Episode.9
ツルの捕獲から一週間が経過した。
それはもう、瞬きをする時間もないほどに組対は慌ただしくなった。ねちっこい取調べに観念した男は、半ば意気消沈気味で今までの活動内容やそれに関与した人間をぽつぽつと吐き出していった。そんなツルの証言から、彼が束ねていたコミュニティの人間をすべて炙り出し、同僚達は彼らの住む……葉っぱを育成している現場へ毎日のように急行している。これで、長い年月を経て大きくなりすぎた運び屋の樹木が焼け落ちるのも時間の問題だろう。
取調べの終わったツルの処罰については上層部と裁判所に任せた。用済みになった頃には、もう男はただの抜け殻になっていた。独り言をぶつぶつとのたまわり、その内容といえば俺は悪くないだの、はどこだだの耳が疲れるものばかり。十割方自業自得であるし、もう彼女の名を呼ぶ資格すらないというのに、烏滸がましい限りだ。ともかく、厳重な警備の中、本部へ送検されるその哀れな姿を、銃兎は扉の向こうへ消えゆく前に背を向けたのだった。
今日の銃兎は、とある病院に訪問することになっている。目当ての病室の扉を開けると、ギャッチアップしたベッドに寝ているが大人しくあやとりをしていた。サイドテーブルには折り紙、子供が書いたらしい絵、落語のCDなど……趣味のごった煮のようなものが彼女を取り囲んでいた。
銃兎がベッドサイドまで歩いて来てようやく、はふっと顔を上げる。すん、と宙に向かって鼻を嗅ぐと、彼女は曖昧に笑ってみせた。
「……銘柄、替えました?」
久々に顔を合わせた第一声がそれか。銃兎は短く息をついて、コートのポケットに手を突っ込んだ。
「おかげさまで。ようやくストレスフリーになりましたので」
「それはなによりです」
「ところで、これらは一体なんです」
「一緒に入院してる人達が貸してくれたんですよ。日中ベッドの上だと暇でしょって」
物の種類からして、その年齢層も広いのだろう。たった一週間でよくもここまで親密な関係を築けるものだ、と半ば呆れていると、は指に絡んだ糸を解きながら、「びっくりしました」と言った。
「だって、まるで被害者みたいな待遇なんですもん。入院先はこんな一般病棟だし、監視の警官もいないし」
「あなたに人を割くほど手が足りていないんですよ。今、ツルの仲間を取り押さえるのにどこも忙しいですからね」
「重要参考人兼共犯者が逃げたらどうするんですかあ」
「その怪我で動けるのならお好きにどうぞ」
「ただの打撲ですよ。全部」
頭に包帯巻いた人間がよく言う。特に、右頬には大きなガーゼが貼られていて、が口角を上げる度に痛みを訴えるかのようにひくひくと痙攣していた。
「正直、骨折るくらいは覚悟してたんですけどねえ。ほんと、ガサ入れのタイミング良すぎましたよ。悪い意味で」
「あなた、まだ気づいていなかったんですか」
銃兎はそう言いながら、ハンガーにかけられたのスーツに目をやる。職場にもあの日にも、ずっと彼女が着ていたものだ。ジャケットの裾を捲り、その裏で赤く点滅する小さな機械を取り外してにそれを見せつけると、彼女の目が大きく見開いた。きっと、の方が見覚えがあるものだろう。
「……いつからですか?」
「ふざけた玩具を持ってきた日、あなたを抱きとめた時ですよ。まさか、突入当日に着ていたのは予想外でしたが」
あの瞬間、盗聴器付きのGPSを付けてから、銃兎はずっとの動向を追っていた。部下であり女である彼女に対して、それを付けることを躊躇しなかったわけではない。しかし、時折散りばめられるのヒントに煽られているようで、銃兎は警官としての自我を抑えることができなかった。その結果として、がツルと関係を持っており、加えて彼の娘だったということが判明したのだが。
もう用済みになったそれをのベッドの上に放り投げると、彼女はふふ、とひとりでに笑った。
「それまでのわたしの生活も筒抜けってことですかあ」
「必要な時でない限り、スイッチは切っていましたよ。捜査に関係ないあなたの私生活を追うほど、私も暇ではないので」
「どちらにしろ、プライバシーの侵害ですよ」
「あなたがそれを言いますか」
「入間さんが先に言ったことじゃないですか」
しばらく会わない間に、少し生意気になったように思う。……いや、これがの本性か。ようやく彼女と本当の意味で対等になれた気がして、銃兎は鋭く細い眼差しでを見下ろした。
「……なんで証拠を残した」
はて、とは首を傾げている中、銃兎は鞄から一つのビニール袋を取り出す。その中にあるのは丁寧に梱包された小さな土埃。以前から、銃兎が秘密裏に採集していたものだった。
「お前が持ってきたダンボールの下……僅かだが、今までの現場にあったプランターの土と同じ成分が検出された」
「わあ、やっぱり実家から持ってくるんじゃなかったです」
「そんなヘマするほど、お前は馬鹿じゃねえだろ」
「ずいぶんと贔屓目で見てくれてたんですね。わたしのこと」
「俺が直々に引き抜いた女がそんなドジ踏むわけねえからな」
即答すると、はすん、と黙った。分かりやすい奴だ、と思いつつ、銃兎は言葉を続ける。
「交番で見たあの地図も正確だった。俺が来ることを想定してなかったとしても、警察内でバカ正直にあんなもの書かねえし置かねえ。うちに来てからも、お前の発言と捜査に何の矛盾はなかった。なんなら、無線なりなんなり使って、こっちの動きを抑えつつツルと一緒に夜逃げもできただろ」
なにがしたかったんだ、お前は
父親を助けたかったのか、自分を捕まえてほしかったのか。出会ってから捕獲するまで……にとっても銃兎にとっても、不利益でしかないやり取りが多すぎた。その理由を聞くために、銃兎は秒単位のスケジュールの中、ここに来たようなものだ。
しかし、ここで素直に本音をぶちまければ少しは可愛げがあるものを。銃兎が目をつけた女は、立場が変わった今でもやはり一筋縄ではいかないようだった。
「取調べ室に連れて行ってくれたら全部話しますよ。退院は明後日ですし」
「めんどくせえ。今話せ」
「職権乱用はよくないですよ」
「テメェの都合を聞く義理はないんでな」
「まあ、そうですよね。入間さんがあれだけ撲滅したがってた薬物を手引きしてたのが元部下ですもんねえ。普通に考えて、わたしの顔見るだけでも虫の居所悪くなるはずですし、入間さんの癇に障るのも頷けま――」
衝動的に、銃兎はの胸ぐらを掴んだ。ベッドが軋み、ナースコールがかたんっ、と床に落ちる。奥歯を噛み締めながら、銃兎は警官としての憤りが腹からこみ上げてきた。
煽ってなにが楽しい。嘘をついて誰が得をする。中身のない言葉も、薄っぺらい感情も、もうすべて見透かしているというのに。長年の癖か。まだその首輪の向こうには父親が鎖を引いているのか。自分がいくら声を張ったところで、お前は自身の願望に対しても素知らぬふりをしてなかったことにするのか。
もうこの際……初めてといってもいい。女であり部下である人間を隣に立たせてもいいと思った。だからこそ、今になっても裏切りを重ねられる屈辱は全身の血が沸騰するほど、銃兎は腹が立って仕方がなかった。
「そうやってお前がへらへら笑って父親の悪事を黙ってたせいで何人の奴が人間やめたと思ってんだッ!!」
病室が怒声を聞く。目の前で銃兎の怒りを浴びたの瞳は大きく揺らいでいた。苦しいのは、お互い様だ。本物の悪役を気取るなら、もっとマシな仮面を持ってこいと言いたかった。
最初からこの国に薬物がなければ、とどれだけ考えたことだろう。金のために動いた輩……それが自らの命のためだったとしても、薬物に関与した人間は大小関係なくすべてが悪。元部下だろうが、それは同じことだった。父親のことを狂わせた薬物を、だって本当は恨みたいはずだろう。
銃兎は切り離すようにから手を退ける。寝衣を整えながら、は静かに「……殴らないんですか?」と呟いた。
「お前が男だったら顔面訳分かんねえぐらいにしてたけどな」
「じゃあわたし、男がよかったです」
冗談とも取れないことを、は軽い口調で言いのけた。
「罪の意識が、なかったわけじゃないです。でも、小さい頃からそれが日常で、いつも嘘ついてたら、自分の中で何が本当なのか見えなくなっちゃいました」
言い訳ですけど、と呟きながら、は言葉を続ける。
「誰も何もしてくれないなら……教えてくれないなら、一人で解決して、何とかするしかないじゃないですか。分からないんですよ。頼り方とか、本音の言い方とか……そういうの。言おうと思っても、声震えちゃって、こわいんです。今まで隠すのが当たり前で、今更裸で外に出せって無茶ぶり言われても、できません」
今この時も、そうであることに自覚があるのか、ないのか。の言う守りたかったものとは父親か、警官としてのプライドか、それとも同じ仕事をする仲間か。その狭間の中で葛藤しているうちに、自分の意思すら失っていたというのか。身が引き裂けるくらい……むしろ、引き裂けたいと願うくらい、の中には複数の自分が、そして同じ数だけの願いが存在していたというのだろうか。
「最初は、たしかに父のためでした。父が運び屋をやってなかったら、子供だったわたしはきっと餓死してたんで。でも、警官になって働いてるうちに、いつの間にか自分が一体何がしたいのかも分からなくなりました」
「組対でも、そうだったって言うのか」
ぴく、との指が反応する。銃兎がと出会ってから、比較的日は浅い。それこそ、人生を一日とすれば、共に仕事をした時間など一呼吸して終わるようなもの。しかし、銃兎はという個を認めていたし、その本質を掴みさえすれば、あとは彼女の言いたいこと、考えていることが手に取るようにして分かってしまった。
「図星の時に黙る癖……なんとかしろ」
「いいじゃないですか。どうせしばらくは檻の中ですし」
は自虐的にそう言う。なるほど、今更取り繕う理由もないわけだ。未だに喉がじんじんと熱を帯びている銃兎はふう、と小さく息を整えた。
「……最後に一つ。お前の目から、俺はどう映ってた」
「今日の入間さんは一段とおしゃべりですね」
うるせえ。銃兎は内心で突っ込む。
敵か、上司か……が時折見せる本性は、きっと自分しか知らなかったものだ。ツルに関して黙秘を貫きつつ、捜査に協力する様は、まるでこちらへ事件の終わりまで手引きしているようにも見えた。そしてそれはきっと、偶然なんかじゃない。
「まんま言うのはドン引きされそうなので割愛しますけど……そうですねえ――」
入間さんの下でなら……一生こき使われてもいいやって、思ってましたよ
――まあまあ、妥協点だろう。やけに痛い沈黙を跳ね除け、銃兎はさっとコートからスマホを取り出した。いつぞやに使うかもしれないととっておいた上層部の人間のナンバーをタップして、二コール目で繋がった相手に、容赦なく言葉の氷柱を飛ばす。
「もしもし。入間ですが……ええ、はい。そのように。賢明な判断だと思いますよ。これで二ヶ月前の件はしばらく私の胸の中に仕舞っておいて差し上げます。……はい、それでは」
通話終了。銃兎は次にA4の茶封筒を鞄から取り出して、のベッドの上へ雑に放り投げた。
「退院後、あなたには正式に組織犯罪対策部に所属して頂きます。必要事項は私が代筆しておいたので、署名捺印はあなたがしてください。うちに来る暇がなかったら郵送でも構いません」
「……はい?」
鳩が豆鉄砲を食ったような顔、とでも言おうか。実に面白い。銃兎はようやく崩れた分厚い仮面を鼻でせせら笑う。
はというと、茶封筒に入っている異動届を見て、さらに驚愕しているようだった。まあ、当たり前だろう。自分だけではなく、上層部の実印まで綺麗にされているのだから。捏造のしようがないものを冗談で作ったりなどしない。
「今……なんの電話したんですか?」
「上官に“相談”を少々。あいにく、私も人に褒められるような警官ではないので」
「……なるほど。入間さんの裏の顔が拝見出来てよかったです」
「でもいやです」ときっぱり言い放った。はは、と乾いたように笑う彼女を見て、銃兎は眉を顰める。
「親の暴力受けながら、大麻と一緒に育った人間ですよ? 大人になるまでどんなに良い経験を積んできたとしても、根本の人格形成は家庭環境に大きく左右されてるものなんです。わたしが父親と同じことをしないっていう保証はどこにもないし、わたし自身も大麻と完全に縁を切るなんて自信ないです」
「自ら、ムショを選ぶと?」
「その方が気も楽ですし」
たしかに、犯罪者の生育歴を見てみるとろくなものがない。左馬刻もたしか、DVのある環境で育っていた。結果、あの万年暴力男が出来上がったわけだが。
しかし……父親とは真反対に、左馬刻は女には絶対に手を出さないという。つまりは、どんな環境下でもそれをどう教訓として生かすかは本人次第。ひどければひどいものほど、そこから学ぶものも大きな意味を成すはずだろう。
たとえ、が本当の意味で悪人の道に進んだとしても、今度は銃兎が警官として彼女を取り押さえるだけだ。それをできる自信も理由も、彼の中にはしっかり存在している。
銃兎はもう一つの茶封筒を……今度はの頭の上に置く。む、と顔をしかめた彼女に、さらに銃兎は面白くなった。
「……今度はなんですか、これ。重いです」
「皆まで言わないと分かりませんか?」
随分と分厚くなってしまったそれを持ってくるのには少しばかり苦労した。は優に三センチはあるそれを全部出して、一枚一枚の書類を捲っていると、彼女はは、と一瞬呼吸を止めた。
「これ、ぜんぶ……嘆願書……?」
「ええ。見ての通り、あなたの無罪を証明するものです」
体に消えない傷を残したの父親がツルだと確信してから、捜査の協力と銘打って、若槻巡査部長にの話をした。銃兎が知りうる限りの情報を包み隠さずつらつらと述べると、彼は厳つい顔面を涙と鼻水でぐしゃぐしゃとに濡らし、面倒を見ていたに失望することもなく、なんで気づいてやれなかったんだ、と自らを呪った。さらには、自分に出来ることはないか、と銃兎に名乗って出たのだ。その時の彼の目は、地位だの世間だのは、の救済に比べたら些細なことだと訴えていた。
「うそ……。だれが、こんな――」
「若槻さんが中心になって、近所の人達に呼びかけてくれましてね。私も、こんな短期間でここまでの量になるとは思いませんでしたが」
幸い、を幼い頃から見守っていた近所の人間にも話を聞いてみれば、その大半がが父親から暴力を振るわれていることに気づいていたらしい。その中で、行動力のある大人が数人、児童相談所を訪ねたらしいが、証拠不十分で全く取りあってもらえなかったという。変に刺激をしてもの身が危険だと判断した彼らは、怒声や物音、朝の登校時にの服から見える痣を見て、時折近所の人が度々彼女の家に訪問していたとのこと。大声を張ることはできなくても、少しでも父親の暴力の抑制力になれたら、と。
しかしそれも、捉え方を正せば悪だろう。少なくとも、そのせいでは誰からも助けを求められなかった。人を信頼する方法を知らずに育ってしまった。カメちゃんだのなんだのあだ名で親しく呼んでおいて、いたいけな子供に恐怖が植え付けられ、体に傷がついていくのを、彼らは黙って見ていたのだ。
しかし、その中であの巡査部長は言っていた。時が経った今でも、のためを思うなら、と。彼が署名活動を始めると、一人、また一人と自らの名を使い、の無実を証明する大きな声を作り上げた。
本当は、彼女に伸ばされている手などいくらでもあったのだ。それが少し見えづらく……の目には届かなかっただけで。
「なんで……っ、だれも……昔はわたしのことなんて……ッ」
「本性を隠したままのあなたでは、見えなかったものもあるんでしょうね」
「でも……ッ! こんなもの持っていっても意味ない以上に、部長にも近所のみんなにも本部から通達が――」
「こんな紙切れごときを集めても上には通用しませんが、私が動く理由くらいにはなりましたよ。現に、あなたの籍はまだうちに残っていますし、署名を書いた民間人も、若槻さんも、全員今まで通りに過ごせています。実質、世間的にはあなたは父親に暴力で脅されて運び屋の仕事について口を封じられた被害者、という扱いになるわけです」
「四方八方に手を回すのに苦労しましたよ」と銃兎は肩をすくめる。それでもなお、はどうして、と言いたげな顔をしている。あの日、自分もこんな顔をしていたのだろうかと思うと、ふっと笑いが込み上げた。
とす、と銃兎がベッドサイドに腰を下ろすと、の体が大袈裟に震える。ああ、そんなに怯えないでほしい。今までの鬱憤をすべて弱いお前にぶつけそうになるだろう。
「さっき……ムショ送りの方が気が楽だって言ったな」
銃兎はの後頭部を鷲掴み、ぐッ、と顔を寄せる。額と鼻の先がくっつくくらい、近く。目を背けられないよう、逃さないよう、銃兎はの目に自分が映り込むくらい、彼女の脳に声を届けた。
「豚箱に入って阿呆みたいに時間潰すことなら子供でもできんだよ。そうするくらいなら、俺の下で死に物狂いで働いて償え」
これは、こちらの利益を含めた上での契約だった。一生こき使われると誓うなら、世間の目や上層部の口から守る盾くらいにはなってやる、と。これからの情報捜査、捏造を含めたに関する仲間への説明など……を迎え入れる下準備は長い道のりだろうが、これからの彼女の成果に比べたら、そんなものは取りに足らないことだ。
取り乱したは、さっと目を伏せる。その反動で零れた雫に、彼女はさらに肩を揺らした。ほら、逃げ場などどこにもない。早く、そんな不必要な首輪も、仮面も、全部壊れてしまえばいい。
「……入間、さん」
「なんだ」
「ちょっとだけ……窓の外向いてもらえますか」
「それは無理だな。重要参考人兼共犯者が逃げ出すかもしれないだろ」
「逃げないので。なんなら手錠してもいいので」
「今更何怖がってんだ。ここにはお前を殴る父親もいなければ、監視カメラもねえ。好きなだけ泣け」
「すきな人には泣き顔見せたくないっていう女心が、入間さんには分からないんですかねえ……っ」
すでに、声に水気が帯びている。ぼろ、ぼろ、と零れている涙。はお互いの顔の間に手を入れ込んで口元を隠そうとしているが、もう手遅れだろう。
はおぞましいものを見るような顔で銃兎を見つめていた。無意識に、銃兎の口から濃厚な息が漏れる。腰から首筋にかけてぞわりとしたものが這うのを感じて、彼はゆるりと目を細める。
「ならお前は……手中に落としたい女の泣き顔が見たいと思う男心を理解した方がいいな」
銃兎は空いていた手での手首を引っつかむと、そのまま彼女の顔面を自らの胸に押しやった。離れようともがいている間にも、の口からは嗚咽が漏れ出している。泣き方を知らない赤子ように、ひく、ひく、と跳ねる肩を一瞥して、銃兎はの手首を離し、そのまま彼女の背中に腕を回す。片方の手は、自然と後頭部を撫でていた。
「今から弱音を吐き出すことに慣れておけ。それから、二度と裏切るな。あんな胡散臭い奴を俺の下に置くつもりはないんでな」
「……よごれますよ。スーツ」
「それでお前の涙腺が壊れるなら安いもんだ」
ひゅっ、と息の音が聞こえた。過呼吸にはなるなよ、と祈りながら、銃兎はの背中をゆるくたたく。その度に、びく、びく、と跳ねる体が、外部からの刺激を怖がる雛鳥のようだった。
「……たす、けて……ほしかった」
聞いたことのない声。本当にの口から出ているものか、と疑うほど。臆病で、脆くて、天邪鬼な……きっと、小さい頃に置いてきた幼心を持った彼女が、今、ようやく声を上げてないているのだ。
「ずっと、言いたかった……っ。でも、こわくて、なにも……できなくてっ……。きづいて、ほしくて……ッ、証拠、のこしたのも、いるまさんに……っ、おとうさん、つかまえてほしくて……ッ、わたしも、裁いてほしくて……ッ、でも、しごとも、すごく楽しくてっ、頼られて、うれしくて……っ……でも、なに、してて、なに、したいのかも、わかんなくて、わたしのしてること、ぜんぶ、ちがくてぇ……っ」
言っていることもだんだんと支離滅裂になってくる。半ば音として耳で流しつつも、のありのままを銃兎はその一身で受け止めた。
すると、いったん音が止んで、「いぅま、さん……」と名を呼ばれる。無言でを見下ろすと、そこにはぐしゃぐしゃに湿った彼女の顔があった。ああ、ようやく好みの顔になったな、と銃兎はぼんやりと思った。
「わたし……思ってたより……けっこう、たくさんの人から、愛されてたんですねえ……っ」
そこからはもう、はわんわんと未熟な音で泣き叫んだ。銃兎のスーツをぎゅうっと握りしめて、顔もシャツにぐりぐりと押し付けてくる。はあ、と銃兎は溜息をつきながら、その手で、体温で、眼差しで、大きな子供をあやし続けた。本当に、と出会ってから、自分はらしくもないことばかりするようになってしまったと思う。
人の心を掴むのは、誰にでもできることじゃない。迷子の女の子、娘と離れて暮らす巡査部長、ネグレクトを受けていた子供……そして自分を含めて、すべての人間に心を開かせたのは、の才能だ。これからは、それを武器に自分の道に進めばいい。きっと、その歩みの途中でたくさんの感謝と愛を貰うことになるだろうから。
はそれにただ、笑えばいい。ありがとう、と素直に言えばいい。だってそうだろう。嘘吐きピエロもただの偶像。愛されることを嫌う人間など、この世界にどこにもいないのだから。
