Episode.8
夢であればよかった。あんな甘美な味を舌の上で転がしてしまったら、現実で生きるのがさらに辛くなるだけなのに。
それが目的だったのかもしれないが、それにしても他にやり方はあったはず。こんなまどろっこしい真似じゃなくて、彼らしい……無駄のないスマートな落とし方があったはずなのだ。
なのにこんな……こんなのってないですよ。が朝起きてすぐに目に入ったもの――昨夜にあった一連の出来事を夢で終わらせるものかと言わんばかりに、シンプルなグレーのハンカチが枕元に転がっていた。
五日ぶりの署勤務。は重々しくパンプスを鳴らしながら、まるで曇天気分で裏の出入口にキーを通した。
午後からの勤務でよかった、と心底安心するが、時間が迫ってくるにつれて、身が縮むように体の動きがだんだんと鈍くなっていった。たかがハンカチなのに、朝一番に洗濯機で回して、ドライヤーで乾かした後にアイロンでしっかり伸ばした。丁寧に四つ折りに畳んで、これをどう渡そうかと悩んでいたら午前などあっという間に潰れてしまった。
「(胃もたれすごー……)」
昨日からうどんやお粥といった軟体食しか食べていないのに、胃が擦り切れるように痛い。ストレス耐性には定評のある自身の臓器だが、今回ばかりはそれをも凌駕していた。正直、あと三日ぐらい休みたいが、休む連絡を入れる相手も銃兎なので、それを考えるとまだ出勤した方が胃の負担は軽いという結論に至った。
署に入り、すれ違う他部署の同業者に挨拶を交わす。ついに組対の詰所がある廊下を曲がるも、そこは嵐の後のように静かだった。いつもなら、誰か一人か二人は慌ただしくここを走っていてもいいくらいなのに。
もしかすると皆、外回りに行っているのかもしれない。大きな案件を片付けて、はすぐに中王区の研修に行ってしまったから、その直後にきっと他の大きな案件が回ってきたにちがいない。そうだ、なら銃兎さんも今は外に出て――
「亀崎」
刃物を突きつけられたように、の背筋がぴんッ、と張った。
声も出せずに振り向けば、スーツをかっちりと着こなした銃兎がの目の前に堂々と立っている。不意打ちなんて聞いてない。家で何度も練習したはずの対銃兎用の挨拶は口から出てこず、黙りこくったを見かねた銃兎は眉をひそめた。
「……なんですか。化け物でも見たような顔をして」
「い、いやぁ……すみません。てっきり無人かと思いまして~。皆さん、外回りですよね? 銃兎さんはお留守番ですかー?」
「ええ。本来は私も同行する予定でしたが、急遽本部の方から呼び出しがかかりましてね。今しがた帰ってきたところです」
なんて間が悪い……じゃなくて。化け物だったらどんなによかったか……でもなくて。スムーズな会話を優先させたはそれらを顔には出さず、「そうですかあ」となるべく朗らかに返した。
というか、まずい。銃兎さんの顔がまともに見れない。今日も今日とて顔が良いのはもちろん、声を聞くだけで鼓膜がふやけてしまいそうだ。どうして。あんなこと言っちゃったから? 電話の奥で声を聞いた時点でなんとなく限界は察していた。でもあれは風邪で弱っていたからであって、色々吐露してしまったのもそのせいであって……。それを盾に言い訳を並べるつもりだっただが、今はそれ以前の問題だった。上辺だけのコミュニケーションが取れない。
だめだ。切り替えなきゃ。は蛍光灯がてらてらと反射する床を見つめながら、密かに深呼吸をする。大丈夫。真面目かつ仕事人間の銃兎さんのことだ。私的なことを職場でわざわざ口にしないはず。ここはひとまず昨夜のことは伏せて今日の業務の流れを――
「ところで、体調はもういいんですか?」
わあすごい。一時休戦と見せかけて手榴弾投げてきた。
作戦変更。頭を超高速フル回転させて、は脳内にあるメモをぺらぺらとめくる。冷や汗が止まらない。説教よりも全身にかかるストレスが尋常じゃない。でもここで怯んだら終わり。隙なんて見せようものなら、頭からばくりと食べられてしまう。
「あ、あぁ~。そういえば崩してましたねえ。この通り全快しましたよ~。あ、ハンカチもお返ししますね。いやあ、やっぱり風邪の時はだめですねえ。情けないところばかり見せて申し訳なかったです~」
「万全なら結構。ただし、無理をして周りに迷惑だけはかけないように。ここ数日間であなたにやって頂きたい案件が山のように溜まっているので、歩きがてらお話しますよ」
待ってましたよその流れ。銃兎は意外にもさらりとハンカチを受け取り、詰所に向かいながらに業務の概要をつらつらと話し始めた。
はそんな銃兎の話を聞きつつ、片手間でじっくりと彼を解析する。いつも通り……よりも少し素っ気ない気がする。でも、あんなことがあったんだ。きっとこれは彼なりの線引きだろう。それでいいですよ。これからはお互いに節度を守ってお仕事しましょーね。業務外で、わたしも銃兎さんに二度と接触しませんから。そう考えつつも、じくじくと擦り傷ような痛みを負う心。銃兎に見つかる前に、は無理矢理そこに蓋をした。
が詰所に入ると、先程話題の中心になっていたデータを銃兎から受け取る。あとはいつものように資料室に籠るだけ。そのまま仮眠室で何日か繰り返せば、いつもの日常が戻ってくるだろう。いい感じに事が運び始めて、ようやくの胸の中にあった錨がゆっくりと持ち上がった。
「……ところで亀崎。今週の日曜日、何か予定はありますか?」
ノートパソコンを抱えていざ。が部屋を出ようとすると、銃兎にしてはかなり妙な質問を投げてきた。シフトなら銃兎が管理しているはずだから、わざわざ自分に聞かなくてもそんなことは分かるはずだった。
それも、日曜日は公休。となると、彼が聞きたいのはプライベート上のスケジュールだろう。なぜそんなことをわざわざ。不思議に思いつつも、今日一番の難関は突破したと高を括ったは、もはや敵なしと思い込んで、普段のような茶々を入れた。
「えーっ。なんですか銃兎さん。もしかしてデートのお誘いですかー?」
「ええそうです。察しが良くて助かりますよ」
……ん?
今、この人なんて言った? 軽快な言葉を紡いだその口をはぱく、と閉ざす。の想像では、「んなわけねえだろ休日返上だ馬鹿野郎」くらいの罵倒が返ってくる予定だったのに。
冗談? あの銃兎さんが? はおそるおそる銃兎を見上げる。するとまるで、捜索礼状が出た現場に踏み込む直前みたいに顔が険しい。でもかっこいい。はすぐに床へと視線を逸らした。
もしかして……これは彼なりの仕返しだろうか。は昨夜のことに加えて、研修の前夜に銃兎に喧嘩を売ったことを思い出す。いつもなら軽口で返して寧ろ便乗するところだが、ネタがネタなだけあってかなりいじりにくい。これは早く収集をつけなければ。
「すみません冗談です~。休日出勤ならいつでも承りますよー」
「私がいつそんなこと言いました? あなたがデートと言ったことに対して、今さっき肯定したはずですが」
あれー……?
おかしい。いつもなら呆れてすぐに話を戻すのに。今日に限ってノリがいいですね銃兎さん。違法マイクで頭どうにかなってるとかじゃないですよね。
は焦っている。あんなことがあった手前、軽くあしらえる空気じゃない。床のシミをぽつぽつと数えながら、は必死になって言葉を考える時間を稼いだ。
「日曜……日曜日ですかあ……」そう呟きながら、はそそ、とスマホのアプリを開く。見事に空白だ。でも、美容院を予約するとか駅前で服を見るとか……用事なんて作ればいくらでもある。とりあえず街に出かける(仮)ということにしておいて、はちゃっとスマホを閉じた。
「ちょっとその日は用事がありますねえ」
「そうですか」
すると、銃兎もまた黒革の手帳をサッと取り出したかと思ったらぺらぺらとそれをめくって、「次の公休は……来週の土曜日ですね。その日は?」などと言葉を投げてきた。
の中のエマージェンシーコールは鳴り止まない。ありとあらゆる逃げ道を完全に封鎖されている。部署の責任者だから当然といえばそうだ。現場や取調室でよく拝見する外堀を埋めるスタイル……さすがはうちの巡査部長。性格が悪い。そのスキルはホシ相手にだけに発揮して頂きたかった。
「あー、えーと……。その日は父の面会に行こうかなーなんて――」
「分かりました。ではその日に」
「えっ」
「肉親とはいえ、私よりも犯罪者を優先されるのは気分が悪いです」
犯罪者なのは否定はしませんけど、それを長年黙秘していたわたしからすると少し複雑な気分ですよ――そんなの心境も知らず、銃兎は手帳にさらさらと何か書いたかと思えば、「その日の十一時。市駅のオブジェの前で待ち合わせましょう」と一方的に約束を取り付けられる。もはやなにがなんだか。余裕がないゆえにキャパが狭くなったにはまったく理解し得なかった。
完全に銃兎のペースに呑まれている。味方の時はとても心強いが、今は敵にしか見えないマインドコントロールぶりだ。このまま一緒にいると、さらに悪い展開になる気がしてならなかった。
一か八か――はふっ、と息を吐いた後、媚びるような笑顔をつくって、その顔を上げた。今までもやってきた芸当だ。今回だってどうということはない。
挑発がてら、は銃兎に一歩近づいて、眼鏡の奥にあるミントグリーンの瞳を覗きこんだ。早鐘に変化した心臓が肋骨を突き続ける痛みに耐えながら。
「もー。銃兎さん、せめて何をするかくらい教えてくださいよー。潜入捜査ならわたしにだって準備がありますし、人数と配置くらい説明してもらわないと諸々の連携が――」
黒い線が、の視界の端を横切った。
距離を詰めたのが間違いだった。の背中にするりと回り、そのまま下に降りて、腰を緩く抱いた銃兎の腕。そしてもう片方は、の顎を指の先でくい、と持ち上げる。銃兎と至近距離で目が合った瞬間、の目の前でじりッ、と火花が弾けた。
いま……何が起きている。思考は即フリーズ。再起動は不可能。後ろに回っている銃兎の腕の感覚に、は腰が抜けそうになって、足が子鹿のように震えてしまいそうになった。見上げるだけでもそれなりの覚悟がいるというのに、端正な顔が今、見て見ぬふりをできない距離にある。顔を逸らそうとしても、顎に添えられている彼の指で逃げられなかった。
ならば視線だけでも……と思った矢先、眼球が焼けるように熱く火照る。を映す銃兎の目は、鋭い眼光を放っており、まるで、逸らすな、と言わんばかりにを色濃く見つめていた。
「私は今、プライベートであなたをデートに誘っています。ここまで言っても、天邪鬼なあなたには理解できませんか?」
銃兎の指が顔の輪郭をなぞるようにゆっくりと這う。手袋の無機質な感触が、さらにの呼吸を止めた。心臓がこれでもかと暴れている。腰に回る銃兎の腕は、逃げる気など起こさせまいと徐々に引き寄せてきた。
この人は……だれだ。物のように扱われるのは慣れているが、まるで花を愛でるかのようなこんな扱いは生まれて初めてだった。これならまだ、怒鳴られた方が何倍もいい。
息の仕方も、目の合わせ方も、喉の震わせ方も……すべて思考の海に置き去りにされる。頭の中へけたましい刺激を伝える五感も、なにもかも捨て去ってしまいたかった。このまま気を失ってしまいたい、と思うくらいには。
すると、輪郭を撫でていた銃兎の手が耳の付け根に移動して、は電気に触れられたようにびく、と体を震わせる。彼の顔がぐっと近づき、は思わず目を瞑った。しかし、を犯したのは意外にも聴覚――銃兎の小さな息遣いとともに、薄い唇が開いた音が耳元でそろりと聞こえた。
「分からないようでしたら、もう一度教えて差し上げましょうか」
ぐわあんッ、と脳みそがアルコールを浴びたように酔いつぶれた。
脳髄を撃ち抜かれて、全身から熱がどばどばと溢れ出す。耳の伝達物質を伝って流れてきたビターな声に、は小刻みに首を横に振った。
目眩すらしてきた頃、銃兎の両腕がからふっと離れる。それを機に、はずささッ、と後ずさりして銃兎と早急に距離をおく。とんっ、と壁に背中が当たって、自分の靴ばかり見つめていた。
銃兎はそれ以上距離を縮めようとはせず、行き場のなくなった片方の手で眼鏡のブリッジを上げた。
「何度もデートと言っているのにも関わらず、それを頭ごなしに否定するのは相手に失礼ですよ」
「すみ、ません」
「分かればよろしい。当日来なかったらさらに一日上乗せして付き合って頂きますので、そのつもりで」
「では、頼まれたもの、お願いしますよ」とぶっきらぼうに言い残して、銃兎は優雅な所作ですたすたと去っていった。
一人、取り残された。有り余った熱の処理に追われて、しばらくその場から動けなかった。壁を伝ってよろよろとしゃがみこむと、感情の容量オーバーでぱんぱんに膨れ上がった心臓の音が全身に響き渡った。
「なに、あれ……」
日付を意識する度に、心がざわつく。家に帰って布団に入ってからも、まるで初めての遠足が待ち遠しい子供のように浮き足立ってしまう。未知の恐怖も相まって、のボルテージは常に高まっていた。
こんなにも、時間を意識したのは生まれて初めてかもしれない。そのおかげで、約束の日曜日を迎えるのは体感的にそれほど遅く思わなかった。
は早くも帰りたい。
少し奮発して買った服に、偶然上手く巻けた髪、そして下ろしたばかりの靴。違う。別に、気合いを入れたとか、そういうんじゃない。あんな有名人の隣を歩くんだからそれ相応の格好をしないとって思っただけで。
そんな言い訳を並べて駅に向かっていたら、二十分も早く着いてしまった。は自己嫌悪が止まらない。普段は遅刻魔と言われるのに。これではまるで初デートに気合い入れて楽しみすぎて早く来てしまった、みたいな女だ。全く笑えない。
「……え、」
来てしまったものは仕方がない。大人しく待つことにしようと近くの柱にそそ、と寄った時だった。一際目立つ、高身長の男がの目の前にどんと飛び込んでくる。
……いる。なんで。まだ二十分前ですよ。いやでもあれ本当に銃兎さん? 眼鏡なくない? コンタクトにしたの? なんで? 意味分かんない。普通にかっこいいから予告もなしにそういうことしてくるのほんとやめてもらっていいですか。
胸が踊るように轟き、だんだん張り詰めていくのを感じる。の心の声は止まらない。黒を基調としたシンプルなコーディネートも実に彼らしい。ちらちらと銃兎さんの様子を窺う、道行く女性の気持ちが痛いくらい分かる。かっこいいでしょう。あれ、うちの上司なんですよ。今日は完全オフですけど。
……やっぱり無理だ。仕事の時は業務に集中できたおかげでどうにかなったが、こんなプライベートで彼を意識するなと言われる方が難しい。用事が入ったので来れませんでしたって言おう。そう決意したら心がふっと軽くなって気分が良くなったは、くるりと銃兎に背を向けた。
できないに決まってる。最初から分かっていたことだ。あんな人の隣を歩くなんて。せめていつものスーツ着てこればなんとかなったのに。これじゃあまるで本当に――
「どこに行くんです」
くいっ、と優しく後ろに肩を引っ張られる。コツコツッ、と不規則に鳴ったヒール。かくれんぼで見つかった時のような動悸がをがつんと襲った。
見つかってしまった。髪型も格好も普段と違うのにどうして。振り向いた瞬間、銃兎の視界に自分が捉えられているという現実をつきつけられて、の全身が棒のように固く強ばった。
温度のない目に見下ろされたは咄嗟に、「あ……あー、銃兎さんいたんですかあ。全然気が付きませんでしたー……」と無理矢理表情筋に力を入れる。すると、銃兎はふう、と呆れたように息をついた。
「来ているのなら連絡くらいしなさい」
「あははー……すみません。ところで、今日は眼鏡どうしたんですか? 割れちゃったんですか?」
「割れてませんよ。そういう気分ではなかっただけです」
どういう気分? は混乱が止まらない。弱い電流が体に巡っているように動けず、銃兎の足元ばかりを見てしまう。
「でもまあ、声をかける時は半信半疑でしたよ。髪型も服装も違うので」
「あー、やっぱりそうですよねえ。仕事柄いつもスーツですし、髪だって一つでまとめて――」
「よく似合ってますよ。可愛らしくて」
悲鳴が出なかっただけ拍手してほしい。
真夏の太陽が全身を焼いているようだ。もはや、呼吸すらまともにできない。銃兎に見破られると気にする余裕もなく、は、は、と音を立てて酸素を求める。数日前から体の寒暖差が激しい。感に堪えなくなったは思わず両手で顔を覆ってしまった。
「どうかしました?」
いやいやむしろあなたがどうかしました?
本当は分かっているくせに。は心の中で銃兎をこれでもかと睨みつける。こんなことが一日中続くのか。嘘だと言ってほしい。まるで感情のジェットコースターだ。絶叫系アトラクションは嫌いじゃないが、こんなスリルは求めていない。
無理だ。こんなの無理だ。は意を決して銃兎に物申そうと顔を上げるも、彼もまたじっとこちらを見下げていたものだから、お互いにぱちんと目が合った。時間が止まり、銃兎以外の周りが透明になっていく錯覚が襲う。目に見えない敗北を悟り、の苦し紛れにつくった意気込みは息継ぎすら出来ない深い海底に沈んでいってしまった。
