Episode.10
面会から二週間後。組対の正式なメンバーとなったは、普段のスーツを着こなして堂々とヨコハマ署へ出勤した
復帰早々、どんな顔をしてやってくるのかと思えば、普段と変わらないの態度に銃兎は瞬きが止まらなかった。よくもまあ、あれだけのことをしておいて平然と挨拶ができるものだ。この中にはお前が殴られているところを見た奴だっているんだぞ。
銃兎がそんなことを考えているうちにも、はさっそく同僚達に囲まれていた。彼らも彼らでが来る前には、「いいか、普段通りだぞ、普段通りに接するんだ」と各々打ち合わせをしていた。銃兎が同僚達に話したことといえば、“長年父親に暴力を振るわれてもなお、自分にツルの逮捕に至るまで彼の情報を秘密裏に提供していた勇敢な婦警”なのだと、お涙頂戴風味に脚色したことだけ。存外、皆面白いくらいに信じてくれた結果があれなわけだ。しかし、普段薬物と暴力団でドンパチ決めている奴らだというのにちょろすぎやしないかと銃兎は幸先が不安になった。まあ、嘘は言っていないので後ろめたさはない。あえて言っていないことが山のようにあるだけで。
何か困ったことがあったら頼れよ、言いたいことあったら話せよ、という同僚達の言葉に、えへえへと照れているは「了解です~」とおちゃらけて応じている。たしかに、こうなるように仕向けたのは自分だが、まさかここまで違和感がないとは。銃兎はの演技と適応力にほとほと呆れ返った。
「いやあ、緊張しちゃいましたけど、皆さんお変わりなくてなによりでした」
朝礼を終えた後。二人きりになった部屋では銃兎に話しかけた。
「変わりないように手を回した私に、少しは感謝してほしいものですね」
「もちろんですよー。今度ラーメン奢りますね」
いらねえよ。銃兎は交番から移し替えられたの履歴書を流し読みしながら、とある一点にすっと目を細める。やはり、どう見てもそれは捕獲した男のものとは全く異なっていた。
「亀崎……というのは、母方の姓なんですか」
「はい。運び屋の仕事始めたばかりの父が、わたしのだけ苗字変えてくれたんですよ。もし自分が捕まった時に、世間から犯罪者の娘だって思われないようにって」
「今は、そんなこと忘れてるんでしょうけど」とは瞳に影を落とした。
「とか言って、時々会いに行くんでしょう」
「わあ。やっぱりお見通しでしたか」
「幼少期のトラウマを自ら引き起こして何が楽しいんです」
「あんなでも、一応わたしの父親なので。元は善人だって信じる子供の悪あがきですよ。……あ、安心してください入間さん。変な気は起こしませんし、父にはちゃんと償ってもらいますから」
の言葉に、ふん、と銃兎は鼻を鳴らす。せっかく魔の手から逃がしたというのに、面白くないことこの上ない。しかしそれでも、彼女の仕事に支障がでなければこちらが何かを言う権利もないので、銃兎は黙るしかなかった。
……さて、と。これからはツルの一件のせいで溜まりに溜まった事務仕事をに押し付けようと、銃兎はキャビネットの中から必要なファイルを取り出してはデスクの上に置いていく。すると、ごほん、とはわざとらしく咳をして、銃兎と一歩、二歩と距離を縮めたかと思えば、不意にこんなことを口にした。
「鶴は千年、亀は万年」
「は?」
「鶴と亀は寿命が長い動物の代表で、縁起の良い賀寿の時によく使われます。ちなみに実際の寿命は鶴がタンチョウヅルで二十から三十年、亀はゾウガメで百年から二百年といわれてます」
口の中でWikipediaでも飼い始めたのかと思っていたら、コツ、とはついに銃兎のすぐ目の前までやって来た。まるで、挑発するように彼女は下から銃兎を見上げている。危うく呑まれそうになるゆるい雰囲気の中に、心までも見透かすような眼差しの存在感。この短期間で、は一丁前にずいぶんと良い顔するようになった。
「というか、組み合わせ的にはやっぱり……うさぎとかめですよねえ」
ふふ、と艶やかに笑ったはすぐにゆるっと表情を崩して、「ということで、亀崎。これから組対に誠心誠意尽くしてまいりますので、どうぞよろしくお願いします~」とお遊びの敬礼をしてみせた。
まず、誠心誠意という言葉を辞書で引いてこいと言いたい。銃兎は溜息をつく代わりに眼鏡のブリッジを上げて、キャビネットをガシャンと締めた。
「……ところであなた、退院後はどこに泊まったんですか。家も車も引き払ったんでしょう」
「市内のカプセルホテルですよ。まさかこんなことになるなんて思ってもなかったので、早いとこ新しい家探さないといけないんですよねえ。貯金崩すにも限界がありますし」
「では、部屋はまだ決めていないと」
「はい~。だからいつかに半休もらって不動屋さんをハシゴ――」
「その必要はありませんよ」
むしろちょうどよかった。銃兎はデスクの引き出しから一つの鍵を取り出してに向かってぽいっと投げる。両手でキャッチした彼女はチャラ……とそれを宙に掲げて、うん? と首を傾げた。
「……これ、なんの鍵ですか?」
「あなたの新居です」
……が纏っている空間だけ時が止まったようだった。銃兎が腕を組んで数十秒彼女の様子を見守っていると、ようやく瞬きをして我に返ったは、鍵と銃兎を交互に見ながら、ひく、と片方の頬を不格好に上げた。
「……はい?」
「不動産への手続きはこちらで済ませてあるので、荷物を纏めたら――ああ、もう身一つなんでしたね。とりあえず即日入居もできるそうなので、今夜からはここに書いてある住所に帰りなさい。ああ、住民票も近いうちに更新しておくように」
「あと人事部にも」と銃兎は付け足しながら、ファイルの上にへ手配したマンションの資料も加えてパサリと乗せる。未だにぽかん、とは口を大きく開けていて、まるで現状を呑み込めていないようだった。
「一応聞いておきたいんですけど……新居ってどこです?」
「私の家の隣ですが」
「はい!?」
「あなたが言ったんでしょう。家庭環境は人格形成に左右する、と。父親と同じことをしないと断言できますか?」
「つーかなんだその不服そうな反応は」と銃兎は眉を顰める。変にポーカーフェイスを気取らなくなったのは良いことだが、こうもあけすけな反応をされたらされたで、癇に障るものがある。は部屋の資料である紙を手に取ってぱらぱらとめくりながら、「うはー……家賃えっぐ……」と素で感想を述べていた。
まあ、比較的新築のマンションなので、それなりに値は張るだろう。間取りは一人だけ住むには広すぎる1LDK。オートロックとエアコン、TVインターホン完備。シューズボックスやウォークインクロゼットもあるので収納スペースも申し分ない。閑静な住宅街であるおかげで、駅からは少し離れているが、移動は基本的に車を使えばいいので便利なものだ。
「女のあなたなら男の私よりも賃料は安く設定されているので、払えない額ではないでしょう」
「とは言ってもこんな広い部屋、逆に落ち着かないですよ。自慢ですけど、わたし一部屋六畳未満の2DKおんぼろアパート育ちなので。前借りてた部屋も小さいワンルームですし」
「慣れなさい。住めば都と言うでしょう。あなたが少しでも不審な動きをすれば、私が直々にしょっぴいて差し上げますから。バルコニーで葉っぱ栽培なんてできると思わないことですね」
「思いませんし。というかわたし、プライベートと仕事は分けたい派なんですけどー」
「奇遇ですね。私もです」
「……あ、生活音もかなり煩いですよ? 入間さんが徹夜明けで帰ってきた日でも、遠慮なくどったんばったんするかもですし」
「その時は大家から退居指令が出てあなたが宿無しになるだけです」
お前から俺に目をつけさせてくれたんだ。そのひねくれた口から泣き言漏れ出させるくらいには扱き倒してやる。
お互いに見えない電流を目線でバチバチと飛ばしていたが、先に観念したのはの方だった。はあっ、と肩を落とし、分かりましたよ、と言わんばかりに若干すねた態度で、はその鍵をジャケットのポケットの中に落とす。「布団とか買い直さないとなあ」とぼやいているだが、その表情はどことなく明るかった。
「なんですかにやにやして。気持ち悪い人ですね」
「入間さんて、わたしのことかなり好きだったりします?」
「さあ。それはどうでしょう」
「その言い方、ずるいですねえ」
すると、がくるりと背を向けたので、銃兎は少しばかり声を荒らげた。
「っ、おい待て。今からお前にやってもらう案件が山ほど――ッ」
――俊敏な動きだった。が髪を翻してぐるんっ、とこちらを振り返ったと思えば、一瞬にして懐に入られて、ネクタイの下部とシャツをぐっと引っ張られる。首が思いっきり締まり、銃兎の顔が苦渋の色に染まるや否や、唇の真横に柔いものがぶつかった。
目を、見開く。それは刹那的で、熱ともにふっと離れると、コツコツ、とヒールが床にぶつかる音がする。見れば、背伸びをやめたらしいが、ぺろりと舌を出して細い人差し指を唇の上にすっと立てていた。
「さっきから、ずいぶんと余裕綽々ですねえ。“銃兎さん”?」
今度こそはくるりと背を向けて、扉を開ける。そして、こちらを見返りながら、彼女はいたずらっ子のようにあざとく笑んで見せた。
「わたし、人のこと欺くのが専売特許なんです。無害だと思って油断してたら、入間さんのこともいつか追い抜かしちゃうかもなので、そこのところはご了承ください?」
「では亀崎、真面目にお仕事してきます~」と、勝ち誇ったようにひらひらと手を振り、扉の奥へと消えた。それも、銃兎が頼むはずだった資料のファイルもちゃっかり全部持っていって。普通の人間では三日とかかる処理だ。しかし……のことだ、就業間際になって終わりましたと言ってくるに違いない。その時、自分はどんな顔をすればいいのか、銃兎はまるで想像ができなかった。
しん、と静まり返る詰所。銃兎はゆっくりと手で口元を隠すように持ってくる。唇のすぐ右に指を這わすと、未だにあの感触が残っていた。ベースは園児がするようなそれだが、隠し味として独特の色香が見え隠れしている。首から上がひどく熱い。頭の上から太陽でも登っているようで、滝行でもしたい気分になった。
銃兎はふっと全身を脱力させて、ギシッ、と椅子に腰掛けた。額を抑えて、一向に引いてくれない昂りに、はあ、と熱っぽい息を吐く。一際強く、そして早く脈打つ心臓は、ごちゃごちゃと言い訳を並べている理性と違って満更でもないらしかった。
「くそが……」
出会ってしまったのは宿命。引き抜いてしまったのは自業自得。思い通りにならなくて部下に親愛以上の感情を抱いてしまったのも、なにもかも自分が懐に入れすぎたせい。いつからそう思っていた。他人のスペースにはずかずか入ってくるが、自身の周りに引いているその一線の内に唯一自分が踏み入れたいなどと。
やはりあんな女……自分が毒される前に早々に手放しておけばよかった。仕事量が半減する代わりに、の一挙手一投足に度々苦労する自分の姿を見て、銃兎は声にならない後悔を頭に巡らせたのだった。
