Episode.8
――ちゃん。今からうちの寺に来んか
仕事を午前中に切り上げたは、午後からは家に篭もって衣替え作業に奮闘していた。四月に入ってからは極端に寒くなる日もなくなったので、押し入れにある衣装ケースから春物と少しの夏物を次々に引っ張り出してくる。そして、冬物の中で来年にはもう着ないであろう服も、廃品回収に出すべく大きな袋にぎゅうぎゅうと詰めていった。最終的には自分と同じくらいの大きさになったそれを見たは、これを自治体の廃品回収場に持っていくであろう明日以降の自分を鼓舞した。
そんな時、一人しかいない静かな家に一本の電話が鳴った。意外にもハイテクなものを使いこなせていたカヨは、一人で電気屋に行き、直感で選んだコードレス電話を即購入。配線等は近所の詳しい人にやってもらい、床屋が閉店する前は床屋のものも合わせて二つ存在していた。今は玄関にあるこの一機のみだ。も今ではスマホを持っているので、知り合いとの連絡は専らこちらが多い。なので、日本家屋に似つかないスタイリッシュなホワイトの電話が鳴る機会はそうそうないのである。
何かの勧誘かなぁ……。一度出てしまうと断りづらいので、知らない番号だったら見て見ぬふりをしよう……そう心に留めたは、小さな液晶画面に表示された番号をそろっと見てみる。瞬間、はすぐさま子機を手に取って耳に当てた。表示されていたのは昔暗唱するくらい覚えていた空厳寺の番号だった。
電話の相手は灼空だった。穏やかな挨拶から始まり、今日の予定を聞かれ、何もないとが答えたら、冒頭のような言葉を言われたのだった。願ってもないことです――そう言いそうになった衝動を押し込んで、はなるだけ冷静に是と答えた。語尾が少しだけ上がったのは大目に見てほしい。
「(空却くん、いるかなぁ……)」
いると、いいな。話はできなくても、遠目から見るだけでもいい――そんな下心を仏様にも分からないようにひた隠しながら、は灼空との通話を切ってからすぐさま身支度を整え、寺の正門を潜った。本来であれば、決まって門の前にいる誰かに用件を伝えてから入るべきなのだろうが、最近は皆の顔を見ただけで快く寺の敷居を跨ぐことを許してくれる。いいんかなぁ……とも思いつつ、わざわざ言及する勇気もないは申し訳なさそうにぺこぺこと頭を下げながら、寺の境内へと足を踏み入れるのだった。
すると今日は、いつもなら閑散としている境内が普段とがらりと色を変えていたものだから、は目を見張った。境内の至るところで幼稚園から小学生くらいの子ども達がちらほらと走り回っており、鬼ごっこやだるまさんがころんだなどの遊戯に勤しんでいる。
今日、なにかあったんかなぁ。本堂に向かって足を進めていく中、はぐるぐると思考を巡らせる。しかし、いくら考えてもこの時期にある寺の行事がぱっと思いつかないまま、は庫裏の玄関口の前に到着してしまう。鍵は開いているから勝手に入ってくれ――電話を切る前に言われた灼空の言葉があるとはいえ、胸の中に鎮座する罪悪感を完全に拭いきれないまま、はおそるおそる引き戸を開けたのだった。
「おじゃましまぁす……」足音を控えて、声も潜め……やっていることはまるで泥棒のようだ。は靴を脱ぎ、そろりそろりと庫裏に上がりこむ。おじさん、どこだろう……。灼空に会うべく、は長い廊下をぎしぎしと歩いていく。小さい頃は我が家のように庫裏の中を駆け回っていたが、今はそうもいかない。あの頃の、無邪気かつ無遠慮だった幼い自分はもういない。今いるのは、寺に呼ばれるだけで心も体と舞い上がるような女……ただひとりだ。
「ぐえッ……!!」
ぐえ……?
感傷に浸っているが客間の前を通ったときだった。潰れた蛙のような音と共に、大きな棒状の何かが足元に転がってきて、は思わず前に出していた右足を引っ込める。のつま先と誰かの足袋が向かい合い、ぴったり両足が合わせられた白色のそれは、じたばたと上下運動を繰り返していた。
これって――の思考が停止している間に、客間からぬっと出てきた灼空がいつも以上に鬼の形相をしていたものだから、は思わず肩を震わせた。まさに、絵にも描けぬ恐ろしさだ。
「この忙しい時に隙あらば私の目を盗んでサボりおって……お前のような大馬鹿者には、きついお灸を添えてやるからな」
「はんッ! なァにがお灸だよッ! 拙僧が部屋に篭ってちまちま案内状書いてから何日経ったと思ってやがる! もう三日だぞッ! 頭おかしくなるわッ!」
「お前が度々部屋を抜け出すから余計に時間がかかっとるんだろうがッ!」
もぞもぞと動く、黒と赤。空却だ。灼空に見下ろされた彼はぎゃんぎゃんと鳴いて不平不満をぶつけている。足部と胴体の二箇所を腰紐らしきもので結ばれており、腰を上げながらくねくねとしている様は、まるで地上に打ち上げられた鯉のようだった。
――昔、がよく見ていた光景と重なる。今よりも小さくなった空却の元に、とてとてと歩いてくる女の子が幻覚として見えた。その子は、興味津々かつ好奇心旺盛な様子で「わあ~っ」と歓声を上げ、小さな空却の頭の傍で膝を曲げたのだった。
――「いもむしくーちゃんだねえ」
――「いもむしじゃねーわッ!! つか見とるくれーならこれほどけッ!」
――「はあい。あれ? むすびめどこだろう……。よぃっ、しょーっ」
――「おいバカまてそっちにころがすんじゃねええぇぇッ!!」
――「あっ」
ごちんッ、と小さな空却が白塗りの壁に後頭部をぶつけて、言葉もなく悶えている。「くーちゃんだいじょうぶ……? ごめんねぇ」と女の子もとい幼い自分が緩く謝るのはその数秒後。空却が纏っているただならぬオーラを少しも察していない自分自身を思い出して、今のは思わず目を覆った。
……強かった。昔の自分は強かった。小さな空却相手に、今思えば胃に穴が開きそうなことを平然とやっていたのだから。昔は節操がなかったというか、あまりにも無遠慮なことばかりやっていた気がする。かなりの黒歴史だ。できれば、幼い自分の関係者の記憶を改竄したいくらいには。
ふと、灼空の視線が簀巻きにされた空却からに配られる。すると、さきほどの鬼の仮面がぱかっと取れ、まるで菩薩のような表情を浮かべた灼空は、「ああ、ちゃん。いらっしゃい」と穏やかに言った。
「見苦しいところを見せてしまってすまんなぁ。すぐに終わらせるから、少し待っていてくれんか」
「は……? おい待てクソ親父、今なんつっ――」
「その喋る置物は気にしなくていいぞ。なんなら、踏んでくれても構わんからな」
声色と言葉があまりにも一致していなかったものだから、の頭は一瞬混乱する。踏ん……え? が未だに呆然としていると、壁を蹴って体の向きを変えた空却がぐいっ、と首をもたげた。
……小さく丸くなった金色と視線がぶつかる。だんだんと目が見開かれていく空却の口からは「はああぁぁああッッ!?」と絶叫の嵐が巻き起こった。床をも揺らしたのではないかという声量に、はびくッ、体を震わせた。
「なんッでこいつがここにいんだよッ!!」
「私が呼んだからだが? お灸を据えるとさっき言っただろう」
一気に取り乱した空却のことを、灼空はにやにやとした笑みを浮かべて見下ろしている。どことなく普段の空却と似ている表情に、親子だぁ……とはこっそりと感心した。
「その歳になってちゃんに情けない姿を見られて恥ずかしいなあ空却?」
「ふッざけんじゃねえぞこの腐れ坊主がああぁぁあああッッ!!」
びりびりッ! と辺りの空気が怯える。空却の怒鳴り声は何度も聞いたことはあるが、こんなにも怒り心頭になった声は初めてだった。まるで自分も一緒に怒られている気分になってしまい、は一歩後ずさる。
すると、再び空却の目がじろっとの方を向く。ひっ、と喉をひくつかせると、ぐるるッ、と唸りながら空却の体はわなわなと震え出した。
「こっち見とんじゃねえッ!!」
「ごッ、ごめんなさい……ッ」
「ちゃんにやつ当たりするんじゃないッ!!」
「ッ、てぇなァッ! 頭叩くんじゃねえっつったら何度言やあ分かんだ!!」
「すまんなあちゃん。来週には花まつりが控えているというのに、うちの愚息がこうしてサボるせいで、いっこうに準備が進まんのだ」
「無視しとんじゃねえぞッ!!」「ぎゃんぎゃん喧しいわ少しは黙っとれんのかお前はッ!!」そんな喧嘩会話の横で、灼空の言葉にはたとした。花まつり――そうだ、来週の土曜は四月八日。お釈迦様の誕生を祝う仏教行事があるのだった。甘茶のティーバックの配布や坐禅体験、精進料理食堂や念珠づくりのワークショップなど……毎年、老若男女楽しめる催し物が空厳寺で行われている。
多くの子ども達が寺にいたのは、おそらくお稚児行列の練習か何かだろう。檀家でもなんでもなく、寺に連れてきてくれる保護者がいなかったは、小学生の頃に空却に誘われて一度だけ参加したきりだった。
「昨日の日暮れなんかは、花まつりの当日にお世話になる方々をお招きしていたというのに、私になんの断りもなしに外出するものだから、さすがに堪忍袋の緒が切れてしまってな」
「な……ッ。おい待て余計なこと言うんじゃ――ッ!」
「理由は大方察しとったが、この調子だと、ちゃんも何一つ聞かされとらんのだろう」
昨日の日暮れ――たしかその時、は空却と会っていたはずだ。いつも通り店の前で待っていてくれて、何事もなく一緒に帰った。にとっては、約一年続いている日常だ。ただ一つ変わったことといえば、昨日の空却はどことなくやつれた顔をしていたということ。体調が悪いのかと尋ねたところ、「お前が気にすることじゃねえ」の一点張りだったので、もそれ以上尋ねることもできず、「ご、ごめんね……」と呟いて、会話は終わったのだが。
来週の花まつり、部屋を抜け出す、断りなしの外出――灼空の言葉一つ一つがパズルのように組み合わさっていき、一つの事実となっての頭を光の速さで横切った。
「くっ、空却くんっ、その時はわたしを送ってくれとってっ……! だから、空却くんはなんにも悪くないですッ」
「やはりか。一応聞くが、空却から花まつりのことは」
「聞いて、ないです……。たぶん、空却くん、わたしが気を遣うと思ってわざと――」
「あ゙あぁ゙ぁあああッお前は黙ってろッッ!!」
怒りのせいか、耳まで真っ赤にさせて怒鳴る空却に、の口がぎゅっと縫い付けられる。すると、やれやれ、と隣にいる灼空が肩を竦めた。
「この状況で女の子に庇われおって……。私の息子ながら恥ずかしいわ」
「誰のせいでこうなったと思っとんだクソ坊主がァッ!!」
「お前がちゃんに言うべきことを言わないから、こうして恥をかくことになるんだろう」
灼空の正論に、言葉もなくした空却は唸るばかりだ。もはや見ているだけで火種が飛び散ってきそうな雰囲気に、もかける言葉も見つからなかった。
「ということでちゃん。空却のすべきことが終わるまでうちにいてくれんか」
「えっ」
「はあぁッ!?」
「ちゃんがうちにおれば、空却も真面目に働くだろう。こいつの進捗次第では、夕食も手配しよう」
お寺にいてもいいのおじさん、と思わず聞きそうになってしまった。わあっ、との体が歓喜する横で、空却はさっき以上にじたばたと暴れている。
「何言ってやがんだッ! 花まつりの準備とこいつは無関係だろーがッ!」
「お前が無断で出かけなければたしかに無関係だったな。さてちゃん、先に客間に入っていてくれんか。お菓子もあるぞ」
「なァにが菓子だっ! こいつももうそんなもんでつられる歳じゃねえ――って、おいッ! お前も言ったそばから行くんじゃねえよッ!!」
滑るようにして客間に伸びていたの足が止まる。菓子につられたわけではなく、何の理由付けもなしに空却とひとつ屋根の下で過ごせるという特権に目が眩んだの下心がそうさせたのだが、それが本人に伝わるわけもない。伝わってもそれはそれで困るのだが。
じぃーッ、と空却に下から睨みつけられる。こんな状況下でも上下関係は明らかで、はひぇ、と声にならない音を口から漏らす。さっさと回れ右して家に帰れ――空却の鋭い眼光がそう言っているのは明白で、空却の眼差しに押し負けたは、客間ではなく玄関に向かって足を伸ばそうとするも、その後ろで灼空がぼそりとこんなことを呟いた。
「……ちゃんが部屋に入ってくれんと空却の紐も解けんなぁ」
「失礼しますッ」
「こんのクソ親父がああぁぁッッ!!」
さあさあ、と歓迎されるがまま、の足はいとも容易く客間の敷居を跨いでしまう。今回は、空却の意志よりも自身の下心が勝ってしまった。ちら、とが口惜しそうに空却の方を見れば、灼空の手によって彼の体を拘束していた腰紐が解かれていくところだった。
よかったぁ、とが胸を撫で下ろすのも束の間、よろりと立ち上がった空却にぎろっと睨みつけられた。「おい」
「……一時間で終わらせっから、呑気にくつどいどるんじゃねえぞ」
「う、うん……」
「そんな器量があるのなら最初からせんか馬鹿者」
「クソ坊主には喋ってねえよばァーかッ!」
「親に向かって馬鹿とはなんだっ!!」
どすどすッ、と床を震わせて廊下の曲がり角へと消えていった空却。彼の自室がある方だ。サボり……いや、息抜きの時間をとっていたとはいえ、三日も寺務をしているという空却に、労いの言葉をたくさん贈りたくなった。
しかし、今回は口を開くだけで空却の癇に障ってしまいそうなので、また時間を置いてからか、言えずに終わるかの二択になる。昨日、一緒に帰った時に、空却に顔色が悪いわけを深く聞かなかったことがひどく悔やまれた。
「すまなかったなぁちゃん。仕様のない理由で呼び出してしまって」
場所は客間に移り、は机を隔てて灼空と向かい合わせに座っている。目の前には、百貨店で売っているような豪華なお茶請けが並んでおり、手はつけないつもりだったが、灼空が頻りにどうぞどうぞと勧めるものだから、はぎこちなく内一つ指で摘んだ。かの有名店のバターサンドは、がぱっと目を輝かせてしまうくらい美味だった。
昔から、空却はこういう客向けの菓子は食べられないとぼやいていて、それを聞いてからは、自分に出されたお菓子を一つか二つもらってきては空却とこっそり一緒に食べていた。一人で食べるよりも断然美味しかったそれは、もう舌も忘れつつある。「でかした」と言った笑顔も、くちゃくちゃと撫でられた手の感触も、すべてだ。
「本来であれば、こんな人質をとるような真似は仏様に顔向けできんが……。ちょうど、ちゃんと話がしたいと思っとったんだ」
ふと、現実に戻ってきた。話と聞いて、は首を傾げる。
「去年の……クリスマスを過ぎた辺りか。冴えない顔ばかりしていた空却が、妙に活気づいてきてな」
「活気づく……?」
「ああ。おおよそちゃん絡みだと思ったんだが……。あれからまた、空却と何かあったのかと」
活気づくという様子が分かりかねてしまって、はさらに首を傾ける。の知る空却はいつでも活気づいているし、なんなら冴えない顔というのも想像できない。しかし、親である灼空が言うのだから間違いないのだろう。
去年のクリスマス――記憶を巡らせたは「あっ」と声を上げた。
「空却くんに、クリスマスプレゼントをあげました」
「ほう」
「あと、初詣の時にお寺を手伝ってって言われたんですけど、わたしは用事があって行けなくて……。代わりに、バイトの子に振る舞う鍋の買い出しに行きました」
「あぁ……あの時ちゃんがうちにいたのはそういうことだったんか」
思い出した、と言わんばかりに少しだけ後ろに体を倒す灼空。そういえば、寺を手伝うよう言えと言ったのは灼空なのだと言っていた。が彼の顔を見ると、の思っていることを察した灼空が口元に苦笑を浮かべた。
「紛いなりにも、私の子だ。あの時は中学の時以上に腐っておったから、つい助言をしてしまってな」
「助言……」
「ああ。しかし、ちゃんも嫌なことは嫌と言ってくれていい。迎えの件も、あいつの独断で始めたことだからな」
「本来であれば空却に縁を切らせるところだが――」灼空の言葉に、の体がびゃっと飛び跳ねる。思わず立ち膝になりながら「いっ、いやですッ」と灼空に向かって大きな声を張った。
灼空が目を丸くしていることに気づいた我に返ったは立てた膝を畳ませてへなへな、と縮んでいく。想像しただけでおぞましく思うそれを、どうしても許容できなかった。
「それは……やなこと、です……」
「……そうか」
灼空ははあ、と深々とため息をつく。「こんないい子がうちのに目をつけられてしまって……亡くなったカヨさんに何と言ったらいいか……」ぶつぶつと独り言を唱え始めた灼空の向かいで、は場を持たせようと二個目のバターサンドに手を伸ばす。さっきよりも無味に感じたそれを動作として咀嚼しながら、も胸に溜まったもやをゆるゆると吐き出していった。
昔の話は程々にして、灼空とともに近況報告等他愛のない話をしていたら、不意に襖越しに聞こえてきた声があった。「灼空さん。本堂にお客人がいらっしゃっています」他の僧侶の声で、は襖に目をやると、灼空はすぐに「ああ分かった。すぐ行こう」そう言ってゆるりと立ち上がった。ゆっくりしていってくれ、という言葉と共に、は客間に一人残された――それが、今から十分ほど前の話になる。
ふっ、と体から力が抜けて、ぺたん、と机に頬をくっつける。小学生の時、よくここで宿題をやっていて集中力が切れると、決まってこんな体勢をとっていた。その時の空却は畳に寝そべって分厚い仏教の本を読んでいて、がちらっと覗いた時には難しそうな漢字がずらりと並んでおり、くらくらと目眩がしたものだ。今考えても、あれは小学生が読むレベルのものではないと断言できる。
……そういえば、長期休暇に寺へ泊まりに来た時、食事もこの客間でとっていた。今でも忘れもしないのは、が苦手だった鯖を、空却がお茶漬けにして食べさせてくれたのだった。油っこい風味が渋いお茶の味で緩和されて、おいしいおいしいと言いながら難なくぺろりと平らげた記憶がある。
ごちそうさまでしたあ、とが手を合わせた時、やさしい影が降ってきた。その時に感じた衝動と味わった感触は、今のも羨むほどだ。
――「やりゃあできんじゃねーか」
……いいなぁ、昔のわたし。さば食べただけで、頭なでてもらえたんだもん……。
恋人同士でもないのに何を言っているんだろう。でも、思うだけはタダだ。ぽん、とは自分の頭頂部に手を置いてみる。しかし、心臓は高鳴るどころか虚しさを感じてしまって、が自分恥ずかしさに頭に置いた手をくしゃくしゃと掻き回そうとした時だった。
――すっぱァんッ! と襖が割れんとばかりの音が届く。ぴぃんッ、と背筋を伸ばしてすぐさま頭から手を退かしたは、音がした方におそるおそる視線を配らせた。
……客間の敷居に跨ぐ手前の空却。部屋をぐるりと見回していた空却と目が合うと、彼は無遠慮にどすどすと客間に入ってきた。
「……クソ親父どこいった」
「さっ、さっき、お客さんが来たから……本堂に行ってまって……」
さっきの、見られてないよね……。大丈夫だよね……。は内心冷や汗をかきながらもしどろもどろになって答える。すると、どっと大きな溜息をした空却。何か用があったのだろうが、その用も灼空の接客が終わってからしか無理だろう。
「空却くん、お菓子食べる……?」先ほどよりもご機嫌ななめになっている空却を見上げながら、はそう提案する。空却はあまり減っていないバターサンドをちらっと見下ろすと、暫く一考。後に、その場にどかっと座ってバターサンドを手に取って、勢いよくその封を開けた。
……なにか、手伝えることないかなぁ。バターサンドを二口で平らげた空却を盗み見ながら、ふと思う。さっきはよく見えなかったが、初詣ぶりに空却の顔がひどく疲れきっている。実質三日間缶詰状態で準備をしていたと聞いたし、その貴重な時間を自分の迎えの時間に当ててくれたのだ。も、少しくらいは何か貢献したいと思った。
「空却くん、」
「あ?」
「わたし、なにか手伝えんかなぁ……」
空却の機嫌が悪いということを、言ってから気がついた。案の定、何言っとんだお前、と言わんばかりに目が細められて、はごくん、と空気を飲み込んだ。
「お、お部屋片付けたりとかっ、なにか整理したりとかっ……」空却の部屋は昔から片付いているし、準備の内容も分からないのについ当てずっぽうなことを言ってしまう。しかし、こうでもしないと空却による無言の圧力に溺れてしまいそうだった。
空却は二つ目のバターサンドを口に入れながら、「……ここにいても暇か」とだけ言う。が微かに頷くと、ふぅん、と微かに音を漏らして、最後の一口もすぐさま口に放りこんだ。
「これ食ったら拙僧の部屋行くぞ」
「う、うんっ」
心なしか、バターサンドを食べるたびに顔が穏やかになっていく空却を見て、も嬉しくなる。疲れた時には、やっぱり甘いものだ。は緩みそうになった口元を隠すべく、三個目のバターサンドの袋をぺりっと開けた。
そこは、いつもと変わらない空却の自室であるファンキー和室――のはずだった。
「ひッ……」
「人の部屋見て悲鳴上げんじゃねえよ……」
「ご、ごめんね……」畳が見えなくなるほどの文字、文字、文字……まるで呪詛のようなそれに、の口から思わず小さな悲鳴が漏れてしまって、隣に立つ空却はそれを窘めた。その後に、「まァ……気持ちは分からんでもねえが」とフォローを入れてくれたものの、は目の前に広がっている光景にその言葉を飲み込むどころではなかった。
A4サイズの上質そうな和紙に、細い筆で書かれた達筆な字が行儀よく並んでいる。それが何十枚もの規模で畳の上に所狭しと敷き詰められていた。よくよく目を凝らしてみると、すべての和紙に同じ内容が書かれていて、他の字よりもきもち大きく書かれた見出しには“花まつり”、“案内”という文言が鎮座していた。
「これって……」
「近所と檀家さん、あとは……商店街か。そこらへんに配る花まつりの案内状だ」
「あの頑固親父、一枚書いてコンビニで複写しようとしたら全部手書きじゃねえと駄目だとか抜かしやがって……」そう言って、その時のことを思い出したらしい空却は大きく舌打ちをした。
たしかに……同じ文章ならコピーをした方が手っ取り早いし、なんなら、パソコンでこういった文書も一時間足らずで作成及び量産できる。あ……空却くんのおうちってパソコンないんだっけ……。そんなことを思いながら、明らかに尋常ではない枚数の和紙に視線を這わせているは、純粋な疑問を空却に渡してみた。
「案内状って、全部で何枚書かなかんの……?」
「五百」
「ごっ、ごひゃ……ッ!?」
「だがそれもあと数枚だ。すぐ終わらせる」
「お前も、いつまでもうちにいたくねーだろ」空却にそう断定されてしまったので、ゆっくりやっとっていいよ、とがあらかじめ準備していた口はこのまま閉じる流れとなった。
空厳寺では、お米も鍋で炊いている他、掃除機もないそうだ。歴史と伝統を重んじていると言えば聞こえはいいが……なるほど、空却がコピーという便利機能に走ってしまう気持ちが痛いほど分かった。それに、整った文体で同じ文章を五百回書く――先程空却が言っていた、気が狂う、と言った言葉にも強く同意できる。
しかし、もしもが案内状の配布対象者であれば、無機質さを感じさせる機械的な案内状よりも、気持ちがこもった空却の手書きの案内状の方が欲しいと思ってしまう。空却に向ける親切の蓋を開けてみれば、隅々までたっぷりの煩悩しか詰め込まれていなかったことに対して、うう、と心の中で唸る。それに、こういうことも得を積む、ということのうちに入るのならば、部外者が口を出すことではない。空却は僧侶という職に対して誇りをもっている。空厳寺が守ってきた規律をの私欲に溺れた意見で穢してはいけないのだ。
和紙を踏まないようにと、畳の表面である藺草色を見つけながら慎重な足取りで部屋に入っていく。そうしているうちに、早々と部屋の奥に足を踏み入れて小さな机の前に腰を下ろした空却は、「そこに寺紋の印が押してある茶封筒があんだろ。そっちに並べてある案内状はほとんど乾いとるから、折って入れてけ」そう言って、部屋の隅に積まれた茶封筒に目を配らせる。も同じようにそちらに視線をやると、もうすでに封筒に入れられた案内状もあるらしく、そちらは紐に結ばれており、空の茶封筒の倍の厚さになってみっちりと積まれていた。
ようやく茶封筒が積まれたところまで辿り着いたは、その場にちょこんと座る。ちょうど、机に向かっている空却と対角線を結ぶような形になって、普段から盗み見ばかりしている空却の横顔がここからよく見えた。
「横方向に四つ折りでいいかな……?」
「あぁ」
そう聞くやいなや、すう……と深く息を吸う音が聞こえた。その瞬間空却が纏っていた空気が一気に静謐なものに変わっていって、は高揚しそうになった体に鞭を入れた。空却くんの邪魔しちゃかん……。空厳寺の仏様に今のの心中を覗かれたら、煩悩の塊だということで出禁にされてしまいそうだ。
数十秒間の精神統一ののち、姿勢を正して、和紙に細筆を滑らせる空却。わたしも、はよやらんと。見惚れそうになる自身に再び鞭を打って、はなるだけ音を立てないよう、一枚の和紙をぺらっと持ち上げる。墨汁溜りのところも乾いているかどうか念入りに確認する途中、和紙の上で落ち着いて並んでいる文字を見て、ぶわっ、と腕に鳥肌が立った。
「(筆ペンのお手本みたい……)」
同い年が書いた文字とは思えないくらい、読みやすい楷書だ。しかも、水が流れるようにさらさらと書いているのにも関わらず、字体が一切ぶれていない。空却くん、お坊さんじゃなくて書道家にもなれるんじゃないかなぁ……。そんなことを冗談抜きで思ってしまう。小学校の頃と変わらず、本当に字が綺麗だ。
はひとつひとつの文字をぎゅっと噛み締めた後、和紙を二つに折り、それをまた二つに折っていく。来週の花まつり、たくさんの人が来てくれますように……。そう祈りながら、丁寧に茶封筒に入れていく。そうしてまた同じことを繰り返していくが、目が慣れるまでは内何枚かは文字に没頭してしまうかもしれない。
が和紙を折る音の他に、時折空却が半紙を変える音と、すずりに墨を磨る音が合間に挟まる。さっきまで怒鳴っていた空却が奏でている音とは思えないくらい繊細かつ雅なものだった。
……少しだけ手の動きを緩やかにして、は空却を見遣った。いつものスカジャンを着ていないせいか、空却の骨格が作務衣越しにくっきり浮き上がっていて、思わずきゅんと胸が鳴ってしまう。男性の中では細身に入る体型なのに、たまに目の当たりにする筋肉質な腕に驚いてしまう。商店街で転びそうになった時然り、蔵で庇ってくれた時然り――もしかして鍛えてるんかなぁ、とがぼんやりと思ったその時だ。
「――お前、親父に何か言われたか」
びくッ! とは反射的に空却から顔を背ける。み、見とったのバレてまったぁ……と焦るが、空却の視線は和紙の上から全く動いていない。それどころか、相変わらず流暢すぎる筆の動きに、今自分に喋りかけたか、と耳を疑ってしまったくらいだ。
空却の問いにどうして、とが尋ねる前に「あんなクソしょうもねえ理由だけで呼び出すはずねーからな。大方なんか話あったんだろ」と言葉が続く。空却と目が合っていないことをいいことに、は宙に視線を泳がせて、当たり障りのない言葉を探した。
「……空却くんが、最近元気だって」
「お前、それかなり曲解して言ってねえか」
「そ、そんなことないよ」
「へーェ……」と意味深な音を漏らした空却。少しだけ後ろめたい気持ちはあるが、間違ってはいないはずだ。顔を見られたら嘘だとバレてしまう危うさがあったので、は早々と話題を切り替えた。
「そ、そういえば、おじさんの用事はよかったの……?」
「はぁ? なんだそれ。親父に用なんてねえ――」
瞬間、喉が詰まったようになって、空却の声が不自然に止む。ついでに、あれだけ涼しそうに動いていた腕もぴたりと止まってしまった。途中までしか紡がれなかった言葉だったが、今空却は、灼空には用がないと言おうとしていたのではとは察する。しかし、空却はさっき自分に灼空の居場所を尋ねていた。それに、灼空に用がないなら空却が客間に来た目的が宙ぶらりんになってしまう。
……数十秒の沈黙の末、「……気分転換に、菓子食いにきただけだ」と空却が小さな声でそう言った。再び動き出した筆の動きはどことなくぎこちなかったが、「そっかぁ……」とは空却の言葉を胸の下にすとんと落とす。よくよく考えれば矛盾しているところもある気がするが、細かいことはおいておく。だって、空却がそう言うなら、きっとそうだ。何を疑う余地がある。
小さい頃なら、お菓子持ってこいって言ってくれたら、部屋まで持っていけたのになぁ……。未だに昔の思い出を引きずっている自分自身に、もうあの頃とは違うんだと念入りに言い聞かせて、は今度こそ和紙と封筒に集中するべく、それ以降、顔を上げようとしなかった。
――時折、外から子どもたちのはしゃぐ声が聞こえてくる。しかし、じきにそれすらも気にならないくらい、は作業に没頭していた。空却が絡むとすぐに浮き足立つ心もようやく鳴りを潜めて、最終的には、和紙の折り目をつけることと茶封筒に案内状を入れることだけに全神経を注いでいた。
……あれから、どれだけ時間が過ぎただろう。かた、と唐突に筆が置く音がして、深く、長い息がどっと吐き出された。しばらく和紙と封筒しか見ていなかったがはたとして顔を上げると、臀部の後ろに両手をついて、怠そうに天井を仰ぐ空却がいた。そして、机の周りにはさっきよりも倍の枚数の和紙がずらりと並んでいる。空却が纏う空気も平常のものに戻ってきていたので、は脱力している彼にそうっと話しかけた。
「空却くん、書き終わった……?」
「あぁ……終わった」
「じゃあ、残りのものも入れちゃうね」
「今やっとるやつで終わりでいい……。あとは俺がやる」
どきッと驚いたの心臓のことなど知らず、空却は枯れた声で時折呻きながらぐっ、ぐっ、と腕のストレッチをし始めた。
び、びっくりしたあぁ……。いま、いつもの拙僧くんじゃなかった……。もうかれこれ一年は耳に入ってこなかった一人称に、は密やかに呼吸を整える。今、和紙を手に取っていなくてよかった。危うく手のひらの中でくしゃっとして皺を作ってしまうところだった。
「あ゙ー……」軽いストレッチを終えても、空却の口から苦しげな声が止まない。こんな重労働を三日もやっていては、心身ともに疲れて果てるに決まっている。特に、ずっと筆を走らせていた右手は、握ったり広げたりを繰り返していた。が今座っているところからでも、空却の体の骨が軋む音が聞こえてきて、耳に入れているだけで痛々しい。そんな空却の姿を見て、じくじくと溢れてきた衝動を止められなかったは、手の中にあった膨らんだ封筒を、すでに案内状を入れた封筒の山の上に重ねて、じりじりと空却の元ににじり寄った。
「空却くん」
「あ……? なんだよ」
「手、揉もうか……?」
さっきまで怠そうにしていた体の動きとは思えないくらいの俊敏さで、空却の視線が自分ものとぶつかる。しかし、意外にもいつもの胸の昂りはなく、今は奉仕意欲が俄然勝っていた。やっぱり、ちょっと元気なさそうだなぁ……。が空却の顔色をじいっと見つめていると、今回は珍しく空却の方からふいっ、と顔を逸らされてしまった。
カヨ直伝の手もみ技は、お店の同僚達にも好評だ。そういえば、空却にお披露目するのは初めてのような気がする。断られてまうかなぁ……。そう思っていると、空却が体の向きをと向かい合わせにするような形にして、自分の片手をの方に伸ばしてきた。昔よりも広くなった空却の手のひらを見て、「えっ」とは思わず声を上げる。その後、空却が怪訝そうな顔をするのはごもっともだった。
「なんだよ“えっ”って。お前がやるっつったんだろ」
「そ、そうだねっ」
「じゃあ……するね」はおそるおそる、空却の親指と人差し指の間、そして薬指と小指の間に自分の両手を差し込む。両方の親指と人差し指で空却の手のひらを挟むと、男性特有の皮膚の固さや筋肉の分厚さを過剰に感じ取ってしまい、の体の熱がぶわッと上がった。
まさか、承諾してくれるとは思わなかった。さっきはついあんなことを言ってしまったが、我に返ると、今自分はかなり無遠慮なことをしているのではと考えてしまう。ちょっと大人しくしとってね、と内なる幼少期時代の自分に言っても、こちらの心労を何一つ分かっていない顔でにこにこ笑っているだけだった。
どうしよう……。でも、やるしかない。自分で言ったのだから、と意を決したは雑念を振り払うかのごとく、空却の手のひらをぐッ、と力強く指圧した。
「い゛ッ……!?」
「ごっ、ごめんね……っ!?」
「大丈夫……? いたかったっ……?」指圧した瞬間、空却の体が見たことがないくらい鋭く跳ねた。青ざめたは弱々しく謝罪するも、空却はすぐに口元を抑えて、「ッ、たくねえわ……」と震えた声でそう言った。言葉の割には顔がひどく歪んでいたので、あまり説得力がなかったが、はよやれ、と眼差しで急かされてしまったので、は力加減に気をつけて、空却の手のひらに指を沈めていった。男性の手だからといって強くすればいいというものではないらしい。
……男の人の、大きな手だ。ちょっと前までは同じくらいの大きさだった空却の手は、今やその気になればの手など余裕で覆ってしまえるだろう。いつの間に変わっていったのか……男の子の成長はほんとうに目を張るものがある。そういえば、ばあばが病院生活始めた頃りから、よく手ぇ握ってくれてたなぁ……。あの頃からやさしい手だ、とは懐古しながらぐっ、ぐっ、と指の腹に力を込めた。
手のひら全体を指圧をしながら、特に親指の付け根をよく揉みほぐしていく。店の先輩にやると、きまって四十代男性が悶えるような声を出してなにかしら反応があるが、空却はまったくの無反応である。きもちいいんかなぁ、と若干の不安は残るが、考えても仕方ないのでやっていくしかない。何か不満があれば、すぐに言ってくれるはずだと信じて。「おい……」
「あんま力入れんな」
「ご、ごめんね。まだ強かった……?」
「ちげーわ……。お前の指が疲れんだろうが」
わああぁぁ……っ。は自分の顔のかたちが変にゆがみそうになるのを寸のところで俯いて隠した。うぅ……空却くんやさしいなぁ……。ずるいなぁ……。そんなの、気にしんくていいのになぁ……。そうは思っても、耳からもぐってきた空却の親切はの体をじわじわと火照らせていく。今、には上げられる顔がない。指圧に集中しているふりをして、空却に顔色を悟られないよう彼の手のひらを必死に見つめるばかりだった。
最初よりもだいぶ手のひらが柔らかくなったところで、は今度反対の手を出すよう空却に促す。空却は黙ったままの手から自分の手を抜き取って、反対の手の平を見せる。空いた手はそのまま机の上に持っていって肘を立て、そのまま頬杖をついたような気配がした。
今度は利き手である右手だ。ここからが本番、とはさっきよりも気合を入れて指圧していくと、やはり左よりも筋肉が凝り固まっており、どこを押しても不穏な音がごりごりと鳴った。
ようやく顔が元のかたちに戻ってきたので、は空却に向けて少しだけ視線を持ち上げる。すると、案の定だるそうに頬杖をついていた空却は、目が虚ろで、子守唄一つでもあれば今にも夢の国へと旅立ちそうな雰囲気があった。正直、あまり見ない顔だ。
眠くなるということは、少なくとも不快ではないということだ。それだけでかなりの自信がついたは、空却の微睡みを邪魔しないよう、指圧の力加減を試行錯誤する。感覚がなくならないようほどよく強く、目が覚めてしまわないようよどよく弱く――こり、こり、と指の腹に感じる凝りをゆっくり丁寧に解いていくと、ずっと閉じていた空却の口がふっと薄く開かれた。
「ちっせぇな……」
「え……?」
「……あ?」
お互い、頭上にはてなマークを浮かべながら、ぱちんと目が合った。空却は自分が言葉を発したことすら知らない顔でを凝視していたので、「う、ううん。なんでもないよ」とははぐらかした。
……ちいさい。今、空却くんちいさいって言った。わたしのことかな……。ちがうかな……。でもわたしのことだったら……うん……空却くんよりは、手も、体も、ぜんぶ、小さいね。
そんなことは、口に出さなくても、見てすぐに分かることだ。空却はただの事実を口にしただけなのに、なんだろう、この、猫じゃらしで心臓の裏側を擽られているような感覚は。空却と一緒にいると、は未知のことを味わってばかりだ。それだけは、今も昔も変わっていない事柄なのに、聞き分けのないこの頭はいつまで経っても慣れてくれなかった。
そろそろ指に力が入らなくなっていくと、空却の方から手が抜き取られた。「あー……だいぶ楽になった……。あんがとよ」いつもよりも緩やかな呂律で、手を握ったり広げたりを繰り返す空却に、の目の前でぱっと光がまたたく。「ど、どういたしましてっ」えへへ、とが一人こっそり笑んでいると、「さて、と……」と空却がため息混じりに声を漏らした。
「家まで送ってく。親父に報告してくっから、先に玄関行ってろ」
「えっ? だ、大丈夫だよ。まだ明るいから――」
「手前の都合で呼び出しといて女一人家に帰すわけにいくかよ……」
そうは言っても、空却はまだ怠そうだ。目も先ほどよりも据っている。
家まで送ってくれるのは嬉しい。帰り道が怖いなどは一切なく、空却と共有できる時間が長くなるからだ。しかし、それとこれとは別問題。そうこう考えているうちに今にも立ち上がりそうな空却に向かって、はすかさず口を開いた。
「ちょ、ちょっとだけっ、仮眠とかどうかなっ?」
「仮眠だぁ?」
空却の呆れた声が飛んでくる。「変に気ぃ遣うなっていつも言っとんだろうが……」空却の言葉に、そうだね、ごめんね、といつものように肯定と謝罪をしてしまいそうになる。しかし、疲弊しきっている時、数十分の仮眠をとると作業効率がいいと、夕方でやっていたテレビも言っていた。は意思を強く持ちながら、若干ぎこちなく答える。
「お、お仕事、手ぇつけた分は最後までやりたいし、終わったらぜったいに起こすからっ」
も馬鹿ではない。学ぶ時は学ぶ女だ。残った仕事というワードを盾に、なんとか空却の足を留まらせる。あわよくば体もそのまま横たわらせてほしいと願って。空却が直近で書いた案内状も、手もみをしていた時間でほとんど乾いているだろうから、空却を納得させる理由としては十分だろう。
……おそらくは、言い合う気力すらなかったのだと思う。空却は畳の上にまだ乾かしてある案内状を一瞥した後、渋々といった様子で一度立てた膝を畳んだ。
「……ちんたらやっとんなよ」
「うんっ」
わざとらしいくらい、は元気よく返事をする。ふん、と空却は小さく息をつくと、四つん這いになって押し入れを開ける。その中から毛布を引っ張り出してきて、もぞもぞと被った後に和紙のない空間に丸くなった。
猫みたい――じゃなくて。よし、とは気合を入れる。すこし……ほんのすこしだけ、さっきよりも手の速度を緩めて、空却に託された仕事を完遂すべく取りかかった。
最後の封筒が山の頂上を滑る。膨らんだ封筒達がの座高くらいになり、とても圧巻だ。達成感に溢れたは、心の中でこっそり歓声を上げた。
「(おわったあっ)」
おそらくここから紐で縛ったりなんなりするのだろうが、これ以上下手なことはしないでおく。しばらくの間、は出来上がった山をぼんやりと見つめていたが、さっき上に乗せた封筒を再度手に取り、改めてまじまじと見てみる。空却の心こもった案内状の厚さでふっくらとした封筒。表にはお寺の名前と住所、そして電話番号が記載されていて、厳格そうな赤い判子も押してある。
この案内状、うちのポストにも入るかなぁ……。でも、お寺とちょっと距離あるから入らんかなぁ……。そんな邪な気持ちを抱いている自分に気づいたは、だめだだめだ、と首を振る。空却が書いた案内状が欲しい自分よりも、花まつりに来たい人にあげた方がいいに決まっているのだ。
そんなことよりも、早く空却を起こさなければ。ちら、と視線を配らせたは「空却くん……?」と薄い声色で呼んでみる。が、分厚そうな毛布が深く上下するだけで、それがめくれる気配はない。原因は声量にあると分かっていても、せっかく気持ちよさそうに寝ているのに起こすのは非常に忍びない。初詣のデジャヴだ。
しかし、元々そういう交換条件だったし、今回はきちんと起こさないと後で怒られてしまう。は雀蜂の巣につつくように、自分の両手を空却の体に触れさせた。
「空却くん、お仕事おわったよ……?」
ゆさゆさ、とは優しく揺する。壁の方を向いて寝ているおかげで、空却の顔が見えないのが幸いした。見えていたら触れるどころの話ではなくなるものだから。
毛布越しではあるが、空却の体はかたくて、大きくて、熱があるように暖かかった。寝ているから体温が平常より上がっているのは当然だが、空却は昔から体温は高めだった。冬の日に並んで昼寝した時には、空却の毛布に潜り込んではよく叱られていた。入るなら入るって前もって言え、と。おそらく、一緒に寝ることに対しては怒ってないからいっかぁ、と悠長に思っていた自分は、一緒にお昼寝をしなくなるまで、無断で空却の毛布に潜り込んでは熟睡していたのだった。そしていつからか、空却も諦めて何も言わなくなっていた。
ああ……またここでも小さな黒歴史が生まれている。うう、とが苦しげに唇を結んでいると、触れている空却の体が不意にごそっと動いた。
「あっ……空却くん、おは――」
よう――そう言おうとしたら、空却がぐるんっ、と寝返りを打って、端正な顔が正面になった。一瞬息が止まった。一方、空却の目は薄く開かれていて、天井だけをぼーっと見つめていたと思えば、すぐさまの方を顔をごと向けた。
少し乱れた赤髪、夢現の眼差し、薄く空けられた唇……今の空却の寝起きには耐性がないは、猛ダッシュで退室したい気持ちでいっぱいだ。しかし、空却の視線で全身が縫い付けられてしまって、にっちもさっちもいかなかった。
「ぉはよ……」
「お、おは、よう……」
「ぃま……なんじだ……」
「え……? あっ、え、えっとね……お昼の三時だよ」
壁時計の針の位置を確認して、はどもりながらも空却に時間を伝える。しかし、当の本人は聞いているのか聞いていないのか分からない表情でこちらを見つめるばかり。はついに体から変な汗が滲みだしてきて、声もなく、助けて、と名前も顔も知らない誰かに助けを求めた。もちろんそんな都合良く誰かが部屋に来るはずもないのでそれも無駄に終わった。
ど、どうしよう……。荷物取ってくるね、って言っていったんお部屋出ようかなぁ……っ。客間にバッグが置きっぱなしになっていたことに気づいたは苦し紛れにそんなことを思う。でも、足全然動かん……。あっ、空却くんさっき“おはよう”って言ってくれた……。平常心を取り戻すどころかさらなる昂りを呼んでしまって、桜が花開くようにの全身からぶわぶわと熱が溢れていく。それを他所に、ぺちん、と顔に片手を当てた空却は「ぁー……」と小さく唸った。
「もう、おやつどきか……」
え?
空却が呟いた言葉をは反芻する。いま、おやつって。空却くん、今、おやつって言った。聞き間違いじゃない。脈絡のない言葉にが唖然としていると、空却は上半身をのろりと起こす。それでもやはり虚ろな眼差しは健在で、蜂蜜のようにとろっとした金色を終始に絡ませていた。
「おれは、いいから……さき、くってろ……」呂律の回っていない空却の言葉を受けて、はようやく現状を察した。空却くん、もしかして、寝ぼけとる……? 昔から寝起きの良い空却がそんな――と疑いたくなるが、もうそれしか考えられない。寝惚けた空却を見るのはも初めてで、空却くんも寝ぼける時あるんだ……と若干失礼なことも思ってしまった。そして、ここ数日間でそれだけの疲れがその体に溜まっていたんだとは再認識する。今度から空却の顔色悪かったらちゃんと本人に聞こうとも誓った。
普段空気を切るような眼光が、今はまろくぼけーとしている。寝起きの空却くん……ちょっとかわいい……。本人に言ったら怒られるどころでは済まされなさそうなことを、ほどよく熱の冷めた、ほのぼのとした心では見つめていた。
……いや、だめだめ。今度こそ、ちゃんと起こさんと。もうちょっとこのままでもいいかなぁ、と現状に甘んじようとする自分に喝を入れて、は首を傾けながら空却の顔を覗きこんだ。
「空却くん、あのね……おかしじゃなくて――」
――ぽふん。の頭の上に、なにかが乗った。
……え? の目の前には空却の片腕。それはなぜか自分の頭の上に伸びていて、まっしろになったの頭の中を宥めるように、そこではなにかがゆっくりと滑っている。なにか、って……? 空却くんの、腕の先にあるのは、て。ひろくて、あったかい、おっきなて……て――
――手?
刹那、の全身を巡っていた血が体の上部に駆け上がってきて、発熱したようにの顔から耳までの部位がぼふんッ! と真っ赤に腫れた。えっ……?……え……え……? どうして、いま、くーこーくん、あたま、わたしの、さわっとって、うごいて、なで、て――あ……かみの、なか、ゆび、はいってきた……やだ……やじゃない、ちがうの、はずかしい、はずかしい、うれしい、はずかしい、はずかしい……ッ!
込み上げてきた情動に耐えきれず、は口元を手で隠す。それでも、空却の腕は相変わらず目の前にあるし、頭の上で左右に行き来する感触はなくならない。髪の毛同士の擦れ合う音がやけに耳に届いて、その他の音が徐々に遠くなっていく。
心臓が口から出てしまいそうだ。いや、口から出るよりも先に胸のところで破裂してしまうかもしれない――ああ、もう、あたまのなかも、ぱんくしそうだ。ついに思考回路がピーッと停止してしまったは頭をぎゅううっと目を瞑り、肩を強ばらせて、寝惚けた空却の謎の洗礼を受ける。撫でるだけには収まらなくなった空却の手は、指の腹で頭皮を擽るような動きをしていて、の首の後ろがぞくぞくッと震えた。
――不意に、空却の手の動きが止まる。ぴくっ、と頭皮に触れていた指先が動いたと思えば、の目の前でばさッと勢いよく毛布が舞った。え……? が声を上げるまもなく、顔を伏せた空却が俊敏な速さで毛布を畳み、押し入れに収納。そのまますくっと立ち上がった彼は、部屋の中を大股で歩き、すぱぁんッと障子を素早く開けた。
「……五分後、正門前」
ぴしゃんッ、と閉じられた障子。空却の足音が部屋の向こうへ遠ざかっていって、一人残された現実をようやく飲み込んだは、赤子歩きのような思考回路で現状を整理しようとする。
空却くん、おきた……。あれ……? でもさっき、空却くん、なんて……? ――前言撤回。整理など到底無理だった。一人になっても、未だに頭の上にあった空却の手の感触が残っていて、今にもどうにかなってしまいそうな胸を、は服越しに強く強く抑えつけた。
寺との家を結ぶ桜並木は、昨日から満開を期していて、昔から見慣れているコンクリートの道は、この時期になると地味な灰色ではなく無数の桃色に彩られる。行きの時よりも少し風が強くなっており、頭上から降ってくる桜吹雪は、まるで絵のように絶えずはらはらと舞い続けていた。その中を切るようにして、空却の隣に並ぶは鈍い足運びで自宅へと向かっている。
空却が部屋を出ていった後――はふらふらと体を揺らしながら客間へバッグを取りに行った。その足で手水舎に向かい、冷たく新鮮な水で手と口を洗って、火照った体を一時だけ沈めた。そして、寺の中で遊んでいた子どもの一人にぶつかってしまい、その時に一言二言程度の会話をした頃には、どうにかこうにかまともな思考ができるようになっていた。
大丈夫……。わたし、すごく落ちついとる……。だから大丈夫……。部屋を去る際に言った空却の言葉を思い出して、が駆け足で正門の前に行くと、そこではスカジャンを羽織った空却がすでに待っていた。不意をつかれたはまたしても体が強ばってしまい、顔にもじわじわと微熱を帯びていまう。せっかく気が紛れていたのにまったく意味がなかった。
「――さっきのことだが」
ひ、と声を出さなかった自分を自分で褒め称える。はぎぎ、と軋む首を動かして、正門からずっと黙っりっぱなしだった空却を見上げた。
さっき……さっきって――の思い浮かべる“さっき”と一致していることを予知して、は続きの言葉を待った。「あー……」
「……うちの寺によく来とった子供と間違えた。他意はねえ」
「こ、ども……?」
「あぁ」
「不躾に悪かったな」となぜか謝罪する空却に、の中に鎮座していた熱の塊がすっと溶けていった気がした。
子ども……子ども、かぁ……。檀家さんの子かな……。それとも、親戚の子かな……。うん……空却くん、面倒見いいから、小さい子の頭なでる時だってあるよね。うん、うん……とは一人納得させる。すこしだけ寂しく思った気持ちをひた隠して。だめだなぁ……やっぱり、空却くんに対してどんどんわがままになっとる……。へんに期待してしまっている自分が嫌いになってしまいそうで、は別のことを考えて頭をリセットしようと顔を上げた。
――ふと、頭上に影がかかっているのが窺えた。そのまま上を向こうとするが、「動くな」と空却の声がかかったので、その動作も一旦止む。これって――部屋で起きたことがありありと蘇ってきて、は思わず足を止めてしまったが、こちらに合わせて空却もぴたりと止まってくれた。
また、まただ――ぎゅ、とは目を瞑るが、落ちてきたのは髪の毛が数本動いた感覚だけで、が予期していたものは何もなかった。あれ……? 肩すかしをくらった顔をしていると、の頭から退かれた空却の手からは、ひとひらの花弁が散っていった。
「……花弁連れとったから取っただけだ」
空却の落ち着き払った声に、はどっと脱力する。そ、そっか……桜の花びら、とっただけかぁ……。さっそくへんな期待をしてしまったは、体の中で渦巻いた自己嫌悪にお腹が痛くなってきた。
そもそも、自分は小さな子供じゃないのだから、撫でられる対象にはならない。こんな途方もない勘違いをしてしまうのも、空却の一動作にとても敏感になっている……いや、なりすぎているせいだ。空却くんは、相手を間違えちゃっただけ……。わたしもへんなこと考えとらんと、普通にしなかん……。昨日まで、どんな気持ちでおうちに帰っとったっけ……。
悶々と考えているうちに、先ほど強ばらせたの体からゆるゆると力が抜けていく。すると、隣にいる空却から重たそうな溜息がの元に落ちてきた。
「……んな身構えなくたって、もうしねーよ」
「え……ッ」
「は?」
あ、と気づいた時には遅かった。耳に入ってきた自分の声に自分で驚いてしまって、はさあぁっ、と顔から血の気が失せていく。今日は顔面が赤くなったり青くなったりと大忙しだ。空却も空却で、の声がかなり絶望的な色に聞こえたようで、不可解と言わんばかりに目を丸くしている。
普通に、って今さっき思ったばかりなのに……っ。「あ……ぇ、と……その……っ」しどろもどろになりながらも、は宙に舞っている桜を目で追いながら、たどたどしく言葉を紡いだ。
「あ、頭なでられるとねっ……神経細胞が反応して、リラックス効果があるんだって……!」
「へー……」
「それでね、さっきのも、ぜんぜんやじゃなかったから、もうしんのかぁって、ちょっとだけもったいないって、思っただけでっ――」
刹那、びゅうぅッ! と一際強い風が二人を襲う。服がはためき、髪の毛がぶわっ、と上下左右に振り回されて、風が止む頃には、桜色の絨毯もさっきとはがらりと模様を変えていた。
い、今の風、すごかったなぁ……。地面の所々で小さな桜の竜巻を起こっている様を見つめていると、く、と頭上で笑った気配がする。見上げれば、金色を細めている空却が口元で弧を描いていた。
「お前の髪、すげえことになっとんぞ」
「えっ」
「鳥の巣みてえ」
「ええッ」
は二度声を上げる。と、鳥の巣……柔らかい髪質のせいか、少しの風でもすぐに絡まってしまい、解くのはなかなか至難のわざだ。雨の日なんかは特に最悪を極める。空却に笑われてしまったことに慌てたは、すぐさま手ぐしで整えようとする。しかし、細かい髪の毛があちらこちらに行っているせいで、整うものも整わない。身支度を見られている気分になって、髪どころか心も乱れていった。
空却の口から呆れたような吐息が漏れる。「……いったん手ェ退けろ」そんな声が届いて、は何も考えず言われた通りにぱっと手を離す。すると、自分の手と入れ替わるようにして、空却の手がの頭部に伸びていった。
さっ、との頭の表面を空却の指先が滑っている感覚がして、の胸がばくんっ、と大きくなる。あれ……あれ……? が混乱しているさなか、いったん頭部から離れた空却の手から花びらが二枚ほど散っていって、また同じように髪をさっと払うと、今度は一枚の花びらがはらはらと地面に落ちていく。
……もしかして、花びらも付けとった……? 空却が何も見えない自分の代わりに花弁を取ってくれているのだと分かって、は照れ隠しにゆっくりと顔を伏せた。
「あ、ありがとう……」
「……あぁ」
小さく返事をした空却。そんなにたくさんんの花びらを付けていたのかと恥ずかしくなりながらも、はじっと大人しくしている。花びらを払ってくれている空却の手の動きは思っていたよりも長く、ようやく手が止んだと思ったら、今度は髪の間に指が差し込まれて、櫛のように優しく整われていく。それも、最初は指の腹で頭皮を滑るだけだったのが、最終的には手のひらに全体に変わっていって、まるで部屋の時と同じく、頭を撫でられているような感覚に陥ってしまった。
ちがう……ちがう……。空却くんは、桜の花びら取ってくれとるだけ……。くちゃくちゃになった髪の毛、整えてくれとるだけ……。は同じ間違いを繰り返さない。自分に対して念入りに暗示をかけながら……それでも、嬉し恥ずかしい気持ちを消すことはできず、緊張と羞恥で震える息をこわごわと吐き出していく。
まだ、花びらついとる……? 醒めたくない夢をぎゅっと抱き込むようにして、は脳裏に過ぎった問いをこくんと飲み込む。だって、そんなこと言ったら、やめちゃうかもしれん……。自分の頭上から落ちていく花弁を見なくなっても、はそれこそ夢現の気分で空却の手のひらの熱を享受していた。
