Episode.2
誰かに言われたわけでもないことを、当たり前にこなす。帰ってきてから手を洗うのと同等の――一般家庭とは少し違う、波羅夷家の作法の一つだ。
「御本尊様、ただいま帰りました」
本日も一日お変わりのない御本尊に向かって、空良は静かに合掌する。御本尊が御座す此処――本堂には、時々参拝客や修行僧がいるが、今日は空良一人だけだった。
学校であったことを御本尊に聞いて頂いた後、空良はゆっくりと目を開ける。御本尊の挨拶を終えたら、いつもなら庫裏へ一直線に入るが、今日は人目を避けるような身のこなしで本堂を出た。そして、あらかじめ台所で準備をしてきたエサの器を持って、軽い足取りで彼らの会合の場に向かった。
――空厳寺境内。その所々に猫がよく屯している。野良猫にエサをやるのはあまりよくないことだと自治会からの苦言だが、境内では暗黙の了解としてやっている。ほとんどの雄猫は去勢をしているし、増えることはほとんどないだろう。それに、猫がいる方が近所の人達や観光客からも評判がいい。お猫様は人間の心に幸せを運ぶのだ。
境内の隅にある、寂れた蔵の裏をちらりと覗く。すると、すでに空良の足音を聞いていた猫達が、鳴き声とともに足元に近寄ってきた。
「ちょっと待っとって。今日は細工をしなかんの」
そう言って、空良はリュックの中に入れていた新聞紙を取り出して、その中に例の紙を挟む。地面に新聞費を敷いた後に器を置くと、猫たちは待ってましたと言わんばかりに一斉に群がってきた。
よしよし。これでカモフラージュは完璧。あとは見回りの当番によって器と新聞紙が回収され、新聞紙はお焚き上げ用として倉庫に入れられることだろう。最悪、“あ、美術で使った新聞紙に紛れて捨てちゃったかもしれん”と言って、真実を闇に葬ることができる。
空良は一人、口角を上げる。そして、器の中にあったエサが早くもなくなりそうだ。程よくお腹いっぱいになった猫達は、後ろにいた他の猫に場所を譲って、満足そうに毛繕いをしている。一匹だけでがつがつと食べないでエサを分け合う……仲間想いのいい子たちだ。空良が追加で持ってきたエサを器に入れると、まだお腹が満たされていない猫達の食べる勢いが増した。
「父さんには言っちゃかんよー」
たった一匹、足元に擦り寄るばかりの三毛猫の頭を、空良は指の先でちょいちょいと撫でる。言葉の意味が分かっていないらしい猫は、気持ちよさげに喉をゴロゴロと鳴らすだけだった。
「空良」
夜半。お風呂上がりの空良が、髪を乾かし終えた時のことだ。
居間に入ってきた着流し姿の空却が、鋭い目つきでこちらを見下ろしている。そんな眼差しを浴びせられるようなことなど何もしていない(表面上は)。なので、“理由も分からないのに、なぜか父親に一方的にガンを飛ばされて気分が悪い”という装いで、空良は父と同色の目できッと睨みつけた。
「なに」
「お前、学校の知らせの紙どうした」
万が一のことを思って、そう聞かれることはあらかじめ予想していたが、なにせお風呂上がりだったものだから完全に気が抜けていた。震えそうになった体をなんとか堪えたものの、一瞬目が泳いでしまった。隙をついたようにすっと細められた父の眼差しから逃げるようにして、ふいっと視線を逸らした空良はドライヤーのコンセントを抜いた。
「今日は、配られとらん」
「へェ。じゃあこの紙切れはなんだ?」
紙擦れの音とともに、空却は袖から取り出した一枚の紙をこちらに突きつけてきた。
「……なにそれ」
「猫のエサ置き場の下に敷かれとった」
「知らんけど」
「お前以外におらんだろうが」
「記憶にございません」
空良は平静を装っているものの、緊張のあまり全身の皮膚がひどく敏感になってしまっていた。体が衣服に擦れるたびに手足の動きがぎこちなくなる。挙動は明らかに不審だろうが、口だけは流暢に動くのが救いだった。
逃げるが勝ち――空良が早いところ自室に篭ろうと、ドライヤーを素早く仕舞う。そして、「おやすみ」と押し付けるような挨拶をして空却とすれ違った後、「そーいやァ」と彼の声がよく通った。
「母さんがこの日の会合なくなったっつっとったな」
「は!? なにそれ聞いとらんのだけど!」
「嘘だわ」
空良が振り向くと、不敵に笑う空却がいた。ばァか、と副音声が聞こえてきそうな顔がまた腹が立つ。空良は悔しそうに下唇をむぐっと噛んだ。
「閻魔様に舌抜かれてしまえ」「親に向かってなんつーこと言うんだお前」せっかく途中まで上手くいっとったのに……。こんな時間から、空良は心の中は一気に荒んでしまった。
“授業参観のお知らせ”――大々的に見出しを飾るA4紙。いつもならば、空良にとって大イベントと言ってもいい授業参観。学校の行事には主に母が来てくれていて、早く帰れる日にはカフェに寄って二人きりの楽しい時間を過ごしている。寺のことでいつも忙しくしている母を独り占めにできる最高のひとときだった。
なので、今学期も期待に胸をふくらませていたのだが、月間予定が発表された時点で、あいにく母が他用のため行けないことが分かった。どう足掻いても不可能なことに駄々をこねても仕方がない。重要なのは、この開いた穴を誰が埋めるか、だ。その結論に至った空良は、今回の作戦を決行したのである。
「で? 拙僧に黙って処分しようとした理由は」
「別に、黙っとるつもりなかったし」
「へーェ」嫌な沈黙が全身に纏う。自室に戻るタイミングを完全に逃してしまい、空良は空却を睨みつけることしかできなくなった。それでも、負けず嫌いのこの口だけは未だぼそぼそとした言葉を漏らす。
「……母さんは檀家さんとの会合があるし、おじいちゃんは法話があるし、他に行く人おらんでしょ」
「あ? お前の家族はいつから二人だけになった」
言い返せないのは癪だが、黙秘は時に役立つことを知っている。これ以降、空良はむっと口を閉じたまま、空却が折れるのを待った。
……すると、大きな溜息が頭上に落ちてきた。よし、と空良が心の中でガッツポーズをするやいなや、空却が参観日の紙をくしゃっと丸めてそのままゴミ箱へ放った。
「まァいいわ。日時と場所さえ分かりゃあいい」
「は? ちょっと――」
「大体、爪が甘ェんだよ。本気で知られたくねえなら破るなり燃やすなりすりゃあいいものを」
「変なとこで真面目出んなァ」はっ、と空却は嘲笑しながら、踵を返す。もう寝る気のようだ。おまけに、当日も行く気満々の父親に我慢ならなくなって、空良は空却の腰紐を強く引っ張った。「ぐえッ」
「おい腰紐引っ張ん――ッ」
「やだ」
「あ?」
「来んで」
そう言うと、空却の顔がみるみるうちに厳しくなっていく。怯む代わりに空良は勢いのままわっと口を開いた。
「目立つのッ!」
「はああぁぁ?」
空却が破顔したことにも構わず、空良は胸の中で滝のように流れる言葉を続けた。
「身に覚えのない噂も絶えんし、苗字名乗るだけでおじいちゃん先生達がみんな青い顔してへっぴり腰になるし、廊下ですれ違ったガラ悪い人達には避けられるし。何もしとらん私でもこんなんなんだから、父さんが行ったらどうなると思っとんの」
「はっ。いいじゃねえか。拙僧のおかげで学校生活楽できて」
「話聞いとる? 悪目立ちするって意味なんだけど」
父は昔、それはもう大層な不良だったそうだ。素行は悪く、喧嘩はめっぽう強い。厳格な祖父も手がつけられなかったらしい。
得度を受け、副住職になり、自分を授かってからは、ようやく丸くなったそうだが、今でもその片鱗は見えた。たまにコンビニで屯っている不良の集団が空却に向かって遠くから頭を下げた時は、思わず空良は父を二度見した。私ってヤクザの子どもだったっけ――否、そんなことは断じてない。由緒正しい寺の一人娘としてきちんと生を授かっている。
「悪目立ちだろうがなんだろうが知らねえな。拙僧はお前の保護者として行事に参加するだけだ。何の文句がある」
「父さんの存在」
「実の父親を全否定すんじゃねえよ」
「こんだけやだって言っとんのになんで聞いてくれんの」
「そもそも、親の義務に子が口挟むことじゃねえ。お前が何と言おうが俺は行くからな」
話は終わりだ、と言わんばかりに再び背を向ける。いつもなら納得するまで話を聞いてくれるのに、こんな一方的なコミュニケーションなど知らない。なんなの? 今日はどうしても寝たいの? 我が子の対話よりも睡眠を選ぶの?
……ぶちん。空良の中の堪忍袋の緒が切れる。空良は歩き始めた空却の足元へ静かに目をやって、衽から見え隠れしている脛をおもいっきり蹴り上げた。
「い゙ッ……!!」
「こんの単細坊主ッッ!!」
捨て台詞を吐いた空良は、部屋を出て長い廊下を駆け抜ける。「おい空良今何つったッ!?」空却の怒声に怯みもしない足は、ひたすらまっすぐ進んだ。半ばやけくそだった。
そして、突き当たりの角を曲がろうとした時。「おっと、」不意に人の声がして空良ははたと我に返る。ブレーキが間に合わず、とすんっ、と軽く正面からぶつかってしまった。緩衝材のように空良の体を両手で止めてくれたのは、祖父の灼空だった。
「あ……。ごめんね、おじいちゃん。急に飛び出して」
「いやなんの。どうした? 父さんとまた喧嘩でもしたか」
勘の良い灼空に隠し事などできない。それでも意地を張った空良は「べつに、けんかじゃないけど……」と歯切れ悪く言って、ぷいっとそっぽを向いた。
しばらく黙っていた灼空だったが、「まあ、ひとまず私の部屋に来なさい。そのままでは眠れんだろう」とにこやかに言って、ゆっくりと歩き出した。そのまま……? 祖父の言っている意味が分からなかった空良だったが、じきに合点がいく。灼空の後についていく途中の窓に映った自分が、ひどくばつ悪そうな顔をしていたものだから。
灼空の部屋は離れにある。昔は母屋にある部屋を使っていたそうだが、いづれは隠居する身だからなあ、と二人きりの時に零していた。父がいる時には、「早く隠居しやがれクソジジイ」「未熟なお前に継がせる寺などないわ馬鹿者」という口論が絶えないのに。父さんと話しとる時が、本当ならいい。そうしたら、さびしくなった気持ちも少しは和らぐから。
ぺたん、と空良が座布団の上にお尻をつけると、灼空が焙じ茶を持ってきてくれた。「ありがとう」一言礼を言うと、灼空は薄く笑む。彼は机を挟んで、空良と対角線を描くようにして腰を下ろした。
「……父さんが、来週の参観日来るって」
「ほう。それはまた。今回は母さんではないのか」
「母さんは用事があって行けんって分かっとったから。お知らせの紙だけ闇に葬ろうとしたら、見つかった」
「なるほど」
「来んくていいって言っとんのに……」空良は独り言のようにそう呟く。すると、ふむ、と灼空が小さく息を漏らして、自分の湯呑みに指をかけた。
「あいつも昔は、かなりの悪童だったからなぁ。空良ちゃんの風当たりも強いだろうに」
「まあ……。別に、それはいいんだけど」
ぼそぼそ、と表向きな理由の裏にある本心を話すと、「そうかそうか」と灼空は笑いながら頷いた。
「まあ……あいつなりに、空良ちゃんに気を遣っとるんだろう」
「気ぃ?」
あの父が? それはないでしょ、と空良は訝しげに眉を顰めた。それでも、灼空は顔色一つ変えずに淡々とした言葉を落としていく。
「空良ちゃんのおばあちゃんは、空却が物心ついた時に亡くなってな。お母さんがうちに嫁ぐ前は世話役さんもおったが、僧侶の仕事は誰にも代われん」
「父として、空却の学校の行事にはろくに行けんかった」懐かしむように、灼空は目を細める。そこに、ほんの少しの後悔の念が混じっているのを空良は見逃さなかった。
寺院で暮らしている以上、プライベートの予定が二の次になるのは避けて通れない道だ。夜更けに突然葬式や通夜が入ることはざらであるし、前もって計画していたものも急遽キャンセルせざるを得なくなる。おまけに、毎日誰かは必ず寺にいなければいけないので、連泊の旅行なども以ての外だ。
父は、小さい頃から僧侶になることを志していたと聞く。だから、本人もそれくらいは覚悟していただろう。それに――
「父さんの性格からして、そういうのあんまり気にしなさそうだけど」
「だろうなあ」
「まあ、色々言ってしまったが」と灼空の穏やかな声が降ってきたので、おそるおそる顔を上げた。
「あいつの都合など、空良ちゃんには関係のないことだ。どうしても来てほしくないというなら、当日、私が奴に仕事を押しつけるが」
どうする、と。灼空はこちらに視線を寄越す。空良は、胸の中で絡まっている雑念が気持ち悪くて、ひとまずお茶を一気に飲み干した。そして、ぷは、と息を吐いてから、深呼吸を数回。すくっとその場から立ち上がった時には、頭も幾分か冷えていた。
「……もいっかい、父さんと話してくる」
「そうか」
「あと、さっき父さんのすね蹴ってまったから、謝ってくる」
「おお、それは偉いな」
祖父がこちらの判断に善し悪しを決めることは、あまりない。今も、謝る行為そのものではなく、謝る勇気を讃えてくれる。寛容に笑う灼空は、どんな場面でも空良の良き相談者だった。
「失礼しました」部屋の敷居を跨いで、空良は居間に寄る前に自室へと向かう。他の人の眠りを妨げないよう、音を立てずに。ただ、夜が深くなるよりも早く、その足は颯爽と寺内を駆けた。
紙とボールペンを片手に、空良は居間の前に立っている。襖の隙間からは明かりが漏れていて、人の気配もある。空却はまだこの部屋にいるようだった。
……謝ると言ったものの、襖を開ける勇気が出ない。すね蹴ってごめん、単細坊主って言ってごめん――頭の中では何回でも言えるのに、現実でいくら喉を絞っても、震える気配がまるでない。何かが奥の方で詰まっているようで、こころなしか胸も苦しくなってきた。
明日にしようかな、もう夜も遅いし。でも長引かせるのもよくない――そんなことを悶々と考えてじっと固まっていると、不意に目の前の襖が勢いよく開いた。
「……なんだ。まだ寝とらんかったんか」
突然現れた空却に、びくッと体を揺らす空良。開けるなら開けるって言ってよ――そんな遠吠えをしたくなるくらい、一瞬にして真っ白になってしまった頭にひどく焦ってしまった。
空却は平然とした顔でこちらを見下ろしている。まるで、数十分前に何もなかったかのように。そんな態度を見ていると、こちらが身構えているのが馬鹿みたいになる。
それでも……言わなくてはいけないことは、きちんと、この口で。
「……あ、の」
「あ?」
「さっき……すね、けって、ごめん」
「おう」
「あと……単細坊主って、いって、ごめん……」
「ん、良し。許す」
早すぎる。そして簡単すぎる応えに、空良はぐっと唇を結ぶ。もっと、怒鳴るなりなんなりしてくれたらいいのに。謝っても消えてくれない罪悪感で胸が満たされて、空良の視界がうっすらとゆがんできた。
……すると、先程よりも濃い影が落ちてくる。すっと膝を折った空却とばちっと目が合って、空良が咄嗟に視線を逸らそうとする前に、前頭部を大きな手のひらが覆って、そのままくしゃくしゃと乱雑にかき混ぜられた。
「んな顔すんな。許すって言っとんだろ。そもそも、蹴られたくらいで拙僧はどうとも思っちゃいねえよ。強いて言うなら、“単細坊主”は上手いこと言ったなってことくらいだ」
「拙僧も今度じいさんに使うわ」と父は笑いながら言う。いやそれは無理、と空良は思ったが、寸のところで口を噤んだ。今日一日のうちで、同じ過ちは二度も繰り返さない。
「父さん、もう寝る……?」
「お前の話聞いてからな」
「なんか用あったんだろ」空却は付け加えて言う。こういうところは灼空と同じで、こちらの思惑などすべてお見通しのようだ。返答をする前に背中を向けた空却に続いて、空良は居間に入った。
机を囲むようにして、空良の正面に空却が胡座で座った。よし、と空良は自身を心の中で鼓舞して、先程書いたばかりの例の紙とボールペンを机の上に置いた。
「……なんだこれ」
「誓約書」
端的に伝えたものの、空却が首を傾げたので、空良はさらに続けて言う。
「破ってほしくない約束は書面で残す。当然でしょ」
「どこぞの銭ゲバ弁護士みてえなやり方だな」
「賢い子の世渡り術って言ってくれん」
「自分で言うか」
そう言いつつも、空却は紙を持ち上げて、書かれている文章にさらさらと目を走らせている。空良はそんな父を監視をするようにじいっと見つめていると、彼の顔がみるみるうちに険しくなっていくのが分かった。
「おいなんだ、この“TPOに準じた服装”って」
「ピアスは外して。あとじゃらじゃらしたアクセもして来んで」
「数珠は」
「それはよし」
「意味分からんのだが」こちらを一瞥した空却は眉を顰める。ついには頬杖をつき始めるも、空良は一瞬たりとも父から目を逸らさなかった。
誓約書――速攻で書いた紙には、某日に行われる授業公開に参加するにあたっての注意事項を書いた。態度や言動などについて色々と書いたが、大部分を占めるのは身なりのことだ。
「服装はシンプルなものしか駄目だから。アウトロー系の服も駄目だから」
「んなこと言ったら拙僧の私服ほとんど着れねえじゃねえか」
「一着くらいなにかあるでしょ。迷ったら母さんに選んでもらって」
「そこまでするかよ……。つか、なんで着る服まで指図されなかんのだ。理由を言え理由を」
「黙秘します」
「獄に感化されすぎとんだろ」
「右下のところにサインできんのなら、参観日も来んでいい」
再び熱を帯びてきた頭を冷ますため、ゆっくりと呼吸を整える。一つ間を置いてから、空良は続けて言った。
「別に……気とか遣わんくていいから。中学校の参観日なんて、来ん親の方が多いんだし」
しんとした沈黙が耳につく。しばらく微動だにしなかった空却だったが、じきに、大袈裟なくらい大きな溜息をついて、紙の上にさらさらとペンを走らせた。
「おらよ」雑に寄越された誓約書の右下には、達筆な字で“波羅夷空却”と書いてある。父親と初めての大人のやり取りができたことに感動して、空良はサインを見ながら一人できらきらと目を輝かせた。
「あと、なんか勘違いしとるようだからこの際言っとくが、自分の娘に気なんざ遣うかよ。参観日に行くのは俺がお前の勇姿を見たいってだけだからな」
「は、」
「で? 話は終わりか」
呆然とするばかりの空良が現実に戻ってきたのはその数秒後。「あ……。う、うん……」としどろもどろに返事をすると、空却がその場から立ち上がった。
「んじゃあもう寝んぞ。お前もさっさと部屋戻れよ」
おやすみ――背中を向けた後に軽く手を振りながら、空却は部屋を出ていった。未だに理解の追いついていない空良を置いて。時間が経てば経つほど首から上に熱が集中してしまい、「もうッ……!!」とヤケになった空良は机に突っ伏した。せっかく胸の中にあった蟠りが失せたと思ったのに、また違う意味で眠れなくなってしまった。
「ねーねー。今日って空良ちゃんのお父さん来るー?」
放課中に仮眠を取っていた時のことだ。頭上から声が降ってきて、空良はゆっくりと目を開ける。そして、虚ろ眼のまま顔を上げると、空良の机はいつの間にか複数のクラスメイトに囲まれていた。
「……なんで」
「だって、空良ちゃんのお母さん用事あるんでしょ?」
「うちのおばあちゃんが、今日は空良ちゃんのお母さんと話し合いするって言ってたよ」
本日は授業参観日。空良のクラスは六限目である次の授業が公開対象として指定されている。空良が後ろを一瞥すると、すでに何人かの保護者は教室に入って雑談を始めていた。
空良は未だ夢現の状態の頭をどうにか回す。自分を囲んでいる中には檀家の子もいて、母の予定もきちんと把握しているようだった。そんな彼女らの態度からは下心しか見えなくて、まさしく煩悩の塊。ふん、と空良はそっぽを向いて、素っ気なく口を開いた。
「分からん。予定入ったら来んよ」
「えー。そうなのー?」
「なあんだ~」残念そうに声を上げて、ようやく彼女たちは教室に散っていく。圧迫感から解放された空良は再びつっ伏す気にもなれず、そのまま頬杖をついて目だけを閉じた。
「(人の父親を見世物みたいに……)」
――父はかっこいい。
風貌はお坊さんらしくないが、やるべきことはやっているし、仕事中の父はあるべき僧侶そのものだ。変に堅苦しい坊主頭の人間よりも、型を崩して我がままの姿で在る方が断然凛々しく思う。本堂に御座す御本尊も、身なりや態度についてはそんな堅いことは言わないはずだ。
おまけに、父は見た目に反して優しい。巷で言う“ギャップ”というやつだ。檀家の子らはそのこともよく分かっているので、“くーこー”だの“くーこーさん”だのと言ってわいのわいのと父の周りに群がる。父も、下手なことをしなければ万人に向けて対等に接しているから当然といえばそうだ。
決して自分に向けられることはない外向けの笑顔を、空良は遠目から何度も見てきた。むかつく。つまらない。面白くない。私の父さんなのに。というかなんで保育園児とか小学生相手に対等に話せんのよ。精神年齢低いんじゃないの。
だから今回も、父の見た目を地味にすれば変な虫も寄ってこないと思っての誓約だった。本当は来ないことが一番だったのだが、こうなってしまったからには致し方がない。空良は今朝から腹を括っていた。
「おい」ぱちん、と思考が弾ける。すぐ耳元で聞こえてきた聞こえ慣れた声に、空良ははっと目を開けた。
「お前の席が廊下側でちょうどよかったわ。何しとるかよう見える」
いつの間に来たのか、教室の窓の縁に肘を置いて、よう、と片手を上げている空却。そんな父を見て、空良はぎょっとした顔で目を張った。
いつも耳についているピアスは一個もない。首や腕についているアクセサリーもない――誓約書通りだ。うん、それはいい。問題は服装だ。
……なぜ、法衣で来た。
「なっ、なッ……!」
「あ? なんだよ。お前が言った通り、アクセ類は外してやっただろうが」
「だからってなんで法衣で来んのよッ!」
「法衣以上の正装なんざねえだろ」
「母さんに選んでもらってって言ったじゃん!」
「母さんも特段何も言わんかったが? 今のご時世、仕事着のまま来る親も珍しくないってよ」
「かーさん……」まさかそう来るとは。掠れた声を漏らしながら、空良は両手で顔を覆う。空良の中で企てていた作戦がついに音を立てて崩れていった。
空良が落胆している間にも、放課中の教室は空却の来訪でまた一段と騒がしくなっていた。「空良ちゃんのお父さんだっ」「お坊さん?」「すごぉい」「かっこいい~っ」口々に聞こえる野次の声に、「おー。空良がいつも世話んなっとんな」と言いながら、空却は律儀に挨拶をする。女子からはきゃあきゃあと黄色い声を飛ばしては手を振っている。空良が一番見たくない光景が現実となってしまっていた。私の父さんはアイドルじゃないっての……! ああもうッ!
「こっち来てッ」
「あァ? 急にどうした」
「いーから来るのッ!」
「お、なんだ。フケんのか」
「フケんわッ!!」
席を立って廊下に回ると、空良は空却の手を取って教室から離れる。けらけらと終始愉しげな空却の笑顔を見て、むかつく反面顔の熱が急上昇してしまう。うぐぐ、と唇を噛み締め、空良は溢れ出る感情を放出するすべを失った。こんなん、言葉になんてなりっこない。
