Episode.5



 のいない五日間、部署は水を打ったような静穏を極めていた。
 大きな事件が舞い込んでくるわけもなければ、リストアップしている要観察人物もこういう時に限って動きを見せず、とても大人しい。これこそ平和といっても過言ではなかった。ほとんどの人間を定時で上がらせたし、銃兎もやることがないので早々に仕事を切り上げた。
 しかし、銃兎は家には帰らなかった。五日間の夜のほとんどを仮眠室で過ごし、硬いベッドの上で次の朝を迎えた。正直、帰りたくないというのが本音だった。付け加えると、の部屋の隣にある、あの家に。
 別部署の知人に聞くところによると、研修期間中は中王区に宿泊するとのことだったので、マンションでと鉢合わせる心配はないが、あそこに足を運ぶとどうしても彼女の存在を意識してしまっていけなかった。を隣に住まわせたのも、顔を合わせづらくなかったのも、すべてが自分が招いたことだというのに、こうも裏目に出るとは思わなかった。



 そして五日目の夜を迎えた――ついに明日からが戻ってくる。待ち遠しいような、そうでないような。どの面を下げて彼女と挨拶を交わせばいいのかと、そればかり考えて今日に至る。冷たい丸太の上に座りながら、銃兎が無気力に煙草を吹かしていると、「おい、」と横から声が飛んできた。

「ヤニ臭ぇぞ。それ一本で止めろ」
「非喫煙者みたいなこと言ってんじゃねえよ左馬刻……」
「テメェこそヘビスモ極めてんじゃねえ。俺がやったの合わせて何箱目だと思ってんだ」

 ごちゃごちゃうるせぇな。強要罪でしょっぴくぞ。銃兎はそう思いながらも、今咥えている煙草を味わうように一際大きく吸った。

 いつものように左馬刻から連絡を受け、銃兎は理鶯の野営地に車を走らせた。理由は言わずもがな、である。普段なら、食事会という名の天国へのカウントダウンに身を縮こませているところだが、今なら蛇の蒲焼だろうが昆虫の串焼きだろうが無心で食べられる気がした。それほどに、今の銃兎の心情は無の境地に立たされていた。

「おい銃兎ォ。何あったのか知らねえが俺様をシカトするなんていい度胸してんじゃねえか」

 比喩抜きのチンピラは夜になっても稼働中だ。左馬刻にネクタイごと胸倉を掴まれて凄まれても、銃兎は光のない目で左馬刻を見つめ返すだけ。ここにやって来てから上の空、おまけに煙草の消費も早い銃兎に違和感を覚えて、左馬刻はそんなことを言っているのだろう。銃兎も銃兎で、左馬刻にアクションを起こされて、ようやく外部に意識がいった。
 目の前には薪、上は満天の星空、そして後ろでは鼻歌を歌って調理をしている理鶯……いつも見ている光景のはずが、今日はどこかもの寂しく銃兎の目に映っていた。
 そういえば……こいつもそうだったな。銃兎は左馬刻は鋭い眼光を浴びながら、「左馬刻」と小さく彼の名を呼んだ。

「あ?」
「お前、ガキの頃誰かに頼ったことあったか」

 しん、と場が白ける。銃兎は何も言わない。一方、左馬刻は何かを察したように眼光を緩め、紫煙をゆるゆると吐き出した。

「……大人なんて、ろくに信用してなかったからな。強いて言うならオヤジくらいだ」

 そう呟かれた声は、地面に沿って綺麗な平行線を描いていた。次に、それがなんだよ、と言わんばかりにじっと見つめられたので、銃兎はぽつりとこう言った。

「……俺の部下に、お前みたいな環境下で育った女がいるんだが」
「へえー。で?」
「手、上げちまった」

 火花が弾ける音がやけに大きく聞こえた。しばらく沈黙していた左馬刻は、咥えていた煙草を離して、銃兎を静かに見据える。火の光でさらに赤く光って見えるその目には、明らかに軽蔑の色が浮かんでいた。

「究極のクズ野郎だなテメェ……」

 返す言葉もない。実際、似たような被害に遭っていた左馬刻に言われると中々に応えるものがあった。だからこそこうして暴露したわけだが。
 あれから五日経っても、銃兎の手のひらはの頬の感触を覚えている。そして明日……彼女がどんな顔をしてくるのか。そもそも、がきちんと出勤してくるのかも怪しい。来たとしても、中王区の異動届と共に顔を出すのかもしれない。
 それに、あの時は弁解ばかり考えていて、銃兎はにまともな謝罪ができなかった。むしろ彼女に謝罪をさせてしまう始末だ。あんな子供のような売り言葉を買ってしまうなんて、どうかしていた。があんなに分かりやすく喧嘩を売りにくるのは、隠したいことがあるからと分かっていたはずなのに。

「で? 殴ったテメェは被害者面してナーバスってわけか?」
「殴ってねえ。平手打ちだ」
「手ェ上げる時点でどれも同じようなもんだろうがよ。つか、クソ親父みたく言い訳すんじゃねえ。胸糞悪ぃ」

 確かに一理ある。もういっそ一発ぶん殴ってほしい、と思いながら、銃兎は深い溜息をついた。
 すると、今まで調理に勤しんでいた理鶯がすたすたとこちらにやって来て、銃兎と左馬刻の目の前に、一枚の朴葉ほおばを置いた。その上に盛り付けられているのは……なんだこれは。身近な食材で例えるならば……そう、ミートボールだ。少し手足のようなものが見えている気がするがミートボールだ。そういうミートボールも普通にスーパーで売ってるだろう。とにかく誰がなんと言おうとこれはミートボールだ。
 左馬刻と共に言葉を失っていると、話を聞いていたらしい理鶯は「その女性は、銃兎に何かしたのか」と尋ねた。むしろしたのは俺の方だ、と思いつつ、理鶯の問いに左馬刻が先に応じた。

「どうせちょっと付きまとわれただけだろ」
「銃兎はそんな些細な理由で暴力を振るうような男ではないと思うが」
「分かってねえな理鶯。こいつが見境なくなるのなんて大体――」

 ぴた、と左馬刻の言葉が止む。さっきまで妹の仇のような目をしていたというのに、今度は仲間に同情を向けるそれだ。まったくもって情に流されやすい男である。

「……ヤクやってたのか。そいつも」

 違う。銃兎はすぐに首を振った。そして、気がついたら自分ととの関係をぽつぽつと二人に話し始めていた。
 一つの事件を追う過程でという婦警に出会い、自分が引き抜き、共に仕事をしたこと。そして、その事件の容疑者が彼女の父親であったこと、長年大麻の栽培と密輸をし続けていた父親の存在を黙秘しながら、は警官として銃兎の隣に立っていたこと。
 たった数ヶ月前の話だ。なのに、いつの間にか彼女とこんなにも長い道のりを歩いていたのかと思う。ずいぶんと緩くなってしまった口を閉ざすと、理鶯は何も言わずに席を外し、左馬刻は「ふーん……」と大したリアクションもせず、肺に溜め込んでいた紫煙を星空に向かって吐き出した。

「要はお前、その女に惚れてんだろ」
「は?」
「は? じゃねえよ。今の立場利用して、テメェがその女のこと手放したくないだけだろうが」

 今の話を聞いて、なにがどうしてそうなる。お前は馬鹿か。良い耳鼻科紹介してやろうか。そんなマシンガンじみた言葉をコンマ数秒で思いつつも、銃兎はぐっと喉の奥で堪える。

「俺はただ疑ってるだけだ。事が事だからな。あいつがもし、密かに売人になっていたら、俺は部下だろうがなんだろうがしょっぴく」
「なら、今の時点でとっととお得意の豚箱にぶち込めばいいだろ」
「利用価値があんだよ。長年売人の仕事をしてた親父の下で育ったからな。奴らの目線でものを考える頭が捜査に役立つ」

 警官の視点でしか、銃兎は事件を見ることができない。当たり前だ。しかし、実際に売人と一つ屋根の下で暮らしていたは違う。大麻の栽培方法から足のつかない密輸ルート、そして他の密輸者とのコンタクトの取り方など、すべて知り尽くしている。
 異動後、一緒に仕事をする上であまりにもがその世界に詳しいものだから、再度容疑にかけようとしたが、善心を取り戻しつつある彼女の父親から、娘には何もさせていないと言質を取っているので、その試みもお蔵入りとなった。
 のスキルは誰しも持っているものではない。が何パターンも組んだ作戦のおかげで、実際どれだけ逮捕率が上昇しているか。良い意味で、彼女が来てからの組対は大忙しだった。

「それは、いつもの銃兎ではないのか」

 またしても理鶯がやって来て、次は大きな吊り下げ鍋を薪の上に吊るす。そこにぷかぷかと浮いているのは……きっと椎茸だろう。黒光りする丸い食材など銃兎はそれしか知らない。

「小官も聞いている限り、銃兎が特段その女性を懐に入れているように思う。それが色恋の類かは判断し兼ねるが」
「肉親でもなけりゃ、男女の情なんてそれ以外にねえだろうよ」

 そんなことはない、と言いたかった。それでも、たしかにに対する感情に、銃兎は未だに名前を付けられないでいる。
 ある意味、は特別だ。それはこの際認める。彼女との間にどれだけの秘め事があるか……数えるだけで途方もない。薬物と絡んでいた彼女を、今は自分の下に置いている。部下とその上司……それ以外に、それ以上に、どんな形のものに収めろというのか。

「俺はあいつの上司だ。そういう目で見たことなんて一度もない」
「ならば、試しに小官が一つ問おう。もしも彼女が薬物とは無縁で、真っ当な警官として銃兎と出会っていたら、貴殿はどうする」

 もしも、だなんて非現実的な話は好きじゃない。しかし、理鶯も冗談を言う男ではないのは分かっているので、一人で考えることに疲れた銃兎は、気晴らしに彼の提案を聞くことにした。
 たしか……は地域課ではなく元々組織犯罪対策部を希望していたらしいので、配置の時点で銃兎の耳にの存在が流れてくるだろう。経歴などは二の次で能力から目に止める銃兎は、どんな人間が集まろうが少なからず彼女に一度は着目するにちがいない。常に人手不足で、猫の手も借りたいうちの部署……女だろうが性格に難ありだろうが、根本は同じ警官だ。一ヶ月間自分と組んで音を上げなかったら正式に採用。教育に一切の容赦なく、組対のいろはをとことん体に叩き込ませる次第だ。
 今でも、一を教えたら十の出来栄えで返ってくる。おそらく銃兎が手放せなくなるのも時間の問題だろう。他の部署や中王区の異動届を渡されても巧みにかわすにちがいない。そして、いつか自身の過去をぽつりと漏らすほど、に心を許す時が来るかもしれない。それと同時に、彼女に許されたいと思うのも。
 試しに……手篭めにしてみたい。上司の皮を被ったまま、ほんの少しだけ優しく近づいて、かと思えば時折突き放したりもして。自分の態度に振り回されて苦しそうにするを見て、心のどこかで笑んでいたい。
 葛藤する彼女を堪能した後は、今まで優しく引いていたその腕を掴んで、溺れさせるだけ。誰にも頼ることない、唯一の拠り所として自分に縛り付けたい。頼り方も甘え方もすべて、夜通し泣き縋がるまで身体に調教してしまいたい。頑なに見えない素顔も、本音を隠すその口も、すべてどろどろに溶かしてしまって、まるで、自分なしでは生きるのが辛くなるように――

「いや待て。ちょっと待て」

 心臓から熱が上昇する。今、途中から変なこと考えた気がした。口元を抑えた銃兎はそっぽを向くも、左馬刻は傑作と言わんばかりに膝を叩いた。

「ハッ。うさちゃんが真っ赤になってやがる。下に組み敷くところまで想像したかァ?」
「下半身と精神直結してるお前は黙ってろ」
「んだとゴラァ!!」

 一人で怒鳴っている左馬刻を放置して、銃兎は平常心を手招きする。どうやら、思いのほか重症のようだった。今まで警官という立場に囚われすぎていたというのか。ほんの少し業務から頭を離されただけで、まさか、いやでもそんな――
 銃兎はおそるおそる理鶯を見る。薄く笑んでいる彼は、銃兎を茶化しもせずにこう言った。

「昔、港町の娘と懇意になってしまった仲間がいた。軍か女か……悩む彼に、もう一人の仲間がそんな質問をして、どちらが大事なのかを認知させていた」
「……その彼は、その後どうしたのですか」
「国よりも、愛する女を守る道を選んだ。軍が解体される前に隊を抜け、今はアメリカで女との間に出来た子と共に暮らしているらしい」

 軍と警察……ものは違えど、どちらも私情よりも規律を重んじるべき組織だ。しかし、警官という立場ではなく、銃兎にはそれ以上の野望がある。それを無視して、人並みの幸せなど掴もうという気にはとてもなれなかった。

「今、銃兎は薬物に縛られているように見える」

 この世で一番嫌悪するものに、私が。理鶯の言葉に、銃兎は本意でないと顔を顰めながら、ゆっくりと目を伏せた。

「……この世界から薬物を撲滅することは、私の全てです」
「ああ。しかし、そのせいで盲目的になるのはらしくないとも、小官は思う」

 見えるものも見えなくなっている。薬物を追っている自分自身が逆に、薬物に取り憑れかていたというのか。こんなに近くにあった本音に、気づくことが出来ないほどに。
 銃兎は再び理鶯を見上げる。どうだろうか、と首を傾げる彼が聖人君子か何かに見えたのは気のせいではないだろう。自分の感情など置き去って、今の立場や建前を含めて変に歪曲して考えすぎてしまい、一歩も踏み出せない自分とは違う……彼の天然な思考が少し羨ましいと思った。
 とりあえず、もう考えるのはやめだ。に抱いているものがなんであれ、明日彼女に謝罪をして、先のことはそれから考えればいい。が素直に出勤してくれればの話だが、と銃兎が思ったところで、ジャケットに入っているスマホがヴヴヴ、と震えた。
 呼び出しか、と銃兎が嫌々スマホを開くも、予想は外れた。着信画面には亀崎の二文字が浮かんでいる。
 思わずスマホを持つ手に汗が滲む。こんなにも慎重にスワイプをするのは初めてだった。通話中、と表示された画面を確認した後、銃兎は耳にスマホを当てて、ふーっ、とゆっくりと息を吐き出した。

「……入間ですが」

 応答がない。本当に繋がっているかと疑うくらい、周りも静かだった。プライベートのものならまだしも、業務用のスマホのナンバーで、さすがにこんな分かりやすい悪戯をする亀崎ではない。
 数秒沈黙が続いて、まさか変な事件に巻き込まれて――と、嫌な予感が頭を過ぎった銃兎は性急に言葉を発した。

「亀崎、何かあっ――」

 ブツッ、と切れる通話。虚しく聞こえる話中音に、銃兎は切断中と表示された画面を見つめた。
 一体なんなんだ。そんな銃兎の雰囲気を察してか、ふーッ、と大きく一服着いた左馬刻は、短くなった煙草を地面にこすりつけた。

「行ってこいよ。なんかあってからじゃ遅えだろ。俺は今夜ここで寝るからよ、車は好きに使え」

 その横で、理鶯もうんうんと頷いている。まるで背中を強く押されているようで、これほど二人が頼もしく見えたことはない。銃兎は無言で二人を見つめ返し、丸太から立ち上がった。
 さあいざ、と踵を返した時、不意にぐいっとジャケットの裾が引っ張られる。振り向けば、さっきまで飄々としていた左馬刻が不自然に引きつった顔で銃兎を見上げていた。

「待て銃兎。やっぱりこれ食べてから行けや。理鶯に悪いだろ」
「いや、小官に気にせず行くといい。またいつでも馳走するからな」

 ふと見れば、いつの間にか薪の周りにはフルコースが揃っていた。大量のミートボール(仮)に椎茸(仮)が浮かぶ大鍋、そして生前は四足歩行していたと見られる生物の姿焼き――匂いは頗る良いが、見た目のせいでプラマイゼロ……いやマイナスだ。満足気な理鶯の顔を見て、銃兎も思わず頬が引きつった。
 これを食べていったとして、まともに動ける気がしない。なんなら車の運転も危うい。嘔吐きながら事故る未来が見える。銃兎は無言でしばらく悩んで、ゆっくりと左馬刻の手を振り解いた。

「……ありがとうございます。では理鶯、お言葉に甘えて」
「おい銃兎テメ――ッ!!」

 左馬刻の遺言を背中で受け取り、銃兎は森を駆ける。こればかりはさすがに悪かったと反省する銃兎。すべてが片付いたら、今度高い肉でもご馳走してやろうと思った。
 銃兎は早々に森を抜けて、道の脇に止めていた車に乗り込む。この時間帯……中王区にいることも考えられるが、そもそもから銃兎に連絡があるなんてそうそうない。強いて言うなら遅刻の連絡くらいだ。しかも無言で切るとなると――
 かかってきたのが業務用のスマホだったのが幸いした。部署からの支給品であるそれは、すべての機器にGPSが内蔵されている。銃兎は亀崎のスマホの位置情報を検索にかけると、それを知らせる赤いランプは正常に点灯した。その位置を見て、銃兎は故障か、と疑うくらい眉を顰める。
 しかし、今は迷っている暇などない。銃兎はカーナビで行き先を自宅に設定し、法廷内速度でアクセルを全開に踏んだ。