Episode.5
「父さん。おねがいがあるんだけど」
ある日のこと。空良が空却の部屋にひょっこり顔を出し、冒頭のようなことを言った。
空却は卒塔婆を書いていた手を止め、「なんだ」と応じる。空良は部屋の敷居を跨いで、空却の目の前にすっと正座をした。その両手は背中に回っていて、どうやら何かを隠しているようだ。
怪我した野良猫でも拾ってきたか。……いや、こいつは何も言わねえで陰で面倒みるタイプか。なにか買ってほしいものでもあんのか。……それもねえな、ほしいもんがある時ほどなんも言わねえし。彼女の父親なりに頭を回すが、最適解が見つからない。そのあいだに空良がぱっと口を開いた。
「もうすぐ期末テストがあるじゃんね」
「期末テストぉ? ……あぁ、もうそんな時期か」
普段から学校の課題をきちんとこなしている空良が、特に長時間机に向かって勉強をすることが年に何度かある。そういうときは決まって、「テスト勉強しとんの」と言うので、空却もテストがある時期を自然と覚えてきた。
学生時代はテストなど興味がなさすぎたので、定期テストの存在自体頭から抜け落ちていた空却。テスト中は屋上で寝ていた記憶か、早く帰れて最高だぜ、と思った記憶しかなかった。
「学年で十位以内に入ったら、したいことがあって」
「へえ。褒美がほしいってか」
話は今に戻る。「うん」と真顔で頷いた空良に、これは珍しいこともあるもんだ、と空却は口角を上げ、片膝を立てた。
「なんだ。言ってみろ」
「ピアス開けたいの」
「は?」
「ピアス開けたいの」
同じことを同じトーンで言う我が娘。眉を顰めた空却は、今さっき浮かべたばかりの笑みをさっと消した。
「駄目だ」
「は、」
まさか駄目と言われるとは思っていなかったのか、空良の顔から表情が消える。そして、みるみるうちに彼女の目の色が鋭くなっていくのを見て、空却は小さな嵐の予感がした。
「なんでっ!? ねえなんでッ!?」
「そもそも、親に貰った体に穴開けるたあどういう了見だ」
「自分の耳、鏡で見てきてから言ってくれん?」
「拙僧はいいんだよ。男だからな」
「出たよく分からん男女偏見! ほんッと意味分からんしッ!」
ここ数ヶ月でじわじわと頭角を見せていた空良の反抗期。ここ数日でピークに達しており、少しでも気に入らないことがあると今のように声を荒らげる始末だった。
「ピアスのこと、母さんに言ったんか」
「うん! すごく楽しみにしてくれとった!」
母さんが泣くぞ、と言う前に、そもそも味方につけることさえできなかった。にこにこと笑う空良を見て、なんでこいつは拙僧にだけ反抗すんだ、と少し腑に落ちないでいる。
「でも……。開ける前にお父さんに相談したほうがいいかもしれんねえって母さんに言われたから、来た」
「へェ。殊勝な心がけだな」
「でしょ!」
ふふん、と鼻を鳴らす空良。反抗期とはいえど、母親の言うことはいつも通り素直にきいている。なんだこの差は、と思いつつも、こちらは大人である。このままお互いの主張をしても一方通行だ。少し煽ててやっか、と空却はふ、と溜息をつく。
「聞くだけ聞いてやる。どこに開けんだ」
すると、空良は分かりやすくぱあっと顔に花を咲かせる。待ってました、と言わんばかりに後ろに隠していたもの……スケッチブックを前に出してきた。
スケッチブックに描かれているのは耳の形をした絵。そこに黒丸が所々に書かれている。
「まず、ロブに一個とインダストリアルに二個でしょ。そのあとに耳の内縁を沿うみたいに等間隔で四つ開けて――」
「おい、おい。ちょっと待て」
嬉々として話している空良を制すと、「なに?」と途端に怪訝な顔をする。なに?じゃねえ。どしょっぱつから言いてえことが山ほどある。
「複数個開けんのか」
「もちろん」
「しかもロブんとこ拡張って書いてあんじゃねえか」
「うん。ファーストピアス開けたあと、拡張は18Gから始めて、最終的には00Gくらい拡張できたらいいなって。慣れてきたらもっと大きくしてもいいけど、個人差もあるみたいだからそこはお医者さんと相談――」
「駄目だ」
皆まで言わさずにぴしゃりと言う。話だけでも聞くつもりだったが、あまりにも本格的なデザインだったのですぐに気が変わってしまった。
すると案の定、「なんでなんでなんでえっ!」と空良は身を捩りながら癇癪を起こし始める。
「父さんだって私くらいのころにはもうピアス開けとったって聞いたもんっ!」
「だから拙僧は男だからいいんだよ」
「だからその意味分からん男女偏見やめてよっ!」
「なんとでも言え。駄目なもんは駄目だ」
最初は、年に一度あるかないかの娘からのおねがいを叶えてやらないこともなかった。しかしピアスは駄目だ。それも複数個。それも拡張ありきとは。そんな小さな耳に穴なんか開けたら、耳がほとんどなくなってしまう。
むむむッ、と顔を顰めた空良は立ち上がって部屋を出ていった。こんなことで諦める娘ではないことはよく知っている。次はどんな作戦に出んのか、と思っていたら、遠くの方でヴゥーッ! と不吉な電子音が聞こえてきた。
まさかあいつ――空却は足早に音がする方へ向かった。
「おいなにやっとんだッ!!」
「父さんがいいよって言わんなら髪の毛全部そって尼さんになってやるっ!」
「はあぁッ!?」
洗面所の前で、半ばやけくそになっている空良がバリカンを頭に当てようとしている。空却は寸のところで空良の手を掴み、そのまま壁に押し付けた。
「馬鹿なことしてんじゃねえッ! バリカン寄越せッ!」
「私ばかじゃないもんっ! はなしてよ父さんのばかぁっ!!」
「ぁあ゙!? 親に向かって馬鹿とはなんだッ!!」
「ばーかばーかっ!!」「三度も言うんじゃねえッ!!」壁に押し付けられても口の減らない娘に、こちらの温度感も上がっていく。
中学二年生の女子の力など大したことはないが、隙を見て抜け出そうとするので力加減をしながら大人しくさせるのが難しい。こんッの……!!
「こら二人ともっ! 真昼間からなにを騒いで――っ」
「親父ッ! 空良からバリカン取り上げろッ!!」
「おじいちゃんっ! 父さんのことどうにかしてえっ!!」
「ピアスか……」
場が落ち着いたところで、灼空の部屋に移動させられた空却と空良。温かい茶を飲むと少しは沸騰していた頭の中が落ち着いてくる。隣に座る空良も大人しくなって、茶請けのあられをやけ食いしている。
「空良がピアス開けたいんだと」と空却が言えば、案の定、灼空も顔を顰めている。そら見ろ。空良はあられを食べていたその手を止めて、顔色が曇った灼空をじっと見つめる。
「父さんは許可したのに私はだめなの? 女だから? おじいちゃんはそんなこと言わんよね? ねえ」
「いや、こいつは相談もなしに勝手に開けとったからな……」
「それじゃあ私も相談なしである日突然開けとったらいい?」
「そういうわけでもなくてだな……」
「おい親父揺らぐんじゃねえ」
どうも孫娘にはとことん甘い父親に、空却は鋭い眼差しを向ける。拙僧んときと扱いがちげえ。その視線の意図を感じ取ったのか、んんッ、と咳払いをした灼空は、また茶を一口飲んだ。
「空良ちゃん。そもそも、なぜそんなにピアスを開けたいんだ」
「アクセ付けれるから」
「んな理由が通るか。今は穴開けんでも付けられるやつが山ほどあんだろうが。わざわざ痛い思いして穴開けることもねえ」
「え……。やっぱり痛いの……?」
不安な色がさした空良の顔を見て、しめた、と空却は口角をにやりと上げた。
「おーおークソ痛えぞ。拙僧はそんなだったけどな。母さんに一度ピアス開けてほしいっつって頼まれたことがあったが、あまりの痛さに泣いて泣いて――」
「なんだそれは。私は聞いとらんぞ。空却、あの子にいつそんなことをした」
「げっ……。あー、あの、あれだ。未遂だ未遂。実際に開けたわけじゃねえ」
「なら泣いたのも嘘じゃん! 仏さんに謝って!」
くそ。なんでもかんでも誇張して話すもんじゃねえな。灼空の機嫌が氷点下まで下がったので、空良を怖がらせる作戦は失敗した。空気読めよ親父。
それから二対一の攻防戦が始まる。「べつにいーじゃん……。開けたいもんは開けたいんだもん」と泣きそうな声で訴えてくる。ぐ、とさらに灼空が顔を顰めたのを見て、空却はどっとため息をついた。
「……一位だ」
「え……?」
「たかだかテストで、それも学年十位以内なんざ生易しいんだよ。どうせなら一番とってこい」
奥の手だった。空良の顔がひくついた。「なんだ。やめんのか」と言えば、負けず嫌いの空良はすぐさまむっとした顔をして、その場からすくっと立ち上がった。
「いいよっ! 一位とってくるッ。一位とったら、このスケッチブック通りにピアス開けるからねッ!」
ばんっ、とスケッチブックを畳に叩きつけてから部屋を出ていった空良。嵐が去っていた後に来るのは静寂と決まっている。そんな中、茶を啜る音の後に、はあぁ、と長い溜息が灼空の口から漏れた。
「まったく……。自分でもできんかったことを子供にさせおって。お前が中学生だった頃なんかは、下から数えた方が早かっただろう」
「あんな役に立つかどうか分かんねえテストなんて、拙僧は元々やる気なかったんだよ。つか、親父が空良をもっと説得しやあよかったんだろうが」
「空良ちゃんも今は多感な年頃だ。頭ごなしに駄目だと言っても納得しないだろう」
その理由が六割、孫娘の可愛さ四割と言ったところだろうか。ったくどいつもこいつも、と悪態をつきたくなった空却は、空良が置いていったスケッチブックを拾い上げた。
どこからどう見ても、あんな小さな耳にこのデザインはいかつすぎる。ヘリックスを開けるあたりで痛みで泣く空良が容易に想像できた。そのうちへそにも開けるなどと言い出しそうで、空却は唇をへの字に曲げた。
「空良のやつ……一丁前に色気づきやがって。誰に似たんだか」
「お前しかおらんだろうがたわけ。自分の耳を鏡で見てこい」
「たでーま」
「おかえり」
それから数日間が経ち……空却は空良が勉強しているところしか見ていなかった。
最近は庫裏に上がると、食卓で空良が教科書やノートなどを広げて猛勉強している。いつもなら自分の部屋でやっているはずなのだが、「人の目があった方が集中できるから」と言って、ここで勉強するようになったらしい。
「精が出るな」
「私、今回は本気だから」
問題集だかノートだか分からない冊子から目を離さずに空良は言う。ふーん、と空却は勉強する空良を横目に、彼女の正面に腰を下ろした。
すると、「なんか用?」と空良は声だけ空却に向けたので、「別に大した用じゃねえが、」と前置きをする。
「橋谷んとこのばあさんがおはぎ持ってきてよ。とりあえず今境内にいるやつらに配るが、お前はどうするか聞きに来た」
「えっ。おはぎ?」
夜空に瞬いた星のように、空良の目がきらっと輝く。しかしそれも流れ星のように一瞬で、黒い瞳の中ですっと消えてしまう。
「……私はいい」
「なんでだよ。お前いつも食ってんだろ」
「まだ今日のノルマ終わっとらんから」
いつもなら、「食べる!」と即答してシャーペンを放っておはぎを食べに行く空良。だが、今回はピアスデビューがかかっているのでそうもいかないらしい。なにかに打ちこんで頑張っているその姿は褒めてやりたいと思うが、どうもつまんねえな、と空却は感じた。
「へーえ」とわざと大きめに声を出し、適当な方向に目を向ける空却。再び机に視線を落とした空良をちら、と一瞥した。
「そういやァ、さっき母さんもなんかせっせと作っとったわ。このあいだ大量に枝豆もらっとったから、ありゃあずんだ餅に化けるな」
「えっ! ずんだもちっ?」
顔を上げた空良の目の中で、今度は流星群のようにたくさんの星が流れた。これでどうだ、と心の中でにやりと口角を上げる空却。それでも、空良の中で天使と悪魔が戦っているのか、むぐぐ、と渋い顔をし始めた。
あー、だの、うぅー、だの机に向かって唸りに唸った後、空良はゆっくりと顔を上げた。
「……父さん」
「なんだ」
「ずんだもち、あとで食べるから私の分残しといてって母さんに言っといて」
「んなもん自分で言ってこい。拙僧は伝書鳩じゃねえ」
むっ! と顔をしかめた空良がようやくシャーペンを置いた。素早く立ち上がるなり駆け足で、「かあさーんっ!」と大きな声を出しながら台所に向かっていった。
まだまだガキだな、と思いながら、空却は空良が勉強していた机の上を見る。マーカーが引かれた教科書、きっちりととられたノート、丸が目立つ問題集……これらのものをすべてまっさらな状態で三年間過ごしてきた空却は、こういう使い方すんのか、とこの歳になって初めて知る。空良が戻ってくるまでの退屈しのぎに、歴史の教科書をぺらぺらとめくっていた。
……しかし、いつまで経っても空良は戻ってこなかった。なにやってんだ、と空却も台所に向かう。台所の電気は付いているが、お庫裏の姿はなかった。
代わりに、大きな皿に山盛り盛られたずんだ餅を、幸せそうな顔でもっ、もっと食べている空良がいた。
「なんだよ。結局食べてんじゃねーか」
「ふぅっ!?」
ずんだ餅を口に含みながら変な声を出す空良。ごくん、とずんだ餅を腹に収め、あっ、あっ……、と口を金魚のようにぱくぱくとさせていた。どれだけ反抗期といえど、綻ぶといつも通りの空良なので笑えてきてしまう。しかし、ここで笑ったらまた騒がしくなるので、空却はポーカーフェイスを貫いた。
「だっ……だってずんだもちおいしそうだったんだもんっ。ちょっとだけ食べてただけだもんっ」
「へえ。わざわざ茶まで淹れてなぁ? 用意周到じゃねえか」
「母さんがいれてくれたんだもんっ!」
「これ食べたら続きやるからっ」「誰もやれなんざ言ってねえだろ」冷蔵庫に用があった(ふりをする)空却は、こっそりと空良を見る。ゆっくり食べたらいいものを……空却に見られたことでばつが悪くなったのか、ずんだ餅をばっくもっくとものすごいスピードで食べていた。
「美味いか」
「うんっ。おいしいっ」
「拙僧の分も残しとけよ」
「いや!」
「嫌じゃねえよ。まあ勝手に食うけどな」
「あーッ! 母さんが私にって言ってくれたのにっ!」
わーわー言っている空良を無視して、空却はずんだ餅を一つひょいっと摘んで口に入れた。 焼きたての熱々の餅は肉厚で歯ごたえがあり、枝豆の風味の中にあるあまじょっぱい味との相性も良い。ん、美味えな。
二個目も手に取ると、仇を見るような目で空良にじいっと睨まれる。ようやくいつもの空良に戻ったようで、空却はにや、と笑う。こっちの方が断然面白い。ふん、と鼻で笑い飛ばした後、もう一つのずんだ餅を口の中に放りこんだ。
テストは三日間に分けて行われ、学校は午前中に終わる。「ただいまっ」と空良が庫裏へ入ってくるなり、聞いてもいないのに嬉々として今日のテストの出来を報告しに来た。
「テストできたっ! 解答欄ぜんぶ埋めたっ! 分からんとこもなかったっ!」
三日間ともそんな満面の笑みで帰ってきた空良に対して、「おー。よかったじゃねえか」と空却は平然と返事をする。ふふん! と勝ち誇ったような顔を浮かべているのが見なくても分かった。
テスト勉強から解放された空良はこれでもかというくらい浮ついていた。お気に入りの大きなクッションの上に沈みながら、「ピアス、どんなの買おうかなあ~っ」と言ってスマホをいじっている。それも、わざとらしく自分の前で。ちらっ、ちらっ、とたまにこちらを見ている気配がひしひしと伝わってくるが、空却は気づいていないふりをしていた。
――そして、本日。すべての答案用紙が返ってきて、期末テストの学年順位が発表された……らしい。
「(ったくあいつは……夕飯も食わねーで)」
夕方のおつとめはすでに終わっていて、じきに十九時になろうとしている。学校から帰ってきてから、空良はずっと蔵に篭っているようだった。
理由は聞かなくても分かる。伊達に十四年も空良の父親をしているわけではない。ただ、あの頑張りと自信を見てきた以上、今回はいつもよりも違うこということは分かった。
――かたんっ、と音がする。どうやらようやく庫裏に上がってきたようだ。部屋の前から気配を感じて、「入ってこい」と声をかけると、おそるおそる襖が開いた。
髪は乱れ、セーラー服にはいくつも皺がある。ずっと顔を俯かせているが、なんとか話せる状態のようだ。空良は空却の前までよたよたと歩いてきて、その場にぺたんと座った。
「メシは食ったか」
「ざっき……くら゙で、おに゙ぎり……」
「母さんが持ってきたんか」
「ん゙……」
「ならいい」
腹が膨れているなら、いいのだ。空いているときは思考も言葉もなにもかもがマイナスになってしまうものだから。
母親と話をして感情が大分収まったのだろうが、これまでにないくらい鼻声だ。話すたびにずびずびと鼻をすすりながら、なんとか口を動かしている。
「てずと、げっか……かえ゙ってぎた……」
「おう」
機械のようにギコギコとした動きで、空良が腕を前に出す。力が入って握りすぎたのだろう……ぐしゃぐしゃになったテスト用紙と順位表を畳に置いた。
どれ、と空却はテスト用紙を拾い上げる。満点は国語と社会と数学、そして副教科。順位表に書かれているのは平均点とクラス順位、そして学年順位は――
「(六位か)」
空却は九十点台の数学と英語のテストを見る。空却も通っていた、地元の中学校だ。全五クラス四十人前後の編成。サボるものはサボるが、真面目に勉学に励む者もいるので上と下の差が激しい学校……らしい。空良は普段学年で三十位のところを行ったり来たりしていた。だが、その頃も決してサボっていたわけではなく、きちんと勉強していた姿も空却は見ていた。だから、今回は寝食の時間を削って頑張っていたのだ。
その結果を、空却はもう一度見る。一位は全教科満点で、六位との差はたったの数点だった。
「前回よりえらい順位上がってんじゃねーか」
空却がそう言っても、空良は答えない。空却は空良がこのあいだ置いていったスケッチブックを手元に持ってくる。そこには空良の“おねがい”がぎゅっと詰まったイラストが書かれている。
「だがまァ、約束は約束だわな」
「ん゙ッ」
微かに声が聞こえた。言い訳も何もしない娘に、「なんだ」と空却は短く尋ねる。
「言いてえことがあんなら聞いてやる」
「な゙い」
「ないこたぁねえだろ。今にも爆発しそうな顔しやがって――」
「ない゙っていっとる゙じゃん゙ッ!!」
唐突にわっと声を上げた空良の顔は、それはもうぶくぶくに腫れていた。目の下はもちろん、頬や唇もぶっくりと赤く、数時間のあいだ、蔵でわんわんと泣いていたのだと想像できた。
「すーがぐもえ゙ーごもっ、みなお゙じじんがっだから゙まちがえだの゙ッ! けあ゙れすみすだったの゙ッ! わたしがわういも゙んッ! わ゙がっとゔもん゙ッ! わらしがわゔいんらもんッ!」
「分かってんのになんで泣いてんだ」
「ぐや゙じい゙の~ッ! み゙すしたじゔんがむ゙がつぐの゙ぉッ!」
拳をつくった空良は、畳に向かってそれをどんッ、どんッ、と叩きつける。そのたびに頬に伝う大粒の涙がぼたぼたと畳の上に落ちていく。このまま放置しておけば、ちょっとした水溜まりができそうなくらいだった。
あれだけたっぷりとあった自信が折られ、ピアスデビューの夢も消えたダブルパンチで、空良はこれ以上になく荒れていた。話をしようにもこれじゃあできねえな、と空却は息をつく。とりあえずテストの結果から話を逸らすことにした。
「そんなに開けたかったんか」
「ゔん……ッ」
「装飾物なんざピアス以外にもあんだろ。かっけえのが欲しけりゃあ他の――」
「ちがゔぅ……っ」
空却はほんの少し目を見開く。心が弱っているからか、普段よりも素直になっているようだった。
空良はえぐえぐと泣きながら、空却と目を合わせる。同じ色をした目が、今はゆらゆらと檸檬水ように揺れていた。
「どーざんの……み゙み゙……」
「あ?」
「どーざんとおん゙なじがいいん゙だもん゙……っ。がっごい゙いのがいい゙んだもんん゙……ッ!」
自分の奥底にあった気持ちを口にした空良は、また涙を生みだす。ついに畳に突っ伏してわんわんと泣き出した一方で、空却は目を丸くしていた。
……やっぱ、こいつに似てんのは拙僧じゃねえだろ。空良の言葉を聞いてどっと溜息をつきたい衝動に駆られたが、喉奥に押し込んだ。代わりに、宙を仰ぎながら細く長い息を吐く。
「……ロブに一つ」
「ぅ゙……?」
空良がおそるおそる顔を上げる。びしょぬれになった空良の顔を見兼ねて、空却はティッシュ箱を手繰り寄せた。
「耳たぶに一つだけなら許してやるっつってんだ。おら、鼻かめ」
何度もティッシュを鼻にあててやる。ひっく、ひっく、と上下する空良の肩。ようやく目から溢れるものがなくなったのを見て、寝巻きの袖でぐしぐしと目の周りを拭いてやった。
「い゙ーの……っ? ぴあす、あ゙けてい゙ーの……っ? ほんどに゙……っ?」
「約束は果たせなかったが、お前の頑張りに見合う褒美はやらねえとな」
「ただし拡張はすんなよ」一番重要なことを付け足すと、空良はちーんっ、とひと際強くティッシュで鼻をかんだ。
泣きすぎて頭がぼーっとしてきたのか、空良の目がとろんと蕩けていく。「でも、でも……っ」と多少マシになった声でうろたえながら、散らばったテスト用紙をかき集めて、再び手の中でくしゃっと握りしめる。
「いちいとっとらんし、ろくいだし、やくそくやぶってまったし……っ」
「約束とは別に、拙僧からの褒美だっての。お前がすげえ勉強してるとこ見たときから決めてたんだよ」
「いいの……? ほんとにいいの……?」
空良は何度も何度も確認する。夢かもしれない、とでも思っているかもしれない。そんな空良を安心させるように、「おう。いいぞ」と言うと、ようやく止まったと思っていた涙が、また空良の目からぼろぼろと溢れ出した。
こりゃあ駄目だな、と空になったティッシュ箱を見つめて、空却はもう空良が泣き疲れるのを待つことにした。「ゔぅ゙~っ」と唸りながら立膝でじりじりと近づいてきた空良は、空却の膝の上にぐり、と頭を押し付ける。
「ぁ゙……」
「あ?」
「あ゙い、がとぅ……」
「おう」
「つぎ……」
「なんだ」
「つぎ、は……ぜったい……いちい、とう……」
空良は根っからの負けず嫌いだった。今回は特に涙腺が壊れるくらいの悔しさを味わったらしい。ぼそりと呟かれた空良の宣言を聞き入れた空却は緩やかに目を細めて、何も言わずに彼女の頭をぐしぐしと撫でた。
