Episode.7



 銃兎は自分の家の隣――つまりは、の部屋の前に立っていた。
 改めてスマホの画面を見るも、GPSの赤いランプは最初に確認した時から動いておらず、ここのマンションに大人しく留まっている。たしかに、研修が終わって、が家に帰ってきているのは別に不思議じゃない。ただ、家にいながら、業務外で銃兎に無言電話をかけてきた理由がなんとも不可解だ。なにか不穏なことがこのドアの奥で起こっていなければの話だが。
 インターホンを押そうとした銃兎の人差し指がぴく、と震える。しばらく迷って、鞄から出したのはこの部屋の合鍵。まさかこういう時に使うなんて思わなかった。何かあると予測を立てて、銃兎は慎重に鍵穴に鍵を差し込む。かちゃり、と控えめに解錠される音を聞き、ゆっくりとそのドアを引いた。

 明かり一つ付いていない真っ暗な部屋だ。そしてなんとなく、空気が重い。家主以外の人の気配がないことに、銃兎はひとまず安堵する。手探りでなんとかリビングまで辿り着くと、締め切られたカーテンから透ける月光が、部屋全体をかろうじて薄ぼんやりと照らしていた。
 なるべく音を立てないよう、銃兎はカーテンを開ける。穏やかな青白い光に照らされた部屋の一角で、布団が一組ぽつんと敷かれている。こんな広々とした部屋の中で、小さな布団を引いて、その中で何かから守るように丸まって寝ている塊に、銃兎は小さく呼びかけた。

「……亀崎」

 応答はない。見れば、額には汗を掻き、くるしそうな呼吸をしながら寝ている。ふと見ると、枕元には市販の解熱薬とペットボトルの水が置かれていた。
 この状況から、銃兎は察した。その場にしゃがんだ銃兎はの顔をじっくり見ると、薄暗い中でも分かるくらい目が腫れている。泣いてたのか、とその目元をなぞろうとして、その指は寸のところで止まる。何やってんだ俺は、と。理不尽な痛みを与えた自分が、彼女に触れる権利など……もうどこにもないというのに。
 ふと、キッチンに目をやると、カウンターには大きさが様々のタッパーがずらりと置かれている。中身は粥とうどん、そしてその汁――“温めて食べて”という置き手紙もある。女性の字だ。自分より前に、誰かがの看病をしていたのだろう。
 意外だった。彼女は、頼り方を知らないわけではないのだと。ただ、にとって、自分がそういう存在ではないだけで。上司だから遠慮している、というのもあるかもしれないが、それでも、あんなに手を差し伸べても一切取らないものだから、てっきり、まだ仕方を知らないものかと思っていた。
 見知らぬ女性に対して、確かな嫉妬心が胸の中で滲む。自分がここにいても、何もできやしない。特に何をするわけもなく、かと言ってこの部屋を後にすることも出来ず、銃兎はの寝る布団の傍にゆっくりと腰を下ろした。

「じゅー、と……さん……?」

 はっとして、銃兎は視線を落とす。すると、重い瞼をうっすらと開けて、こちらを見上げるがいた。
 声が、枯れている。叩いてから一度も会わなかったことに対して気まずいというよりも、普段のからは考えられないような、弱りきったその姿がどこか痛々しく思えてしまい、銃兎は苦しげに目を細めた。

「……風邪ですか」

 見れば分かるようなことしか言えない自分に嫌気がさす。一方、は答えずに、うつろな目でこちらを見上げるだけだ。
 寝起きだからか、それとも応答する元気もないのか……電話を寄越してきたわけを聞きたいのに、その言葉は喉につかえて表には出なかった。

「薬は、ちゃんと飲みましたか」

 すると、はふ、と目を伏せて、こくん、と。布の擦れた音と共に頷いたのを見て、自分でも驚くくらい、銃兎は胸を撫で下ろした。
 それからも、ご飯は食べたか、寒くはないか、どこか痛むところはないか――ぽつ、ぽつと小雨のように落とす言葉に、頷いたり、首を振ったりする。どこか人形劇でも見ているような心持ちで、銃兎はじっくりと彼女の仕草をその目に映した。
 ……が、それらを聞いたところで、病を治すのは自身だし、十分なくらいに看病も終わっているこの状況下で、銃兎にできることは何もない。この期に及んで、銃兎はとどこかで繋がっていたいのかもしれない。一方的な問いにも反応してくれているだけで、彼女とのか細い糸は今でも薄い線を描いていた。

「私に……できることはありますか」

 その問いだけは、はぴしり、と固まった。今まで首だけで返事をしていた彼女は、ついに顔を隠すように布団を頭まで被ってしまった。
 ……これは、明らかな拒否だ。もう、潮時だろう。久々に味わった無力さを背負って、銃兎は鞄に手をかける。立ち膝をしてから、最後に布団越しに彼女の頭に触れた。

「……明日、出勤できそうにないなら休みなさい。いいですね」

 聞こえていたかも分からない。ただ、布団越しでやや動いた頭に満足して、銃兎は音もなく立ち上がった。
 何がしたかったのだろう。も、自分も。言いたいことは山ほどあるはずなのに、ここにきてもなお、建前の枷が銃兎の邪魔をする。ただ、の安否を知りたかっただけだ。何か事件に巻き込まれたりしてさえいなければ、それでいい……はずだったのに。
 半ば強引に言い聞かせるも、未だに納得しない自分がいる、銃兎が靴を履こうとすると、不意に、べしゃッと床に何かが落ちる音。反射的に振り向けば、先ほどまで布団に潜っていたが廊下の床にうつ伏せになって倒れ込んでいた。

「ッ、おい……ッ!」

 鞄を放って、銃兎はに駆け寄る。抱き起こそうと思ってその体に手を伸ばすも、先日のことが脳裏にフラッシュバックして、銃兎の手はやはり虚しく宙に浮いたままになった。
 途端に、沈黙が落ちる。よろり、と起き上がった。そしてその手は震えながらも、銃兎のシャツをぐっと掴んだ。ずるる、と体を引きずりながら、は縋るように自身の後頭部をぐりぐりと銃兎の胸に押し付ける。

「ぃ……ッ、い……っか、ぃか、な……っ」

 まるで、エラーを起こしたロボットだ。その声は途絶えながらも、銃兎の鼓膜を健気に揺らした。
 もう、一切の躊躇はなかった。というより、自然と体が動いた。銃兎は前のめりに倒れそうになるを抱きとめ、背中と膝の裏に腕を回して、そのまま横抱きに持ち上げた。やけどするんじゃないかと思うくらい熱く火照った体に、苦々しく顔を歪めながら。
 リビングまで運び、布団の上にを寝かせようとするも、離れるのは嫌だと言わんばかりに彼女は銃兎のシャツをぎゅう、と強く握りしめる。おまけに、ぐず、ぐず、とすすり泣く音が聞こえるものだから、いったん手を離せと言おうとした言葉も、腹の奥に落ちていってしまった。
 仕方がないので、銃兎は壁にもたれかかって座り、立てた足の間にの体を入れ込んだ。抵抗する様子は、ない。
 ただ、鼻を啜る音はいっこうに止まない。目、余計腫れるぞ、と。そう助言しようとするも、このまま泣かせた方がいいかもしれないとも思う。こういう時でしか発散することができない不器用なのために、銃兎はの後頭部に手を回し、赤子をあやすように一定のテンポを刻んで上下にそこを撫でた。
 ……しばらくそうしていると、「ど、して……」とか細い声が下から聞こえる。銃兎が視線を落とすと、顔の見えないがさらに銃兎の胸に額を押し付けていた。

「どう、して……きたんですか……」
「あんな無言電話を寄越されたら、誰だって何かあったのかと思うでしょう」

 ようやく会話らしい会話ができたが、普段のとは別人のように、声色は低く、冷たかった。まるで、病院で面会した時の彼女のようだ。
 すると、あは……、とが肩を震わせて笑うものだから、銃兎は訝しげに眉をひそめた。

「ほんと……困ります、よねぇ……。勤務態度はわるいし、遅刻は、よくするし……命令はきかないし……喧嘩はうるし、おまけに、運び屋の父親のこと、ずっと黙って、のうのうと生きて……出来損ないの部下持つとたいへんで――」

 銃兎はの両耳に手のひらを添え、思いきり上にぐいっと持ち上げた。
 ようやく、目が合った。は、片方の頬をひくひくと痙攣させながら、涙をはらはらと流していた。銃兎のことを馬鹿だと罵るかのように、その口調は床に吐き捨てるようにぞんざいなものだったのに、なぜこんな顔をしながらそんなことが言えたのか……銃兎は不思議で堪らなかった。
 言葉の裏側で、手放せ、と聞こえて仕方がない。こういう時ですら、は精一杯の虚勢を張っている。それは銃兎自身にも言えることだった。お互いに、変に距離を窺っているから、いつもこんな僅かなところですれ違うのだと。
 ――銃兎は、もう十分学んだ。駆け引きも、腹の探り合いも、もう、すべてが無意味だと。

「……そうですね。本当に、手に負えないですね」

 予想外、というようにの体がぶるりと震えた。ぱ、とシャツを離した彼女の指を逃がさないように、自分のと絡めとり、再びの頭を胸の中に収めた。今度は力強く、手のひら全体で、自分を意識させるように。
 まるで、未知のものにでも触れるかのように、そしておぞましいものに侵食されるように……ひどく怯えきったをさらに追い詰めようと、銃兎は彼女の背中に腕を這わせた。
 元々、相手の弱点をついて優勢に立つのが、銃兎の十八番だった。どうして、こんな簡単なことが今までできなかったのだろう。もっと早くにこうしていれば、だって、見えない傷を負わずに済んだかもしれないのに。

「突き放しても勝手に寄ってくる。かと思って、優しくしようと手を伸ばせばそそくさと逃げていく……。そのくせ、本音の隠し方ばかり上手いものだから、扱いにほとほと困ります」

 欲しいものは欲しいと言いたかっただろう。それでも手に入らないと分かって、生まれた星をうらんでも何にもならないと知って、泣き方すら忘れてしまったのだろう。
 しかし、もうそれは過去の話にしないか。銃兎も、なぜ自分の大切な人達ばかりが目の前から消え失せていくのかが分からなかった。あんな思いをするのは二度と御免だ。

「頼まれても、手放したりしません。そういうところを含めて……あなたは私の自慢の部下ですよ」

 ――生まれたばかりの息を、呑み込む音を聞いた。
 鉛でも纏っていたんじゃないかと錯覚するほど固い体。そこから、力がふっと抜ける気配がした。まるで、全身に絡んでいた枷がするすると解れていくように。そして、の細い腕がそろり、そろり、と銃兎の背中に伸びて、遠慮がちに、肩甲骨の辺りに指が添えられた。
 人と抱き合う時、こんなにも心臓の音が伝わるものだったか。強くて、それでいて早い……息遣いまで、耳元のすぐ近くで聞こえてくる。感情に嘘はつけても、全身からせり上がってくる衝動までは操ることはできないらしかった。

「……じゅーと、さん」

 やや、落ち着いた声色。胸の中に顔を埋めるは、こちらの返答など求めていないと分かった。

「……わたし、すきなひと……いるんです」

 まっしろな画用紙の上に、乾いた筆で水彩を塗りつけるように。その声は、の温もりとともに、銃兎の肌によく馴染んだ。

「顔が良くて、スタイルも抜群で……。いろんな黄金比総なめです……」
「へえ……。それはそれは」
「職場の人、なんですけど……一緒にいるだけで、楽しいし……仕事頼まれると、すごく、嬉しいし、任務のためというより……わたし、その人に……褒められたくて……」

 「まあ……それすら、あんまりないんですけど……」とは自嘲しながら付け足す。

「自分の正義のためなら、手段を選ばないところが……すごく、わたしの思い描く、警察官の理想像で……すてき、なんです……」
「……ただの偽善者じゃないですか」
「偽悪者、ですよ……。悪物になろうとしても、みんな、その人の良さに気づいて、信じて、ついて行くんです……。ほんと、やることが……色々ずるくて、わたし、だいすきです……」

 まるで、眠るかのようなおだやかな呼吸。それが今、自分の胸の中で産声を上げている。
 これは、都合のいい夢かもしれなかった。きっと、も同じものを見ているから、こんなにもやわい言葉がほろほろとこぼれているのだろう。

「たくさん……役に、たちたいなぁ……。わたし……本当に、なんでもするのになぁ……」

 その人……優しいから、わたしに何もさせてくれないんです。の言葉に、銃兎はつい反論したくなる。何言ってんだ、と。仕事なんて、外回りを含めて他の人間より数倍回している。週に最低二回は仮眠室で寝泊まりを余儀なくしているというのに、逆にこちらが体を壊さないように調節しているくらいなのに。
 だから目が離せないんだ、と銃兎はの体をさらにきつく抱き締めた。

「子ども……。子ども、産みたいなぁ……。男の子、一人欲しいなぁ……。その人似の……」
「段階、飛ばしすぎていませんか」
「三人で、二階建て一軒家に住みたいなぁ……」

 もはや何も聞いていない。しかし、話している時のが本当にあどけなく笑うものだから、無視されようがどうでもよくなってしまった。

「仕事……。どうしようかな……。子供産むまでは、ちゃんとやり切りたいなぁ……」
「辞めさせますけどね。私なら。業務に支障が出ます」
「女性軽視ですよ……」
「個人的な問題です」

 殉職してきた仲間を、銃兎は幾度となく見てきた。その中には家庭を持っている者ももちろんいた。しかし、この組織に属している以上、自分の掲げる正義と他人と築き上げる未来の両方守れる人間など、数は少ない。
 だからせめて……大切な人が平和な街で暮らせるように奮闘したい。この世界が抱える闇など見えないところで、自分の帰る場所を守っていてほしい。

「……惚れた女とその子供抱えた職場で、集中できるわけねえだろ」

 しばらくは黙っていたが、すぐに、「そう、ですよねぇ……」と、また嬉しそうに笑んだ。
 それからも、はおとぎ話をなぞるようにぽつぽつと語る。料理の練習しないといけない、相手のご両親にご挨拶をしないといけない、自分の母親にも報告しなくちゃいけない――そして父親の話になったところで、「最近、面会のたびにその人の名前出すと怯えるんですよー……」と面白おかしく囁いた。

「その男に……気持ちを伝える気はあるんですか」

 話し終えて、ようやく満足そうに息をついた。黙ったところで、銃兎は彼女に問う。
 の体が若干身じろいだ後、銃兎の背中からするりと彼女の腕を下ろされる。それだけなのに、夜の凍えが銃兎を鋭く襲った。

「……ない、ですよ。わたし、その人にかなり嫌われるようなこと……してましたし」

 すると、銃兎の胸の前で、は指折り数えていく。欲しいものがたくさんある、と言わんばかりに、その目はどこか希望に満ちた色をしていた。

「いっしょに働いて、たまにラーメン食べて、怒られて、褒められて、亀崎って呼ばれて……それでいいんです。これ以上のぜいたく、思いつきませんよ……」

 ねえ……銃兎さんだって、そう思うでしょ……?
 こちらの返答など、求めてないくせに。気づけば、は銃兎の腕の中で眠り、銃兎が少し体を動かしても起きる気配もないくらい、深い夢に落ちていた。
 まったくもって、無防備なことだ。銃兎は布団の上にを横たわらせた後、銃兎はシンクで自身のハンカチを濡らし、彼女の目の上にそっと置く。きっと朝には落ちているだろうが、ないよりかは腫れもマシになるだろうと。
 頬は緩み、毒気が幾分か抜けている、すこやかな寝顔だ。寝ている時くらい、その下手くそな面も剥がれるくらい、幸せな夢を見ていてほしい。
 たとえ……その元凶が自分の中にあったとしても。

「……俺も、白黒つけるか」

 巡査部長である自分にとって、を観察対象。ならば、入間銃兎個人にとっては――
 銃兎は一人、密かに誓う。額に張りついたの前髪を分けて、ハンカチの上から彼女の瞼に触れるだけのキスを落とした。