Episode.7



 息を吐くのも忘れるほど、多忙な日々が続いている。
 何十年と毎年同じことを繰り返しているが、この時期だけは未だに骨が折れることの方が多い。家族とは、早朝と寝る間際にしか顔を合わせることはなく、あとは皆散り散りになって目の前のすべきことをこなしている。
 例年通り、盆終わりまではこの調子だろう。寺の繁忙期であり、年々気温が上がっていく今日この頃。忙しいのは仕方ないので、この夏は誰一人倒れなければいい、とだけ祈っている。

「あ゙ークソあっちいな……」

 午前中にやることを終え、いったん寺に帰ってきた。暑くて重たい袈裟を脱ぎ、ひとまず動きやすい着流しに着替えた。一緒に檀家回りをしていた空良は玄関をくぐるなり、「シャワー浴びてくる」と言って、さっさと浴室に籠ってしまった。
 ハンディファンを顔に当てながら廊下を歩いていると、玄関先で見慣れた背中が上り框に腰かけていた。

「なんだ親父。帰ってたのか」

 空却が声をかけると、灼空が顔を上げた。こちらは汗だくでしかめ面だというのに、灼空だけ涼しい顔をしているのが少しだけ悔しく感じる。

「あぁ。飲み水を足しにな。空却は終わったのか」
「あとは斜向かいの婆さんとこだけだ。さっき顔出したんだが、準備が終わってないってんでいったん帰ってきた」
「ならそちらは後で私が行こう。お前は空良ちゃんと一緒に昼食を摂っておきなさい」

 さらりと言った灼空に、空却は眉を顰めた。

「なんでだよ。親父も自分の担当あんだろうが」
「私の方は予定よりも早く終わったから問題ない。それに、お前が休まねば空良ちゃんも休めないだろう」

 灼空にそう言われて閉口する。たしかに、大人と子どもで体力に差があるといえど、空良一人にだけ休憩しろと言っても、「なんで私だけなのっ」と癇癪を起こすに違いなかった。
 頬をぷうっと膨らませた空良の顔を思い浮かべつつ、「んじゃ、ありがたく」とだけ言う。灼空は深く頷いて、再び猛暑の外へ出た。
 もうすぐ還暦だというのに、それを微塵も感じさせない体力だ。あの調子じゃあ百寿まで生きるな、と空却は目を細めた。

「(さて……昼メシどうすっかな)」

 休息の時間は限られている。台所に足を伸ばして、冷蔵庫を覗いた。この時期になると、皆が忙しくてもすぐに食べられるようにと、お庫裏が作り置きしてくれている大量のおかずがタッパーに入って保存されている。
 ありがてえな、と心の中で手を合わせ、何個かタッパーを取り出す。食べる分だけおかずを大皿によそい、電子レンジを稼働させた。

「(他にもなんか作るか)」

 灼空もお庫裏もまだ昼食を食べていないだろうから、二人ですべてのおかずを食べ尽くすわけにはいかない。かといって腹を満たすには少しばかり量が足りない。続けて野菜室を覗くと、切られたキャベツやらもやしやらが入っている野菜ミックスの袋が眠っていた。

「おっ。麺もあんじゃねえか」

 焼きそばの麺を見つけたので、作るものが決まった。四人分なので、ついでに今ここにはいない二人の分も合わせて作ることにする。
 大きなフライパンを出して、火を入れる。適当に油を引いて、豚肉を炒め始めると、風呂から上がった空良がタオルドライをしながら入ってきた。

「お昼ごはん?」
「おう」
「お肉?」
「焼きそばだ。髪乾かしたら手伝ってくれや」

 「はあい」と間延びした返事を背中で受けながら、手を動かす。風呂に入った後だからか、普段よりも態度が丸くなっていた。
 豚肉を粗方炒めたら野菜を入れる。野菜から水分が出たところで麺と付属の粉を一気に投入し、強火で素早く混ぜ合わせていった。
 しばらくすると、空良が戻ってきた。空良は冷凍庫からご飯を出して、温め終わったおかずと入れ替えるようにご飯を温め始めた。我が子ながら手際がいい。

「空良」
「ん?」

 菜箸で麺を少し摘んで、空良に手招きをする。近くに来た空良が察して、あー、と口を開いた。
 釣り糸のように麺をゆっくり垂らすと、小魚のように麺をぱくっと食んだ。

「どうだ」
「ちょっと薄いかも」
「ソース出してくれ」

 冷蔵庫から出してくれたソースを受け取り、焼きそばに一周かける。適当に馴染ませて、さっきよりも色濃くなった麺を摘み、もう一度空良に食べさせようとする。

「あー……んっ?」
「おー。釣り損ねた」

 食べられそうなところで竿を引くように菜箸をひょいと上げると、「もうッ」と空良が小さく怒る。想像通り膨らんだ頬が見れて満足したので、「わりぃわりぃ」と軽く笑って、今度こそ空良の口に麺を入れた。

「どうだ」
「うん。ちょうどいい」

 空良の言葉でガスを消した。皿二つ分によそっていると、なぜか隣でそわそわとしている。なんだ、と聞けば、口を小さく動かしてなにか言っている。

「目玉焼きも、のせてほしい……」
「どっちがいい」
「半熟っ」

 目をきらっとさせた空良に向かって、「卵」と手を差し出す。フライパンに油を引いて、手のひらにぽんと乗った卵を一つ、二つと割っていく。白身が固まってきたところで少量の水を入れ、蒸気を閉じ込めるように蓋をした。
 振り返ると、すでに空良が配膳をしてくれていた。白ごはん、おかず二品、豚汁、そしてもうすぐできる目玉焼き乗せの焼きそば――ちと食いすぎか? 空良に視線をやると、空良は「食べれるよ」と即答した。
 準備万端の空良が椅子に座ろうとしたところで、タイミング良く玄関から声が聞こえてきた。来客だ。

「出てくる」
「頼むわ」

 脱兎の如く駆け出した空良を見送り、フライパンの蓋を開ける。水分は蒸発してなくなっており、卵の黄身は薄膜の白身に覆われていた。
 空良の分だけ先に焼きそばの上に乗せる。自分の分はひっくり返して、再び強火で焼いた。
 黄身が完全に固まったところでガスを消す。空良が戻ってくる間に洗い物をしていると、背後からゴロゴロと重たいものが転がる音が聞こえてくる。
 台所に先に入ってきたのは空良――ではなく、大きなスイカ。夏の風物詩ともいえるそれを雪玉のように転がしてきたらしい空良は、得意げな顔でにまにまと笑っている。

「ふふ。もらっちゃった」
「でけえな。誰からだ」
「総代のおじいちゃんから。差し入れだって」

 スイカの表面を手のひらでポンポンと叩く空良。良い音だ。両腕で抱えるように持ち上げると、意外にもひんやりとしているスイカに目を開いた。

「持ってくる直前まで冷蔵庫で冷やしてくれてたんだって」
「なら今切っちまうか」
「ひと切れ食べてもいいっ?」
「メシ食ってからな」

 またしても目をきらっとさせた空良は、嬉々として大きな平皿を出してきた。
 昼食をちゃっちゃと食べて、スイカを切っていく。薄い半月型になったスイカは皿に乗り切らず、溢れた分は二人で処理することにした。

「あんまーいっ」
「種はここに吐けよ」

 シャクシャクという音が返事だと思っておく。先端から皮の方まで真っ赤に熟れたスイカは、瞬きの間に空良の口へ吸い込まれていく。あれだけの量の昼食を食べても、お腹いっぱいとギブアップする気配はない。そんな小さな体によく入るな、と感心すらしてしまう。

「ごちそうさまでしたっ」
「お粗末さん」

 食休みすることなく皿を片付ける。午後の予定も詰まっているのでゆっくりはできない。この通り私生活は多忙を極めているが、今月だけの辛抱だと思えばどうということはない。家族皆同じ状況なので、お互い支え合って乗り越えるしかない。
 片付けが終わって、軽くシャワーを浴びた。身支度を終えて玄関に行くが、すでにいると思っていた空良の姿がなかった。

「空良。もう出るぞ」
「もうちょっと待ってっ」

 空良の部屋を覗くと、なにやら切羽詰まった様子の我が子がいた。袈裟には着替えており、あとは出るだけのはずが、なぜか頭の上で両手をこちょこちょといじくっている。

「なにやってんだ」
「髪がまとまらんの」

 焦ったように早口で言われる。時間がないことは空良も分かっているだろう。焦らせるつもりはないが、本人は一人で急いてしまって、毛束がゴムから逃げてしまっている。
 去年と比べたら髪も伸び、量も増えた。一つのお団子にまとめようとすると、ゴムとネットでは収まりきらないのかもしれない。今日も終わり頃に毛先がぴょんぴょんと跳ねていた。今朝はお庫裏にお団子をしてもらっていたが、あいにく彼女は今外に出ている。
 どうしたもんか、と思案している途中で、ふと思い出したことがあった。一度自室に戻って、普段使わないものが仕舞ってある引き出しから、きらりと光るものを見つける。それを持って空良の元へ戻ると、まだ自分の髪と格闘していた。

「貸せ」
「あ」

 空良から櫛を奪って髪をまとめる。髪の束の真ん中に刺すようにそれを入れ、ぐるんと一回転したところで、同じ場所に斜めに挿した。お庫裏が毎朝自分の髪でやっているように見様見真似でやったが、案外綺麗にまとまった。
 「できたぞ」と空良の背中を叩いて立ち上がる。そのまま早足で玄関に向かって下駄を履いていると、なにが起きたか分かってない空良が頭を両手でさわさわと触っている。

「なにこれ? なにで留めとるの?」
「簪」
「かんざしっ!?」
「華美なもんじゃねえから平気だろ。行くぞ」

 こんなの檀家さんと会うのに付けちゃかんでしょ、と真面目なことを言われる前に先手を打った。「鏡っ。鏡どこっ」と空良が言うので、「ちゃんとまとまってっから大丈夫だっつの」と無理矢理外へ連れ出した。さすがに時間も差し迫っているので、鏡で確認させる余裕はない。
 最後まで渋っていた空良は黙ってついてきた。歩きながら、険しい顔で髪を触っている。あんまいじくると乱れるぞ、と思ったが、好きにさせておいた。乱れたらまた挿し直してやればいい。
 ふーッ、と熱い息を漏らして、雲一つない空を見上げる。家を出てまだ数分しか経っていないのに、新たに生まれた汗が首筋を伝った。午後からは特に水飲んどけって空良に言わねえとな。大きな背中を追っていた昔と比べて、追われる側になった今のほうが気にすることが増えていた。