Episode.6



 本日は今年一番の寒気に見舞われるでしょう――春芽吹き始める三月の初日に似合わない言葉がテレビの奥にいるアナウンサーの口から紡がれて、はカヨのお墓参りに行く意思が一瞬だけ弱くなった。
 「今日はばあばんとこに来んでもええよ~」とカヨの聞こえたのは都合のいい幻聴なのだろうが、の腰はゆるゆると座布団の上に落ち着いてしまう。しかし、「んなもん気のせいだわ外出ろ」と、カヨの後に聞こえてきた空却の声の方が明らかに大きかった。こちらもきっと幻聴だが、の重くなった腰をぴゃッと玄関口に向かわせるには十分なものだった。

 ――そんな経緯ののちに行った墓参り。帰り道、ゴウウゥッ! と突如吹いてきた寒風に、は思わず足を止めた。

「(さむいよぉ~……ッ)」

 ぶるるッ、とは体を縮こませる。地主に挨拶をし、凍てつく冷水で墓石を掃除して、花を替え、手を合わせる――ずっと体を震わせていたそんなに、「寒いやろぉちゃん。ばあばのことはええから早うおうち帰っておこた当たりゃあ~」という優しい声が目の前から聞こえた……気がした。はそんな幻の優しさに触れてすでに涙目である。その時には空却の声も聞こえなかったので、滞在時間三十分弱にして、は名残惜しく家路を辿ったのだった。
 暖かいインナーとファーブルゾンも着ているし、指先だけ二重布になった手袋もつけている。なのに、の全身は泣きながら寒い寒いと訴えている。たしかに自分は極度の寒がりだが、普段ならこんなにも身が竦む思いはしない――そんなことを思っていると、は首元にいつもの圧迫感がないことに気づく。
 ああそっか、とは静かに合点がいく。毎年、の首を守っていたクリーム色のネックウォーマーは、ついに今年大きな穴が空いてしまったのだった。

「(せっかく、もらったのになぁ……)」

 は悲しそうに心の中でぼやく。数日前、だんだん薄汚れてきたそれを洗濯機で回し、洗濯バサミで干そうとした時に気づいたのだ。あの時の衝撃を、は今でも忘れられない。崖から落とされる人はもしかしたらこういう気分なのかもしれないとすら思った。洗濯ネットに入れ忘れていた自分を悔やむも、は諦めなかった。
 穴が空いてもファーでなんとか隠れる――そう思って一度付けて外に出てみたが、そのファーも長い月日を経てだいぶへたれていた。空いた穴から容赦なく入ってくる冷気に完敗して、はお気に入り以上になっていたネックウォーマーに感謝の気持ちを込めて手を合わせたのだった。
 小学校の頃にクリスマスプレゼントとして空却からもらったものだったが、十年以上も使えば大往生だろうか。しかし、あれ以外に他のものを買う気にもなれず、冬ももうじき終わるので今年はひとまずこのまま乗り切ろうと決意したばかりだった。それでも、本日さっそくその意思がぐらぐらと揺らぐ。は今年一番の寒気を甘く見ていた。

 さて、そんなは家に帰る前に空厳寺に立ち寄っていた。空却と会う約束はしていない。先日渡した鬼まんのタッパーを持ち帰りにやって来たのだが、それも寺に来る口実が欲しかっただけである。少し前まではこんな大胆なこともできなかったが、バレンタインのプレゼントを渡されて以来、少しだけ空却の物腰が穏やかになった――そんな気がして、は大きく勝負に出たのだった。
 正門前まで着くと、掃き掃除をしていた修行僧がを快く通した。空却さんなら、今は西堂にいらっしゃいますよ――こちらは何も言っていないのにも関わらず、優しく微笑みながら紡がれた言葉。気恥ずかしくなったは、彼に向かってたどたどしく会釈をしながら寺の敷居を跨いだのだった。


 西堂のある場所の記憶はもうおぼろげだが、の足はしっかりとそこまでの道を覚えていた。小学校の夏休みには我が家のように歩き回っていた境内の景観は何も変わっていない。馴染み深い砂利の音を聞きながら、は西堂との距離を縮めていた。
 ――追い返されたらどうしよう。西堂に近づくに連れて、今更なことがの頭を掠めた。今忙しいから今度にしろと門前払いを受けるか、良くて勝手に持ってけと言われるかの未来しか見えない。年末年始を終え、落ち着きを取り戻したばかりの寺に足を運んだ自分が厄介者に思えて仕方がなかった。
 最初は小さかった思いがみるみるうちに膨れ上がって、あっという間にの胸の中をぎゅうぎゅうに満たした。先ほどまで軽快だった足はぴたりと止まり、砂利の凸凹が足の裏に伝わるのを感じながら、は一考する。しかし、考えたところでもうその足が西堂に伸びることはなかった。

「(やっぱり、帰ろう……)」

 LINEで連絡できることをわざわざ顔を合わせて言うこともない。空却のことだ、タッパーを返してほしいと遠回しに催促すれば、今度店に迎えに来てくれた時に持ってきてくれるだろう。最初からそうすればよかった。邪な願望から我に返ったは、自分は今まで何てことを考えていたんだろうと自責の念に囚われた。
 だれかに見つかる前に帰ろう――西堂の真横まで来るも、こそ泥のような気持ちになったは慌てて踵を返そうとする。すると、表の戸が忙しなく開いた音がして、それと同時に、びりびりッ、と脳髄が痺れるような怒声が境内中に響く。灼空の声だ。いつもよりも数割増にお怒りのそれに、の足がぶるぶると震えた。
 そして、その声から逃げるように乱暴に砂利を踏みつける音が近づいてくる。聞くだけでどきどきと高鳴る胸を抑えながら、はすぐさまそこから立ち去ろうとする。しかし、会いたいと、一目見たいと――内なる自分がその足を重たくさせて、駄々をこねたのだった。

「――は?」

 ……刹那、角から現れた、あかいろ。ひゅんっ、と首筋が涼しくなって、は息を呑んだ。
 ああ……うれしいな。今日も、会えた。小さく声を上げた空却を見て、の視線は彼一人だけに縫われる。西堂には暖房器具がないからか、本日の空却はいつもの作務衣とダウンに加えてマフラーをしていた。頭の中がぼうっとのぼせたようになったは、きゅんと小さくなった心臓を胸の外側から掴んだ。
 一方の空却は、未だ驚いた顔でを凝視している。金色の目が大きく見開かれて、その二つはを捕らえて離さなかった。

「お前、なんで――」
「空却ぉぉおおッ!! 今日という今日は許さんぞおおぉぉッ!!」

 灼空の怒号が二人の空気を裂く。幼い頃から聞いているもいつまでも慣れない甲高い声に、ひえっ、とは身を縮こませた。
 そして、聞こえてきた砂利を踏みつける音を聞いて、我に返った空却の目がくらっと揺れた。

「く、空却く――」
「奥行けッ」

 唐突に、空却の体がの眼前に迫る。心の中で悲鳴を上げたは、空却に急かされながらもそのまま西堂の裏に回った。

「ったく、老いぼれジジイのくせに体力有り余りすぎだろ……。鼓膜破れるわ」
「な……なにか、あったの……?」

 二人で息を潜めている中、は隣にいるおそるおそる空却を見上げる。すると、こちらをふっと一瞥した空却は静かに言った。

「……西堂の入口にでっけえ壺あんの、覚えとるか」
「つぼ……。あ、綺麗な柄の……」
「綺麗かあ? あんなガキの落書きみてえなもん――まァ、それはいいわ。さっきまではたき掃除しとったんだが、手元狂って壺割った」
「えっ」

 は幼い頃の記憶を辿る。件の壺はたしか、灼空が自身のお師匠に頂いたものだと言って、とても大切にしていたものだ。埃が被らないように毎日手入れをしていた光景が、今でものまぶたの上にありありと浮かぶ。それを、まさか割ってしまったとは――いつも以上にご立腹な灼空の様子に、も納得をせざるを得なかった。
 「バレる前にアロンアルファでくっ付けようと思ったのによ」拗ねたように言う空却に、思わず吹き出しそうになったのをは懸命に堪えた。さすかに場違いが過ぎて怒られてしまう。
 ――灼空の足音が離れていく。もう、大丈夫かな。が角を覗き込もうとすると、それよりも前に空却がちら、とこちらを見下ろした。

「……で、お前は何しに来たんだよ」
「あ……。え、えぇっと……鬼まんの入っとったタッパー、持って帰ろうと思って……」
「あー……そういや忘れとったわ。つか、タッパーくれえ言やあ迎えのついでに渡したっつーのに」

 ごもっともである。やっぱり迷惑だったかな――そんなことを聞く勇気もないまま沈黙を肌で受けていると、空却はつま先を向けた。

「……まあ、来ちまったもんは仕方ねえ。行くぞ」
「う、うん……」

 ざッ、と歩き出した空却の背中をは小走りで追う。いつもの通り、前と後ろの関係になるかと思いきや、歩き始めた空却はすぐさま後ろをくるりと向いて、向き合ったを静かに見下ろした。

「……それ、拙僧がやった紅か」

 ぱちんっ、と空却と目が合う。“べに”の単語がリップに変換されるまで時間を要したは、こく、と小さく頷いた。すると、空却の金色がすっと細まって、まるで品定めするようなそれに、は自信なさげにこう呟いた。

「へん、かなぁ……」

 は下唇を軽く食んで、地面に向かって視線をやや下げる。あの日の夜、空却がくれたショッパーに入っていたのはリップとそのケースだった。とけるように柔らかな鮮赤色。付けてみたらシアーな発色だったので、場面と季節問わず使える万能色だった。リップを貰った日の翌日から、外に出る時はその一本しか使っておらず、今日も例外なくの唇を薄く彩っていた。
 を見下げて、しばらく静止していた空却だったが、ふいっと顔を背けて再び境内を歩き出した。はたとしたがその背を追うと、砂利の音に紛れて、落ち着いた声がぼそりと上から落ちてきた。

「拙僧は、女のそういう洒落たもんは一切分かんねえが……」

 まあ……いんじゃねーの
 の中で、空却の言葉が木霊となって頭の中で何度もエコーする。聞き間違い……じゃない。の目の前にぱああぁ、と光が差して、まるで長年胸の中に溜まっていた邪気が大方浄化されたような心地だった。声色はいつもよりもぶっきらぼうでも、空却に肯定されただけで、こんなにも嬉しいものだなんて。
 ――ああ、どうしよう。息ができなくなるくらい、うれしい。頬がとろけるように緩む。心臓の音が頭の中までどくどくと響いてきそうだ。こんな感覚を味わったのは小学生以来で、今のが焦がれる思い出の中で生きている自分に、ようやくなれた気がした。
 気がつくと、は空却の隣に並んでいた。空却が歩幅を変えたのか、が早歩きになったのかは分からない。でも、そんなのはもう、なんでもよくて。何年ぶりかになった右と左の関係。空却の隣で歩くは嬉しげに目を細めて、ひとりこっそりと笑んだのだった。







 西堂から庫裏への道のりは決して短くないが、少しでも空却の隣で歩けると思えば、にとってはむしろご褒美だった。
 灼空に見つからないよう、何かの影に隠れながら庫裏を目指す。そして、その途中にあるのは細長い手水舎。その裏手は、昔から猫の溜まり場になっていて、と空却がちょうどそこを通りがかると、昔見た時よりも倍近くの猫がうろうろと屯っていた。

「猫ちゃん、増えとる……」
「知らん間に生まれっからな。見かけた奴から親父が業者に頼んで去勢しとるみてえだが、どこからともなくやって来るもんだからキリがねえ」

 の言葉に空却がさらっと答える。独り言のつもりだったものに返事が来るとは思わなかったは、驚きのあまりその場で立ちつくした。すると、エサをくれると勘違いした猫達にあっという間に囲まれて、四方八方猫の群れができてしまった。
 キジ虎、三毛、黒、白……色とりどりの猫の中には生後間もないと思わしき子猫もいた。いま、足上げたらつま先当たっちゃうなぁ――が一歩も動けないでいると、「お前らさっき缶詰やっただろうが」という空却の悪態が隣から聞こえてきた。たしかに、少し視線をやった先に空になった缶詰が放置されている。あげとるところ見たかったなぁ、とは性懲りもなく思った。
 進めない以上、ここに留まるしかない。その場にしゃがみこんだ空却を見て、もそろそろと彼の隣に腰を落ち着かせる。怒られたらどうしようかと危惧するも、空却はちら、と横目で見ただけで、すぐに猫達とじゃれ始めた。

「(ちゃんと、話せとる……)」

 さっきの独り言に反応してくれたことが嬉しくて、は過剰に上がりそうになる頬を口角でぎゅっと抑え込む。きっと空却に他意はないのだろうが、それでも、長年暗がりだった心に灯りが灯ったようで、お腹の奥がじんわりと温かいように感じた。
 不意に、ひぃふぅみぃ、と空却が何かの数を数え出す。がちらりと視線をやれば、それは空却の足元で戯れている茶トラの子猫だった。が目視で確認できたのは四匹。みぃみぃと頻りに鳴いて、空却の体に上手いことよじ登ろうとしている。空却は慣れたように放置して、左手にまとわりついている内一匹の頭を指の腹で優しく撫ででいた。

「……一匹足んねえ」
「え……?」
「こいつら、あそこにいる茶トラのガキなんだが、他にもう一匹生まれとったんだわ」

 あそこ、と視線が配られた先。猫の群れから離れたところに、子猫とよく似た色をした茶トラの成猫がじっとこちらの様子を窺っている。空却がちッ、ちッ、と舌を鳴らすと、その成猫は空却のいる方向へのそのそと歩み寄ってきた。
 空却を取り囲んでいる猫を優しく押しのけて、彼の右手付近に来た茶トラ猫は、自分の頭を空却の手のひらにぐぐっと擦り付けながら喉を低い音でごろごろと鳴らした。
 かわいい……。声に出そうになった言葉を、はごくんと飲み込む。一方、空却は指輪が当たらないように少し指を曲げて猫の頭やら喉元やらを愛撫していく。そうしてひとしきり撫でた後、空却は茶トラ猫の前脚に指をくぐらせて、両手でひょいっと抱き上げた。
 びろーん、と倍近く伸びた猫の胴体にが目を丸くすると、空却は自分の目の位置に猫のそれを合わせるまでぐぐ、と持ち上げた。

「おいお前。もう一匹のガキどこ行った?」
「なァーぅ」
「“なァーぅ”じゃねえっつの」

 たしっ、と鼻に猫パンチをお見舞されながらも、一人対一匹の会話を繰り広げる空却。両方とも、とてもかわいい。何度この言葉を飲み込んだか分からなくなる。特等席でそれを拝める自分はなんて幸運なのだろうかと、寺に歩を進ませてくれた仏様に感謝した。
 ――ふふ。ついに嬉しさが溢れた声が、の口から微かに漏れる。親に空却を取られてしまった子猫が彼と遊んでほしそうにしているのをじっと眺めていると、先ほどまで三匹いたはずの子猫が二匹になっていることに気づいた。
 あれ……? もう一匹の猫ちゃんは――が猫の大群に目を配っていると、上からなにかしらの気配を感じてふと顔を上げた。

「(え……?)」

 ――空却の金色が、を捉えている。灼空を睨みつける眼差しでも、猫に向ける穏やかな眼差しでもない。長年見つからなかった探し物がようやく今見つかったような……そんな面食らった顔をしていた。
 は目を逸らせなかった。加えて、肺が一つになってしまったかもしれないと錯覚してしまうくらい、上手く息が吸えない。どうしてそんな穴が空いてしまうくらい見つめられているのか分からず、理由を尋ねたいと思ったその唇は緊張のあまり痺れて動かなかった。心臓から首にかけて熱が集まっていき、後にの顔に一つ、二つと赤色の花が密集して咲いていく。
 ……その金色の目が柔らかく細められた時には、もうだめだった。ぱんッ、とどこからともなく聞こえてきた破裂音はの心臓か、はたまた思考回路か。はひどく重たく感じた体を、その場から勢いよく立ち上がらせて、驚いた顔をしてこちらを見上げる空却に言い放った。

「わっ、わたしっ、猫ちゃん近くにおらんか探してくるね……ッ!」
「あッ……おいっ!」

 空却くんが見たいものの途中に、わたしがおっただけ。だから、今のはわたしを見とったわけじゃない。どうしたんだろう。なにを見とったんだろう。偶然とはいえ、あんな目をずっと向けられたらいつかどうにかなってしまう。
 いきなり近くなりすぎた空却との距離に今度は頭の処理が追いつかなくなる。溢れて零れそうになる熱を冷ます目的も含めて、は境内を駆けながら向かいから吹いてくる寒風を、火照った頬で受け止めた。







 手水舎の裏手から駆け出して暫く。随分と遠くに来たところで、は自分の背中がひどく重たいと感じた。
 加えて、服が下に下に引っ張られているような気がしたので、は背中に両手を回しておそるおそる這わせてみると、手のひらにすっぽりと収まるふわふわの毛玉があった。
 は驚いた拍子にそれを取ってみると、それは先ほど見かけた茶トラ子猫の内の一匹だった。こんなとこにおったんだ……。どうりで立ち上がった時に重いと思った。とにかく落とす前に気づいてよかったと、呑気にあくびをしている子猫をは腕に抱き直した。

 あの場から離れる口実欲しさに子猫を探すと言ったはいいものの、何か宛があるわけではなかった。寺の外に出ている可能性を考えると、探す行為そのものが途方もない。見切り発車をしてしまったを窘めるように、腕の中にいる子猫がみィ、と短く鳴いた。
 すると、それを皮切りに子猫が頻りにみぃ、みぃ、と鳴き出した。手足をじたばたとさせて、に何かを訴えているようだ。周りにあるのは大樹――そして、風景にくっついたように存在している古びた蔵しかない。今にも腕の中から抜け出しそうな子猫を見下げたは、試しに蔵の中へと足を伸ばす。やや開けづらくなっていた引き戸を、なんとか体をすり抜けられる程度の幅までこじ開けた。

「(あんまり、変わっとらん……)」

 カヨに連れられて寺に遊びに来ていた頃。空却とのかくれんぼによく使っていたのがこの蔵だった。空却曰く、元旦と盆に使うものや古くなった書物やらが一挙に収納されているらしい。中は埃っぽいのはもちろん、夏は熱気が籠って蒸し暑く、冬は日が当たらないせいでひどく寒い。それらの要素すらも幼心をくすぐるものでしかなく、秘密の隠れ家としてとても重宝していた。しかし、ある日蔵の中に隠れていた時、一匹の鼠が棚と棚の間から這い出てきて、それ以来二度と近づかなくなった。自分の家の柱を齧っていた鼠を見て以来、は鼠が大の苦手だった。
 懐かしいなぁ……。あの時はひどく怯えきっていて、自分を探しに来た空却の腕に抱きついてひどく困らせてしまった。その後、あやす意味で空却より振る舞われた大量のお菓子を思い出す。それらをぱくぱくと食べているうちに、鼠のことなんてけろっと忘れていた。あの頃は単純だったなぁ、とは昔の自分に小さく苦笑する。
 蔵の中は相変わらず置物や本棚で溢れかえっていて、足の踏み場はほとんどない。天井の高い位置に取り付けられた小さな格子戸から差し込む光が、埃の舞う動きをに知らせる。
 そして、しゅんッ、と小さくくしゃみをした子猫。思わず腕の中を見下ろそうとしたは、視界の端で小さな影を捉えた。

「……こんなとこでなにやっとんだ」
「空却くん……?」

 戸の方を振り返ると、が開けた小さな隙間から空却の赤髪と作務衣がちらりと窺えた。空却はがたんッ、とその隙間をさらに広くさせると、彼の体もするりと蔵の中へ侵入する。
 「埃臭ぇ……。定期的に掃除しとけよ……」そうぼやきながらと距離を縮める空却に、再びけたましく鳴り出した自分の心臓。しかし、今は照れている場合ではない。は蔵の上部を指さしながら、自分の隣にやってきた空却を見上げた。

「空却くん、おらんくなった茶トラの子、あの子じゃないかなぁ……」
「あ? どこだ」

 ぐっ、と背を屈めてと視線を合わせる空却。思いがけない至近距離にまたしても反応する体だったが、それも一瞬で終わる。「あいつ、んなとこ登っとんのかよ……」そう言いながら、空却はふっとから離れて背筋を伸ばした。まるでジェットコースターにでも乗っている気分だ。今日一日のうちに空却によって何回心臓が振り回されただろう。
 の視界の端に捉えた小さな影――暗がりで少し見えづらいが、間違いなく茶トラの子猫だった。子猫がいるのは大きな木箱が積み重なったてっぺんで、動き回ることなく背中を丸めてじっとしている。どうやら、そこまで登ったものの降りられなくなったらしい。の腕の中にいる子猫がみぃ、と鳴くと、それと呼応するようにみぃ、みぃ、と木箱の上にいる子猫も鳴き出して、蔵の中は子猫二匹分の鳴き声で満たされた。
 こわいだろうなぁ、さみしいだろうなぁ。わたしもよく、木に登ってそのまま降りれんくなっちゃったこと、たまにあったなぁ……。そのたびに空却くんが足場を見つけて下に降りるのを手伝ってくれたっけ……。が本日何度目か分からない懐古に浸っていると、横にいる空却の影がさっと動いた。
 空却は木箱に上手いこと足をかけて、ひょいひょいとよじ登る。さながら猿のような身軽さで、あっという間にてっぺんにある木箱に手をかけた。奥まで引っ込んでいる子猫に向かって手を伸ばした空却は、「ほら来い」とぶっきらぼうかつ穏やかに呼びかける。しかし、それでも子猫はその場からじっとして動かなかった。
 空却が子猫に向かって何度も説得していると、開いた引き戸から冷気帯びた風がひゅうッ、と入り込む。日の光が入らないことと木に囲まれた場所が相まって、外にいるよりも風の勢いと冷たさが段違いだ。埃も相まって、が一つくしゃみをすると、「おい」と子猫に向けたものではない声が上から落ちてきた。

「そこの引き戸閉めろ。冷えて仕方ねえ」
「あ……。う、うん」

 はいったん子猫を床に下ろし、蔵の戸に両手をかける。先ほどよりもとても固くなっていた戸はギシッ、と変な音を立てるも、最終的にばたんッ、と音を立てて、なんとか閉めきることができた。
 多少の隙間風は入ってくるも、先ほどよりもだいぶ暖かい。ほう、とが息をつくと、突如、「げッ」という音の外れた空却の声が降ってきた。
 どうしたんだろう。不思議に思ったが空却と子猫の方を見上げる。すると、木箱の上でじっとしていたはずの子猫が、同じ高さにあった壁の格子口から体をすり抜けさせてちょうど外へ出ていくところだった。予期せぬ出来事に、「え、」とも思わず声を上げる。
 すると、先ほどが床に下ろした子猫もひょいひょいと空き箱を伝い、最終的には空却の体を使っててっぺんまでよじ登り、木箱の上にいた子猫の後を追うように、格子戸からするりと出ていってしまった。
 ……呆気にとられ、蔵に取り残された二人。空却の大きな溜め息がどっと落ちてきて、「なんなんだよったく……」とぼやきながら、空却は木箱からぴょんと跳ねて地面に降りる。今度は猿ではなく猫のようなしなやかな身振りだった。

「無駄手間かけさせやがって」
「でも……見つかってよかったねぇ」

 時期に、あの二匹は親猫の元に戻るだろう。いいなぁ、かわいいなぁ。は二匹揃って境内を歩いている光景をほくほくと想像した。
 ――刹那のことだ。ごうッ! と一際強い隙間風が蔵の中に吹き込んでくる。蔵全体ががたがたと揺れて、中に留まった冷気が二人の体を襲った。
 さむい、つめたい、こごえちゃう……が唇をぎゅっと結びながら、時間を置いて流れてくる寒風に耐えていると、はあ、と頭上から落ちてきた溜息があった。
 
「……とりあえずうちに戻んぞ。こんなとこで喋っとったら風邪引くわ」
「そ、そうだね……」

 両腕をさすりながら、は空却に同意する。は手袋越しでも悴んでいる両手を擦り合わせながら、先ほど閉めた戸に手をかけた。
 ――くいっ、と横に引く。しかし、その戸ががらッと音を立てることはなかった。引く前と位置の変わらないそれに、ははて、と首を傾げる。無理やり閉めすぎてしまったかもしれない。はいったんショルダーバッグを下ろして再度挑むも、結果は同じだった。戸の隙間から外の光が差し込むことはなく、壁と一体になってぴったりとくっ付いている。

「おい」
「ごっ、ごめんねッ。すぐに開けるから――」
「ちげえよ。そこ退け」

 空却の声とともに、押されるようにしては戸の前から退いた。今度は空却が戸に片手をかけてぐっと引く。しかし、数秒前のがした時と同じように、戸はびくともせず、がたっ、という音すら上げなかった。
 「あぁ?」眉をひそめた空却がその後両手でこじ開けようとするも、ようやくガタガタッ、と何かに引っかかる音を上げるだけで、隙間が生まれることはなかった。中々変化のない戸に嫌気がさした空却が苛立ちげに敷居部分をがんッ、と蹴り上げた時、は怯えるように肩を震わせた。
 ……どうして。空却ですら中々開かないそれに、だんだんとの顔が青ざめていく。空却の手間をかけている申し訳なさと蔵から出られない現実に、の心は打ちのめされていた。

「お前……これどうやって閉めたんだよ……」
「が、がんばって……?」

 にっちもさっちもいかなくなった空却が片手で髪をぐしゃぐしゃとかき乱すと、は口惜しそうに肩を萎ませた。

「ごめんね……。わたしが無理に閉めちゃったから――」
「謝んな。元はと言えば拙僧がお前に閉めろっつったんだろ」

 そう言って、引き続き空却は戸と格闘する。引くことが無駄であることが分かると、今度は前に突破しようと戸を殴る蹴るといった暴挙に発展した。容赦のない凶暴な音と空却の荒々しい掛け声に、横にいるが泣きたくなってくる。
 数分間そんなことが続くも、現状は変わらず、ただただ空却の疲労が蓄積するだけだった。「あ゙ー……くッそあちィな……」と言いながら、空却は着ていたダウンを脱ぎ、ノースリーブの作務衣一枚になった。
 は咄嗟に悲鳴を呑み込む。く、空却くんの……うで……。細いのに筋肉質で、三角筋付近には太い血管がうっすらと浮かんでいる。男の人になった、空却くんのからだ――ひとたび意識してしまうと、ぶわわわッ、との頭上で蒸気が上がる。見てはいけないものを見てしまった気がして、はさッと顔を下げた。

「……お前、いつも被っとる首覆うやつ、今日どうした」
「えっ……?」
「拙僧がガキん時にやったやつ」
「あ……。こ、このあいだ、穴空いちゃったの……。家にはまだあるんだけど――」
「いや穴空いたんなら捨てろよ。なんでまだ持っとんだ」

 「つか、あんな安物よく今までもったな」空却は呆れたようにそう言う。正論すぎて何も言えなくなったが、安物だろうとなんだろうと、空却からもらったものだ。使えなくなるまで大切にするし、使えなくなっても捨てるのに躊躇するに決まっている――なんてことも言えるわけもなく、が喉奥にその言葉をしまい込んでいると、空却は自ら巻いていたマフラーの結び目をさっさと解き始めた。かなり激しく動いていたので、体に熱が篭って仕方がないのだろう。
 がぼんやりそう思っていると、あろうことか空却はの首に解いたマフラーをふわりとかけたのだった。

「え……?」
「巻いとけ。横で頻りにくしゃみされとったんじゃあこっちが堪んねえんだよ」

 「あとついでにこれも持ってろ」と空却はそう付け足しながら、脱いだダウンをに羽織らせる。そうしたら空却くんが風邪引いちゃう――それを言う前に、空却の手によってぐるぐると巻かれていくマフラー。二重三重に巻かれたそれは、最後にの首の後ろでぎゅっと締められた。
 「苦しくねーか」空却の問いには首振り人形のようにこくこくと頷く。鼻先から香るのは桂皮に似たお寺のにおい。呼吸をするたびに鼻腔いっぱいに広がる香りに、はゆるっと目尻を下げる。
 ――いいにおいだ。それに、とてもあたたかい。マフラーそのものの暖かさとは別に、先ほどまでこれを纏っていた空却の温もりがの首元を包んでいる。今さっきまで空却が巻いていたのだから当たり前だが、それでも心は浮き足立って仕方がない。羽織らせてくれたダウンも然りだ。今回は恥ずかしさよりも嬉しさが勝って、すんすん、と頻りに嗅ぎたくなる衝動をはぐっと堪える。
 の顔の半分がマフラーで埋まると、どことなく満足気に息をついた空却は、再び引き戸と格闘し始める。ただただ見ていることしかできない自分がいやになったは、何か自分にできることはないかと、きょろきょろと周りを見渡した。

「(……あ、)」

 ……思い出した。先ほど子猫二匹がすり抜けた格子戸――あそこの反対側を開ければ、たしか吹き抜けになっていたはずだ。高さもそんなにないはずだし、自分一人ならばそこからなんとか出れるのではないか。出られた後に誰か呼んできて、ここを開けてもらおう。そうしたら、空却がこれ以上疲れなくて済む。
 ちら、とは空却の様子を窺う。戸を開くというよりも壊すことに専念し始めた彼は、こちらの視線に気づくことはなかった。邪魔をしてしまったら申し訳ない。はこそこそとした足取りで木箱の前に歩を進めた。

 昔から木登りはお手の物だったが、中学に上がってからは一回もしたことがない。なので、現時点の自分の身体能力がまるで分からなかった。しかし、このままじっとしていても二人揃って凍えてしまう。下手したら凍死だ。には特にこれといった未来はないのでまだいいが、空却はこの寺を継ぐという偉業を為してもらわなければいけない。境内で息絶えるなんてことはどうしても避けたいところだ。
 よし、とは意を決して、空却のダウンに袖を通した後、木箱に手をかける。動きやすいパンツを履いてきてよかった――そんなことを思いながら、は木箱にそうっと足をかけていく。バランス良く積み重なっていると思っていた木箱は見た目の割に少しだけ不安定で、体重をかけるところを誤ればすぐにがたがたと忙しない音がした。加えて、のすぐ横にある大きな本棚が木箱もたれかかっている形になっていて、ひどく斜めっている。空却は難なく登っていたように見えていたので、なんとかなるだろうとたかを括っていた自分がひどく悔やまれる。しかし、今更後戻りもできない。は心の中で震えている自分を鼓舞しつつ、確実な足場を見つけては、木箱のてっぺんを目指していった。
 ……そうして、なんとか木箱のてっぺんに片手をかけた。ふんっ、と全身に力を入れて木箱の上によじ登った。へたん、と木箱のてっぺんにお尻をつけると、そこから微かな揺れが伝わってきてひゅん、と身が竦む。早いところ吹き抜けから出なければ木箱が崩れてしまう。
 は格子戸の反対側にある引き戸に指をかけて、力を入れる。が、やはりここの戸もひどく固い。今度は手袋を外して再挑戦してみるが、ギシギシと乾いた木の音がするだけ。最終的に、ほんの少しの隙間は空いたものの、それ以上こじ開けるのは困難極まった。
 いったん、は悴んだ指を引っこめる。力を込めすぎたのと寒さのあまりに指がじんじんと痺れてきて、ろくに力が入らなくなっていた。もうこの手は使い物にならない。それに、力を入れるたびに木箱が揺れるので、迫り来る危険を察知した体は、いったん下に降りようとの足に訴えたのだった。
 そうします、と素直に言うことを聞こうとしただったが、下を見れば、床まで思った以上に高さがあって、は嫌な目眩を覚える。
 あれ、こんなにも高かったっけ……。下から見た時はそうでもなかったのに……。ここから降りれなくなった子猫の気持ちがようやく分かった。が絶望の淵に立たされていると、がたんッ、と何かの調子が外れるような不穏極まりない音がした。

「え――」

 突如、の体がぐらッ、と横に傾く。積み重なっていた木箱が崩れ、はその上から振り落とされた。
 重力をなくしたの体は、嫌な浮遊感を覚える。さらには、木箱にもたれかかっていた棚がぐらりと揺れて、の目の前に襲いかかってきた。

 あ……ぺちゃんこに、なる

 まるで他人事のように、は頭の隅でぼんやりと思う。楽しかったこと、悲しかったこと――様々な走馬灯がの脳裏に高速で駆け抜けていくも、その中にいつもいるのは鮮やかな赤だった。ひどく落ち着いた心持ちで、は出入口に立っているであろう空却を見る。物音に反応した彼は、すでにこちらへ金色の目を差し出していた。
 そんなにも驚いた空却くんの顔……初めて見たなぁ……。空却は何かを叫びながら、こちらに向かって腕を伸ばしている。数秒後に襲いくる痛みに耐えるために感覚が鈍くなっている。上手く聞き取れなかったその音だけが、ひどく恋しかった。
 空却くん、いま、なんて言ったんだろう……。それ以降、の五感は意識を失ったようになって、目の前も真っ黒に塗りつぶされた。







 ぱらぱらとした砂埃が舞う。肺から込み上げた衝動で、はけほっ、と一つ咳いた。ギシ、ギシと耳の近くで鳴る唸るような木の音に体を震わせるも、目視で確認できる範囲では、の逃げ道はどこにもなかった。

「……怪我、ねぇか」
「う、うん……」

 空却の声が耳の奥までよく通る。少し掠れ気味のテノールには身を固くさせながら、絡まった糸を解すように、今の状況を頭の中で整理し始めた。

 最初、足場だった木箱が崩れ、その内の何個かがの体にぶち当たるところだった。しかし、寸のところでの体に向かって空却の腕が伸び、彼の胸に収まる形でそのまま抱きとめられる。襲いかかる木箱は空却が蹴り返したか何かだと思ったが、すでにの目の前は空却の前合わせしか映っていなかったので、実際のところはよく分からない。
 そして、次の脅威は木箱の横にあった棚が倒れてきたこと――幸い、雑貨類は反対側にあったようで、何かものが落ちてくることはなかったが、倒れてきそうになった棚は、を抱きとめた後に地面に尻もちをついてしまった空却の片足で支えられている形になっていた。
 今のは空却の真正面にいる。そして、彼は体の後ろに片手をついた状態で今の体制を保っている。足か手を離せば楽になれるだろうに、が胸の前にいるからそれも叶わない。おまけに、二人の周りには空却が退けた木箱が四方八方に散らばっていて、は退こうにもどこに退けばいいのか、という具合だった。
 さらに、の後頭部に空却のもう片方の手が回っており、は彼の優しさに触れる。空却の体に密着している今の体位に、ばくばくと熱心に働きだす心臓。かたい、男の人の、からだ……。つい最近まで小学生だった記憶があるのに、いつからこんな感じになったのか分からない。そして、こんな状況でさえ邪なことを考えている自分を叱りつけたくなった。
 今の心音を聞かれたくなくて、少し身動ぎすると、空却の口から息を詰める音がした。ははたとして顔を上げると、何か耐えるように空却が苦しげに顔を顰めていた。

「ご、ごめんね……。重いよね……」
「重くねーわ……」

 息を殺すような声に、はぐっと身を縮こませる。ああ、どうして朝に食パン二枚も食べちゃったんだろう……。自分の肉となり骨となった数グラムが今はとても憎ましく思う。
 「おい」不意に声が降ってくるも、はもう顔を上げる勇気もなくて、空却の黒い胸元にそのまま聞いた。

「お前……さっき何しようとしとった」
「こ、格子戸の反対側が、吹き抜けになっとった気がして……そこから出て誰か呼びに行こうかな、って……」
「こんの馬鹿……。さすがのチビのお前でも普通に考えて無理だろーが。軟体動物じゃあるめえし」

 そう言って、空却は疲れたように溜息をついた。「つか、」

「なんか行動する前に拙僧に一言言えよ。古着屋振りに肝冷えたわ」
「ごめんなさい……」
「だから責めとるわけじゃねえってこのあいだも言って――っ、あークソが……」

 自暴自棄になった空却に、も面目が立たない。守られているだけの自分の中にあるのは、とてつもない罪悪感だけだった。棚を支えている空却の足は定期的に右足から左足、左足から右足に持ち替えられているし、この状態がいつまでも続くとはとてもじゃないが思えなかった。

「お前、今スマホ持っとるか」
「カバンの中にあるんだけど……。さっき引き戸のところに置いとって……」
「あー……どっちにしろこの状況なんとかしねえと話になんねーな……」

 最初からスマホで連絡を取ればよかっと思うが、今更そんなことをぼやいても仕方がない。動けない空却の代わりに、は周りをぐるりと見渡してみる。相変わらず木箱しか転がっていないが、この状態でどうにかここから脱出しなければいけないのは変えられない現実だ。
 ……そういえば、空却の後ろがどうなっているかまだ把握していなかった。はにゅ、と首を伸ばして、空却の肩の向こう側を覗き込む。気のせいかもしれないが、その時に一瞬だけびくりと空却の体が震えた気がした。
 やはりそこにも木箱が散乱していたが、箱と箱の間にある小さな隙間から、全ての元凶である引き戸が見えた。絶望的なこの状況にようやく光が差す。その隙間もそんなに狭くはない。が体をくねらせればなんとかすり抜けられそうなものだった。

「おいお前……またろくでもねえこと考えて――」
「空却くん、」
「人の話最後まで聞けっつーの……。……で、なんだよ」
「あのね……空却くんの後ろ、木箱の間が少しだけ空いとってね、そこから、上手く出れそうな気がするんだけど……」

 の言葉を受けて、ぐい、と首を後ろへ捻らせる空却。しばらくそのまま一考した後、「……ちょっと待ってろ」と言って、空却はふっ、と息を詰めて若干前かがみになった。の後頭部から離された手とともに体の後ろについていた手は前方につき直し、空却の上半身とともにの体も地面と垂直に近い形になる。その代わりに、斜めった棚はの頭と近くなってしまったが、の足の裏は地面につくことができて、先ほどよりもかなり動きやすい体制になった。

「いけるか」
「う、うん。ありがとう」

 さっそく、はもぞもぞと体を動かし始める。時々、空却の体の一部に自分の体が当たってその都度胸がどきりとするが、今はそうも言っていられない。心を落ち着かせるときははんにゃ……なんとかを唱えるって空却くんも言ってた。ぶっせつなんとか、まーかーなんとか……。これではあまり意味がないことは本人が一番よく分かっている。
 そして、が空却の足の間に膝小僧をつけて、体をぐっと上に持ち上げた――その時だ。空却の背後……つまりは、の目の前で黒い毛玉のようなものがささッ、と横切った。
 もしかして、まだ猫ちゃんおったんかな……? そう思って、の体がぴたりと止まる。その毛玉にじっと目を凝らすと、突如こちらを向いた二つの小さな点がを捉えた。
 ……猫にしては長すぎる尻尾。そして、横に長いわけでもなく、それは全体的に丸いフォルムだった。全身は灰黒い色をしていて、その小さな鼻はを誘うようにひくひくと痙攣している。
 ――チュウ。つぶらな瞳がの耳にそんな幻聴を与えた。ネズミ……ネズミだ。天敵の情報がマッハの勢いで脳内を駆け抜けていき、ぞわわわッ! との全身に恐怖を纏わせた。

「ひぃッ……っ!?」
「ッ、おい――ッ!?」

 が前方にいる空却に飛びついたせいで、不意打ちを受けた空却は棚を支えていた足の裏をずるッと滑らせた。
 前に倒れていったの体は、どすッ、と柔らかく暖かいものに覆い被さる。その拍子に「ぐぇ゙ッ」と下で呻いた声に、は顔面蒼白になった。地面に向かって倒れていく空却の体。結果、が空却を組み敷く形なってしまい、彼は完全に仰向けの体制になった。足の支えがなくなった棚は、の頭に衝突する寸前のところで空却の両手がぐっと支えた。
 ……何が起きたかは、あまり考えたくない。なぜなら、現状が全てを物語っている。それで十分だ。あまり大丈夫ではないであろう空却を、はおそるおそる首をもたげてそろりと窺う。すると、空却ものことを見下げていたらしく、余裕のなさげな彼の目とばちっと見事に合ってしまう。ぎろッ、と鋭くなった金色に睨みつけられて、ひぃッ、とは小さく悲鳴を上げた。

「おッ……まえなああぁぁ……ッ!!」
「ごめんなさいいぃぃぃ……ッ」

 まさか、自分が空却に覆い被さる日が来ようとは思わなかった。は空却の胸板にぴっとりと体を預ける形になっており、両手足や上半身を動かしても空却の体の所々に当たってしまい、その度にばくんッ、と胸がはち切れんとばかりに暴発する。すでにキャパオーバーを迎えた頭からはしゅううぅ、と蒸気が上がっていた。
 もはや、近いなどというレベルではない。赤くなりたいのか青くなりたいのか分からなくなったの顔色はひどく忙しなかった。鼠を見た恐怖が忘れられず、は思いつく限りの言い訳をつらつらと並べた。

「いっ、いまっ……ね、ねずみがおってぇ……ッ」
「はあ……ッ!? おッまえまだ鼠駄目なのかよ……ッ。虫は見ても触っても悲鳴一つ上げんかったくせにッ」
「むっ、虫は見た目がちょっと気持ち悪いだけだけど……っ、ねずみは家の柱とかかじるからあぁぁ……ッ」

 はっ、とは我に返る。自分に押しつぶされ、重たい棚を両手で支えている空却。今、空却がその手を離したら、大きな棚が二人に向かって倒れてくる。まさに彼の手は命綱。先ほどよりも劣悪な状況になってしまった現状に、は心の中で半べそになりながらこう言った。

「ごめんね……。ごめんね……。さっき床に頭打ったよね……っ。腕辛いよね……っ。体もえらいよね……っ。体重たくてごめんねぇぇ……っ」
「痛くねえし辛くねえし重たくもねえから拙僧の上でごそごそ動くんじゃねええぇぇッ……!」

 這い出でるような空却の声に、もひっ、と言葉を詰まらせることしかできなかった。は空却の胸板の上に両腕をそろそろと乗せて、なるべく体重が分散するように全身に神経を集中させる。
 空却が呼吸をする度、の体がゆるゆると上下する。深くて、長い呼吸だ。首から上は熱に浮かされてぼうっとしてきて、全身を包まんとばかりに濃厚になった空却の匂いに、は目の前がくらくらとしてくる。空却の息が頭上から落ちてくるたびに、はどうにもならないこの気持ちを、ぎゅっと目を瞑って誤魔化そうとする。けれど、それも付け焼き刃の対処でしかなくて、あまり意味を為さなかった。
 ――そして、ちょうどの頬の下。別の生き物のようにどくんどくんと脈打つ空却の心臓。彼のそれと呼応するように、ただでさえ破裂寸前のの心臓が痛いくらいに暴れ出す。男の人の心臓の音って、こんなにも早いものなのかな。それとも、やっぱり腕が辛いのかな。空却くん、どこか怪我しとらんかなぁ――は荒くなり始める呼吸を必死に耐えながら、考えているのは空却の身の安否一色だった。
 空却が両手を離したところで、倒れてきた棚に対して盾になるのはなのだから、少なくとも彼自身に外傷は伴わないだろう。お願いだからその手を離してほしい――そう言おうとして、は空却に向かって口を開いた。

「空却く――」
「今考え事してっから話しかけんな……」
「ごめんなさい……」

 空却の言葉の前ではの意思など半紙同然に薄くなる。もう何の役に立たないことを理解したは、大人しく口を閉ざした。
 消え入るような声でが謝罪すると、空却はすううぅ、と細く長く息を吐いた。

「……おい」
「はっ、はい……」
「頭ぶつけんのか拙僧に触れられんの……どっちが嫌だ」

 え? は声を上げるのも忘れて、頭が真っ白になる。それは……一体どんな道だろうか。選択肢としては理解できなくもないが、空却はたしか“嫌な方”という聞き方をしなかったか。そもそも内一つはご褒美に近いものでは? それに、先ほど庇ってくれた時も後頭部を抱かれたので今更の話だ。それとも、あれは彼の中で無意識にやっていたことなのだろうか。
 嫌な方――空却に触れられると想像しただけで恥ずかしさで死にそうになるが、それはあくまで死にそうになるだけ。実際死ぬのは当たりどころを間違えた場合の前者だ。

「ぇ、と……」
「さっさと選べ。念のために聞いとるだけだが、こんなもん迷う余地も――」
「頭、ぶつけるほう……」
「は?」

 決して触れてほしいとかではない。もう一度だけ空却の手のひらの大きさを感じたいとかも思ってない。好きな方と聞かれなくてよかったと、は心から安堵する。後者を即答で選んで二度と空却の顔を拝めないところだった。
 頭をぶつける方――自分から聞いたのにも関わらず、空却は豆鉄砲を食らったような顔した挙句、大きな舌打ちを飛ばして「あ゙ー……」と言葉にならない声で呻いた。

「……足、少し折っとけ」
「あ……。こう……で、いい……?」
「ああ……。そのままじっとしとれよ。すぐに離す」

 突然、ぐっ、との頭が前に強く抑えられる。後頭部に感じる空却の手のひらによって、彼の前合わせに顔を押し付けられた。直に近い形で空却の体温が正面から伝わってきて、はぐらんっ、と激しい目眩を起こした。
 「ッ、ん……っ」空却が息を詰める音がするやいなや、の背中にほんの僅かに接触した硬いものがあった。きっと棚だ。ようやく空却が手を離せたのだ。の後頭部を襲うはずだったそれは空却の手によって守られ、背中も含めて痛みは伴わなかった。
 するとすぐに、の体が空却の体の上から優しく落とされる。木箱に体が当たらないようころん、と床に転がされたが体を起こす時には、空却が肩と腕だけで棚をぐぐっ、と押し返していた。
 乱雑な掛け声とともに、空却は立ち上がりながら棚を垂直に戻す。「ッ、あ゙ー……やっとまともに動けるわ……」肩や首を回している空却を、は唖然としながら両目に映していた。
 ――そして、はしっかり聞いていた。空却の手に棚が当たった時、ごりッ、と骨がずれるような音を。本来、が受けるはずだった痛みを空却が肩代わりしてくれた。その事実だけでの目頭に熱がぶわっと溢れる。それが涙に変わらないうちに、はよろよろと立ち上がって空却のところへ駆け寄った。

「く、空却くん……っ! さっき手の骨の音が――ッ」
「骨だあ? ……ああ、あんなん指鳴らすみてえなやつだろ。痛くも痒くもねえし別に折れたりもしてねえ――」
「痣なっとらんっ……? 皮めくれたりとかしとらんっ……? 今の時間病院やっとるかなぁ……っ」
「いやだから折れてねえって――」
「利き手使えんくなったらご飯も食べれんし猫ちゃん撫でれんしおつとめもできんくなってまううぅぅ……ッ」
「だァから折れてねえって言っとんだろうがッ! つか、片手だけでも祈祷くれえ余裕ででき――ッ」
「空却ッ! ここにおるんかッ!」

 びくうッ! と二人同時に体を震わせる。蔵の外から聞こえた声……灼空の声だ。
 「隠れろッ」空却の無茶ぶりには頷くのも忘れて、すかさず大きな置物の後ろに体を滑り込ませる。それと同時に、声の主が蔵の引き戸をがらっと開けた。外はすでに日が落ちかけていて、薄橙の光が蔵全体に差し込んだ。
 すると、本当にいるとは思っていなかったらしい空却を見て、彼はぽかん、と小さく口を開けて目をぱちくりとさせる。まるで写し絵をされたかのように、今もおそらく同じ顔をしているにちがいなかった。
 ……あれ、さっきまで空却くんがやってもびくともしなかったのに。おじさん、すごく簡単に開けてまった、と。

「んな……ッ! 何か大きな物音がしたので来てみれば……こんなところに隠れた挙句に散らかしおってッ!」
「勝手に木箱が崩れてきたんだっつーのッ! あと、ここの立て付けクソ悪ぃから修理屋呼べよ!」
「立て付けが悪い? どこがだ。戸を横に引いたら普通に開いたが」
「クソ親父のクソ馬鹿力かよ……」

 「クソクソ言うんじゃないッ!」「い゙ッてーなッ!!」そんな会話が、息を殺しているの耳に届く。今回は特に空却を庇ってあげたい気持ちで山々だが、女に守られるなど男としてどうのこうのとまた叱られそうだったので、それも思っただけで口から出ることはなかった。
 「もうじきおつとめの時間だから、蔵の片付けは明日やりなさい。あと、壺を割った件は後々みっちり説教するからな」灼空はそう言って、最後までに気づかずに蔵から離れていく。足音が遠ざかると、空却はがいる置物の後ろを覗き込んだ。

「お前はしばらくしてから出てこい」
「え……?」
「“え?”じゃねえ。二人一緒にこんなとこから出てきたら色々怪しまれんだろうが」

 いろいろってなんだろう……。聞いたら怒られそうだったので、はこくん、ととりあえず形だけ頷いておいた。

「タッパーはコンロ下の棚にあっから庫裏入って勝手に持ってけ。鍵は開いとる。こんな寒ぃところで長居しとんなよ」
「こっ、ここの片付け、いっしょにしんくていいの……っ?」
「しんくていい。つか、これ以上クソ親父に殴られる理由増やすんじゃねえ」

 空却は自身の頭を撫でながらそう言う。作務衣についた埃をぱんぱんッ、と払い始めたのを見て、は着ていたダウンとマフラーを脱いで、慌てて空却に返した。

「ダウンとマフラー、貸してくれてありがとう……」
「……ん。」

 空却はその二つを受け取るやいなや、蔵の敷居を跨ぎ、外の橙の光に吸い込まれるようにふっと消えていった。それがなんとも情緒的で、今まであった数時間のことすら夢の話だと語られているのように思えた。
 しかし、自身が感じた彼の熱を思い出させるように、空却のにおいは未だの体に残っていた。ダウンとマフラーを返しても、体が火照っているほどに。幸も不幸も含めて色々なことがあったが、最終的に幸福一色で満たされたは、嬉しそうにゆるゆると目尻を下げたのだった。