Episode.1



 チリィーン――……
 雑踏の中、れいを鳴らす。涼やかな余韻が大衆に飲まれていくのを感じていると、こちらに近づいてきた足音があったので、空却はふと目を開けた。
 第三者に気づかれない程度に顔を上げる。網代笠あじろがさの端から覗いたのは一人の男性。隣に立っているもう一人の鉢に御布施を施そうとしている最中だった。
 ここで立ち止まる人間の多くは、鉢に賽銭や飴を入れてすぐ去るところだが、彼の場合は御布施を入れる前に軽く一礼をし、その次に賽銭を鉢の中へ入れて、静かに合掌した。施し慣れとんな、という感想を抱いた後、隣の傘が僅かに上がった。

「――――……」

 その声を聞いて、明らかに男がぎょっとした顔をする。それでも経は止まず、声もぶれない。そう思っている空却もまた、内心ぎょっとしていた。いつの間にうちの宗派の偈文げぶんを覚えたのか。寺を出る前に、施しを受けても鈴を鳴らすだけでいいと言った時、やけに得意げな顔をしていたのを思い出す。まあ見とってよ、と言わんばかりに。あれはそういうことか。
 続いて、空却は男の反応を見る。“なんてことをさせているんだ”と聞こえてきそうな眼差しでこちらを凝視していた。しかし、空却が目を合わせると、彼はさらに顔色を変えてさっと目を逸してしまう。子供の頃から見慣れている、“喧嘩を売ってはいけない人間”という印象を受けた者がする顔だ。僧侶が総じて温厚かつ凡庸な人間だと思うなよ。
 ――まあ、それはそれとして。

「(粗方、予想はしとったが)」

 男の反応は尤もだ。固定概念とは、時に人の視野を狭める厄介な壁だ。
 そして、じきに経が止む。男は今一度合掌して一礼をし、特段何も言わずにこの場を去っていった。中には、こちらに向かって文句の一つや二つ言う人間もいるというのに、存外物分かりのいい人間だったらしい。
 再び訪れる無の時間。隣で鳴る鈴の音がなんとなく得意げに聞こえてくる。その証拠に、ふふっ、と微かな笑い声が漏れてきたので、空却は半ば諦めたように浅く息をついた。







「おかえり。なんだ、お前だけか。あの子はどうした」
「たでーま。先に風呂行った」

 正門を潜り、本堂からその裏に位置する庫裏くりに入る。境内は自由に人が出入りするため、一家の住居であるそこは、波羅夷家の唯一のプライベート空間といってもいい。
 居間では、老眼鏡をかけた灼空が新聞を読んでいた。彼は空却を見るなり眼鏡を外して、「それで、どうだった」と主語もなく尋ねてくる。

「別に普通だったぞ。変に絡まれもしんかった」
「まあ、お前が隣にいるからな」

 空却は無言で同意する。そして、その場に腰を下ろして、窮屈だった脚絆を脱ぎ始めた。普段なら灼空からの小言が絶えないが、今回はなぜか一瞥されるだけで終わった。

「なァ親父。あいつに偈文教えたか」
「偈文? いや、教えとらんが。まさか――」
「全文暗唱しやがった」
「なんだと? すごいじゃないか」
「この間、せがまれて二つばかし経教えたばっかだぞ。あいつの頭はスポンジか何かか」
「いやあ、えらく賢い子だなあ。昔のお前と違って」
「論点そこじゃねえんだよ孫バカ親父」

 空却は脱いだ脚絆をべしっと畳に投げつける。四歳の頃に教えた覚えのない光明真言こうみょうしんごんを暗唱した時はそれはもうテンションが上がってしまい周囲に言いふらすほど褒めちぎったものだが、成長していくにつれてだんだん扱いが難しくなっていった。言わば、“度が過ぎる”というやつだ。
 産まれる前から周囲の諍いが絶えない子だったが、最近では修行僧以上に知識を蓄えているものだから、さすがの空却もちょっと待てと言いたくなることも多々あった。しかし、幼少期にあれだけ持ち上げていた張本人なので、今更やめろと言うのも憚られた。
 檀家回りに同行する時も、自分の隣に佇む姿があまりにも様になっているものだから、赤子の時にほんの一部の檀家から言われていた「次の子に期待ね」という言葉が、最近では「この子がお寺を継ぐの?」に変わる始末だ。んなもんこっちが聞きてえわ。
 一方で、当の本人はこちらを見上げてにっこり笑うだけなので、もちろん檀家の矛先は空却に向く。おい、拙僧に全部押しつけんじゃねえ。こちとらお前の将来の夢なんざ年少の頃に言っとった猫以外に知らねえぞ。檀家と実子の見事な板挟みに、空却の脳内では“勘弁”の二文字が過った。
 「まあ、なんだ」不意に、灼空が声を上げる。昔よりも皺の濃くなった顔を上げて、彼は密やかに口を開いた。

「お前の気持ちも分からんでもないが、寺のことと子育ては切り離して考えろと口酸っぱく言っているだろう。あの子の父親はお前だけなのだから、褒めるところはきちんと褒めてやりなさい」

 これまでに何千回と言われていることを灼空に今更諭され、空却は息をつく。「分かっとるっつの」脱いだ脚絆を持って脱衣所に行くと、ほのかに石鹸の残り香がした。あいつ、もう風呂出たんか。もうすでに回っている洗濯機を一瞥して、空却は身に着けている絡子らくすを外した。



 シャワーを軽く浴びた空却は、その足で座敷に入る。すると、部屋の真ん中に置かれた大きなクッションの上で、スライムのようにだれている我が子の姿があった。薄手の半袖にショートパンツという露出度の高い服装。かつ両足を軽く開き、膝も立てていて無防備も甚だしい。空却が眉を顰めるには十分すぎる体制だ。

「女らしからぬ格好だな」
「うゆはい」

 アイスキャンディーをシャクシャクと食べながらも、口だけは達者だ。帰り道に偶然すれ違った檀家に向けた愛想と礼節はどこにいったのか。
 空却がタオルで髪を拭きながらクッションの隣に腰を下ろすと、彼女の体はさらにだれていき、クッションの奥にずぶずぶと沈んでいく。これは、十四が彼女の誕生日に買い与えたものだ。“人をダメにするソファー”だなんて、煩悩の塊のような名前を聞いた時はとても不服だったが、貰った本人は稀にも見ないくらい跳ねて喜んだので、父である空却は口は噤んだ。不本意ではあるが、彼女のツボは自分よりも十四の方が心得ているのだ。

「あんだけ駄々こねてついていくって言った割にはノーリアクションじゃねえか」

 空却がそう言うと、パープル色のアイスが彼女の口の中に消える。次に口から取り出された時には、細い木棒だけになっていた。「そんなことない」

「楽しかったよ」
「へェ。具体的には」
「お経読むたびにみんながぎょっとした顔しとったところとか」

 くはっ、と彼女は思い出し笑いをする。それなりに積み上がっていたはずの功徳も、今の発言で大半消えたことは言ってやらない。

「つかお前、いつの間に覚えた」
「なにを」
「偈文」
「動画で聴いて覚えた」

 便利になった世の中も考えものだ。空却が頭の中にすでに浮かんでいる言葉に相反する心と格闘している最中、「それで、」と彼女が切り出した。

「どうだった」

 自分と同じ色をした瞳に射抜かれる。我ながら、似ている顔立ちをしていると思う。おまけに、対自分に対する態度も、昔自身が灼空にしていたものと既視感を覚える。正直、そういうところはあまり似てほしくなかったが、育ってしまったものは仕方がない。
 来い、と空却は彼女を手招く。すると、クッションに乗ったまま、体だけこちらに寄せてきた彼女。凛とした目は変わらずこちらを見上げている。空却は小さな頭に向かって手を伸ばし、まだほんの少し湿っている髪をひと撫でした。

「上出来だ。そこらへんにいる坊さんも、お前の読経聞いたら目ェ張るだろうぜ」

 すると、彼女の目が途端に太陽の光がごとく強く輝いた。表情こそ変わらないものの、分かりやすい。こういうところだけ母親に似やがって。おかげで、空却の胸の中にあった葛藤もすっと消え失せてしまった。
 一気にご機嫌になった彼女は、足を交互にぱたぱたと上下させながら、さらにこちらに身を乗り出した。おい、それ以上こっちに来たら落ちるぞ。

「ねえ父さん。今度いつする?」
「んなもん未定だ未定。托鉢たくはつすんのにわざわざサツに許可取ったりしなかんから、結構めんどくせえんだぞ」

 「じゃあ、他の人がやる時についてく」そう言って、彼女は再びクッションに沈んだ。最近、修行僧の出入りが頻繁になってきたのを見込んでの言葉だろう。一緒に行く人間に同情しつつ、空却はつきそうになった溜息を飲み込んだ。
 すると、しばらく木棒を咥えていた彼女が突然立ち上がった。いきなり働き始めた両足にぎょっとした空却は、部屋を出ようとする背中に向かって声を張った。

「おい、庫裏から出んなよ」
「出んよ。アイス取りに行くだけ」

 こちらを振り向かずにそう言う彼女。信用できる要素がない。空却は悶々としながらも、彼女が立てる足音や物音に耳を澄ます。冷蔵庫を開ける音がして、居間で灼空と二言三言話す声が聞こえてくる。そうして、こちらに戻ってくる足音が聞こえて、空却はようやく息をつく。
 部屋の敷居を跨いだ彼女の手には、二つのアイスキャンディーがあった。その一方を「ん、」と無愛想にこちらに差し出してくる。ご機嫌タイムはもう終了したらしい。「さんきゅ」そう言って、空却は袋を指で挟んでアイスを受け取った。
 封を破くと、立っているついでだからと、彼女はアイスの袋も回収してくれた。空却は冷気が立っているアイスキャンディーを一口含む。コーラ味だ。すると、先程と同じ色をしたアイスを咥えた彼女が、再びクッションに体を沈める。それ以降、特に会話もなく、二人分のアイスを齧る音だけが空間を埋めた。

 五月上旬――寺の閑散期といえど、こんなにもうちでのんびりとする日も久々だ。空却がよそに出掛けるにしても、この時期は昼前に出て昼過ぎに帰ってくることが多い。おかげで、学校から帰ってきた彼女に「なんでいんの」と言われることが多々ある。帰ってきちゃ悪ィか。
 まあ、年頃だの思春期だのという言葉がついて回るくらいには、我が子も成長した。しかし、彼女の態度は昔から何も変わらないので、そう言われてもピンと来ないのが本音だ。
 いつから始まっとんだあいつの思春期。つか、この間まで赤ん坊だったはずなんだがな……。そんなことをぼんやり思っていると、玄関口が何やら賑やかになってきた。「誰か来たな」と空却が首をもたげると、「きっと総代そうだいさんだよ」と言いながら、彼女はアイスキャンディーを早々に食べ終えた。
 総代――檀家のまとめ役がなんでまた。訪問の約束も聞いていない空却が要領得ていない顔をしていると、彼女はクッションから勢いよく身を起こした。

「私が出るから、父さんはアイス食べとっていいよ」
「おい待て」

 軽い足取りで本堂に向かおうとした彼女を空却が制する。すると、ぴたっと足を止めて、彼女は僅かにこちらを振り向いた。こちらの言うことを聞くくらいには、幼いながらに可愛げがある。
 なに、と不服げな顔を一瞥して、空却はアイスのなくなった棒をゴミ箱に投げ捨てた。

「んな格好で外出んじゃねえ。拙僧が行くからお前はクッションの上で沈んでろ」

 一方的にそう言って、空却は彼女を押しのけて部屋を出る。「ちゃんと着替えるしッ」彼女の鋭い言葉を背中に受けながら、玄関口まで颯爽と歩いていった。
 つか、なんで総代さんって分かんだあいつ――そう思いながら玄関に顔を出すと、彼女の言っていた通り、総代の奥方がそこに立っていた。奥方は空却を確認するなり、丸くなった腰で律儀に頭を下げる。

「副住職さん、こんにちは~」
「おう婆さん。どうしたよこんな時間に」
「うちの人の付き添いで来たんだわぁ」
「付き添い? にしちゃあ爺さんがおらんな」
「今は池の囲いにおるよ~」

 にこにことしながら穏やかに話す奥方。空厳寺の規模が大きいために総代は複数人いるが、その中でもここの一族は最高齢。空却が幼い頃からの付き合いだ。

「ところで、お庫裏さんはご在宅かねぇ?」
「うちのかみさんなら暫く家空けとるが。何か用――」

 最後まで言い終わらないうちに、後ろから聞き慣れた足音がする。空却が振り返るよりも早く、小さな体が死角から踊り出た。

「御用向き、私が承ります」

 いつの間にか作務衣さむえに着替えた彼女は、背筋をぴんと伸ばして、奥方に対して穏やかかつ丁寧に話しかけた。とてもじゃないが、先程まで人をダメにするものの上でだらしなくアイスを食べていた女と同一人物とは思えない。
 「あらこんにちは~。しばらく見ん間にまた大きくなったねえ」「こんにちは。このあいだ二センチ伸びました」空却は冷たい眼差しを向けるが、彼女はそんなものを諸共せずに、奥方と和やかな会話を楽しんでいる。みるみるうちに彼女の口調も砕け始めていき、ものの数秒で、男である空却はすっかり蚊帳の外だ。

「――というか、囲いは来週直すって話じゃなかった?」
「うちの人が、あれは早よ直さなかんって言って聞かんくてねえ」
「そっか。なら私が代わりに行くよ。母さんから大体話聞いとるから」

 「ありがとねえ~」そんな言葉と共に、彼女は下駄を履く。立ち上がった時に一瞬だけ合った目が、“だから言ったじゃん。私が出るって”と明らかに言っていた。おい――空却が何か言うよりも先に、彼女は引き戸をカラカラと開けて、外に飛び出していってしまった。
 ……何しに行ったんだあいつ。最後まで話の読めなかった空却がその場に立ち尽くしていると、奥方がにこやかに口を開いた。

「ほぉんと、よう出来た子だねえ」

 奥方の快い言葉を、空却ははっと軽く笑い飛ばす。

「あんなん他所向けだ他所向け。婆さんにも数分前のあいつの姿見せてやりてえわ」
「他所向けだからこそ、しゃんとしとって偉いわあ。お寺のことも手伝っとるんでしょう?」
「やり過ぎなんだよ。あいつの場合は。しなくていいこともするもんだから、他の奴の徳積む機会が減っとんだわ」

 時折、街中で娘と同年代の女子の姿を見かける。皆、流行り物の食べ物や飲み物を持って歩いては、スマホと共にある生活をしているように見える。しかし、彼女といえば学校がない日は一日中家にいるし、流行り物の代わりに竹箒、スマホと一緒に数珠を持ち歩く始末だった。
 朝と夕方に行うおつとめでさえ、やれ、と言った覚えはない。しかし、母の隣で合掌する彼女の姿ももう見慣れたもので、あくび一つせずに朝ご飯を食べて、そのまま登校する。うちに対する文句など一度も聞いたことがない。
 息子という立場であった自分でさえ、得度を受ける前は好きにさせてもらった。おつとめや檀家回りにはついて行ったが、我が子は娘だ。自分の頃よりは選択肢がある以上、今ある生活が全てだとは思ってほしくなかった。

「……うちのことなんざ気にしんで、ちったあ好きにすりゃあいいんだが」

 思わず独り言が漏れる。すると、奥方はくすくすと笑んで、皺の多い目尻をくしゃっと緩めた。

「そんな心配しんくても。あの子も、お寺のことは好きでやっとると思うわあ~」
「どうだかなァ」

 空却がため息混じりにそう言うと、不意に砂利を踏む音が聞こえてきた。そして、がさッ、と隣の茂みから出てきた娘が一直線にこちらへ歩み寄ってくる。おい、お前今どっから来た。猫か。

「父さん。総家さんが鋤欲しいって言っとるんだけどどこにある?」
「鋤ィ? あー、たしか東堂の蔵だな。つかお前、爺さんと何やっとんだ」
「池の囲い石、崩れてきとったでしょ。総代さんが直してくれるんだって」
「ああ? んなこと拙僧は一言も聞いとらんが」
「このあいだ、母さんと総代さんが話しとった時にやるって言っとった。本当は来週末の予定だったんだけど……」
「うちの人、せっかちでねえ」

 奥方が他人事のように笑う。そう聞いて、空却はようやく話が飲み込めた。お庫裏が寺を出る前に不在中の予定は聞いていたが、ただ隣で世間話を聞いていた娘の方がこういう機転は利く。繁忙期、空却も灼空も、彼女の存在に何度助かったか知れない。
 にしても、御歳九十三になるってのに元気なこった。やれやれ、と肩を竦めた空却もまた下駄を履く。このままでは、二人仲良く池に落ちる可能性も無きにしも非ずだ。

「おい空良そら。拙僧が鋤持ってくから先に爺さんのとこ行って――っておい!」

 空却が言い終わる前に、空良は東堂の方に走っていってしまった。おまけに、一瞬だけ振り返ったと思ったら、べ、とこちらに向かって舌を出して。いつのまにあんな一丁前な挑発するようになったのか。奥方の目が悪いからといって好き放題だ。

「あンのお転婆娘が……」
「空良ちゃん、行ってまったねえ」
「あー悪ィな婆さん。茶の一つも出さねえで」
「いいのいいの。空良ちゃんのとこはよう行ってやりゃあ~」
「おう。あんがとよ。もし休みたきゃあ本堂に回ってな。こんだけ暇なら誰かしら構ってくれっからよ」

 空却はそう言って、見えなくなった空良の背中を追いかける。一人で蔵に行ったところで、どうせあの重い鋤など持てないのだから意地を張るだけ無駄だ。そう言ったら、彼女のふくれ面を拝むことになるのが常だ。
 そんなに急いで大人にならんでもいい――口で言えない代わりに、空却は行動で示す。歳のせいか、昔よりも言いたいことを腹の奥に留めるようになってからは、それが自分なりの子育ての仕方として定着していた。その意図が伝わっているかどうかは、まあ、本人である彼女のみぞ知るというやつなのだが。