Episode.2



 ――今から一時間後にそっち行くから外出る準備しとけ

 よっぽどのことがない限り、公休の日のは一日のほとんどを布団の上で過ごしている。お昼前に一度起きて、洗顔と歯磨きをしたらもう一度布団に篭もる。朝ご飯はトースト一枚。たまに外に出たりする日もあるが、基本的には家でまったりと寛いでいる。
 そろそろ夕ご飯の支度でもしようかと思い立った、午後四時頃。突然光ったスマホの画面を見てみると、LINEに未読メッセージが一件。絵文字も顔文字もなく、用件だけが淡白に書き綴られているそれを見て、はわっと飛び起きた。
 そして、一日中ぐうたらしていた自分自身に後悔する。髪も服装も、朝起きたままの状態から他人に見られても困らないくらいに整えて外に出なければいけない。それも、メッセージの送り主である空却と。

「(急がんとかんっ……!)」

 の中にあるタイマーがカチッと音を立てる。今までぬくぬくと温まっていた掛け布団をひっぺ剥がし、敷布団共々畳んだのち、押し入れの中にぎゅうぎゅうと押し込んだ。


 ラフな格好でいいのかなぁ。メイクはどこまでしようかなぁ。うぅ……後ろの髪の寝ぐせ、ぜんぜん直らん……。どうしよう……。鏡に映る自分と格闘しながら、なんとか一時間以内に支度を終えた。持ち物については、空却からのメッセージに何も書かれていなかったので財布と鍵だけをカバンの中に入れた。
 戸締り用心火の用心。指差しで確認した後、は路地裏に続く玄関前の廊下に座り、膝を抱えながら空却が来るのを待つ。少し寒いが、居間にいても体が急いて気が気でないので、今はここが一番落ち着く場所だ。高鳴り始めている心臓に気づかれないよう、は彼の前で自然に振る舞う自分を頭の中で綿密に思い描いていた。
 ――不意に、外から少し大きめの足音が聞こえてきて、全身がぴりっとしびれたような緊張が走る。音とともに人の気配が徐々に近づき、引き戸の透けガラスに黒い影をつくった。
 足音がぴたりと止んで、暫く。二回連続で鳴ったチャイム音を聞いて、はすぐに上がった腰をどうどうと落ち着かせる。そして、深呼吸を一回……二回。鍵を開けるのがあまりに早いと、変に思われるかもしれない。少し時間を置いて、ゆっくり、落ち着きを払って、玄関に下りて靴を履く。まるで、今さっき居間から出てきた風を装って。

「お、またせ、しました……」

 は少し重たい引き戸をカラカラと開けた。外の寒気とともに飛び込んできたのは、鼻のてっぺんを真っ赤にさせた空却だった。
 ダウンの下に作務衣さむえというアンバランスなファッションができるのは、きっと彼くらいだ。今日も首元にマフラーをぐるぐる巻いて、後ろできつめに縛られている。口はもごもごとしていないので、今はガムを噛んでいないようだ。ただ、いつにも増して目つきが鋭く感じる。
 やっぱり、寝ぐせついとるの変って思われとるのかなぁ……。服はパーカーとスキニーを着たけど、これは逆にラフすぎたのかなぁ――そう思いながら、が心の中で冷や汗をかいていると、「お前、」と空却の掠れた声が届いた。

「今、拙僧かどうか確認しなかったろ」
「え……? あ、う、うん……」
「しろ。何のためのモニターだよ」
「空却くん、うちのインターホンにモニターあったの、知っとったっけ……?」
「ガキん時、片方が外におって、モニター越しに話して遊んどっただろ」

 空却の言葉に、は目を丸くする。覚えてたんだ……。もう、十年くらい前のことなのに。彼もなんとなく覚えていただけなのだろうが、それでも、この単純な胸は一生分の幸福を飲んだように満ち足りたようだった。
 頭の中で歓喜のファンファーレが鳴り止まない。だんだん気恥ずかしくなってきて余裕がなくなっていく中、はたどたどしく言葉を紡いだ。

「いつもなら確認するんだけど……その……足音が空却くんだったから……」

 昔から、は空却の隣をついて回っていた。いつからなのか、どうしてなのかはもう忘れてしまったが、今のに影響するくらい、その癖はかなり強いものだ。
 なので、空却の歩幅の変化や歩き方は、見ているだけですぐに分かる。例えば、嬉しいことがあった時は少し大股で、つま先で軽く蹴り、踵から地面に強く付く。まるで、猫が塀から塀に軽々とジャンプするような。凛々しく堂々としたその姿は、後ろから見ていて飽きたことは一度もなかった。
 すると、空却はぐっと眉を顰めて、何か言いたげな顔をする。青汁を飲んだような、苦々しい表情だった。

「く、空却くん……?」

 思わず名前を呼んでしまう。しかし、空却は結局何も言わずに、にくるりと背中を向けて、すたすたと歩いていってしまった。慌てたは戸締りをした後、その背中を早足で追う。
 元々民家の少ない道……通行人はと空却しかいなかった。二人分の足音だけがお互いの間を埋めて、無言の時間がちくちくとの体を刺していく。なんだろう……。さっき、変なこと言っちゃったかなぁ……。怒ってはいない……と思いたいが、おそらく上機嫌でもない。お腹の中でもやもやと渦巻いているものを溜息として吐き出したい。しかし、そうすると空却にも聞こえてしまうだろうから、はお腹の奥に収めてぐっと我慢した。
 どこかのスピーカーから、昔よりも少し寂れた夕焼け小焼けの音楽が流れる。もうだいぶ暗くなってきたけど、今からどこに行くんだろう……。ご近所さんかな。それとも、電車に乗るくらい、遠くの方かな。

「(……ううん、)」

 は考えることをやめた。薄暗い林の中でも、凍てつく海岸でも、人の気配のない獣道でも……どこに行ったって、彼と一緒ならば、こわいものはなにもないのだから。







 年末が近くなると、オオス商店街は戦場になる。地元民であるでも、できればあまり近寄りたくない。行事も何もない土日でもかなりの人混みだが、この時期は初詣目的で近くのホテルに泊まる観光客が多くなるので、いつも以上に人がごった返していた。
 商店街の道幅は広いものの、今日は地面の色でさえも覆う人の数だった。目で見て分かる区切りもない中、なんとなく左側通行になっているも、たまに逆流してくる人と肩や腕がぶつかったりする。
 歩いている道からなんとなく目的地が導き出せて、はじっと考え込む。「年末の大須に近づくとか余程の馬鹿しかいねーよ」と空却は昔言っていたのに、何しに行くのだろう。個人的な買い物なら、わざわざ自分を連れてこなくてもいいはずだ。
 不思議に思うも、ひとまずは空却のダウンの色をしっかり覚える。あとは、彼と離れないようについていく。それが、の昔からの役目。これだけ人が多ければ、普段故意的に空けている空間がなくても、自然と空却の背中を追うことができた。

「……お前、今からどこ行くかとか聞かねーの」

 赤門を潜る手前で、空却の声が上から降ってくる。喧騒にかき消されそうになるも、の耳は上手く彼の言葉を拾った。

「く、空却くんから言ってくれるかなと思って……」
「もし拙僧が危ねえ場所に連れ込んだらどうするつもりなんだよ」
「えっ……。危ないところ、行くの……?」
「行かねえよ馬鹿。例え話だ」

 重々しいため息が落ちてきて、空却の足元ばかりを見ていたはようやく顔を上げる。ちょうど、空却の口から漏れた白い息が、の頭上を通り過ぎた頃だった。

「危機感持てって言っとんだ。ほいほいついて行くんじゃなくて行先くらい聞いとけ」
「う、うん……。分かっ――」

 声が途切れた。背後からどすんと衝撃を受けて、は小さく声を上げる。後ろを振り向く間もなく、体が前のめりに倒れていき、の足の裏が地面から浮いた。
 片足と手のひらが地面につくくらいの覚悟をした時、空却がすぐさまこちらを向いて、両腕を伸ばす。倒れ込む寸前のの体が空却の腕に引っかかり、の顔は彼の作務衣の前合わせに向かって飛び込んでいった。

「あの野郎……。スマホ見ながらこんなとこ歩くんじゃねぇよ……」

 ――雑音が消える。黒い作務衣と、襟から少しだけ見える白い肌着。そこからはお寺の匂いがした。指先を少し動かしたら、細いけれど筋肉質な腕の感触が伝わってくる。そして、耳元に落ちてきた、空却の低い声。味覚以外の五感が空却一色に染まって、は目はぐるぐると回ってしまう。抱き、とめられている。空却の手が、の両肩を強く掴んで離さなかった。
 状況が頭で理解できた途端、心臓から放たれた熱がわっと駆けだして、全身に分散する。首から耳、そして頬にかけてぐんっと赤くなるのを感じて、は慌てて空却から距離をとった。

「ごっ、ごめんね……っ!」
「……お前に言ってねえよ」

 お互いすれ違う会話をしつつも、空却は気にしていないようで、すぐにの肩から手を離して、平然と前を向く。は、耳が、頬が、腫れたように熱くて、痛いくらいなのに。色々と言いたいことはあったが、自分の体の熱を冷ますので精一杯で、が空却に話しかけることはなかった。
 ……さっき支えてくれたとき、空却くんの右手、すごく暖かかったなぁ。左手の指先は少し赤くなっていたのに、どうしてだろう。利き手だからかなぁ……。


 何度も人の波に攫われそうになるも、ようやくと空却は赤門を潜った。ここからが本番だ。遠目から確認しても、向こう側がまるで見えない。商店街はいくつかの通りに分かれているが、きっとどこも混雑しているだろう。一歩踏み出そうにも、その間に人の足がにゅっと入り込んで中々前に進めなかった。
 歩くたびに、歩調が乱れる。そろそろ足がもつれそうだ。そんな時、空却の首だけが後ろを向いた。

「ダウン、どっか掴んどけ」
「えっ……?」
「地元民のくせして年末のオオス舐めんじゃねえ。すぐどっか飛んでくぞ」

 拒否する余裕も理由もなかった。は、おそるおそる空却のダウンに指を伸ばす。掴んだのは、裾の部分。親指と人差し指だけで布を挟む。掴むというより、摘むくらいのさり気ないものだった。
 しかし……それだけで、喉がきゅっと締まり、お腹の辺りがくすぐったい。うれしい。はずかしい。もしも、ずっとこのままだったら、家に帰る頃には全力疾走した後の心臓になっているかもしれない。

「……離すなよ」
「うん……。歩きづらかったら……言ってね」
「ん」

 きっと言ってくれないだろうなぁ、と思っていると、ダウンを摘んでいた方の腕がぐんっと伸びて、声を上げる間もなくの体は前に引っ張られた。
 人の間を器用に縫って、ずんずんと進んでいく空却。見ているだけでも大変そうだ。一方、は彼の後ろにいるだけなので、歩いていても特に障害と言えるものはない。それがさらに申し訳なく思って、は再び地面とにらめっこを始めた。

「あの……空却くん、」
「なんだよ」

 半ば早歩きになりながらも、さっきよりも余裕が出てくる。タイミングを見計らって、は空却に声をかけた。

「さっきの、続きなんだけどね……。これから、どこ行くの?」
「スーパー」
「あ……。お振る舞いの買い出し?」
「ああ。だが大方のもんは親父が業者に頼んで注文した。多すぎて持てねえし」
「じゃあ、今日は――」
「バイトで雇った奴らに振る舞う鍋の材料」

 空却は面倒くさそうに答える。そういえば……そうだ。考えもなしにあんなことを言ってしまったが、具材の種類も量も多いだろうから、事前に纏めて一括注文するに決まっている。毎年当たり前のことなのに、先日は空却の言葉に応えようとして、気持ちが先走った。なに言っとるんだろう、わたし……。数日前の自分を思い出して、はぎゅっと目を瞑った。
 ……空却くんは、どうしてあの時なにも言わんかったんだろう。手伝いはいらない、と。そう一言言ってくれれば、こうして彼の手を煩わせることもなかっただろうに。しかし、振る舞う相手が違うにしろ、買いだしは必要だから、誰かの手は欲しかったのだろうか。考えれば考えるほど、は思考の沼に嵌って抜けだせなくなっていく。それにしても――

「(バイト、かぁ……)」

 高校二年の年、は空厳寺で巫女バイトをしたことがある。瞬きよりも早く終わった三が日。その時に着た巫女服はとても可愛かったが、足元はすごく寒かったし、仮眠を取りながらとはいえ、かなり眠くて辛い日々だった記憶がある。やはり、自分に朝方の仕事は向いていないことを実感した三日間だった。空却はその時ナゴヤにはいなかったので、このことは知らないはずだ。
 最終日にはお寺でお雑煮が振る舞われ、他のバイト仲間と一緒に食べたが、空却がいないお寺で食べたお雑煮はまるで味がしなかった。昔、彼と一緒に食べた、きなこも砂糖醤油も何もついていない、つきたてのお餅の方が何倍も美味しく感じた。







 いつもよりも倍の時間をかけて、オオス商店街唯一のスーパーに到着する。年末年始の買い出しに来たご婦人が目立つここも、やはり人口密度が高かった。
 カートを引くと通行人の邪魔になると思ったは、買い物かごを二つ取って手に持つ。すると、すぐさま空却に二つともかっ攫われてしまった。とても早かった。一瞬にして手持ち無沙汰になったが呆然とする中、空却はずんずんと店内の奥へ入っていく。

「ひとまず、目ェ付いたもんはかごに入れてけ。吟味しとる余裕はねえぞ」
「わ、わたしが選んでいいの?」
「あぁ? 何のためにこんな夕暮れにお前連れ出したと思ってんだよ」
「荷物持ち、とか……」
「んな細せえ腕なんか頼りにしてねーわ。つべこべ言ってねえで早よ選べ」

 そうこう話しているうちに、出入口から人がどっと押し寄せてくる。焦ったは野菜コーナーから順繰りに回っていこうと、早歩きで店内の奥へと進んだ。


 買い物をしている最中、は頭の中で鍋のビジョンを数式のように組み立てていく。出汁は鶏がらベース。お野菜は白菜、ネギ、エリンギ、えのき……あとは、かまぼことお豆腐。緑が極端に少なかったので、正月菜もかごに入れた。続いて白菜を二つ入れたところで、「かご、持つの代わるよ……?」とは空却に声掛けするが、「いいからさっさと選べっつってんだろ」とぴしゃりと言われてしまう。しゅんと肩を落としたは、次に精肉コーナーへと向かった。
 メインは質より量……のつもりだった。鶏だんこと、豚肉。……あっ。牛すじ、すごく安い。もつも入れていいかなぁ。ボリュームは少ないけど、一つでも入っているとお宝を見つけたみたいでちょっぴり嬉しい。そんな私欲が混じって、は牛すじともつをそれぞれ二パックずつかごの中に入れた。

 大方材料が揃ったところで、はお店の隅っこで立ち止まり、ひと息をつく。活動時間は短いが、家と外とのギャップに体がついていかず、仕事の後よりもどっと疲れてしまった。やはり、一日中布団の中というのはやめておいた方がいい。来年からは気をつけよう――毎年そう思うだけで、実際に行動できたことはないのだが。
 はお店の壁にもたれかかり、何か買い忘れはないかと頭の中で巡らせる。すると、隣でしゃがんでいた空却がかごの中に入っているものを次々に手に取りながら、ふっとこちらを見上げた。

「お前。これ、わざとか」
「え……?」

 独り言のように小さな声だったが、今のは間違いなく宛ての言葉だった。
 は胸をざわつかせながら続きの言葉を待つも、それ以降、空却の口から飛び出す音はなかった。なぜ、彼の声を聞こうとすると周りの音が一気に小さくなるのだろう。店内アナウンス、人の足音、子どもが親に対して駄々こねている声……の耳からすべて遠のいていくのだ。

「……なんでもねーよ。で、もういいんか」
「う、うん……」

 「んじゃあ、レジ行くぞ」空却がかごを持ち上げたと同時に、ようやく周りの音が元に戻った。
 空却がレジでお会計をして、お寺宛に領収書を発行してもらっている間、は一足先に袋詰めの台へかごを持っていこうとした。しかし、上に引っ張ってもそれはびくともせず、あれ? とは首を捻る。底に接着剤でも付いているのではと一瞬疑ってしまったほどだ。
 「だから言っただろーが」がかごと悪戦苦闘していると、後ろから空却の腕が伸びてきて、二つ分のかごを軽々と持ち上げてしまった。唖然呆然と立ち尽くす。かなり重たいはずのかごを台まで持っていく空却の背中がやけに大きく感じて、は自分の横を通り過ぎていった時間の長さを改めて痛感したのだった。







 踏みしめる砂利の音も、寺院が纏う空気感も、何も変わっていない。まるで、昔の頃にタイムスリップしたようだったが、と空却の体格差を見ればすぐに現実に引き戻される。

 よく木登りをして遊んでいた裏山を横目に見ていると、寺の住居スペースである庫裏くりに入った。荷物を全部持ってくれている空却――せめて一つだけ持たせてほしいと言っても本人は頑なに譲らなかった――に代わって、が引き戸を開けると、彼は先に玄関に上がるなり、「ここで待ってろ」とにそう言い残して、家の奥へと入っていった。
 一人取り残されたは、上がりかまちにちょんと腰掛ける。わたし、あんまり役に立てなかったなぁ……。空却がいなくなってようやく緩く動き始めた心臓に、は深い溜息をつく。今までの時間だけで、一週間分の心拍数を消費したのではとぼんやりと思った。
 すると、空却が歩いていった反対方向から足音が聞こえてくる。空却のものではない。少しだけすり足気味の音に、は思わず身を小さくさせた。

「――おや? ちゃんじゃないか」
「あ……おじさん」

 廊下の死角から出てきたのは灼空だった。知らない人じゃなくてよかったぁ……。はほ、と胸を撫で下ろして、「こんばんは」と彼に向かって控えめに頭を下げた。

「昨年以来かな。しばらく顔を見ていなかったが、息災そうでなによりだ」
「はい。おじさんもお元気そうで」
「ははは。しかし、こんな夜更けに何用かな? 空却なら、今しがた買い出しに行かせたが――」
「おい親父。鍋の材料買ってきてやったぞ」

 突如聞こえてきた忙しない足音に、は身を固くさせる。手ぶらで帰ってきた空却が先ほど消えていった廊下からどすどすと現れた。

「空却! 帰ってきているのなら一言言わんかッ!」
「たでーま。つか、早く冷蔵庫に入れねえと肉が腐るだろうがよ」
「おかえり。いや、ちょっと待て……。まさかちゃんに買い出しを手伝わせたんか!?」
「荷物は拙僧が持ったわ」
「そういう問題じゃないっ! 女の子を夜分遅くに連れ出すなと言っとるんだッ!」
「拙僧が傍におるんだから何の問題もねえだろうがよッ!」
「お前みたいな馬鹿息子がついとるから心配しとるんだろうがッ!!」

 あっという間に大炎上した玄関。の鼓膜がびりびりと揺れる中、緩衝材となる言葉を頭の隅であわあわと探し始めた。
 彼らのやり取りも久々に見たが、なんだか、年々勢いが増していっているような気もする。しかし、言い合っている語彙は昔とほとんど変わっていないので、少しだけ安心している自分もいた。

「あ、あの、おじさん……。わたしがお手伝いしたいって空却くんにお願いしたんです」
ちゃん、空却にそう言えと強要されているのであれば遠慮なく言っていいのだぞ」
「ぁあ゙!? 拙僧がんなことするわけねーだろうがッ!」
「前科持ちは黙っとれッ!」
「んだとクソジジイッ!!」

 終わりの見えない口論かと思いきや、じきに灼空はぷんすかと怒りながらどこかに行ってしまった。もしかして、台所かな……。買ってきた具材のチェックするんかな……。おかしなものがあったらどうしよう。もつ肉はいらんかったかなぁ……。
 がそんなことをじくじくと思っていると、しんと静まり返った空気を察する。さっきまであんなにも賑やかだったのに、空却と二人きりになるとすぐに重たい沈黙が肩にのしかかる。急に居心地が悪くなってしまい、は早々に引き戸に手をかけた。

「じゃ、じゃあ……わたし、帰るね」
「待て」

 不意に呼び止められて、空却が玄関に降りて靴を履く。が何か言いかける前に、「行くぞ」と空却の手が引き戸の取っ手に添えられた。が先に手をかけていたところに空却の指がかかったものだから、少しだけお互いの指が掠め合う。それだけで、落ち着いてきたの心臓がまたどくんどくんと暴れだした。
 先に外に出た空却に習って、も戸を潜ろうとする。すると、「空却ォ!!」とどこからか凄まじい怒声が飛んできた。灼空の声だ。

「なんだこれはァ!! お前の好物ばっか買ってきおってッ!!」
「三が日が終わったら拙僧も食うんだからいいだろーがッ!」

 声がする方に向かって、中指を立てながら舌を出す空却。灼空の沸点はもうとっくに越してしまっているようで、最後に聞こえた声は怒りのあまり何と言っているか聞き取れなかった。二人の間に挟まれたが背筋を凍らせているのを他所に、空却ははん、と鼻でせせら笑った後、ザクザクと砂利音を立てて前に進んでいく。
 も続いて歩きだそうとするが、その足はぴたりと立ち止まる。三歩先を行った空却がこちらを振り返ったのも気にならないくらい、灼空の言葉と空却が商店街で言ったことを思い出して、ははっとしていた。

 ――「お前。これ、わざとか」

 ……無意識だった。手当り次第に入れていたわけではないが、空却の好きなものや、嫌いなもの……自分も知らない間に分別していたらしい。贔屓をしたつもりもないが、結果的にそうなってしまったわけなので、が今何を言ったところで言い訳にしかならないだろう。
 誤解……とかんと。が庫裏に戻ろうとすると、「おい」と後ろから声が飛んできた。

「どこ行くんだよ」
「おじさんに、わたしが買ったもの選んだんですって言わんと――」
「クソ親父のことなんかほっとけ。さっさと帰んぞ」

 空却は顎で行く先をくいっと示しながら、が歩き出すのを待っている。それを見たは、誤解を解くことよりも空却の言うことをきくのが最優先になり、空却の元までザクザクと駆ける。そして、彼もまたすぐに砂利音を立て始めた。おそらく、この体は自分よりも空却の言うことをよく聞くようになっているのだと思った。
 空却に追いつく前に一瞬だけ、空却がダウンの右ポケットから左ポケットに何かを入れ替えた。一瞬だけ見えた、手のひらサイズの赤いボディ。セレクトショップでくどくなるくらいの目に焼き付いたもので、思わず声を上げそうになった口をぎゅっと噤んだ。

「(持ってて……くれとるんだ……)」

 電子カイロ――このあいだ、が遅ばせながら送った、空却へのクリスマスプレゼントだ。商店街で自分を受け止めてくれた時、空却の右手だけ暖かった理由がようやく分かって、はまたしても胸がきゅうっと痛くなった。あと、おそらく、耳たぶもぷっくり腫れている。
 砂利の音は二つ分。言葉になるはずだったの声は、白い息になって空気に溶ける。本来なら、今日は揺れる赤髪を追えない日。しかし、今のにとっては、それすらもささやかなクリスマスプレゼントになっていた。
 もう、空却のダウンを摘む必要はない。数十分前の自分の指を羨ましく思ったは、ダウンの感触を思い出すように親指と人差し指を密かに擦り合わせていた。