Episode.5
空却さんが自分に課す修業はとても厳しい。何も考えてないつもりなのに大体三秒おきに警策で叩かれる坐禅だったり、二十メートルはくだらない長い廊下の雑巾がけだったり、永遠と終わらない広いお庭の掃き掃除だったり――あれ? これって修行という名のお家のお手伝いなんじゃ? ほとんど空却さんがやりたくないだけなんじゃ? と最初は思ったけれど、口に出すと怒られそうだったのでぐっと我慢した。
ヒプノシスマイクを使った修行を終えてから一週間――自分は空却さんのお寺で寝泊まりをしながら肉体鍛錬に励んでいた。ディビジョンラップバトルに出場するのなら、精神だけではなく身体の内側も鍛えるべきだというのが空却さんの言い分だ。アマンダを没収された肉体修行初日は涙の海で溺れるかと思った。
自分のバンドの練習やライブは夜に行われるので、一日の行動時間も必然的に夜に傾く。そんな夜型の自分が深夜に起きるのは奇跡に近いものだった(いつもなら寝る時間だ)。ライブにも出れず、アマンダとも会えず……一週間後の自分はもしかすると廃人になっているかもしれない――そんなふうに不安に思った時もあったけれど、空却さんに連れられて足を運んだ滝で滝行をしてからは、心なしか一皮剥けた気分だった。
意外と慣れるものなんだなあ。一週間に及んだ肉体修行を終えた自分はそんな感想を抱いた。空却さんは、「元々お前には素質があんだよ」って褒めてくれたけど、自分ではなかなか信じがたい。でも、師匠である空却さんのお墨付きはやっぱり嬉しいもので、心うちしがれる日があると、こうして空却さんのお寺にお邪魔することが度々あった。
でも……今回自分がお寺に足を運んだ理由はちょっと違う。このあいだの肉体修行を頑張ったご褒美で、空却さんがお昼ご飯を奢ると言ってくれたのだ。獄さんも誘ってみたけど、仕事で忙しいと言われて断られてしまった。とても残念だ。また機会があったら誘ってみよう。
「(えぇっと……たしかこっちの方だった気が――)」
境内をざくざくと歩きながら、空厳寺を見回す。すると、お寺の中で一番大きい建物――本堂がなにやら騒がしいことに気づく。
静謐な朝には似つかない怒声が響いた後、中からは赤色の髪と黒色の作務衣のコントラストが眩しい存在がぴょんと跳ねて出てきた。空却さんだ。
「空却さん! おはようござ――」
「おはよっ! 先に部屋行ってろッ!!」
光の速さで空却さんが自分の横で通り過ぎる。えっ……? 空却さんが走り去っていった方向を唖然呆然として振り返っていると、今度は向かい側からドスドスと地面を揺らす音が迫ってきた。
「くうぅぅううこおおぉぉおおおッッ!!!!」底冷えする声に、空却さんではない自分がぶるぶると体を震わせてしまう。怒りを滲ませた音がこっちに近づいてきて、ついに鬼のような形相をした灼空さんが本堂から姿を現した。あ、ああいう顔なんて言うんだっけ……このあいだセントラルパークで期間限定展示されていたお面の――あ、思い出した。般若だ。
「ああ! 十四君かっ! おはよう!」
「おッ、おはようございますッ!」
「ところで、うちのドラ息子がどこに行ったか知らないかっ?」
親子揃って切羽詰まっている様子なのに、挨拶は決して欠かさないのがさすがだ。灼空さんの目は雷が落ちる一歩手前の曇天ように轟々としていて、ひえぇっ、と胸を縮こませながら自分は目を泳がせた。
弟子として、チームメイトとして、家族として――ここは師匠である空却さんの身の安全を考えるのは第一だろうけど、「虚言を吐くこと即ち其れは五戒に反する行為だ」と、当の本人が言っていたことを思い出す。般若の灼空さんが怖いだとか、自分の身可愛さのためだとかは決して思ってない。……た、多分。
「あ……あっちに……走っていきました……」
「ありがとうっ!!」
自分はおそるおそる後ろを指を差して、ぱっ、と口を開く。すみません空却さん……。未熟な自分じゃあどうにもならないっす……。走っていった灼空さんの背中を見て、自分は心の中で合掌しながら空却さんの無事を祈った。
庫裏に向かっている途中に偶然通りがかった手水舎で手を洗う。空却さんがいる時はちゃんとした作法でやれって怒られるけど、最初に柄杓を持つ手からど忘れしてしまって、今日は少し横着して我流で済ませた。すみません空却さん。また今度教えてください。
冬場の水は氷水のように冷えきっていて、ハンカチで手を拭く時には指がかたかたと悴んでいた。はーっ、と白い息を吹きかけながら、自分の足は再び庫裏へと伸びる。
たしかこっちでいいはず――一週間寝泊まりをさせてもらっていた建物の所在を思い出していると、空却さんが逃げていった方向から灼空さんの怒声が境内中に響いた。
「この……ッ! 大人しくせんかっ! 朝からちょこまかと逃げおってからにッ!!」
「はなッ――! 離せっつってんだろクソ坊主ッ!!」
あ……捕まっちゃったんすね……。その原因の大部分が自分のせいだと思うと、胸の中が罪悪感で満たされた。
「離せと言われて離す阿呆はおらんわ! このあいだの講談をすっぽかした罰はまだ済んどらんぞッ!!」
「けッ! あんな腐れ坊主の話なんざ聞く価値ねえっつーのッ!」
「なッ……!? あの高尚なお方を腐れ坊主だと!? 女の子を泣かせたお前の方が腐れ坊主だろうがッ!!」
「あァッ!? んだとクソジジイ!! つかなんでんなこと知っとんだっ!!」
「このあいだ泣きながら家から出てきたんだわッ! ちゃんに問いただしてもお前は悪くないの一点張りで話にならんかったッ!!」
「はっ! ちげーねえ! 今回の拙僧はなーんも悪くねえからなァ!!」
「そのくせ己の脆弱さを嘆いておったら世話ないわ! なんだ今朝の聞くに絶えない読経はッ! 嫌われてでも守ると仏様に誓ったのなら最後まで全うせんかッ!!」
「今朝は喉枯れとったんだわ!! 何も知らねえくせにつべこべ言ってんじゃねえぞクソ親父がッ!!」
おそらくご近所さんにも丸聞こえであろう会話に、はは、と苦笑が漏れる。激しすぎる親子喧嘩に最初はおどおどとしていたけど、それがほぼ毎日続くと心も耳も慣れてくる。獄さんが言っていた“日常”という意味がよく分かった。あと、空却さんの喉が枯れていたというのは多分嘘だ。
「(なんだか、今日は一段と強烈だなあ……)」
不安げに後ろを振り返る。今自分が間に入っても、二人の仲をよく知らない自分にできることは一つもないだろう。二人の怒気に圧倒されて、蚊帳の外で体を震わせてるだけの未来が見える。むしろ役立たずだ。そう割り切って、自分は庫裏に向かって再び歩を進めた。
空厳寺の庭はとても広くて、建っている建物も荘厳としている。それぞれ本堂、西堂、東堂などの名前が付けられているのだと、最初お寺に来た頃に空却さんに教えてもらった。今歩いている庭も、このあいだまで空却さんが一緒にいないとすぐに迷子になってしまっていたけれど、今は庫裏と本堂の行き来くらいは一人でもできるようになった。それでもたまに迷ってしまって、最終的に空却さんに見つけられていい加減覚えろと叱られるのだけれど。
「わっ」
そうこうしているうちに、庫裏の裏手が見えてくる。そのまま玄関口に回ろうとすると、曲がり角から小さく声を上げた誰かがいた。体同士がぶつかる寸前のところで、ぴたっとその足は止まる。
え? 自分がそろそろと下を見てみると、自分の鳩尾くらいところにある女の子の頭。その子は自分を見上げるとほ、と胸を撫で下ろした様子で、「よかったぁ、十四くんかあ」と気の抜けた声でそう言った。
「す、すみませんッ! びっくりさせちゃったっすか……?」
「ううん。大丈夫だよ~」
ゆるっと頬を上げるちゃん。ふわふわのネックウォーマーをもこっと被って、隠れていた口元から白い息をほわほわと吐き出している。白いファーブルゾンを着た今日のちゃんは、まるでこの世界に生まれ落ちたばかりの雪の妖精のよう――あ、今のフレーズいいかも。今度の新曲に使おう。
「おはよう十四くん。今朝も早いねぇ」
「おはようございますっ。ちゃんこそどうしたんすか?」
「うん、お仕事に行く前にね、渡したいものがあったんだけど……」
ちゃんは大きめのトートバッグを肩にかけ直しながらきょろ、と周囲に視線を漂わせる。誰に、と言われなくてもその対象を察して、自分はぴんぽん、と頭上で豆電球を浮かべた。
「空却さんなら、今灼空さんに叱られてるっすよ!」
「そっ……そっか」
「もうすぐこっちに来ると思うんでっ、もしよかったらここで一緒に待って――」
「う、ううんっ。渡すのはお寺の人だったら誰でも大丈夫だから……っ」
ちゃんはそう言って、持っていたトートバッグから大きなタッパーを一つ取り出す。蓋を開けると、そこにはごろごろとした角切りさつまいもがぎっしり詰まった鬼まんじゅうで溢れていた。
「わあ~っ!」突如現れたスイーツに、自分は目をきらきらと輝かせる。
「鬼まんだあ! これ、もしかしてちゃんの手作りっすかっ?」
「うん。さつまいもをね、東都に住んどる人がたくさん送ってくれたの。あっちの方は今が旬なんだって。うちにまだたくさんあるから、十四君もよかったらどうぞー」
「えぇっ! いいんすか!?」
うんうん、と何度も頷いてタッパーを自分に差し出すちゃん。朝ごはんを食べ損ねて、とてもお腹が減っていたからちょうどよかった。天国の花園でたった一人、十二体の神獣のみが食すことの出来る金色の果実を育む雪の妖精――ちゃんの背中に蝶のような羽が生えているように見えた。
出勤時間までまだ少し余裕があるようで、立ち話もなんだからと場所を移動した。鯉のいる池の囲い石に、自分はちゃんと隣同士に並んで座る。表面の窪みがちょうどお尻にフィットしてとても座りやすい。おお、と声を上げて感動していると、「この石の形、いいよねぇ。わたしも好きだなあ」と隣の彼女も笑ってくれた。可愛いなあ、自分の周りにはちゃんみたいにほわほわしてる女の子はいないから、何だか新鮮だ。
ちゃん手作りの鬼まんじゅうは、もちもちした生地にさつまいもの甘みがぎっしり詰まっていてとても美味しかった。手を洗っていてよかった。ちゃんとした和菓子屋さんに行っても鬼まんだけ置いていないことが多いし、かといってスーパーで買ってもなんとなく味落ちする。久々に食べた美味しい鬼まんじゅうに手が止まらない。だめだ、他の人にも残しておかなきゃ。
鬼まんは自分だけ食べるのも申し訳なかったので、ちゃんにも食べるように勧めてみた。遠慮がちに白魚のような手が伸びて、ぱくりと一口。ゆる、と柔くなった口元は「お茶が飲みたくなっちゃうねぇ」とかたどった。たしかに。ちゃんの言葉に自分は深く頷いた。
「今まで聞いたことなかったんですけど……ちゃんって空却さんとどういう関係で知り合ったんすか? 家もあんまり近くにないっすよね?」
「わたしのば――おばあちゃんがね、ここのお寺によく来とったの。その付き添いで遊びに来とったら、空却くんとも顔見知りになって……」
「へぇ~っ。それって結構前からなんですか?」
「小学校の低学年くらいからかなぁ」
「えぇっ! じゃあもう幼馴染みたいなものじゃないですか!」
「そ、そんな大それたものじゃないよ」
両手を振ってやんわりと謙遜するちゃん。でも、世間一般的にそういうのは幼馴染っていうのでは? ちゃんが謙遜した意味が飲み込めないまま、いいなあ、と自分はぼんやりと思った。
小学校低学年となると、かれこれ十年以上の付き合いになるんじゃないだろうか。空却さん、たしか自分の一個上だからきっとそうだ。大概、こういうのは疎遠になるはずなのに、今でも交流があるのはすごいことだ。
しかも、性格が真反対な二人。見た目怖そうな空却さんとおっとりしたちゃん。逆に、どうして交流があるのかが不思議なくらいだけど、その理由は本人達よりも自分の方がよく知っていると自負している。
「そういえばちゃん、さっき自分とあった時すごく安心してましたけど……」
「あ……。あれはね、最初空却くんかと思って……」
「えっ。空却さんと会いたくないんすか?」
鬼まんを頬張ろうとしたちゃんの唇は、代わりに沈んだ声を乗せた。「空却くんには、内緒にしとってほしいんだけど……」そんな前置きをしたちゃんは、ぽそりと囁いた。
「このあいだ、空却くんに怒られちゃったから……少し会いづらくて……」
「えぇっ!?」
怒られた? ちゃんが? 空却さんに? 二人が一緒にいるところはまだ数えられるくらいしか目撃していないけど、その時の二人の雰囲気を思い出して、自分は思わず口を開いた。
「空却さんって、ちゃんに対してはなんというか……別人っすかってくらい物腰柔らかくなるイメージがあるんすけど……」
「そうかなぁ……。昔からいらいらさせてばっかりだよ」
いらいら? ちゃんを見た空却さん、沸騰しかけのやかんに氷水を浸したみたいになるのに? 牙を抜いた狼、毒針を折った蜂、鬣を剃った雄ライオン……そんな例えが次々と思い浮かぶけど、第三者から見ると、やっぱり色眼鏡がかかるんだろうか。
うぅん、とひとりでに考えていると、ふと、ちゃんの膝の上に置かれたタッパーが映る。手が伸びるだけ食べてしまって、あれだけあった鬼まんはもう三分の二くらいになっていた。なんとなしにタッパーをじっと見つめていると、はッ、と自分の頭に電流が走った。
「もっ、もしかしてこの鬼まんも、空却さんに謝るために作った……とかっすか?」
「半分は……そうだねぇ」
「ええっ!? じっ、自分すごい食べちゃってすみませんッ!!」
「だ、大丈夫だよ気にしないでっ。本当に、家にいっぱいあるの」
「それに空却くん、食べてくれんかもしれんから……」ちゃんの膝に置かれた鬼まんが寂しげに映る。い、一体何があったんだろう。空却さんの中にある導火線は短めだけど、理不尽なことで怒ったりしないし……。かと言って、ちゃんが空却さんを怒らせるようなことをしたとも考えにくい……。頑張って頭を捻るけど、テストの最終問題のような難解さに、自分もお手上げ状態だった。
「あ……。じゃ、じゃあっ、もう半分っていうのはっ?」
「バレンタインも近いから……かなぁ。空却くん、チョコよりもお茶に合うお菓子の方が好きだから……」
「ええっ!? ちゃん、空却さんに毎年バレンタインあげてるんすか!?」
「しょ、小学校の頃だけだよ。中学からはあげとらんの。空却くん、もらう量が多くてね、お返し大変だろうなぁって――」
「空却さんがお返しッ!?」
「う、うん……。小学校は別々だったから分からんけど……空却くん、名前が分かる子には全員に配っとったよ。チロルチョコとか……」
ちゃんの声がだんだん遠のいていく。バレンタインあげてたって……それはもう幼馴染の域を越しているのでは。というか……え? 小学校は別だった? お寺だけで会ってたわけじゃないんすか? 自分の中で元々不思議に満ちていた二人の謎は深まるばかりだった。
「ふ、二人とも、自分が思ってた以上に、結構仲良かったんすね……ちゃん、空却さんと話してる時、すごくぎこちなさそうに見えたんで、空却さんのこと苦手なんじゃないかって思ってました」
「や、やっぱり、そう見えるんかなぁ……」
こくん、と自分が頷くと、そっかぁ、とちゃんはため息まじりに言った。
「昔はもっと……普通にというか、自然に話しとったと思うんだけど……。どういう風に話しとったか……もう忘れちゃって」
「いつから……その、空却さんとそんな感じになっちゃったんすか……?」
「……色々あって、わかんないや」
鬼まんじゅうの最後のひと口を食べて、ちゃんはかなしげに笑んだ。「でも、」
「最初にきっかけ作ったのはわたしだから、空却くんは悪くないよ」
「ちゃん……」
「今年は……ちょっと、いろんなこと頑張ろうって思って。初詣の時に、少しだけよくなったかなと思っとったんだけど……やっぱりだめみたい」
こんなにも痛々しく笑むちゃんを見たら、空却さんはなんて言うだろう。こんな顔をさせている原因が自分だと知ったら、空却さんはなんて顔をするだろう。曖昧に言葉を濁すちゃんに、ぎゅう、と胸が絞られるみたいに堪らなくなって、思わず自分は声を上げた。
「あっ、あんまり二人のことを知らない自分が言うのもあれっすけどっ、自分の目から見ても、空却さんはちゃんに良く接してると思うっす! 重い荷物は絶対持たせないですしっ、歩く時は絶対車道側ですしっ!」
「空却くん……優しいから。嫌だって思ってても、昔馴染みで色々してくれてるんだと思うなぁ……。だめだねぇ、わたしもいつまでも子どもの頃みたいに空却くんに甘えちゃって――」
「そッ、そんなこと――っ!」
「おい十四ィ!! 先に部屋行ってろっつったろ!!」
びくうッ! とお互いの肩が跳ねる。加えて、ちゃんは顔がみるみる強ばっていき、さっきまでの朗らかな顔はどこへやら……まるで虎から逃げる子兎のようになっていった。
「じゃ、じゃあっ……わたし行くねっ……。鬼まん、おじさん達の分もあるからっ……!」
「あっ! ちゃ――ッ」
立ち上がったちゃんは自分にタッパーを押し付けるように渡すと、池の裏に回ってそのまま草の茂みに飛び込んで行った。あっ、そこ道だったんすね……。さすがは幼馴染。自分では知らないお寺の裏道を色々と知っていそうだ。
そして、ちゃんがいなくなったものの数秒の差で、空却さんが池の囲いに姿を現した。茂みを見ながらおろおろと狼狽える自分を見て、あ? と空却さんは首を傾げる。
「誰か来とったのか」
「あッ……。え、えとっ……。きっ、近所の人から差し入れをもらったっす!」
「ふうん……」
自分、嘘が下手すぎる。でも、空却さんは何も言わず、代わりに、自分の膝の上にあるタッパーをじっと凝視している。
「お、鬼まんっすよ」「見りゃ分かる」お互いに短い言葉を淡々と交わすと、空却さんは蓋が空きっぱなしだったタッパーに手を伸ばして、一つの鬼まんをひょいっと摘む。がぶ、と大きな口に含んで、もっちもっちと鬼まんを数回咀嚼すると、明らかに顔を顰めて、けっ、と舌を打った。
「鼠みてえにこそこそしやがって……。言いたいことあんなら面と向かって言やあいいだろーが……」
「えっ。空却さん、この鬼まん……誰からのなのか分かるんすか?」
「鬼まん贈ってくるなんざ、拙僧の周りで一人しかいねえからな」
ごめんなさいちゃん、頑張って誤魔化したけど速攻でバレました。……あれ。というか空却さん、今食べてから分かったような顔しませんでした? まさか味で判別したとか……? そんなことを疑問に思うも、空却さんに真正面から問い質す勇気が自分にあるはずもなかった。
さっき自分がほいほい食べたせいで不自然に空間の空いたところが、空却さんの金色の眼に映る。ふいっとこちらを視線をやった空却さんは、思わずこちらが肩を揺らしてしまうくらい鋭いものだった。
「……お前、これ食ったんか」
「あ……は、はいっ。ちゃんが食べていいって言ったんで……。あ、灼空さん達の分もあるみたいっす」
「クソ親父達の分は数えんでいい。茶ァ入れっから拙僧の部屋に持ってけ」
「はいッ」もう一度返事をすると、空却さんは踵を返して庫裏の方に歩いていく。自分も慌てて立ち上がり、その後ろを駆け足で追った。
ざくざくざく。今日の空却さんはなんとなく早足で、砂利の音も不機嫌そうに聞こえる。多分それは、灼空さんに叱られたからじゃない。だって、池の囲いに着いた時は普通だった。
とすると、空却さんの機嫌が急降下したのはきっと――不機嫌になった理由におおよその察しがついた自分は、おそるおそる口を開いた。
「あの……空却さん」
「なんだ」
「鬼まん、自分が食べたらダメだったっすかね……?」
「はぁ? あいつがいいって言ったんだったらいいんじゃねえの。なんでわざわざんなこと聞くんだよ」
「なんとなく、食べてほしくなさそうだったんで……」
「誰が」
「空却さんが、っす……」
返ってくる声はない。黙りこくった空却さんはふん、とそっぽを向いたので、会話はそこで途切れてしまった。
歩いている最中も、空却さんは自分が持っているタッパーに手を伸ばして、鬼まんをばくばくと頬張っていく。普段の空却さんならガムを噛むのに、今はガムよりも鬼まんじゅうを取るんだ……。空却さんの食べっぷりを見ながら、吸引力の変わらないただ一つのあれを連想して、自分はまたしても口を開いてしまった。
「空却さん、鬼まん好きでしたっけ?」
「普通。おい、もう一個寄越せ」
空却さんの言葉に、自分は持っていたタッパーを少しだけ下げる。すると、今度は空却さんの手が鬼まんを二つ一気に攫っていって、またばくばくと食べ始める。自分がタッパーの中をそろりと覗くと、あれだけあった鬼まんはもう半分しか残っていなかった。
「……鬼まん、美味しいっすか?」
「不味いもんわざわざ口に入れっかよ」
ですよねー……。
ちゃん、安心してください。空却さん、食べないどころかすごい勢いで口に放り込んでます。空却さんがいない間に何個か食べておいてよかった。これはもう、自分は手をつけてはいけないパンドラの箱……空却さんを差し置いてその箱を開けるほど、自分は空気の読めない男じゃない。
「つか十四……お前さっき拙僧が逃げた方向、親父にチクったろ」
「あれは忘れもしない混沌渦巻く戦乱の空……三百年の時を経て七つの救済により目覚めしニルヴァーナが――」
「キャラ被って誤魔化すんじゃねえッ!」
「あいたぁッ! す、すみませんでしたあぁっ!」
場所は移り、空却さんの部屋。相変わらず和室にアンマッチすぎるフォンキーなインテリアが並ぶ部屋の中で、鬼まんをお茶請けに、自分はお昼ご飯の場所をリサーチしていた。
スマホをスクロールしながら、インスタで映えた画像をするすると流していく。うーん、やっぱりパスタかな。矢場町にある日替わりパスタがずっと気になってるんだよね。……あ、でもここの和食ランチも捨てがたい。メイエキかあ、空却さんそこまで行ってくれるかな……。
そんなことを思いながら、座布団を抱いている空却さんをちらっと見てみる。さっきから何やら神妙な顔をして、スマホとじっとにらめっこしていた。調べ物かな。お昼ご飯は自分に任せるって言ってくれてたから、おそらく今回のランチ会とは別件の何かだ。
「空却さん、さっきから何調べてるんすか?」
「別に。語るほどのことでもねーよ。で、昼飯どこで食べるか決めたんか」
「ま、まだっす」
「ならさっさと決めろ。拙僧はどこでもいいからよ」
そう言いながら、空却さんは懐に手を突っ込んで、そこから赤い楕円形のものを取り出した。スマホをいじっていない方の手の中でそれをころころと転がしながら、またスマホとじっとにらめっこを始める。
……なんだろう、あれ。空却さんの私物の中で見たことのないものだったので、自分はなんとなく口を開いた。
「空却さん、その手の中にあるの何すか?」
「電子カイロ」
「へえ~っ! 自分も前から気になってたんすよ! どこで買ったんすか?」
「知らねえ。貰いもんだ」
自分の方を見ずに、空却さんは淡々と答える。あれ、私物のことを聞くといつも嬉しそうに教えてくれるのに。貰いものらしいし、デザインとか好みじゃないのかな。でも空却さん、自分が気に入らないものはあんまり使わなさそうだし……うぅん。
それに、部屋に来てから雰囲気が空却さんっぽくない。口数は少ないし、受け答えも淡白だ。怒っている様子はないけれど、なんとなく調子が狂ってしまう。空却さんがこういう感じになる時は、大体特定の人と話している時……そして、その人は自分の知っている中ではたった一人しかいない。絡んでいる事柄を察して、自分はこほん、と声の調子を整えた。
「さ、さっきの近所の人、実はちゃんのことなんすよ」
「知っとる」
「空却さんが来るまでちゃんと色々話してたんすけど……。空却さん、どうしてちゃんに怒ったんすか……?」
「お前に話す道理はねえ。つかそれ、あいつに言うなって言われてんじゃねーのか」
「えぇっ!? もしかしてさっきの立ち聞きしてたんすか!?」
「はあッ!? するわけねえだろ! 大方そうなんじゃねえかと思っただけだっ!」
「へえ~っ! さすが幼馴染っすね!」
「幼馴染じゃねえッ! ただの腐れ縁だっつのッ!」
幼馴染と腐れ縁ってほとんど同じ意味なのでは……? というか、ちゃんと同じで空却さんも幼馴染って認めないんすね……。どうしてお互いに譲らないんだろう。第三者の自分から見たられっきとしたそれなのに。
「ちゃんと仲直りしないんすか?」
「はあ? 仲直りも何も、そもそも喧嘩してねーし。つか、今回は全面的にあっちが悪ィ」
「でもちゃん、すごく落ち込んでましたよ」
ぴく、とスマホを弄っていた空却さんの指が止まる。あ……これ、もう一押ししたらいけそうな気がする。自分はここぞとばかりに空却さんのところまで這って距離を縮め、彼の隣にちょんと座った。
「も、もしよかったら、自分に話してくれないっすか? 解決できるかどうかは分からないっすけど、気分的にちょっとはすっきりするかもです! それに、空気の抜けた風船みたいになってる空却さんのこと、自分これ以上見ていられないっす!」
「はあ? なんでお前に話さなかん――つかおい、最後なんつった」
「家族が悩んでる時、手を差し伸べるのは同じく家族の人間なんじゃないんすか?」
俯いて泣いていた自分はもう卒業した。次は前を向いて、自分が在りたいと思う人生を歩む。その先で、もしも過去の自分のように泣いている誰かがいたら、その助けになりたい。空却さんや獄さんがしてくれたように、自分だって、誰かに手を差し伸べられるような人間になりたいんだ。それが自分を認めてくれた人ならなおさら。自分にできることがあるならば、手を貸さない以外の選択肢は転がってない。
横目で空却さんに睨まれようと、自分の意思は揺らがない。ちょ、ちょっとだけ怖いっすけど……ここで逃げちゃダメだ。Never give up。何があっても屈しない。弱虫だった自分はもうここにはいないのだから。
「お前……拙僧に向かってかなり生意気な口利くようになったな」
「ひえぇっ! ご、ごめんなさいいぃぃ!」
「別にキレてねえよ。弟子の成長は師匠としても喜ばしいことだ」
空却さんは深々と溜息をついて、スマホを畳の上にごとりと置く。胡座をかいて、両腕に抱えていた座布団を足の間にずぼっと埋めた。自分もまたそそ、と足を折って、体操座りをしながら空却さんの言葉を待った。
「……商店街からちょっと逸れたとこに、でっけえ古着屋あんだろ」
「古着屋……ああ! あそこっすね! 隠れ穴場なんで、自分もよく服買いにいきますっ」
「あそこの男物売っとるとこにあいつがいたんだよ」
「へえ~。そうなんすね」
「は?」
「えっ?」
さっそく意見の食い違い。目を丸くさせた空却さんに、自分も同じく目を丸くする。え? 今のどこに怒る要素が?
「いや……普通に頭おかしいだろ。男物だぞ。しかも古着屋の」
「ええっ。女の子がメンズ服着るのも珍しくないっすよ? 自分のバンドメンバーの彼女さんもたまに着てるみたいですし」
「わざわざ古着屋まで行かんくても拙僧のがあんだろうが」
へ? 声をなくして固まった自分を置いて、空却さんは少し早口気味に話し始めた。
「新品ならまだしも、男の古着を金出してまで買うか? あいつが欲しいって言やあ古着くらいタダでやったっつの。んなくだらねえ用事で男しかいねえところにほいほい行きやがって……。あ゙ー、思い出したらイライラしてきた……。マジ意味分かんねー……」
いやいやいや、マジ意味分かんねえのは空却さんっす。幼馴染とはいえ、付き合ってもいない男女が服を貸し借りするっていかがなものだろうか。でも、二人の中ではそれもありなのかな……? そういう存在がいない自分には到底理解しがたい距離感だけれども。というか、そもそもそれって――
「やきもちっすか……?」
「はあっ!?」
「だ、だって、それって空却さんがちゃんに他の男の人が着た服を着てほしくなかっただけじゃ……?」
「ちッげえわっ! タダで貰えるもんをわざわざ金出して買うまでもねえだろって話だッ!」
ええぇぇ……? 今のそんな話でしたっけ……? でも、空却さんにすごい剣幕でそう言われてしまったら、自分もそれ以上口を出すことはできない。腑に落ちない胸をぐぐっと押しとどめて、自分は話の続きを促した。
「そ、それで……空却さんはちゃんとどうやって会ったんすか?」
「曲がり角で偶然ぶつかったんだよ。そん時に、あいつの後ろに知らねえ男がつけてやがった」
「ええっ!? ちゃん大丈夫だったんすか!?」
「寸のところで庇ったわクソが……」
クソが、というのは自分に向けられたものじゃないことはすぐに分かった。その時の光景を思い出したらしい空却さんは、片手で髪をぐしゃぐしゃと掻き回した。よっぽど肝が冷えたんだろうな……。こんなにも苦しそうな顔する空却さんを初めて見て、自分も思わず固唾を呑んでしまった。
「あいつもあいつで、男に気づいとらんかった。あの時拙僧とぶつかってなけりゃあ、ぜってえどっかでぶち犯されとったわ」
「で、でも……それはちゃんが悪いわけじゃ――」
「前にも似たようなことがあったんだよ……。あん時も灸添えたってのに、また同じこと繰り返しやがって……」
空却さんのお腹の中でふつふつと煮えたぎるマグマのようなものが窺えて、ひぇ、と情けない声を上げそうになる。その中で、空却さんのいう“お灸”というのが気になって、あまり刺激させないような言葉を選びながら、自分はおそるおそる尋ねてみた。
「ちなみに……空却さんはその時、ちゃんになんて言ったんすか……?」
……沈黙が生まれる。あれ、と空却さんの表情を窺うと、あちらこちらに視線を泳がせていた。空却さんにしては珍しい行動だ。じっ、と泳ぐ金色を見つめていると、ちろ、と自分を一瞥した空却さんは観念したらしく、ゆっくりと口を開いた。
――歯切れ悪く紡がれる言葉の羅列。言葉は刃であることは、自分は誰よりも知っている。耳を塞ぐ勇気もなく、一切の加減がないまま、ただただ一方的に滅多刺しにされる感覚。その刃達を突きつけられたちゃんのことを思うと、自分の顔はみるみる青ざめていった。
「空却さん……それ、女の子に絶対言っちゃダメなやつっすよ……」
「わぁーってるっつの」
「ちゃんがかわいそうっす……。そんなこと言っておいて、どうして空却さんはちゃんとまだ一緒にいられるんすか……? 鬼畜っすか……?」
「おいやめろ……。言うんじゃねえ……。お前に言われると余計くるもんがある……」
もしも自分が女の子でそんなことを言われたのなら、一生のトラウマものだ。なのに、ちゃんは今でも空却さんと普通に会っているし、会話もしている。そしてその好感度は嫌いどころかむしろその逆――あれ? やっぱりちゃんは地上に舞い降りた天使なのでは?
空却さんのことだ。何かしら理由はあったんだろうけど、言ってしまった言葉は口の中に戻らない。腫れ物を見るような目を向けていると、空却さんは半ばやけくそ気味に足の間に埋まった座布団をぼふんっ、と叩いた。
「んじゃあ他に何て言やあよかったんだよッ」
「ええッ。ええっと……『心配するからあんまり男がたくさんいるようなところに行くな』って、言えばよかったんじゃないっすかね……?」
「んな束縛じみたこと言えっかッ! 行動制限するだけあいつの世界が狭まんだろうが!」
「で、でも、空却さんは嫌なんすよね?」
「あいつの人生はあいつ自身が決めることだ。赤の他人の拙僧があれこれ口挟むことじゃねえだろ」
えー……? 矛盾が多々ある発言に自分も言葉が詰まってしまう。あと、嫌ってことは否定しないんだ……。きっとそれも無意識なんだろうな。とりあえず今のままでは話が進まないので、自分もいったん心を切り替えた。
「そ、それで、その後どうしたんすか……?」
「うちに連れてって、拙僧が昔着とった服を何着かやった」
あ……やっぱり自分が着てた服をちゃんが着るのはいいんすね……。
それにしても、ちゃんも言われるがままお寺に行って、空却さんの服をもらったんだ……。ちゃんの気持ちを考えると嬉しいのかもしれないけど、空却さんの良いふうに操られている感も否めない。しかも空却さん、それでもちゃんのことに口挟んでないって思ってるんだから、なんというか……色々と大丈夫なんだろうかこの二人。巷のカップルよりもお互いのことしか見えてなさすぎるのでは。
「あいつが服選んどる間、一度部屋から出たんだが……戻ってきた時にそいつ、何しとったと思う」
「な、なんですかね……?」
「拙僧の服着とったんだよ……」
「ええっ!? 実質彼シャツじゃないっすか!! 空却さん役得っすねっ!?」
「役得ってなんだよッ!! つかさっきからお前反応ズレとんだわッ!!」
空却さんが何か言っている気がしたけど、その時にはすでに自分の世界にいたので、なんて言ったかよく分からなかった。
わああぁぁっ、と言葉にならない感嘆が口から漏れる。彼シャツなんて男のロマンの塊だ。しかもちゃんはミニマムだから、空却さんの服を着てもその役割はきちんと果たすに違いない。はわわ、と高鳴り始めた胸が突き動かすまま、自分は空却さんにずいずいと詰め寄った。
「それでそれでっ?」
「お前……なんか楽しんでねえか」
「そっ、そんなことないっすよ!」
「……そのまま家に帰そうとしたら、立った拍子に転びやがって、よりにもよって下も脱いどったから……シャツの裾がめくれた」
「ひえぇッ!? も、もしかして、見ちゃったんすか……っ?」
「見るわけねえだろーが……。他の服で隠したわ……」
疲れたように片手で目を覆う空却さん。それからは一方的に空却さんがあれこれ言って、最終的にちゃんを泣かせてしまったとのこと。空却さんはその後に他のお寺のお坊さんの講談があったとかなんとかで、泣いたちゃんを置いてそのまま退室したという。
……女の子を泣かせてしまった時点で考えるまでもない。ジャッジを終えた自分は、口からゆっくりと息を吐いた。
「自分……空却さんから謝った方がいいと思うっす」
「はあッ!? お前今の話聞いとったかッ! なんで拙僧から謝んなきゃいけねえんだよッ!!」
「どんなことがあっても女の子を泣かせるのは重罪っす! それにっ、空却さんのが絶対お兄ちゃんなんですしッ、こういうのは男の方から大人にならないとダメなんすよッ!」
「同い年だっつーのッ! なんならあいつの方が誕生日先だわ!!」
「えぇッ!? 空却さん、ちゃんの誕生日も知ってるんすかッ!?」
「話を脱線させんじゃねええぇぇッッ!!」
「つか、」空却さんは声のトーンを下げて、鋭い眼光でぎろっと自分を見上げた。
「なんなんだよさっきから。前まではあいつのこともさん付けだっただろうが」
「へ? あっ、ちゃんがさん付けは恥ずかしいからって言うんで……」
……無言。後に、「……ふぅん」と小さく漏れた空却さんの声は、怒っているのか拗ねているのかどちらとも取れない色をしていた。しばらく思考が白紙になっていたけれど、後に空却さんの反応に合点がいって、「あっ……!」と自分は声を上げる。
「自分、ちゃんって呼ばない方がいいっすかね……?」
「あいつがいいって言ったんだったらいいんじゃ――って、なんでさっきから事ある毎に拙僧の許可取ろうとしとんだ」
「呼んでほしくなさそうだったんで……」
ぽくぽくぽく、と木魚の音が聞こえてきそうな沈黙の末、空却さんはまたしても無言のまま、ふん、とそっぽを向いてしまった。
素直じゃないなぁ……。もしかするとこれも無意識なんだろうか。だとしたらちょっと怖い。ふと自分が視線を落とすと、さっき畳の上に置かれた空却さんのスマホの画面が目に映った。
「(……あれ?)」
そこには、白とベージュを基調とした画面が広がっていて、空却さんにしてはちょっと可愛らしい。そして、それが女の子向けの情報サイトだと分かったのは数秒後。加えて、“プレゼント”、“女の子”の文字が見えた瞬間、ぐんッ、と自分の胸がライブ後のように高鳴って、思わず空却さんのスマホを手に取り、その画面を空却さんに見せびらかした。
「こっ、これッ! ちゃん宛てのプレゼントっすよねっ!? そうっすよねッ!?」
「うるせえッ! 勝手に人のスマホ見んなッ!!」
「なぁんだ~! やっぱり空却さんもちゃんと仲直りしたいんじゃないですかあ~!」
「にやにやするんじゃねえッ! クリスマスに物貰ったから返礼考えとっただけだッ!!」
見せたスマホをぶんどられても自分はふくふくとした笑みが抑えられない。ちゃんが言っていた、空却さんは貰ったものはちゃんと返してくれるっていうのは本当だったんだ。
「スマホ返せよッ」そう言われて、空却さんにスマホを没収されても、自分はえへえへと溢れる笑みを堪えきれずにいた。
「クリスマスプレゼントも渡し合いっこしてたんすねっ」
「昔の話だ。去年は何年かぶりに渡されたんだよ」
「あっ、そういえばバレンタインも小学校の頃にちゃんからもらってたんすよね? 小学校は別々って言ってましたけど、学校が終わってから二人で会ってたんすか?」
「……あいつ、お前には何でも話すな」
「じっ、自分から聞いたんすよっ。ちゃんは悪くないっす!」
「別に責めてねーよ」
はあ、と空却さんは溜息をつく。なんだか、朝から随分と疲れさせてしまったみたいだ。自分のせいかな。ちゃんのことになると普段の空却さんとは違う一面が見れて新鮮だけど、どうしてちゃんの前だとひたすらぶっきらぼうになるのかが不思議でならなかった。
「うちは仏教だっつってんのに、クリスマスもバレンタインも、全部あいつから勝手に始めて、あいつから切った。昔っから人の話の聞かねえ勝手な女だ」
憂いを帯びた金色の瞳が揺らぐ。すっかり毒気の抜けた空却さんに、自分も言葉をなくしてしまった。昔の二人のことは何も知らないけれど、今みたいに、触れたら壊れてしまうしゃぼん玉のような曖昧な関係ではなかったはずだ。でなければ、大人になった今もこうして二人で会ったりはしないだろう。
あれ……? でもちゃんがバレンタインを渡さなくなった理由って――ちゃんの言葉を思い出した自分は、空却さんにこわごわと尋ねた。
「空却さん、バレンタインを切った理由って、ちゃんから聞いたりしました……?」
「はあ? んなもん知るかよ。お年頃ってやつなんじゃねーの。一時期苗字で呼ばれとった頃もあったしな」
はん、と鼻で笑う空却さん。二人の間に見えた深い溝の存在に気づいて、言うべきか言わざるべきか迷う。ちゃんとの約束を破るのは胸が痛むけれど、今の二人はすれ違いの元に関係が成り立っているような気がして、もったいないと頻りに心が叫んでいた。
……となれば、やることは一つ。「これ、ちゃんには言わないでほしいんすけど……」そんな前置きをおいて、自分は耳に残っていたちゃんの言葉をありのまま空却さんに伝えた。
「ちゃん、空却さんのお返しが大変そうだから遠慮したって言ってたっすよ……?」
「は?」
目を丸くさせた空却さんが勢いよく自分を見る。まるで、数年前になくしたものをようやく見つけたような驚愕に満ちた顔――てっきり、もっと淡白なリアクションが返ってくると思っていた自分も、空却さんを見ながら慎重に言葉を紡いだ。
「も、もしかして空却さん、今の今までめちゃくちゃ気にして――」
「ねーよッ!!」
気にしてたんだ……。でもそうっすよね、今までバレンタイン貰えてた相手から何も聞かされないまま貰えるお菓子がぱったりなくなったら気になりますよね。もしも自分が空却さんの立場なら、なんでなんでって相手に問い詰めちゃう気がするっす。でも空却さんはそんなことせず、あるがままを受け入れて今に至ったんだろう。普段よく見る唯我独尊ぶりは、ちゃんの前では也を潜めているようだった。
「あ゙ー……マジあいつなんなんだよ……」下を向きながら片手で髪をぐしゃっと握りしめる空却さん。あんまり弄るとそろそろ本気で怒られそうなので程々にしておく。こほん、と二度目の咳払いをして、自分は空却さんにこう言った。
「ちなみに、ちゃんへのプレゼントは何にするか決まったんすか?」
「下駄」
「へ?」
ゲタ? ゲタって、着物に一緒に履く、あの下駄のことだろうか? 頭の中で想像をしてみると、絵面的に華やかさがちょっと足りなかった。女の子へのプレゼントってもっとこう……ゆめかわいいものを想像していた自分としてはなんとなく拍子抜けだ。
「ちょ、ちょっと渋くないっすか……?」
「あいつ、呉服店で働いとんだよ。このあいだ鼻緒が切れとったからちょうどいいだろ」
呉服店――鼻緒の話は知らないけれど、たしか喫茶店と呉服店が融合したお店で働いてるってことは、自分も以前から知っていた。ちなみに今度、自分に合う着物を見繕ってくれる約束もしている。その時は空却さんや獄さんも連れていくって決めているけど、今それを言ったら空却さんにまた無言の圧をかけられるかもしれないから、これはまだ内緒にしておこう。
「で、でも、そういう専門的なものを詳しい人にあげちゃうと、品質の善し悪しが相手に分かっちゃうんじゃないっすかね……?」
ぴたッ、と明らかに空却さんの動きが止まる。しばらく静止した後、またしても深い溜息をつきながら下を向いた空却さん。振り出しに戻してしまった罪悪感とは別に、自分の胸の中の奉仕魂に火がついた。
「空却さんっ! ここは自分にひと肌脱がせてくださいっす!」
「はああぁ?」
何言ってんだお前。そう言いたげな空却さんをスルーして、自分は頭の中でぐるぐると作戦を練る。自分も何回かバンドメンバーの彼女さんのプレゼントを買いに付き合ったこともあるし、ちゃんの私物を見ていたら好みも大体分かる。だからきっと大丈夫だ。
クリスマスプレゼント兼仲直りのための口実……俄然燃えてきたっす。ステージの上では観客のハートを撃ち抜く側だけど、今回に限り、自分は二人の仲を取り持つ愛のキューピットになるッすよ……!
「善は急げっすよ空却さん! ランチの時間までまだ余裕ありますし、今から高島屋に行きましょう!」
「なんでこんな休日にメイエキまで行かなきゃいけねえんだよ。つか、高島屋行くんならサカエの三越でもいいだろうが」
「高島屋と三越は似て非なるものっす! それに自分、今日はメイエキの近くにある和食ランチが食べたいのでどっちにしろ目的地はメイエキっすよ! レクチャーと道案内は任せてください!」
「お前……精神力の強さと比例してふてぶてしさも一緒に増してねえか」
ひとまず褒め言葉として受け止めておきます。今はそんなことよりも、優先すべきことが目前にあるっすから。自分はゆらゆらと移ろっている空却さんの眼に縫い付けられるようにしてじぃーっとその瞳を見つめる。無言の攻防戦が続いた後、一度呻いた空却さんは、「わぁーったよ! 今から着替えっからちょっと待っとけッ」そう言って、半ば自暴気味に作務衣を脱ぎ始めた。えへへ、勝った。耐え忍ぶことなら、いくら空却さんが相手でも、自分負けないっすよ。
楽しみだなあ。ちゃんのプレゼント、何がいいかなあ。第三者の自分でもこんなにも気分が高揚してしまうのは、きっと大好きな二人だからだ。だって、見ていてもどかしいんですもん。本音を言えば、一日でも早く落ち着くところに落ち着いてほしいっす。
自分はバッグの中に入れていたアマンダをごそごそと出してあげる。空却さんの身支度を待っている間、自分にとって大切な二人の仲について、唯一無二の友達に有頂天で語り続けたのだった。
右を見れば女の子、左を見ても女の子――可愛らしい配色の煌びやかなカウンターがずらりと立ち並ぶ。フロア全体は花と果物の匂いに包まれていて、可愛い女の子の香りって感じがする。各ブースごとに世界観が異なっていて、女の子じゃない自分でも気分が上々していくのが分かった。
高島屋の三階に到着した自分と空却さんは、女の子達でわいわいと賑わうエリアの眼前にいた。フロア全体がリニューアルしてからは自分も足を運んだことがなかったので、プレゼント選びとは違う意味で心が浮き足立つ。
「ちょうど自分も普段使いのアイシャドウが欲しかったんすよ~! 自分の用事はすぐ済むんでっ、とりあえず右回りに見ていってちゃんのプレゼントを――」
「おい待て」
突如膝裏を襲った力。空却さんに背後から膝かっくんをされて、危うく転びそうになったのをちょっとのところでなんとか耐えた。
空却さんが手加減してくれたおかげだけど、そもそも転びそうになった原因も空却さんだ。こんなにも女の子がたくさんいる空間で辱めを味わわなくてよかった。
「なッ、なにするんすかあ!?」
「なんだよこのちかちかがちゃがちゃしたところはッ」
「あれ? 空却さん、コスメティックカウンターに来るの初めてっすか?」
「逆になんで初見じゃねえって思ったんだよ……。彼女持ちの男以外は普通近寄らねえだろ」
「ええっ!? 空却さん、もしかして彼女いない歴イコール――」
「女にかまけとる暇がなかっただけだわッ! つか、お前もどうせ人のこと言えねーだろうがっ!」
「うっ……。それを言われるときついものがあるっす……」
でも、意外だ。こんなこと言ったら失礼かもしれないけど、空却さん、学生の頃とか女の子を取っかえ引っ替えしてそうなのに。高校の時に彼女の一人や二人いなかったんだろうか。それとも男友達とだけつるんでたとか……? 空却さん、女の子からモテそうなのになあ。見た目はちょっと怖いけどかっこいいし、中身はちょっと乱暴だけど優しいし。告白とかもされなかったのかな。
「……想い慕う相手なんざ、生涯一人で十分だろ」
「へ? 今なにか言いました?」
「なんでもねえよ。で、化粧品なんかやってどうすんだ」
「コスメは女の子のプレゼントの中でも鉄板っすよ! 特に色物系はインスタ映えするパケばかりなんで、きっとちゃんも喜ぶっす!」
「あ、でもちゃん、インスタは見るだけって言ってたような――」ついに空却さんから返事が聞こえなくなった。あれ? 自分が隣を見下ろすと、そこには空却さんも何もない空間だけが広がっている。声を上げる間もなく、すぐさま、ばッ、と顔を上げれば、右方向にすたすたと我が物顔で歩いていく空却さんの背中を二つの眼で捉えた。じっ、自分だけ置いてけぼりっすかっ……!?
「まっ、待ってくださいよ~っ!」さすがにこんな空間で男ひとりぼっちは心細い。空却さんも行くなら行くって言ってほしいっす。心の中で半泣きになりながらも、自分は空却さんの背中を駆け足で追った。
モード系、エレガンス系、クール系――次々に通り過ぎるコスメカウンターはどれも目移りしてしまって、自分も本来の目的を忘れそうになる。あ……あそこのブランドも新色のシャドウ出てる……。また今度見てみよう。
自分はこういう雰囲気のコスメは大好きだけど、やっぱりちゃんならキュートかフェミニン系だろうな。オーガニックやナチュラルもいいけど、見た目がシンプルすぎるからプレゼントにはちょっと華が足りない気がする。チークなら、丸いポットに入った花びら型のものがすごく可愛いけど、あれって確か値段も結構した気が――あ、そういえば空却さん、プレゼントの予算はいくらくらいで考えてるんだろう。聞いたら聞いたで、贈物は値段じゃねえだろって言われそうなのでぐっと堪えた。
そんなことを一人ぐるぐると考えていると、ちょうどシルバーとレースが目につく可愛らしいカウンターを横切る。夢、女の子、可愛い、お姫様などのワードをぎゅっと詰め込んだ、フェミニン系代表格のコスメブランドだ。花瓶を象った香水から香る匂いは、ずっと嗅いでいたいくらい自分の嗜好にぐぐっと刺さった。
ちら、と自分は目移りするも、空却さんの足はぴたりとも止まらない。センターに並ぶコスメすらじっくり見ることもできずに、カウンターの横をそのまま通り過ぎていく。たしかに、カウンターは少し人が多かったので、今見ても見づらいだけかな。一周回った後に少し寄ってみよう。
自分は名残惜しく後ろを振り返りながらも、空却さんについて行く。そして、今のカウンターに見向きもしなかった空却さんに、自分はこそこそと尋ねた。
「空却さん、ちゃんって小さい頃、お姫様に憧れてたりとかしました?」
「はあ? あいつ、ガキん時に木ぃ登って『ピクニックー』とかほざきながらタッパー持ち込んで握り飯食っとった女だぞ」
「姫に焦がれるとか万一もねえわ」そう言って鼻で笑いながら、空却さんの足はやはり一定の歩調を刻み続ける。えぇー……見た目もすごく可愛いし、あそこのリップは刻印もできるしで、結構有力候補だったんだけどなあ……。
でも、送り主の空却さんがお気に召さないのであれば仕方がない。自分は心を入れ替えて、再び気を引き締める。まだフロアの三分の一も見てないし、ランチまで時間もたっぷりある。冬の新作で出たばかりのコスメに自分も目を輝かせながら、ちゃんのプレゼントをゆっくり探すことにした。
それからも結局、数あるコスメカウンターを通り過ぎても、空却さんの足がその正面で止まることは一度もなかった。
空却さん、ちゃんと見てるっすか? と何度尋ねそうになったか分からない。一応、ちらちらとカウンターに目配せしているみたいだったけど、それだけでこのフロアに溢れ返るコスメの中からたった一つを選び抜くのは至難の業だ。
それに空却さん、コスメはネイルにしかあまり興味ないみたいだから、化粧品に関してはほぼ初心者と言っても過言じゃない。そんな人が現物を手に取らずに決めるなんて、もはや神の域だ。もしかして、ここでも仏様の声みたいなのを聞いてたりするんすかね……? さすがの仏様も最先端のコスメ事情は把握しきれてないと思うんすけど……。
そうこうしているうちに、最初に歩き出した地点がだんだんと迫ってくる。やっぱり、空却さんを引っ張ってでもどこかしらのカウンターに連れていくしかないんすかね……。でも、こういうのは空却さん自身が選ばなきゃ意味がないし――そんなことを悶々と考えていると、フロアの空間に身を浸してから初めて、空却さんの足がとある場所でぴたっと止まった。
「……空却さん?」
呼びかけても応答がない。空却さんはいっこうに動じず、とある一点だけをじっと見つめている。自分もまたその視線の先を辿ってみると、明るいターコイズブルーの背景に白とピンクベージュの花が咲いているコスメカウンターがぱっと映った。
偶然かと思って、自分は再び空却さんの目を見る。まるで縫い付けられたように離れない視線――全然偶然じゃなかった。これはもう穴が開くレベルでガン見してるっす。
「あそこのブランド、猫とお花をモチーフにしてるんすよー」
「ふーん……」
「たしか下地が一番人気ですけど、パケとか小物には猫のイラストが入っててすごく可愛い――ってあれ、空却さん?」
今までの無関心ぶりはどこへやら。空却さんはなんの躊躇もなくカウンターの奥へずんずんと入っていく。よかったぁー……女の子ばかりのところには気恥ずかしくて入れないかと思いましたー……。杞憂に終わったこれを空却さんに言うと手か足が飛んできそうだったので、誰に言うこともなく自分のお墓までしっかり持っていくことにした。
他のお店と比べると、ここのコスメカウンターは比較的空いていてとても見やすかった。でも、全くお客さんがいないわけじゃなくて、空却さんと自分がカウンターに並ぶコスメサンプルをじっと見つめていると、他のカウンターに立っていた女の子の視線をちらちらと集める。なんなら、隣にある違うブランドのカウンターにいる女の子達からも注目を浴びる。ふふふ、気持ちは分かるっすよ。空却さんももちろんかっこいいっすけど、今日の自分も化粧ノリはばっちりで、服装もここ最近のお気に入りを着てきたんで。悪意のある陰口以外なら、友達同士とのひそひそ話もウェルカムっす。
「空却さん。ちゃんのプレゼント、ここにするんですか?」
「これ以上ぶらぶら見とっても仕方ねーだろ」
たしかに。時間ももうお昼近くになるし、もう一周回るにはフロア内には人が増えすぎてしまった。空却さんの興味を引かれるものもなかったようなので、このまま二周目に挑んでも同じ結末を辿るだろう。
ブランド独特の匂いが自分の鼻腔を密やかに満たす。なんとなく空却さんの家の匂いに近いものがあるような気がして、背後からこっそり空却さんの服の匂いを嗅いでみる。あ……やっぱりちょっと違う。コスメの方がなんとなく品があって、なんだか色々な方面に謝りたくなってしまった。
「わあ~っ! リップの新色、たくさん出てるみたいっすねっ!」
「似たような色ばっかだな」
「えぇっ。全然違いますよ~。ほらっ、これとかよく見てください!」
「おい……。これ、品番ごとにいちいち名前付いとんのか」
「そうっすよ! 色名と番号じゃなくて、おしゃれなワード同士を足して名前にするのが粋なんですよ! 自分、こういうの大好きっす!」
「けったいなだけだろ」
「まあまあそんなこと言わずにっ。あっ、空却さんっ、もしもリップを買うなら一緒にリップケースも買った方が――」
「お客様」
ひえっ。
一番最初に目についたリップコーナーで空却さんとはしゃいでいたら、一人のBAさんに声をかけられてしまった。ど、どうしよう。自分の声煩かったっすかね……っ?
よくよく周りを見れば、さっきよりも多くの女の子の注目の的になっていることに気づいた。それはそうだ。ただでさえ男二人で、一人はV系、もう一人はヤンキーみたいな風貌(空却さんごめんなさい)で、ナチュラル系ブランドコスメのカウンターでわちゃわちゃとお喋りしているのだから。いや、ほとんど自分がテンション上がって話してただけなんすけど……。ど、どうしよう、このまま出禁食らっちゃうっすか……!? 自分はいいっすけど、せめて今回の主役である空却さんだけでも――ッ!
「う、うるさくしてごめんなさ――ッ!」
「何かお探しでしたか?」
へ。ハープの音ような優しい声色に、自分の危機がさらさらと去っていく。ミラソフィアから降る一億の星が瞬いた瞬間、世界は七色の光に包まれ幸福なる輪廻の輪に乗った――って、さすがに言ってる場合じゃないっす。
「何かお手伝いできることがあれば伺いますよ」そう言って、にっこりと笑んだBAさんを見て、あ……この人良い人だ、と自分は漠然と思った。すると、かちッ、と自分の中でスイッチが入る。右手を反射的に顔の前に掲げると、頭の中から文字の羅列がみるみる生まれては喉の奥で昇華されていった。
「はーっはっはッ!! クリザンテームの女神に選ばれし巫女よ! この熟れた果実達の中から我が師の愛し君に捧げる宝物を――ッ、あぃたぁッ!」
「女への贈物を見繕いたいんだが」
空却さんの言葉を受けたBAさんは、「かしこまりました。そういうことでしたらお任せください。お求めのお品物はリップでよろしかったですか?」と尋ねる。すると、空却さんは要領の得ない顔で「あぁ」と頷いた。自分は空却さんに蹴られた腰を撫でながら、手元にあったカルテに何かを書き込んでいるBAさんの姿を目に映す。わぁ……なんかこう、できる女の人っていうオーラがバンバンと出てるっす。
「ご希望のお色味はございましたか?」
「特にねえ」
「では差し支えなければ、お相手のことについていくつかお伺いさせてください。お写真がございましたらそちらでも構いませんが……」
「写真ねーから口頭でいいか」
あ。自分、このあいだちゃんとツーショ撮った時の写真がありますよ。そう言おうと思ったけど、空却さんから見たちゃんのイメージがとても気になったので、その口は閉じておいた。
あと、ちゃんと数十年の付き合いになる空却さんが持ってないものを、会ってまだ数ヶ月の自分が持ってるっていうのは、ちょっと罪悪感というか……あとでまた空却さんに睨まれるやつじゃないっすか。
「普段お相手が着ているお召し物のお色味を教えて頂けますか」
「あー……森みてえな色が多い」
「落ち着いた色を着ていらっしゃるんですね。では、お相手の全体的な雰囲気などは」
「ぼさっとしててとろい」
「のんびりとした女の子なんですねぇ」
すごいこのBAさん……。空却さんのディスをいい感じの言葉に言い換えてる……。もしかしてラップの才能があるのでは? それに職業柄なのか、空却さんに何言われても全然動じてないっす。ものは言いようなんだなと痛感することができた。
質問を終えたBAさんはカルテの書き込みを止めて、カウンターに並んだリップをすっと指で追いながら、途中、目当ての色があると水を弾くようにすぐさま手に取って、横一列に並べていく。
そうして並べられたリップは計四本。BAさんの手によって順番に蓋が開けられる様を、空却さんはじっと見入っていた。
「当ブランドのリップはお色味の展開が豊富なので、色系統別に一色ずつ選ばせて頂きました。気になるお色味がございましたら、お手につけてご試用くださいませ」
ようやく腰の痛みが緩和された自分も、リップの繰り出し口から覗いた四つの色を見てみる。左からオレンジ、ブラウン、レッド、ピンクの四色。どれも暗すぎず派手すぎず、どこか自然色を連想させるカラーばかりで、ちゃんによく似合いそうだ。あの質問だけでこんなにも的確な色をチョイスできるなんて……さすがはプロ。ヴィジュアル系として自分も見習いたい。
すると、早くも空却さんの手がリップに伸びる。右から二番目のものを取ると、自分の手の甲にすっ、と一本の線を引いた。引かれた線をしばらく見つめるも、すぐに顔を上げてBAさんに向かって口を開いた。
「これよりも明るい色は」
「はい。ございます」
BAさんはそう言うと、カウンターからまた新たなリップを一本取る。蓋を取って空却さんに手渡すと、空却さんはさっそくさっき引いた線の隣にまた新たな線を生み出した。
自分も空却さんの手元をまじまじと覗いてみる。新しく引かれた線は、さっきの色よりも明度と彩度が高くて、ぱっと目を奪われてしまう。透明感のある紅葉色に、「きれーですねぇ……」と空却さんの隣で小さく歓声を上げた。
「秋らしいお色味ですが、ナチュラルな発色なのでオールシーズンご使用頂けるかと」
BAさんの付け足しを聞いているのかいないのか、空却さんは「じゃあこれで」とあっさり即決してしまった。は、早い。BAさんのカウンセリングが始まってからまだ五分くらいしか経ってないのに。でも、このまま悩んでいても空却さんが選んだ以上の色はないと自分も思った。BAさんも空却さんににっこりと笑んで、手元に出したリップをてきぱきとカウンターに戻していく。
「ありがとうございます。在庫を確認してまいりますので、少々お待ちください。他にお買い求めのお品物はございますか?」
「あー、あとこれも」
空却さんが腕を伸ばして手に取ったのは、リップの横にちまっと並んだリップケースだった。アイボリーカラーに花と猫の柄が描かれたものをBAさんに見せると、彼女はまた微笑みをいっそう濃くして、お店の奥に引っ込んでいった。
く、空却さんっ、さっきの自分の話聞いてくれてたんすね……っ! じぃん、と隣で感動している間に、空却さんはクレンジングに浸されたコットンで手の甲をごしごしと拭っていく。カウンターの横にあった使用済みコットン入れの蓋を開けて待機していると、我慢できなかった自分の唇はぱっと開いてしまった。
「いいのが買えてよかったっすねっ」
「そーだな」
「ところで空却さん、どうしてあの色選んだんすか?」
「知るか。あんなん感覚だろ」
「それで赤ですかぁ~」
「……なんだよ」
「なんでもないっす! いいっすよね! 最近は赤リップが流行ってますし!」
にまにまとした笑みが止まらない。なんとか真顔に戻そうとするも、頬の筋肉が固まってしまって自分の言うことを聞いてくれなかった。空却さんは使い終わったコットンを使用済みの入れ物の中にぽいっと放ると、自分の満面の笑みに気づいたようで、きっ、と自分を下から睨みつけた。
「だからなんなんだよっ」
「楽しいなあ~と思ってっ」
「はあ? こんなとこ疲れるだけだろ。早よ出てえわ。あと腹減った」
「自分もっす~」
その後、BAさんはリップとケースの入った小さなショッパーを空却さんに手渡して、お店を後にした自分達に深々と頭を下げた。ベージュとブルーの花が咲いたデザインで、空却さんの手元に渡ったショッパーはかなり居心地悪そうにしているけど、それがちゃんのところまで運ばれた時には、その苦労も浮かばれることだろう。
ちゃん、絶対喜ぶだろうなあ。もちろん、リップとケースじゃなくて、空却さんに何かを貰ったことに対して、だ。空却さん、どんな感じでちゃんにリップ渡すんだろう。あ……でもその前に、泣かせたことに対しては一言謝った方がいいと思う。
未だに笑みが引っ付いて取れない自分を見かねた空却さんは、またしても自分の腰をどすっと蹴った。「ぃ、いたいっすよお……」「お前がにまにましとんのが悪い」理不尽の極み。膝かっくんよりは全然いいですけど、さすがに同じ場所を二回はきついっす……。
メイエキで美味しい和食ランチを食べた後、空却さんとあれこれ駄弁りながらメンズのお店を見て回っていたら、あっという間に十七時近くになっていた。最近は夜も短くなってきて、こんな時間でも空はやや明るい。自分達は地下に潜って電車を乗り換え、そのままオオスの駅で降車。空却さんの足はお寺には向かわずに別の道を辿っていった。
自分も歩いたことのない道だったので、空却さんの隣をせかせかと歩くのに必死だ。古い民家が立ち並ぶ住宅街の中、一際横に長い平屋が見えてきて、自分は「あ……」と小さく声を上げた。
「空却さん、あそこって……」
「あいつが働いとる店」
自分を見上げもせず淡々と言葉を運ぶ空却さん。平屋の前に着くと、空却さんは引き戸をガラガラッ、と勢いよく開けた。そ、そんな乱暴に開けなくても……。せっかくのお店の静謐な雰囲気が台無しっす。
チリンチリンッ、と大きくベルが鳴った店内は、珈琲と檜の和やかな香りで自分達をふわっと出迎えてくれる。そしてホールにいたスタッフさんは全員着物姿だった。
わあ……ここが噂の。内装は良い意味でこじんまりとしていて、カウンター棚に並ぶ珈琲豆は、獄さんの事務所で見たことがあるものもいくつか置いてある。スタッフさん達も着物を崩れさせたりせずにしっかりと着付けていて、二足のわらじでもかなり本格的なんだなあ、と心の中で感心した。
「いらっしゃいませえ~。何名様――って、あらぁ?」
カウンターに立っていた人――もしかしてオネエの人かな……? 男の人の顔に女物の着物を纏ったその人に空却さんは目もくれず、頻りにきょろきょろと店内を見渡すばかりだ。ええ……そのまま無視しちゃうんすか。
「あれって、初詣の時の赤髪僧侶?」「うわ、こうして見るとマジでヤンキーじゃん……」「でもめっちゃ可愛い顔しとる~」そんなスタッフさんのひそひそ話も、空却さんは諸共しない。
しばらくして、店内にちゃんがいないことに気づくと、空却さんは明らかにぐっと眉を潜めた。でも、たしかにここにいないのはおかしい。ちゃん、喫茶店側のホール担当って言ってたのに。
「あなたがうちの開店時間に来るなんて、オープン初日以来じゃなーい?」
「あいつどこだ。少し貸せ」
「あら無視? ま、いいけど。ちゃんならさっき上がらせたわよ」
「は? 閉店までまだ時間あんだろうが」
「早退させたのよ。顔色も悪かったし、普段しないミスばかりしちゃうから半ば強制的にね」
オネエさんの言葉にちッ、と舌を打つ空却さん。もしかして二人は知り合いなんだろうか。あまり馬は合わなさそうだけど……。というか、えっ? 早退……? ちゃん、今朝までは自分と普通に話してたのに。お昼から急に体調悪くなっちゃったんだろうか。それとも、空却さんと喧嘩したことを気にして――?
「ちゃん、ここのところ元気なかったようだけど~? あなたのお迎えがなかったのと関係あるのかしらぁ~?」
「てめえには関係ねーよ。邪魔したな」
「行くぞ十四」空却さんがぶっきらぼうに踵を返したので、自分も慌ててその後を追うしかなくなる。ええっ、もう行っちゃうんすか。そんな一方的に――「ちょっと待ちなさい」
「あんまりうちの子いじめるんじゃないわよ」
「あ? 誰がお前の子だよ」
「女の子は繊細なんだから。ちょっとの優しさで笑ったりちょっとの乱暴で泣いたりするんだからね」
足を止めた空却さんが背後で受け止めた声は、女の強かさを物語っていた。オネエの人はそれ以上何も言わず、どこかやんちゃな小学生を見るような目で空却さんを見つめている。
「……わぁーってるつの」空却さんは自分にしか聞こえない小さな声でそう言った後、お店から抜け出すように敷居を跨ぐ。チリンチリン、と鳴ったベルは、最初に聞いたものよりもどこか寂しげに聞こえた。
元来た道を再び歩く。空却さんは今度もお寺とは真反対の方向に足を伸ばしていて、やはりここも、自分は通ったことのない道だった。自分が小走りしないと一緒に並べない大股かつ早歩きの歩調で、空却さんは整備が行き届いていない、がたがたしているコンクリートの道を突っ切って進んでいく。所々に通学路の標識が横目に映り、途中、部活帰りかと思われる中学生とも何度かすれ違った。
そんな中、自分はお店を出てからどうしても気になっていることがあった。
「空却さん、さっきオネエの人が言ってたお迎えって……?」
「あいつの仕事が終わったら、店まで迎えに行っとんだよ」
「ええっ!? 空却さんが!? 毎日ですかッ!?」
「拙僧もんな暇じゃねーわ! たまにだっつのッ!」
え? 二人って付き合ってないんすよね? ただの幼馴染っすよね? なのに、ちゃんの仕事が終わったら空却さんがわざわざ迎えに行ってあげてるんすか……? 二人とも、幼馴染であることすら否定しているのに、やっていることはまさに恋人のそれであることに気づいていないんだろうか。
そもそも空却さんって、たしか門限があるんじゃなかったでしたっけ。それを抜きにして考えても、二十時までに寝ないと朝(自分にとっては深夜だけれど)起きるのキツいって言ってたし……。ちゃん、いつも何時までお仕事してるんだろう……? そういう日、空却さんは何時くらいに家に帰ってるんだろう……?
でもきっと……ちゃんは門限の存在すら知らないんだろうなぁ。もしも知っていたら、空却さんに気遣ってお迎えを絶対に断るはずだ。空却さんもそれを分かってて、ちゃんにあえて何も言ってないんだろう。それって大丈夫なんだろうか。色々公になった時に、揉め事とかにならないといいけど……。
様々な杞憂が自分の頭の中でぐるぐると回る中、前方に見えた見覚えたる影が映る。ちゃんだ。あれは紛うことなきちゃんだ。「あ、」と、思わず自分は声を上げて、すう、と無意識に肺にいっぱい空気を溜めた。
「ちゃ――ッ!」
声を張ってちゃんの名前を呼ぼうとしたら、げしッ、と再び腰部を空却さんに蹴られてしまう。これで三回目だ。そろそろ腰骨の辺りがぴきッてなりそうだ。さすがに十代でぎっくり腰を患いたくないっすよ……。自分は涙目になりながら、いつの間にか自分の背後に回っていた空却さんを見下ろした。
「こっ、今度はなんすかぁ……!」
「道祖神に祈っとる最中に話しかけるバカがおるかよ」
「へ……?」
空却さんの言葉を受けて、自分は再度正面に向かってじっと目を凝らす。ちゃんは道の真ん中で立ち止まって、道の脇にある林の茂みにじっと手を合わせていた。よくよく見たらそこにはお地蔵さんがずらりと並んでいて、あ、と自分はぽかんと口を開けた。
ちろり、と自分は隣の空却さんを見る。波すら打たない静穏さを金色の瞳に宿して、ちゃんの祈りをじっと見届けていた。
――神様と仏様は何が違うんですか。前に、そんな疑問を空却さんに投げかけたことがあった。曰く、神様は願いを聞き届ける存在で、仏様は願いを叶えるための道を提示する存在らしい。最終的には、他力本願か自力でなんとかするかの二択だという話になって、空却さんはもちろん後者。前者なんてくそ食らえというふうに吐き捨てていた。
なら……今のちゃんは、空却さんの目にどう映っているんだろうか。ちゃんの祈りはとても長かった。そのままお地蔵さんになっちゃうんじゃないかというくらい、手を合わせたままそこから微動だにしない。空却さんもくそ食らえって言った割には、ちゃんの合掌する姿を目の奥に焼き付けんとばかりに見入っていた。まるで、二人の世界だ。空却さんの隣にいる自分はまったく別世界の住人で、二人しか見えないものがここにはたくさんある。それなのに、ジグゾーパズルのように断片的な悲しみばかりが地面に転がっていて、どこか切なく思えてしまった。
――それから何分経っただろう。ようやく顔を上げて、前方の道を歩き出したちゃん。一瞬見えた横顔は、今朝に自分と話していた時のものとはまるで別人で、意気消沈としていた。あんな落ち込んだ状態で、接客業なんてできるわけがない。
早く追いかけないと――そう思って空却さんを見るも、空却さんはその場から動かず、ぼうっと突っ立ってるだけだった。 えっ? なにしてるんすか空却さん。早くしないとちゃん行っちゃいますよ……?
「空却さんっ」
呼びかけても返事はない。いつも全身に纏っている覇気もなく、ただただちゃんの背中をぼんやりと見つめるだけだった。
……どうして。空却さん、ちゃんと仲直りしたいんじゃないんですか。ちゃんの手作りの鬼まんもあれから一人で全部平らげて、スマホ見ながらプレゼントもめちゃくちゃ悩んでたじゃないですか。あのリップだって、ちゃんのことを考えながら、色を決めたんじゃないんすか。
空却さんは、理由もなく何かを選択することは絶対にしない。でも、今の選択は絶対に間違ってるって、自分は胸を張って言える。たとえ今は正解になっても、後々の未来ではどうしようもない過ちに変わるという確信があった。
それに、もしも今ここにもう一人の空却さんがいたのなら、それでも男か、って空却さん自身に怒るはず。怒って、ちゃんにごめんなさいって謝るように促すはず。なら、弟子である自分の選択は、師匠の教え通りに動くまでだと、そう思った。
「ちゃーんッ!!」
自分の声で微かに体を揺らしたちゃんは、くるりとこちらを振り返る。すると、自分を見るやいなや、びくっ、と怯えるように体を震えさせた。初めてされるリアクションに、えっ、と自分も固まる。そこで、自分の隣には今空却さんがいることを思い出して、ああそっか、と合点がいった。ちゃん、空却さんによっぽどショックなことを言われたんだなぁ……。あんなにも震えて可哀想に――って、今の現状を作ったのは自分なんすけど……。
ちなみに、空却さんはもはや人間を見るような目じゃない眼差しで自分を見上げている。な、なんだろう……見上げられているのに、立場は虎と鼠くらいの差があるこの感覚。で、でもっ、ここでめげちゃダメっすよ自分……っ!
「くっ、くーこーさんがちゃんに話したいことがあるみたいっすよ~~っ!!」
「おいお前っ、何勝手に――ッ!」
「じゃ、じゃあっ! 自分はあっちにいるんでっ! お話が終わったら呼んでくださいっす!」
「はあっ!? おい十四ッ!!」
空却さんから逃げるようにして、自分は後ろにある数歩離れた塀の影にびゃっと隠れた。ちらっと二人を覗き見ると、こちらを振り返った空却さんが自分に、後で覚えとけよてめえ、というガンを飛ばしている。ひいいぃぃっ……今の空却さん、般若のお面の数百倍怖いっす……ッ!
一方のちゃんは、そろ、そろ、と空却さんのところまでゆっくり足を運んでいる。まるで、寝ている虎に近づくように。それを見た空却さんも、大股かつ早歩きでちゃんと引き合うように足を運び始めた。
そうして、お互いに腕を伸ばせば触れられる距離まで近づいた。遠くにいる自分ですら息の詰まるような無言の時間が続く中、最初に口を開いたのは空却さんだった。
「……体調、悪ぃんか」
「え……?」
あ、どうしよう。会話の内容が筒抜けで聞こえてしまう。耳を塞いだ方がいいかもしれないと思いつつも、もしも収集がつかなくなった時は自分が出ていくしかないと思ったので、あとでたくさん怒られる覚悟で、自分はそのまま固唾を呑んで二人を見守った。
「あ……。ぇ、と、ううん……。体は、なんともないよ……」
「このあいだのことか」
乱れる会話のテンポ。ちゃんは一つ一つの石畳をしっかり踏んで渡っているのに、空却さんは三つくらい飛ばして一気に渡るものだから、いっこうにお互いの調子が合わない。ちゃんはびくッと肩を揺らして、俯きながら視線を泳がせてしまった。
ああぁぁああ~どうして空却さんはちゃんと話す時はそんなにも喧嘩越しなんすか……! これじゃあちゃんじゃなくても怯えるに決まってるじゃないっすよ……っ!
「今更どういうつもりだよ」
「え……」
「隠れてこそこそとしやがって。十四に鬼まん渡しとっただろ。あれ全部拙僧宛なんじゃねえのかよ」
へ? なんでここでちゃんを責めるんすか? 自分が鬼まん食べちゃったのが悪いんすか? 全然気にしてなさそうだったのにめちゃくちゃ根に持ってるじゃないですか……っ!?
意味が分からない。自分は冷や汗が止まらなかった。みるみる青ざめていくちゃんを見て、さらに気分が悪くなる。見ているだけで胸が痛い。空却さんには後で自分が謝りますから、今は空却さんがちゃんに謝ってくださいよおぉぉ……!!
「そ、の……バレンタインも近かったから……何か、渡したくて……」
「クリスマスん時もそうだが、何年もあげとらんかったもんをなんで今年になって渡すんだよ」
「それ、は……」
「どういう風の吹き回しか知らねえが、もうお互いにガキじゃねえんだ。拙僧もお前の都合に振り回されたく――」
ぴた、と空却さんの声が止む。空却さんがそのまま言葉を続けていたら、自分が塀から飛び出すところだった。
鼻を、啜る音が聞こえる。か細くて、いたいけで、聞いているこっちの心臓がぐしゃっと潰れてしまうような悲しみに溢れている。ひく、ひく、と頻りにちゃんの肩が震え始めて、小さな体がさらに一回り小さく見えてしまった。
「ご、ごめんね……。め、迷惑、だったら、もう、わたさんから……」
水っぽくなったちゃんの声。ひぃッ、と思わず自分は上擦った音を出してしまった。
空却さんが、泣かせた。女の子を。それも二回も。しかも一方的に責められて、訳も分からないままちゃんは空却さんに謝らされている。な、なんですかこれ……。ただでさえ傷心中の女の子に追い打ちをかけるってどんな鬼畜の所業っすか……?
もうこれ以上は見ていられない――自分が塀から体を半分出そうとした時、突然空却さんがはああぁぁ……、と大きく息を吐いて、枯れた花のようにへなへなっとその場にしゃがみこんだ。
「……迷惑じゃねえ」
「え……?」
「あと……お前を責めてるわけでもねえ。ただ、理由が聞きたかっただけだ。切った理由も、いきなり始めた理由も、こっちは何も聞かされてねえ」
「ぁ……」
「正直、物なんざ貰おうが貰わなかろうがこの際どうでもいいが、いきなりあったもんが何の音沙汰もなくなくなったら、こっちだってもやもやすんだよ……」
髪をぐしゃっと握り潰しながら頭を抱える空却さんに、今度はちゃんがおろおろと狼狽えている。さっきまで空却さんに責められていたことも忘れてしまっているかもしれない。ちゃんも空却さんと同じくその場にぺたんと座り込んだ。
すん、すん、と強めに鼻を啜ったちゃんは、俯いている空却さんに声が届くよう、若干濡れぼそった声で懸命に言葉を紡いだ。
「く、クリスマスは……その……空却くんの欲しいものが、分からんくなって……」
「は?」
「しょ、小学校まではちゃんと分かっとったのに、中学に上がってからは、空却くんの趣味とか、好きなものとか、あんまり分からんくて……」
空却さんは色々と言いたげにしているも、消え入りそうになるちゃんの声をじっと聞いていた。空却さん、切られた理由はどういうふうに考えてたんだろう……。自分なら縁を切られたと過剰に思ってしまうけれど、空却さんはそこまで思わなさそう――あ、でもバレンタインのことはめちゃくちゃ気にしてたから、その可能性もなくはないかもしれない。
「あと……バレンタインは、空却くんのお返しが大変だろうと思って……」
「んなもん、拙僧が勝手にやっとっただけでお前は関係ねえだろうが……。あと、中三は色々ごった返しとって、その年はなんかもらっとっても誰にも返してねーよ」
「え……」
ちゃんが目を見開くと、空却さんもようやく顔を上げた。ぱちんっとぶつかる視線に、お互いが気まずそうにさっと視線を逸らす。あれ……? さっきまでの一触即発の雰囲気はどこへ……? こんなにも数秒で解決してしまう重量のものだったっすか……? 自分が記憶しているのはどうしようもないくらい深い悲しみの海に沈んでいる二人なんだけれども。
気がついたら円満になりつつある空気に、自分も呆然とする。それから二人は一言か二言話しながら、周りに纏わりついていた緊張をゆるゆると解いていく。ちゃんはすっかり怯える素振りを見せなくなって、空却さんもみるみる針を抜いた雀蜂と化していった。
……これはチャンスなのでは? 今以上にプレゼントを渡すタイミングはない。ぐぐっと拳を作って、自分は空却さんの手首に引っかかっているショッパーをじっと見つめる。色々と突っ込みたいことは満載だけど、この和やかな雰囲気にあやかって、改めてお互いの関係を修復するべきだ。さあ空却さん、早くちゃんにプレゼントを――
「やる」
「え……」
ずるッ、と自分の体が傾く。空却さんが発した短すぎる音に、危うく地面になだれ込みそうになった。やっ、“やる”ってなんすか……!? 言葉足らずにも程があるっすよ……!? ほらあっ、ちゃんも空却さんと渡されたショッパーを交互に見て困ってるじゃないですかあっ……!
「クリスマスの返礼がまだだったろ。鬼まんの分はまた今度見繕うから、今回はこれだけで許せ」
「こ、これ、もらってもいいの……?」
「こんなん拙僧が持っとっても意味ねえだろうが」
素っ気なく言い放つ空却さんに、ちゃんは目をまん丸にして、まるで天からの授かりもののようにショッパーをくるくると回して観察している。か、可愛い……。やっぱり、中身なんて二の次で、ちゃんは空却さんからの贈り物がとても嬉しいみたいだった。
そして、ちゃんはほう……、と熱っぽい息を吐いて、夢心地のような曖昧な声でぽつんと言う。
「デパコス持つの、生まれて初めて……」
「でぱ……は?」
空却さんは首を傾げる。そして、花びらがちらちらと舞うような微笑みを浮かべているちゃんに気づいたらしい。ぴく、と体を揺らした空却さんは、幾分か穏やかな口調でこう尋ねた。
「お前……この中身が何なのか分かんのか」
「え……? あ……何かまでは分からんけど、袋のデザインで、なんとなく……」
「……好きか。ここのブランドのもん」
「うん……。ずっと、デパートで売っとるコスメを買おうと思っとってね。特に、ここの猫ちゃんの絵がすごくかわいいから――」
うん……すきだよ
小さく放たれたその言葉は、遠くにいた自分でも思わずどきッとしてしまった。もしもこれ以上近くで聞いていたら、心臓が射抜かれていたところだ。ちゃんの真正面にいた空却さんはどんな気持ちだっただろう。じぃっと目を凝らして見てみると、空却さんは手を口元付近に持ってきていて、ぴくりとも動かないでいる。まるでメデューサに石にでもされたように。でも、それもあながち間違ってはなさそうだ。
「……そーかよ」
「こっ、これ、ありがとうっ。大事に使うねっ」
「拙僧は返すもん返しただけだ。礼を言われる筋合いはねえ」
「う、うん……」
「あと……このあいだは……少し、言い過ぎた」
流れるように本題に持っていく空却さん。なんとなくずるいと思いながらも、察しのいいちゃんはふるふると首を横に振った。笑顔の形は少し変われど、その口角はゆるりと上がったままだ。
「空却くんは……なにも悪くないよ。わたしこそ、ごめんね」
胸が裂けそうになる緊張と、頭がおかしくなる恥ずかしさ……そして、どうしようもなく体を揺さぶる歓喜。好きな人がいる女の子って、どうしてあんなにも可愛く見えるんだろう。ちゃんは空却さんしか見えていないし、空却さんも、今のちゃんに何かあったら身を呈してでも彼女を守るナイトに見えた。
あんなにも想い合っているのに、どうして二人は繋がらないんだろう。まるで、見えない壁が二人を阻むように存在していて、お互いがお互いを求めるように、壁越しに手が触れ合っていることにも気づいていない。見ていて、とてももどかしい。
第三者である自分が壁の壊せればいいのに、何十年という月日を経て強固になったその壁は、二人の軌跡を何も知らない自分一人では、どうすることもできなかった。ああ……自分はなんて無力なんだろう。下唇を噛み締めながら、少しでも長い間、あの空間が現実に戻らないように、自分はただ祈るばかりだった。
その後、空却さんはちゃんを家まで送って行って、再び自分と合流した時にはどっぷりと日が暮れていた。自分はこのままお寺に泊まる流れになって、久々に袖を通す和服に気分が高揚としていた。
そんな中……ちゃんと話してからすっかり口数の減った空却さんに、自分はおそるおそる尋ねた。
「空却さん……。空却さんはちゃんのこと――」
「それ以上言うんじゃねえ」
ばしゃッ、と冷水を頭からぶっかけられる感覚。はた、と唖然とする自分の他に言い聞かせる誰かがいるみたいに、どこか苦しそうな声色でこう言った。
「お前の目にどう映ってるか知らねーが、拙僧はあいつの進む先にある邪魔な石っころを退かすだけだ」
言っている内容は、きっと正しい。でも、その行動の善し悪しを測れるほど、自分は二人のことを何も知らない。空却さんのそれは呪いの言葉のようにも思えて、彼の四肢を雁字搦めに封じていた。
それでもきっと……ちゃんは囚われている空却さんの隣にいると思いますよ。どっか行けって言われても、きっと離れたりはしない。それだけは、なんとなく分かります。だって、ちゃんはあんなにも――「それに、」
「あいつ、好いた男いるからな。人の恋路を邪魔するほど拙僧は野暮な男でもねえし、んな資格も持ち合わせてねえよ」
「へっ? すっ、好きな人って――」
「分かったらさっさと帰んぞ」
空却さんは自分の腰を引っ掴んで、歩調を早めていく。さっきの緩やかな空気を振り切るようにして、空却さんと自分の足は、寺の方角へと真っ直ぐに伸びていった。
え……? ちゃんの好きな人って空却さんじゃないんですか? でも、今の言い方だと、ちゃんに好きな人がいるから、空却さんも出るところ出られないみたいな言い方だったような気もする。でも資格って……? ええー……? 一体どういうことだろう。こんなところにも、二人にしか分からない何かがあるのだろうか。もう分からない。分からなさすぎて、もどかしすぎて、自分の心臓がどうにかなってしまいそうだ。
嬉しいのか悲しいのか、それこそ、にっちもさっちもいかない二人の間にある深い溝をなくしてくださいと、百年分の祈りを捧げたくなった。
