Episode.1
眠る時に心寂しくなった夜は、昔の夢をよく見る。
夢には、きまって二人の子どもが登場する。ある時は近所の空き地だったり、ある時は境内の裏山だったり……毎回、彼らは違う場所にいて、双子のさくらんぼのように一緒にいた。大人になる準備をしていない、さほど背丈の変わらない、男の子と女の子だった。
こうして客観的に見てみると、仲が良いように見える。しかし、実際は女の子が男の子の背中を追いかけてばかりいたし、彼はそれを鬱陶しがっていた頃もあった。
いつからだろう。男の子が女の子に対して仕方なし、というように逃げ回っていた足を止めて、彼女の様子を窺うように後ろを振り返るようになったのは。
しかし……それももう過去の話。こうして夢に出てくるくらい、淡い幻になった思い出だ。
「だーかーらァ!! 早く降りてこいっての!!」
今回は、いつもの二人と少し違う。前と後ろの関係だったのが、上と下の関係に変わっている。女の子は背の高い大木の幹の上にいて、男の子はそんな彼女を見上げながらガミガミと怒鳴りつけていた。それでも女の子は、下に降りても何もいいことがないと知っていたので、そこから微動だにしない。
女の子は何も怖がっていなかった。自分がいるところから地面までの高さも、弾丸のように飛んでくる男の子の怒声も、痛くもかゆくもない。高さが怖いならそもそも木に登れないし、男の子は言葉遣いこそ乱暴なものの、いつだって誰かを思っての言葉だと、女の子は身をもって知っていた。
これからは今まで通りというわけにはいかないのに、“今まで通り”に振舞って暮らすのが辛かった。今、彼女が住んでいる家の半分は誰も使わない。頭を優しく撫でてくれたしわくちゃの手も、いいことをしたら褒めてくれた柔らかい声もない。しかし、ここなら、大好きだった人と少しは近くなれる気がしたから、女の子は木の上に登った。それも無意味なことだとすぐに理解したが、普段顔を出さない意地というものが彼女の決意をさらに固くさせた。
――ここに住もう。お気に入りの毛布と、好物の天むすのおにぎりを持って。幼心ゆえに、そんなことを思っていた。
「バカなこと考えとんじゃねーぞッ!!」
再び飛んできた男の子の声に、女の子がはたと顔を上げる。つり目のきついその眼光は、その子を見上げてずっと離さない。
「空に近くたってなぁ! 一度ホトケさんになった人間とは一緒に住めねーんだよッ!!」
それは、今の女の子を一番怖がらせる言葉だった。怖いもの知らずの彼女の体はわなわなと震えて、口はいびつにゆがみ始める。今にも泣きそうだ。男の子が冗談を言って女の子を驚かせることはあっても、慰めのための嘘なんてつかない。それは、女の子もきちんと分かっていた。
「愛別離苦あればこそッ! 人は幸福なる生を謳歌い出来るって、前に言っただろーが!!」
また、男の子が難しいことを言っている。女の子は国語が苦手なのに、彼はいつも自己流の説法を説いては文字通り彼女の頭に押しつける。心がついていかないのにも関わらず、だ。
しかし、どうしてだろう――女の子がそれを嫌と思ったことは一度もなかった。苦手な漢字テストも、男の子のおかげで点を取れるようになったし、なにより、楽しそうに仏の道を歩もうとする彼の話を聞くことが、嬉々揚々と話す彼の表情が……とても好きだった。
「おれがっ! ここにっ! いんのに! お前はもう俗世を捨てるっつーのかよッ!!」
水彩絵の具を点描するように、女の子の目の色が変わる。ぽつ、ぽつ、と色が灯っていく瞳に、彼が映る。俗世の意味は分からない。けれど、女の子がぶるぶると首を横に振ると、男の子は不敵に笑って、両腕をこちら向かって伸ばした。
「今からおれがみっつ数えてやる!!」
目を丸くしながらも、女の子はその場にすくっと立ち上がった。地面の上に行ったら、おはようと返ってくる声もないし、ごちそうさまと一緒に合わせてくれる手もない。分かっている。ぜんぶぜんぶ分かっている。
それでも……それでも、乗り越えろと彼が言うのなら。傷を抱えて生きろというのなら、その通りにしてみようと。
「いーちっ! にーのッ!」
さん
最後に見た彼女は、泣きそうな顔で木から飛び降りていた。男の子の腕に彼女の体が収まる前に、目の前が真っ暗になって、夢の概念が消える。ここからは、いつもと同じだ。透明な傍観者を演じたの体は、宇宙のような不思議空間を浮遊し始める。
ふわふわ、ゆらゆら――場所は違っても、登場人物は同じ。男の子との夢を見て、は毎回同じことを思う。夢の中にいた女の子の心を、丸ごと今の自分に持っていけたらいいのに。そうしたら、今の夢の同じことをしても、彼は笑いながら両腕を伸ばして待ってくれたかもしれない……なんて。それも、きちんと分かっている。苦笑が漏れてしまうくらい、ありえないことだ。
それでも、祈らずにはいられない。乞わずにはいられない。こうして、醒めたくない夢と息苦しい現実を鏡合わせに見ては、もう二度と帰ってこない時間に対して、は顔を俯かせるばかりだった。
午後七時十五分。賑やかだった店内は閉店時間を過ぎると雰囲気ががらりと変わる。話が盛り上がっていた客も、明日の仕込みに追われていたスタッフも、ひとり、またひとりとお店を後にする。最終的に残るのはきまって、この店のオーナーと遅番シフトのだけ。閉店後の店内は小さな音すらよく届くので、開店時とのギャップを感じてなんとなく不思議な気分になる。
和モダンにデザインされたカウンターテーブルを拭いていると、「ちゃーん」と店の奥からオーナーの声が飛んでくる。立派な男声でも口調や仕草が女性らしいその人は、入社した当時から明るく気さくで尊敬できる上司だった。「はあい」
「ホール片付いたら、そのままあがっていいわよ~」
「ありがとうございます~」
「あっ。それからぁ――」
あの子、もう表にいたわよ
奥からひょっこりと出てきたオーナーは早足気味で近づいて、の耳にこそっと声を吹き込む。石のごとくぴしっ、と固まったの肩を、すかさず彼女がぺしっと叩いた。しっかりなさい――そう元気づけるように。にんまりとした意味深な笑みを浮かべる彼女が思っているような関係では、決してないのだけれど。
しかし、の体は急く。凍える寒さの中で彼を待たせている申し訳なさ半分と、誰にも見せるわけにはいかない女心が半分。は“staff only”と書かれている引き戸を開けると、帯枕の紐をシュッと解く。ぼすんと落ちた袋帯を皮切りに、一本、また一本と次々に腰紐を解いていく。たとう紙に仕事着を仕舞うと、個人用の桐箪笥にそれを小物とともに収めた。
お腹周りが楽になったところで私服に着替え、小さなショルダーバッグを肩に下げる。オーナーへの挨拶を終わらせたは、裏口から外に出た。
「あ……」
路地裏を抜けて、お店の正面に回る。ホワイトグレーのシャッターに背中を預けていたその人は、チューイングガムを膨らませている最中だった。
声をかけるタイミングを逃したは、路地の壁に半身を隠れさせながら、徐々に大きくなっていく風船を見つめた。どうしよう……。なんて声を掛けよう……。遅れてごめんね? お待たせ? どれも違う気がする。こちらから迎えに来るようにお願いしたわけではないので、これらの言葉はなんとなく上から目線のように感じた。
あ……すごい。風船、わたしの手よりも大きい。まだ、大きくなる。まだ、まだ、わあ、すごいなぁ。まだ、まだまだ、ゆっくり、ゆっくりとおおきくなって――
「わっ」
ぱんッ――突如風船が割れて、は思わず声を上げた。すると、空却がこちらに気づき、電灯に反射した金色の目が鋭く光る。まるで、路地裏にいる野良猫のようだった。
空却は唇の周りについたガムを歯で手繰り寄せると、包み紙に練り物を吐き出してそのままポケットに突っ込んだ。彼の口から白い息が微かに漏れると、こちらをぎろっと睨みながらこう言った。
「……来とるなら早よ言え」
「ご、ごめ――」
言い終わる前に、空却は踵を返して歩き出す。その後を、の拙い足が情けなく追った。
迎えに来てくれてありがとうって、言いたかったなぁ……。もう取り返しのつかないことなのに、布団に入って眠りにつくまでそれを永遠と後悔してしまう自分が想像できてしまい、空却に気づかれないようには小さく溜息をついた。
一歩半の不自然な空間――目の前に見えない壁があるように、はいつも空却と一定の距離を保って歩いていた。いっこうに揃わない歩調に、は歪んだ安心感すら覚えている。昔は嬉しそうに駆けていたこの足は、今はびくびくと怯えているだけだった。
「……お前」
不意に、くぐもった声が届いて、空却がぴたりと立ち止まる。間に合わなくて、踏み出してしまったの一歩。その歩幅分だけ近づいてしまったせいで、短くなった彼との距離。は吐こうとしていた息を思わずごくんと飲み込んだ。
ゆっくりと、彼の首が斜め後ろに回る。マフラーの端から不機嫌そうな口元が覗いた。鋭い眼光を浴びせられ、パーカーの裾を両手で掴んだは浅く呼吸をする。寒さのせいで白く染め上がる息を恨めしく思った。
「今年の元旦、どうすんだ」
必要最低限すぎる言葉に、の頭は真っ白になる。素直に答えればいいのに、なぜかその前にワンクッション思考が挟む。なにを言ったら正解なんだろう、と。当たり障りのない言葉を探しながら、はどもりながらも口を動かした。
「こ、今年は、朝から用事があって……」
「朝から用事だぁ?」
「うん……。アツタ神宮に……初詣」
消え入りそうな声では言う。笑い飛ばしてくれたらよかったのだが、空却はさらに低い声で「はあ?」とこちらを睨んだ。
「誰と」
「お、お店の人と」
「あのオカマか」
「あと、先輩とか、同期の子とか……。どこも行かんと寝正月になっちゃうから、ちょうどいいかなぁって……」
「止めとけ。どうせもみくちゃになって帰ってくるのがオチだ」
空却にぴしゃりと言われてしまったは口を噤む。神宮へ伸ばす予定だった足が一気に重たくなる感覚がした。加えて、神宮につとめている人間とおおむね同業者である彼に返す言葉もなかった。
「そ、そうだね。じゃあ、やめようかなぁ……」今年は大人しく家にいよう――そう思いながら、は彼に向かってぎこちなく笑った。
「……寝正月が嫌なら、うちの寺手伝えよ」
ぽん、と唐突に生まれた言葉に、は目を丸くした。
「お寺、人足りんの……?」
「別にそうでもねえ。修行僧も増えたし、巫女バイトも雇うしな。ただ、クソ親父がお前にも声かけろってうるせえんだよ」
「まァ、嫌なら強制しねえが」空却の提案に、は口ごもる。そういえば、灼空とも最近会ってない。そもそも空厳寺にも足を踏み入れていない。一昨年に空厳寺で買っていたお守りも、返納せずにそのまま家の玄関に飾ったままだった。
……お寺、行きたいなぁ。でも、本当にいいのかなぁ。おじさんから言われたみたいだから、空却くんは本当はいやなのかも……。それなら、みんなと初詣に行った方が……でも、お寺も手伝いたいなぁ。拮抗し合う思いの真ん中で、内なるはぴんと閃いた。
「こっ、今年のお振る舞いは、なににするの?」
「この期に及んで食い物かよ……。あー……なんだっけな、多分おでん」
「買い出しっ」
「あ?」
空却の声に萎縮しながらも、はたどたどしく言葉を紡いだ。
「当日は、行くのむずかしいけど……買い出しなら手伝えるから……その……」
……正体不明の無言が辛い。でもじきに、「……分かった」と短い返事が聞こえて、空却は再び歩き出した。その後をの足が追う。意識して力を入れなければ、足首からがくがくと震えて、その場に座り込んでしまいそうだった。
いやそうな顔されなくて、よかったぁ……。年末年始の予定が変わったことよりも、の胸は安堵の気持ちでいっぱいになっていた。
の家は半分が民家、もう半分は床屋になっている。床屋は何年もの間シャッターが閉まったままだが、店舗の中は月に一度は掃除をしているし、設備も綺麗なものだ。自分の手先がもっと器用だったらお店も今のまま使えたのになぁ、とは今でも亡くなった祖母に申し訳なく思っている。
住居部分の玄関口は路地裏にある。正面からぱっと見ただけでは分からない、どこから入るかも分からないからくり屋敷のような外装。空き巣にもきっと気づかれないだろう。
路地に入り、家の鍵を開けると、空いた引き戸とともにちらっと振り返ってみる。空却の足はもうすでに帰り道の方に向いていた。
「鍵、ちゃんと閉めとけよ」そう言い残して去ろうとする空却。名残もなにもない空気に縋るようにして、は慌てて声を絞った。
「くっ、空却くんっ」
「あ?」
「ちょ、ちょっとだけ、ここで待っとってくれんかなぁ……?」
「ほんのちょっとでいいんだけど……」懇願するようには言う。すると、謎と言わんばかりに目を細めた空却だったが、体の向きをくるりと変えて、玄関の壁に背中を預けた。どうやら待っていてくれるようだ。
それを見たは急いで玄関に入り、靴を脱ぐ。居間に置いてあったラッピングバッグを持って、再び玄関口に戻った。待ってくれているかどうか不安だったが、空却はそこから一歩も動いていなかった。ポケットに手を突っ込んで、玄関口から出てきたを無言で見つめている。赤くなった鼻と濃くなった息の白さに、の心臓がとくんと脈打った。
空却からしたら久方ぶりに映るであろうそれを、はどうぞ、と差し出す。やはり、彼は怪訝そうに眉をひそめて首を傾げた。
「……なんだこれ」
「クリスマスの、プレゼント……」
間が空く。さらに怪訝な顔をした空却に、は低身長の体がさらにきゅうっと小さくなった気がした。
「……お前、今日何日か知ってっか?」
「二十七日です……」
「クリスマスは」
「に、二十五日……」
「だよなァ」
空却の言いたいことは分かる。も、本当はイベント当日に渡したかった。
ただ、空却がお店の前にいる日はかなり不定期だった。彼が迎えに来ない日は閉店前に連絡が入るし、何もなければが外に出るより前にシャッター前でガムを膨らませている。そんな中、クリスマスとイブの両日に空却とのLINEの画面がゆるゆると動いたので、は驚いた。迎えに行けない旨としっかり戸締りするようにという念押しのメッセージが、彼から二日連続送られたのだった。最近は迎えに来ない日の方が少ないため、てっきり来てくれるとばかり思っていた。うぬぼれすぎちゃったなぁ……と何度自責の溜息をついたか分からない。
空却宛のクリスマスプレゼントを買ったのも、何年ぶりだろう。今まで何年も渡してこなかったものなのに、今年いきなり渡されたら変に思われるだろうか。プレゼントを見せてから、はそんな取り返しのないことを思う。もうすでに宛先を見失いそうになる手を自分の方へじわじわと引っ込め始めていた。
「い、いらんかったら無理しんくても――」
「別にいらねえって言ってねえだろうが」
そう言って、の手の中からプレゼントを奪い取った空却は、手のひらサイズに収まるそれをじっと見つめる。まるで、自分の服を見られているようで恥ずかしく思った。
一日かけてメイエキとサカエをハシゴして、ようやく見つけたクリスマスプレゼントだが、時間が経つにつれてなんだか自信がなくなってきた。しかし、今更返してなどと言えるわけもなく、居心地の悪い空気を誤魔化すために、は自分の足裏を地面にじりじりと擦り付けていた。
「……じゃあな。さっさと家の鍵閉めろよ」
空却は無駄を嫌う。用が終わればそそくさとお寺に帰っていく。ラッピングバッグを手首に引っ下げた空却は、に背中を向けた。ジャケットに描かれたナゴヤ城が見えなくなるまで、昔よりも広くなった背中をはぼんやりと映していた。
けっして、昔のように渡しっこしたい、なんておこがましいことは思っていない。あげたかったからあげた……の心は、本当にそれだけだった。
曲がり角に入って見えなくなった空却の姿を残像として脳裏に思い浮かべると、の心臓は今になってばくばくと騒ぎ出す。プレゼントを渡せた安心感も相まっているのかもしれない。それは、いつまで経っても初恋を自覚した子どものようなもので、その忙しない音を止める術は昔も今も分からないままだった。
