Episode.10
カンッ、カンッ、カンッ――
短く、それでいて耳に残る鐘の音。濡れ縁をゆっくりと歩いているのは、袴に身を包んだ新郎と白無垢姿の新婦。まるで、自分とは別の世界にいるような特別な雰囲気を纏う二人に、は釘付けになる。いつぞやに見た神前式の時よりも鼓動がとても速く、興奮が冷めない。なにも知らなかった幼い自分とは違って、この体は恋というものをもう知っていたからなのかもしれない。
空厳寺にて執り行われる仏前式――修行僧である空却は出席しないらしいが、どことなく、今日の彼の雰囲気はいつもと違う気がした。目の色も弱く、心ここに在らずという感じだ。些細な変化だが、長い時間彼のことを見てきたは薄々気づいていた。
空却もまた、新郎と新婦が本堂に向かっていく様をじっと見つめている。そんな彼の名を、は呼ぶ。おそるおそる……それでいて、戻ってきて、とお願いするように。
すると、空却はじきにこちらを見下ろして、ゆっくり口を開いた。
「……お前が」
の知る彼らしくない、ひどく乾いた声だった。目はきちんと合っているのに、彼の視界に映っているのは自分ではない――まるで、遠いところにいる名も知らない誰かを見ているようだった。
「お前が……誰かと結ばれて、うちで仏前式やることになったら、拙僧が目の前で読経してやるよ」
頭の中が空っぽになった。
こんなにも、何かを考えられなくなったのは、カヨが亡くなって以来かもしれない。数日前から心の中でしたためていた言葉が、お腹の奥の方へ沈んでいく感覚がした。それも、二度と掬いとることができないような、深く、遠いところまで。
その後、空却に何を言ったのか、は今でも思い出せないでいる。ただ気がついたら、空厳寺から逃げるように走り出していた。いつの間にか流れていた涙で顔を濡らしながら、走って、走って、はしって――人の少ないところで、ようやく立ち止まった。ふくらはぎの腱はずきずきと痛んで、三年間かけてようやく綺麗に結べるようになった制服のリボンは、見るも堪えないくらいぐちゃぐちゃになっていた。
ひゅ、ひゅ、と荒ぶる呼吸とともに、空気を食む。じくじくと痛む胸の中に、懸命に酸素を取り込む。こうして意識していなければ、息を止めてしまいそうだった。それでも、目からは涙が次々と溢れて、いっこうに止まらない。手で拭っているうちに、目の周りもひりひりとしてきてとても痛かった。
どうして、と疑問を感じることも、やだよ、と悲しみに暮れることもしたくない。それくらい、今のの頭は何かしらの感情を抱くことを拒否していた。そうでなければ、指先からぼろぼろに崩れてしまいそうだった。
変化を望んでいるわけではなく、はただ伝えたかった。空却が今まで自分にしてくれてきたことへの感謝と、長年この胸の中に抱いていた想いを。しかし、それを言う前に、彼から遠ざかってしまった。理由なんて必要ない。先程、空却から言われた言葉がすべてなのだから。
いくら時を経ようと、深奥へ沈んだ言葉と同じものはもう二度と用意できそうにない。そして、彼への想いが詰まっていたはずの胸はぽっかりと空いて、そこへ代わりとして埋まったのは途方もない痛みだけだった。
――「」
……中学校を卒業してまもなく。はその日、空却に告白をするつもりだった。
「――ちゃーん」
遠くから声が聞こえる。母のような優しい声に、ソファーに横になっていたは薄く目を開ける。そしてすぐに、モノクロにちかちかと点滅した天井が映り、その刺激に耐えられなかったは開けたばかりの目をぎゅっと閉じてしまった。
「気分どお? ……って、さっきより顔真っ青じゃない!」
「も~かわいそうに~……」オーナーの足音が近づいてくる。再び目をゆっくり開くと、天井と一緒に彼女の姿が視界に入って、はぼんやりとした眼差しでオーナーを見つめ返す。たしかに、数時間前に体調不良を訴え、こうしてスタッフルームのソファーに横になった時よりも、胸がごろごろとしていてひどく気分が悪かった。
それでも、いつまでも寝ているわけにもいかない。がひどく重たい上半身を起こすと、チョコレートの匂いがふわりと鼻を掠めた。ふと見れば、すぐそばにあったテーブルにココアが置かれている。横になる前はなかったものだ。それに、マグからは淹れたてと言っているように白い湯気がほわほわと立っている。そんなココアをじっと見つめているに「よかったら飲んでね~」とオーナーが声をかけた。
「いいんですか……?」
「いーのよぉ」
「お金……あ、お給料からその分を差し引いて――」
「もぉ~そんな冷たいこと言わないで~っ。いつもラストまでしっかり働いてもらってるから、今夜の賄いだと思ってちょうだい」
そう言ってウインクしたオーナーの快い申し出に、はココアの入ったマグを手に取ってちびっと飲んだ。水面を覆った泡立てミルクの甘さとほろ苦いカカオの風味が混ざって、体にじんわりと染み渡る。とても美味しい。昔飲んだものよりもほんの少しカカオ感が強いが、ココアから伝わるオーナーの優しさは昔と変わっていなかった。
それよりも、早く帰る支度をしなければ。閉店時間になったのにも関わらず店を開けておいてくれている彼女に申し訳が立たない。そんなの言いたいことを察したのか、「そんな申し訳なさそうな顔しないでちょうだい」と、オーナーが苦笑いしながら言った。
「今日は一日中ずっと変な天気だったし、体調崩すのも仕方ないわあ。今日はシフト入ってる子が少なかったからほんとに助かったけど……かなり無理させちゃったわねぇ」
そんなことない、と言いたかったが、そんな気力もないくらいは疲弊しきっていた。それでもこの気持ちは伝えたくて、はほんの僅かに首を横に振った。
元々、今日は朝起きた時から頭が重かった。天気はじめっとした曇り。空も、日が暮れるまで濁った水で浸したような色をしていた。ニュースでも今年一番の低気圧日と言っていて、スタッフの何人かはこの天候に体を壊して早退したほどだ。一方、は動けないほど体調が悪くなったことに加えて、今日はどうしても閉店時間までいたかったために、自己責任を承知でラストまで働いた。
「歩けるようだったら、着替えてきてもいいわよ? ロッカールームはまだ開けてあるわ」そんなオーナーの提案にも、は遠慮がちに首を振った。
「今日、おうちから浴衣着てきたので……」
「あら、そうだったわ。ちゃんと帯緩めてある?」
はい、とは小さく返事をする。こんな天気に浴衣を家から着てきてしまったのも、仕事終わりにあるイベントのためだった。
あじさい祭り――先月、スタバに行った時に、空却と交わした約束。最初は何も手につかなくなるくらい舞い上がっていたものだが、後々になって考えると、あの時承諾してくれたのは彼の気分だったのでは、と思い始めた。祭りの一週間前におずおずと確認をしたら、「覚えとるわ。紫陽花見るんだろ」と、きちんと認知してくれていた。嬉しすぎて、その日は帰るまで口角が上がりっぱなしだった。
その時に見た天気予報も晴れだったのだが、三日前からだんだんと雲行きが怪しくなっていた。それでも、天気はもってくれているのでなんとか行けそうだ、と思った矢先に体調を崩すとは。全くついていない。
我慢して行ってしまおうかと一時考えたものだが、後々になって起こりうる未来を予測すると、そんな度胸は日に日に薄れていった。
「ずっと楽しみにしてたからあんまり言いたくないけど……今回はやめておいた方がいいんじゃない? ちゃんが無理したら、あの子きっと怒るわよ」
そうだろう。優しい彼なら、そうするだろう。小雨が降っていても、帰るのが少し遅くなっても、何も言わずに付き合ってくれて、そのまま家まで送ってくれるところまで想像できる。そして、体調が悪いのに無理をして、結果彼の叱責を受けることになるのもまた然りだ。
正直、体調が悪くても行きたい。それくらい、ひと月前からとても楽しみにしていた。空却くんとお祭り行くのいつぶりだろう、小学生のころ以来かな、なんて。そんな有頂天なことを考えていた。しかし、空却に怒られるのは嫌だ。体調が優れないせいか、心も不安定になりつつあるので、少しでも冷たい態度をされると極端に落ち込んでしまいそうだった。
……最初から、に選択の余地はなかった。「そうします……」とオーナーの言葉に同意する。と同時に、外で雷が鳴って、びくっと微かに肩を震わせた。「やっだ。雷まで鳴り出したじゃない……」と外の方を見ながらオーナーが言う。びっくりしたぁ……とも内心胸を撫で下ろしていた。昔は雷の音が苦手だったが、歳を重ねていくにつれて耐性がついた。今となっては、急な雷鳴を聞いて少し驚いてしまうくらいだ。
――オーナーと話しているうちに、表のシャッターがかしゃんと鳴る音がする。「お迎え、来たみたいね。少し出てくるわ」そう言って、彼女はスタッフルームを後にした。
「(かえる準備……しんと……)」
は残りのココアを飲んで、足元にかかっていたブランケットを畳む。ロッカーに行って、ぼんやりとした頭でバッグに荷物をまとめながら店内へと向かった。
すると、オーナーと話している空却の姿があった。こんな体調では、お気に入りの浴衣も、それに合わせた帯と下駄も、すべてもったいなく思ってしまう。それに、今日のために気合いを入れたのが丸わかりで、むしろこの格好を見られたくないような……ひどく恥ずかしい気分だった。
オーナーとの話を終えた空却が、大きな足音を立てて近づいてくる。俯いている視界に彼の靴のつま先が映って、は重たい頭を持ち上げた。その先にあった空却の眼差しは、意外にも柔らかいものだった。
「……あいつから粗方聞いた。今日は直帰すんぞ」
うん、そうだね――そう言おうと思ったのに、言葉が出てこない。代わりに、いがいがとした喉から嗚咽が飛び出そうになった。
……だめ。そう思って、はこくん、と頷くだけにする。すると、「待っててやっからさっさと着替えてこい」と空却が言ったので、今度は首を横に振った。
「きょう、は、このかっこうで来とって……」
「はあぁ? なんでこんな天気にわざわざ浴衣着てくんだよ……」
馬鹿だろ、と聞こえた気がした。おそらく言っていないのだろうが、空却の雰囲気がの耳元でそう囁いた。メンタルも弱っているからか、いとも容易く涙腺が緩んでしまう。いつもなら笑って流せるものも今日ばかりはできなかった。
「あなた、ちゃんの家に着くまで口閉じときなさい」
「あ゙!?」
「ちゃん、おつかれさま。明日は出勤する子も多いし、少しでもえらかったらお休みしていいから」
オーナーが間に入ってくれなければ、その場で泣いていたかもしれない。声はやはり出せそうになく、それでも、は彼女への感謝の気持ちを込めて、何度も何度も頷いた。
分厚い雲の中で、遠雷がゴロゴロと鳴っている。それは下から聞こえる下駄の音と同じくらい小さくて、外を歩いていてもまだ安心と言える段階だ。
そして、隣に並ぶ空却の存在を感じながら、はひとり、自分の世界にじっくりと浸っていた。
「(やだなぁ……)」
少し着崩れた浴衣でも、胃がひっくり返っているような気分でもない――わざと歩幅を狭くしている自分自身がだ。
空却は、いつも以上にゆったり歩いている自分に合わせてくれている。浴衣であることと体調が優れないことから、何も言わないでいてくれている。それでも、実は、もう少し早く歩こうと思えば歩ける。いつもの歩幅ならば、とっくに家に着いている頃だ。
もっと一緒にいたい――せっかくの祭りが行けなくなった今、が悪あがきとしてしたいことがこれだった。自分がしたことなのに、嬉しさよりも申し訳なさが大きい。かと言って、今更足を早めて歩くこともできず、店を出てからのは自分の体が針でちくちくと刺されるような時間を味わっていた。
「くそ……降ってきやがった」
空却が小さく呟く。え、とが顔を上げると同時に、頬に当たったのは冷たい雫。決して小さくはない粒だ。近いうちに土砂降りになるかもしれない。たしかに、いつ降ってもおかしくない空模様だったが、まさかこんなタイミングに降り出すとは。
じっと空を見つめても降りてくる雫は量を増すばかり。「少し急ぐぞ。歩けるか」そう言って、空却がこちらを見下げる。は微かに頷いて、下駄の音をカラコロと早めた。
幸い、家に大分近いところにいたので本降りになる前に到着することができた。今日ばかりは猫も屯っておらず、久々に二人きりの玄関口だった。
「(あれ……。あれ……?)」
引き戸の前でカバンを漁るも、家の鍵が出てこない。嫌な予感が胸を満たして、頭がきゅうっと小さくなる感覚がした。
「おい、何やってんだ。さっさと鍵出せ」横で急かす空却を見上げて、は震える声でこう言った。
「かぎ、ロッカーにおいてきてまった……」
「はあッ?」
破顔した空却に、はさらに泣きそうになる。休憩時間にカバンの整理をし、その時に中身をすべて出したのだ。その後すぐにカバンの中に戻したが、鍵だけは忘れないようにとわざわざロッカーの小物入れに入れていたのだった。用心のためにしたことが逆に仇となってしまった。今から店に戻ってもオーナーは店を閉めているだろうし、雨もじきに本降りになる。もちろん手元には傘もない。
どうしよう、どうしよう、空却くんに怒られちゃう――さらに体調が悪くなってきて、はカバンを抱えながら肩を丸める。すると、空却が懐から出したものを鍵穴に差し込んだのが見えて、すぐさまはっとした顔で目を見開いた。
「空却くん……それって、うちのかぎ――」
「たまたまだ。人んちの鍵、毎日持ち歩いてるわけねーだろ」
言い終わる前に空却の言葉が上から被さる。思わぬところで極度の緊張から解放されて目眩すらしてきた。何年か前に空却に渡した家の合鍵――久々にお目見えしたそれに、驚いたが思うことは一つだけだった。
「(まだ、持っとってくれたんだぁ……)」
かちゃん、と開錠された引き戸。空却によってカラカラッと勢いよく開かれて、「早よ入れ」と背中を押すように言われる。が家の敷居を跨ぐと、外から聞こえてくる雨音がさらに強くなった。
運がいいのか、悪いのか。少なくとも、これから寺に帰る空却にとっては後者のはずだ。上り框に座ったが草履を脱ぐのにもたついていると、空却は傘立てにさしてあった傘を一本引っこ抜いた。
「これ、借りんぞ。次迎えに行く時に返す」
「え……。もう帰っちゃうの……?」
ぽろりと転がった本音。空却は驚いたように目を見開くも、すぐさまぐっと目を細めた。
「……帰るだろ。ここに長居する理由もねえ」
「雨、いっぱい降っとるのに……」
「音聞きゃあ分かる。だから傘借りるっつってんだ」
「傘あってもぬれちゃうよ……」
「多少は仕方ねえだろ」
「ちょっとだけ待っとったら、すぐ止むかもしれんし……すこしだけ、うちで雨宿りしていっても――」
「駄目だ。今日は帰る」
頑なに譲らない空却。が黙り込むと、「自分が弱ってる時に易々と男を家に置くんじゃねえ」と付け足して言われた。こちらとしては弱っているときだからこそ一緒にいてほしいのだが、これ以上空却を引き止める元気もなくて、はしゅん、と肩を落とした。
「……何か食ってさっさと寝ろよ」
振り向きざまに空却が言葉を残す。もうすでに引き戸には彼の手がかかっていて、は悲しそうに眉を下げた。
もう、帰っちゃう……。今にも千切れそうな糸を見守るかのように、は苦しそうな顔で空却の背中を見つめる。引き止めたら彼が困ることは分かっているのに、今日はなぜか自分の気持ちが前へ前へと出てしまう。今にも開いてしまいそうな口にチャックをするように、は唇をきゅっと結んだ。
「(いっちゃ、やだ……)」
――そんな、刹那のこと。バリバリッ! と空から雷鳴が響く。開いていた引き戸からはフラッシュのような光が飛び込んできて、驚いたは肩を大きく震わせた。
……今のは、一際大きかった。耳の奥の方で、まだ余韻が残っている。先程の雷で雨もさらに勢いを増して、家を押し潰さんとばかりに地面を強く打っていた。
「……お前、まだ怖ェのか」
雨の音に混じって、空却の声が届く。見ると、彼は引き戸に手をかけた状態でこちらを振り返っていた。
何が、とは言わない。しかし、察しのついたはばつ悪そうに俯いた。胸の前で両手の指をもじもじと組むと、また雷が鳴る。先程のものよりかは小さいが、は体をぎゅっと固くさせた。雷が怖いのではない。彼に心の中を覗かれることが、だ。
……どれだけ沈黙していただろう。「うん……」とは小さく頷いてしまった。その後にまた沈黙が続いて、かしゃんっ、と引き戸が閉められる。雨音は遠ざかり、空却は手に取っていた傘を傘立てに突っ込んだ。それが何を意味するのか、言葉がなくともには理解できた。
再びこちらと向かい合った空却と視線が交じる。困っている様子もなく、怒っている様子もない。ただ、やはりいつもよりも向けられる眼差しが柔らかく感じる。そんな彼が今、何を思っているのかには分からない。“空却に見られている”ということばかりに意識がいって、組んでいる指の力をきゅっと強めることしかできなかった。
浴室の天井に結露した雫が湯船に落ちる。入浴剤を入れたお湯に肩まで浸かりながら、は心から猛省していた。
「うぅ……」
どうしてあんなこと言っちゃったんだろう。“もう帰っちゃうの?”なんて。雷だって、もう大丈夫なのに、“うん”って……。それもこれもすべて、頭がぼーっとしていたせいだ。叶うならば、少し前の自分の口を塞いでしまいたい。
それに空却くん、わたしが雷苦手だって覚えてくれとった……。ほわほわとした湯気が立ち込める中、は顔半分をさらにお湯の中にぷくぷくと沈めていく。もう長い時間入っている気がするが、空却と合わせる顔ができるまで、とてもじゃないが上がる気分にはなれなかった。
結局、あれから二十分以上入っており、逆上せる前に風呂から上がった。六月に入ってからは半袖と短パンを着ているが、足元だけは暖かくしようと、今日は下だけ長ズボンの部屋着に着替えた。
髪をタオルドライしながら、は家の廊下をぺたぺたと歩いていく。温かいお湯に浸かって血管が拡張されたからか、先程よりかは気分も楽になっていた。
ただ、雨の音は激しいままだ。は玄関にこっそりと足を伸ばして、自分のものよりひと回り大きい彼の靴があることを確認した。
「(靴、ある……)」
もしかしたら、もう帰っているのではないかと思っていた。靴があることに対して申し訳なく思う自分よりも、空却がまだ家にいるという事実にほっとしている自分の存在が大きい。そんな現金な自分が嫌いになりそうで、はとぼとぼとした足取りで居間に向かった。
「――わァってるっつの。じゃあな」
空却の声が聞こえる。居間の敷居を跨ぐ手前のところで室内を覗くと、彼がちょうど耳元からスマホを下ろしたところだった。どうやら通話をしていたらしい。
「おじさん……?」
そう言いながら、はゆっくり居間に入る。空却は一瞬こちらを振り向くも、を見るやいなやすぐさま目線を逸らし、「……ああ」とだけ答えた。
「早く帰ってきなさいって言っとった……?」
「言ってねえよ。お前は何も気にすんな」
「それよりも早いとこ何か食ってさっさと寝ろ」と空却にぴしゃりと言われる。そして、彼はなぜか部屋の隅の方に行って胡座をかいた後、棚にあった漫画を手に取ってぺらぺらと読み始めた。昔、床屋に置いてあったものだ。まるでの存在を認知しないとばかりにページをめくっている。
……少し寂しい、無言の時間。雨の音があるだけまだ良かったかもしれない。そんな中、には一つ気になることがあった。「あの、空却くん……」「なんだよ」こちらを見ずに答える空却に、はおそるおそる言った。
「まんが、上下逆だよ……?」
なぜか表紙が逆さになったまま漫画を読んでいる空却。がそれを指摘すると、彼は顔をぶわっと赤くさせて、読んでいた漫画をパァン! と畳に叩きつけた。
「人様のこと気にする前にお前はさっさと寝ろッ!」
「えぇっ!? ごっ、ごめんねっ。じゃあわたしもう寝るねっ。おやすみなさいっ」
「頭ぽんこつかお前はっ!! 寝る前に髪乾かせやッ! あと飯食えッ!!」
空却の言葉に振り回されてしまう。ご飯食べてから寝る……あっ、その前に髪を乾かさんと……っ。があたふたと部屋の周りを歩き回りながら、まず最初にドライヤーを手に取ろうとした。
「(あれ……? ドライヤーない……)」
いつも定位置として置いているところになぜかない。あっちをうろうろ、こっちをうろうろ……そうすること数分。どこ置いたっけ……とが部屋をきょろきょろと見回していると「おい……」と空却が苛立ちげに声を上げた。漫画はもう読んでいなかった。
「さっきから何やってんだ」
「ドライヤー探しとって……」
「そこにあんだろうが」
「え……?」
どこ、どこ、とが見回すもいっこうに見つからない。そんなを見かねた空却が「ったく……」と零しながら、棚の下に潜っていたドライヤーを手に取った。「あ……」と声を漏らすを他所に、空却は結ばれたコードを解いていく。
そんなところにあったんだぁ……。ぜんぜん分からんかった……。空却の言う通り、今日はぽんこつの日なのかもしれない。そして、コードを解き終えた空却が、「ここ。後ろ向いて座れ」と胡座をかいた足の前をぽんぽんと叩く。え? とが首を傾げると、彼は続けてこう言った。
「乾かしてやっから後ろ向いて座れっつってんだ」
「今のお前にやらせたら朝になる」と空却は近くにあったコンセントにプラグを差し込む。一方のは頭が真っ白だ。
え……。えっ? 動揺を隠せないだったが、「体冷えるだろうがさっさとしろ」と早口で言われて、はすかさず空却の前に横座りになる。すぐ後ろに空却の存在を感じてしまい、いつもよりもぴんっと背筋が伸びた。
ブオオォォッ、とドライヤーの激しい音が始まると、髪の間に空却の指がぐわっと入り込んでくる。固くて大きな手のひらの感触に、思わず体がびくッと跳ねた。
「(あ……。きもちい……)」
しかし、驚いたのも最初だけ。勢いはあるものの、その手つきは優しいものだった。時折指輪がこつんと当たるが、痛くはない。それに、ただ髪を乾かしているだけと分かっているのに、まるで撫でられているような気持ちになって、体の力もだんだんと抜けていく。そんな気の緩みか、徐々に睡魔も襲ってきて、うとうとと微睡んでいった。こてん、こてん、と頭があちこちにいくたびに、はっとしたはまっすぐ座り直す。微睡みから覚めずに、空却の手が傾いた頭を元に戻してくれる時もあった。
ちゃんと、座らんと……。空却くんに怒られちゃう……。そう思っていても、何度も首がかくんっとどこかへ傾く。時間が経つにつれて、方向感覚や意識の有無も曖昧になっていった。
……ある時、後頭部が壁のようなものにとすんと当たる。上半身も程よい角度で後ろに倒れたのでとても楽な体勢だ。それきり頭があちらこちらに傾くことはなく、気が抜けたの睡魔はどんどん深くなるばかりだった。
「――終わったぞ」
頬を撫でるような優しい声が降ってきて、は薄く目を開ける。程よく後ろに倒れている上半身が心地よくて、は壁に沿ってもぞっと頭を動かした。
……壁? だんだんと意識がはっきりしてきて、一気に覚醒したはぱっと上半身を起こす。後ろを振り返ると、ドライヤーを片手にこちらをじっと見下ろしている空却がいた。
「わっ、わたしっ、空却くんにもたれ――っ」
一瞬のうちに睡魔が逃げていったは慌てて口を開くも、空却は何も言わずにドライヤーを棚に片付け始めた。目が合わない上に聞こえていないとばかりに無視をされてしまい、は開いたばかりの口をゆっくりと噤んだ。
いつもならば耐えることができただろう。ただ話しかけるタイミングが悪かったのだと割り切れただろう。それでも今は、自分のことしか頭が回らなくて、心臓を一突きされたような痛みが走った。
ほんとうに……今日の自分はここ最近の中で一番苦手だ。そう思いつつも、自分本位に動く衝動は止まらなくて、は目の前でてかてかと反射しているスカジャンの生地を指で摘んだ。そうして、ようやく空却と目が合い、は何か言おうとしたが、不意に立ち上がった彼は脱いだスカジャンをそのままの頭に被せた。
「着てろ」
「え……?」
「いいから着てろ。戻ってくる間に着てなかったら承知しねえぞ」
「空却くん、どこいくの……?」「台所」そう言って、空却は足早に部屋を出た。部屋に残されたは、頭からずるりと下ろしたスカジャンを肩にかけてぽかんとする。なぜ、の一言に尽きる。スカジャンを貸してほしいという意図で捉えられたのだろうか。それとも、体を冷やすから何か羽織っていろという意味だろうか。今の格好は腕が出ているくらいのものだが、空却の目からは寒そうに映ったのかもしれない。風呂上がりだからなおさらだろう。
空却くん、怒っとらんかった……。よかったぁ……。とにもかくにも、今はそれだけがの胸の中を満たしていて、他のことはなんでもよかった。じきに、が渡されたスカジャンの袖にゆるゆると腕を通すと、裏地にはほんのりと空却の体温が残っていて、着た瞬間に首から上に熱がわっと集中した。かといって、着ていなければ空却の逆鱗に触れる――結果、は彼が残した熱に慣れるまで、部屋の隅で大人しく膝を抱えて過ごしたのだった。
正直、食欲はなかったが、数分後に居間に戻ってきた空却は、小さな土鍋を持ってきた。そこに入っていたのはうどんだった。具はねぎと――生ねぎはなかった気がするのでおそらく冷凍のものだ――落としただけの卵が入っていた。台所で何をしているかと思っていたが、まさか夕食を作ってくれているとは思っておらず、は土鍋と空却をきらきらとした眼差しで交互に見ながら“!?”のマークを頭の上に浮かべた。
案の定、「なんだよ。文句は受けつけねえぞ」と空却に怪訝そうな顔で言われてしまい、は慌てて首を振る。
「空却くんがおうどん作ってくれとるなんて思っとらんくて……っ」
「親父に仕込まれてっからな。こんくらい余裕だわ」
そう言って、彼は自信ありげにふん、と鼻を鳴らした。もっと空却と話していたかったが、せっかくのうどんが伸びてしまうのはいただけない。スカジャンの余った袖を上に捲りながら、は机の前でさっそく手を合わせた。
出来立てのうどんはとても熱くて、一本ずつしか食べれなかった。そんな中でも、は一本、また一本と麺を食みながら、空っぽの胃袋を満たしていく。割った卵と麺を絡めると、うどんのまろやかさが増してとても美味しかった。
そのあいだ、空却はやはり部屋の隅にいた。スマホを片手で操作しながら何かしているようだ。そんな彼に気づかれてないように、うどんを食べながらもちらちらと彼の様子を盗み見る。普段見ることのない上腕の筋肉が露になっていたおかげで、あまり長い時間見ることはできなかったが。
「……紫陽花祭り、全日中止だとよ」
スマホを見下げながら空却がそう言う。おそらく、イベントのホームページに掲載されたお知らせを見ていたのだろう。延期ではなく、中止。それも全日。日取り変更という希望もなくなってしまい、の気分は再び落ちこんだ。
曰く、ここ数日は台風並みの大嵐が続くらしい。主催側も参加者側のためを思って、苦渋の決断をしたのだろう。それでも、ショックなものはショックだ。箸で掴んでいた麺がちゅるんと滑り落ち、「そっか……。雨、いっぱい降っとるもんね……」とは小さな声で呟いた。思いのほかしょげた声が出てしまい、その後の空気感が少し居心地悪く感じた。
「……紫陽花なんて、いつでも見れんだろ」と空却は言う。励ましてくれている、と都合のいい頭は考えてしまった。どちらにしろ、彼の言う通りだ。が出勤する時にも紫陽花は咲いているし、この時期に花屋に行けばいくらでも店頭に並んでいる。
しかし……違うのだ。が重きに置いていることは、花を愛でることではなく、もっともっと、下心のあるものだった。
「……空却くんと、見たかったの」
普段ならば……絶対に言わない。そんなことが、思わず、口から漏れだした。
「ほんとうは、あじさいじゃなくても、なんでもよかったの……」
あの時、獄が助け舟を出してくれたとはいえ、空却が申し出に乗ってくれるとは思わなかった。これ以上にないくらい喜びで溢れて、天にも登る気持ちになって、思わずオーナーに報告したりもして……どうせならと当日に浴衣を着ていこうと、一週間前くらいからコーディネートも考えていた。
それくらい……ほんとうに嬉しかったのだ。渋々だろうと、嫌々だろうと、なんでもいい。ただ、少しでも長い時間、空却と同じ時間を過ごせるだけで、は幸せだった。
……そんな、密かに心に秘めている思い。口に出せたのはほんの一部だ。抽象的なことを言って、怪訝な顔をされるのは目に見えていた。今からでもこの空気を中和できるような言葉を考えていると、スマホから顔を上げた空却が長く息をついた。
「……今の時期、祭りだったらいくらでもあんだろ」
小さく、それでいて独り言のような声色だった。それでも、の耳はきちんと空却君の声を拾った。
「さそって……いいの……?」
「なんで誘う前からへっぴり腰なんだよ。さすがに盆辺りは忙しいもんで難しいが」
「やじゃない……?」
「あ?」
「空却くんは……わたしと行って、やじゃないかなぁって……」語尾は、ほとんど消えていた気がする。空却はこちらを一瞥した後、唇をほとんど動かさずにこう言った。
「……祭り行くだけに、嫌も何もあるかよ」
胸が、ふわっと舞い上がるように軽くなった気がした。たった一言……小さな声でも、こんなにも人は嬉しい気持ちになるのだと漠然と思う。の頭には空却が言ってくれた言葉が木霊していて、温かいお湯に浸かっているように、全身がぽかぽかとしてきた。
そっか……。空却くん、わたしとお祭り行くのやじゃないんだぁ……。そっか……そっかぁ……。ちゅる、とはうどんを啜る。ずいぶん伸びてしまったが、今まで食べたうどんの中で一番美味しく感じた。
「おうどん、おいしい……」
「そうか」
「うん……」
は静かに頷いて、またうどんを食む。麺が柔らかくなっても、汁がぬるくなっても、ゆっくり、ゆっくり……少しずつ。一秒でも長く、この時間が続くようにと祈りながら。
空却に、早く食べろと言われやしないか不安だったが、幸い、彼は一度も急かしたりはしなかった。
――「わーったよ……。ここにいてやっから……もう泣くな」
何年か前の記憶がじわじわと蘇る。あの日もたしか、ひどい雷雨だった。何一つ、変わらない。あの頃のように、やさしい空気感に包まれて、美味しいご飯を食べて、はここが世界一安心できる場所と言わんばかりに、ゆっくりと息をついた。
「上着、あったかい……」
「見た目の割に厚いからな」
「うん……」
「あと、いいにおい……」そう付け足すと、「……線香の匂いだろ」と、少し間を置いて空却が答えた。それに対しても、うん、うん、とは頷く。短く、それでいて囁くようなやり取りだったが、とても心地良かった。
熱が冷めた土鍋を持って、汁を啜る。自分が作るものよりも少しだけ濃い汁の味が、空却が作ったものなのだといっそう実感する。はぁ、と暖かい息を漏らすと、彼に包まれているかのようなやさしい匂いを感じて、は穏やかに呟いた。
「小さいころから……ずうっと、だいすき……」
雷の音は、いつのまにか聞こえなくなっていた。
二十時過ぎ――濡れたコンクリートが月明かりと電灯に照らされて、季節外れのイルミネーションのようにきらきらと光っている。
うどんを食べ終えると、土砂降りの雨がぴたりと止んでいることに気づいた。加えて、空却が一つあくびを堪えている姿を見て、は慌てて彼を送り出す準備をしたのだった。もちろん、空却を送った後にきちんと灼空に弁解の電話も入れるつもりだ。
「体調はもういいのか」
「うん。もう大丈夫だよ」
「ならいい」と空却は淡々と答える。その素っ気なさも、今はとても嬉しかった。空却は最後まで「必要ねえ」と言っていたが、自分が玄関先まで送っていくと言って聞かなかったのだ。いつもなら引き下がるところだが、今日はなんだか昔のようにわがままになっている自覚があった。
「あと、上着、貸してくれてありがとう」そう言って、は着ていたスカジャンをその場で脱いで、そのまま空却に渡す。「ん」と短く返事をした彼はさっそくスカジャンに腕を通した。が、すぐにそれを脱いでしまい腕に抱えた。
え? と目が点になったはすぐさま空却の行動を理解した。
「わっ、わたしが着とったばっかの着るのやだったっ?」
「は? そうじゃ――」
空却は一時沈黙するも、から目を逸らしてぼそぼそと言った。
「……いや、そうだがそういう意味じゃねえ」
「そうなんだぁ……ッ」
「だからお前が思っとるようなことじゃねえって――ッ」
「空却くん、そのスカジャンずっと着とるもんね、お気に入りだもんね、大事なスカジャン貸してくれてありがとうね。……あっ、わたしクリーニング出しとこうかっ?」
「出さんでいいわッ。普通に着れるっつのッ!」
そう言って、空却はがむしゃらにスカジャンを羽織る。はー……と長く息をついている彼の耳が赤くなっているような、いないような。電灯光の加減のせいかもしれないと思って、はさして気にしなかった。
それきり、長い沈黙が二人の間を埋める。このまま一緒にいてはまた帰ってほしくなくなる気がして、から口を開いた。
「ほんとうに、今日はありがとう」
「……あぁ」
「あと、えっと……おやすみなさい」
「……ん。おやすみ。さっさと家入れよ」そう言って、空却はくるりと踵を返して去っていく。早く家に入れと言われたが、徐々に遠ざかっていく名古屋城が角の向こう側に消えるまで、は彼の背中をじっと見つめていた。
――「おいおまえ、みみ赤ぇぞ。つぎは熱でも――」
今夜は……あの日と似ている。
雨上がりの匂いと、夜独特の静けさ――あの日を境にして、友達の恋の話を聞く側から話す側へと回った。別の小学校に通い、家も決して近所ではない自分が彼と出会えたのは、なんらかの奇跡ではないかとも思えた。
……すきだ。どうしようもないほどに。日に日に想いが大きくなって、とろりと溢れて、仕方がない。たとえ本人に伝える日が来なくとも、自分は空却のことをずっと想い続けるのだろう。一緒にいるだけで、話すだけで、こんなにも幸せな気持ちになるのは、この先、なにがあっても彼以外にいないと思った。
自分が年老いても、たった一人……空却に教わったやり方で、亡くなった家族に向かって手を合わせる。大切な思い出がたくさん詰まったこの家で、余生を過ごす自分が簡単に想像できてしまう。それすらも幸福と感じて、月明かりの下……は彼の残り香に包まれながら薄く微笑んだ。
