Episode.8



 ――「。これはな、誰かがやらなくちゃいけないことなんだ」

 そんなことを、物心つく頃から言い聞かされてきた。病弱な母の死に父が打ちひしがれて、酒を飲む度に暴れ狂うようになってからというもの、体の痣が絶えることはなかった。心の傷も知らない間に増えるばかりで、誰かに体のことを聞かれる度に、その場しのぎをするため常にへらへらと上っ面の笑顔ばかりを貼り付けていた。そうしたら、近所の人にも学校のクラスメイトにも、何も言われない。何も突っ込まれない。必要以上に、嘘をつかなくてもいい。みんな、笑顔の耐えないムードメーカーの女の子だと勝手に思ってくれる。こっちは何も面白くない。けれど、他人と一線引くやり方が、これしか分からなかった。父が、隠し事をするたびにそうやって仮面のようなものを被るものだから。
 もちろん、自分にも言い聞かせてきた。これは誰かがやらなくちゃいけない。母親の莫大な医療費を払うために借りたお金を返す……なにより、父子共に生きていくため。お金を手っ取り早く稼ぐために、幼い自分も助けられたように。これは、誰かが、先陣切ってやらなければいけないことなのだと。



 最初は、生活に苦しむとある一人の母親が始めたことだったらしい。
 薬物の運び屋が楽に儲かるからとかではなく、ただ子どもに十分なものを食べさせたい一心で、と。子を持つ母は強し。強いからこそ、お金になるならどんな毒のあるものでも平気で貪っていく。それがたとえ違法薬物だと知っていても、だ。
 何代にも渡って、その密輸は秘密裏に行われていた。一人を誘い、その一人が同じく生活に苦しむ人間を見た同情心でその一人を誘い、またその一人が同じ人を一人、また一人……と、時間こそかかったが、そのコミュニティは確実に勢力を増していった。
 ついに組織として成立した頃は皆が一斉に動くと危険だからと、ルールも日に日に変わっていく。幹となる代表者を一人決め、贔屓にしている密輸者とコンタクトを取る。そして、枝である人間は、指定された日時までに代表者の元へ薬物を送る。どう考えても、その一人に選ばれた人は何よりも危険な役回りだ。必然的に目撃される数も多いし、足がつく可能性は極めて高い。
 それでも、足が着きそうになれば跡継ぎを次、また次へと交代させていく。父も、最初はただの一本の枝に過ぎなかったが、いつからか、家には尋常じゃないくらいのダンボールがたくさん積まれていて、仲間に配る用の土だとか、肥料だとか、種だとかが至るところに置かれるようになった。土臭くなっていく家に、ランドセルを背負っていたわたしは何も言えなかった。
 だって……父は自分のためにこうしている。まだ父に職があった頃、汗水流して働いていた姿を何度も見た。それでもお金は足りない。借金も減らない。だから、父はこんなことをしている。自分のせいで……父親が犯罪者の道を辿っているのだと。

「……おおいぬ座」

 だから、外で口が開きそうになった時は、ひたすら星を数えていた。
 少し機嫌が悪い時に顔を合わせた時は運が悪いと片付けるしかない。寒空の下のベランダに裸足で出されても、自分よりも愛情込められて育てられている大麻と一緒に夜を過ごした。まだ父親がまともだった頃に買ってもらった星座盤をくるくると回しながら、はあ、と虚しい白い息を吐く。
 足先が冷える。心も冷える。でも、仕方がない。生きるために、自分はこういうやり方で、身を潜め、心を仕舞い、すべての本当を隠し続けるしかない。欲しいものは欲しくない、嫌だと思ってもいいよと言い、つまらない時は笑う、どうでもいいことでも笑う。だって、誰も認めてくれないこんな世界なら、何をどうしたって無意味だろう。それなら、まだ嘘をついて痛みのない道を進んだ方がマシだ。
 ――ほんとうに、そうなのだろうか。

「……ほっきょく星」

 今は、父の道を辿って歩くことしか出来ない。でも、いつか……自分だけのポラリスに出会えたらと。冬の空を見る度に、その一際大きな星に届くことのない手を伸ばしていた。







 大学に行くお金はもちろんない。それでも、高校のレベルは高かったから、就職先も他の高校と比べても比較的多かったように思う。
 それでも、数ある道で選んだのは警察学校だった。スカートも折ったり上手いこと切って短くして、休み関係なく髪の色は好き勝手遊んでいた生徒だ。そんな生徒の進む進路が、規律を重んじる警察官。教育指導を担当していた教師は進路先を聞いてあんぐり、というやつだった。幸い、武道は近所の剣道教室の師範に腕を見込まれてこっそり通っていたから、なにかと面接の時は有利だった。父への説明も、逆鱗に触れないように上手いこと説明して、無事に入学することができた。留年もせず、落ちこぼれにもならず、むしろ首席で卒業も決めた。
 正しいことがしたかった。弁護士でも、検事でも、医者でもない……頭にあったのはなぜか警官だった。本当になりたかった理由に気付かないふりをして、高卒でもなれる職業だったから、と常に自分に言い聞かせた。
 お金は、最低限暮らしていけるまで稼げればいい。地位にもあまり興味ない。同期がわいわいと下心ありきの未来の話をしている中、のんびりと交番勤務で巡査長にでもなろうか、などと思っていた。
 だから……入間さんに会ったのは、本当に偶然だった。

「いやあ、すみません。この子、今連れの人とはぐれてまして」

 黒いコートと同色のスーツ。こんな真冬の真昼間からこんな格好でヨコハマの端っこにある町を歩く男などそういない。本気で不審者だと疑っていたし、証拠を掴んだら即逮捕しようと思っていた。ちょうど、彼と同じ背格好の男に猥褻行為をされたと被害届を出した小さな女の子とその親がいたのだ。
 反乱狂で泣いた子どもが交番へ飛び込んできた時の、あの顔が忘れられない。一生拭えない心の傷を抱いて、将来を誓った人と愛を確かめ合う時も、過去に経験したことがフラッシュバックするにちがいない。こういう時、ほんとうに女というのは生物学的にも男の欲の掃き溜めみたいなところが多いと思う。だから、今の女政権が中心となってしまったのだろうけど。

「こちらこそ。先程、その子とぶつかってしまいましてね。私のせいでひどく怖がらせてしまったようです」
「そうでしたかあ」

 その時はたしか、迷子になったという女の子の保護者を探していた。プリキュアよりも仮面ライダーになりたいと言ってるような逞しい女の子だ。そんな子が、たかだか大人とぶつかったくらいでこんなに怖がるものか。目を離した一部始終を知らないので証拠はないが、とにかく、この子から意識を逸らして、女の子の手を引いてその男から早々に離れた。別れ際、前々から試したいと思っていたGPSも案外上手いこと装着できたので、作戦は重畳だった。

 迷子の女の子を無事に見つけた保護者に受け渡した後、交番に戻り、若槻部長に向けて声を張る。今は部長と二人きりの交番勤務。咎める人は彼しかいないので良い意味でやりたい放題だ。
 奥から出てきた部長の愛のある叱責を頂きつつ、奥に菓子を持っていくと、なんと今しがた別れた不審者の男が休憩室で正座していた。

「あれ? さっきのお兄さんじゃないですかあ」

 やっぱり捕まったか、と思いきや。部長に肘で体をつつかれてこんなことを言われた。

「この人は組対の巡査部長の入間さんだ」
「えっ。あなた警察官だったんですか?」

 こればかりはさすがに本音だった。
 まあとにかく、第一印象からのギャップは凄かった。慇懃無礼な話し方をする人だと思えば、中身はチンピラのそれ。こんな警察官もいるんだなあ、と貼り付けた笑顔の奥では、冷めた目で彼を見下していた。
 ……異動通知の書類が、わたしの手元に届くまでは。







「亀崎さん。昨日頼んだ新規のマル暴のメンバーのリストはできていますか」
「お昼前に終わりましたー。ファイルに入れてデスクの上です~」
「では、次はこれを。最近二ヶ月間の不法入国者をすべて洗って、明日の夜までにシステムの掲示板に更新しておくように」
「入間さーん。わたし、今日ルミネのバーゲン行こうとしてたんですけど~」
「あなたが定時までに終わらせれば何の問題ないでしょう」
「えー……。あっ、もしかして期待してくれてる感じです? わーっ。わたし褒められると伸びるタイプなんですよ~」

 正直、引き抜かれてからの毎日は楽しかった。
 ほとんどがパトロールと住民の交流で一日が終わる交番勤務とは天地の差。ただでさえヘルプとして呼ばれた組対は息をつく暇もなかった。次から次へと舞い込んでくる仕事を終わらせつつ、組対における知識をこれでもかと頭に叩き込む。薬物の種類を流し見ながら、これ、この前実家帰った時に見かけたなあ、と内心思った日も少なくはなかった。

「皮肉に決まってんだろさっさとやれ」

 なにより……そう。この人の下で働くのが、とても。
 一日で終わりそうにもない量の仕事をもらい、夕方頃に終わって提出しに行く時の入間さんの顔が特に面白い。入間さんの想像の上を行けば行くほど、彼はまたさらに上のレベルを要求してくるし、それをまた乗り越えると気に食わないような顔をして鬼も泣くほどの難易度の高い案件を任せられる……という、パワハラ一歩手前の何気ないやり取りが楽しくて仕方がなかった。
 それに、根底にある入間さんの優しさが冷え切った心をたまにくすぐる。帰りが遅くなったらわざわざタクシーを呼んでくれるし、深夜まで残っていてラーメン食べたいなどと言うと、ぶつくさ言いながらもなんだかんだ付き合ってくれる。特に、以前勧めたとんこつラーメンは存外気に入ってくれているようだった。
 期待されているようで、必要とされているようで。世のため人のため、というより、いつからか入間さんのために働いている自分がいた。上辺だけのお付き合い、なんて余裕はない。人生で初めてといっていいほど、彼の下でありのままの自分で生きていた。

「……もしも望むなら、このまま継続してここにいても構いませんよ」

 ……でも、やっぱり駄目だった。
 ふとした瞬間に首に繋がれている鎖が引いて、振り返れば父親と大量の大麻が揺れている。近づきたいと思うほど、頼られたいと思うほど、彼の正義の前で罪の意識が邪魔をして、結局は自分が引いた一線の外で、わたしは入間さんに笑いかけながら拒絶をしている。
 誰かが助けてくれる。捕まえてくれる。そんな願望を抱きつつもここにいた。留まってしまった。入間さんの煙草がだんだんときついものになっていくのがにおいで分かる。成果をあげるごとに、任せてくれる仕事量がどんどん増える。皆が必死に追っている人のところへ、わたしが不定期で帰っていることを知らずに。
 父の足がつくぎりぎりのところで踏みとどまったが、結果、わたしの方が最後まで耐えられなくなった。警官としての心よりも、父親への長年こびりついた洗脳が勝ってしまったのだ。

「……それ、今まで言われた言葉の中で一番嬉しいです」

 心からものを言うことが、こんなにも苦しいものだったなんて、彼と出会うまで知らなかった。







 覆面パトカーに気付かないふりをして、家の階段をカンカン、と上る。玄関に入ってすぐの薄暗さは当たり前。ガサガサと袋を揺らしながらリビングに入ると、今月の仕入れ分を数えている父親の姿。部屋の中は、やはりほのかにお酒の匂いがした。

「おぉ。おかえり」

 にっこりと笑む父。代表の仕事は、ぽつぽつと届く葉っぱを密輸者に届け、その分のお金を成果分、個々へ分けること。もうわたしは実家は出ているし、お金の心配はほとんどない。それでも父は薬物から手を引かなかった。仲間が困るからなのか、それとも楽をしてお金を手に入れる味を知ってしまったからなのか……そんなことはもう、今更分からなくてもいい。
 開口一番、笑いかけてくれるなんて今日はどこか機嫌が良いらしい。「ただいま」と小さく呟いて、わたしは机の上にスーパーの袋をガサリと置いた。

「これ、どうしたんだ?」
「ご飯、まだかと思って。惣菜、色々買ってきたの」

 「そうか」と父は短く言う。昔から、うちの食べ物は常に白米しかない。学校の帰りに、スーパーで安くなった惣菜を買う毎日だった。生まれてこの方、手作り料理なんて家の中では一度もない。母親が生きていた頃はあったかもしれないが、昔のことはもう何も覚えていなかった。
 ご飯と惣菜を温めて、机に並べる。柄の違う箸を出して、マグの代わりに百均で買ってきた紙コップに水道水を注ぐ。いつもは作業やら酒で寝てるやらで、こうして対面して父とご飯を食べることはなかった。
 ようやく、親子らしいことができる。父は、わたしを当たり前のように家族だという。でも、今までこんな簡単なことさえ今までしてこれなかったのに、それでもこの形を家族というのだというのか。血が繋がっていれば家族、一緒に住んでいれば家族……そんな呪いのような言葉に今もなお縛られている。言葉による愛が、何よりも不足していたように思う。

「ちょうど、に話しておきたかったことがあるんだ」

 いただきます。そう言おうとした口はすっと閉じた。箸を持つ手が震えるのが分かって、わたしがゆっくり顔を上げると、父はその目を三日月型に細めていた。

「俺は、そろそろ降りようと思う」
「降りるって……じゃあ――」
「ああ。先代よりも規模は大きくなった。お前は交番勤務で知らないだろうが、最近やたらと警察が嗅ぎ回ってる」

 そういえば、組対に異動になったことは言ってなかったな、と思う。そんなこと言ったら手や足が飛んでくる。初日早々、体を痛ませながら出勤はしたくなかった。
 でも、代表を外れると聞いて、少しほっとした。これで足がつかずに違う人に役が替われば、またその人の目撃情報で父のことは忘れられる。晴れて、父は一般人になることができる。父がこれまでしてきたことは闇に葬まれ、これで、やっと、一人の人間としてまっとうな道を歩めるのだ。
 よかったね、お父さん。これで、開放されるね。そう言おうと思った。が、母親の死ぬ前に出会ったきりの父は、やはり現れなかった。

「……だから、次はお前の番だ」

 ─――全身から熱が消えた。
 片方の箸が畳にことん、と落ちる。そんなことも気にしないと言わんばかりに、父は構わず、「実はな、」と話し出した。

「俺の代わりになれそうな人がいないんだ。お前なら、俺が普段やってたところをよく見てただろう。取引の仕方も一から教えてやるから安心していい」

 まるで夏休みの宿題を教えるような口調で、父は言う。もちろん、何かを教えてもらったことなど一度もない。まさか、この歳で運び屋の仕事を教えられるなんて思わなかった。

「それに、警官のお前なら情報操作もお手の物だろう? は昔から要領がいいからなあ。警官になるって聞いた時は色々言ったが、最初からお前もそのつもりだったんだよな」

 ずっと、褒めてもらいたいと思っていた。いくら成績が良かろうが、絵が上手く描けようが、誕生日プレゼントをあげようが、父は何も言わなかった。代わりに貰ったのは、一生消えない背中の傷と突如フラッシュバックする罵声だけ。父から紡がれる褒め言葉を夢にまで見ていたが、思っていた以上に嬉しくない。それなら、入間さんに眉を顰められながらまあまあですね、と言われた方が何倍も嬉しい。
 でも……薄々気がついていた。次に選ばれるのは自分じゃないかと。この瞬間がきたら、わたしは警察も辞めるつもりだった。父に育ててもらった恩。誰かが、やらなくちゃいけない。跡を継がなくてはいけない。幼い頃の自分がその誰かに助けられたように、今度は、どこかの飢えに苦しむ子どもをもつ親が死に物狂いで掴もうとする藁に、誰かがならなければいけない。
 父が運び屋になった時点で、自分はもう明るい道で歩けない。ずっと、自分を騙していた。この人生において、本当のことなど一つもなかった。だから、何も、迷うことはないだろう。そのために今日はここに来たといっても過言じゃない。身辺整理も済ませたし、家も引き払った。今日からまた、暴力の続くこの家で暮らすことになる。次の代が決まるまで、それかわたしが捕まるまで……永遠と人間を狂わせる大麻の世話をすることになる。お似合いだ。必要とされていない者同士、こんなにも調和の取れるものがあるものか。

 ――「あなたはなぜ、警官になったんですか」

 ……真っ暗闇の中、ただ手を引かれるだけのこどもが脳裏に浮かぶ。途中、自分の目で見つけた、一つの光。手を伸ばせば、いっそう輝いて、その背中を追わせてくれる。
 待ってはくれない。でも消えもしない。均一な距離を保って、彼の進む道へと導いてくれる。正しさだとか、過ちだとか……家族という単語のように個々の価値観で中身が変わるものなど、瞬きの間に消えてしまうくらいにナンセンスなものだ。
 
「……おとう、さん」

 あなたに出会わなければ、ずっと分からなかった。
 目を凝らしても、そこにはもう星を見失った子どもはいなかった。たった一つのポラリスは、自分から背を向けた今でも、目の前できらきらと輝いている。
 もう、一生届かなくてもいい。だからせめて……最後に、この手だけ。

「――自首、しよう」

 頷くはずだった言葉がころりと変わる。泣いているように、声もかたかたと震えた。丸棒で脇腹を殴られた時よりも、全身の冷や汗が溢れて止まらなかった。今、父の顔を見るのが恐ろしくて、俯きながら、わたしはたどたどしく言葉を紡ぐ。

「いまなら……まだ、大丈夫だよ。お父さん、大麻吸ってないし、暴力団にも、関与してない。自首したら……まだ罪状も軽くなる。わたしも、警察辞める。というか、多分わたしもムショ送りになるだろうけど……。貯金もそれなりにあるし、釈放されたら、さ……二人で、誰もいない田舎で暮らそうよ。野菜とか、果物とか育てて。わたし、早起き得意だし、なんでもできるよ。もしもお父さんが面倒だったら、一人でも――」

 刹那――茶碗が飛んできた。
 冷たい鈍器が鼻の骨にガチンッと当たり、熱すぎる白米が上半身にぼとぼとと落ちる。畳に落ちた空のお椀がごろごろと円を描いて回る様を横目で流してた。

「なァに馬鹿げたこと言ってんだ!!」

 怒声が弾ける。机の上に乗っていた食べ物が目の前で全部ひっくり返った。
 ああ、やっぱりいただきますしてから言えばよかったかなあ、などと思っていると、立ち上がった父が壁に立ててあった竹刀をパシンッ、と畳の上に叩きつける。以前、わたしが使っていたものだ。やっぱり実家に置いたままにしなければよかった、と思っていると、今度は右から竹が襲ってきた。その衝撃で倒れ込んだ畳の上で、わたしは裂ける痛みを帯びた右頬を片手で抑える。

「誰のッ! ためにッ! こんなッ! ことっ! やってるとッ!! 思ってんだああぁぁッ!!」

 なんども、なんども……木刀であらゆるところを殴られる。頭、首、腕、腰、背中、足……痛みによる声は小さい頃になくなったけれど、今日は一段と痛かった。多分、いつもの蚯蚓脹れじゃすまないだろう。顔の腫れもしばらく引きそうにない。でも、もういい。着替えを気にすることもなければ、誰かに肌を晒すこともない。顔も……そう、きっと、表社会で会える人は誰一人いなくなるのだ。だから、もう何も関係ない。好きに痛めつけていい。それで、また彼が優しい人に戻ってくれるなら。
 ……どれだけ耐えていただろう。血の匂いがするが、どこから血が出てくるのかも分からない。不意に痛みが止み、父の荒い息遣いだけが聞こえてくると思えば、ゴトリ、と何か重いものがぶつかる音がした。

「お前さえいなけりゃ、俺はなぁ……俺はなぁッ……! こんなああぁぁ……ッ!!」

 父が、どんな人生を歩いてきたかなど知らない。母を失った父の悲しみも分からない。子どもというのは、いつでも親の被害者だ。自分の罪悪感や虚無感を埋めるように、子供へ感情の爆弾を放り込む。さぞかし良いサンドバッグだろう。自分の管理下でしかお前は生きられないのだと洗脳して、社会に出たら親によって作られた個が通用せず、また子は親を頼って深く依存する。もらえるはずのない愛情を求めて、徐々に自分を見失って、ただの親の手となり足となり、時には玩具に成り下がる。
 でも……わたしは、違う。自分の足で、ここまで歩いてきた。自分の道を勝ち取ってきた。目指すべき方向も、自分でちゃんと分かっている。だからこれは、父親に対する最初で最後の反抗期だ。
 薄らまなこで音の正体を確認する。父の手に握られているのは金色のトロフィーだった。父に褒めてもらいたくて、剣道の市大会で優勝した時に貰ったものだ。一度も、偉いぞ、なんて、言われたことはなかったけれど。さすがにそれで殴られたら死んじゃうなぁ、などと思って、わたしは再び目を閉じた。
 ――走馬灯さえ巡った瞬間だった。ピンポーンと古びたインターホンの音が突然降ってくる。
 苛立ち気味に床を大きく踏んづけた父は一旦居間を離れ、洗面所で水の音やシュ、シュ、とスプレーの音を立てている。そして今度は、誰かと玄関先で話し込んでいるようだった。きっと元同僚だ。ナイスタイミングすぎたのが不思議だったけど、もうそんなことを考えている余裕はない。ああ、頭がぼーっとしてきた。ほんと、どこから血が出てるんだろう。でももう、明日から仕事行かなくてもいいから、いっか。ロッカーも綺麗にしたし、家も今日のうちに引き払った。何も、ここに残していくものはない。それに……最後に、入間さんと話せた。これ以上の幸せなんて他にないだろう。
 ……しばらくすると、奥が一気に騒がしくなった。父がわたしの名前を叫んでいることだけは分かる。バラしたとか、なんとか。わたしは何も言ってないよ。だって、本当は代表を引き受ける予定だったんだから。かと言って、デタラメな情報も、流していないけど。
 ふと、慣れ親しんでしまった匂いが掠める。煙草の……それもかなりきついもの。昼に会った時はしなかったのに、どうしてだろう。しばらくやめたと思ってたけど、またそんなきついの吸ったんですね。

「……亀崎。父親の罪状に関する事情聴取のため、任意同行願います」

 入間さんの声が降ってくる。ああ、せめてここで頷かないと。任意同行だから、このまま何も言わないと拒否したことになってしまう。それでもなかなか首は動いてくれなくて、仕方がないから足にぐっと力を入れて立とうとした。でも、やっぱり畳に体が落ちるだけで、何度も試しては落ちることの繰り返し。体の節々が激痛を訴える中、そろそろ入間さんの舌打ちが降ってくるなあ、と思った。
 ようやく二本足で立ち上がっても、すぐ前のめりにふらついた。また振り出しか、と思ったら、柔らかいところにぼすりと落ちる。煙草の匂いがすぐ近くに感じた。うっすら開いた視界から見える黒のネクタイ。あ、これ……セクハラになるのかな。
 もう何の力も出ないと思ったら、突然顎を強く掴まれて、無理矢理顔をぐいっ、と上げられた。そこには、やっぱり入間さんがいる。でも、まだ彼は巡査のわたしを見ているようだった。違いますよ。目の前にいるのは、警官になりながらも父親の犯行を長年黙って見ていたツルの共犯者ですよ。というか、あまり顔も見ないでほしいです。メイクも多分ぐちゃぐちゃだし、表情も、今までのように上手く取り繕えていないので。
 入間さんは、なぜ、という顔をしている。きっと、気づいてないんだろうな。どうしてなんですかね。わたしも、最初はこんなつもりじゃなかったんですよ。交番で地図使って書いてたのも父の動きを知るためですし、捜査に協力したのだって、絶対に足がつかない自信があったからですし、今日の昼……最後まで父のこと言わなかったのも、あとからこうして跡継ぎの話が出るかと思ったからですし。
 でもやっぱり……わたしはこれ以上困らせたくなかったみたいです。入間さんのこと。のろい亀の元部下が本物の鶴になったら、入間さんのこれからの面目が立たないでしょう。

「……入間さん、容疑者を捕捉しました」
「分かりました。至急、救急車を一台手配してください」

 救急車と聞いて、思わず入間さんのスーツを掴んだ。もう目を開けるのも辛いけど、わたしは必死にその瞳の中に彼を映した。
 懸命に、首を横に振った……つもりでいる。助けなんていりません。救われたくないです。もう、そんな身分の人間じゃないことは分かってるんです。入間さんだって、こんな人間、豚箱に入れたくて仕方がないでしょう。そういうの得意でしょう。専売特許でしょう。女だろうが、元部下だろうが、そんな情けいらないんですよ。一思いにしょっぴいてくださいよ。

「……このまま、楽に死ねると思うなよ」

 分かってます。でも、どうしてですか入間さん。そんな泣きそうな顔して。いつもみたいに、ゴミクズ見るみたいに見下せばいいじゃないですか。
 ねえ、入間さん。わたし、警官になってよかったです。入間さんは甚だ迷惑したと思いますけど、しょせん、正義の味方はいなくて、この世に本当の正義はないこと。楽園だと思っていた世界にも闇は潜んでいること。そんな中に、とびきり綺麗な星の人がいたこと。だからわたし……誰も認めてくれなかった、自分が決めて今まで歩いてきた道が、案外悪くなかったなって、今になって思えたんですよ。
 ただ、一つだけ……本当にひとつだけ、一つの星に何か願えることができたなら……そうですね――

「……ごめんなさい。いるまさん」

 できる限りの長い時間。現実に裏切られてばかりの入間さんの言う、優秀な人間として……わたしはあなたの隣に立っていたかった。