Episode.1



「あーあ。バレちゃいましたかあ」

 名前も知らないホテルの一室。ヨコハマの煌びやかな夜景をバックにして、は笑っている。部屋に積み上げられた無数のダンボール。その周囲には、透明なビニール袋が乱雑に散らばっていた。その中身が何かなど分かりきっているし、わざわざ口にするのもおぞましかった。
 そして、一番恐ろしかったのは、今の訳の分からない現状を自分がすんなりと理解していることだった。まるで、こうなることを予期していたかのように。この日のために、長いこと彼女を追いかけていた自分の姿が頭の中に思い浮かぶ。
 ジジッ、と無線から入る、断片的な部下の声。取り逃した、すでに出港済み、追跡不可――その無線の番号にの名前はなかった。

「オンリーロンリーラビット……でしたっけ? どこに跳ねていっちゃったんですかねえ。そう簡単に人を信用するから、こうやって何度も裏切られるんですよ」

 いつの間に、そんな皮肉を交えるようになったのか。まるで、自分の過去を見てきたかのような口ぶりだ。頼めば大抵のことはなんでもできてしまう彼女は、ついに他人の心の中すら覗けるようになったらしい。
 今まで、隣で歩いていた女は誰だったのか。どんな命令にも是と応じて、冷静さをかいた自分をおどけながら現実に戻してくれる。二度と消えない罪を……許さない罪を被りつつ、自分の下に身を置いて彼女は、どこへ。
 ああ……もしかするとこれは、あの時来るはずだった未来。父親の跡を継いだが警官を辞め、自身の正義を掲げて進んだ道。今、自分の目の前にあるは、自分の知る彼女ではない。ここ最近新しくヨコハマに進出してきた、やり手の売人。それ以外の肩書きなど、彼女に寄せていた信頼とともに消え失せてしまった。
 はその場から動かない。まるで、捕まえたければご自由に、と言わんばかりに。商品を売ってしまえばこちらの勝ちなんで、と顔に書いてある。そんな彼女に対して、銃兎は何も思えなかった。冷めきった頭で……躊躇すらせず、腰に引っ掛けていた手錠に手を伸ばす。の身の上も自身が抱いていた彼女への情も、こちらを嘲笑うように散らばる天敵の前ではいとも容易く吹っ切れてしまうものなのだと、ひどく呆気なかった。
 三度目の、尊い犠牲。その時、銃兎の心は今まで薬物を撲滅するために捧げてきた時間と共に崩壊しつつあった。







 アラームよりも早く目が覚めた朝は嫌いだ。
 意識は浮上するが、ベッドから起きる気になれない。かと言って、そのまま横になっているとさっきの光景をまざまざと思い出してしまって、現状に観念した銃兎は鉛のように重たい体をのっそりと起こす。顔半分を手の平で覆い、重々しい息をゆっくりと吐き出した。
 寝る前に、嫌な予感はしていたのだ。どこか心許なく、不気味なくらいに頭が空っぽになった夜――こういう時、決まって嫌な夢ばかりを見るのだと。最近はそうでもなかったが、久々に悪夢にうなされた。それも、両親でも友人でもなく……なぜ、よりにもよって彼女なのか。おまけに、あんな洒落にもならないシチュエーション……夢とはいえ、冗談が過ぎるだろう。
 肺から押し出すように、再度息を吐く。すると、ようやくいつもの起床時間を知らせるアラームが鳴る。銃兎は無心でそれを止め、身支度を整え始めた。今日はテレビを見る気分にもなれず、無音の部屋で黙々とスーツを羽織った。
 夕飯の残りを腹に入れ、キーボックスから鍵を取り出す。まだ、頭のスイッチが入らない。嵐の前の静けさのように、不穏なくらい閑散としている。今、口を開けば素の自分がすぐに顔を出しそうだ。機嫌も久々に最悪を極めているので、何かあれば誰かに当り散らしてしまう未来が見える。そんな理不尽を周りに強要したくない銃兎は、せめて署に着くまでは誰にも会うことのないようにと祈るしかなかった。

「――あっ。ナイスタイミングですねえ」

 ……バッドタイミングだ。
 今日はことごとく運が悪いらしい。玄関を開けると、隣の部屋からもドアが開いた音が聞こえてきて、反射的にそちらを見れば、部屋から出てきたがひらひらと手を振っていた。銃兎は不機嫌な顔を隠しもせずを見つめるが、彼女は「おはようございます~」とにこやかに挨拶をする。
 ……夢の中の、彼女の表情と重なった。底知れぬ不安が銃兎の体にまとまりついた。「銃兎さーん?」

「大丈夫です? 顔色悪いですよ。昨夜はあんまり眠れなかった感じですかー?」
「ええ……まあ」
「最近また忙しくなったからですかねえ。今日も昼過ぎに会議がありますし、あまりご無理なさらずー」

 無理をしなければ部署が回らないのを分かっていて、中身のない労いをする。あくまでこちらの意思を尊重してくれる彼女が、少しだけ有難いと思った。


 家が隣で職場も同じなら、自然と辿るルートも揃う。ピピッ、とセンサーに反応して解錠された車に乗り込むと、すでに助手席に座ったがシートベルトを締め始めていた。

「運転、お願いします~」

 ……別に、毎日こうしてを乗せるわけではない。家が出るタイミングが合ったら、ついでに署まで乗せていくだけで。回数としては週に二回ほど。帰りも然りで、大概遅くまで二人で残っていることが多いので、これは週……いや、ほぼ毎日になるだろうか。交通費は支給されているとはいえ、駅まで二十分ほど歩かなければいけないので、家の前でばったり出会って、わざわざそこで別れる理由もない。
 効率性を優先したがゆえの選択だ。住む場所を指定したのはこちらなので、それくらいは面倒をみてもいいかと思った。ただ、それだけだ。

「そういえば、昨日郵便受けに警察庁からの通達が入ってたんですけど、銃兎さん何かご存知です?」
「中王区の研修か何かでしょう。署勤務の婦警には不定期で配布されているものですよ」

 車を発進させてからしばらく。から乗せられた話題に、やはり配られたか、と銃兎は頭の隅で思う。
 一方のは、「へ~」と声を漏らし、鞄からその封筒と思わしきものを出した。何の匂いか連想しがたいフレグランスが鼻について、銃兎はぐっと眉を顰める。どうしてもあの高圧的な女上官の姿が頭にちらついて不愉快な気分になった。

「五日間のインターンシップ……。うわあ、研修なのにスケジュールの中にメイク講座とか組み込まれてますよ。意味分かりませーん」
「女性は身だしなみにも気を遣うべきだとかなんとか。まるで家畜をおびき寄せる餌のようです」
「それは否定はできませんねえ。これも銃兎さん達の税金で賄われてるかと思うと、なんだか申し訳なくなりますー」

 研修の内容だけではなく、中王区異動後の待遇もはつらつらと話す。給与、福利厚生、その他手当……中には業務と全く無関係なサロンやエステの利用がフリー、煙草やコスメなどの嗜好品も上限なしに支給などというのも次々と列挙されていく。
 「中王区、何気に行ったことないんですよね~。いい感じのお店、たくさん入ってるとは聞いてたんですけど」そう呟きながら、は同封されている中王区のマップまで広げ始めた。

「ちなみに、銃兎さん的には行ってきてほしい感じですかー?」
「亀崎個人のキャリアアップという意味でなら、私は推奨しますよ」
「業務面を考慮すると?」
「あなたが五日間もいなくなったら誰が日に日に溜まるタスクを処理すると思ってるんですか」
「ですよね~」

 はそう言いながら、無慈悲なくらいにその封筒をベコッと半分に折りたたんで鞄に仕舞った。それを見て、少しだけ安堵した自分がどこか憎らしい。
 信号が赤になり、アイドリングストップでエンジン音が止む。ラジオが淡々と流れるだけの車内に、「あ、でも」と再びが声を上げる。

「スパイ任務とかならいつでも承りますよー。中王区にもヤクが流通してる可能性だって無きにしも非ずですし、上層部の動向を探ることだって――」
「やめろ」

 鋭く飛び出した声。それ以上聞きたくないという本音がだだ漏れてしまい、銃兎は後悔する。一気に空気が重くなった気がして、のいる助手席を見ることができなかった。
 一体、何を考えているのか。彼女が自分の目の届かないところに行ってしまうことが、それほどに我慢ならないのか。今までこんなにも彼女を束縛気味に思ったことはない。そう……すべてはあんな夢を見たせいだ。銃兎は、あんな脳のバグごときで脆弱になっている精神に舌打ちをしたくなった。

「……お前は、俺の命令だけ聞いていればいい」

 運良く変わった青信号に救われた。再び回り出したエンジンの音で少しだけ緩和された空気に、ようやく息がつける。ハンドルを握る手のひらがひどく敏感になっていて、銃兎は平然を装うように淡々とした呼吸を繰り返した。

「……究極の殺し文句ですねえ。それ」

 分かりました、と。穏やかで、それでいて少し嫌味っぽくそう言ったの表情など、見なくてもわかる。いつものように胡散臭く笑っているにちがいないのだ。







 署の駐車場に到着し、出勤する前に一服しようと銃兎は胸元を漁る。しかし、一向に何にも掠めない指先に、そういえば手持ちのジッポが切れていたんだったと思い出して、シートベルトを外そうとしていたの方をちらりと見る。

「亀崎。ジッポを取ってもらえますか。ドアの下の収納スペースにあるので」
「りょーかいです~」

 が屈んで漁っているうちに、銃兎はエンジンブレーキをかける。止まったエンジン音と同時に、「銃兎さーん、ないですよー」とが顔を上げずに言った。

「あるはずですよ。よく探してください」
「本当にないんですよ~。こっちじゃなくて運転席側にないんですかー?」
「予備かつ未使用のものは助手席側に入れると決めているんですよ」

 「えぇ~」と独り言を漏らす。ついにそこに入っているものをすべて取り出し始めた彼女に溜息を零して、銃兎はシートベルトを外した。

「……そこ、少し退いてください」
「退けと言われても、わたしここから動け――」

 が言い終わる前に、銃兎は腰を少し上げて、助手座席のシートに手を回す。お互いの体がくっつかない程度にの正面に上半身を乗り出すと、署内でたまに香る匂いが鼻を掠めた。
 ……なんだ。こいつの匂いだったのか。少しほろ苦い柑橘系の匂いがする。不快ではないその匂いはいったん他所において、銃兎の目はジッポがないかとくまなく確認している。

「ねえな……」

 の言う通り、ない。予備すら切らしていたか、と思ったと同時に、ふと思い出す。そういえば、左馬刻を乗せた時にここを漁られていた。
 もしかすると、あの馬鹿が動かしたかもしれない。銃兎はグローブボードの方に手を伸ばしてそこを開けると、手前に転がってきたシルバーのボディがあった。

「失礼。ありました。前に人を乗せた時に移動させられたようで――」
「いやあ、今日も送ってくれてありがとうございました~」

 座席に戻りながら、の顔を見ようとするも、彼女は早々にシートベルトを外してドアを開けていた。
 おい、と銃兎が声をかける前に、「先に行ってますねー」と、は早口でそう言い残して、脱兎の如く出て行った。下に垂れた髪のせいで、最後まで彼女の顔は見れなかった。
 ……なんだあいつ。珍しく様子がおかしかったような。銃兎は訝しげにの背中を見送るも、すぐに、まあいいか、と顔を背けた。最近、一緒に署に行くと、同僚達に変に噂をされるから、彼女なりに気を遣ったのかもしれなかった。
 俺達の噂なんて今更だろうに、と思いながら、銃兎は目を伏せて煙草を一本口に加える。煙を吸い込むまで、銃兎の頭はの残り香が大半を占めていた。