Episode.4



 オオスは多様な文化が入り交じっていて、どこか混沌とした印象を受ける。日本はもちろん、中国、タイ、台湾、インド――ひとたび視線を散りばめたら、アジア系の店舗がぽつぽつと見受けられて、一歩歩ければ異国の地の匂いがする。
 なので、オオスは一概にその色を決められない。強いて言うならば、濃い色同士が一切滲まず溶け込まず、上手く混ざり合って不規則なマーブル模様を描いている――そんな概念的な紋様を頭の上にふわふわと思い浮かべた。

「うぅん……」

 そんなマーブル模様を為す色の一つ――には贔屓にしている古着屋がある。
 レディースからメンズ、ジャケットからボトムスまで幅広く揃うこのお店は、地元民もめったに知らない穴場だった。アクセサリーやバッグといった小物もちまちまと置いてある。ブランドの型落ち品がほとんどを占める中、全体的な品質は他の古着屋と比較しても新品に近いものなので、隠れ名店といってもいい。
 とにかく品数が多く、ハンガーラックにかかってあるものを全部見ようと思ったら、半日はゆうにかかる。一つ一つの服を取って見る暇はない。加えて、狭いフロアに敷き詰めるようにしてラックがぎゅっと密集しているので、じっとしていたら衣服に埋もれてしまいそうになる。
 足を止めず、フロアを一通りさらっと目を通す。そして、あとで気になった服だけを厳選していくのが、地元民流のこの店の回り方だ。

「(やっぱり、シャツは需要あるからすぐ売れちゃうんかなぁ……)」

 他店で買ったショッパーを肩にかけ直す。はスマホのスクショ画像を出して、今手に持っているメンズシャツとそれを交互に見比べていた。来店したはいいものの、フロアをさ迷って一時間弱。これだけ品数があっても、の理想と一致する服はなかなか見つからなかった。
 仕事着は着物。そして、休日は買い出し以外あまり出歩かないので、どうしてもおしゃれな服よりも安価で着回しがしやすそうものを選んでしまう。特に、今はシャツが数枚欲しい。丈はあればあるほどよく、長すぎたらベルトを使ってワンピースに、短ければ他のボトムスと合わせてオーバーシャツに……生地が分厚ければジャケットとしても使える。用途は幅広いので、何枚あっても困らないアイテムなのである。
 パルコや地下街の中に入っている店で買うよりも、こういった古着屋の方が店員さんにも話しかけられない。どぎまぎせずに服を見ていられるので、は好きだった。しかし、そちらに足を運べば、おしゃれな服はここよりもたくさんあるし、スタッフを観察すればコーディネートの勉強にもなる。
 わたしも、もっとファッションに詳しかったら、気後れせずにああいうお店に入れるんかなぁ。そこで買った可愛い服を着たら、今よりももうちょっと背筋を伸ばして歩けるんかなぁ。ビビッドな服を纏った背中を思い出して、はそれを振り払うように首を左右に振った。

「(……やめよう)」

 強いて言うならこれ、と思っていたシャツを、かしゃんと音を立ててはハンガーラックに戻した。店の出入口は今いる場所と真反対にあるので、最後にちらちらとラックを盗み見る形で、は狭い通路を歩いていった。少しだけ埃っぽいにおいが、の横を次々に通り過ぎていく。
 一通りどころか三通りくらいフロアを回ったし、諦めてサカエのメルサにでも行こうかと思っていたその時。曲がり角の死角から現れた人とどすんっ、とぶつかってしまう。体が大きくバウンドして、の足が一歩下がる。後ろにも人がいたらしく、反動でその人の足のつま先を少し踏んでしまった。

「っと……悪ぃ」
「あ……ごめんなさ――」

 ……前の人は、聞き覚えのある声だ。後ろの人にも謝ろうと振り返る前に、前方の声の主を理解してしまい、は反射的に顔を上げた。
 ――案の定。ぴしっ、と石像になったの体。前方には、このお店のショッパーを肩にぶら下げた空却がいた。

「くっ、空却く――」

 視界がぐわんと回る。空却に肩を片手で引っ掴まれて、目にも止まらない速さで前方に追いやられた。が二、三歩とよろけているうちに、空却がの前にずん、と躍り出る。さっきと今とすっかり立ち位置が逆転して、の目の前は空却の背中しか見えなくなった。
 あ……。今日は作務衣じゃないんだぁ……。着ているダウンはいつものものだが、下は緩いワイドパンツだ。きゅ、との胸が今日一番縮こまる。空却の私服の新鮮味を感じる一方で、は自分の肩に残る感触をじくじくと噛み締めていた。

「(どうしたんだろう……)」

 力が強かった。空却の手はもう離れているが、まだ彼の指が自分の肩口にくい込んでいるんじゃないかと錯覚くらい、強い力だった。苛立ちげで、余裕なさげで……その力が帯びている感情が頭から電流のように流れていき、今でもの全身をびりびりと痺れさせている。
 なにか、空却くんの気に障るようなことをしちゃったかな……。それともそれ以前から――が空却と最後に会った日から順繰りに思い出していると、空却が不意にこちらを振り返る。彼はと向かい合わせになると、そのまま鋭い眼光でこちらを見下した。

「……何やっとんだお前」
「ふ、服を見とって――」
「男物しか置いてねえここで何の服見る必要があんだよ」

 喉から振り絞るような、小さな声だった。声自体の芯は固いが、その周りに纏う声色はかたかたと震えている。空却の中でふつふつとしたマグマが溢れているのが分かって、は肩をしぼめた。
 しかし、そういう日もあるだろう。目当ての服が一つも見つからなかった今日のように、理由も分からず、ただただ空却の機嫌が悪い時に出会ってしまう日だって、これからもきっとある。
 だから……傷ついちゃかん。は空却の言葉に応えようと懸命に頭を回す。この調子だと、メンズの服を買いに来たと言っても、階を間違えたと言っても叱られそうな雰囲気だ。
 それなら、最初から嘘はつかない方がいい――そう思ったは意を決して口を開いた。

「め、メンズの服、買いたくて……」
「は?」

 あ……どうしよう。一瞬で涙腺が緩んでしまった。声の調子がとん、と抜けていて、怒りしか滲んでいない声色。心もとない鎖で繋がれている獣が空却の背後でぐるぐるとを威嚇している。あの鎖が切れたら、きっと泣いてしまう。空却が本気で怒ってるのを肌で感じ取って、は頭が真っ白になった。

「誰の」
「じ、じぶん、の……」
「なんでわざわざ男物から選んどんだ」
「さ……最近、こういう服が流行っとってね……。着回しもいいから、何着か欲しくて――」
「なら新品買やあいいだろうが」
「ふつうに買うと、ちょっとだけ高いの……。わたしも、中古とかあんまり気にしんから……いいかなって……」

 もう二度と声が出なくてもいいという気持ちで、必死に喉を絞る。自分がなんと言ったのかも分からず、の目の前はぐるぐると回っていた。
 ……しばらくしても上から返事が落ちてこなかったので、はゆっくりと顔を上げてみる。しかし、空却はこちらを見ていなかった。後ろ……つまりはが向いている方を振り返って、何かの様子を伺っていた。も空却の体を避けてちらちらと見てみるも、特に変わったものはない。あるのは大量の服と数人のお客だけだ。
 ……そういえば、さっきわたしの後ろにいた人はどこに行ったんだろう。突然現れた空却のことで頭がいっぱいで、は気にする余裕がなかった。それとも、靴の爪先のようなものを踏んだのは気のせいだったのだろうか。

「どんなのが欲しいんだよ」
「えっ……」
「服だ服」

 再びこちらを向いた空却が荒波のように言葉を打ちつける。びゃっと跳ねたの体。スマホを慌ててスワイプしながら、は刺激の少なさそうな言葉を頭の中で組み立てていった。

「え、と……。シャツが何枚か欲しくて――」
「色は」
「し、白とか、黒とか」
「サイズも大きけりゃいいってもんでもねえだろ」
「丈は――あ、この画像の……」
「スマホ低すぎて見えねえ。もうちょい上げろ」

 そう言うと、空却の気配がぐっと濃くなり、の右肩と頬が異様に熱を帯びる。ちら、と横目を駆使してみると、の肩付近に空却の顔があるのを一瞬捉えた。自分の目の高さまで上がったスマホ。空却は少しだけ屈んでそれを覗き込んでいて、はすぐさまきゅ、と視界を絞った。
 ……近い。今、自分が顔を動かしたら空却の顔の部位に何かしら当たってしまう。横を向いちゃかん……横を向いちゃかん……全神経をスマホに集中させながら、心の中でそう念じる。すると今度はスマホのスクリーンに触れている指が震えそうになって、は無意識に息を殺した。
 「ふーん……」耳元に降ってきた小さな音にぴくっと肩が跳ねる。空却の気配がじわじわと遠のいても、体に残る痺れは、の頭の回転を鈍くさせていた。
 顔を離して、背筋をぴんと立てた空却はしばらく何か考えた後、思いついたようにぱっと口を開いた。

「お前、今からうち来い」
「えっ」
「“えっ”じゃねえ。いーから来い」

 そう言って、空却はいつものようにすたすたと歩いていってしまった。その後を、慌てたの足がぱたぱたと音を立てて追いかける。
 ……なんだか、最近はこういうことが多い気がする。近すぎず離れすぎない、前と後ろの関係。そんな小さなことでも、まるで昔のように戻れたようでは嬉しかった。
 じわじわとあったまる胸に冷たい空気をいっぱい詰め込む。そのまま深呼吸をすると、熱が体に浸透していって、の頭の中は幸せのもやでぼんやりとした。

「……お前、よくここ来んのか」
「えっ……? あ……う、うん……」
「二度と一人でこの店行くんじゃねえ」
「え……」

 呆気にとられている間に、空却はの肩にかかっていたショッパーを攫った。理由を聞くにも空却の足が早くて、は追いつくのに精一杯だ。まるで、一刻も早くこのお店から出たいように。
 ……そろり、と。は空却の足元を見る。床を蹴る力は強いが、地団駄を踏むようなやけっぱちさはない。だから怒ってはない……ようだが、決してご機嫌ともいえない。やはり、自分が何かしてしまったのかもしれない。初詣で言ったことやったことを思い出しながら、はつきたくなった溜息をごくんと飲み込んだ。







 クソ親父に見つかると面倒だ――そう言って、空却はお寺の裏から住居に続く道を通る。途中、何人かの修行僧の人を目撃するも、空却はその視界から上手く外れて、誰にも見つかることなく住居の玄関口に立った。鍵穴を通すと、彼はを先に家の中に入れた。
 長く続く廊下を歩き、が通された部屋は客間だった。大きな机が部屋の中心に静かに佇んでいて、他は掛け軸と一輪挿ししかない、趣のある部屋だ。
 懐かしさを覚えた気配が、の首筋から背中をすうっとなぞる。小学校の頃、カヨが入院していて家で一人になる時は、空却の家にお邪魔しては、この部屋で彼の隣に並んで一緒に宿題をした。夕方になると灼空が呼びにきて、そのまま夕飯もご馳走になった。
 小さい頃はサバが苦手で、塩漬けでも味噌煮でも食べるのに時間がかかったものだが、「食べのこすっつーことは、こっちの都合で奪った命をないがしろにすることと同義だ」と空却がの横でしきりに言って、無理やり……ではないが、の手に箸を持たせてくれた。あの時に空却がああ言ってくれなかったら、自分は今もサバを食べれないままだったと思う。寺に来るとこうした昔の話を一つか二つ思い出してしまって、未だ思い出に縋っている自分が、はまた嫌いになりそうだった。
 すると、空却はかけていたショッパーを部屋の隅に置いて、ずんずんと中に入っていく。押し入れをスパァンと開けるやいなや、そのまま中腰になって押し入れの一段目に潜り、そこから大きな葛籠を次々に出していく。その様子を見ながら、も部屋の中に入って、適当な場所でそろそろと足を折る。バッグは膝の上に乗せておいて、こじんまりとした空間に自分の体を収めた。
 畳の上にどんと置かれた葛籠は三個分。押し入れからむくっと出てきた空却は、葛籠の蓋を無造作に開けて畳の上に放り投げた。そして、は葛籠の中身をおそるおそる覗き込む。すると、どうやらその中身はすべて服のようで、飛び込んできた極彩色には目を丸くした。

「これ……」
「昔、拙僧が着とった服だ。親父に整理するなり捨てるなりしろっつって口酸っぱく言われとったが、案外使い道もあるもんだな」
「使い道……?」
「あ? お前が欲しいって言ったんだろうが。シャツなら高校ん時に買ったやつが腐るほどあっから、好きなだけ持ってけ」

 ……無言の時間が部屋を支配する。呆然としたの反応が気に食わなかったのか、空却はぎろッと金色の目を鋭くさせた。

「お前……誰が着たかも分かんねえ野郎の服は着れんのに、十数年顔馴染みの拙僧のお下がりが着れねえって言うわけじゃねーよな」
「そ、そういう意味じゃなくて……っ」
「じゃあなんだよ」

 これは、黙っていても流してくれないタイプの沈黙だ。は葛籠を一瞥して、畳の上で胡座をかいた空却をそそ、と見上げる。

「これ……ぜんぶ、空却くんが着とったんだよね……?」
「だからそうだっつってんだろ。つか、拙僧以外にこの家の誰が着るんだよ」
「わ、わたしが着てもいいのかなって……」
「よくねえ服をわざわざ押し入れから出すかっつの」

 堂々巡りのやり取りに空却の機嫌がまた冷えたものになる。はい以外の返事をしなければいけない雰囲気になったのを察して、観念したは深々と頭を下げた。

「い、いただきます……」
「最初っからそう言っとけ。あと、金いらねーからその手仕舞え」

 そう言われて、はバッグに伸ばしていた手を慌てて引っ込める。それを見送った空却はふん、と鼻を鳴らし、頬杖をついてそっぽを向いてしまった。
 やっぱり、もらっちゃだめなんじゃないかな……。いただきます、と言ったものの、いただく心の準備がまったくできていないは、空却の反応を先読みしすぎてしまって、そこから中々手足を動かせないでいた。
 ――不意に、外から灼空の怒声が聞こえてくる。窓は全部閉まっているのに、家の中までぎぃんと響く声量だ。カヨが亡くなった時に優しくて温かいお経を読んでくれた声と同じだと思うと、は少しだけびっくりする。
 音は上手く聞き取れなかったが、きっと空却のことを呼んでいるのだと思った。いつ彼が戻ったことに気づいたのだろうか。すごいなぁ、とが感心するやいなや、ちッ、と空却の口から弾かれた舌打ちに、はびくりと肩を震わせた。

「帰って早々うっせェジジイだな……」
「おじさんのところ、行ってきてもいいよ……?」
「……誰か来ても開けんじゃねーぞ」

 を一瞥した空却は、髪を片手で掻き回しながら面倒くさそうに部屋を後にした。残されたのはと三つの葛籠。ほんとうに……見てもいいのかな。ちょろっと視線を這わせた葛籠は、さっき見た時よりもなんだか神々しく見えてしまって、竹や藁で編まれたそれに触れるまでにも、かなりの時間がかかってしまった。


 葛籠の中身は、やはりビビットカラーや目立つ装飾がついているものが多かった。その中でが着れそうなものを四着くらい厳選して、はいったん葛籠に蓋を被せた。

「(膝、隠れちゃうんだ……)」

 内一つのシャツを自分の体に合わせて、片足を上げながらその長さを確認する。さすがにワンピースとして着るのは心もとないが、下に何かを履いて、トップスとして使うにはいいかもしれない。例えば、今履いているショートパンツのような。
 合わせ終わった服は丁寧に畳んで隅に置き、はそれからも二着目、三着目と順々に自分の体と合わせていく。その時に頭に浮かんだのは、自分と空却との目線が合わなくなった頃のことだった。
 何年生のときだったかはもう忘れてしまったが、最初は同じくらいの身長だったのに、ある日を境にどんどん差がついてしまって、ついに、が見上げなければ空却の金色と交わることはなくなってしまった。その時は、かなしいというより、さみしいの気持ちが上回っていた気がする。今日やった科目、宿題の数、手に持っている副教科の荷物――学校が違うぶん、その他のところで“いっしょ”を感じることができたのが、なによりも嬉しかった年頃だった。
 空却の変化を感じたのは、それが最初。体つきから始まって、次は声。その次は立ち振る舞いで、そのあとは――

「(……なにも、変わってないや)」

 まっすぐで、つよくて、かっこよくて……昔のままの、やさしい空却くん。
 最後の四着目。これはメンズの中でもオーバーサイズのシャツようで、合わせるにも少しイメージがしづらかった。生地は薄いので、春か夏のワンピースとして着れるかもしれない。しかし、試しに一度くらいは――少しだけ下心を含んだ企みが思い浮かんで、はすぐに頭を振る。でも、またぽやぽやとその考えが思い浮かんでは、の思考をじわじわと支配していった。

「(すこし……くらいなら……)」

 空却が戻ってくる気配はまだない。今朝の寝ぼけた自分が見たらびっくりする速度で、は今着ているトップスをぐっと脱ぎ、薄手のインナー一枚になる。代わりに、持ってきたシャツに腕を通して、男性用の前ボタンをぎこちなく閉めていく。お腹周りがぶかぶかとしてしまったのでショートパンツも足から抜いた。
 襟とお腹周りを整え、長い袖をいくつか折る。ふう、と一息ついて、シャツの生地を撫でながらぼんやりと思う。やっぱり、ちょっと借り物みたいかな。でも、丈はワンピースにはちょうどいいかな。ちょっとだけすっきりしたシルエットだからベルトしなくてもいいかな。これを昔空却くんが着てたんだ――その瞬間、頭の中でけたましく警鐘が鳴って、の全身の毛がぶわっと立った。

「(わああぁぁ……ッ!)」

 一度意識したら止まらない。においが……匂いが、本物の空却くんだ。どうしよう。急に近くに彼がいるような気持ちになって、はへたんとその場にしゃがみこむ。葛籠の竹の匂いに隠れている匂いは、少しだけ近づいた時に今の空却から香るにおいそのものだった。体の皮膚がぞわぞわとして、は思わず両腕を抱く。お腹の中にあるものが全部下に落ちていく感覚がして、うぅ、と小さく唸った。落ちつく、安心する、恥ずかしい、ずっとこうしていたい……だめ、はやく、ぬがんと……頭では分かっているのに、催眠術にかかってしまったように、体は言うことを聞いてくれなかった。
 すると、玄関口の引き戸がピシャンと音を立てたのが聞こえて、ぱちんっと術が解ける。どすどすと聞こえる大きな足音に、はさあっと全身から血の気が抜ける。空却の足音だ。
 だめ、どうしよう、まだシャツ着たままなのに――が慌ててボタンに指をかけようとすると、「おい。入んぞ」と襖の奥から声がかかった。

「えッ……? あっ、空却くんまッ――!」

 勢いよく開いた襖。法衣に着替えた空却との沈黙の時間がやって来て、は紅潮する顔を止められないでいた。
 空却の目が、ビー玉よりも小さく丸くなっている。部屋に入ろうとせずに怒鳴りもせず、その空間だけ時間が止まったように静止している。ああ、どうしよう、本当にどうしよう。きっと怒ってる。ただでさえ怒っていたのに、またさらに怒らせてしまう。耳まで真っ赤になっているであろう顔を両手で抑えながら、弁解を諦めたは空却が嫌いな言い訳をつらつらと並べてしまった。

「ご、ごめんね……っ。サイズが分からんかったから、一回だけ着てみたくて……っ、す、すぐ脱ぐからっ、本当にごめ――」

 不意に、はああぁぁ……、と大きな溜息が飛んでくる。え……? が空却を見上げると、そこには片手で目を覆ってその場に蹲っている彼がいた。

「く、空却くん……?」
「今喋んじゃねェ……」

 その他にも色々言っている気がしたが、の耳に届いたのはそれだけだった。何かに耐えるようにして、しばらく動ぜず、空却は顔を上げることもしなかった。もシャツを脱ぐことができずに、そこでただ腰を下ろしているだけになる。
 ……それから、数分が経つ。独り言が止んだ空却はよろりと立ち上がった。金色の目は座っていて、その仕草からは何の感情も読み取れない。すずやかで、ひそやか。貝も砂も攫わない、波打ち際の音が幻聴として聞こえる。まるで、中学の時に髪を全部剃り上げた後の彼のような落ち着き具合だった。

「……気に入るもん、あったか」
「う、うん……」
「なら、これに全部仕舞え。葛籠は拙僧が戻すから放っておいていい」

 空却は自分が買った服をショッパーから全部出して、空になったそれをに寄越す。袋を受け取ったがせかせかと服を仕舞い出すと、空却は押し入れに潜って葛籠を一つずつ仕舞い始めた。
 勝手に服着たこと、怒ってないのかな……。シャツを手に取りながら、押し入れの中で葛籠を足で蹴って奥にやる空却を、はちらちらと窺う。
 空却くん、一回もこっちを見んかった……。やっぱり怒ってるんかな……。話したくもなくなっちゃったかな……。シャツ、早く脱がんと――しかし当たり前の話、空却がいるとシャツを脱げないので、は空却が怒っている元凶をいっこうに取り除くことができなかった。
 服を仕舞い終わって、葛籠も元の場所に戻る。が立ち上がった時には、自分が着ていたトップスとショートパンツだけが畳に残っていた。それが空却の目にぴたっと止まった時と、が立ち上がったタイミングはほぼ同時だった。

「おいお前、今下――」
「え……?」

 空却の声に耳を傾けようとしたその時。誤って服を入れ終えた袋を踏んずけてしまって、の足裏がつるんと前に滑る。畳に尻もちをついてしまい、その衝撃で袋から出た衣服が再び散乱した。
 ……一瞬、ふわっとお腹周りが涼しくなる。肌蹴たシャツの裾が太腿の付け根まで晒していて、黒のタイツ越しに薄く浮かんだ白に、言葉にならない羞恥がの腹の奥からせり上がった。

「ごっ、ごめ――ッ」

 ――下半身に、温かい何かが覆う。それが袋に入っていた服の一枚だと分かる頃には、黒のタイツはすべて布の下に隠されていた。
 畳に膝をついた空却。そっぽを向きながら、足にかかった服から手を離す。一連の出来事が秒速で通り過ぎ、の中でせり上がっていたものもすぐに消えてなくなった。
 ありがとう――お礼を言おうと、空却の顔を見ようとして、はすぐに後悔した。

「(ぁ……)」

 蜂の針のような、虎の牙のような……底冷えする金色を向けられている。心臓を射抜いた眼光が、の手足をも捕らえて離さなかった。さっきまで聞こえていた波の音はいつの間にか消えている。
 心当たりがありすぎて、何が根源なのか、もう何も分からなかった。思わず、空却がかけてくれた服を両手で握りしめると、横からにゅ、と腕が伸びてきて、その手はそのままの肩をがしッと強く掴んだ。
 ……獣を繋いでいた鎖が、切れた音がした。声を上げそうになった衝動を、は反射的に飲み込む。その間にも、ぐぐ、と空却の指の腹に力が込められる。お店の時とは比べ物にならないくらい、痛い。肩口に食い込む爪が、とても悲しい。悲痛で顔をゆがめても、空却はお構いなしに、の肩に指を沈ませた。

「……お前、さっきの古着屋で背後の男に狙われとったの、気づいてなかっただろ」
「ぇ……」
「クソ汚ねー手が伸びとった。あのままお前の口を塞ぐつもりだったんだろ。あのタイミングで拙僧とぶつかってなけりゃあ、今頃どっかに連れ込まれとったぞ」

 空却の声はわなわなと震えていた。まるで、鎖から外れた獣を上から押さえつけているように。爆発寸前の爆弾をお腹の中に沈め、それを未だ抱えている空却を見て、はおぼつかない思考で記憶を辿った。
 ……たしかに、の後ろに人はいた。なら、つま先みたいなものを踏んだのは勘違いではなく、空却が言っている通り、本当に――
 瞬間、ぞわッ、と首筋に恐怖が這って、は背中を小さく丸めた。

「そりゃあ、あんなぼさっとして歩き回っとったらいい標的だよなあ?」
「くっ、空却く――」
「どうせスマホ見てばっかで周りに気ぃ遣ってなかったんだろ。あんな男ばっかの場所でアホ面しやがって」

 図星だった。服に夢中で、周りを気にしている余裕などなかった。そもそも、危険という意識も何も持たずに来店していたことに気づいて、はさっと青ざめる。空却に気づかれないように、それだけはそっとお腹の奥に収めた。
 知られてしまったら……今度こそ……今度こそ、本当に、きらわれてしまう。それだけは、ほんとうにいやだ。

「今も無防備にほいほい肌晒してんじゃねーぞ……。勝手に襖を開けた拙僧にも非はあるが、男が帰ってくるって分かっとる部屋でんな格好しとるお前も大概意味分かんねぇ」

 “あん時”からなんも成長してねえな。お前
 地獄の表面を静かに撫でたようだった。何年も眠らせたままで、ようやく忘れかけていた過去の記憶が、じわりと頭の片隅から滲み出した。
 ――その先は、思い出したくない。すると、掴まれていた肩がぐッと前に引っ張られる。とすん、と空却の肩口にの肩があたって、空却の首が前に伸びた。嫌な予感がして、離れなければいけないと分かっていたのに、相手が空却だとされるがままになって、の体は硬直して動かなくなった。
 ごめんなさい、もうあのお店にはいかないから、これからは後ろに気をつけるから、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい――胸の中で渦巻く謝罪は、の口まで上ってくることはなかった。の耳に空却の息の音が直に入りこんで、背中がぞわッと騒ぐ。鼓膜に体中の神経が集中して、怒気を孕んだ喉に、空気が入り込む音を聞いた。

「なあ……あん時に拙僧が言ったこと忘れとるなら、もう一度懇切丁寧に言ってやろうか。漢字が弱えお前にとっちゃあ、説法よりもああいう直接的なもんが一等きくだろうぜ」

 生まれて初めて、呼吸の仕方を忘れた日。フラッシュバックした光景が、音が、感触が、衝撃が、の頭の中を侵食するように埋めつくした。もう、まっくろだ。ぞくん、と心臓が脈を打ち、海の中に潜ったように、視界が水で滲んでいく。

 ――「くッそ気持ち悪ィ女だな。お前」

 ぷつん、と細く、短い音がした。
 蜘蛛の巣に捕らわれた蝶の触覚が千切れる。綺麗な羽、胴体、脚、そして最後は頭……ひとつ、またひとつと丁寧に蝕んでいって、最後に残ったのは黒い滓。舌で転がしても苦いだけのそれを、どうして今でも思い出してしまうんだろう。一粒の涙が、ひどく重たい。そして、あつい。いたい。濡れていく頬がひりひりと痺れて、皮膚を焼いているようだった。
 ひく、ひく、と喉を振るわせると、涙は雨のように次々と落ちてきてしまう。の顎を伝ったそれは、空却の法衣をぽたぽたと濡らしてしまった。だめ、泣いたら、また――

「……泣くくれぇなら、最初っからやるんじゃねえ」

 遅かった。どんッ、と肩を強く突き放されて、の体は後退した。じんじんと痺れる肩を抑えて、は唇をぎゅっと結んで嗚咽を濁す。
 濡れた視界の端で、空却の足の裏が畳を滑る。その後、どすどすと地面が揺れて、襖を冷たく早く開ける音がした。

「……今日は用事あっから送っていけねえ。家着いたら連絡入れろ」

 頷くこともできなくなった自分に、嫌気がさしたのかもしれない。「クソが……」空却は苦しそうに顔を歪めた後にそう吐き捨てて、ぴしゃんッと襖を閉めて部屋から出ていった。
 ……きんッ、という耳鳴りが収まらない。あともう少し肩を押されるのが遅かったら、また、動けなくなっていたかもしれない。すん、と静かに鼻を啜って、は散らばった服を片付けようと、一枚一枚それを手に取っていく。もう、着る資格もないのではないかと思う。それに、少し服をはためかせるだけで空却の匂いがふわっと香ってきて、新しく溢れた涙で、また視界がゆがんでしまった。
 いつまでもやさしい彼に、きらわれる。みっともない姿を見られたことよりも、涙で濡らしてしまった法衣よりも、の胸の中はそれ一色で、なんて気持ち悪い女なんだろうと、諦めのつかない自分を強く恨んだ。