Episode.7
タイムリミットがすぐそこで足音を立てていた。
神というのはどうしてこうも物好きなのか。銃兎の目の前にあるのは児童養護施設。こんな真冬だというのに外に出ている子供はきゃっきゃと走り回って、まさに風の子になりきっていた。それだけならまだ風景の一つとして素通りしていたところだが、それと一緒にとてもよく見覚えのある女が子供たちとじゃれていたので、銃兎は思わず足を止めてしまったのだ。
いくら口煩い銃兎とはいえ、人の休日の過ごし方にいちいち文句は言うまい。しかしお前、タイミング的にもさすがにそれはないだろうと思ってしまったわけで。
立ち止まった銃兎に気がついたは大袈裟なくらいに体を跳ねさせたが、すぐにこちらに手を振って、子供になにか話しかけた後にこちらへ駆け足で近づいてくる。
柵を隔ててお互い向き合う。その距離、わずか三歩半といったところだった。
「……副業は禁止ですよ」
「そこはボランティアって言ってほしかったです~」
「普段はこんなことばかりしているんですか?」
「まさかあ。パペット作ってもらったせんぱいが紹介してくれたんですよー。もう使いそうにない服とか、食器とか、小物とか。色々寄付したくて」
「スーツを着て?」
「墓参りの帰りだったんですよ~。母親の。しばらく来れそうにないので」
もう使いそうにないもの。の後ろにある砂場で、銃兎も見覚えのあるパペットを嵌めて子供が遊んでいるのをじっと見つめていると、それを遮るように、「ところで、ツルはどうしたんですか?」とが尋ねた。
「ガサ入れは夕方からです。午前は別件でこの地域に用があったので」
「そうでしたか。おつかれさまですー」
こんなにも、との沈黙は怖いものだったか。普段は彼女の口がまったく止まらないものだから、煩い以外に考えたこともなかった。
「……一つ、聞き忘れていたことがありました」
あなたはなぜ、警官になったんですか
時間稼ぎが半分と、ずっと聞きたかった欲が半分。普段は他人とつかず離れずの距離を取って交流している……悪く言えば、おおむね他人に興味のない銃兎が、こんなことを人に聞くのは初めてのことだった。それほどに、は銃兎にとって影響力のある女だった。良い意味でも、悪い意味でも。
「……正しいことが分からなかったからですよ」
の視線が落ちる。そのまま顔を上げることなく、彼女は地面に向かって話しかけている。どこか、すねたような声色だった。子供なら、今にも足元にある石ころを蹴って転がしていそうな。
「本当は保育士になりたかったんですけど、ろくな教育受けてない自分が小さい子に何を教えるんだって、自信なくて。警官は正しいことをするものだって、漠然と思ってました」
「現実を見て、どうでしたか」
不毛な質問だと言うことは分かっている。も、そんな銃兎の心を見透かしているかもしれなかった。まるで最後の戯れだと言わんばかりに、ここぞとばかりに一枚、また一枚と彼女の分厚い仮面が剥がれていく。
「呆気なかったですよ。結局は、法の下でしか人を裁けないんだなって」
今度は自嘲さえして、はようやく顔を上げる。一歩下がって、また彼女は自分と新たな境界線を引いた。
「だから、わたし、入間さんに組対にいていいって言われて、嬉しかったんですよ。本当に」
臆病者とは、正義の味方とは誰のことだったのか。この国が守ろうとしているものはなにで、自分が掲げる理想はどんな名前をしていたんだったか。同時に叶うはずだった野望は、いつの間にか永遠と交わることのない螺旋を描いていた。
ギギッ、と塗装の剥がれた柵を開けて、は外に体を出す。子供達に大きく手を振って、ついに彼女はその一歩を踏み出した。
「これからどこへ?」
「うちに戻ってやることやったら、実家に戻ります。そろそろダンボール溜まってる頃なんで、片付けなくちゃ」
……そうか。いいんだな、もう。お前はその道を行くんだな。銃兎は、やれるだけのことはやった。らしくもなく人を救う道を作ったし、チャンスも何度も与えた。しかしそれでも、はの正義のために自分と相対する道に進むという。ほんとうに、後悔はしないのか。助けてほしかったんじゃないのか。救われたかったんじゃないのか。真の臆病者は、お前だったんじゃないのか。
――なんで、おまえは……俺の前に
「亀崎――」
「聞いてください入間さん」
自身の声に食い込むように、はそう言ってくるりと振り返る。ぱちん、と目が合ったを見て、銃兎は腹に留めていた言葉がすっと消えた。
そこに、銃兎の知るはいなかった。クレヨンで描いた似顔絵を親に見せて自慢するような。そんな、きたない世界も理不尽な痛みも知らないこどもが、一人そこでやんわりと微笑んでいた。
「今夜、生まれて初めて父親と一緒にごはん食べる約束してるんです」
本当に……ふざけんな。そんな綺麗に笑われたら、もう、引き止める手も伸ばせない。
遠ざかっていくの背中。と同時に、無線から入ってくる声に銃兎は震える白い息を吐き出して、その通信に応えた。切り替えろ、と自身に念じながら。
二、三度のやり取りを終えて、それもブツ、と切れる。気がつくと、は姿を消していた。行くな、と、言おうとしてしまった自分は、もういない。今は、薬物とそれを金にする人間を社会から排除する、ただの鬼神だ。そう、無理矢理言い聞かせた。
冬の夕方五時なんてものは犯罪者にとっては夜も同然。明かりが消耗し切った電灯がチカチカと点滅する道を通って、車に乗った銃兎は目的地まで辿り着いた。
インカムから絶えずに入ってくる音声に苛立ちを覚えてもなお、銃兎は未だに耐えており、張り込みを続けている。ちら、ちら、と頻りにこちらの顔色を伺う同僚を煩わしいと思いつつも、銃兎は目を閉じて、意識の大半は耳の鼓膜へと集中していた。
「銃兎さん、その――」
「任務を全うする自信がないのなら来なくてもいいですよ。今回のケースはイレギュラーですからね」
運転席に座る同僚の意図は皆まで聞かずとも分かった。仕事に支障が出るからと、今回の任務から外れた者もいたのだ。賢明な判断だ。身の程を弁えている馬鹿は嫌いじゃない。
皿の割れる音、化け物の喉から絞っているような怒声、竹……いや、竹刀が軋む音、インカムの通信から絶え間なく容赦なく入ってくるが、今はまだ、その時じゃない。銃兎は拳を握って、自身の感情を押さえつけていた。
……不意に、音が止む。不穏な空気が流れていることはインカム越しからでも分かった。刺すように、抉るように、その瞬間はついに訪れる。銃兎はかっ、と目を開けて、車のドアを勢いよく開けた。
「突入します」
無線へ一斉送信。銃兎は車から出て、皮膚が切れるような寒さをその身に受ける。潰れた廃工場、壁に穴の空いた空き家、整備しきれていない道端の雑草……こんな土地の中に、忘れ去られたように存在する築何十年か分からないおんぼろアパート。こんな劣悪な環境で、本音を言うことを恐れる彼女が育ってしまった。
しかし、もう……いいのだ。柄にないことはもう止める。自分の背中についている数人の人間のために、薬物で人生が狂ってしまった人間のために、今、ここにいる入間銃兎という警官は存在している。
静かに、それでいて性急に階段を上る。あちこちに蜘蛛の巣は張っているし、建物のコンクリもヒビが入って見目麗しくない。中も、きっとひどい間取りなのだろう。こんなところで人が住めるとは思えなかった。
目的の部屋の前に着く。周りとアイコンタクトを取り合って、銃兎はインターホンを押した。一分半はかかっただろうか……ガチャリ、と開けたドアから出てきたのは、彼女の目元とよく似ている一人の男だった。
「こんばんは。夜分遅くにすみません。警察の者です」
銃兎が出した警察手帳を見た男は特に驚いた様子もなく、「これはこれは。ご苦労様です。こんな夜更けになんでしょう?」と言いながら、即席で取り繕った笑顔をする。ああ、そっくりだ。これは当たりだな、と銃兎は頭の隅で思う。口内から香る出来たてのミントの匂いに隠れて、アルコールのにおいが嫌というほど香ってくる。残念だが、こんな幼稚な小細工、自分には通用しない。
「この部屋から怒声のようなものが聞こえると、ご近所の方から通報がありましてね」
「ああ、すみません。今、野球の中継を見ていまして。チームが負けているとつい怒鳴ってしまうくせがあるんですよ。後日、近所の方には謝罪に行きます」
息をするように嘘をつく男。カッとなっただけで、あんな傷がつくものか。銃兎は心の中で舌打ちをした自分を騙すために、ふっと笑った。
「そうですか。では、それとは別件で。近隣の町で薬物の取引が度々行われてまして。調査の結果、あなたが発信源だと行き着きました」
部屋の中、改めさせて頂いてもよろしいですか?
――瞬間、男の顔つきが変わる。勢いよく締まりそうになったドアに足を入れて、銃兎は無理矢理こじ開けると、男が大声を上げて突進してきたが、彼の数倍体格のいい仲間達が男を取り押さえて、床に押し付けた。
そこからはもう戦場だ。釣り上げたばかりの魚のように暴れ回る男は、さっきのと同じ声帯とは思えない声で、つんざく怒声を響かせる。うるせえな今何時だと思ってんだ。男は仲間に任せて、銃兎は邪魔者がいなくなった部屋の奥へと入っていった。
壁が見えないくらいに敷き詰められた、畳まれたダンボール。このおかげで、どんなに騒ぎ立てても多少の防音効果もあったのだろう。大量にある土、肥料、プランター、または栽培中の葉っぱまで……仲間を増やし、その仲間がまた仲間を増やしと枝分かれをして、運び屋のコミュニティが大きくなったのだろう。こんなにも溜めておけたのは過去の例でも中々ない。きっと、要領がよいのだ。おそろしいくらいに。能力の使い方を間違えたその男は、未だに玄関先で親不孝者などなんだのと叫んでいる。
リビングと思わしき部屋には、割れた皿の破片やぐちゃぐちゃになった食べ物が散らばっていた。その中に交じるように倒れた女。髪は糸くずのように乱れ、抜けた髪の毛が何本か床に散らばっている。近くにあった竹刀には血すら滲んでいた。
女は――は、ゆっくりとこちらを見上げる。いつも自分を見る度に名前をゆるく呼んで、恥ずかしいくらいにひらひらと手を振る彼女は、やはりどこにも見当たらなかった。
「……亀崎。父親の罪状に関する事情聴取のため、任意同行願います」
その言葉だけには、はっきりと反応をしてみせた。足に力を入れて立とうとしても崩れ、再度仕切り直してもまた崩れ。そんなところでなけなしの力使うんじゃねえ。それでも、銃兎から手を伸ばすことはもう許されないことだった。
ようやく、が小鹿のように震えながら二本足で立ち上がるが、すぐにふらついて銃兎の胸にどさりとなだれ込んだ。それを抱きとめた銃兎は、乱暴にの顎を掴んで無理矢理その顔をぐいっ、と上げさせる。
これは……銃兎の知る彼女じゃない。笑顔もなく、ただただしずかに涙を流す彼女など。銃兎は、何一つ知らなかったし、分からなかった。父親がツルであることも、最後の最後まで捜査に協力した意図も、それでも自分に相談も報告しなかったことも……全部、銃兎には、嘘で塗り固められた彼女の考えていることが、なに一つ。
「銃兎さん、容疑者を捕捉しました」
「分かりました。至急、救急車を一台手配してください」
を極力見ようとしなかった同僚が去っていく。すると、がぎゅ、と銃兎のスーツを掴んだ。目を開けるのも辛いだろうに、その瞳は懸命に自分を映そうとしている。
そして、は首を横に振った。助けなどいらない、と言わんばかりに。救われたくない、と言わんばかりに。どうしてか、その意思表示にかなり腹が立って仕方がなかった。もっと、なにか言うことがあるだろうと。
……だから、嫌いなんだ。お前のように、腹の読めない人間は
「……このまま、楽に死ねると思うなよ」
どうして、お前なんだ。なんで、敵である俺の前に現れた。何かの挑戦か、警察にいながら同業者を舐めてたのか、助けられたいなら、やってることが根本的に違うだろ
嘘しか言えなかった、できなかったその目を、口を、すべて塞いでしまいたいと。何度思ったことだろう。しかしもう、そこにピエロはいない。繕う余裕がないのか、もうその必要がなくなったのか……は口角だけを不格好に上げて、重い唇をゆっくりと動かす。銃兎はその掠れた音を拾って、奥歯をぐっと噛み締めた。
「……ごめんなさい。いるまさん」
