Episode.6



 例えば、イフの未来があったとして。

「ねえな……」

 近い近い近い近い……!!
 亀崎、父親に警察官になると告白したぶりの危機到来だ。すぐ目の前には銃兎さんの腰。いったん降りろと一声をかけてくれればいいのに、なんでこんなにも至近距離になってまでジッポを取ろうとするのか。意味が分からない。あと、呼吸がままならない。朝から肺活量耐久訓練なんて聞いてない。もう色々と無理。
 銃兎さんが動く度に、小綺麗なジャケットがわたしの頬を掠める。ファンデ付きますよ銃兎さん――そう言ってこの状況を回避したいのに、今はそんな軽口を叩く余裕もなかった。
 ついに我慢ならなくなって、おそるおそる鼻から外気を吸う。すると、車内よりも銃兎さんの匂いが鼻腔をダイレクトに襲った。四六時中煙草を吸っている割に高そうなフレグランスの匂いがする。もう嫌だなこの人。どこまでハイスペックなんだろう。心臓が痛いくらいに脈打って、顔も逆上せたみたく徐々に腫れ上がっていく。

「(というか……)」

 こう見ると、銃兎さんって意外と肩とかがっしりしてるんだなー。警官だし、体が資本なのは分かるけど、鍛えてるところはあまり見たことがない。このあいだも外回りの時に雨に降られて、ワイシャツから体のラインが出てた時も、どこのヌードモデルですか、わたしの肩にジャケットかけなくていいから自分のその色っぽい体隠してくださいよ、って言いそうになった。
 まぁ……気遣ってくれたのは、嬉しかったけど。

「失礼。ありました。前に人を乗せた時に移動させられたようで――」
「いやあ、今日も送ってくれてありがとうございました~」

 とりあえず早く離れてほしい。そう願いながら、頭の中で懸命に九九を数えていたら銃兎さんがようやく退いてくれたので、わたしは即シートベルトを外した。「先に行ってますねー」と捨て台詞を残して、色気溢れる車の中から脱出。目は、最後まで合わせなかった。充血したように熱くなったこの顔を見せられるわけがない。

「自分のこと、鏡で見たことないのかなあの人……」

 大きな溜息をつきながら署に向かう。銃兎さんには、自分の顔面偏差値をもう少し自覚してほしい。あんなに距離が近くなってしまったら、常日頃から隠しているものもうっかり表に出てしまう。元来、銃兎さんはパーソナルスペースが広い人だ。なのに、彼との距離は日に日におかしくなっていくばかりだった。ここ最近は、特に。
 銃兎さんは悪くない。悪いのは、変な気を持っている自分。どうにかしなくちゃ――そう思って、捨てようと思っていた中王区の研修の封筒を取り出す。署に着いたら捨てようとしたそれは、しばらく迷った後に鞄の中に忍ばせたままにした。




「手を洗って、ソファーにでも座っていなさい。すぐ作りますから」

 銃兎さんの様子が何となくおかしかったから冗談半分でカマをかけただけなのに、まさかこんな展開になるなんて思わなかった。数分前まで薬物関与の疑いをかけていた人間を自分の家に上げるなんて、どうかしている。そして、のこのこと足を踏み入れてしまう自分も。
 弁えようと思っているのに、当の本人はこっちが意図的に引いている境界をいとも簡単に超えていく。居心地が悪い。とても。キッチンでは銃兎さんが忙しなく動いていて、そっちを見ないようにしても、部屋を満たす煙草の……銃兎さんの匂いで頭がいっぱいになる。
 嫌でも銃兎さんの存在を感じてしまう。ソファーに置いてあったクッションを持って、八つ当たりするように強く強く抱き締める。それが逆効果で、彼の匂いに全身が包まれているような錯覚に落ちた。何をどうしても逃げられない。心臓はどきどきしているのに、気分はとても落ち着いて、元々隠れていた睡魔がちらりと顔を出したのをぼんやりと意識した。


 ――不意に、耳を掠めた何かがあって、びくりと飛び起きる。どうやらいつの間にか眠っていたらしい。目を開けると、すぐ近くにあった銃兎さんの顔。そして、なぜか自分の耳元には彼の指が遠慮がちに伸びていた。

「……ご飯、できましたよ」

 銃兎さんの背中を見送りつつ、心中は至る所で爆発を起こしていた。
 うっすらとした意識はあった。不自然に耳にかけられている髪に触れて、大方何をしたか予想はつく。どうして、そんなことするんですか。今までずっと腫れ物みたいに扱ってたじゃないですか。なのにこんな、いきなり心許したみたいに接されたら――

「それは、とても……いい話ですね」

 ――ほら。我慢、できなくなっちゃうじゃないですか。
 じんわりと広がる、やわらかな未来。なんの後ろめたさもなく、銃兎さんの隣にいる幸福。どれだけみっともないところを見せても許される世界。一日の半分以上一緒にいて、体が動かないくらい働いた後、同じマンションに帰って、たまに銃兎さんの部屋でご飯を食べる。業務外で、同じ空間を共有する、不思議な関係。名前のない不安定なそれが、とても居心地がいい。そんな幻想を夢見たら、自然と顔が綻んだ。
 
「中毒者の人間に轢かれたんです。だからこそ、今の私がある」

 ――そして、それを許さないと言わんばかりに、わたしの目の前を闇が覆う。
 かしゃん、と背後から音が聞こえたかと思えば、自分の手足には枷が嵌められていた。薬物中毒者の手が数百本の束になって、わたしの幸せを塗りつぶすように、今までの光景が真っ黒に覆われる。目を、耳を、口を塞がれ、銃兎さんが遠ざかっていく。
 ……自由なんて、遠い昔からなかった。今までは、生きるために法を犯していた。けれど、今はそれを償うため、まっとうに生きなければいけない。
 だから……銃兎さんはわたしをここに残した。そう思っていた。そういうはずだった。

「銃兎さんがそんなだったら、わたしは誰に裁いてもらえばいいんですか……?」

 ひだまりのような夢ばかりを見せる彼が、時折分からなくなる。
 薬物を嫌っている。その理由も、今知った。ならなおさら、銃兎さんはなにがしたいんだろう。幸せを噛みしめるわたしを突き落として、さらに苦痛を与えたいんだろうか。
 なら、ご飯もいらない。優しさもいらない。いくらご飯が美味しくても、銃兎さんの顔が目の前にあっても、いらないんだから。食べたいだなんて……思ってないんだから。
 ずるい。ずるいです。苦しませたいなら、もっと別の方法があるでしょ。睡眠が取れないくらい仕事を回すとか、危ない任務ばかり遂行させるとか……。わたしは、ちゃんと我慢してるのに。態度で出ないように、口から漏れないように、ずっとずっと、耐えてるのに。どうして。
 まるで……たいせつな人みたいに、そんな目で、わたしを――



「……なにあれ。でれでれしちゃって」

 女数人に囲まれて、にこにこと笑顔を絶やさない銃兎さん。そりゃあ、わたしの上司はヨコハマ一かっこいいでしょうとも。ええ。こんなおじさんばかり集まる中、銃兎さんは一輪の薔薇でしょうとも。
 だから、今回悪いのは銃兎さんだ。何の得にもならない愛想を振り撒いて、どんな利益を求めているのか。ディビジョンバトルで有利になれるとでも思ってるんですか。そんなのかっこ悪いですよ。というか、わたしだってあんな顔されたら、普段よりも倍の仕事しますよ。だからその子達じゃなくてわたしに向けた方が絶対得ですよ。なんであっちばっかりなんですか。わたしにはあんな顔向けたことないくせに。
 普段はうざがっているのにも関わらず、ああいうファンサは欠かさない銃兎さん。いいなー、わたしもあそこに交じりたい。下心丸出しで、あんなふうに銃兎さんと話したい。収入いくらですかとか聞きたい。そしてうざがられたい。

「わたしの方がぜったい銃兎さんのこと――」

 ぼろっと零れた本音に気づいて、慌てて唇を噛んだ。
 煩悩を振り払うように、自分の仕事をこなした。少し話しかければその気になったホシは、下心ありきでルームキーまで渡してくれた。フロントに行って予備のものを貰ってから会場に戻る。さっきよりも増えている銃兎さんの取り巻きにだんだんいらいらしてきて、普段は飲まないカクテルを仰いだ。
 頭が良い具合にふわふわとしてきて、首から上がぼんやりと火照る。ふと、銃兎さんが周りを気にし出すと、わたしと目が合った。
 今更遅いんですよ。わたしはぷいっと顔を逸らす。

「……何を不貞腐れているんですか」
「べっつにー」

 先輩から無線で報告を受けて、今更ご機嫌取りですか。遅いですよ。お酒が入ったのも相まって、普段は我慢できることも心の中でぶつぶつと思ってしまう。
 だから、次来た女にはこの人ゲイですよって囁いてやった。明らかに引いた顔をして去っていったものだから、ちょっと面白かった。
 お酒のせいなのか、それとも昨日疑われたことがどこかで寂しいと思っていたのか……いつもよりも欲が出た。早く成果を出したくて、料理を取りに行くふりをして自分からホシに近づいた。会場を出る時に入間さんを見たら、また女に囲まれていてさらにむかむかしたので、余計に成功させようと思った。
 よくやった――その一言、銃兎さんに言われるだけでよかった。



「あ、お疲れさまです~」

 おかげさまで任務は成功。引き継ぎまで完璧にこなして、先輩たちからはたくさんお菓子をもらった。次々に帰っていく人の中に、やっぱり銃兎さんはいなかった。
 今回の件で、決意したことがある。銃兎さんと少し距離をおこう、と。まず手始めに五日間――中王区の申請書を片手に、わたしは銃兎さんを待っていた。このままでは、色々と歯止めが効かなくなる。今回も単独で動いてしまって、ほんの少し申し訳なく思った。銃兎さんもきっとお怒りだろうなあ。だから喫煙所から出てこないんだろうなあ。
 それでも、性懲りもなくどこかで期待していた。彼の理想郷に一歩近づく手伝いが出来たから。少し命令には反してしまったけど、薬物撲滅のためなら法をも破る銃兎さんなら理解してくれるにちがいない……なんて。

「私に、何か用でも」

 銃兎さんの口からナイフのような鋭利な言葉。賞賛でもなんでもない。冷たく突き刺されたそれに、ずきんと胸が痛んだ。わずかに期待していたものは、取り繕った表情の裏でゴミ箱に捨てた。
 一言謝れば、許してもらえたのかもしれない。でも、それよりも先に中王区のことを話したら、明らかに入間さんは頭にきているようだった。
 ああ……嫌だな、この感じ。人が怒ってる時って、どうしてこんなにも体が縮こまるんだろう。

「……理由を言ったら、お前は行かないのか」

 わたしは耳を疑った。
 仕事が滞るとか、そういう実務的なことじゃない。一瞬垣間見えた、銃兎さんの私情。もっと、別の何かを察してしまった。

「俺が行くなっつったら……お前はそうするのか」

 なんで……。なんで、わたしを一番恨みたいはずの銃兎さんがそんなこと言うんですか。
 やめてくださいよ。人がせっかく切り離そうとしてるのに。大きくなりすぎた気持ちに蓋をしようと思ってるのに。なんで、そんな期待させるようなことばかりするんですか。
 それ以上聞きたくなくて、必要以上にべらべらと喋ってしまう。焦っているせいで、口が止まらない。銃兎さんの口が開く隙を与えないように。ここで黙ったら、取り返しのつかないことを言われそうで。わたしの知る銃兎さんではなくなってしまう。
 なにかしなくちゃ。どうにかしなくちゃ。ついに、静かに燃え広がっていた火に油を注いでしまった。

「銃兎さんこそ、ヤクでもやってるんじゃないですか?」

 ――その時、彼がどんな顔をしていたか、思い出せない。
 やっちゃったなぁ。痺れた頬の感覚が、どこか懐かしい。早くしないとここから動けなくなる気がして、言いたいことだけ言って、わたしは詰所を後にした。


 署を出たはいいものの、あのマンションには帰れなかった。数歩歩けば銃兎さんの住まいがある、あの部屋に。仕方がないから、その日の夜は小さなカプセルホテルに泊まって、体を丸めて頬の痛む夜を過ごした。
 物理的な痛みを受けたのは久々だ。どうやって過ごしていたか、もう忘れている。それくらい、今まで長閑な日々の中にいたのだろう。
 法に、許されなくたっていい。恨まれたって、信用されなくたって、たった一人の……たった一つの言葉さえあれば。
 褒められたかった。認められたかった。まるで、愛情に飢えた子どもだ。熱を帯びた頬に触まれて、もう憧れることすら出来ない背中を思い出して、とめどなく溢れる涙を拭った。







 あれから五日後。中王区の研修を終えたわたしは、何十年かぶりに家でダウンしていた。
 体が重い。頭が痺れるように痛い。これ死ぬんじゃないかな、と珍しく危機感を覚えて、迷いに迷ってせんぱいに助けを求めた。電話越しの声が本当に死にそうだったのか、都内に住んでいるにも関わらず、せんぱいは飛んできてくれた。
 熱を計ってもらえば、三十九度越え。「なにかあったの」と尋ねられて、研修疲れかもしれません、ととりあえず笑っておいたけど、せんぱいは笑っていなかった。
 正直、研修自体はそんなに過酷ではなく、内容もほとんど洗脳のような講義ばかりだった。だから、頭の七割は研修明けに銃兎さんとどういう顔をして会えばいいのかと、そればかり考えていた。結局、その答えは出ないまま研修は終えて、この始末だ。
 そもそも、組対にまだわたしの籍があるのだろうか。明日、銃兎さんにあなたのデスクはありませんよなんて言われたら……ああ、それとも逮捕状を突きつけられるのが先かもしれない。
 「知恵熱かもしれないね」せんぱいはそう言っていた。赤子がするようなそれを彼女は笑わず、わたしを労うように頭を撫でてくれた。溢れ出る母性に、また泣きそうになった。
 これ以上、迷惑はかけられない。移すといけないからと言って、新婚でもあるせんぱいは早々に帰した。彼女は渋々と言った風に頷いて、「何かあったら呼んでね」という言葉を残して、部屋を後にした。
 しん、と静まる部屋。一人の空間は落ち着くはずなのに、久々に人と話したものだから、どこか心許なくなってしまった。
 明日……嫌だな。話す内容考えなくちゃ。最初だけ乗り切りさえすれば、あとは仕事に集中するし、きっと大丈夫。普通に会話できる。前みたいに、ラーメンに一緒に食べに行ったりは、できないだろうけど。
 ……なんだか、無性に寒い。これだから風邪はいやだ。心身共にもろくなる感覚が、すごく嫌いだ。気まぐれにスマホを手に取って、連絡帳を開く。“銃兎さん”という文字をぼんやりと見つめるだけで、熱とは違う意味で全身がぶわっと熱くなった。
 ……きっと、普段の自分が隣にいたなら、これからの行動を制したにちがいない。わたし自身、何を血迷ったか分からない。後先を全く考えず、その指は通話ボタンにとん、と触れていた。
 まるでお遊びだ。そしてこれは、夢の中……そう、夢の中だ。銃兎さんも忙しいだろうから、きっと出ないだろう。だから、何をしたって許される。そんな戯言をつらつらと並べた。文字だけでは足りず、声を聞きたいと思うのも、人肌が恋しいと思うのも、心の隙間を埋めるだけに電話をしてしまうのも……すべて、熱に浮かされているせいだ。
 本当に、ただ、頭には願望だけしかなかった。遠慮とか、建前とか、今自分が置かれている立場とか……全部払ったら、おかしいくらいに、彼の存在しか残らなかった。
 “接続中”という画面を緊張で余計に心臓に悪い。これが吊り橋効果かなぁ、などと思って、三コール聞いたら夢から覚めようと、すぐに通話拒否のボタンに触れられるようにスタンバイをしていた。

《……もしもし。入間ですが》

 ――夢を纏った泡がぱちんっ、と弾ける。
 現実に一気に戻される。なぜこんなことをしたのかと、後悔の波が一気に押し寄せてきた。
 どうして……こういう時だけ出るんですか。五日ぶりに聞いた、耳によく馴染むテノール。頭がぐわんぐわんと揺さぶられているように暴れている。そして、首を締められたように、喉が痛い。我慢していたわけでもないのに、いきなり涙がどばっと落ちてきて、枕に染みを作る。はく、はく、と死にかけの金魚のように口を開閉するも、上手く、息ができない。
 溢れる。わたしはそう悟った。溢れて、戻れないところまで、彼に手を伸ばしてしまう。嗚咽まで聞こえてしまいそうになって、口を片手で抑えた。このままでは、禁句を言ってしまう。これは……だめだ。思っていた以上に、わたしは――

《亀崎、何かあっ――》

 ポロン、と通話を切る。はあッ、と全身で酸素を求める。溢れて、溢れて、止まらない。零れては滲む衝動。喉が、声が……もう、限界を迎えていた。
 今までと同じではいられない。きっともう、一緒にいることすら耐えられない。檻の外でのうのうと生きていること、そして、この感情に気づいてしまったことへの罪悪感を一生抱えて生きていかなければいけない。
 二度と、冗談半分でも言えやしない言葉を、ころして。いや、すでに気づかれているのかもしれない。それなら……それならば、彼に、いっそのこと――

「(だから……言ったのに……っ)」

 優しくしないでください、って。何度も。だってわたし、銃兎さんのこと元々タイプなんですから。
 誰にも聞かれることのないわたしの声は、小さい頃から、ひねくれた脆い自分を慰めることしか出来なかった。