Episode.7
拠り所だったはずの場所が轟々と燃えている。声をかけようとしても、不愉快と言わんばかりに火花がばちばちと飛んできて、言葉を紡ごうとしたの喉を容赦なくじりッと焼いた。
自室の、天井が映っている。寝起きの時のようにその木目は薄ぼんやりとしていて、どんな模様を描いていたか思い出せないでいた。数十年、同じものを毎朝見ているはずなのに、おかしい。それもきっと、眼前にいる空却の存在に意識をもっていかれているからだ。
こちらを見下ろす金色には、影が落ちている。いつだって、その目は真夏の太陽のような色で、温度で、世界を映していた。
だから……知らなかった。は、彼が、こんなにも雀蜂の針のような鋭い目で他人を見るなんて。今までずっと、そんなことも知らないまま、彼のことを慕っていた。
「こんなお飾りだけの耳なんざいらねえよなあ?」
自分の両手首を押さえつけている手の力も、地獄の底を撫でるような低い声も……すべて彼の激昂が具現化したもの。謝罪を述べようとして唇が形どろうとするが、数分前にそれを一蹴されたことを思い出して、すぐに怯えるだけの小心者に戻った。
が今まで見ていた空却は、ほんの一部に過ぎなかったのだと、今さら知る。普段は顔を見せない彼が表に出るきっかけをつくったのは、まぎれもなく自分なのだと。今にもまっしろになりそうな思考回路の中、それだけははっきり分かった。
不意に、ぐっ、と空却の顔が迫る。頭突きが降ってくると思えばそうではなく、それはの顔の横にすっと落ちてきた。鎖骨と胸部分に、空却の体がぴとりと触れる。上下する胸がさらに深さを増して、の体の熱をぶわっと上げた。
生暖かい息がの耳の縁を撫で、首筋から背中にかけてぞわッと悪寒が走る。そんなところに他人の息が当たったことなんて、今まで一度もなかった。
これから何をされるか想像もつかない現状に、どうしたらいいのか分からなくなる。空却を怒らせたのも、こんな体勢になったのも……なにもかもが、初めてで。おしえてほしい、と言えば、その通りにしてくれた彼は、今はいない。怒りに支配された空却に、もう、されるがままになるしか道はなかった。それに、拒む意志すらも、元々なかった。
耳元ですう……と空気を吸い込む音があった。びくッ、と体を揺らすと、の片方の手首がぱっと解放され、自由になった空却の手はの頭をぐっと固定した。逃がさない、とでも言われているような。触れられる面積が多くなって、自由になったの片手を始め、体も硬直してしまう。
はあ……とゆるゆる吐き出された空却の息が耳の中から漏れて、首筋を撫でる。くすぐったくて、背中がぞわぞわとした。思わず小さく声を上げてしまうと、なぜか、空却は喉の奥で微かにわらった。
それからは、の耳のそばで鼻から吸っては口から息を吐く音が繰り返し聞こえる。自身を落ち着かせているというより、今から味見をする食べ物の匂いを嗅ぐような、野性的なものだった。徐々に空却の呼吸が荒ぶっていくのが分かる。もそれに感化されて、ついに彼との呼吸の調子が重なった。
「……声上げたら手首折るぞ」
不意に……耳の奥に吹き込まれた音。それが、おもいのほかやさしくて、こわばっていたの体からふっと力が抜ける。言葉自体は物騒なはずなのに、の頭は、それが隅から隅までやさしいものだと錯覚した。それが、嵐の前の静けさのものだと知らずに。
――はあ、とより大きく息が吐き出される。刹那、ごりッ! と何かが抉れる音がの鼓膜を侵した。
声を上げるな――遠回しに言われた空却の言葉を守って、は喉をぐっと締めていた。そのせいで、動物の呻き声のような音が口から漏れる。の目の前は壊れた電子機械のようにちかちかと点滅し、指先まで強い電流がびりびりッと走った。
なんの、おと……? なにがおきたの……? 次に襲ったのは、耳からくる激痛。それでようやく、空却に耳を噛まれたのだと分かった。それを助長するように、空却は間髪入れずにがぶがぶと歯を立てては、唾液を絡ませて粘着質な音を立てている。時折混ざる空却の息と声に、腰から力が抜けていく。なのに、体の芯は石にでもなったかのように、重く、固かった。
ごく、と喉が鳴る音。何かを掬いとるように耳朶から耳縁に向かって、柔らかいものがゆっくりと這った。その度にびりッとした痛みが走って、の喉がまた上擦った音を出す。はく、はく、と頻りに空気を食べる。動物の鳴き声のような音しか発さなくなった喉は、もう自分の知っているものではなかった。
……右耳の、感覚がなくなっていく。これから、自分はどうなっていくんだろう。そう思うと、固まっていた体がようやくぶるぶると震え出す。視界が白く濁っていく。もやがかかった天井を映していると、ふっ、と空却の熱が離れていった。
焦点が、金色に合う。唇に付着した赤いものを舐め、深くねっとりと呼吸を繰り返す空却が、恍惚そうに笑んでいた。鋭い犬歯を見せて、ぎらぎらとした光でこちらを見下ろしている。空却が笑うたびに、自分の手首を締める力が強まって、ついに指の先に血が巡らなくなっていく。いつの間にか、両手首とも空却の片手によって、自分の頭の上にまとめられていた。
……数分前の自分が、何を言ったのかも思い出せない。しかし、空却にこんなことをさせてしまうようなことを言ってしまったのは確かだった。でなければ、世界一優しいこの人が、こんなにも怒るはずがない。
今までの自分は、彼にどんな仕打ちをしてきたんだろう。嫌な時は嫌と言ってくれるだろうと、彼の優しさに甘えていた。そう言われないのをいいことに、空却が今まで何を考えていたかなんて、狭い世界しか知らないこの頭で、巡らせたこともなかった。欲しいがまま、彼の存在を求めていた。
痛い、苦しい、悲しい――螺旋を描いた感情は、の胸を執拗に絡みとる。ずっと昔に教えてもらった、仏罰という言葉が頭を過って、それならしかたがない、と赦されることをやめた。
――後に、空却から落とされた言葉によって、の世界は一度終焉を迎える。仏様の罰といえど、それを受け止めるには、彼の存在はの中で大きくなりすぎてしまった。
――バチンッ!
穴あけパンチを押したような、乾いた音がした。店の休憩室で昼食を取っていたは、食べかけのハムサンドを両手に持ちながら、音のした方をふっと振り向く。
「思ったより痛くなかったわー」「だから言ったじゃん」視線の先では、先輩の二人が隣合って座っている。一人の手の中には横長の小さな箱型のような物があって、もう一人は耳のそばにおそるおそる手を伸ばしていた。その人は、小さな鏡で耳元を見ながら、おお、と小さく歓声を上げている。「ホールが安定するまで触ったらかんよ」小さな箱型のような物を机に置いて、もう一方は苦笑交じりにその人の感動を嗜めた。
その様子をぼーっと見ていたは、おずおずとサンドイッチを口を運ぶ。しゃきしゃきとしたレタスの感触を口内で感じながら、心の中でその単語を反芻した。
「(ピアス、かぁ……)」
ピアッサー――机に置かれたそれを見て、はほわほわと思いを馳せる。高校の時、クラスメイトがこっそりピアッサーを持ってきて、教室で開けている姿を何度も見ていた。勇気のない自分には縁のないものだ、と思いつつも、羨望の眼差しを向けていたのは否定できない。そういえば、あんちゃんも留学に行く前に何個か開けとったなぁ……。耳朶しか開けんものだと思っとったから、骨のところに開けとる時はびっくりしたなぁ……。
はサンドイッチの最後の一口を含んで、タンブラーに入ったお茶でごく、と流す。胃がぐるる、と働いている間に、コンビニに行った時に一目惚れして買った桜餅の封をぺりぺりと開けた。桜の華やかな香りと葉っぱの渋い香りが上手く調和され、の嗅覚は春を感じる。桜餅を頬張っている間も、の頭の中はピアス一色に染まっていた。
同い年なのに大人顔負けの達観した思考を持っていて、ナゴヤから姿を消してしまったその人……心の距離の他にも、物理的にも彼から遠ざかってしまったことに対して、当時高校生だったは焦りを覚えた。ピアスを一つでも開けることができたら、今よりもちょこっとは大人になれるかもしれない――そんな子供らしいことを考えていたこともあった。
……しかし、結局のところ、高校を卒業しても、自分の耳にその仮初の証ができることはなかった。
はここ数年イヤリングをしていない。理由は様々あるが、最もなものは、付けても数日後にはどこかに落としてしまうということだった。どんなにデザインが好きなものだろうと、少々値が張るものだろうと、気がつく時には耳朶から消えている。取れた感覚もなければ、落とした場所の心当たりもなく、毎回迷宮入りになってしまうまでがテンプレだった。
ショップを横切る度、日々おしゃれなデザインになっていくアクセサリーに目が引かれるが、その足が止まることはない。落とした時のショックを思い出すと、ランチ一回分のお金をはたいてまで買おうとは思えなかった。
「(そういえば、空却くんもいろんなところに開けとる……)」
ちら、とは隣を歩いている空却を見る。今は仕事の帰り道――先月のような冷え込みはなく、彼のアウターもダウンから馴染み深いスカジャンに代わっていた。ダウンもいいけど、やっぱりスカジャンの方が空却くんっぽくて好ききだなあ……。久々に見た彼の装いにの胸がきゅん、と縮こまる。
店の表で合流すると、最近はどちらからともなく歩き出して、自然と隣になることが多くなった。怪訝な顔で見られたらすぐさま後ろに下がろうと思っていたが、そんなことは今のところ一度もない。
隣同士だとなにがいいかというと、空却のことが見放題なのだ。夜色に溶けない鮮やかな赤髪、暗闇をも見据える凛とした金色の目、歩く度に前後に揺れる骨ばった男らしい手と、電灯にきらっと反射するシルバーの指輪……失礼なことかもしれないと頭の中では危険信号を鳴らすのに、の目はどうしても我慢できなかった。ちら、ちら、と頻りに見ては、じぃん、と胸をときめかせる帰路がここのところ続いている。
今日も、隣歩けとる……。そんな今更なことを自分自身に報告しながら、の頭の中は一足先に春の訪れを感じていた。
「……おい」
「えっ……?」
ははたと我に返る。最近、空却と視線が合っても目がうろうろと泳ぐことがなくなりつつあった。しかし、いきなり彼の金色にかちっと捉えられては、やはり心の準備が必要になる。立ち止まりそうになった足を鼓舞しながら、は全身に走った動揺をひた隠す。
「なんだよ。さっきからじろじろと」
「わ、わたし、そんなに見とった……?」
「ここのところずっとだろ。いい加減穴開くわ」
き、気づかれとったぁ……っ。何も言われんからバレとらんと思っとったけど、昨日までのも、わざと気にしんでくれとったんかなぁ……。
恥ずかしながらにそんなことを思っていても、空却が怪訝そうな顔は止まない。何も考えずにありのまま、スカジャン似合うねぇ、かっこいいねぇ、と言えたら苦労はしない。それに、言ったとしても、何言っとんだお前、と頭の弱い子を見るような目線を浴びせられることは目に見えていた。
あ、当たり障りのないことを言わんと――そう思い、は歯切れ悪くも懸命に言葉を紡いだ。「え、えっとね……」
「く、空却くんのピアスホール、何個開いとるのかなぁって思って……」
「ピアスぅ?」
空却の裏返った語尾に口元が変な形になりそうになるも、はこくこくと首を上下に振った。何もない頭の中に残っていた即興で出てしまった台詞だが、諸々の辻褄は合うはずだ。
「あー……」空却は思案するように目を他所にやっていたが、じきに片方ずつ自分の耳に指を這わせていき、ピアスホールの数を教えてくれる。思いのほか多かった数を聞いて、ぎょっとした顔をしてしまったのは大目に見えてほしい。元々、耳朶に一つしか開けないものだと思っていたは、未知なる世界に驚きを隠せなかった。
「ぜんぶ、自分で開けたの?」
「あぁ」
「そうなんだ……。開けた時、痛くなかった……?」
「場所さえ間違えなけりゃあ痛かねーよ」
淡々と答える空却に、「そっかぁ……」とは声を落とす。自分でピアスホールを開けるのが怖い人は、病院に行って開けてもらうと聞く。医者にやってもらうのはそれはそれで緊張してしまい、電話予約をする時点で耳が疼いてしまいそうだ。やっぱり空却くんはすごいなぁ、大人だなぁ、とはしみじみと思った。
今度は空却に気づかれないように、はそうっと隣を見上げる。会話がひと段落つくと、空却はいつも前だけを見据えている。赤髪から覗く黒光るピアスの数々が、彼との壁を作っているようで、う、と思わず気後れしてしまった。
――もしもピアスを開けたら、空却といっしょの部分が増える。そう考えると、ピアスホールをつくることは何とも魅惑的な道に思えた。
……やって、みようかな。これは、自己満足。そう……すべて、自己満足でやることだ。結果がどうであれ、ピアスを開けること自体に意味がある。成人になる前の準備体操だと言い聞かせ、よ、よし、とは気合いを入れたのだった。
春の尻尾が出始めたおかげで、どこからか香る名も知れぬ草花の香りが漂ってくる。体の内側からも春の気配を感じながら、今日も長いようで短かった帰路を経て、は家の前に到着した。知らないあいだに、店と家が近くなっている気がしてならない。去年の今頃は、一時間歩いているんじゃないかというくらい長く感じていたのに。それくらい、今は何の気兼ねもなく一緒に歩けているということなのかもしれない。
「……おい」
じゃあな――いつもならそう言って、すぐさま踵を返すはずの空却の足が、ぴったりと地面に着いている。と思えば、上から声が降ってきたので、驚いたは勢いよく顔を上げた。
空却から向けられる眼差しが、少しだけ丸みを帯びている気がした。ぽつん、と口から漏れた音も、柄にもなく、おそるおそる、といった感じに聞こえて、は瞬きを数回繰り返す。家に着いて、こうして何か問いかけを投げられたのは初めてのことだった。今までにないくらい体に緊張が走り、いい意味でも、わるい意味でもどきどきする。固唾を呑んで、は空却の次の言葉を待った。
「あー……その、なんだ」と、珍しく口どもっている空却。なにかを探すように視線をちらほらと散らせながら、最終的にのことをじっと見据えた。やはり、その視線はどことなく丸くて、やわらかいもののように感じた。
「……お前、白か黒、どっちが好きだ」
「白か、黒?」
端的すぎる質問に、身構えていたの体からふっと力が抜ける。がオウム返しをしても幻聴ではなかったようで、空却はじっとこちらを見下ろすばかりだ。
黒か、白……。好きな色、っていうことでいいんかなぁ……? 服を選ぶなら白だし、自分が持っている小物もどちらかというと白が多い気がする。特に白が好きというわけではないのだが、黒は個人的にかちっとしていてかっこいいイメージがあるので、自分にはどうも合わない、と無意識に遠ざけていた。
――でも、その色は。黒、と聞いて連想するものといえば、決まっている。月日が経っても、互いに距離ができても、その色が彼から消えることは一度もなかった。全体像を見た時に目を引く色は赤と金だが、の目線で最初に映るのは、いつだってその色だ。
小学生の頃によく追いかけていた黒色のランドセル。遠巻きに見ていた時期が長い、中学生の頃の学ラン。そして、今は作務衣。それは、にとって空却だと分かる目印のようなもので、自分が持っているだけでは意味がなく、彼が身につけて、初めて意味をなす色彩だった。
「黒……かなぁ」
ぽつりと言った言葉に、空却の目がぶわ、と大きく開く。金色が小さくなったかと思えば、すぐさますっ、とその大きさを取り戻した。
し、白って言った方がよかったかなぁ……。そんなことを危惧していると、空却の両手がスカジャンのポケットにずぼっ、と突っ込まれる。伏せられた目にはうっすら影が落ち、薄く開かれた唇からはぼそり、と小さな音が漏れ出した。
「“思惑も所詮迷妄の内”……ってか」
「え……?」
「なんでもねーよ」
「じゃあな」そう言って、今度こそ空却はに背中を向ける。スカジャンの背に描かれたナゴヤ城の刺繍がこちらをじっと見つめているような気がして、も思わずぼうっと見とれてしまう。
空却は無駄なことはしない。白か黒……には理解できなかったことだが、空却にとっては意味のある問いだったんだろう。角を曲がって消えてしまった残像を頭の上で思い描きながら、は名残惜しそうに息をついて、家の玄関口に足を伸ばした。
「(か、買ってまったぁ……)」
地面から足の裏が数ミリ離れているのではというくらいほわほわとした足取りだった。家に向かう足に合わせて、の手首にぶら下がっているビビットイエローの袋がガサガサと音を立てている。
仕事終わりの帰路――今回は何日かぶりにひとりぼっちだった。今夜は迎えに行けねえ、という空却からの連絡を受け、これ以上になくがっかりとした昼休憩。最近はほぼ毎日迎えに来てくれていたから、まさかの不意打ちにショックを隠せなかった。仕事を頑張ったご褒美に空却と会えるという考えになりつつあるにとって、仕事を頑張るモチベーションが減ったといっても過言ではない。この際、夜道が怖いだとかは一切感じていない。たとえ昼間の道でも、同じ状況下ならばは肩を落として家に帰っただろう。
……わたし、だんだんわがままになっとる。空却くんも忙しいのに、甘えとったらかん……。落胆した自分に鞭を打って、午後からは人一倍フロアをせかせかと歩いて回った。普段以上に働くの姿にオーナーや先輩が口々に褒めてくれたが、当の本人は下手な愛想笑いを浮かべることしかできなかった。
落胆ついでに、家に帰る前にニシキへ足を伸ばした。白と青のイルミネーションが目立つ街中で立ち寄ったのは、驚安の殿堂でお馴染みのディスカウントストア。あまり行ったことがないために目的の売り場に着くまでに苦労したが、目当てのものはなんとか買うことができた。
千円札を二枚出していくらかお釣りがきたそれは、大人の背伸びアイテム……件のピアッサーだ。
「(いつ開けよう……)」
明日はお仕事もお休みだから、今日開けちゃおうかなぁ……。万が一出血した時のために、家にある救急箱にはたくさんの応急処置グッズがこんもりと入っているし、場所さえ間違えなければ痛くないと空却も言っていた。
少し怖いけど、空却くんがそう言うなら……きっと大丈夫。は竦みそうになった指先に喝を入れるように、小さな拳をきゅっとつくった。
早く着いてほしかったような、そうでなかったような……矛盾帯びる思いを胸に抱え、の足は家の前に差し掛かる。ここ数年動いていないサインポールを通り過ぎ、あとは路地裏に入って玄関前に立つだけ――そんな時だった。
「――だァからこれは餌じゃねえって」
微かに持ち上げられたつま先が、地面から離れずにそのままぴしッ、と静止する。この時間帯に、こんな場所にいるはずがない人の声がして、は思わず息を詰めた。
は道の角から路地裏をそろりと覗き込む。人感センサーの電灯に照らされている玄関前……そこには、路地裏に居着いている猫一匹と、玄関の段差に腰を下ろしている声の主がいた。
「家主が帰ってくるまで大人しく待っとれよ」
――空却くんが、おる。
夢? まさか。ベタだが、は自分の頬をふにっと引っ張ってみる。少しだけ痛いので、夢ではない。鮮やかな赤髪も、穏やかな金色の目も、いつものスカジャンも……すべて空却のものだ。片手に持っている紙袋を上に持ち上げて、もう片方の手では猫とじゃれている。はすぐさま頭を引っ込めて、ぴっとりと壁に背中を張り付けた。
ど、どうして……? お迎え行けんって連絡あったのに……。もしかして、読み間違えてまった……? 冷や汗が背中から滲むも、はすぐさま首を横に振る。空却が店の前にいなくても、来れないという連絡があるまではいつでも待っている自信があるので、そんなことは有り得ない。念のためにアプリのトーク画面を確認するが、やはり、昼間に確認した文章は一言一句変わっていなかった。
……どうしよう。出ていこうにも足が動かない。このまま空却に気づかないまま路地に踏み入れられたらよかったのに、頭の中で変なストッパーがかかってしまって、の動きを封じていた。これではまるで覗き見だ。
空却くん、こういうこそこそしたの嫌いなのに――そう思いながらも、の足はすっかり地面に張り付いてしまって、膝を曲げることすらできなかった。
「……にしても遅ェな」
――不意に、路地から聞こえてくる空却の声のトーンが変わる。今はいないと思われている自分に向けてのものだと思い、大袈裟なくらいにの体がびくうッ、と上に跳ねた。
遅い――たしかに、普段ならとっくに帰っている時間だ。本当ならもっと早く帰ってくる予定が、ピアッサーを手に入れるためにあちこち店の中を歩き回ってしまい、余計な時間を過ごしてしまった。
こんなことなら別の日に買えばよかったなぁ……っ。一刻も早く路地に入らなければと疼く体に相反して、いっこうにその一歩を踏み出す勇気が出ない。すると突如、のスマホがポポンッ、と軽快に鳴り出して、「わぁぁッ……!」と裏返った声を上げる。
「あぁ……?」
路地にいる空却が低く唸ったのと、がスマホを手に取ったのはほぼ同時だった。黒く染まった通話画面……その中には、“空却くん”の白い文字。さあぁッ……との体から力が抜けていく。
まさか、電話をかけられるとは思わなかった。それに、空却からかけてくれるのは初めてではないだろうか。本来であれば嬉しくてしばらく放心状態だろうが、この状況下では手放しでは喜べない。
徐々に近づいてくる足音。は追い詰められた犯人のような心境だった。角から靴のつま先が見えた瞬間、の心拍数は最高潮に達する。目を瞑って、口から出そうになる心臓をぐっ、ぐっ、と飲み込んだ。
「……なんだ。いたんか」
――ふわ、と優しく香るお寺の匂い。それと同じく、降ってきた声は今吹いている夜風のように穏やかなものだった。
のスマホの音がぴた、と止む。同時に、空却がスカジャンのポケットにスマホを仕舞ったのを、は俯いた視線の先で捉えた。おそるおそる、顔を上げる。
「た、ただい、ま……」
「……おかえり」
ぽつん、と条件反射で漏れた言葉。まさか返事が返ってくるとは思わず、は梅干しを食べたような顔をして、再びさっ、と俯いた。こちらを見下ろしている空却の眼差しはやわらかい光を帯びていて、表情が上手く繕えない。
「おいどうした。途中変な奴と会ったか」「だっ、誰とも会っとらんよっ」変な奴とは会っていないが好きな人には会うことができた。変な形にゆがんでいる顔が元に戻るまで、しばらく時間がかかりそうだった。
……そもそも、空却が迎え以外で家に来るなんていつぶりだろう。もしかすると中学生……いや、小学生以来かもしれない。あの頃の空却は何も言わずに一緒に帰ってくれたり、寺に来いと誘ってくれたり、毎日と言っていいくらいどちらの家で宿題をやって過ごしていた。特に、漢字の宿題が出た時は小躍りしたくなるくらい嬉しくて、その都度空却に教えてもらうのが、の密かな楽しみだった。
……いや、そんなことはいい。今は空却が家の前にいた理由だ。はぎぎ、と鈍い音を立てて頭を持ち上げる。空却の視線はから一寸もずらさずに縫いつけられていて、夜の静けさも相まって、彼の纏う雰囲気がより静謐なものになっていた。見た目と反するそれに、はまたしても顔の中心に力を込めそうになる。だめだ、これではいつまで経っても話ができない。
「く、空却くん、どうしたの? うちに、何か用事あった……?」
「あー……別に用事ってほどのことでも――」
不意に、空却の声がせき止められる。気がつくと、空却の視線がの目線よりもやや下になっていて、その一点をじっと見つめていた。も釣られてその視線の先を辿ると、自分の手首にぶら下がっている袋に辿りついた。
「……お前、ドンキ行ったんか」
「あ……うん。欲しいもの、あって……」
「こんな夜更けに」
「う、うん……」
「一人で」
「うん……」
こんな奇抜な色をした買い物袋はそうそう見かけない。どこの店の買い物袋かは分かる人には分かるだろう。が頷くと、さっきまでまろい眼差しだったのが一転。空却の金色の目がきつめに細まった。
あ……この感じ、古着屋さんの時と同じだ……。ドンキも、一人で行っちゃかん場所だったんかな……。一変した空却の態度によって、の不安がぽつぽつと浮んでは胸にじわじわと染みていく。どんどん重みが増していくそれに、は無意識に袋を自分の後ろにがさ、と隠した。
がじっと沈黙に耐えている間、空却は何か言いたそうにするが、彼の口から零れたのは自嘲じみた溜息だけだった。
「……今度からは明るい時間にダチと行けよ。ニシキの中じゃあ比較的治安は悪くねえ通りだが、あそこも一応繁華街だからな」
優しく窘める程度で終わった会話には内心動揺しつつも、何度もこくこくと頷いた。
それ以降、空却が何か言うことはなく、二人の間にむず痒い沈黙が落ちてしまう。なにか喋らんと、と妙な使命感に駆られたは慌てて口を開いた。
「や、薬局でも買えるものだったんだけどねっ、ドンキの方がお値打ちだし、種類も豊富だって聞いたから……っ」
「まぁ、気持ちは分からねえこともねーが……。つか、そこまでして何買いたかったんだよ」
「ピアッサーを――」
「は?」
あ……やってまった……。トーンが落ちた空却の声に、の身がきゅっと竦む。
「……穴、開けんのか」
「う、うん……」
「どこに」
「み、耳たぶに」
「何個」
「片方に、いっこずつ……」
デジャヴの会話のテンポに、は指先から消えてなくなってしまいそうだった。
「だ、だめかなぁ……」はおそるおそる尋ねてみる。しかし、空却はそっぽを向いて、「……別に。お前の好きにすりゃあいんじゃねーの」と言うだけだ。淡々とした空却の声がどんな感情を帯びているのかまったく分からなくて、うう、と胃が痛くなる。言うんじゃなかった、と後悔しつつも、とにかく今の重たすぎる空気を払拭しようと、は跳ねるようにしてばっと顔を上げた。
「で、でもねっ、ちょっとだけ迷っとるの……っ」
「へー……」
「空却くんは痛くないって言っとったけど、やっぱりちょっと怖くて……」
「だろうな」
思考よりも口が先走る。到着点が見当たらず、見切り発車の状態での口から言葉が飛び出した。
「だっ、だから、空却くんが開けてくれんかなぁ、なんて――」
「は?」
あれ……。わたし、何言っとるんだろう。
二度目の“は?”を受けて、は頭が真っ白になる。場をもたせることに必死で、思ってないことにまで口が回ってしまった。しかし、一度出た言葉が大人しく口の中に戻るわけでもない。にへら、と固く笑んだ表情をすっと止め、は空却を見上げた。
ごめんね、冗談だよ――なるべく軽い調子でそう言おうとした。
「……分かった」
「え……?」
空却の声が降ってきたのと目が合ったのは、ほぼ同時。息だけで紡がれたような、掠れた言葉。そこには、水を打ったように静謐な雰囲気を纏った彼がいた。細い糸をぴん、と張る緊張感に、形づくろうとした言葉は頭の中から失せてしまった。
怒っては……ない。しかし、感情の読めないその目が、にはひどく不気味に映った。その瞳の中に、は数分前に猫と戯れていた空却を探すが、まるで神隠しにでも遭ったように、その面影すら見つけられなかった。
しん、と静まり返る玄関。カヨが亡くなって何年も経つが、サンダルウッドの独特の匂いは今でも色褪せずにの家の香りとして鎮座している。何回も出入りを繰り返してきた自分の家なのに、今はまるで他人の家のようだった。
「洗面所借りんぞ」そう言って靴を脱ぎ、手を洗いに行った空却を見送ってしばらく。は上手く力の入らない指先を駆使して、袋からピアッサーを取り出す。空却の言われたとおり、消毒液とコットンを用意して、玄関の段差にちょんと座って待った。
……空却くん、どうしたんだろう。は背中を丸めて、膝を抱える。靴も脱がずに、じり、じり、と小さな砂埃に靴底を擦り合わせながら、の頭の中は態度が一変した空却のことでいっぱいだった。
昔はよく、良いことは良い、駄目なことは駄目と言ってくれた。それが、いつからかふっとなくなって、距離が離れ、また少しだけ近くなって、今に至る。空却の一言一句は真のものだと信じて疑わなかったが、今は空却の一言一動作に敏感になっているからか、好きにしろと言われてもあんな風に態度を変えられるとどうしても気になってしまう。
……今なら、まだ間に合う。空却くんが来たら、やっぱり大丈夫だよって言おう。そう決心した途端、こちらに近づいてくる足音があった。
「――準備できたか」
足音が止まったと同時に、の横目にスカジャンが現れる。どかっと横に座った空却の方をわっと向くと、「……なんだよ」と怪訝な顔をした空却の視線とぶつかった。「あ、あの、空却くん……」
「本当に、開けてもらっていいの……?」
「はぁ? 今更何言っとんだ。お前が開けてほしいっつったんだろ」
その通りだ。日和ってしまった自分を隠して、「そ、そう、だね……」とは呟く。なんとなく、今話しているのが空却の皮を被った別の誰かのようで、せっかく近くなった気がした心の距離がさらに遠ざかった気がした。
まるで興味なさげな眼差しでこちらを見下ろす空却はふ、と息を落として、「……髪、耳にかけとけ」と言う。空却がピアッサーを片手に持ったのを横目で捉え、はおずおずと髪を片耳にかけた。
曝け出される耳。隣に空却がいるからか、どこかむずむずとしてしまう。ピアッサーが耳たぶに差し込まれるのを体を固くして待っていると、ほんの微かに、息の詰まる音がした。自分のではない。真横から察した気配に、はふと空却の方を見ようとして、頭に電流が走った。
「(あ……)」
――今、出している方は。耳縁に残っているものを思い出して、は片手でさっと耳を隠して隣に座る空却を見た。
「もっ、もう何ともな――ッ」
「痣残っとんのに何ともねえわけねーだろ」
陰った顔をした空却にぴしゃりと言われて、今度はが息を詰まらせる番だった。今日は、こっちと選んで進む道がとことん凶と出る。謝ろうとした声も絞られた喉からは一向に出てこなくて、はすん、と顔を下げた。
……無言が耐えきれず、おずおずと耳からも手を離す。耳の軟骨から軟骨へ、インダストリアルのような二箇所……右耳の肉が少し抉れていることを知る人間は、数えるくらいしかいない。鏡を見るときですらあまり気づかないし、普段は髪で隠れているので、そこに痣があることすら、たまに忘れるくらいだ。痛みだって、今はもうほぼない。
「……今の時代、綺麗に消せる方法もある」
「え……?」
「痣の話だ。消したくなったら言え。金は出す」
流れるように呟かれた言葉には力があった。有無を言わせないそれに、は肯定も否定できないでいる。だって、痣を消すなんて、一度も考えたことがなかったものだから。耳も聞こえづらいということはないし、こうして顔を近づけられなければ痣の存在にも気付かれない。たとえ耳を出しても、店のスタッフや客に摘されたことは一度もなかった。
でも……空却くんは、やさしいから。こうして痣を見る度に気に病むのかもしれない。本当なら、気にしなくてもいいよ、と声を大にして言いたい。言いたいが、その言葉すらも彼の心を傷つけてしまいそうで、結局、の喉の奥でぐるぐると渦を巻くだけだった。いつか、ちゃんと言えるといい――そのいつかがいつになるのかも、今は想像もできないけれど。
「……んじゃあやるぞ」話の脈を切るようにして、空却の声が張る。冷たくて固いものが耳朶に当たり、は無意識に体を強ばらせた。
「いちにのさんで開けっからな」
「う、ん」
「いーちィ」始まるカウントダウン。穴を開けたら、しばらくは鈍痛がするかもしれない。ピアスホールが安定するまでは、寝苦しい夜だってあるかもしれない。でもそれが、大人への背伸び。リスクを負わないわけがない。それに、これは空却も通ってきた道だ。それなら、自分だって――
「(“いっしょ”が、ほしい……)」
色違いのランドセルも、男女違いの学生服も、もうない。共通点がない今、どんなことを理由にして空却と一緒にいられるのか、分からなかった。前までは、週に数回ある迎えだけで満足していた。それすら贅沢と思っていた。しかし、今は違う。
どんどん、わがままになっていく。まるで底なし沼だ。一度でも、嫌だと、駄目だと、空却が言ってくれたら、陸に上がれるのに。いつまでも潜ってしまって、甘くてとろみのある水をも飲み込んでしまって、心地よすぎる温かさに、目を閉じてしまう。
……ピアスを開けたところで、もっと長い時間、空却と一緒にいられる理由になどならないことは、とっくに分かっていた。
「にーィ」
「う……っ」
「……まだ何もやってねえよ」
空却のカウントダウンが止む。「そ、そうだね……っ」その瞬間、自分の体の中に新鮮な空気が入ってきて、気がつかないうちに息を止めていたことが分かる。は深呼吸をして、気分を整える。余分なことは……考えちゃかん。もう夜も遅い。あまり時間をかけては空却にも迷惑がかかる。
「ご、ごめんね。もう、大丈夫」強がった語尾は、自分でも分かるくらい震えていた。ちら、と見えた空却の顔は細い糸が絡まったように複雑そうな色をしていて、その口からは数字以外の言葉が飛び出した。
「……なんで開けたいんだよ」
「えっ?」
「穴」
空却に突拍子もなく尋ねられて、ははたと頭が白くなる。
なんと、言えばいいのか。空却との共通点が欲しかった? そんなことを言ったら二度と顔を合わせられない。かと言って、空却に嘘は通じない。昔から、から紡ぎ出される誤魔化しは数秒でダウト判定されてしまうものだから、不思議でならない。空却には真の言葉しか通じないことは、が一番分かっていた。
の嘘は、目が泳いでいるだとか、そもそもの挙動が不審だとか、そういう理由であっさりと見破られる。にはそんなつもりないのだが、自分にも分からないものが空却には見えているらしかった。
とにかく、目を合わせたら終わりだ。嘘じゃなくて、かつ核心に触れない理由――うう、と頭を捻らせながら、は俯きながらも小さく口を開いた。
「……く、」
「く?」
「空却くんが……ピアス、開けとる、から……」
しん、といやな沈黙が降りる。やってまった……また、やってまった……。は学習能力のない自分がひどく憎らしくなった。
空却の顔を見なくてもおおよそどんな表情をしているか分かるが、ここまできたらもう見上げるしかない。顔を上げて、最後に目線を上に伸ばす。そこにはもう、感情のない目をした空却はいなかった。
しかし……決して良いものではないものだ。目が大きく開かれ、眉はぐっと寄せられている。開かれた口から犬歯がちらりと見えて、はひ、と喉を奥に引っ込ませた。
「はああぁ~ッ?」
「おっ、同い年でっ、同じところに暮らしとる空却くんが開けとるから、わたしもなんとなくピアス開けたくなって――」
「んなしょうもねえ理由で自分の体に穴開けんじゃねえッ!」
ぴしゃんッ! と叩きつけられるようにそう言われて、は準備していた台詞がすべて吹き飛んで、頭が真っ白になる。しょうもない……しょうもないと言われた。空却に、空却と一緒になるのが、しょうもないと。崖から転落した気分になって、は瞳孔を開いたまま、ゆっくりと頭を下げた。
「あ……」空却の口から漏れる音が聞こえたが、の世界は真っ黒。応答する余裕もない。涙こそ出なかったものの、未だの白くなった脳内で空却の声が木霊して聞こえていた。
「……悪ぃ。少し、言葉が過ぎた」
「しょう、も、ない……」
「だから悪かったって」
「しょうも、ない……」
「おい――」
「しょうもない……」
「だああぁぁッッ!! しょうもなくねーから聞けッ!」
ひッ、と喉を引き攣らせては現実に戻ってくる。重々しい溜息が頭上から降ってきて、俯いた視界から、空却が片膝を立てて座り直したのが分かった。
「あのなァ……拙僧が耳にいくつ穴開けようが、お前までそうすることねーだろ」
「う、ん……」
「納得してねえ顔で肯定すんな。言いたいことあんなら言え」
言いたいこと――いつだって、空却に言うほどのことでもない感情が、の胸の中に溜まっている。毎回言語化できなくて、もどかしく思う。空却の反応が怖くて、言葉が思い浮かばないように無意識に制御しているからかもしれなかった。
ちゃんと思っているのに、言わなければいけないのに、空却もそれを望んでいるのに……口からは中身のない息ばかり漏れる。考えて、考えて、ついに目眩すらしてくると、「あーくそ……」と乾いた声がぽつんと落ちてきた。
「お前はどうしたいんだよ」
「え……?」
「この際理由はいい。お前が開けてえなら開りゃあいいし、自分で開けられねえなら手伝ってやる。だがな、拙僧は覚悟もねえ奴にやる気はねーぞ」
「覚悟、って……」
「あ? さっきから震えとんだろうが」
自然と顔が上がって、はいつの間にか空却の目を見て話せていた。しょうもないと言ったのにも関わらず、空却はこちらの意思を尊重してくれている。そのやさしさがどこから来ているのか、皆目見当もつかない。しかし、僧侶の卵ということは、おそらく関係ない。
なぜなら、空却は昔からやさしかった。やさしくなかった時なんて、一度もない。漢字を教えてくれたときも、病院まで一緒について行ってくれたときも、長期休みに入るたびに寺に泊まらせてくれたときも――は、空却が咲かせる慈しみの花蜜を吸っていた。だから、今の今までその裏を覗き込む度胸が備わっていないわけなのだが。
……どちらにしろ、ピアスホールを開ける覚悟がまだないのは事実。はもじもじと指を交差させながら、ぽつぽつと言葉を落とした。
「あの……ね」
「ん」
「ピアスホール、開ける勇気……まだ、ちょっとでないから……」
「あァ」
「開ける時になったら……また、頼んでもいい……?」
がそう言うと、「……そん時になったらな」と呟き、空却はふいっと視線を逸らしてしまう。一瞬垣間見えた、感情の失せた空却の目。なんとなく、その色が帯びた理由を一つ察してしまって、はこわごわと口を開いた。
「あ、開けたくなかったら、無理しんくていいよ……?」
「はぁ? お前は開けてえんだろ」
「う、うん……」
「なら余計なこと考えんな。やるっつったらやる。だから拙僧以外の奴に頼むなよ」
空却の言葉の深いところまで読み込まず、は何度も頷いた。まるでこちらからは踏み込ませてくれない反応に、空却の言う通り、余計なことはしない方がいいと自分に言い聞かせながら。
――本当に? 本当に、このままでいいのだろうか。空却に思うところがあるかもしれないのに、それを見なかったことにして。それではまた、空却に我慢をさせてしまうんじゃないのだろうか。
「……無駄になっちまったな」
「え……?」
思考の海にどっぷり浸かる前に、空却の声によって現実に呼び戻される。顔を上げると、開封済みのピアッサーを手の中で弄んでいる空却がいた。たしかに、もう滅菌状態ではないので別の日には使えないだろう。
すると、空却がポケットから財布を取り出しながら、「ピアッサーの分の金返すわ。いくらだった」などと言うものだから、はぎょっとして首を振った。
「そっ、そんな悪いよ……! わたしが勝手に――っ」
「千六百十円な。あー……細けえのねえから二千円でいいか」
「ああぁぁぁ……ッ」
袋の中に入れてあった領収書を見つけた空却がそれをぴっと取り出して、財布から二千円を取り出す。床に置かれてすっとこちらにスライドされた紙幣を慌てて戻そうとしたら、「返したら倍にして返すぞ」と言うので、は身を縮こませながら渋々貰うしかなくなった。貯金行きにはもったいなすぎるそれは、カヨの戸棚に大切に仕舞っておこうと決めた。
――言葉もなく、空気感だけで空却が帰る気配がしたと同時に、彼がすっと立ち上がった。一片の名残も持っていくような所作に、寂しがりの心が置いていかれそうになりながら、も見送りのために再び靴を履き始めようとした。
……ふと、は玄関の隅にぽつんと置かれているものに気づく。空却が最初に持っていた小さな紙袋だ。アッシュグレーの袋をラッピングするように白い紐で蝶々結びにされているそれに、ははて、と首を傾げた。
「空却くん。紙袋、忘れとるよ……?」
「やる」
ぽん、と空いた間。空却から端的に吐かれた言葉の意味が理解出来ずに、が目を丸くしていると、彼は振り返り際にこう言った。
「お前宛だ。玄関の前に置いておこうと思ったんだが、猫が飛び跳ねて袋引っ掻くもんだから直接渡すしかなかった」
「二月にもらった鬼まんの返礼がまだだったろ。これで返すもんは返したからな」そう聞いて、はようやく今日の日付を思い出す。三月十四日――そうだ、街中で白と青の装飾が施されていたのはそのせいだったのだと、今になって合点がいった。
ホワイトデーの存在など、すっかり忘れていた。もう自分には関係のないイベントだと思っていたから。バレンタインを意味のあるものにした今年、たしかにホワイトデーも同様に意味を成す道理はあるが、それでも、まさか空却からお返しが来るなんて思わない。思えば、バレンタインに何かをあげて、空却からお返しが来なかった年など、今まで一度もなかった。
「いっ、今、開けてもいい……っ?」空却に尋ねてみるも、の指はもうすでに白い紐を摘んでいた。「……好きにしろよ」と言った空却の言葉に甘え、は紐を解き中身を取り出すと、そこには透明な袋に入った輪状のものが入っていた。
「ブレスレット……?」
「あれ以来、耳飾りしてねえだろ。腕くれえなら着飾れると思ったが……あそこの店、腕飾りしていいとこだったか」
「う、うんッ……。いいとこっ」
「もし邪魔なら一箇所切って羽織紐にしてもいい。そん時は金具つけてやるから言えよ」
ぽかん、と間が空く。金具? なぜ空却が付けるのかと疑問が生まれ、はまじまじと袋越しにブレスレットを見つめる。
手に持ってみると、普通のブレスレットよりも少しだけ重さがある。見た目的にも、おそらく天然石が使われているからだ。黒くて大きな珠が二つと、その間に白と薄赤の小さな珠が法則性をもって並んでいる。数珠のような見た目だが、房も何もついていないし、空却もブレスレットということは否定しなかったので、の見解は間違いない。
天然石――そういえば、空却くんのお寺でたまに数珠作り体験しとったなぁ、とぼんやりと思い出した瞬間、の脳内にびりッと電流が走った。
「こ、これ……っ、空却くんの、手作り……?」
「……そうだが」
――どくんッ、と心臓がこれでもかというくらい驚いて、は思わず変な声を出しそうになった。天然石のブレスレット……それが一気に一等級の宝物に思えてしまって、は音を立てずにゆっくりと床の上に置く。そして、バッグの中にある財布にそろそろと手を伸ばすと、「おい」と空却から声がかかった。
「金出そうとすんな。やるって言ってんだろ」
「てっ、天然石なんて高価なものタダでもらっちゃかん……っ!」
「んなもんピンキリだっつの。それに、うちでたまに数珠作り体験やっとるの、お前も知っとんだろ。紐も天然石も腐るほどあったから実質タダだ」
「わ、わたしなんて、鬼まんあげただけなのに……ッ」
「拙僧も紐に珠通しただけだわ。手間と時間ならお前の方がかかっとる」
これ以上話すと五臓六腑が耐えられないと思ったので、はなんとかして空却の言葉を胸の中に収める。それに、空却は何があってもお金を受け取らないとも悟って、は渋々と引き下がった。
天然石にはそれぞれ意味がある。代表的なパワーストーンの意味しか知らないは、黒い珠を撫でながら空却に尋ねた。
「空却くん、この黒色のは……?」
「黒瑪瑙。厄除けの意味合いが強いな。女が嵌めるにはごつくなっちまうから、間に本水晶とカーネリアンを挟んだ」
「あ……。このあいだ、白か黒って聞いたのって――」
「親玉の色」
わああぁぁ……とは心の中で感嘆の声を上げる。中学生の頃、ホワイトデーの日、空却がクラスの女子にチロルチョコを配っていたのを思い出す。もしかすると、天然石のブレスレットをもらったのは自分だけなんじゃないかと、少しだけ自惚れてしまったが、いやそんなことはない、とすぐに首を振った。空却は、どんな時でも、誰に対しても平等だ。特別扱いなどしない。ましてや、自分相手に。きっと、自分が知らないところで他の子にも何かしらあげていたに違いない。
はブレスレットを紙袋の中に丁寧に仕舞う。溢れてしまった笑みがの口角をきゅ、と上げた。目も、きっと溶けるように緩められているだろう。
「すごく、うれしい……」
「……そうか」
「うん……。ありがとう。空却くん」
今にも弾けてしまいそうな感情を、少ない言葉に込めてなんとか昇華させる。「……おう」と小さく返事をした空却に、またしてもぶくぶくと沸騰する熱情。はほう、とひとりでに息を吐いて、うっとりとした目をそっと伏せた。
……ピアスも、もう、開けなくてもいいや。
空却が引き戸をカラカラと開けて、二人で玄関から外に出る。家入っとけ、と言われるかもしれないと少し身構えていたが、空却はこちらを一瞥しただけで何も言わなかった。
路地をいったん抜けて、表通りに出る。どこからか、梅の匂いが仄かに香ってきて、の体が一瞬ふっと浮いたようになる。きっと、庭にある梅の木からだと思って、は改めて春の訪れを感じた。春の昼間に味わえる、あの子守唄のような陽気が好きだ。体も心も移ろう中、四季の感覚だけは今も昔も変わらずにの中で生き続けていた。
……空却くんは、どうなのかな。もしも同じだったら……すごく、うれしいなぁ。
「また、ね。空却くん」
「あぁ」
「あと……えっと……おやすみ、なさい」
「……おやすみ。さっさと家入れよ」
語尾の余韻もなく、すぐさまスカジャンの背中のナゴヤ城と目が合う。空却が曲がり角に入るまで、の足は家の中には伸びなかった。後ろを振り返られたらきっと叱られると分かっていても、これだけはどうしようもない。地面から根っこが生えたようになって、少しも動けないのだ。
――不意に、春一番がの横を通り過ぎて、蕾をつけ始めた枝が僅かに揺れた。もう、凍てつく寒さは南へ渡ってしまったようだ。近いうちに見られるであろう夢見草。その吹雪の中、こうして颯爽と帰っていく空却を想像して、の顔は雪解けのようにほろ、と綻んだ。
