Episode.9
「……獄」
あいつの、あんなしみったれた声を聞いた時は、世の終わりかと思った。
数年前に出会った悪ガキの声帯をどこで落としてきたのかと問いたいくらいだった。ここに来る前に鉢合わせた駅では、世界中の憤怒や憎悪をかき集めた声で、加害者に突っかかっていたというのに。
さっきまで、壊れ物のように扱っていた少女を、どうしてこんなふうにできたのか。俺には、まるで理解が及ばなかった。
「こいつのこと、病院に連れてってやってくれ」
とん、と空却が彼女の背中を押す。当人はされるがままに、俺に向かって一歩前に出てきて、じっと俯いたままでいる。ガーゼで抑えている右耳からは鮮血が滲んでおり、彼女の手も、乾いた血で所々茶色に汚れていた。
彼女の耳と空却を交互に見て、俺は重々しく息を吐く。良い意味でも悪い意味でも、贔屓しそうになるところを弁護士としての俺が寸のところで止めた。
「……お前がやったのか」
「あぁ」
即答だった。聞くまでもなかった。空却に問い質したいことが回答ごとに枝分かれして樹形図を描いていたが、その半分がぶつッと呆気なく消えた。枝は、ほとんど残っていない。虚偽でも、事故だ、と言ってくれれば、まだ楽だった。他人にも、ましてや自分にも嘘はつかない奴だと分かっていた。こいつなりの正義は、俺もよく認知しているはずだった。
――それでも、だ。被害者だった人間が、数年を経て加害者になるなど、誰が予想するだろうか。
「お前は未成年だ。診察料のこともあっから、あとで灼空さんと病院に来い。場所は、また追って伝える」
「……あぁ」
言われなくても、空却自身、百も承知の件だろう。なのに、素直に肯定したこいつが心底気味が悪く思えて、それ以上言葉を交わさず、俺は少女の手を引いて外に出た。少しばかりその力に抵抗があったのは、彼女がこの家を出るまで、後ろを振り返っていたからだった。
ピピッ。車の開閉音が顕著に聞こえる。前に乗れ、という俺の指示の通り、少女はぎこちない動作で助手席に乗って、シートベルトを締め、そのままじっと動かなくなった。
エンジンをかける前に、俺は人形に成り果てた少女に尋ねた。
「……耳、見てもいいか」
初めて、少女が顔を上げた。交わった視線、彼女の目の下には涙の跡がくっきりと残っていた。耳の痛みによるものだけならまだいいが、とその時は馬鹿なことを思ったものだった。
少女は少し迷った後、片手で抑えているガーゼをおずおずと取る。そして、変貌した彼女の耳を見て、俺は息が止まった。
「(肉まで抉れてやがる……)」
想像以上にひどいものだった。全体的に噛み跡が目立つが、極めつけは耳の縁が二箇所僅かに欠けている裂傷。見ているだけで痛々しい。これは、何針縫うことになるのだろうか。治療しても、きっと痕が残るだろう。それをこんな、ガーゼ一枚ぽっちで抑えるなどと。今も、耳朶まで血が伝っているというのに。
「……もういい。ありがとな」そう言うと、少女はすぐに耳をガーゼを覆った。傷を見せたくないからだとか、止血のためだとか、そんな理由ではないような気がした。俺の目には、まるで、あいつがやったことを覆い隠してしまいたいかのように見えた。
そして、今まできゅっと結んでいた彼女の口が、僅かに開いた。
――“ころびました”、と。
「は……?」
「わたしが……階段で、ころんで……けがを、しました」
か細い声で紡がれた音は、彼女なりの防御壁のようだった。この短時間で、そのか弱い腕で作った……少しつつくだけで脆く崩れてしまう、不格好で不細工で、小学生の粘土細工のようなものを、大人かつ弁護士である俺の目の前に掲げている。
こんなのは、誰の目から見ても嘘と分かる。少女も、それは分かっているはずだった。なのに、ころんだ、と。それだけしか言わない彼女に、俺も大人気ないことを言った。
病院に行けば分かる――そう言ってようやく、少女の口が閉じた。
診断名は人為的なものによる咬傷だった。しかし、医者にそう言われても、診断書を受け取っても、少女はじっと黙ったままで、肯定も否定もしなかった。できなかった、というのが正しいのかもしれない。
後に、灼空さんに連れられた空却がやって来た。灼空さんは普段通り厳かな様子でやって来たが、看護師の処置でされた分厚いガーゼに包まれた少女の耳を見て、見るからに顔色を変えた。仏から父親へ。坊さんの前に一人の親。灼空さんもあんな顔するんだな、とその時は場違いなことを思ったものだ。空却も、おおよそのことは灼空さん伝えたんだろう。ここが病院でなければ、少女がいなければ、「少々お見苦しいところをお見せする」と俺に一言断って、空却の頭部か顔面どこかを殴り飛ばしていたにちがいない。
「空却くんは、わるくないです」
「は……?」
少女に声に、最初に反応したのは空却だった。
「わるくないです」
「おいお前――ッ!」
「わるく、ないです」
わるくない、わるくない――空却に制させる暇も与えず、言葉に詰まりながらも少女は言う。挙句、灼空さんの足に縋り着いて、やがて涙を流しながら懇願をし始めた。空却くんはなにもわるくないからおこらないでください、と。ああ、彼女もこの場にある見えざるものを察したのか。ゆっくりと――おそらくは少女の願望通り――灼空さんの見えざる沸点が下がっていく気配があった。
――不意に、昔に聞いた雨の音が脳裏をよぎる。今の彼女がもう一人の少女と重なった。セーラー服を濡らして、髪を乱し、息も荒々しく、俺の足元に縋りついた。ちょうど、今の灼空さんのような立場に、俺はいたのだ。
――「つれて……ッ、つれてかないでくださいぃ……ッ」
少女は、何も変わっちゃいなかった。
考える時間などなかっただろう。事が何事もなく済む方法を。空却が罰せられない道を。その未熟な年齢で、その小さな体で、できることなどないと、彼女自身が一番よく分かっているはずだ。昔ならば、空却によって助けられた人間がいたが、今は、世界中の誰もが、悪者は空却だと指さす状況だ。
それでもなお、少女はあの時のように、誰かの足元に膝を折って、言葉で、感情で訴えるんだろう。そのたった一人が他人にとっての悪だろうが、自分に容赦なく牙をむけようが、彼女の根底に鎮座している人間は変わらないのだと、そう思った。
片膝をついた灼空さんは、跪いている少女を宥め始める。そんな中、俺はちら、と盗み見るように空却の様子を窺った。こいつの性格的に、ここで一つや二つ手が出そうなものを、空却は、泣いている少女を歪んだ顔でただ見下ろしているだけ。奥歯で苦虫をすり潰しているようなそれに、俺はやはり、気味が悪いとしか思えなかった。
女の成長というのは、存外目を張るものだ。
最初に出会った頃は、雨に濡れたセーラー服姿で俺の足元に縋りつき、二度目はその数年後――駅構内にて男に殴りかかっている空却を泣きながら必死で止めていた。そして、三度目は仕事の合間に偶然立ち寄った喫茶店。「いらっしゃいま――あまぐにさん?」お久しぶりです――そう言って笑んだ少女は、すっかり女の顔をしていて、応えるまでに柄にもなく時間を要してしまったほどだ。昨日くらいまでセーラー服を着ていたような気がしてならない彼女は、もう来年で成人を迎える。どうりで、俺も歳をとるわけだ。
「いつも悪いな。最近は喫茶店に行く暇もなくてよ」
「大丈夫ですよー」
そう言って、少女もといは朗らかに笑む。両手で丁寧に渡されたコーヒー豆が入った袋はほんのり暖かい。事務所に入ってきた時から漂うカフェインの匂いに、ここ連日続いた仕事の疲労も少しばかり吹き飛んだ。
美味いコーヒー目当てに贔屓にしている店はいくつかあるが、コーヒー豆のデリバリーサービスがあるのはの店だけなので、最近はすっかりこのコーヒーの味しか知らない。そして、配達に来るのはきまってだった。元々顔馴染みのおかげで、受付もスムーズに済むので余計な手間がない。店側もこちらの事情を察したのか、ここ最近は彼女以外の人間が来ることがないのだ。
いつもは仕事着である着物姿で訪問するだが、今日は珍しく私服だった。「今日は着物じゃねえんだな」「はい。午後からお休みなので、今日はこのまま直帰するんです」に言われて時計を見れば、たしかに十二時を回っていた。もうこんな時間か。
「……そういや、今月の新作見たか」
「みましたっ!」
食い気味で突っ込んできたの表情が花のようにぱあっと咲く。「もう飲んだのか」と尋ねると、「まだなんです……」と、一気に萎れてしまった。分かりやすい。
「今回はほうじ茶だっけか」
「はいっ。中にわらび餅が入っとって、上にはブラウンシュガーがかかっとるんですけど、見た目ほどそんなに甘くないみたいで、香りもほうじ茶そのままでっ――」
堰を切ったように話し始めた。普段はあまり自分の話を彼女だが、何かしらポイントを踏むとこういう風にわあっと話しだす。別に悪いことじゃない。むしろ好印象だ。こういう、普段しっかりしすぎているの年相応なところを垣間見ると、俺の大人心も少しばかり安心する。
俺もも、スタバのヘビーユーザーだ。俺は店に行ってもコーヒーしか飲まないが、は他にもフラペチーノやラテにも手を伸ばしているらしい。それを知ったのはがうちにデリバリーに来始めてまもなくの頃だった。知ったきっかけはもう忘れてしまったが、それ以降、お互いの共通の話題はもっぱらそれだ。は最近行けていないようだが、俺は出先の近くにスタバがあれば、否が応でも新作の看板を目にする。かくゆう俺も、ここ暫くはご無沙汰なのだが。
流れるように動いた手で、スマホ内にあるスケジュールを確認する。幸い、急ぎの用事も片付けたし、来訪客の予定もない。根を詰めすぎても効率が悪いからな、と思い、俺は椅子から立ち上がった。
「新作、飲みに行くか。今から」
「えっ!」
再び、ぱあっとの表情が明るくなる。いいんですか、と言わんばかりに目を輝かせている。こういう分かりやすい子どもは嫌いじゃない。うちのガキ二人を除いて。謙虚さの中にある子どもらしさと、図々しさの中にあるガキらしさとでは土俵が違う。むしろ、の爪の垢を煎じてあの二人に飲ませたいくらいだ。
「ちょうど俺もコーヒー飲みたいと思ってたところだ。ついでにうちまで送ってくが」
「いきた――」
の口から嬉々として出ていた言葉がぴたっと止まる。そして、「あ……えと、その……」と、みるみるうちにいつもの調子へと戻っていったので、俺は短く息を吐いた。
「遠慮すんな。こういう時は素直に甘えときゃあいい。むしろ、行きたいって言う方が礼儀だと思え」
分かったか、と視線だけで念を押すと、は曖昧にはにかんだ。彼女の生育歴を探るつもりはないが、ほんとうに、こういう時の遠慮のなさはあの二人を見習わせたいところではある。まだ二十代にもなってねえのに、ここで我慢の感覚など覚えたらこの先が思いやられてしまう。
「んじゃ行くか。忘れ物ねえか」
「はい。……あっ、忘れ物といえばひとやさ――」
が来客用の牛革ソファーを一瞥した瞬間、タイミング悪く俺のスマホが鳴った。
少し外に出てくる――に声をかける前に、ここでどうぞ、と彼女に手でジェスチャーをされた。ほんとよくできとんな。画面に表示された名前のガキとは大違いだ。
「……なんだ。今接客中だ。しょうもねえ用事なら切るぞ」
《今どこだ》
人の話聞けよ。荒々しい声色が耳に障りながら、また何を思いついたのかと別の思考回路を駆使して考える。正直に言おうか言わまいが悩んだが、バレた時の代償の方が大きいと結論づけた。長い思考の果てに、俺は溜息をつきながら電話の主である空却に口を開く。
「……事務所だが」
《よっし! もうすぐそっち着くから時間空けとけよっ!》
「はああぁぁ?」思わず素っ頓狂な声が出る。急なことだったものだから、が丸い目をしてこちらを凝視する。気にするな、と俺はすぐに手で制した。
「ちなみに、用件はなんだ」
《言うほどのことでもねーよ》
「言わねえなら事務所まで通さねえが」
人に憎まれる仕事をしている以上、受付という名のワンクッションは必須だ。俺がノーと言えば、この部屋に立ち入ることは許されない。
すると、ようやく上下関係を理解したらしい空却は苛立ちげに舌打ちをした。打ちたいのはこちらだというのに。《このあいだ、そっち来た時に忘れ物したんだよ》「忘れ物だぁ?」またしても調子の外れた声が出る。そんなもの見たことがないのだが。
ふと、の視線が刺さる。ちら、と見れば、どこから出したのか、彼女の手のひらサイズほどの紫色の巾着袋をこちらに向けている。やけにぼろく、老人が持つようなそれを見て、俺は「あー……」と声を漏らした。
「……紫色の巾着袋か」
《おー! それだそれ! 今から取りに行くから待ってろよ! 居留守使ったら承知しねえかんなっ!》
「あッ、おいちょっと待――ッ!」
ブツッ、と切れた通話に舌打ちをする。どんだけ世界中心なんだよあいつは。仕方がない、と俺はスマホをテーブルの上に置いて、こちらを見て惚けているにこう言った。
「悪ぃ。今から空却が来る」
「えっ!」
言おうかどうか迷ったが、ももうお察しだろう。長らく聞いていなかったであろう空却の名前を出したら、意外にもの反応は普通だった。普通というか、むしろ、「空却くんが?」と一瞬目が輝いたものだから、ん? と俺は内心首を傾げる。てっきり怯えられると思っていたので拍子抜けだ。
……まあいい。俺は引き出しから車のキーを取り出した。
「すぐ追い出すから、先に駐車場行っててくれ」
「だ、大丈夫ですよ。わたし、このまま帰ります。スタバはいつでも行けますし……」
「んなわけにいくか。いいから先行ってろ」
正直、あの自己中心的生臭坊主よりも良い子の塊であるに時間と金を使いたい。俺に賛同する声はきっと多いだろう。
わかりました、とおずおず了承したから巾着袋を受け取って、改めてそれをじっと観察する。紫一色の一枚布で、かなり年季が入っているのが見て取れる。縫合も、元々がお粗末な出来だったのか、所々修繕されている。空却が直したのか? いやまさか。でも何気に物持ち良さそうなんだよなあいつ。バトル中は何振り構わず公共物諸共ぶっ壊すくせに。
曰く、巾着袋はソファーの隙間に挟まっていたらしい。まったく気がつかなかった。どちらにしろ、空却の普段のイメージと違いすぎて、たとえこれの存在に気づいていても空却のものだとは結びつかなかっただろう。クライアントの忘れ物が精々だ。
「……これ、よく空却のだって分かったな」話している途中で電話主が粗方予想がついていたであろうにそう聞くと、彼女はふにゃ、と笑んだ。
「昔、わたしが作ったものなんです」
「は?」
「小学生の時に、家庭科実習できんちゃく袋を作ったんですけど、空却くんがそれくらいの大きさの袋が欲しいって、もらってくれたんです」
そう言って、は感慨深そうに巾着袋を見る。ひとまず、お粗末なつくりと思って悪かったことを心の中で謝罪しておいた。
……初めて二人と出会った時は、ただのクラスメイトではない思っていたが、まさか小学校からの付き合いだったとは。改めて考えると、この二人の関係について、俺はあまりよく知らない。二人と出会うときはいつだって修羅場だったものだから、聞く機会がなかった。気にならないといえば嘘になるが、自分から茨の道に踏み入れることもないとも思った。
――不意に、事務所のインターホンが鳴る。まったく、今度は誰だ。こんな時間にアポなんて聞いてねえぞ。
「……なんだ」受話器に出れば、馴染みの受付嬢だった。話を聞けば、いつもの……背の低い方の男の子が来た、と。はあ? 早い。早すぎる。さっき電話切ったばっかだったろうが。少し待たせとけ、と言おうとしたら、本人には話を通してあるからと言っていたから、受付を通してすでに部屋に向かっているとのことだった。
……おいマジか。頭を抱えつつ、俺は電話を切った。最近はチームの打ち合わせでこの部屋を使うことがあるので、受付嬢もいつもの感じで対応したのだろう。普段の習慣が裏目に出た。どうせ、あいつのことだ。いつもの素行に相反して、外行きのコミュニケーションを図ったにちがいない。あの確信犯坊主、無駄に外面だけはいいんだからよ――って、こんなことしとる場合じゃねえ。
「。どこでもいいから隠れとけ。今出たらあいつと鉢合わせちまう」
「ど、どこでも……?」
「ああ、ここのキャビネットでいい。狭いが、少しのあいだ我慢してくれ。すぐ追い出すからよ」
そう言いながら、俺はここ数ヶ月分の資料が敷き詰められたキャビネットを開ける。少しばかり狭いかもしれないが、小柄の彼女なら余裕だろう。
資料を退かした空間に、の体がのそのそとその中にすっぽり収まる。「きつくねえか」「はい、大丈夫です」キャビネットを閉めたと同時に部屋のドアが開いたものだから、柄にもなく肝が冷えた。
「……いくらなんでも早すぎんだろ」
「“事の消化はすべからく迅速に”ってな。自称多忙なお前のことを思って、一秒でも早く来て私用済ませてやろうってんだ。しっかり崇め奉れよ」
そう言いながら、ひゃは、と歯を見せながら笑った空却。眩しい赤髪が目の毒だ。あの厳格な灼空さんの下でどう育てばこんな節操なしに仕上がるのか、俺は甚だ疑問でならない。
キャビネットの方をなるべく見ないようにして、俺は口を開いた。
「そんな親切の押し売りはこっちからお断りだ。で、ここに来る前に受付嬢にどんなホラ吹き説法かましてきたんだ?」
「ホラ吹き言うな。拙僧はありのまま用件を伝えただけで、快く通してくれたぜ。やっぱ、拙僧の得の高さは分かる奴には分かんだよ」
何が得の高さだ。得意げに笑う空却に対して反論する気も失せてしまい、俺は大きく溜息をつく。余計なことは言わぬが吉だ。のためにも、そして俺のコーヒーブレイクの時間のためにも早くこいつを帰らせなければ。
「ほら、これだろ」そう言って件の巾着袋を渡す。「おー、それだ。あんがとよ」受け取ってそうそう、空却は巾着袋の紐を解いた。出てきたのはガムだった。どうりで異様に軽いと思った。空却はガムの包みを開けて口に含むと音を立てて噛み始めた。
「……それ、結構直されとるな」
「んあ?」
気がついたら口から言葉が出ていた。くっちゃくっちゃ、と暫くガムを噛む音だけさせていた空却。すると、「まァ、直しゃあまだ使えるからな」と言いながら、ふいっとそっぽを向いて巾着袋を懐に仕舞った。
直せばまだ使える――理由としては正当なのに、なんとも腑に落ちないのはなぜだろうか。まあいい、これで空却も用済みだろう。
「用済んだならさっさと出てけ。これから外出なくちゃいけねえんだからよ」
「へーへー。わァーった――」
振り向きざまに、空却が壁際にあるインテリアラックに目をやった。そこには、コーヒーメーカーや俺が厳選に厳選を重ねたコーヒー豆がストックされている。俺にとっては至福の空間だ。空却の目が留まったのは、今しがたが届けてくれた珈琲豆の袋だった。
――微妙な空気が事務所に流れる。空却が大股でラックの前に近づいたと思えば、そのコーヒー豆が入った袋を手に取って、俺の方をゆっくりと見遣った。
「……お前、あそこの喫茶店よく行くんか」
あそこの喫茶店――こいつらしくない曖昧な言い方に、俺は眉をひそめた。そういえば、空却の寺と案外近所だったな。に近しいことはあまり言いたくないが、だんまりを決め込んでもこいつの滞在時間が伸びるだけ。下手なことを言わなければいいだろうと、俺は渋々口を開いた。
「……まぁな。最近は忙しくて行けてねえが」
「にしてはあったけえんだが」
「注文したらあそこのスタッフが届けてくれるんだよ。焙煎したての豆をな」
「へーェ……」抑揚のない声を漏らす空却。穴が空くほど袋を見つめた後、ようやく元の位置に戻した。安堵したのを悟られないようにしながら、俺は空却が今しがた入ってきたドアを一瞥した。
「もういいだろ。さっさと――」
がたんッ!
突如、キャビネットの中から何かが落ちたような音がする。それだけなら猫だのなんだのと言い逃れができたものの、不幸なことに、「あいたぁ……ッ」という明らかな人語がくぐもって聞こえたものだから、一瞬にして逃げ道が消えた。
……じっとりとした空却の視線が刺さる。俺はあえて目を合わさずに、涼しい顔を繕うが、あまり意味を為さないことは自分がよくわかっている。今、俺の頭の中にあるのはの安否とこの状況をどう切り抜けるかのをどう切り抜けるかの二択だった。
「……獄。今日、あの豆届けたの誰だ」
「早よ帰れ」
「誰だって聞いとんだろうが」
「お前には関係ねえ」
しん、と静まり返る室内。そのまま引き下がってくれる相手なら、最初からこんな苦労はしていない。空却が迷いのない足取りでキャビネットの前に歩を進めたのを見て、俺は血の気が失せた。
「おいッ!」俺の制止の声も聞かず、空却はキャビネットの扉を乱暴にこじ開ける。飛び出してきたのは、棚の上部に片付けてあったはずの業務用の分厚いファイル。そして――
「……なにしとんだ。お前」
「ぁ……」
ああくそ、最悪だ
キャビネットの下段にいると対面した空却。頭頂部を両手で抑えているの絶望顔を見て、俺は顔半分を手のひらで覆った。よりにもよって、一番避けたかった状況下におかれるとは。今日は厄日か。一気に雲行きが怪しくなってしまった空気に、俺は早々に胃もたれがしてきた。
面倒なことになってしまった。
「あ、あの……くうこ――」
「あ゙?」
びくッ、とが肩を揺らしたのが横目で分かった。「なんでも、ない……」消え入る声でが俯くと、ぶすっとした顔で空却はふん、とそっぽを向く。わざとらしすぎる所作に、俺は二人の間に横槍を入れた。
「。その構ってちゃん坊主、単に機嫌取ってほしいだけだから気にする必要ねえぞ」
「だァれが構ってちゃん坊主だッ!!」
事実だろうが。俺が視線だけでそう訴えるが、空却はこちらをひと睨みした後、また顔を背けた。がちら、ちら、と空却の様子を窺っては何か言おうと口を開くが、結局はすん、と閉じられて、曇り空のような表情を地面に落とすばかりだった。
これでも、さっきよりはだいぶ鎮火した方だ。キャビネットの中でを見つけた瞬間の空却なんかは、人ひとり地獄に送ったばかりのような形相をしていた。の顔が青ざめる気持ちも分かる。
が事務所にいたことはもちろん、俺とが今の今まで交流していたことにも腹を立てていたようだ。「なんでこいつがここにいんだ」だからコーヒー豆届けてくれたっつっとんだろ。「なんで隠れとったんだ」お前と会わせたらそうやって突っかかるからだろうが。「今まで会っとったなんて一言も聞いてねえんだが」なんで俺のプライベートをお前に話さなかんのだ。答えても答えてもキリがない。なんで、なんで、なんで――ようやく癇癪が収まったと思えば、無言でを睨みつけては、特に何を言うことなく圧をかけている。はでただでさえ小さい体をさらに小さくしていた。仕事の業務で俺にコーヒー豆を届けただけだというのに、これではとんだとばっちりだ。
最悪なことはまだ続く。不機嫌な空却に踏ん切りをつけた俺は、「もういいだろ。さっさと出てけ」とを空却の意識から無理矢理切り外す。すると、空却は大きく舌打ちをした後、「おい行くぞ」と、なぜかも一緒に外に連れ出そうとするものだから、おいちょっと待てと止めた。
「あ゙? こいつももう用済んだろ」「はこれから車で送っていくつもりだったんだよ」「お前さっき忙しいっつっとっただろうが」言っておくが、空却に気を遣われているとはこれっぽっちも思っていない。こいつはおそらく、と二人きりになりたいだけだ。俺の目があるから下手なことはしていないだけで、俺がいなくなった途端にに対して尋問をするのは目に見えている。させるかっつの。
――時を戻す。そうして、なんだかんだで空却も一緒に車で送っていく羽目になってしまった。しかしまあ、被害は抑えられた方だろう。こいつの腹の虫は未だ収まっていないようだが。
事務所を出て、駐車場に向かっている最中。俺と空却が横に並び、その後ろからが大人しくついてきている。しかし、空却の棘のある言葉はすべてに向かって放たれていた。
「そうやってこそこそされんのが一番腹立つんだよ……。会いたくねえならそう言やあいいだろうが」
「そ、そんなことな――」
「じゃあなんであんなところ隠れた? 獄と隠れ鬼でもしとったんか?」
「隠れろっつったのは俺だ。は俺の言うことに従っただけで何も悪くねえよ」
「へー。獄の言うことならほいほい聞くんだなお前。機械かよ」
ああ言えばこう言う空却。後ろにいるを見向きもせず言いたい放題だ。俺が間に割り込んでも無意味に終わる。こいつの言葉は俺が作った壁を上手くすり抜けていって、の体をぐさぐさと刺していった。うんともすんとも言わなくなってしまったが心配になり、俺が後ろに目配せすれば、今にも消えてなくなりそうながしゅん、と肩を落としていた。
……こんなん、に八つ当たりしとるだけだろ。せっかくいい気持ちでスタバに行こうとしていたのに、すべてがおじゃんだ。こうなったら一刻も早くこの坊主を寺の前にほかって行くしかない。そう心に決めた俺は、ビル前にあるロータリーで立ち止まった。
「空却。今からここに車持ってくるからお前も来い」
「めんどくせーから嫌だ」
そう言うと思った。しかし、ここまでは予想通りだ。特に不平を言うことなく、俺は次にへ視線をやる。不思議そうに俺を見上げると目が合った。
「ならでいい。俺と来てくれ」
「はい、わかりま――」
「おいちょっと待てや」
一歩前に出て俺の隣に来ようとしたを空却の腕が制す。なんだよ。踏切のようにの道を塞いだ空却は、牙のような鋭い眼差しでこちらを睨んでいた。
「余計意味分からんわ。お前だけ行ってこいよ」
お前とを二人きりにさせたくねえんだよ察しろよ。
ばちちッ、と俺と空却の間で火花が散った気がした。こいつにとって耳が痛いことをあえて言わないでいてやっているのに、好き放題しやがって。がいる手前、自重してやっていたが、お前がそういうつもりならこっちも出るとこ出るぞ。
「お前な――」
「わたし、空却くんとここで待ってますっ」
おそらく、この険悪な空気を読んだんだろう。俺の言葉に被せるようにして、が口を開いた。そして、彼女の両手が鉄棒を持つように空却の伸びた腕をがしッ、と掴む。珍しく積極的なに、俺も言葉に詰まってしまった。
俺が言おうとしたことを察したのか、そうでないのか。どちらにしろ、俺は反対だった。なにするか分かんねえぞこいつ――そう思いつつも空却の方を見たら、意外にもこいつも石のように固まっていた。おい、さっきの威勢はどうした。空却はの小さい手を振り払いもせず、じっと彼女を見下ろしている。
「ね、待っとるよね。ね」少しばかり必死な様子のに見つめ返された空却。後に、「……おぅ」とだけ呟いて、体からふっと力が抜けていく。ついに腕も下ろされて、もほっとした表情で俺を見上げた。
大丈夫です――まるで、そう言わんばかりに。の微笑を捉えた俺は、用意していた言葉を深い溜息と一緒に空気に溶かす他なかった。
――俺も、身内にはことごとく甘くなってしまったらしい。
「(あいつ、何も進歩してねえな……)」
エンジンをかけて、ゆっくりとアクセルを踏む。駐車場から出た俺は二人が待つロータリーに向かいながら、昨年の出来事を頭の上に思い浮かべていた。
の自宅の二階から聞こえてきた物音。しばらく経ったらしんと静まり返るも嫌な予感しかせず、一階に降りてきた二人を見て、俺は固まった。の右耳の流血、空却の口の端についた血痕――今でも、すべての光景が鮮明に思い出される。
二人が会うのはあの件以来だとすると、約一年ぶりの再会のはずだが、それにしては距離が近い気もする。どうなっとんだ。まるで昨日か一昨日に会ったかのような距離感だ。は空却の名前を出しただけで嬉しそうな反応をするし、空却も空却で、彼女を自分の持ち物のように扱っている。
彼氏でもねえくせにでかい顔しやがって。どんな気持ちで加害者のお前が被害者の隣にいやがる。いくら部外者の俺がそう思ったって、本人がその関係を認めないのだからナンセンスだ。どちらにしろ、早いうちに戻らなければ。何かあれば俺の監督不行届で責任を取らなければならない
ロータリーを半周してようやく、二人の影を見つけたので、ゆっくりとアクセルを緩めた。すると、なぜか二人は向かい合わせになっていて、さらには空却の手がの頭頂部に伸びていたので、俺はぎょっとした。は? 思わずクラクションを鳴らしたのも必然だった。
ほぼ同時に肩を揺らした二人の前に車を停める。いったんエンジンブレーキをかけ、リアサイドウインドウを開けると、開口一番に空却が「うっせーよッ」と文句を言ってきた。お前がいかがわしいことしとるからだろうが。
「空却、お前さっき何しとった」
「あ? 別に何もしてねえよ」
「の頭触っとっただろうが」
「見えとったなら聞くなっつの」
今日のこいつ、いつもの数倍腹立つな……。ばちッ、とお互いの間で再び散り始めた火花。がおろおろとしながら俺と空却を交互に見遣っているのが分かる。なんとなく、ほのかに頬が赤いのは気のせいか。
「つか、」不意に、空却があからさまに喧嘩腰になって一歩前に出てきた。
「こいつ、獄のせいで頭にたんこ――ッ、ぅぐッ!」
瞬間、空却の声が裏返る。見れば、が空却の後ろからスカジャンを引っ張っていた。かなり強めに。ばッ、と振り向いた空却がどんな顔をしているのか分かりかねたが、珍しく、も一歩も譲らないような固い表情をしていた。
「おいなにすんだッ!」
「い、言っちゃかんっ」
「はあ!? お前この期に及んで気ィ遣っと――」
「わたしが体制崩してまったのがいかんかったからっ」
「いや元はと言えばこいつが変な場所にお前仕舞ったのが悪ィ――」
「ほんとうに平気だからっ。わたし、石頭だからっ」
「そういう問題じゃねーんだよッ。つか、人が話しとる時に言葉被せんじゃ――っ」
「おねがい空却くん……っ」
すると、明らかに空却の体が固まったのが分かった。と思えば、次は全身をぶるぶると震えさせて、「ッ、ああぁぁああくそッ!」とその場で地団駄を踏んだ。腫れたのように耳を真っ赤にしながら。
……つか、普通に話せとんな二人とも。さっきの不穏な空気はどこにいった。なんとなく微妙な雰囲気になっていた二人に、「おい、早よ乗れ」と急かした。は頻りに頷いて応えたが、空却には無言で睨まれた。んな赤い顔で何されても怖かねえよ。
しかし、問題は続く。まるで打ち合わせでもしたかのように空却が助手席、が後部座席に乗ろうとしたので、俺は性急に声を張った。
「おい、を前に乗せろ。お前は後ろだ」
「はあ!? なんでだよッ」
「お前、ダッシュボードんとこに足置くだろうが」
「置かねえ」
「置かなかったことがない奴に何言われても説得力ねえよ」
それでも前がいいと駄々をこねる空却に頭痛がしてきた。子供か。あと本当にと同い年か。つか、十四といる時は大人しく後部座席に乗るくせに何だこの差は。こうなれば、二人とも後ろにすりゃあいい話だが、心なしか不安だった。
――ああ、なるほど。そういうことか。
「はどっちがいい」
「え?」
「おい」
空却の制する言葉をスルーして、俺は蚊帳の外だったに話を振る。ならこの空気を上手いこと読んでくれるにちがいない。何度も困らせて悪ぃな。この生臭坊主のせいで。
「わ、わたしは……」が俺を一瞥した後、空却をちょろっと見上げる。空却は彼女にじっと圧をかけて、下手なこと言うなよ、と眼力だけで訴えていた。はお前のペットじゃねえぞ。
「わたしは……後ろに乗ります」
「ほぉーら見ろッ!」
「空却くんとっ」
「は?」
空却のテンションが一気に下がる。俺にとっても意外な返答だった。空却を前に乗せたくないかつ二人を隣同士にさせたくない俺。そして、前に乗りたいかつ俺とを隣同士にさせたくない空却の願いを一つずつ叶えた、これ以上にない中立案だ。
……本当によくできた子だな。おかげで、あれだけ騒いでいた空却がすん、と黙った。すると、何かを勘違いしたらしいが「狭かったら、わたし、端に詰めるし、隣がやだったら、その……」と口をもごもごさせている。一方の空却は「……別に、嫌って言ってねえだろ」と口の先だけで小さく紡いでいた。
すると、は目を丸くした後、ぱぁっと笑む。空却の表情は変わらなかったが、一瞬だけ指先がぴくっと震えたのを偶然捉えてしまった。正直見たくなかった。
……マジでなんなんだこの二人。お前ら、お互いに何をして何をされたか忘れてとんのか。覚えているのは俺だけか。まったく先の読めない二人に対して、俺はこめかみを片手で抑えながら小さく息を吐いた。
「空却。ちゃんとシートベルトしろよ」
「なんで拙僧だけに言うんだよッ」
「は言われなくてもするからな」
俺の車に乗るたびに、隙あらば運転席に乗り出そうとする空却に釘を刺す。大きな舌打ちの後にかちッ、と乾いた音が聞こえてきたので、俺はようやくカーナビの操作に集中できた。
仕事の合間ならば近場の支店に入るが、今日はもいるので、少し足を伸ばして内装も見晴らしもいいところをチョイスすることにした。カーナビ上に表れたいくつかのルートを選択している最中、「あれ……? あれ……?」とが不安げな声を漏らす。そして頻りに、かちんっ、かちんっ、と何かが引っかかっているような音がする。おそらく、シートベルトのロックがかかってしまったんだろう。
「おい……何ちんたらやっとんだ」
「こ、これ以上伸びんくて……っ」
「はあ? 変な方向から引っ張るからんなことになるんだろうが」
カーナビを弄りながらも、俺の意識は後ろに向いている。かちんっ、かちんっ。が悪戦苦闘している様子が運転席まで伝わってくるが、それでもいっこうにシートベルトが緩やかに滑る音は聞こえてこない。
それを見兼ねたらしい空却が「ったく……いったん手ェ退けろ」と呆れながらに言う。そしてその後、かちッ、と軽快な音がして、空却がバックルを外したのだと推測した。
「よッ……と」車体が僅かに揺れて、後ろがやや騒がしくなる。がちんがちんッ、と乱暴にシートベルトの装置を弄る音がするが、まあ、今回は目を瞑ってやる。その間に、俺はカーナビのスクリーンをタッチしながら道順を定めていく。あー、帰りはカミマエヅに寄らなかんから、こっちのルートの方が最短距離で済――
「(……いや待て)」
はたとする。どうやって空却がのシートベルトのロックを外すんだ。装置はドア側に取り付けられているし、車から降りてサポートするならまだしも、空却は自分のシートベルトしか外していない。を挟んだ向こうにある装置をどうやって弄っとんだお前。
嫌な予感がする。俺が後ろを振り向いたのと、ばふんっ、と車体が大きく揺れたのはほぼ同時だった。すでに、空却は肘置きに頬杖をつきながら窓の外を見つめており、は口の形をくにゃっとさせながら両頬に手を添えている。抑えていても分かるくらい真っ赤だった。俺が二人を凝視していると、気づいた空却が視線だけをこちらに寄こした。
「……なに見とんだよ。もう締めたぞ」
そんなことこっちは気にしてねえんだよ。
ほぼゼロ距離でなければ、ロックを解除するのは物理的に不可能な位置関係。二人に色々と問い質したいことがあったが、「早く出発しろよ」と言いながら、空却が俺の席を後ろからげしげしと蹴り上げるのでそれも言えずに終わってしまった。おいやめろシートが汚れるだろうが。
……まあいい、すべて終わってしまったことだ。俺は諦めて、渋々車を発進させる。ロータリーから大通りに出ると、しばらくは道なりが続く。凹凸のない平坦な道かつ、エンジンの音も控えめなので車内はほぼ無音。いつもは煩わしく思って消すラジオがこんなにも必要だと思う日が来るとは思わなかった。空気が重い。いつもなら煩えと言っても、一人でべらべらと話し出す空却が、俺の車の中で十秒以上黙っていたことはない。おいいつもの無作法ぶりはどこいった。さすがの俺も動揺する。こういう時に十四がいたら、適当に音楽を飛ばしたり、どうでもいい話を店に着くまで話してくれるんだが。
……そういやこの間会った時に、あいつものこと知っとるみたいだったな。「獄さんもちゃんのこと知ってたんすね! ところで、空却さんとちゃんってどういう関係なんすか? 幼馴染なんすか? 空却さんは違うって言ってたんすけど、小学生から知り合いなのはもう幼馴染っすよね? そうっすよね? 獄さんはどう思いますっ?」「まず質問の上に質問を畳み掛けるのやめろ」質疑応答の手順も分からない十四を軽くあしらいつつ、俺が聞きてえわ、と心の中で呟いたものだ。
空却本人にのことを聞いても、腹に当たるもんでも食ったかのように口数が減る。そんな調子で、に関わることは一切話そうとしないのだから意味が分からん。巾着袋の件もそうだ。まるで、自分がかき集めたお宝をひっそりと宝箱の中にひっそりと隠しているような――そんな雰囲気だった。
「……なんだよ。こっちちらちら見やがって」
「あ……」
目の前の信号が赤になる。それと同時に、後部座席に動きがあった。俺の視界はもちろん正面を映しているが、耳だけは二人の声に傾いている。空却の口ぶりからして、が空却の方をじっと見つめていたようにとれるんだが……本当か? お前の自惚れが混じった勘違いじゃねえのか。
「え、と……。大したことじゃ、ないんだけどね、」
「だからなんだ」
「そのきんちゃく袋、まだ持っとってくれたんだと思って……」
「……持ってちゃ悪ィかよ」
どうやら真実らしい。マジかよ。そして、空却のひねくれ具合がいつも以上に振り切っていて、俺は吐きそうになった溜息を飲み込んだ。あまりにも会話が炎上しようものなら俺が口を出すところだったが、は「ううん」と柔く引き下がった。
「うれしいなぁって」
青信号になって、ブレーキを徐々に緩めていく。
の声色は笑んでいた。むず痒い沈黙が車内を満たし、俺はほんの一瞬だけ息が詰まった。そして、「……ガム入れるのにちょうどいいから、使っとるだけだ」と空却の歯切れの悪い声がして、その後に「そっかぁ」というの和やかな応答が続いた後、会話がふつりと終わった。
……おい、なんだこれ。青臭さすぎて胸焼けがしてきたんだが。そう感じとるのは俺だけか。二人とも、黙るのはこの空気なんとかしてからにしろ。気が散って仕方がない。かといって、あまりに深堀りするとハンドル操作を誤りそうになる。店に着くまで、俺はもう余計なことを考えまいと割り切り、運転にじっと集中した。
市内ならば地下鉄の移動が手っ取り早いが、やはり愛用車の空間の方が落ち着くものだ。それに、人混みにもみくちゃにされるのは好きじゃない。もあれ以来、電車には乗っていないようだったのでちょうどよかった。
信号を右折して、ようやく馴染みの看板が見えてきた。時間が時間だから混んでいる可能性もあるが、まあそこらへんは店内に入ってから考える。すると、後部座席から「おい、」と苛立ちげな声がかかった。
「獄、どこ向かっとんだ。そっちはオオスでもカミマエヅでもねえだろ」
「スタバ行くんだよ。コーヒー飲んでからお前ん家に寄ってやる」
「行かねえ。引き返せ」
こいつ……。自己中も大概にしろよ。しかし、ハンドルを握っているのはこの俺だ。空却の意見を無視してスタバの駐車場に入ると、後ろからシートを再度蹴られる。「おい無視しとんじゃねーよッ」うるせえよ今から駐車すっから黙ってろ。
「なら、お前だけ車に残ってろ。俺はと飲んでくるからよ」
「は?」
白い線と平行になった車に満足して、鍵を抜き取る。エンジンの振動が止んでから、「、着いたぞ」と彼女に向かって声をかける。かちッ、と一人分のバックルを外す音が聞こえるが、ドアが開く気配はいっこうにない。不思議に思って後ろを見れば、案の定、空却に睨まれたがその場から動けないでいた。今日のお前マジでなんなんだよ。
「お前も珈琲飲むのかよ。つか飲めんのか」
「う、うん。ミルク、ちょっと入れたら飲めるよ」
「ガキん頃、うちの渋茶も飲めなかったくせに」
渋茶とコーヒーを一緒にすんじゃねえ。的外れた空却の言葉に、が困ったように笑んだ。さながら、言うことをまるで聞かない犬の駄々を見守るブリーダーのようだった。
さすがの俺もお手上げだ。今日のこいつはいつも以上に何を考えとんのか分からん。それでもなお、つーん、とへそを曲げた空却を見捨てもせず、は続けて口を開いた。
「あっ、でもね、今日は新作のフラペチーノが飲みたくて……」
「ふら……は?」
頭にクエスチョンマークを浮かべている空却を見かねたが、自分のスマホをさっと取り出す。そして、少しだけ腰を持ち上げたかと思えば、スマホが見やすいようにと、空却との距離をきゅっと詰めた。その時、空却の体が一瞬びくついたのを、俺は見逃さなかった。
「フラペチーノはね、細かく砕いた氷をベースにして、その中にシロップとかホイップが入っとってね――」フラペチーノの画像が出てきているであろう画面を見せながら、が空却に説明するも、当の本人はスマホを持ったばかりの老人のように眉をひそめては首を傾げるばかりだった。
「あー……要するにあれか。しゃばしゃばした氷菓子みてえなやつか」
「うんっ。そんな感じっ」
少し……いや、かなり曲解しているが、が嬉しそうに肯定してしまったのでまあ良しとする。エンジンを切ったのにも関わらず、が嬉々として話し始めたので、俺も外に出るタイミングを逃してしまった。
「それでね、今ね、期間限定でほうじ茶の味が出とってね――」
空却にスマホを見せながら嬉しそうに話す。俺の時とは違って、自分の好きなものを話すことよりも、まるで空却と話せること自体を楽しんでいるようで、馬鹿か俺は、と自嘲した。俺もついに幻覚が見えるようになってしまったらしい。今、無性に目頭を押さえたい。
そして次に、隣の空却を見る。うるせえよ、とも言わずに、の話を黙って聞いている。スタバに行きたくないどころかフラペチーノも分からなかったくらいだ。の話など、さして興味もないだろうに。
案の定、が丁寧にスマホを差し出しているのに、空却はスクリーンなど一切見ていない。スマホを見つめたままスクロールしているのことを、じっと――
「(……おい、おいおいおい)」
眼前にある光景を疑う他なかった。目を細め、慈しむような眼差しを彼女に浴びせているこいつは、俺の知っている空却じゃない。こんなん、仏でもなんでもねえ。男として特別なものでつくられたそれの意味を、俺は改めて目の当たりにしてしまった。
……ゆっくりと、正面を向き直す。すっかり二人の世界になったことに深い溜息をついて、今日はブラックにしようと心に決めたのだった。
俺には我慢ならないもんが二つある。一つ、パーソナルスペースの狭いカウンター席。二つ、ドリンクを完飲したのにも関わらずいつまでもでかい声で駄べり続けるグループ客だ。大型チェーン店のカフェはどこもかしこもそんな感じで、最近はほとんどテイクアウトで済ませてしまうが、状況によっては妥協してやらんこともなかった。そう、今日のように。
幸い、店内は特段空いているというわけではなかったが、空席はほどほどにあった。レジに並んでいる最中、が「わたし、席とってきます」と言ったので、俺はそれをやんわりと止めた。が一人で行けば、おまけで空却もついてくるにちがいないのだから。それに、この空き具合だ。先に席を取ってほしいと店員に言われることもないだろうと思った。
一方の空却は、カウンターの向こう側に飾られているメニュー板を見て固まっていた。まあ、コーヒーも紅茶も飲めねえお前が飲めるのなんてほぼねえだろうな。の話を聞いてから、見栄を張って「拙僧も行く」なんて言うからだ。正直、俺はいい気味だと思っている。
「おい獄、品書きってあれか」
「メニューって言え」
「ほぼ英語なんだが」
そりゃあ、アメリカから進出してきた店だからな。フラペチーノが分からなかった時点で予想していたが、案の定空却はぽかんとしてメニューを見上げるばかりだ。
不意に、まさか、と俺は一抹の不安が過ぎった。
「空却お前、今までスタバ来たことねえのか」
「ねえ」
浮世離れにも程があんだろ。
俺の方を見ずに、空却はメニューに書かれた小文字の日本語にじっと目を凝らしている。そういや……こいつ何気に坊ちゃんなんだよな。五百年以上続く寺の跡取り息子――食事の最初と最後の挨拶は欠かさず、ごく稀に大人の俺も目から鱗が落ちるようなことをさらっと曰う。本当に、ごく稀にだ。基本ステータスは小学生のようなボキャブラリーと悪ガキ素行のオンパレードなのを忘れないでほしい。
未だあっけらかんとしている空却をひとまず放置して、「、自分で注文できるか」と後ろにいるに問いかける。案の定、彼女は難なく頷いた。さすがだ。はこのままにしておいても大丈夫だろう。あとは――
「空却。お前は何にする」
「茶でいい」
「ティーなら色々種類あるからあの中から選べよ」
「はあ? 茶は茶だろ」
何言っとんだお前、と言わんばかりに俺を見上げる空却に、いやお前が何言っとんだ、と内心突っ込んだ。平然と問題発言をする空却に、今度は俺があっけらかんとする番だった。
空却の言っている茶は麦茶とか緑茶とか、おそらくはそういう類だ。こいつ……マジで言っとんのか。せめていつもみたいににやにやしながら言えよ。んな真顔で言うんじゃねえ。突っ込みづらいだろうが。
「んなもんねえよ。ここはコーヒーと西洋茶しか置いてねえ」
「はあ? 喫茶店なんだから茶くらいあるだろ」
「おい……。声潜めるか俺達と数メートル離れるかどっちか選べ」
「あ? なんでだよ」
「連れと思われたくねえ」
「公衆の面前で喧嘩売っとんのかッ!」
公衆の面前で恥晒しとるお前よりかはマシだ。あと、ただでさえその見目だけでも目立つんだからあんまでかい声出すな。さっきから前にいる客にちらちら見られとんだよ。
「空却くん、」突如、が前方の空却に向かって呼びかける。いつの間にか、レジ待ちの客用の簡易メニューを手に取っていた。それを空却に見せるために、少しだけ距離を詰めていた。メニューに集中しているの隣で、またしても体が固まらせている空却は、の頭頂部を見開いた目で見下ろしている。
「あのね、さっき話しとったフラペチーノね、抹茶味もあるよ」
「……なら、それでいい」
すん、と大人しくなった空却に向かって、は柔らかく笑みながら列を詰める。もう次の番だ。抹茶フラペチーノ――サイズとかカスタムとかどうするんだ。しかし、は特に何も聞かずににこにことしている。おい大丈夫か、こいつホイップ飲めんのか。
そうこう考えている間に、「次でお待ちのお客様――」と、ついに俺たちの番がやって来てしまう。俺がまず先頭に出て、と空却もそれに続いた。にこやかに挨拶した店員に向かって、「トールのドリップコーヒー。アイスで」と端的に言う。財布からスタバのカードを出しながらに視線を促すと、すでに彼女は俺の隣にやって来ていて、メニューを覗き込みながら店員に話しかけた。
「トールサイズで、ノンファット濃厚抹茶フラペチーノエキストラパウダーを一つください。シロップとホイップはなしでお願いします」
「は?」
いつの間にかの横についていた空却が声を上げた。今の、濃厚抹茶くらいしか分からなかっただろうな。いいからそのまま黙っとれよ。空却に向かって念を込めながら、俺はのオーダーを見守った。
「あと、トールサイズでほうじ茶クリームフラペチーノエクストラホイップを一つください。キャラメルシロップとアーモンドトフィーシロップも多めで――」
「中のホイップとシロップも増量しますか?」「お願いします~」おそらく、早く飲みたくてうずうずしているんだろう。そんなの笑顔に、店員もさらに笑みを濃くしてオーダーを聞き入れていく。これではどちらが接客しているのか分からなかった。
その最中、そそ、と空却がの背後を挟んで、俺の背中をばしん、と叩いた。いってえな。俺とを見比べながら、空却はじっとりとした目をこちらに向けている。
「おい獄……何言っとんだこいつ」
「注文したんだろ」
「何語だ」
「日本語だ馬鹿。、わらび餅も付けていいぞ。金かかるからって遠慮すんな」
世間知らず坊ちゃんの声は聞こえないことにした。今、がしたのは無料でできるカスタムだけだが、俺がそう言うも、は困ったように首を振った。「……以上で」と俺が静かに言うと、モニターに金額が表示される。
店員とのやり取りの傍ら、ぽかんとしている空却に向かって、俺ははん、と鼻でせせら笑った。
「よかったな空却。が気ぃ回してくれてよ。俺はここでおどおどしとるお前が見たかったが」
「てんめええぇぇ……ッ!」
きいッ! 睨まれても全く怖くない。あれから時は流れたといえ、こいつもまだまだ未成年。こう見れば、存外可愛いものだ。
のおかげで、空却の分もスムーズに会計が終わり、「右側のカウンターでお待ちください」と店員に誘導される。言われるがままがすす、と前に進んでいくと、空却もその後に続いた。「おい待て」俺が空却の肩を掴むと、「あ?」と、空却が首を捻らせて顔だけをこちらに寄こした。
「お前は席取ってこい。ちゃんとテーブル席選べよ」
「んなこだわりあんならてめえで行けや」
「いいから取ってこい」
に、色々と聞きたいことがあるからな
これは悪ふざけじゃない。俺の有無を言わさない圧を、空却も察したらしい。ほんの少しだけばつ悪そうな顔をしたと思ったらそれをすぐに背けて、空却は無言で店の奥に消えていった。足取りが若干不服そうだったのは、見て見ぬふりをしてやった。
さて……と。俺はと同じく、ドリンク受取口であるカウンターの前に立つ。その間、隣にいるはじっと空却の背中を見送っていた。なぜか、その視線はどこか熱っぽい。カウンターの向こう側でバリスタがせかせかと動いている中、俺はにこそ、と話しかけた。
「なあ。一つ聞いていいか」
我に返ったがぱっと顔を上げる。不思議そうな眼差しを帯びるの目と合い、俺は言葉を続けた。「空却と、最後に会ったのっていつだ」俺の問いに、は瞬きを数回して、さらりとこう言った。
「昨日です」
「は!?」
思わず声が裏返ってしまった。「空却くん、お仕事が終わるとお店の前で待っとってくれとって、おうちまで送ってくれるんです」さらに衝撃な事実を叩きつけられて、俺は頭が真っ白になった。
「それは……毎日か」
「ち、ちがいます。空却くんから行けないって連絡がある日もあるので」
「一昨日は連絡があったから、一人で帰りました」いや、そういう問題じゃないんだ。の言葉に、俺は柄にもなく混乱していた。いや、落ち着け。一つずつ整理しよう。伊達に無敗の弁護士の肩書きがついているわけではないのだ。
空却がといても平然な顔をしていたのも、が空却と出会ってもにこやかなままでいるのも、あれからも二人の間で交流があったから。その上、理由がの仕事終わりの迎えだと言う。これは、は何も悪くない。おい空却、あんなことしておいて誰の許可を得てそんなことやっとんだ。
そもそも、の仕事って夜遅いんじゃなかったか。空却も寺のことがあんのに、その時間まで起きてるってことか。灼空さんはこのこと知っとんのか。いや、知ってなきゃあ空却の外出を許すはずねえよな。一度怪我を負わせた女の子を迎えに行くってどういう神経しとんだ。百歩譲って危険な夜道の迎えは大目に見てやるとしても、連絡があったら行かねえってなんだよ。連絡があったときに行ける、だろ普通は。の口ぶりだと、毎日とまではいかなくてもほぼ毎日と言っても過言ではない頻度だろう。
俺は重々しく溜息をつく。ようやく事の全貌が露わになって、頭がすっきりしてきた。一方で、「ひとやさん……?」と不安げな声を上げる。ここで取り繕っても無駄だ。俺は率直な感想をそのまま述べた。
「空却のこと、怖くねえのか」
こう聞けば、の表情が固まることくらい予想していた。それでも、問わずにはいられなかった。なぜなら、俺は今でも覚えている。えぐいくらいに流血したの耳を。彼女が味わったであろう痛みを。あの行為を、が甘んじて受け入れたとは思えない。無理矢理拘束されたか何かされたのだ。実際、あの時のの両手首には痕がくっきりと残っていた。
の目が弱々しく揺らぐ。ふっと伏せられた姿を見て、可哀想だとも思ったが、俺は心を鬼にしてそれすらも飲み込んだ。
「いまは……なんともないので。耳も、もう痛くないので」
「あのな……。何ともないっつったって――」
「空却くんは、」
俺の言葉を遮って、の声が突っ込んできた。少し豆食らってしまい、思わず俺も口を閉ざしてしまう。声が若干震えて大人しいこの子も、言う時は言うのだと、そう思った。「空却、くんは……」
「理由がなかったら、絶対に、怒ったりしないです。ほんとうに、これは、絶対です。だから、わたしが、空却くんを怒らせるようなことを、知らないうちに、しとったんです」
一語ずつ、噛み締めるように重たい言葉を落としていく。俺自身、の言うことに同意できる部分もある。空却は馬鹿ガキだが、理不尽なことで人を傷つけることなどしない。しかし、人以上に気遣いのできるが、空却の堪忍袋の緒を切れさせる何かをしていたとも、とても思えなかった。
「……空却を怒らすようなこと、心当たりはあんのか」
は小刻みに首を振る。そりゃあそうか。分かったら苦労しねえよな。「本人に聞いたことは」続けてそう尋ねても、彼女はまた首を振った。怖くて聞けない、という雰囲気だった。
すると、「ひとやさん、」と、ふっと顔を上げたの口角は、やんわりと緩められていた。
「最近……少しだけ、昔みたいに、話せるようになったんです」
道端に咲いた小花を慈しむように目尻を緩めながら、は続けてこう言った。
「桜散ってまったね、とか、日が長くなったね、とか、どこかの家から煮物のにおいするね、とか……。それで、空却くん、そのたびに、そうだな、って、あいづち、うってくれるんです。お迎えの連絡でもなんでもない、ふつうのお話、できるようになったんです」
そんな他愛のないことを、世の奇跡のことのように言うを見て、時間と共に荒んできた胸が痛んだ。にとっては、たったそれだけでも笑顔を浮かべる理由になるんだろう。一度傷つけられた相手だろうがなんだろうが、の根底にあるものは、何一つ変わらないのだと。「だから……」
「このままで……このままが、わたし、いいんです」
が、俺に気を遣っている理由がようやく分かった。の傷を知るのは本人達の他に、俺と灼空さんだけ。俺が一言種火を与えれば、その時の記憶がいとも容易く呼び起こされる。それを、この子はひどくおそれているのだと。
触れられたくないのだ、過去の痛みを。壊されたくないのだ、今の距離感を。空却の気まぐれで持っている糸を懸命に手繰りよせ、小さな毛糸玉にして大切に持っている。空却が手を離すか、ある日ぷつっと切れてしまうかすればなくなる、脆い縁だ。まあ、前者はおそらくないだろう。が、それを望まない限りは。
……なんとも厄介な二人だ。はあ、と思わずついてしまった溜息に、が怯えるように肩を震わせる。ほんとうに、も、あいつのどこがいいんだか。俺はすぐさま、健気な彼女に向かってふ、と笑んだ。
「安心しろ。がそう言うなら、俺も過度に介入はしねえよ」
「トールのドリップコーヒーでお待ちのお客様――」そんな声とともに、カウンター越しにバリスタからコーヒーを受け取る。そして、は二人分のフラペチーノを持って、隣接しているワゴンに行ってふきんを数枚抜き取っていた。「あの、」
「ひとやさん、ずっと気遣ってくれてたんですよね。ありがとうございます」
「まさかあれから空却と会っとるとは思わんかったからな。それに、にとっちゃあただのお節介だったろ」
「そんなことないです」そう言って、は曖昧に笑んだ。ふきんを指の間に挟んで、フラペチーノを再度持つ。そうだ、これはお節介だ――自分で言っておいてなんだが、俺もそんなことを無意識にしてしまうくらい歳をとったのだと思った。そのついでだ、と俺は再度口を開いた。
「、後学のために一つ覚えとけ」
すると、は再度俺を見上げた。仕事関係で知り合った人間については、疎遠とまではいかなくとも浅く付き合っていく主義だったが、空却の傷害事件から知っている少女だ。おまけに素直で誠実で純朴。贔屓にしない理由がない。少しくらい手をかけても、罰は当たらないだろう。空却にはぐちぐち文句を言われるのだろうが。
「男ってのはな、女の欲求を満たしてそれをステータスにする生き物だ。金だろうが言葉だろうが行動だろうが、手段を選ばず、だ」
いまいち要領を得ていないはぽかんとしている。そこのところはまだまだ子供のようで、く、と喉の奥で笑った。「まあ要するに、」
「あの腐れ坊主見習いに、我儘の一つくらい言ってみろってことだな」
言いたいことあったらとりあえず言ってみろ。聞き入れてくれるかどうかは置いておいて、頭ごなしに邪険にする奴でもねえだろ
言うだけ言って、俺は店内をぐるりと見渡す。そして、店の奥の方で目立つ赤髪を見つけた。窓際の角席……あいつにしてはいい席とったな。「行くか」と、に声をかけると、彼女はどこか上の空のままこくん、と頷いた。
が、俺の言葉をすべて理解したかどうかは五分五分だった。しかし、テーブルに向かっている最中、「わがまま……」と俺の後ろで復唱していたので、なりに言葉を飲み込んでいる最中だということは分かった。そうだ、それでいい。行動に起こすかどうかは次第。彼女だけが見えていないだけで、その先にも道は続いているのだと気づかせてやるくらいしないと、は、いつまででも、あんな焦がれた目で空却の背中ばかりを見ることになる。それは第三者としても、中々に見るに堪えないものだ。
にこにこ にこにこ
そんなオノマトペが似合うくらい、笑顔満面のはカップを両手で持って、フラペチーノを幸せそうに飲んでいる。さすがはホイップ増量――上に乗せられた甘味の量に、俺と空却も思わず目を張ったが、当人は美味しい、と口を出さなくても、その表情だけで大満足だと伝わってきたので良しとした。「ひとやさん、ごちそうさまです」とお礼を言ったに、今度スタバのギフトカードでも買ってやろうと思った。
四人がけのテーブル席……が奥の席に座り、その隣に空却、そして空却の向かいが俺になった。この席になるまでにも一悶着――主に我儘坊主によるものが――あったわけだが、キリがないので割愛する。つかおい空却、さっきからの方見すぎなんだよ。早よ飲まんとお前のフラペチーノ溶けるぞ。
「……なあ」
「ん……?」
頬杖をつきながらをガン見していた空却が口を開いた。すると、ストローを咥えていたが空却の方を向く。今まで見られていたとは知らないは不思議そうな顔をして、ぱちぱちと瞬きを繰り返している。
「それ、美味えか」唐突に空却からそんなことを投げかけられるも、は口からストローを離してすぐさま答えた。「うんっ。すごくおいしいよ」
「空却くんは、」
「あ?」
「フラペチーノ、飲まん……?」
は、空却の前に置かれた抹茶フラペチーノと奴の顔を交互に見ては、そわそわとし始める。ジジイ舌の空却が飲みやすいように、なりに甘さ控えめにカスタムしたんだろう。まだ一口も飲まれていないそれは、カップの外側から寂しそうに水滴を垂らしていた。
「あー……」空却は意味を為さない声を漏らして、ようやく太いストローの封を開けて、カップの真ん中にずぶっと差し込む。従来の抹茶フラペチーノよりも濃い緑色をしたそれは、ホイップも何も入っていない、ただの抹茶フローズンだろう。にしてもこいつフラペチーノくそ似合わんな。スタバ自体似合わんが。
カップを片手に持った空却が、ぢゅッ、と勢いよくフラペチーノを吸う。すると、金色の目が僅かに見開いた。「どうかな……?」が自信なさげに問うと、空却は口をもごもごとさせながら、ストローから口を離した。
「……うめぇ」
「よかったあ」
空却の素直な感想を聞いたは、明らかにほっとした表情を見せた。そして、さっきよりもご機嫌な様子で再びほうじ茶フラペチーノに手をつける。一方、美味いと賞賛したはずの空却はそれきりフラペチーノには手をつけず、再びの方をじっと凝視し始めた。どうやら、こいつの目当ては物珍しいフラペチーノよりもフラペチーノを飲むだったらしい。正面に俺がいること忘れとるだろお前。
ブラックを飲んでいるはずなのに、砂糖を口から吐いてしまいそうな光景だ。こんなの目の前にしとったら青臭くて堪んねえ。この空気感がいいのか悪いのか――それはの判断に委ねる他ないのだが、前科のある空却を信用できるほど、俺はお人好しではない。あれから、こうして二人が会っていることすら知らなかったのだから。
が一足先にフラペチーノを飲み終わると、「わたし、すこし席外します」と言って、静かに席を立った。それに続けて空却が椅子から立ち上がろうとしたので、俺はそれを瞬時に止めた。こういう時、女が席を外す理由なんて決まっている。それすらも分からないお子様に、さすがに同情の念が抱いた。
一度窘めたら、空却も意味が分かったらしく、大人しく腰を下ろして、の背中をじいっと見つめている。さっきのと既視感を覚えてしまい、俺は深々と溜息をついた。
「……お前、いまだにと会っとるみてえだな」
「それがなんだよ」
案の定開き直っている空却に、俺は目を細めた。
「俺はてっきり、二人が会うのはあの時以来だと思っとったからな。どうりでお前らの様子がおかしいと思ったんだ」
「なんでお前にまで言わなかんのだ。親父には許可貰っとる」
おい。誰があの時放心しとったお前の代わりにを病院に連れてったと思っとんだ。そんな悪態が思い浮かんだが、灼空さんのことを聞いて、少しだけ胸がすいた。灼空さん公認なら、まだ信頼はおける。あの人も寛容なのか厳格なのか時々分からなくなるが、おそらくに助言をした俺と同じ気持ちなのだろうと思った。
しかし、俺はこいつの親でも兄弟でもない。空却の前で甘い顔をするつもりはさらさらなく、単刀直入にこう言った。
「空却お前……。去年、に何したか忘れたわけじゃねえよな」
ぴく、と空却の肩が揺れて、こいつの動揺が垣間見える。空却は俺を一瞥すると、ばつ悪そうに目を伏せた。
「……忘れてねーわ」
「ならなんでまだ会っとんだ」
「成り行きだ」
「何が“成り行き”だよ。理由を言え理由を」
とんとん、と指先でテーブルをつつくと、ぐ、と喉奥で言葉を詰まらせる音がした。不愉快と言わんばかりに顔を顰めた空却は、俺と目を合わさないまま、水滴を纏ったフラペチーノをじっと見つめいた。
「……病院の後、あいつの右耳に包帯ついとっただろ」
「そりゃあ四針縫ったからな」
「あれのせいで、周りの音が上手く聞こえなかったんだと」
「それで?」
「別の日に、仕事帰りのあいつと出くわした時、信号無視した車に轢かれそうになっとったから、拙僧が止めた」
沈黙の間を埋めるように、空却がフラペチーノをぢゅっ、と吸う。仕様のないことを言ったらとの縁を切らせるつもりだったが、意外にも、なるほどな、と胸に落ちる理由だったのが逆にむず痒い。根っこの部分まで悪ガキならやりやすかったものを。
――しかし、だ。
「それ、は知っとんのか」
「あ?」
「お前が迎えに行く理由」
「知るわけねーだろ。言ってねえんだから」
「なんで言わねえんだ」
「言う必要がねえ」
お前……そういうところだぞ。何も知らない、聞かされていないが不憫でならない。絶縁寸前だった相手が、よく分からないが仕事帰りに送ってくれる――からしたら意味不明だろう。俺なら恐怖すら覚えるところだ。
「経緯は納得した。でももう包帯もついてねえだろ。怪我も外見だけで、聴力自体に問題はねえはずだ」
事の核心をつくと、空却は再びフラペチーノに口をつける。あれだけ残っていた中身はもう半分以下になっていた。
「……あいつが毎月仕事の予定送ってくるから、行っとるだけだ」
「お前が送れって言ったらそりゃあおくるだろうな」
「最初の月しか言ってねえ」
「もう行けねえって一言言やあいいだけの話だろ。んな簡単なことがなんでできねえ」
いつもならああだこうだ言って反発してくるくせに、こういう時に限って言葉の切れが悪くなる。傷を負った野良ボス猫のように押し黙った空却を見て、じわ、と微々たる人情が溢れた。
「……お前だって、家のことがあんだろ。寝とんの何時だ」
「拙僧のことはいいんだよ」
「お前が良くても、はそうは思わねえだろ」
「だから言わねえんだっつの。そのくらい察しろや」
おいさっきの萎え具合はどうした。
ほんの少し手加減してやったらこれだ。マジで口の減らねえガキだなこいつ……。立場も言い分もこちらが優勢だというのに、それでもの隣に居座りたがるのだから、一度こいつの脳内がどうなっているのか頭をかち割って見てみたいものだ。が何も言わないことをいいことに、極楽浄土に浸かるのも大概にしとけよ。
「空却が思ってるよりも、は大人だ。自分の不始末もちゃんと面倒みれる。つか、もうみなかん歳だろ」
「大人? あのチビが? はっ、今年一番笑える冗談だわ」
「百歩譲ってまだ未熟だったとしてもだ」
強めの口調で、俺は言葉を続けた。
「彼氏でも家族でもねえ他人のお前が、の事情にこれ以上首突っ込むのはおかしいだろ」
正論をぶつけたつもりだった。しかし、初めて空却の表情がぼろっと崩れたのを見た俺は、思いのほか、今のはこいつにとってタブーだったのだと再確認した。
ぐ、と唇をきつく締めた空却は、音にない情動を体に纏わらせているように見える。これで懲りなければもう少し突き詰めてやろうかとも思ったが、今の顔を見て、二軍、三軍と、予め準備していた言葉はすん、となりを潜めてしまった。
の気持ちも分かった。空却の言い分も理解した。俺も別に、それを分かった上で、二人の仲を裂きたいと思っているわけじゃない。空却が今やっていることが、傷を負わせた罪滅ぼしと言ったのなら、もう少し早く引き下がってやったものを。
辛気臭い表情をしている空却を一瞥する。明らかに私情が含まれている現状に、俺は傾けたコーヒーカップに口をつけて、苦い息を吐いた。
「ったく……惚れとるくせにいつまでも女々しいことしやがって。んな顔するくらいならさっさと告っちまえよ」
「はッ……はああぁぁッッ!?」
夢から醒めたように、空却がいきなりがたんッと椅子から立ち上がった。テーブル周りの客の視線を一斉に集め、ぎょっとした俺に目もくれず、空却はわなわなと体を震わせていた。
「俺がいつんなこと言ったッ!?」
「聞かんくても分かるわ。人様の前でいちゃいちゃしやがって。つか目立っとるからいったん落ち着け」
「いッ……!? しとらんわバーカッッ!!」
「だから声がでけえんだよッ。他の客がこっち見とるから早よ座れっつっとんだ!」
ようやく我に返った空却がぐるん、と周りを見る。すると、ヤンキーと目が合いたくないのか、皆一斉にさっと視線を背けた。大きな舌打ちの後にどかりと椅子に座り直した空却。、早よ戻ってきてくれ――そう切に願うのも許してほしいくらいには、こいつのお守りはひどく疲れる。
未だに顔を赤くしている空却が「てめえといい十四といい、こっちの事情も知らねえで好き放題いいやがって……」などと呟いたものだから、「はあ? なんの話だ」と尋ねた。しかし、ふんッ、と空却は顔を背けて、強制的に対話をお開きにしてしまう。こいつ……。少しはの気持ちも察してやれと言いたかったが、空却がそんな態度なら仕方がない。俺も深くは言及せず、すっかりぬるくなってしまったコーヒーに口をつけた。
「なんにせよ、だ。部外者の俺に口出されるのが嫌ならさっさと――って、おいッ!」
何の前触れもなく空却がいきなり立ち上がって、早足でテーブルから離れていった。いつの間にか空になったフラペチーノのカップ――自分との分――を持ちながら。おい、まだ話の途中だろうが。ゴミを捨てに行ったのはあくまでついでなのだと気づいたのは、空却の進行方向を見た時だった。そこでは、知らない間に店内に戻ってきていたが、見知らぬ男と談笑していた。
……誰だ。の知り合いか? 見た目二十歳そこそこの好青年で、変に絡まれているようではなく、俺の目から見てもむしろ和やかな雰囲気だから心配はなさそうだが……。しかし、そこに火薬爆弾である空却が二人の間に割って入ったものだから目も当てられなくなった。男の方はあからさまに顔色を変えてそそくさと去っていくわ――まあ、空却を見りゃあ大概の人間はそういう反応するだろうが――空却と二言三言会話をしたは、慌ててこちらのテーブルに早足で戻ってきた。空却がに、何か変なことを吹き込んだのは明白だった。
「おまたせしましたっ」は後ろに空却を引き連れながら、テーブルに戻ってきた。
「獄、帰んぞ」
「まだコーヒー飲んどんだろうが」
「秒で飲め」
空却はもう着席するつもりはないらしい。じっと鋭い目線で見下げられて、俺は残り僅かになったコーヒーを早々に飲んで席を立った。俺には嫌いなもんが二つある。一つ、自己中心的な赤坊主。二つ、急かされて飲まされたコーヒーの味だ。金輪際、空却をスタバには連れてかんと誓った。
ずんずん、と早々に出入口に向かう空却の後ろで、俺はに話しかけた。
「。さっき話しとった男、知り合いか」
「はい。お店の常連さんなんです。さっき偶然会って、スタバの新作のお話しとったら盛り上がってまって……」
「あー……なるほどな。悪かったな。空却が邪魔しちまってよ」
「いえっ。むしろ待たせてまってすみません」
「……、空却になんか言われたか」
「え……? 『獄が待っとるから早よしろ』って……」
あんのクソガキ……。人のこと利用しやがって……。他の男と話すんじゃねえくらい言えねえのか。の前では寛容なふりをしたいのかなんなのか――空却が被っている皮に頭を抱えたくなるも、俺はぐっと我慢した。もちろん空却のためじゃない。純真なに夢を見させてやるためだ。
三人で店の敷居を跨いだ時、「あ……」とが不意に声を上げた。そこには、入った時には気が付かなかった風除室の壁に一枚のポスターが掲示されていた。
紫から青、青から水色の美しいグラデーション。花には興味のない俺でも、一瞬目を奪われる見事な紫陽花の園だった。紫陽花祭り――来月に行われるらしいそれは、気の滅入る梅雨の時期に彩りを与えてくれるイベントになるだろう。
「へぇ……。見事なもんだな」珍しく空却が感心してポスターに見入っている中、ちら、ちら、とが頻りに空却を見上げている。言わずもがな、本人はこれっぽっちも気づいていないが。
「六月、あじさい祭り、やるんだね」
「ああ」
「場所は……白川公園、だね」
「そうだな」
が懸命に話しているのに空却の反応は至極ドライだ。おい、あのハイなテンションはどこに置いてきた。これだけの反応で、が幸せそうに笑っていたのかと思うとやるせなくなる。そして空却の頭をぶん殴りたくなる。
白川公園はでんきの科学館の前にある大きな広場だ。モダンアートのモニュメントや大きな噴水があり、老若男女の憩いの場になっている。オオスから歩いて十分と少しといったところ。電車に乗るよりも早く、の家があるカミマエヅからでも好アクセスだ。
「あ、あの、くうこうくん」
「あ?」
呼びかけられて、ようやく空却がを見下げた。は口をぱくぱくとさせながら、空却に向かって何か言おうとしている。空却もそんなに眉を潜めながらも、じっと言葉を待っていた。
「ろっ、六月、なんだけどね、」
「ああ」
「お寺、忙しいかなぁって……」
「はあ? なんだよ藪から棒に。んな先のこと分かんねーよ」
「そ、そう……だよね……。ごめんね……」
こいつ……本物の馬鹿か?
ががちがちに緊張しながら意を決して言ったことを、容赦なく一刀両断した空却。の沈んだ顔を見て、空却がさらに眉を潜めて首を傾げ始めた。いや百パーセントお前のせいだわ気づけよ。
今すぐにでも別の男に乗り換えた方がいいと思うが、の、空却に対するあの反応を見る限り、それは骨が折れそうだと思った。マジでこいつのどこがいいんだ……? そう思いつつも、俺は密かに溜息をついて、何とも言えない空気になった二人の間に言葉を挟んだ。
「。祭りに行くのはいいが、ちゃんと誰か連れてけよ」
「え……。あっ、は、はい」
「女同士も駄目だ。変な輩の餌だからな」
「はっ。父親面かよオッサン」
煩えよ鈍感坊主。しかしまあ、計算通り食いついてきた空却に、俺はくるりと視線を変えた。
「ならお前が行ってやれ」
「は?」
「えッ」
の表情にぱっと光が戻る。空却がぽかんと口を開けている中、俺はポスターを見ながら言った。
「祭りっつっても、紫陽花見るだけだろ。一時間くらいで終わるだろうし、仕事帰りに二人で行きゃあいい。空却も、簀巻きにされとるかガム噛んどるかしてどうせ暇だろ」
「暇じゃねえわッ!!」
「あ……」
どんな人生を過ごしたらそこまで馬鹿になるのか、俺は切実に教えてほしい。
人がせっかく築き上げたものを瞬殺した空却。の顔色が歓喜から悲壮を帯びたものに変わった。いたたまれなくなったがゆっくりと俯く。それにようやく気づいた空却が明らかに、しまった、というような顔をした。遅せえよ馬鹿。
「空却がそこまで言うなら仕方ねえな。、十四でも連れていけ。あいつ、夜型だからこいつよりも都合いいはず――」
「俺が行く」
他の男の名前を出したのが効いたらしい。一秒数えるよりも早く、俺の言葉を遮って空却が声を張った。俺達の会話に振り回されて困惑しているを空却の目が捉えた。
「祭りの期間は一週間あんだから、その内の一日行きゃあいいんだろ」
「む、無理しんくていいよ、お寺の方がだいじだよ。わたし、お祭り行けるか、十四くんに聞いてみるから――」
「くどいわ。拙僧が行くっつっとんだろ。空いとる日分かったら連絡する」
無理矢理ゴリ押しして、空却はとの会話をぷつりと切った。もどこか素直に喜べない感じだったが、結果オーライ。空却も、自分から取りつけた約束を違える男ではないだろう。
……にしても、最後の最後まで締まらねえな。がじっと考え事をしながら、先陣を切って車の方に向かっていく。その後ろを、ゆっくりと歩いている空却の横に、俺は立った。「どうした。もう行きたくなくなったか」そう尋ねれば、空却はふん、とそっぽを向いた。「……別に」
「あいつ……あんなに紫陽花好きだったかって、思っただけだ」
だからが好きなのは花じゃなくて――ああくそ、すッッげえ面倒臭えなお前。
が祭りに行きたがっていた理由がさっぱり分からないと言いたげな空却に、俺はもう、何かを言う気も失せてしまった。何度も言うが、こんなんのどこがいいんだ。そうに聞いても、おそらく無意味だと思った。きっと、空却がにだけ見せている姿が、そのまま答えとして返ってくるにちがいないのだから。かっこいいだとか優しいだとか……そんな言葉を聞くだけで鳥肌がたってしまう。こいつも、人並みに女を好きになるんだな、などと思いたくない。俺の中のこいつは、一生小生意気な悪ガキのままでいいのだ。
