Episode.6
とーさんもかーさんもおじいちゃんも、その人のことばっかりたよる。よそから来たひとなのに。ずっとお寺にいるわたしよりも、その人とばっかりおはなしをする。
「……つまんない」
お盆前のすこしのあいだだけ、お手伝いでやってきた人だった。
その人はとーさんのおともだちらしくて、とーさんの顔をみると「空却!」とうれしそうにとーさんの名前を呼ぶ。とーさんもとーさんで、その人の顔を見たらうれしそうに名前を呼びかえす。駅までおむかえにいって、そのままお寺に何日かおとまりしていくんだって。その人は、まるでじぶんの家みたいな顔をして――あとから思ったらそうでもなかったのだけど――お寺をうろうろして、檀家さんともすぐになかよくなってしまった。
お客さんをとおすお部屋でおしゃべりしているとーさんとかーさんとおじいちゃん、それからその人。わたしがすきなおかしをお茶のおともに出して、わたしがいなくても楽しそうにおはなしをする家族。その人とはなすのがいやで、「わたしはおはなしすることないもんっ」と言って、おへやから庭にとびだしても、ああやってみんな、わたしがいなくても痛くもかゆくもない顔で、おはなしをしている。なんにもなかったみたいに楽しそうに、楽しそうに、たのしそうに――
「もうっ。つまんないっ!」
おなかからのぼってくるむかむかにまかせて、つま先にあった石ころをける。だいすきな家族をひとりじめするその人のことが、わたしはきらいだった。
ある日、かーさんにおかいものをおねがいされた。さいきん、やっと一人でおつかいさせてくれるようになったから、わたしはすごくうれしかった。とーさんはおもしろくなさそうな顔しとるけど、しらないもん。
わたしがるんるんでくつをはいていると、その人がうしろからそろっとやってきた。
「一人で大丈夫か?」
そのひと言にかっとなった。わたしはその人の顔を見ないで、「だいじょうぶだもんっ!」とさけんだ。なに。“たにん”のあんたなんかにごちゃごちゃ言われたくないんだけど。それに、かーさんにはいいよって言ってもらったもん。もう小学二年生になったのに、こども扱いして、ばかにされとるみたいで、いやだった。
その人からにげるみたいに外に出た。でもしばらくしたら、その人がうしろからついてくる。なんで? その人のながい足にまけないように、わたしははや歩きでおみせに行った。
ついたのは、かーさんとよくきてる和菓子やさん。あしたのおやつのじかんに食べるおだんごとおもちを買いにきた。
みたらしだんご、三色だんご、おはぎ、草もち――かーさんからおねがいされたものを、おねがいされた数だけ買う。うしろであの人の影がゆらゆらゆれてる。ふん、あんたの出番なんてないんだから。おつかいくらい、わたし一人でできるんだから。
「全部で1200円ねー」
おみせのおじさんに言われたお金をおさいふからさがす。1200円は、1000円と200円。百円玉を二枚と、千円札は一枚で――えっと、えぇっと……。
「(……あれ?)」
からだがずくんっ、と地面にしずむ。千円札がない。どこにもない。おうちでる前に、おさいふの中、見るのわすれちゃった。はいってない。千円札が、おさいふにはいってない。
のとがカラカラにかわいていく。手のひらが汗でじんわりとしめっていく。ものを買おうとして、お金がなかったときってどうするの? わからない。おしえてもらってない。かーさんだって、お金がはらっとるところしか見たことないもん。どうしよう。これ、どろぼうになっちゃう? どうしよう、どうしよう、どろぼうになったら、とーさんにしかられちゃう。どうしよう、どうしよう……ッ!
「ぁ、あの、えっと……っ!」
「1000円な」
よこからおおきな体が出てきた。その人の指にはさまれてる千円札を受けとったおじさんは「1200円、ちょうどねー」とにこやかに言って、おだんごやおもちが入ったビニール袋をわたしにくれた。
「よし、これで買い物完了だな。帰ろうぜ」
あかるい声だった。わたしはおかいものができたことよりも、千円札をわすれたことがはずかしくて、手をかされたことがくやしくて……わたしはその人の声をむしして走りだした。
「(げ、げんかんで、あのひとが声かけたから、もっていくのわすれただけだもん。でてく前におさいふの中、いつも見るもん。わたしのせいじゃないもん……ッ)」
そんな言いわけをならべて、来たみちをもどる。とちゅうで走りつかれて、はや歩きになる。うしろからあの人のあしおとがする。ききたくないのに、ずっとずっとついてくる。かえる場所が同じなんだから、それはそうなんだけど。そんなわかりきったことでも、すごくすごくいらいらした。
あんなにはりきって家を出たのに、お金をはらえなくて、はずかしかった。あのひとの手をかりたことが、なさけなかった。あたまでは分かってるのに、口にだそうとすると、のどのところがぎゅっとなって、息ができなくなった。すごく、すごく、くるしかった。
「あッ」
考えごとばっかりしていたら足がもつれて、からだが前にたおれる。かたいコンクリートに体がべしゃッとたたきつけられた。
がまんして涙の袋にぷつっと穴が開く。あっというまに目の前がゆがんで、ほっぺにあつい涙がぼろぼろ流れる。がまんがまん、っておもうほど、鼻がつん、といたくなる。うしろからきこえる足音をきいて、はっとした。
「おいっ、大丈夫――ッ」
「こんなのいたくないッ」
したを向きながら、声だけつよがった。手と足にちからが入らなくても、がんばって立ちあがった。
いたくないなんて、うそ。すごくいたい。ひざは心ぞうみたいにどくどくいっているし、手のひらも夏の日の鉄ぼうをにぎったみたいにあつい。でも、このひとによわいところを見せたくなくて、がんばって、つよがった。
「いたくないもんッ!」
なみだが出るところにきゅっと力をいれて、さけぶ。なんでもないっていう顔をつくって、ちからいっぱいにらみつけてやる。そう思って、わたしは顔をあげた。
かわいそうだなんて言ったら、ずつきしてやるんだから。わたしの頭、すごくかたいんだから――そんないじっぱりなきもちでいっぱいだった。
「一人で立ててえらいなあ!」
上から降ってきた声は、わたしが想像していたものとはまったくちがうものだった。
「へ、」と気のぬけた声が出る。そのときはじめて、その人の顔をちゃんと見た。その人はかわいそうな顔どころかしんぱいをする顔すらせずに、ただすごく、わらってた。
「ごめんな。財布に1000円札入ってねえの空こ――お父さんに言われて追いかけたんだけどよ、俺がもっと早く声かければよかったな」
その人は、ほんとうにごめん、という顔でまゆを下げた。そのあいだに、わたしの服についたすなぼこりをパンパンと払ってくれる。わたしはされるがままにすなぼこりを払われる。おじぞうさんみたいに、ぽーっと立っているだけになっていた。
「派手に転んだのに、少しも泣かないですげえなあ」
にこにこわらって、すごくほめてくれる。つぎに、わたしの頭がUFOキャッチャーのアームみたいにがしっとつかまれる。どこかに運ばれそうなくらい、おおきな手だった。とーさんよりもおおきい手だった。そのままごてん、ごてん、と首が右に左にゆれる。なでなでされとる。あたまのてっぺんがぼうっとあつくなった。
「強い子は好きだぜ」
白い歯を出して、にっと笑っている。夏のたいようとはちがう、朝にみるおてんとうさまみたいな笑顔。右と左で、ちがう色の目。あ……左のほっぺに、ほくろ、ある。目のまえでにじいろの光がちかちかとおどる。なにこれ。なに、これ。
からだの中でなにかが起きてることはわかって、でもそれがなんなのかわからなくて……かなしい気持ちよりもおどろきの気持ちが勝って、気がついたら、涙はぴたりと止まっていた。
スキ、すき、好き――その人の口から出たその二文字は、どうしてか、その人だけにしか言えない、とくべつなひびきに聞こえた。
夏休みに入って、本格的にお盆が始まろうとしている。
空厳寺は盆の準備でてんやわんや。連日近所の人が手伝いをしにきてくれて、人の出入りも激しくなってくる。毎年この時期になると、もう見慣れた光景だ。
準備で忙しくなるのは、空厳寺の一人娘である空良も例外ではない。しかしその前に現役の中学生でもあるので、空良は今目の前にいる敵を叩き潰していた。
「(できた!)」
早朝からとりかかっていた数学のプリントをまとめて、ファイルに仕舞う。夏休みの宿題は今月中に終わらせるということを目標に、今日まで頑張ってきたのだった。
課題一覧表の中にある数学の項目にチェックをつけて、一覧表を上から下までざっと確認する。すべてチェックがついたそれを見て、ふふっ、と空良はひとりでに笑った。
「終わった、終わった。宿題、ぜーんぶ終わったっ」
自室にて、小さな声で独り言を言う。かなり早いが、登校日の支度もしてスクールバッグのチャックを締めた。これで思う存分家業に専念できる。
盆の準備を取り仕切っている空却にさっそく報告を――とその前に、空良は軽い足取りで台所に向かった。
「(アイス食べよっとっ)」
目標通り、宿題を終わらせた自分へのご褒美である。
母さんが買ってきてくれたちょっぴり高いアイスクリーム。しかも私の好きな抹茶味。出来合いの生クリームなんかしぼっちゃったりして。母さんが作り置きしてくれとる白玉とあんこも乗せちゃったりして。ふふ、ふふふ。食べる前から空良の舌は踊っている。
薄手の作務衣のまま自室を出るといつも父に叱られるが、今日は来客の予定もないので自由な服装で出歩ける。まあ、ここに来る人は小さい頃からずっとほとんど顔見知りなので、今さら気にする必要もないのだが。
台所に続く暖簾をくぐって、冷蔵庫の前に立つ。冷凍庫の扉を開けると、キンキンに冷えたアイスが眠っている。その中からカップアイスを一つ取り出して、食器棚にある銀色のスプーンを口に加えた。あとは冷蔵庫にあるあんこと白玉が入ったタッパー、そして絞るだけの生クリームを片手に持てば、準備は万端。両手が塞がっているので、肘で冷凍庫をパタンと閉めた。
「――空良ちゃんか?」
さて自分の部屋でゆっくりと食べよう――そう思って、冷蔵庫にくるりと背中を向けた瞬間だった。
台所に入ってきた来客を見て、空良はぽかんと口を開ける。ナゴヤではそう見ないオッドアイを目にして、くわえていたスプーンがからん、と音を立てて、床に落ちた。
「ぁ、あ……ッ?」
「やっぱり空良ちゃんだよな? 最後に会った時は小学生のころだったから、一瞬誰かと思ったぜ」
久しぶり。もうすっかりお姉ちゃんだな
燦々とした挨拶に、ぺかーっとした笑顔が添えられる。かの人の背中から光が差していた。
「あ。スプーン、落ちたぜ」と言われた声が遠い。その人に差し出されるがままスプーンを受け取り、「ご、ごゆっくり、ど、ドーゾ……」と片言で呟いて、空良はその人と入れ替わるようにして台所を出た。
「(え……? え?)」
動揺と焦燥の感情に脳の容量を割かれて、上手く歩けない。“え?”と自問し続けながら、ふらふらと廊下を歩く。
そうして見つけたのは玄関で下駄を脱いでいた空却。それまでゆっくり歩いていた足は徐々に歩幅を大きくして、空良はその背中に向かってダダダッ、と走り出した。
「あぁ? おい空良。またんな格好で出歩いて――っ、ぅおッ」
空却にめがけて突進した空良。かなり勢いをつけたのに、なんの支えもなしにその身一つで受け止められた。
一時間ほど前に「ちょっくら外出てくるわ」と言って出ていった空却。てっきり散歩かと思ったがそうではなかった。全然“ちょっくら”ではなかった。空却が外に出た理由がじわじわと浮かび上がってきて、それと同時に怒りもこみ上げる。
「父さんッ!!」
「なんだよ」
「なんで今日一郎さんが来ること言わんのっ!?」
「先週言ったじゃねえか」
「お手伝いしに来るのは来週って話だったじゃんっ!」
「あー、予定変わったんだよ。一郎の方が来週予定入っちまってよ。今日から一週間うちに泊まる」
父さんのばかぁっ!!
どたばたどたばた。あんこと白玉が入ったタッパーと生クリーム。そしてアイスを持って廊下の端から端を行ったり来たりする。どうしよう? 先に着替える? アイスは? 溶けちゃう? あ、一郎さんにせっかく挨拶してもらったのに無視してまった。今から戻って挨拶だけする? でもこの格好じゃあ――ああもう最悪っ!
「(ありえんっ。ほんっとうにありえんッ!!)」
それもこれもぜんぶ父さんのせい――すべての責任を空却になすりつけて、空良は自室に戻って意味もなく部屋を二周する。そしてたまたま見た姿見を見て愕然とする。後ろで適当に一つでくくった髪。襟元が緩んだ作務衣。そして両手にはアイスとあんこと生クリーム――え?うそでしょ。こんな姿見られちゃったの? もうやだ。一郎さんに会いたくない。
「空良ちゃん、入ってもいいか?」
「ひぇッ」
襖の向こう側から一郎の声がする。「ちょ、ちょっとまってっ」と空良は裏返った声で返事をした。
いろいろと投げ出したい気持ちになりながら爆速で着替えて、髪を整えて、自分の顔を鏡で三度見て……ようやく襖の前に立つ。そこでも息を吸って吐いて、を三往復して、ゆっくりと襖を開けた。
「な、なぁに……?」
「アイス、よかったら一緒に食おうぜ。さっき、空良ちゃんのお母さんからもらったんだ」
一郎は空良が持っているアイスの味違いを持って、笑っている。一郎さんって父さんとタメだっだよね? アイス一つでこんなに笑うの? どうしてそんなにも子どもっぽいの? ずるいよ。母さん、一郎さんにアイス渡してくれてありがとう。
「う、うん……。いいよ」
「どこで食う? 『最近人の出入りがあっから空良の部屋で食え』って、空却に追い払われちまったんだけどよ」
「さすがに年頃の女の子の部屋ん中でアイス食うってのは……なあ?」困ったような、それでいて同意を得るような複雑な顔をする一郎。一方の空良はそれどころではない。一郎さんが? 私の部屋に入るの? それでアイスも一緒に食べるの?
「(私の部屋、宿題終わったばっかでちょっと汚いし、うちに部屋はたくさんあるけど、ここなら一郎さんと二人きり……うぅ〜ッ!)」
悩みぬいた末、「も、もうちょっと待っとってっ」と声をかけて、一度襖を閉める。散らかっているものを整理整頓し、折りたたみの小さなテーブルを部屋の真ん中に置いた。最後にもう一度自分の姿を確認して、ふたたび襖を開けた。こんなにも忙しないのに、一郎は嫌な顔一つせずにそこで待っていてくれた。
「お、おまたせしました」
「本当に入っていいのか?」
「いいよ、大丈夫だよ。ど、どーぞ」
たびたび声が震える。空良は俯きながら体を横にして、一郎に部屋に入るように促した。
「そんじゃ、お邪魔します」と礼儀正しくひと言言って、彼は敷居を跨いだ。子供っぽいのか、紳士なのか分からない。一郎が話すたびに、空良の脳はバグってしまう。
「つ、机、こんなちっちゃいのしかなくてごめんね」
「問題ねえよ。アイス食うだけだしな」
一郎は気遣ってそう返事をしただけなのだが、アイス食べたら部屋出ていっちゃうんかな、と空良の中でマイナスな思考が生まれる。なんでよ、ふつうのことじゃん。その“普通”なことさえ言葉の裏をめくってしまう。らしくない。
「空良ちゃんそれ、アイスにかけんのか?」
「え?」
一郎が“それ”とさしているものは、空良のかたわらに置いた生クリーム、そして白玉とあんこが入ったタッパー。わがままトッピングの数々に、首から上がぶわっと熱くなった。
「ち、ちがうからねっ?」
「ん?」
「いつもこんなことしんし、今日は夏休みの宿題全部終わったから、そのごほうびで、特別にトッピングして食べようと思っただけで――っ!」
「そっかあ。自分へのご褒美かあ」
聞いとる? 一郎さん話聞いとる?
伝わっているのか分からないが、一郎がにこにこ笑っているので、弁解する気持ちがしぼんでいく。一郎が笑うだけで胸の中がふわふわになって、なんでもよくなってしまう。何度も言うが、本当にらしくない。
「いちご味でもうめえかな」
「あんこと白玉は分からんけど……生クリームは合うんじゃないかな。し、しぼろうか?」
「マジで? それじゃあ頼むわ」
嬉しそうな語尾に喉が詰まる。終始向けられる笑顔が眩しくて、あまり目を合わせられない。幼い頃、「お天道様ばっか見上げてっと目ェ潰れんぞ」と空却に言われたのを思い出した。
アイスのカップのふたに爪をかける。冷凍庫から取り出したばかりなのでとても固い。おまけに緊張しているせいか手に力が入らない。
すると、横からするっと伸びてきた手によって、カップがさらわれる。その犯人の一郎は軽く手首を捻り、あんなに固かったカップの蓋をいとも簡単に開けて、机に並べた。
「開いたぜ」
「ぅ゙ー……」
「ん?」
はくはくと空気を食べて、なんとか酸素を取り込む。「ぁ、ありがと……」となんとかお礼を言って、内蓋のフィルムを剥がしていく。
「(もうッ。心臓うるさいッ。おさまってッ)」
ちょっとしたことで動揺してしまう心臓にやつ当たりしながら、生クリームを絞る。一郎の分はクリームを倍にした。抹茶味の方には隅に白玉とあんこを乗せる。白玉は一つ、あんこはスプーン一杯分にする。これ以上食い意地を張っていると思われたくなかった。
「ん! うめえ! 生クリーム合うな!」
アイス一つにここまで笑顔になる一郎に、「そっか。よかったね」とそっけなく返す。その裏側で空良は心の中でふふ、と笑っている。アイス一つなのにあんなに美味しそうにしとる。かわいい。
「昔知ってたら、弟たちにぜってえ食わせてたなー。カロリー高えほどうめえし、腹に溜まるから」
「今からでも、やったらいいんじゃないかな」
「だなあ。あいつらもお盆明けに帰ってくるから、そのときにやってみっか」
弟さん想いの一郎さん。家族を大切にする人は好きだ。空良の心臓がぎゅ、と縮む。
それからもアイスを掬いながら、お互いに近況を話し合う。しかし、一つの話が短くて、すぐにぷつ、ぷつ、と切れる。というのも、空良が「そうなんだ」「ふぅん」「そっか」と途切れさせてしまっているからだ。
「(うまく話せん。やだな。つまらんって思われとったらどうしよう)」
うじうじもじもじ。アイスが硬すぎていっこうに沈まないスプーンを強く握る。スプーンの周りから液体になり、全然掬おうとしないものだから、そこからまた硬くなっていく。空良は削るようにしてスプーンをスライドさせる。それでも全然力が入らない。
「一郎」
そうこうしている間に、開いていた襖から空却が現れた。部屋の柱に肘を置いてもたれながら、こちらを静かに見下ろしている。一郎は空却の方を振り向いている一方で、空良はアイスに集中しているふりをした。
「なんだ?」
「それ食ったら線香買ってきてくんねえか。いつも使ってるやつ、きらしちまってよ」
「おう。いいぜ」
父さんのばかッ。なんでこのタイミングでおつかい頼むのっ?
二人の時間を邪魔されて、空良はむっとした。アイスの最後のひと口を食べた一郎が立ち上がったので、内心かなり焦っている。まって、待ってよ。まだ話していたいのに。
「空良もアイス食ったら一郎と行ってこい」
「えぇッ」
「なんだよ。どうせ宿題終わってんだろ」
終わっとるけど心の準備とかいろいろあるじゃんっ。父さんのばかっ。
本日三度目の罵倒だが、もしも猫だったなら尻尾が揺れている。しかしこの気持ちを悟られてはいけない。「し、しかたないなぁ」となんでもないような声色で返事をした。
「空却。さっき宿題終わったばっかなんだから休ませてやれよ。空良ちゃん、俺一人で行ってくるからアイス食ってゆっくり――」
「行くっ。私も行くからっ。一郎さん、場所分からんでしょっ? 私、案内するからっ」
一郎の言葉を遮るように言う。「そうか?」と一郎がすぐに引き下がってくれて助かった。危なかった。
「あと、線香の店の近くにスーパーもあっから、このメモにあるもんも頼むわ」
「来て早々すげえこき使うじゃねえか」
「今年の盆は頼りにしてるぜ。萬屋サンよ」
いたずらっぽく笑った空却が、一瞬少年のように見えた。
かと思えば、「んじゃあ頼んだぜ。拙僧は卒塔婆書いてっから」とひらひらと手を振って行ってしまう。「ったくあいつは……」と呆れたように呟く一郎だが、その口元は笑っている。二人の関係は友達というにはもっと深いところで繋がっている気がするが、その正体はいまだによく分からない。
「空良ちゃん、ゆっくり食っていいからな。正直、ナゴヤに来たばっかで少しゆっくりしてえんだ」
「う、うんっ。ゆっくりたべる……っ」
なぜなら、空良は自分のことでいっぱいいっぱいだからだ。
さすがは一郎。気遣いも満点である。空良は一秒でも長く一郎と一緒にいるために、アイスが固そうなふりをして、小さなスプーンでアイスをちまちまと食べた。
この感情に、まだ名前はつけられていない。憧れなのか、尊敬なのか――昔、同年の幼なじみに聞いたら、「恋じゃないのー」とのほほんと言われたことがある。ちがう。そんな生やさしいものではない。一郎とべつにどうにかなりたいとは思っていないからだ。
自分のことなのに、分からないことが多すぎる。だから、一郎と一緒にいると不安で、緊張して……そのくせ、高揚感で胸がいっぱいになる。早いところ、この気持ちに名前をつけて安心したい自分もいれば、今のままでいいと怖がりな自分もいる。そこまで伝えてもなお、「だから、それが恋なんじゃないのー」と幼なじみはかたくなに言うのだ。だから違うって言っとるでしょ。
「買うものはこんだけか?」
「う、うん」
「じゃあ帰るか」
線香とスーパーでの買い出しはあっという間に終わってしまった。
正直、まだ帰りたくないというのが本音だ。もっとなにかないかな、と周りを見渡す。このまま帰るのは惜しすぎる。きっと、家についたら家族みんなで夕飯を食べて、それが終わったら一郎はお酒を飲みながら空却と語り合うにちがいないのだ。
アルコールが入った二人は、よく昔の話をしていた。たとえば、一郎が待ち合わせ時間に一分でも遅れると、「拙僧は待つのが嫌ェだっつってんだろっ!」と言って飛び蹴りしてくるのに、自分は二時間平気で待たせたりするだとか。負傷した一郎と喧嘩をするときは自分も鉄パイプで腕を折ってから挑んだ――などなど。さまざまな珍話が出てくる。その時生まれていない空良は実際に見たわけではないが、その現場を想像できてしまうのだから呆れてしまう(父に)。そんな二人が話しているところを見るのは嫌いではないが、それはそれ、これはこれである。
私だって一郎さんと話したいのに、父さんばっかりずるい。
「一郎さん、お店は忙しい?」
「まーぼちぼちだな。弟たちが自立してからは仕事量も減らしてっからパンクすることはねえけど、やっぱり夏休み前は子守りが多かったかな」
「そ、そっか」
苦し紛れに話しかけるが、歩くペースは変わらない。なんの話をしていいか分からないので、なんの時間稼ぎにもならない。
自己嫌悪に陥りながら「そういや、来る途中で空却と話してたんだけどよ」となんの脈絡もなく一郎が口を開いた。
「最近空良ちゃんが反抗期だって――」
「そ、そんなことないっ!」
一郎さんに余計なこと話さんでよ父さん! もしかして他にも変なこと言っとらんよね? あとで問い詰めんとかん。
空良が慌てて否定すると、「そうなのかぁ?」と一郎はいたずらっこのようににやっと笑う。
「そうだよっ。父さんが過保護すぎるのっ」
「まあ、空良ちゃんは女の子だしなあ。大事にしてえ空却の気持ちも分かっけど――」
「ゔ」
「ん?」
一郎に“オンナノコ”と言われると体中が猫じゃらしでくすぐられたように力が抜ける。「な、なんでもない。それで……?」と言って、話の続きを促した。
「まあ、他人の俺が言うのも変だけどよ。気にしなくていいと思うぜ。あいつも昔は散々だったし、自分のことは棚に上げるからよ」
「そ、そうなの! 父さん、自分はよくて私はだめだって言うの。このあいだだって、ピアス開けるのにすごく言い合いになって――」
「ピアス? あ、ほんとだ。開けたんだな! すげえ似合ってるぜ!」
こうやってすぐに褒めてくれるところが本当に大好きだ。
梅干しを食べたように顔をきゅっとしてしまう。俯きながら、「あ、ありがと……」と小さくお礼を言った。まだ小さなファーストピアスしか付けられていないが、似合っていると言われたのが嬉しくて、もうなんの話をしていたかすっかり忘れてしまった。
それからはたどたどしくも一郎と話をしながら、商店街に入った。見慣れた食べ物の店舗を流し見て、これだ、と空良は閃いた。
「一郎さんっ、おなかすかんっ?」
「あー、たしかに空いたな。なんか食って帰るか?」
やったっ。誘いに乗ってくれた一郎に、空良は心の中でガッツポーズをする。これであと三十分は一緒にいられるだろう。
「空良ちゃんはなにが食いたい?」
「一郎さんの好きなのでいいよ」
「んー。じゃあ空良ちゃんのおすすめが食いてえな。オオスでなにがうまいか分からねえから」
一郎らしい答えに唇をきゅっと結ぶ。責任重大だ。夕食前なので軽く食べられるものがいい。それでいて満足感があるもの――空良は商店街にある食べ物屋を頭に思い浮かべた。
「(メロンパン……は、私が好きなものだし、からあげは今晩うちで出るし――あっ)」
ふと通りがかった一つの店舗。赤い看板と可愛らしいロゴが印象的で、ショーケースにはりんごあめのレプリカがずらりと展示されている。流行りによって店の入れ替えが激しいオオス商店街だが、この店は何年も長く続いている。
「りんご飴か。おっ、すげえ。丸ごと売ってるのか」
「いろんな味あるんだよ。抹茶とか、ホワイトココナッツとか、シナモンシュガーとか……」
りんごあめといっても、祭りの出店のものとは違う。それぞれのフレーバーごとにフレークやパウダーがかかっており、今どきの味付けがされているのだ。
隣にいる一郎を見上げると、きらきらとした目でりんごあめを見つめている。可愛い、と思っていたら、突然こちらを見下ろして、「空良ちゃん、りんご飴食うか?」と笑顔で尋ねてきた。
「た、食べる! りんごあめ食べる!」
「じゃあ食って帰るか。空こ――お父さんには内緒な」
立てた人差し指を唇につけて、しー、と笑っている。不意打ちを食らって、「ぅ」と小さくうめいてしまう。お願いだから、笑うときは笑うって言ってから笑ってほしい。
「俺はプレーンにすっかな。空良ちゃんはなに味にする?」
「ぇ、えっと……じゃあ、ヨーグルトに、する」
「分かった。ちょっと待っててな。――すいませーん!」
店の奥にいる店員を呼ぶ。元気な声、と心の中で思う。はきはきと話す人は好きだ。
ここのお店のりんごあめはカットしてもらってカップに入れてもらうか、棒に刺さったまま提供してもらえるかが選べる。空良はカットしてもらい、一郎はそのままのりんごあめを受け取った。
「(結構かたいと思うけど、大丈夫かな……)」
カットしてもらったのはりんごにかかったあめが分厚くて、歯を立ててもなかなか食べ進められないからだ。ちなみに、このあいだ一緒にここの店のりんごあめを食べた空却は、「そのまんまじゃねえと食った気がしねえ」と言って、まんまるのりんごあめにかぶりついていた。空却は歯がとても鋭いので心配はしていなかったが、一郎は見た感じそれほどではない。
しかし、そんな心配も杞憂に終わる。一郎は大きく口を開けて、いとも簡単にりんごにコーティングされたあめをバリバリッ!と豪快に噛んで、齧られたりんごは口の中に吸い込まれていった。
「ん! うまい!」
全身ががずん、と重たくなる。自分のりんごあめを食べるのも忘れて、その笑顔に見入った。
「いい食べっぷりだねェ兄ちゃん!」と通りがけのおじさんに話しかけられて、「あざす!」と返事をする一郎。口の端についたあめの欠片を指で摘んで食べる。その一つ一つの所作に見入って、ぽかんと口を開けて、呆けている自分に気づいてから、下を向いた。
「(なんだろ、これ。ほんと、なんだろ……)」
ときめきと尊敬と――その他諸々の感情でできている、この気持ちは。
落ち着かない心臓の上に手を当てる。うるさい。働きすぎで体中に血が巡っている。額に汗が垂れているのは、気温だけのせいじゃない。一郎にバレないように汗を指で拭う。爪楊枝に刺さったりんごあめを頬張る。ヨーグルトの酸味と飴の甘みが合わさって、まるでレモン水のような甘酸っぱい味だった。
「おー、早かったな。おかえり――って、なにやってんだ」
空厳寺に帰宅し、空良は庫裏へ一直線に向かった。お気に入りの大きなクッションに沈みながら、天井を仰ぎ見てぼーっとすること十分ほど。空却がやって来て、さっそく声をかけられた。
ちなみに一郎はというと、帰ってきて早々、「買ったものを冷蔵庫に入れてくるから、空良ちゃんはゆっくりしてな」とにこやかに言われて、さっさと台所に行ってしまった。いいよ一緒にやるよ、と無理やり手伝うのもなんだか……素直じゃない子と思われるのも嫌なので、「わかった。ありがとう」と言うことを聞いて、今に至る。
「どうした空良。熱中症か」
「みたいなもの……」
お礼を言ったときの「おう!」の笑顔が頭から離れない。空却の問いかけにも空返事をしたくなるもの。そうだ、今日は太陽の光を浴びすぎた。セロトニンの過剰摂取だ。こうしてなにもしない時間を設けることで、空良は体にたまった熱を放出している。いつの間にか姿を消していた空却に気づいたのもしばらくしてからだった。
「(体もたくましいし、頼りになる。家族思いのところとか、よく通る声も、笑った顔も、すごく……いい)」
ただ、一郎とどうこうなりたいというわけではない。なにせ父の親友である。年齢差も現実的に厳しい。なら、もし自分とタメだったら? と考えそうなものだが、違う。今ここにいる一郎だから、きっとこんなにも胸が熱くなるのだ。
「だから恋だってー」と恋愛脳の幼なじみの声を打ち消して、空良は息を吐きながら、クッションにさらに体を沈ませた。
「空良ちゃん大丈夫かっ?」
「え?」
突然、一郎が慌てた様子でやってきた。
焦った顔をした一郎に、空良も何事かと焦る。彼の手には保冷剤と、額に貼る冷却シートが握られていた。なぜそんなものを? と考える前に、クッションの上で両膝を立てていた空良は全身冷や汗をかいていた。
まって。まって。今の私の体制、すごくだらしないんだけど。
「空却が『空良が熱中症かもしれねえ』っつってよ。悪い、気づかなくて。とりあえず保冷剤とでこに貼るやつ持ってきた。これで少しはマシになればいいんだが……」
体制を変えるために起き上がる間もなく、一郎が空良の額にぺた、と触れた。
「ひぇ、」と情けない声が口から漏れる。後退ろうにも、背中にはふくよかなクッションがあるので無理だった。覗きこんできた瞳から逃げられない。きれい、星みたい――徐々に上がる顔の熱を放出するように、は、と震えた息が口から漏れた。
「少し熱い……か?」と小さく呟いて、一郎の手は離れていった。
「空良。とりあえず水飲んどけ。……あ? なんか顔赤えな」
「でこも少し熱いんだ。本当に熱中症かもしれねえ。空却、嫁さんに言ってきた方がいいか?」
「頼むわ。空良、食欲あるか。ねえならお前の夕飯、唐揚げじゃなくて素麺にするが」
「食欲ねえなら素麺もきついだろ……。お前じゃねえんだから」
「ウチの子はたらふく食えば大体元気になんだよ」
一郎さんの前で私のこと食いしんぼうみたいに言わんで――そう言えたらよかったのだが、すでに空良の頭の中はキャパシティオーバーだった。あろうことか一郎と対になるようにクッションの真横に膝をついた空却。左右からぎゅうぎゅうと挟まれて逃げ場がない。
これ、だめだ。空良は悟った。二人が言い合いをしている間によろよろと立ち上がって、逃げるようにして部屋を出た。
「あ、おい! 病人が動くんじゃねえッ! 寝てろ!」
「熱中症じゃないからっ。へーきだからっ」
「平気そうな顔色じゃねえぞ空良ちゃん。今だけは空却の言うこと聞いた方が――」
「いいっ。いーからッ。大丈夫だからぁッ。ほかっといてっ!」
「お前反抗期も大概にしろよ! 寝てろっつってんだろ!」
「ちーがーうッー!!」
あつい。あつい。あつい。ギラギラと眩しい声たちに反抗してわっと大声を上げる。空良は日陰を求めて庫裏中を走り回った。しつこく追いかけてくる二人は、さながら真夏の太陽のように憎らしかった。
