

「これ、なあに?」
「茶だ」
「おちゃ? こうちゃ?」
「工芸茶」
「こーげいちゃ?」
「花が咲く茶だ。あとは実際飲む時に見てみろ」

 おちゃにお花がさくのかな? お花におちゃがさくのかな? あれ? はいったん考えることをやめて、とりあえず空却にものをもらったことへの嬉しさを噛み締めた。
 「えへへ……」空却からもらった小さな箱を大事に両手で持っていると、無音の時間が居間に流れる。そして、唐突に立ち上がった空却を見上げながら、は口を小さく開けてぽかんとした。

「くーこーくん、どこいくの?」
「帰るんだよ」
「えっ。もうかえっちゃうの……?」

 あれだけ大事に持っていた箱を机の上に置いたは、そそっ、と空却の足元に座った。そして、くい、くい、とズボンを引っ張りながら、天井を見るようにして空却を見上げる。

「あとちょっとだけおろうっ? あと十分だけっ。ねっ?」
「駄目だ」
「おねがい……」
「……お前、そう言ったら拙僧が言うこと聞くと思ってんだろ」

 「その手には乗らねーからな」放せ、と言わんばかりに足を上げようとする空却。くーこーくんがいっちゃう、どうしよう――空却にどこにも行ってほしくないは、空却の足にコアラのようにぎゅうぅ、と縋りついた。

「おい足締めつけん――ッ!」
「くーちゃん……」

 不意に口から漏れた、遠い記憶の中にあった言葉。空却の足から力が抜けたのを感じながら、はその音の余韻に浸かっていた。
 くーちゃん、くーちゃん――とても、口馴染みの良い単語だ。は心の中で何度も反芻して、上にいる空却に向かって笑いかけた。

「くーちゃんって……なつかしいねぇ」

 「くーちゃん、くーちゃん。やさしいくーちゃん」空却の足にすり寄りながら空却のことを何度も呼ぶと、が抱きしめている方の足の膝がかくんと折れた。反射的に腕をぱっと離すと、空却がのすぐ隣に腰をかけた。

「……十分だけだぞ」

 ほんとうに、小さな声だった。それでも、その言葉に偽りがないことは頭がふわふわとしているでも理解できた。
 「うんっ」が満面の笑みで大きく頷くと、空却に再び溜息をつかれてしまった。くーちゃん、きょうはため息たくさんだねえ。空却の分まで笑えるように、は上がったまま動かなくなった頬で「えへへ」と笑っておいた。

 それから、は空却にたくさんの話をした。仕事のこと、路地に居着いている猫のこと、最近食べたご飯のこと――なぜ、自分の中にこんなにも言葉があったのだろうと思うくらい、たくさん話をした。空却は相槌しか打たなかったが、視線だけは常にこちらに注がれていたので、はそれだけで十分だった。
 たのしいなあ、うれしいなあ――自分の中で、気分が高揚していくのが分かる。まるで、昔に戻ったようだ。話しているうちに、少しでも空却と繋がっていたくて、は本人にバレないように彼の服の裾をほんの少しだけ指で掴んだ。空却がその気になれば振り解けるくらいの、柔い力で。
 
「あとねぇ、くーちゃん。きょうねぇ、わたしのおたんじょう日なんだあ」
「……知っとる」
「えっ。くーちゃん、おぼえとってくれたの?」
「覚えてなきゃそんなん渡すかよ」

 そんなん、と言いながら机に置かれた茶葉の箱を指す。そっかぁ、くーちゃん、おぼえとってくれたんだぁ、そっかぁ――えへへ、とはまた笑う。そろそろ口角を上げすぎて、頬の筋肉が痛くなりそうだ。

「くーちゃん」
「……なんだ」
「あとね、おたんじょーびおめでとう、って……言ってくれる……?」

 だめかな、いいかな、くーちゃん、やさしいから、言ってくれるかな――やけに水気を帯びてきた視界の中で、空却と目が合う。その綺麗な金色に吸い込まれそうになりながらも、は空却から目を逸らさなかった。

「……誕生日、おめでとさん」

 ――ぽん、と。頭の上に何かが置かれる。覚えのある感触で、は頭の上にその何かに両手で触れた。ごつごつとしていて、あたたかい。目で見なくても分かる。昔も今も、優しいばかりの彼の一部だった。
 そして、空却の言葉が全身にじんわりと染み込んでいく。この小さな体に収まりきらない歓喜を覚えたは、溢れ出た感情を笑いに変えた。
 「ふふ、ふふふ……っ」「お、おい……」空却が、僅かに不安げな声色で声をかけてくれている。それでも仕方がない。うれしいのだ。うれしすぎて、からだが爆発してしまいそうなのだ。この衝動を、どうしていいか分からない。ただただ笑うことしかできなくて、ひたすらに笑う。笑えば笑うほど視界がぐるぐると回るが、この衝動を止めることは自分でも出来なかった。

 ……だんだん意識が朦朧としてきて、一人で座るのも苦しくなってきた。空却の手に触れていた両手も、力なくだらんと垂れてしまった。
 なんだか、今日はだいじょうぶ、という謎の自信があって、隣にいる空却の腕に凭れるようにこてん、と肩を預けた。結果、一瞬だけ空却の体が震えただけで、退け、とは言われなかった。

「おめでとうって、いってくれて、ありがとう……。おちゃも、ありがとう……。だいじにのむねぇ……」

 あと、せんぷーきとだいふく、かってくれてありがとう。おひるごはん、いっしょにたべてくれて、おごってくれてありがとう、りっぷも、えらんでくれて、ありがとう――今日あったことを、はお礼とともに数えていく。空却は何も言わかったが、聞いてくれているということだけは、なんとなく気配だけで分かった。

 体がぽかぽかとしてきて、瞼が重たい。もう、じゅっぷん、たっちゃったかなぁ……? まだかなぁ……? くーちゃん、なにもいわんから、まだ、いっしょにいてもいいかなぁ……? は新しい話をしようと口を開こうとするが、唇すら動かなくなってしまっていて、あれぇ……? と心の中で首を傾げた。
 まだおはなししたい、いっしょにいたい、くーちゃん、くーちゃん――それでも、体から力を抜くととても気持ちがよくて、どろりとした睡魔の海に意識が沈んでいく。

「くーちゃん……」

 返事がない。途端にこわくなってしまって、は空却の腕にさらに擦り寄る。うん……。まだ、くーちゃんのにおいがあるから、だいじょうぶ、だいじょうぶ。
 おねがい、くーちゃん。あしたから、ちゃんとするから、あしたからは、いつもみたいにするから。きょうだけ、きょうだけは……むかしみたいに、こうやって。

「くーちゃん……あのねぇ……」

 きょうね、いままでの中で、いちばんしあわせなたんじょうびだよ
 言えたかどうかは、分からない。ただ、肩に身を預けていいと言わんばかりに、頭の横に添えられた手がとても優しかったから。は眠りに落ちるその瞬間まで、やわらかな笑みを口元に浮かべていた。