Episode.3
「前に来た時も思いましたが……あなたの部屋は本当に物がありませんね」
「物欲はあるだけお金がかかりますからねえ。でも、銃兎さん的にはこの方が探しやすくないですか?」
こうなることを分かっていて、ということか。に裏で操られている感じがして、部屋に通された銃兎はなんだか腑に落ちなかった。
自分の部屋と鏡写しの間取りで、真っ白な壁とアイボリーのフローリングが目立つ一室。そこにあるのは小さなローテーブルと座布団が一つだけ。そして極めつけは、あまり使われた痕跡のないキッチンとカウンター――生活感がまるでない部屋に、普段のとのギャップを強く感じた。
「それじゃあわたし、明日の支度してるので終わったら――」
「ガサ入れ最中に動き回る容疑者がどこにいるんです。あなたはそこから動かないでください」
銃兎はジャケットを脱いで、持ってろ、と言うようにに差し出す。なぜか躊躇しながら受け取ったを横目に、普段からしている赤い手袋を取り、代わりにポケットに入っていた白い手袋を装着した。
自分の部屋と間取りが反対と思えば、大体の収納スペースは把握できる。まずは見えるところから全部屋ざっと流し、キッチンの引き出し、頭上高くにある棚、そしてウォークインクローゼット……部下だろうが女性だろうが、プライバシーを一切無視して部屋の中を漁りに漁った。
……しかしまあ、出てこない。おそろしいくらい、薬物どころか物自体出てこない。本当に何もないなこの家は。強いて言うなら、服はたくさんあることくらいか。
の性格からして素人が探して見つかるところにはまず隠さないと思うが、手など抜いていない上で、生業である銃兎の目から見てもこれは白だった。
何も出てこないことへの安堵と、それと相対して生まれる不安。もしかしたら自分が気づいていないところにあるのではないか、と。しかし、それらの拮抗が限界を迎えて、自分のやっていることがだんだん馬鹿らしく思えてきた。
「……亀崎。もういいですよ」
ついに銃兎は観念する。半ばやけくそに手袋を脱いで、ぺたりと壁にもたれかかって座っていたに声をかけた。
ふと顔を上げたは、どことなく目が虚ろだった。おそらく、半分寝かかっていたのだろう。普通に持つと皺になるとでも思ったのか、銃兎のジャケットは彼女の肩にかけられていた。
「終わりましたー……?」
「ええ……。ご協力感謝します」
銃兎はネクタイを緩めて、抑えきれなかった溜息を吐き出す。ものの数分でどっと疲れた。精神的に疲労困憊だ。
今すぐにでもベッドに入って眠りたい。そんな銃兎の様子を察したは、ジャケットを渡しながらこう言った。
「なんだか、仕事よりも疲れてません?」
「当たり前でしょう。好き好んで部下を疑う上司がどこにいるんですか」
今、猛烈に煙草が吸いたい。なんなら、隣の部屋に帰る時間も惜しいくらいだ。そう思っていた矢先、「部下の前に、って考えないんですねえ」とは切り出したものだから、銃兎は訝しげに目を細めた。
「……どういうことです」
「またまたとぼけちゃって~。わたしは考えますよー。銃兎さんのこと、上司の前にわたしを捕まえてくれるお巡りさんだって」
「わたしも、いつ刑務所に入るか分かりませんからねえ」とも付け足したので、銃兎はようやくの部屋に物が少ない理由が分かった。
そうか、時折との間に感じる壁はこれか。普段から一般人として生きていない彼女に一縷の同情心を覚えつつ、銃兎はどうせすぐ脱ぐであろうジャケットを腕にかけて、玄関に向かう。
「あなたがどう思っていたって構いませんが、普段からそういう心持ちだからこうやって疑われるんですよ」
「疑われてた方が正解じゃないですか?」
「お前がそうやって変に意地張ってると俺の仕事が増えるんだろうが」
「そこは公私を分けてるって言ってくれませんかねえ」
少しだけ、お互いの間にピリピリとした空気が流れる。この話題で、銃兎が一方的に亀崎に強く言うことはあるが、彼女がさらに言い返すのは珍しいことだった。
しかし、このままメンチを切っても何の利益もないことは明らか。それに早く気づいたのは意外にもの方だった。
「はーあ。なんだかお腹空いちゃいましたねえ。銃兎さんもお疲れさまでしたー。部屋に帰ってゆっくり休んでください。明日は朝から大忙しですし」
「あなた、今晩は何を食べるんですか」
「無難にチキンラーメンですかねえ。今日は火薬入れる元気もないのでー」
だろうと思った。銃兎は溜息をつく。
「あなたも私の部屋に来なさい。あり合わせでも、インスタントよりマシでしょう」
「え~。そんな気遣わなくてもー」
「自意識過剰です。ご飯を一人分作るのは逆に手間なんですよ」
早く来い、と銃兎はを玄関に促す。それでも誘いを渋っただったが、「追うものを拒まない方も、悪いと思うんですよねえ……」などとよく分からないことをぼやきながら、銃兎の背中についていった。
「今更ですけど、男女がお互いの部屋行き来するのってまずくないですかねえ」
「合鍵を渡したあなたがそういうことを言うんですか」
そんな軽口を叩きながら、隣の部屋……つまりは銃兎の部屋に二人で移動する。
玄関に入り、ジャケットをハンガーにかけて、キッチンに立った銃兎はカフェエプロンを腰に巻く。ふとリビングの方に目をやれば、適当に座っていればいいものを……は拾ってきた猫のようにその場から一歩も動かずぼーっと突っ立っていた。
「手を洗って、ソファーにでも座っていなさい。すぐ作りますから」
そう声をかけてようやく、「そうしますー」と、は目も合わせず洗面所に向かう。ずいぶんと居心地が悪そうだ。まあそんなものか、と銃兎はさして彼女に気を止めない。今はそれよりも食欲が頭を占めている。
冷凍の白米のストックはもうない。となるとおかずは作っても仕方がないだろう。そういえば、たしかまとめ買いした乾麺があったな、と思い立って、引き出しから細麺を二束出す。油揚げと、ネギと、卵と……鶏肉でいいか。冷蔵庫からも粗方食材を出して、今夜は即席煮麺にすることにした。
作るといっても、具を入れた後に麺を入れて煮込むだけである。銃兎は特にこだわりはないが、ラーメン屋で固めのものを頼むくらいだ。ついでなので、麺の硬さは彼女に合わせた。
「亀崎。出来たからこちらに――」
煮え切った鍋の火を止め、銃兎は戻ってきてソファーに沈んでいるに呼びかけた。しかし、彼女からはうんともすんとも反応がない。
早くしろ。麺伸びるだろうが。そう言おうとした銃兎の口は開いたまま止まる。カウンター越しにリビングを覗けば、はやや前傾気味になりながらすやすやと眠っていた。
……眠かったなら横になっていればいいものを。遠慮をしているのか、それともまだ警戒が取れないのか。本当に、変なところで気を張る女だと思う。
銃兎はキッチンから離れて、の隣にゆっくりと腰を下ろした。銃兎の重みで沈んだソファーのせいで、少しだけの体が銃兎の方に傾く。
今が当直なら、揺すってでも起こしただろう。しかし今は、お互いに警官ではない。煮麺だって、二人前くらい銃兎一人で食べられるし、起きた亀崎にはまた別のものを作ればいいだけの話だ。
このまま……寝かせてしまおうか。朝を迎えても、は隣の部屋に帰すだけ。この穏やかな寝顔を壊さなければいけないほど起こす理由など、どこにもない。
――すると、傾いた体のせいでの横髪がさらりと垂れて、彼女の顔の三分の一が隠れてしまう。何を思ったのか……自分でもよく分からないまま、銃兎は彼女の髪にそっと指を伸ばした。
顔には触れないように髪を掬い、横髪と一緒に、耳にかけた時だった。ほんの少しだけの耳朶に爪が触れて、彼女は飛び起きるようにはっと目を覚ました。銃兎も驚いて、の耳付近で手を止める。
「……ご飯、できましたよ」
手を伸ばしていた理由を考える……いや、そのまま髪が顔にかかっていた言えばいいだけの話なのだが、なんとなく憚られて、要件だけ言った銃兎はソファーから立ち上がった。寝起きで理解が追いついていないのか、もまた、何も言わずにキッチンテーブルに向かった。
丼に入った煮麺を、座ったの前に出す。銃兎が自分の分を注いで席に着くまで、やはり、はそれに手を付けなかった。食べればいいものを、と思いながら、銃兎が手を合わせて麺を啜ると、もようやく手を合わせて箸を手に取った。
「うわあ……ミシェラン……」
「好きですね。そのネタ」
「他に言葉が見つからないんです。やっぱり、人が作ったものって美味しいですねえ」
「そこまで分かっているならそろそろ自炊しなさい。その方が食費も浮きますよ」
「お金と時間なら、わたしは後者をとりますー」
時間云々より、できるできないの問題ではないのか。さっきの雰囲気を払拭するように、そんな他愛のない会話をつらつらと流した。
おいしい、おいしい、とはひと口食べるたびに言葉を漏らす。消費期限が近くなった卵なのに、それを割って黄身と一緒に麺を啜れば、分かりやすいくらいに、まるで珍味を口にした時のような反応をする。たかが煮麺だ。なのに、時折満足そうに溜息すらついて、幸せだと言わんばかりに黙々と麺を噛みしめている。
そんなを見て、銃兎は不思議と胸が縮こまる。これは……なんというのか。まるで、この空間を脅かされないように配置された警備員にでもなった気分だ。それも、自分一人だけが知っているであろう彼女に底知れぬ優越感さえ覚えて。
「……今後、うちに来たら、あなたの分もついでに作って差し上げましょうか」
――との間にあった一線を超えた瞬間だった。
ついに、声に出た。存外、抵抗もなく。言ってから、ああ、自分はずっと言いたかったんだな、と思うほど、銃兎の口によく馴染んだ。
ただ……足場が不安定になる。水の上にいるように、ゆらゆらと揺蕩いて、今まで保っていた彼女とのバランスが崩れて、二度と戻れないくらい深い底まで落ちてしまいそうだった。
「部下の体調管理も、上司の仕事ですからね。特に、あなたは目を離すと添加物ばかり摂取するので、栄養失調で倒れられでもしたら業務に支障が出ます」
保険をかける意味で、銃兎は早口でそう言い切った。それを聞いたは箸を止めて、口に含んでいた麺をごくん、と飲み込む。汁の表面をぼーっと見つめて、目を伏せたままこう、ぽつりと呟いた。
「それは、とても……いい話ですね」
ふっと、はおだやかに目を細める。いつもの、相手を嘲るような笑顔ではない。ひとりでこっそりと浮かべる……これは、ほほえみと言った方が近いだろう。やわらかいものをそっと愛でるように、口角もうっすらと上がっていた。
お互い、ずいぶんと気を許すようになった。自分も、も。毎日ではなくても、何時間という長いものでなくても、週に二、三度……ものの十分でいいから、こんな時間を共有できたらと思う。一緒にいたいだとか、そういう女々しいものではなくて、ただ、この空間に安らぎを覚えている自分がいる。ただ、それだけの理由だった。
が食べ終わるのを待って、二人で手を合わせる。片付けをしている最中に帰るかと思ったら、はリビングにあった一枚の写真立ての前に立っている。
そういえば、朝家を出た時に伏せておくの忘れたな、と思って、銃兎は片付いたシンクに満足して、水を止めた。
「……私の両親ですよ」
そう言って歩み寄ると、は今までにないくらい目を見開いて、銃兎を見上げた。銃兎もまたの隣に立ち、写真立てに映る一組の男女を見つめる。
「中毒者の人間に轢かれたんです。だからこそ、今の私がある」
賢いのことだ。皆まで言わなくても分かるだろう。もうこれ以上言うことはないとと、銃兎は写真立てを伏せながら、端的に話を終わらせた。
自分の過去を語った人間は数少ないが、やはり皆反応に困って黙り込むことが多い。も例外ではないらしく、何かこの空気を打破できるような話はないものかと、銃兎が宙に視線を泳がせた時だった。
「――いやあ~、わたしとしたことがすみません。自分の立場を忘れるところでしたあ」
夜には似合わない、おどけた声色。ぱちんっ、と弾けたような笑顔を向けるに、今度は銃兎が驚く番だった。そこには、さっきの微笑を浮かべた彼女はどこにもいなかった。
「亀崎――」
「ご飯もちゃんと食べます。スーパーの惣菜中心になると思いますけど。でも、銃兎さんが心配することは何もないですよ~」
銃兎の呼びかけにも応じず、はぺらぺらとありあわせのような安い言葉を並べる。
距離を、おかれた。が自分との間に新たに引いた線が見えて、銃兎は瞬時にそう悟る。「さてと、」と写真立てからふっと視線を逸らしたは、すでに玄関へと足を伸ばしていた。
「そろそろおいとましますね~。長居してすみませんでしたー」
「おい待て」
「あ、うちの合鍵はそのまま持ってて大丈夫なので――」
「待てって言ってんだろッ」
咄嗟に掴んだ、細い手首。が窮屈そうに顔を歪めてたのを見て、銃兎はその手をぱっと離す。そこには、ぐるりと手首を一周するような痣がくっきりと残っていた。おそらく、先ほど署内で銃兎が加減も知らず彼女の手首を強く押さえつけた時に、付いたものだ。
自分が加害したのにも関わらず、それを見た銃兎はぶるり、と全身に悪寒が走った。はバツ悪い顔で手首をさすりながら、「……もしも、」と静かに切り出した。
「わたしの父親が、つくって運んだ薬物を、その男が使用していたとしたら。わたしが早く通報していたら、薬物は流れなくて、銃兎さんの親御さんがご健在だったとしたら――」
試すように、それでいて何かを渇望するように。は苦しそうに銃兎をその目に映した。
「銃兎さん、さっきと同じふうにわたしにご飯作るって言えます?」
音が止んだ。全身が痺れる。水を打ったように、闇に飲まれたように……一瞬だけ、銃兎の世界から視覚以外の感覚が消えた気がした。
銃兎の過去を知って、がそんなふうに思うなんて予想ができなかった。てっきり、そうだったんですねえ、といつものように軽く流されるとばかり。銃兎が思っていた以上に、彼女は過去に……自分に縛られているのだと知った。
は銃兎の横をすっと通り過ぎる。彼女を追いかけようとして一歩踏み出したが、なぜかその足はそこからぴたりとも動かなかった。
「許さないでください。わたしのこと。じゃないと、外の世界に出てこうしてのうのうと暮らしてる理由が分からなくなります」
「別に、俺は許すなんて一言も――」
「なら、優しくしないでもらえますかねえ」
背中を向けたまま、は苦しげに声を出す。
「揺らぐんですよ。さすがのわたしも。人間なら、誰だって楽な方に行きたいでしょ」
その語尾に若干の水気が帯びていたのを、銃兎は聞き逃さなかった。
は振り返らず、少しだけ顔を横に向ける。こうして、表情を分からなくする時はきまって、彼女はろくな顔をしていないのを、銃兎は知っていた。
「銃兎さんがそんなだったら、わたしは誰に裁いてもらえばいいんですか……?」
そう言い捨てて、は虚しく閉められたドアの音を立てて、部屋から姿を消した。
残された銃兎は何の声も出ない。が、あんな顔をするのも、苦しむのも、全部、自分が元凶だと分かっているから。涙を掬う指も、慰める抱擁も……何一つ与えることはできない。なにせ、彼女にそれを一番してはいけない人間だ。薬物に対して、あれだけの痣をに残すほどの憎しみが、銃兎にはあるのだから。
それでも……救いたいと、思ってしまった。これ以上の無力があるか。銃兎は整えられた髪をぐしゃりと握る。超えてしまったとの一線に、今更後悔している。こんなことなら、彼女を苦しめてでも隣に置いておきたかったなどと。憎悪の次に銃兎を襲ったのは、吐き気がするほどの利己的な自分への嫌悪だった。
