Episode.2
「亀崎、お前またカップ麺かよ」
「コンビニ弁当持参してる先輩に言われたくないですー。というか見てくださいよ。後輩君、今日も彼女さんの手作り弁当ですよ~。いいなあ」
「うわマジだ。その肉団子一個くれ」
「わあっ!? ちょっと先輩やめてくださいよ!」
やいのやいのと、今日も同僚が騒がしい。そんなことを頭の片隅で呟いた銃兎は、彼らとは少し離れたところで自分のデスクの上に弁当を広げていた。片手で箸を持ち、もう一方で仕事の資料を捲るという効率的な時間を過ごしている。
ここ最近の組織犯罪対策部は、ある地域で流行っている薬物の製造源を追っていた。怪しい影があれば片っ端から事情聴取とガサ入れを繰り返していたが、火貂組の力添えもあったおかげで、数日前、ようやくその主犯である一人の男を特定することができた。
元々、何かと黒い噂の立っているその男は、表舞台に堂々と顔を出している政治家だった。しかしその裏では、製造した薬物を売人に横流しして荒稼ぎをしているとのこと。明日は彼主催の会食パーティーがあるようで、組対からも何人か扮装させてそこに潜り込ませる予定だ。その日、パーティーの一部参加者とも薬物の取引する可能性もあると話に聞いているので、取引の現場を抑えて関係者は一網打尽、という流れになれば理想だった。
「“入間さん”もこっちで一緒に食べましょ~」
「今はそれどころではないんですよ」
「冷たいですねえ」そう言って、がそそ、と銃兎のデスクに寄ってきた。お湯を入れた後の三分間、大方暇を潰しにきたところだろう。今まで彼女がいたデスク周りでは、同僚の男二人が変わらずてんやわんやしている。
「それ、マーキングしてあるのは裏口のルートですかー?」
「ええ。念には念を……ヤクを置いてホシだけが逃亡する可能性もあるので」
会場になっているホテルの見取図を覗き込みながら、へー、とは小さく声を漏らした。
今回の作戦は銃兎に一任されている。現時点で逃走経路は何パターンか抑えてあるが、パーティーが開かれる大広間で取り押さえるとは限らない。ホテルの個室、廊下、レストルーム――動きがあり次第、その場にあった対応が迅速に求められる。よって、意表を突かれないようにできるだけ穴はない方がいい。
不意に、すっ、との人差し指が伸びてきて、マップの上をゆっくりとなぞる。それと同時に、業務中のみ横に結われるの髪が、銃兎の視線の端に毛先だけ映り込んできた。
「もしも、わたしが売人なら――」
ひっそりと、他の人には聞こえないくらいの声量。その声は、銃兎の鼓膜を優しく撫でるようにするりと入ってきた。
どくん、と心臓が強く脈打つ。目を見開いた銃兎は、思わずを見上げた。垂れた髪の隙間から、かろうじて彼女の顔が窺える。そこから僅かにと目が合うと、彼女はにっこりと銃兎に笑いかけて、すぐにマップに視線を戻した。
「ここの非常階段がある東棟の個室にヤクを溜めておいて、連絡通路を通って地上に降りますかねえ。階段を降りた後は薮の中を突っ切って駐車場に行くだけなので、比較的人目に付きづらいです~」
――今回の件にも、が関与していたら。
今朝の夢が脳内で蘇る。場所も、時間帯も……あの光景と何もかもが当てはまり、あとはがそこにいるだけで、夢は現実になる。動悸がひどい。まるで他人事のように、銃兎は熱をもった思考に取り憑かれていた。
中々現実に戻って来れずに言葉を失っていると、ポロンポロン、とのポケットからアラームの音が聞こえてきて、ようやく銃兎は我に返る。おそらく、あれから三分経ったのを知らせたのだろう。
それでも、はこの場から離れず銃兎の反応を窺っている。どうでしょうか、と言いたげに首を傾げて、まるで、褒めてもらうのを待っている子どものようだった。
「……ありがとうございます。参考にさせて頂きます」
「いえいえ~。ご飯、ちゃんと食べてくださいねー」
目を離せば添加物ばかり口に入れるお前が言うな。そんな茶々を言えないほど、銃兎の心臓は未だに強く跳ね上がっていた。
二十時過ぎ。デスクと仲良しだった椅子をギギッ、と離し、銃兎は天井に向かって大きく背伸びをする。骨が軋む音がして、凝り固まった筋がぐん、と伸びる。おかげで、疲労で靄がかっていた頭も幾分か晴れたような気がした。
今の今まで、明日の夜に控えた潜入捜査の準備をしていたおかげでこんな時間になってしまったが、これで明日は完璧だ。今回の作戦が成功すれば、また銃兎描く理想の……薬物のない世界に一歩近づける。
さてそろそろ帰るか、と銃兎が椅子から立ったところで、部屋のドアがコン、コン、と等間隔でノックされる。「……どうぞ」と訝しげに思いながら銃兎はその音に応じた。こんな煽るようなノックをする彼女は、もう何時間か前に退勤したはずだった。
「失礼します~。あ、銃兎さん、もうお帰りですかー?」
「ええ。それで、すでに退勤したはずのあなたが何の用ですか」
「配られた資料に不備を見つけまして~」
コツコツとこちらに向かって歩いてきたは、その資料を銃兎の目の前にぱっと広げてみせる。それは、昼の会議を終えた後に銃兎が書き上げて、全員に配布したものだ。作戦当日の人員、配置、ホテルの見取り図と予想される逃走ルート……そして、ホシとその関係者の詳細などがびっしりと記載されている。
「これのどこに不備が?」
「わたしの名前がどこにもないんですよねえ」
銃兎は表情を崩さない。もまた笑みを絶やさないが、今はそれがなんとも不気味に映った。
「……あるわけないでしょう。亀崎は今回留守番です。部署をもぬけの殻にするわけにいきませんから」
「女ひとりいた方が色々役立ちますよー?」
「へえ。あなたがそんなに仕事熱心だとは思いませんでしたよ。上司冥利に尽きますね」
銃兎はと目を合わずに淡々と言う。すると、正面から息をついた音が聞こえたかと思えば、はデスクの上にその資料を静かに置いた。
「でも……たしかにそうですねえ。今回のホシは無類の女好きみたいですし、ヤクも女性中心に誘ってることを考えると、わたしが行ったら逆に足でまとい――」
ガンッ、と机の端にを押さえつける。おそらく、の手首を掴んだこの手は手錠よりも頑丈だろう。そして、瞳孔がかっ開くくらい、を見る銃兎の目に血が迸っていた。
今、彼女が言ったことは会議が終わった後に麻薬取締官の知り合いから得た新規の情報だ。明日の朝礼にでも周知しようと思っていたことなので、現段階ではこの部署内では銃兎しか知り得ないことだった。
あとは、そう……ホシとコンタクトを取ったことがある人物でなければ。
「なんでお前がそれを知ってる……?」
無意識に、の手首を掴む力が強くなる。少し苦しげに顔を歪めただが、やはりその口元は変わらず引き上がっていた。そして――
「ほらあ、やっぱり」
「は?」
緊迫とした空気を壊したゆるい声色。そう言ったは、器用に拘束されていない方の手でスマホを弄り、表示された画面を銃兎に見せた。
「盗撮されてたことにも気づかないなんて、よっぽど集中してたんですねえ」
スマホに映っていたのは、廊下で電話をしている自分自身だった。再生される音声からして、件の麻薬取締官と話している最中のもの。銃兎が対応している内容から、今さっきが言った情報は十分に把握できるものだった。
ほら見たことか。は目を三日月に細める。銃兎は拘束していた手を緩めて、代わりに拳をつくった。
「てめえ……カマかけやがったな……」
「いつもの銃兎さんなら引っかからないじゃないですかあ」
「でも、今ので合点いきました~」そう言いながら、はポケットからチャリン、と一つの鍵を取り出す。
「……なんです。これは」
「うちの合鍵ですよー」
銃兎が眉を潜めたことにも気にしないで、は続ける。
「引き出し、棚の上、クローゼット……好きな時間に入って漁ってください。わたし、結構寝付きいい方なので真夜中でも全然大丈夫ですよー。元々、そのために隣の部屋借りてくれたんですもんねえ」
「お前、何言って――」
「だって銃兎さん、わたしがまたヤクに関与してるって思ったんじゃないんですか?」
背筋に力が入る。図星で表情が固まると、それを察したはあは、と声に出して笑った。
「銃兎さんがそんな顔することないですよー。わたし、間接的ではありますけど、ヤク密売に片足突っ込んでたんですから」
だから、は当然だと言う。密売ではなく運び屋で、それをやっていたのが父親だとしても、それを傍観していた自分も同罪だと。今となっては自分の部下として身を置いているものの、亀崎を疑うのは薬物を取り締まる入間銃兎なら、それは必然だと。
もちろん、銃兎もを無罪だとは言わないし、部下になったからといって、が今まで黙秘してきたことを有耶無耶にするつもりはない。しかし、常日頃からをそんな密売容疑の目で見たりはしない。仕事中は本当にただの部下の一人として扱っているが、彼女の反応を見る限り、そんな銃兎の心情など全く知る余地もないのだろう。
それが今回の件で、それがまた大きく溝が開いたように思う。との間で生まれた微々たる誤解が、銃兎の中で妙に大きく引っかかっていた。
「……分かりました。明日、訂正分を配布します」
「本当にいいんですかー? さっきまで疑ってた人間を作戦に入れちゃって」
「ええ。その代わり――」
疑っていない、信頼している……口で言うのは簡単だ。しかし、信頼していないからあんな夢を見たんだろうと言う自分も少なからずいたので、銃兎は開き直ることすらできなかった。
変な夢を見たからだ、と言い訳をするのもよかったかもしれない。しかし、今では言葉も、感情も……すべてあやふやになっているとの関係が、またあの時のように音を立てて崩れてしまいそうで、銃兎はその一歩が踏み出せないでいた。
だからこそ、あくまで彼女とはビジネスの関係を貫く。銃兎はの手の平にあった鍵を受け取り、それをジャケットの中に仕舞った。
「今夜、お前の部屋に行く」
大きな任務の前だ。余計に頭の容量を取る因子は、早々に潰した方がいい。
言うなれば、宣戦布告。は少し驚いた顔をして、「まさか今日の今日とは思わなかったです~」と言った。それを聞いて、銃兎は鼻で笑う。容疑者に事前に予告するガサ入れなど、この国に一つも存在しないだろうに。
